つれづれに

つれづれに:西海岸

 西海岸とは言っても、サンフランシスコやロサンジェルスの西海岸ではなく、伊豆の西海岸である。鎌倉に行く前に、伊豆に寄った時の話だ。熱海、伊東経由で修善寺に着き、一泊して修善寺の境内と温泉街に行った。そのあと伊東に戻って小田急で下田に行こうと思っていたが、海がきれいだという話を聞いて、急遽(きょ)バスで逆方向の戸田(へた)海岸に出かけることにした。きれいな海で、海の水が澄んでいた。ユースホステルに一泊して、長いこと海を眺めていた。

きれいな海を見たいと思ったのは、瀬戸内海が目に見えて汚れていたからだろう。その頃は毎朝、家の近くの川の堤防を走っていた。夜の授業から帰ってもなかなか眠られず、そのまま朝を迎えて走りに出るときもあった、南に10キロほど行けば、海に着く。その川の河口付近の海が、すっかり汚れてしまった姿が哀しかった。1970年に大学に入ったので、70年代の半ばのことである。(→「引っ越しのあと」

西側の紡績工場、引っ越した先の家からその工場が見えた

 堤防沿いに見える製紙会社はひどかった。どろどろのパルプみたいな液状の物質を工場から溝に排出しているのを見て、気味が悪かった。海岸線には東に地元の化学工場があり、西には化学工場や紡績会社がぎっしりと並んでいた。小学生の時にその砂浜に潮干狩りに行った記憶があるから、汚染は急速に広がったというわけだろう。

その時は知らなかったが、南アフリカの文学を理解したいと歴史を辿(たど)ったとき、1964年にリボニアの裁判でネルソン・マンデラが終身刑を言い渡されて南アフリカは指導者が地上にいなくなる暗黒の時代に入ったという史実を知った。1960年のシャープヴィル虐殺の暴挙に、表向きは国連も西側諸国に経済制裁を呼び掛けた。アメリカ、イギリス、西ドイツ、日本などに協力要請の親書を送ったのは、政府が相当慌てていたということだろう。西側の先進国は白人政府とつるんで利益を分け合っていたのだから、方針を受け入れるわけにはいかないが、少しは支援のポーズだけは取った。しかし、西ドイツと日本は、第2次大戦で途切れていた通商条約を何の恥じらいもなく再締結した。日本の大手の製鉄会社の再締結は、南アフリカの人にとっては予想以上に政局に影響を及ぼす裏切り行為だった。アフリカ人の抵抗に勢いがあって、そのままアパルトヘイトが廃止されそうな雰囲気がアフリカ人側にも白人側にもあったからだ。そのあと、日本は高度経済成長期に突入した。新幹線が走り出した。1964年の東京オリンピックはその幕開けだったわけだ。(→「アフリカ・アメリカ・日本」

 大型建設も始まり、都会には巨大なビルも建ち始めた。高速道路が走り、田舎の隅々まで道路が舗装された。大量消費の社会を支える化学会社や紡績会社などが、猛烈な勢いで生産を始めた。自動車や家電製品も大量に造られた。環境汚染など、気にしている余裕もなかったわけである。堤防を走りながら見た光景は、まさにその高度経済成長の一端だった、その時は、気づかなかった。

修善寺から伊豆の西海岸のきれいな海を見に行きたかったのは、瀬戸内海の淀んだ風景に馴染(なじ)んでいたせいかも知れない。

つれづれに

つれづれに:修善寺(しゅぜんじ)

 立原正秋の住んでいた鎌倉に行く前に、伊豆に寄ってみたくなった。特に目的があったわけではないが、伊豆の踊子に出て来る修善寺と下田と、前から気になっていた大島には一度行ってみたかった。出かけるときはいつもそうだが、行って何かをするというよりは、ただ行ってみるということが多い。修善寺も伊豆の踊子で地名を見た時から、一度行きたいと思っていた。先ずは行ってみるか、そんな感じだった。

 いつもそうだが、行く前に詳しく調べていくことはない。その時も、先ず新幹線(↑)で熱海まで行って、そこから小田急で伊東に行き、その後はバスで修善寺まで、そんな感じだった。わりとすんなりと修善寺に着いた。宿はユースホステル(↓)に直接行って、そこに泊ることにした。安かったし、予約せずに泊れたので、その時期にはユースホステルを何回か利用した。

 修善寺では、地名と同じ名前の寺と温泉街に行った。伊豆の踊子の中の旅芸人一座が修善寺、湯ヶ島から天城峠を越えて、湯ヶ野、下田と辿(たど)ったコースを歩いてみる手もあったが、ちらっと頭をかすめただけだった。

修善寺の境内では桜が咲いていた。3月の初めだったので、まさかソメイヨシノではと近付いてよく見ると、山桜だった。伊豆には温泉場があちこちにある。湯ヶ島や湯ヶ野など、湯のつく地名も見かける。東京からも利用しやすく、観光客も多い。伊豆の踊子の主人公も、東京から行きやすく、温泉にも浸かれると考えたのかも知れない。修善寺にも温泉街があったので、夕方頃にでかけた。暮らしていた地域の近くに温泉場はなかったので、温泉があると今でも浸かりたくなる。

修善寺のあとは伊東までバスで戻って、小田急で下田に行こうと考えていたが、西海岸の浜辺がきれいだと誰かが話しているのを聞いて、海が見たくなった。戸田(へた)海岸と土肥(とい)海岸が特にきれいだと誰かが教えてくれたので、バスの時刻を調べて戸田に行った。修善寺から真西の方角にあり、バスで1時間ほどの距離だった。教えてもらった通り、海水が澄んでいて、とてもきれいな海岸線だった。

つれづれに

つれづれに:漂泊の思ひ

 どうして衝動的にどこかに行きたいと思ったのかはわからないが、心の中で何かがぷつんと切れてから、ときどきどこかに行きたくなった。その頃、松尾芭蕉のおくのほそ道を読んでいたこともあって、冒頭の文章が何か自分の中にあるものを引きだすような、そんな感じがした。高校の古文の教科書を見ても反応しなかったが、中学生くらいから詠んでいた和歌が冗長な感じがして、俳句を詠みたい気になっていた時期でもある。芭蕉の残した文章がすっと入って来るような気がした。

月日は百代の過客にして、行き交ふ年もまた旅人なり。船の上に生涯を浮かべ、馬の口とらへて老いを迎ふる者は、日々旅にして旅を栖(すみか)とす。古人も多く旅に死せるあり。

予もいづれの年よりか、片雲の風に誘はれて、漂白の思ひやまず、海浜にさすらへ、去年の秋、江上の破屋に蜘蛛の古巣をはらひて、やや年も暮れ、春立てる霞の空に、白河の関越えんと、そぞろ神の物につきて心を狂はせ、道祖神の招きにあひて取るもの手につかず、股引の破れをづづり、笠の緒付けかへて、三里に灸すゆるより、松島の月まづ心にかかりて、住める方は人に譲り、杉風が別所に移るに、

草の戸も住み替はる代ぞ雛の家

芭蕉の文章に私の意識の深層の何かが反応を起こしたような気がするが、伏線はある。生きても30くらいだろうと思いながら、余生を過ごすのはそれなりに大変だった。受験勉強をしていい大学に入り、いいところに就職をして、と考えられればよかったのだが、そうは行かなかった。1浪しても受験勉強ができず→「夜間課程」に通い始めた。学費は安かったが、→「牛乳配達」ではきつかった。家庭教師を頼まれてから、少し余裕が出るようになった。(→「家庭教師1」)その頃読んだ立原正秋(↓)の新聞の連載小説が引き金で、本も読むようになった。→「古本屋」にもずいぶんと通った。芭蕉を読んだのもその頃である。生き存(ながら)えるのかもわからないのに、小説を書くという意識だけが心の奥深くに潜むようになった。ある日、伊豆に出かけた。立原正秋の住む鎌倉に行く前に、なぜか伊豆に寄ってからにしようと考えた。川端康成の伊豆の踊子の影と、おくのほそ道の漂泊の思ひがあったような気がする。(→「露とくとく」

つれづれに

つれづれに:伊豆

 伊豆に出かけたのは、3月の初めだった。半世紀以上も前のことなのに、その季節を覚えているのは、修善寺の山桜と大島の椿が印象的だったからである。泊ったのは修善寺と西伊豆の戸田、それに大島で、すべてユースホステルだった。ユースホステルの記憶は全くない。

小島けい画→「椿」

 ずっと関西だったので、京都から東に行ったのは数えるほどしかなかった。中学2年生の時に修学旅行で東京に行っている。今なら集団でする旅行に参加することはないが、その時は、その選択肢はなかった。学校は行くもの、修学旅行は参加するものと考えていたのだろう。嫌なら行かなければよかったが、行かないという発想がなかった。その意味で、選択肢がなかったということである。来年になるとオリンピックで人が多くなるので、今年だけ例外で2年生の間に行くという説明があった。オリンピックも東京も、遠い世界だった。私のいた兵庫の東播地区の大半は中学校の修学旅行は東京、高校は九州だった、のではないか。高校でも修学旅行に行ってるので、なぜ行ったのかという思いは残る。中学校でも高校でも同じ反応だった。1963年の話である。

入学試験で京都の公立大を受けた。英国社の3科目の中間校だったからだが、受験勉強をしてもいないのに、よくも受けに行ったものである。かすかに、泊った宿屋で、他の高校の人と話をした記憶が残っている。僕と違って、通る可能性があって受験をした可能性は高い。その時に、新幹線を利用した。その当時は、弾丸列車(th bullet train)と言われていた気がする。その後、New Trunk Lineを経て、SHINKANSENになったようだ。どのあたりでそうなったのかははっきりしない。1980年代の後半に新幹線とは無縁の地に赴任してからは、新幹線沿線と無縁の地という二つの区分で考えるようになっている。思わず教授になってしまって出そびれてしまったが、新幹線沿線に異動する機会を逸したまま、定年退職を迎えてしまった。

 行きも帰りも、その新幹線を利用した。伊豆に出かけたのは、芭蕉の→「漂泊の思ひ」 と川端康成(↓)の伊豆の踊子と、立原正秋の鎌倉が誘因だった気がする。

生きても30くらいまでだろうと諦めて余生を過ごしていると、死ぬことがそう大層なものに思えなくなっていた。それまで、死ぬという選択肢は意識になかったが、諦めてから、生と死の境界線が曖昧(あいまい)になった。ただ、1970年に割腹自殺をした三島由紀夫の死は理解できなかったが、2年後の川端康成の死はなんとなくわかる気がした、その違いはあった気がする。最初の授業に出るのが遅めだったので、生協に教科書が見当たらず、担当者の研究室に買いに行ったときに、その話をしたら「玉田くん、その歳でそんなこといっちゃあ、困りますよ」と言われてしまった。その人には、きっと私には見えない世界があったのだろう。(→「がまぐちの貯金が二円くらいになりました」