つれづれに

つれづれに:コンゴ1860年

 日本でもアメリカでも1860年が歴史の大きな潮目だったので、南アフリカでも歴史を見直してみた。今回はコンゴである。(→「日1860」、→「日本1860年」、→「米1860」、→「アメリカ1860年」、→「南アフリカ1860」、→「南アフリカ1860年」

独立の式典でのエンクルマ:「アフリカシリーズ」から

 アフリカの最初の出遭いは独立前のガーナで、すでにそのことについては書いている。当時はイギリス領ゴールド・コーストと呼ばれていた。(→「ガーナ1860」、2022年10月25日)最初に出遭った割には、ガーナとはあまり深く関われずじまいである。自称先進国がアフリカやアジアの独立運動を利用して、開発や援助の名の下に、多国籍企業による貿易や投資で搾り取るという新機構を画策する過程で、こっぴどくイギリスにやられたのが印象的だった。初代首相の残した自伝『アフリカは統一する』(↓)で、独立時に可能な限りの妨害行為をして、その後傀儡(かいらい)の軍事政権を立てるという第二次大戦後の欧米や日本の悪だくみを知った。(→「リチャード・ライトと『ブラック・パワー』」、→「 体制再構築時の『先進国』の狡猾な戦略:ガーナとコンゴの場合」

 独立時にはコンゴも凄かった。西側諸国が戦後の新体制を再構築する見本を見せられているようだった。変革の嵐(the Wind of Change)を避けるために、宗主国ベルギーは官吏8000人を総引き上げ、独立の混乱に乗じてアメリカ主導で軍事介入、豊かな埋蔵量を誇る銅を巡って分離工作を画策して混乱を激化させた。民衆に選ばれた首相ルムンバをアメリカ支援の将校モブツに惨殺させて、軍事政権を樹立、その後アメリカを後ろ盾に30年以上の独裁政権が続いた。

 医学科の授業で初めてエボラ出血熱を取り上げた1995年に、まだそのモブツの独裁政権は続いていた。国名はザイールで、コンゴ動乱以来、再び世界の注目を浴びたと報じられた。

サンフランシスコで大地震があったあと、日本でも淡路・阪神大震災があって、都市直下型の地震の猛威を味わった。その辺りから、世紀末の災いについて報じられることも増えて来た矢先に、今度はコンゴでエボラ出血の2度目の大流行が報じられて、さらに世の中が騒がしくなった。

1995年のCNNニュース:NHK衛星放送第1

 医科大には一般教養の英語学科目の講師として来たので、当初は臨床医や基礎研究者には出来ないことをと考えて授業を始めたが、アフリカやアフリカ系アメリカの話をすると、拒否する学生も多かった。それもあって、医療と教養を繋ぐ何かを模索していた時に、アフリカと医療を繋いでみるかと思いついてやり始めた。その頃、英字新聞も2種類定期購読していたので、英文記事もみつかったというわけである。

南アフリカ「ウィークリー・メール」特集記事

 コンゴの1860年は、西洋諸国、特にイギリスとフランスが植民地戦争で熾烈な争いをしていた時期である。地球儀でまだ手つかずの地はメキシコとコンゴ辺りだったようである。その広大なコンゴに目をつけたのが、アメリカで、増え続ける元奴隷の子孫が増えすぎて、国内でアフリカに送り返せという動きも出ていた時期に、コンゴが候補地にあがったのである。ベルリン会議(1884-5)で、競争相手には譲りたくないが小国ベルギーなら安全だと考える英国とフランス、それに増え続ける奴隷の子孫をアフリカ大陸に送り返そうとしていた米国、その3国の思惑が一致して、個人の植民地「コンゴ自由国」が生まれた。ベルギー王はアフリカ進出を目論んでその地の首長たちと条約を結んで私的組織コンゴ国際協会を1878年に創設した。後の「コンゴ自由国」の暴虐を考えれば、協会創設の1878年が大きな潮目だったようである。日米の潮目から、18年後だった。(→「コンゴ1860」、2022年10月31日)

ゴム採取を強いられるアフリカ人:「アフリカ・シリーズ」から

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つれづれに:立春が過ぎ

 旧暦ではすでに春が立ち、立春(2月4日~18日)の期間もはや半ばである。寒さを覚悟していた大寒(1月20日~2月3日~18日)の時期でも、そう寒い思いをしなくて済んだ。予報によれば、もうすぐ春一番が吹いて、春めいてくるそうである。高台の公園では梅もすでに散り、隣の桃(↑↓)が満開である。

 今は、週に1度の白浜(↓)行きや散歩や畑作業の時も含めて、その時どきに感じる日常の情景、月1回のズームAAの報告と補足、漂泊の思いに誘われて出た旅、それに最後の外部資金のテーマにしたアングロ・サクソン系の侵略の系譜について書くことが多い。すべて、定年退職後に再任された後、やっと書き始められた小説の材料でもある。退職の年に、長年HPを使った褒美(ほうび)にと拵(こしら)えてもらったこのブログを、有難く修作に使わせてもらっている。小説の方は、5作目のあと小休止している。今後の進み具合は、出版社次第になりそうである。

いつもの位置(上)、神社を背に青島港に戻る漁船を撮った(下)

 今日は日常の情景についてである。この前書いたのが→「快晴」(1月27日)だから、その間にズームAAの報告と補足(→「第3回目報告」、→「口承伝達」)、旅(→「下田」)、侵略の系譜(→「アメリカ1860年」、→「日本1860年」、↓、→「南アフリカ1860年」)と、色々挟(はさ)んだわけである。「口承伝達」のあと、10日ほど書いていない。特別な理由はないが、ぴたっと勢いが止まってしまった。

 規則正しく毎日送られればいいが、実際はそうはいっていない。長距離で自転車をこいだ次の日は、なかなか体が動かないし、雨が降れば難儀してまで歩けない時もある。うまく寝られればいいが、布団に入っても眠れないときもある。食べるものが薬だからと思って、できるだけいろいろなものを摂るようにはしているが、食べたくないときもある。退職すればすることがなくて‥‥という人がいると聞いたことがあるが、そんなことはない。起きてから寝るまで、次々とすることがある。妻の作ってくれたおかずに野菜や甘酒などの支度をして時間をかけて食べる、外に出て1時間ほど歩く、洗濯に掃除、今なら体を冷やさない程度に畑に出て作業、生きるのを維持するのに必要なことばかりだ。

 今、畑では南側(↑)と東側の通路に正方形のコンクリートを敷いて通路を拵えている。折角なのでコンクリートの下の黒土を畑に入れて、そこに東側の家の脇の道路下から掘り起こした真砂土を運び入れている。通路には上に砂利が敷いてあるので、それを取り除いて水で洗ってからなので、結構手間がかかる。幸い畑には何個所か溜枡(ためます)が拵えてあるので、そこに雨水が流れるような工夫も必要である。新しいものを拵えるのは、それなりにおもしろい。ただ、土を掘り起こし、真砂土や砂利をわけてバケツで運ぶので、体の節々が痛い。最近は、特に指や前腕と両肩の痛みがわりときつい。

 春も立ち、下の気温も上がってくるので、体を冷やさずに畑に出られる時間も長くなる。それだけ作業も進む可能性はあるが、それも体が続けばの話である。レタスとブロッコリー(↑)を必要な分だけ摘んで食べられるのは、有難いことである。葱(ねぎ)も大体は植え替えて、順調に大きくなっている。切ってもまた後から生えて大きくなるので、重宝な野菜だ。今年はこまめに刻んで冷凍し、年中途切れないように出来るといいが。ときたま、近くの人たちにもお裾分けをしている。

青島神社参道、キャンプの影響か参詣客が多かった

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つれづれに:口承伝達

 アフリカと欧米では家(house)が持つ概念が違うというのを、ジンバブエの学生→「アレックス」から教えてもらったが、歴史の伝達の仕方もずいぶんと違う。日本は中国や韓国の影響が大きいので、紙に墨(すみ)でかいたものを残して歴史を編纂(さん)して来た。古事記や日本書記などである。そのときの金持ち層の都合によって捏(ねつ)造されたり、捻(ね)じ曲げられたりしている部分もあるだろう。しかし、伝達されている紙媒体で残されたものをもとに歴史が書かれているのは確かである。公教育の場では、その歴史が伝達されている。

しかし、アフリカの場合、長く文字を持たなかった。文字がなくても、自分たち流の生活が送れたからだろう。欧米諸国は、アフリカ人が文字も持っていない=文化程度が低い、を自分たちの野蛮行為や白人優位・黒人蔑視の意識を正当化するために利用したが、文字を持つかもたないかは、文化の違いである。アフリカ人は過酷な大陸で生き延びる方策を持っていたのである。製鉄の技術も高かった。鉄を作るには、鉄鉱石を地中から掘り出す技術が要るし、加工するためにはかなりの温度の高炉も必要である。どれくらい温度を上げられるかで鋼(はがね)の強度が決り、鋼の強度で刀の精度が決まる。長いこと、刀社会では精度の高い刀が命だったと聞いたことがある。

口伝えで自分たちの歴史を次の世代に引き継いで来たのを知ると、口承文化の乏しい私たちからすれば、凄(すご)いとしか言いようがない。文字を持つアフリカ系アメリカの作家アレックス・ヘイリー(↓)が、奴隷として連れて来られた西アフリカの小さな村まで辿(たど)り着き、その村のグリオ(griot)の口から、自分の祖先のクンタ・キンテの名を聞いて、それを本にして出版し、その本を基にテレビ映画「ルーツ」を拵(こしら)えているのだから。

 久しぶりに→『ルーツ』の第2部を見た。2007年に放映30周年記念の6枚組のDVD版(↓)が出て、日本語・英語字幕が完備された鮮明な映像を授業でも使えるようになった。しかし、記念版は第1部だけである。第2部はNHKのアーカイブにもないので、今となっては貴重な映像である。非常勤で世話になった→「LL教室」でダビングさせてもらった映像のお陰である。(→「大阪工大非常勤」

 クンタ・キンテの子孫のアレックス・ヘイリー役の俳優がアフリカに渡り、ジュフレ村で自分の祖先の名前をグリオから聞くくだりは、圧巻である。叔母のシンシアから聞いた話に興味を持ち、調べ始めた。当初、奴隷主の家計を辿り、根気よく図書館で調べ続けて、祖先が乗せられたロード・リゴニア号(↓)が入港したアナポリスに行き、相談を持ちかけた係員に言われた。

「174年から1810年の間に、一体何隻の船がこの港に入ったと思います?もちろん、税関の目を逃れてそこらの入り江に入ったかなりの数の密輸船を除いての話ですよ‥‥大雑把(ざっぱ)に言って、あなたの言ってた期間に上陸した奴隷の数は10万人を超えるでしょうね。あなたのお探しのものは、到底みつかりませんね」

 しかし、ヘイリーは見つけ出した。妻子にも出ていかれ、原稿を持ち込んだ出版社にも、マルコムXのインタビューに成功した「プレイボーイ」にも、アフリカ渡航の前借りを断られた。しかし、執念が実り、言語学者からガンビア川を遡(さかのぼ)ったマンディゴの村の名前を聞き出し、リーダーズダイジェストから前借りも出来て、ガンビア(↓)に渡った。そして、クンタ・キンテがある日森にドラム用の木を切りに行って奴隷狩りに遭い、姿を消したことをグリオの口から直(じか)に聞くことができたのである。

 叔母の話を聞き、文字で残された記録を辿って、西アフリカのガンビアを突き止め、川を遡ってジュフレ村に行き、村の歴史の語り部グリオの口から、ある日森に木を切りに出かけたクンタ・キンテ(↓)が姿を消し、戻らなかったと聞いた。雨季や旱魃(かんばつ)、支配者の動向で年月を数えたグリオが代々守り続けてきた口承伝達の文化と、執念で祖先に辿り着いた子孫のヘイリーの文字の文化が融合し機能して、7世代を繋(つな)いでくれたのである。

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つれづれに:南アフリカ1860年

桜田門外の変で斃(たお)れた井伊直弼

 日本でもアメリカでも1860年が歴史の大きな潮目だったが、南アフリカでは1867年だった。7年遅れである。(→「日1860」、→「米1860」

1860年に大統領に選ばれたエイブラハム・リンカーン

 南アフリカの歴史を辿(たど)ったのは、業績が大学の職を得る唯一の選択肢だったので、アフリカ系アメリカ人の作家リチャード・ライト(Richard Wright, 1908-1960)で書いていたが、急遽(きょ)南アフリカの作家アレックス・ラ・グーマ(Alex La Guma, 1925-1985、↓)でも書くようになったからである。「ライトシンポジウム」でミシシッピ大に行ったとき、アメリカの学会「MLA」に誘われ、出来ればイギリス文学とアメリカ文学以外の英語で書かれた文学で発表してもらえたらと言われた。

小島けい画

 アメリカの作家で引き受けたのに、アフリカの作家をと言われてもすぐに対応できないところだったが、→「黒人研究の会」の月例会で月に一度はアフリカ研究の発表を聞いていたので、すんなり「やってみるか」と思えた。まだ職探しの最中で目途もついてなかったが、先輩の薦めで会った出版社の人から雑誌(→「ゴンドワナ (3~11号)」)、→「ゴンドワナ (12~19号)」)に書いてはと言ってもらっていたので、原稿を書いて送ることにした。

 歴史についてはバズル・デヴィドスンの「『アフリカシリーズ』」「ハーレム」の本屋さんで手に入れたThe Struggle for Africaが手元にあったのは幸運だった。

 南アフリカには先にオランダ人が、そのあとイギリス人が入植していた。イギリスにとっては、植民地争奪戦でインドへの要衝地をフランスに譲れないというのが居座った主な理由だったが、南アフリカ自体はそれほど重要ではなかった。先に来ていたオランダと諍(いさかい)はあったものの、1854年頃には肥沃な海岸沿いの2州をイギリスが、内陸部をオランダがと棲み分けが出来ていたが、1867年にダイヤモンドが、1886年に金が発見されてから、俄(が)然状況が変わった。産業社会では金とダイヤモンドは重要な鉱物資源だったからである。両方ともオランダの領有地で発見されたので、当然戦争をしたが、相手を殲滅(せんめつ)できるほどの軍事力の差はなかったので、折り合いをつけて1910年に国まで創ってしまった。その流れでは、1867年が潮目だったと言えそうである。日米に遅れること7年である。(→「南アフリカ1860」

1960年代のヨハネスブルグの金鉱山「抵抗の世代」より