つれづれに

つれづれに:→「水仙」(すいせん、小島けい絵のブログ)

小島けい画「水仙とぴのこ」

 昨日「冬景色」で畑の水仙の写真を載せ、久しぶりに「今年も水仙が咲き出したか」の句も添えた。もちろん、山頭火が借りた山口防府市の農家の空き家を其中庵と呼び定住し始めて少し落ち着いた頃に詠んだ「ここにも水仙の芽かよ」の模作である。すいせんは好きな花の一つでいろいろと思い出すことも多い。

 →「水仙郷襖絵」もその一つである。早くに→「諦観」を感じ「生きても30くらいやろな」と余生のつもりでその日を遣り過ごしていたから、結婚も考えたこともなかったが、生きていると、正確には死なないでいると何が起こるかわからないものである。結婚をして、子供も出来た。淡路島の黒岩水仙郷(↓)に行ったのは、結婚して次の年に生まれた娘がまだお腹の中にいる頃である。妻が産休に入ってすぐに、明石港からの連絡船で淡路島に渡ってすいせんを見に行った。宮崎にいると淡路島の自生の水仙郷の話を聞くことはまずないが、二人とも海を隔ててはいるもののそう遠くないところに住んでいたので、電車の中や駅などの水仙郷の広告を目にしていた。

 結婚した当初は朝霧駅(↓)近くのマンションに住んでいたが、出産前後は妻の父親と住んでいた→「中朝霧丘」の家で過ごしたあと、新しく出来た職員住宅に3人で入った。産後の休みの間に、入り口の真新しい襖一面に水仙郷の絵を妻が描いた。甘酸っぱい香りが漂ってくるくらいの優しい絵だった。引っ越しのときに、どうして持ち出さなかったのかが悔やまれる。二人が働いている状態で、娘がよく熱を出した。熱がなかなかさがらなかったある日「わたし、家に帰る」と言って、父親の家に3人で転がりこんだ。妻を亡くして老けかけていた妻の父親は孫と最愛の娘が転がりこんで来て、若返った。→「明石」は思っていた以上に、居心地がよかった。生まれ育ったところがひどすぎた反動もあったかも知れない。

 結婚したのは、書きたい思いが残っていたからだろう。1浪しても受験勉強ができなかったので→「夜間課程」で手を打って大学(↓)に行き始めた。その頃は(→「大学入学」)授業料や電車の定期代がかなり安かったが、→「牛乳配達」ではきつかった。何年かのちに、家庭教師を頼まれるようになって経済的にも、気持ちの上でも少し余裕が持てるようになった。(→「家庭教師1」、→「家庭教師2」、→「家庭教師3」、→「家庭教師4」

 書きたい気持ちに気づき始めたのは、夕刊に連載していた立原正秋(↓)の小説を読んだときからである。文章との相性がよかったのかも知れないが、自分と社会のことを考えるようになり、おそらく無意識の深層に少しだけ触れるようになったような気がする。その意味では、30を過ぎても生き在(ながら)えているのは、その作家のお陰かも知れない。よかったのか、わるかったの‥‥。

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つれづれに:冬景色

 一気に寒くなった。一昨日の下の温度がマイナス1度、昨日がマイナス2度、朝起きてみると畑に氷が張っていた。

 10月までは畑にいると熱中症になりそうな暑さだったのに、今は畑にいると体を冷やしてしまうので、陽の照る時間を見つけて、短時間でも作業を進めることにしている。北の端の方の庭の真砂土を取り除いて土を入れて陽の当たる部分を増やしているのだが、掘り起こして取り除いた真砂土と下の粘土層を、北側の金木犀の木陰になって陽の当らないところに持って行っている。植木に沿って、通路を造っているからである。作業の途中で掘り起こした土も凍(い)てついていた。

 凍てついても、冬野菜は健在である。種は蒔(ま)いたもののすぐには間に合いそうにないので、11月の初めに苗を買って植えたレタスがだいぶ大きくなって、買わなくて済むようになっている。毎朝、要る分だけ摘んで二人で食べられている。

 種から芽を出した苗も植え替えて、大きくなるのを待っている。まだ霜が降りていないので、ピーマンが生きているが、寒気団の動向次第では先は長くなさそうである。

 種からの葱(ねぎ)も植え替えて順調に大きくなっている。

 玄関先のアロエに霜よけの覆いをしておいてよかった。妻が中身を飲んでいるので、欠かせない植物である。いろんなところから少しずつもらって来ているが、ある時、密集して大きくなっていたアロエの半分ほどが切り倒されていた。大きくなり過ぎたからのようだが、切り取られて根の部分がないアロエをもらって来て、玄関の脇に植えた。それが根を張り、大きくなっているのである。霜が降りると枯れてしまうので、面倒でもシートを架ける必要がある。

 これくらい気温が下がると、空気が澄んで加江田の山がはっきりと見える。パソコンの置いてある机からも見ることが出来る。もちろん、畑からも見える。南側の2軒の家の合間からの景色もなかなかである。

 火曜日に→「ジプシー」を書いたあと、少し体調がおかしくなった。夏に吐き気がして頭がくらーっとした症状に似ていた。英語をしゃべる機会をもつことになり、最終的には4人でズームを使って2回目が終わった。90分ではたくさんは話せないので、補足の意味で→「英語で」、→「誰が奴隷を捕まえたのか?」、→「深い河」、→「下り行け、モーゼ」と書いていたが、書けなくなった。それでも、金曜日に自転車で白浜に行って揉(も)んでもらえたのは幸いである。体がずいぶんと軽くなった。風が強く、青島でも白浜でも、海は冬景色だった。

青島から北の方向に尾鈴山系を背にシーガイヤが見える

同じ位置から南の青島も撮った

白浜のいつもの位置で

白浜の海(12月8日)

 北側の門の脇の水仙が1週間ほど前から花を咲かせている。例年、切って花瓶にいれるのだが、何日かしか持たないので「今年は、そのままにしとこうか?」ということになって、無事に咲き続けている。まだ何日かはもつだろう。

 畑の西の脇の花壇の水仙も咲き出した。水仙も大好きな花の一つである。しばらく香りも楽しめそうである。久しぶりに一句。

今年も水仙が咲き出したか             我鬼子

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つれづれに:ジプシー

 久しぶりに牧場(乗馬クラブ →COWBOY UP RANCH、宮崎市清武町大字今泉甲6618)に出かけた妻が、帰ってからしばらくして、今年の夏にジプシーが亡くなった話をしたあと、12月のカレンダー(→「私の散歩道~犬・猫・ときどき馬~一覧(2004年~2021年)」)を見ながらしんみりと言った。

「最初の絵は暗かったけど、今月のジプシー、明るく描けてよかったね」

清武の牧場に乗馬に通い出してからずいぶんになるが、ジプシーは通い始めた頃に26歳の牝馬(ひんば)だったそうである。相性がよくて、乗りやすかったらしい。

馬の絵も描き始めていたので、乗馬に行ったときに写真を撮り、ジプシーの絵も描いた。それをオーナーのメグさんにプレゼントしていた。後から「あの絵を見た瞬間、鳥肌が立ちました!」と言われたそうである。

描いた本人はジプシーについて何も聞いていなかったが、絵が実際の場面と重なっていたので鳥肌が立ったようである。描いた方も、贈られた方もびっくりしたわけである。

ジプシーを初めて牧場に連れてきた夜に、まだ整地もされていない荒れた原っぱだった広馬場に解き放ったそうである。その時の月の光の中で走るジプシーと妻が描いた絵のジプシーとがピッタリ重なったのである。そんな偶然もあって、思いで深いジプシーの絵(↓)となった。

 横浜の出版社に送る私の記事の挿画を妻に頼んでいたら、妻が本の装画(→「本の装画・挿画一覧」、門土社)を頼まれた。そのうち、エセイを書くように言われ「私の絵画館」を連載した。(→「私の絵画館一覧」、No. 1 2018/12/29~)その続編にジプシーについての記事も書いている。(→「ジプシー」「続モンド通信18」

出版社の人が亡くなってモンド通信(→「モンド通信一覧」、2008年12月~2016年9月)も終わったので、ブログに続モンド通信(→「続モンド通信一覧」、2018年12月~)を載せることにした。「私の絵画館」とエセイ、私の記事を載せている。

 乗馬に行くときは、馬たちに人参(にんじん)、猫に林檎(りんご)を切って持って行き、話をしながらやっているが、すでにジプシーはいなかった。

「持っていったのをジプシーにやれなかったね」

ジェリーとジャガーという名の猫が2匹いる。馬の鞍(くら)を鼠(ねずみ)に齧(かじ)られるので、牧場には欠かせない役目を担っている。二匹とも歳を取って、ジェリーの方は患って余命宣告を受けてだいぶ経つが「痩せていたけど、生きててよかったね」と妻が言っていた。ジェリーの方は、カレンダーの中に載っている。

 私も自転車で街に出かけたり、白浜に通ったりできているが、妻も牧場へは、何とか自転車で通えている。有難いことである。

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つれづれに:下り行け、モーゼ

 2回目はゴールデン・カルテット(↓)の「下り行け、モーゼ」を聴いてもらった。どちらも歌詞は旧約聖書の2章出エジプト記から来ていて、黒人霊歌と言われている。

 大規模な大西洋の奴隷貿易で主に西アフリカから北アメリカに奴隷として連れ去られたアフリカ人には、かなりのイスラム教徒もいた。1回目では、ヨーロッパの金持ちたちに絞って話をした。自分たちの富を如何に増やすかしか頭にない連中である。自分では働かず、人からものを掠(かす)め取る才覚に極めて長(た)けている。如何にすれば儲かるかの嗅覚もするどい。搾取し続けるシステムを構築する実務的なレベルも高い。狡猾で、儲(もう)けるためなら何でもやる。恥など糞食らえだ。人身売買も人種差別も、手段として利用した。文明のレベルが高くて、統治機構もしっかりしていた西アフリカに狙(ねら)いを定めて、同胞を売るようにそこの金持ち層を説得した。双方の金持ち層が自分たちの富を分かち合ったのである。その方が効率もよく、儲けも多かったからである。

 当然、イスラム教徒に自分たちのキリスト教を押しつつけることに躊躇(ためら)いがあるはずもない。もちろん、最初はアフリカ人も抵抗はしたが、そのうちに教会に通うようになり、白人の聖歌隊(choir)の歌う教会の歌を聴かされるようになった。アフリカ人たちが生き延びるにはそれしか方法がなかったのである。しかし、見つからないところで魂が生き残るように密かに願いをこめて、白人の歌詞に自分たちの連れて来られた地域で慣れ親しんでいたリズムやビートを乗せて、北アメリカの農園や奴隷小屋で歌い、自分たちの子供や子孫に歌い継いでいったのである。

教会で白人が歌っていた歌は自分たちの経典である聖書(the Bible)から来ている。元々ヘブライ語(Hebrew)で書かれていたものの英語訳である。聖書はTestamentとも言われ、意味は約束ごとらしい。旧訳は人々を救う神が現れるという約束、新訳はその神が人々を救うという約束であるようである。第1章創世記は初めに神は天と地を創った(In the beginning God created the heaven and the earth., AUTHORIZED <KING JAMES>  VERSION)という書き出しで始まる。有無の二元論である。少なくともアジアとアフリカは違う。有ると無いのほかに、もう一つの概念がある。今はなくとも何かの縁があれば現れるという概念である。西欧化されて、世代によって違いもあるが、少なくとも有る無し以外に、あるかも知れない、ないかも知れないという無意識の世界はある。基本的に西洋と東洋がわかり合えない部分なのかも知れない。

聖書から取られた歌詞は、基本的には神への賛歌である。教会で歌われていたのは、讃美歌、聖歌、霊歌、福音歌で、英語ではhymn, salm, spiritual, gospelと呼ばれる。英文特殊講義で黒人文学入門の科目を担当していた人が、spiritualに私が黒人霊歌の訳をつけましたと得意げに言っていたような気がする。その人のヒューズの翻訳本を古本屋で見かけたことがあったので、特段怪しいとは思わなかった。話は地味だったが、内容には信憑(ぴょう)性が感じられた。公民権運動の余波でブラック・ミュージックが有名になってからは、スピリチュアルやゴスペルなどのカタカナ表記も多くなった。日本でゴスペルと言えば、ブラック・ゴスペルを指すと思っている人も多いが、元は白人の歌っていた歌で、今でも白人は白人歌手の歌うゴスペルを聴くと聞く。研究室に来ていた学生が東京の大学時代に留学した際、白人のホストファミリーの家では白人歌手のゴスペルを聴いていたと話していた。

 BS放送で見た音楽番組では、たまたまその年のゴスペル・アウォードの受賞者は白人のエイミー・グラント(↓、Amy Grant)だった。ゴスペル・アウォードはその年にゴスペルの世界で一番活躍した人に与えられるものだと解説していた。当時、担当する医学科1年生のクラスに東大卒の人がいて、いつもヘッドフォーンをつけて音楽を聴いていた。あるとき「いつも何を聴いてるん?」と聞いたら「エイミー・グラントです。僕はクリスチャンですから」と言っていた。当時まだ存在していた宮崎駅近くのビデオショップにはCDのコーナーもあったから、のぞいてみたらエイミー・グラントのものもあったので、CDを1枚買って帰った記憶がある。英語の授業で、ブラック・ゴスペルといっしょに紹介した。

「深い河」(↓)も「下り行け、モーゼ」もどちらもよく知られた黒人霊歌(スピリチュアル)である。白人にとっては深い河とモーゼは聖書の中に出て来る河と人だが、北アメリカに奴隷として連れて行かれたアフリカ人やその子孫には違う意味があった。ブラック・ミュージックの世界である。

長谷川 一約束の地』ヨルダン川」から