ZoomAA2b:水先案内人
アメリカに来た最初の黒人は水先案内だった。奴隷ではなかった、とラングストン・ヒューズ(Langston Hughes, 1902-1967、↑)は→「黒人史の栄光」(↓)を書き始めている。西アフリカの金持ち層と手を組んで大規模な大西洋での奴隷貿易を始めたのはヨーロッパの金持ち層だが、その後350年も続いたので、ヨーロッパでは一般の人たちもアフリカ人を蔑むようになり、次第に白人優位・黒人蔑視の意識が浸透して、根付いて行った。
アフリカの北部はヨーロッパから近く、古くから往来もあった。パリに行ったとき、会いに行ったソルボンヌ大の人が留学生に予め案内役を頼んでくれていたが、その留学生の女性はモロッコの人だった。如何にもパリだという屋根裏部屋(↓)のある小さなホテルを予約してくれていて、そのホテルまで送り届けてくれた。子供たちはモロッコさんと呼んでいた。パリにはアフリカからの留学生も多く、北アフリカのクスクス料理なども人気があり、日常生活の中にアフリカが入り込んでいる風だった。
中世では西アフリカの文化レベルの高さがヨーロッパでも広く知られていたので、黒人を劣ったものと思わせるものは残っていない、とアフリカを知るイギリス人歴史家バズル・デヴィドスンは→「『アフリカシリーズ』」(↓)の冒頭で紹介している。残されている中世の壁画を見ても、黒人と白人が対等に描かれていて、ヌビア出身の聖モーリスにつかえている侍女は白人である。従って、この500年余りのアングロ・サクソン系の侵略の長さからすれば、「アフリカシリーズ」の「人種差別は比較的近代の病です」は至言である。
コロンブスの船に乗っていた水先案内人のひとりペドロ・アロンゾ・ニーニョは黒人だったと言われている。1492年のことで、ポルトガルやスペインが南米や中米で遺跡を荒らして好き勝手していた頃である。探検家の一人エスタヴァンも黒人で、モロッコ生まれだった。モロッコにはアフリカ人とアラブ人の混血人種のムーア人が住んでいて、船乗りとして地中海を渡ったり、奴隷や人質としてヨーロッパに連れて行かれたようである。ポルトガルやスペインにはそういった黒人がたくさん住んでいて、水先案内人や通訳としてアメリカ大陸に来たのである。
1543年には難破した中国船が種子島に漂着、同乗していたポルトガル人が助けられたお礼にと鉄砲を置いて行った。1549年にはフランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸している。
現在のヴァージニア州ジェイムズタウン入植地にオランダの軍船が来て、19人のアフリカ人を売り払った1619年が奴隷制度の元が始まった年である。メイフラワー号で清教徒がやって来る1年前のことである。そんな遥かに遠い、遠い昔の話である。(→「歴史をどう見るか」)