つれづれに

ZoomAA2c:積荷目録

 奴隷船(↑)の積荷目録(Cargo Manifests)が、『ルーツ』(1976)を書いたアレックス・ヘイリー(Alex Haley, 1921-92、↓)が7世代前の祖先を探す手懸かりになったことはよく知られている。主人公クンタ・キンテの子孫のヘイリー役の俳優が、図書館で一心に検索している姿をドラマ→「『ルーツ』」で演じている。

奴隷貿易や植民地支配で繫栄したイギリスからの入植者たちが第3世界から搾り取って潤っているお陰で、図書館も充実している。1980年代の初めにニューヨーク市の公共図書館→「ハーレム分館」(↓)のションバーグコレクションを見に行ったときに、マイクロフィッシュから拡大コピーしながら実感した。ミタやミノルタのコピー機を見て「戦勝国は技術まで持って帰るんや」と歴史の隙間(すきま)を覗(のぞ)き見た気がした。図書館に充分な予算を割かない日本や、大学の図書館ですらほとんど本がないジンバブエなら、ヘイリーでも7世代は遡(さかのぼ)れなかっただろう。

 ヘイリーが自分の祖先を調べ始めたのは、『プレイボーイ』でインタビューしたマルコムXにも大きく影響を受けていたからでもある。奴隷貿易で断たれてしまったアフリカとの繋がりを知ることはアメリカの黒人にとっては自分の存在価値を知るうえでどうしても必要だとマルコムは考えていたのである。暗殺される直前に行った→「ハーレム」での講演でも、アフリカとの歴史的な繋がりを説いて自分自身に自信を持てと熱く語っていた。(→「アフリカ系アメリカの歴史 」)自分のルーツを探す旅はマルコムが果たせなかった遺志を継ぐことでもあったのである。

 ヘイリーは叔母の話に興味を持ち、自分の祖先探しをするようになった。西アフリカのガンビアのジュフレ村に辿(たど)り着き、その村のグリオの口から「ある日、森に木を切りに行っていなくなった」と聞いた。グリオはその村の歴史を口承で語り継ぐ役目の人である。船舶記録と積荷目録から、17歳のクンタ・キンテ(↓)を乗せた船の名前と、船が1767年にアナポリスに入港したことを知った。

今でも入港する船舶は積荷目録を書いているようだが、その頃の積荷目録が残っているのは奇跡に近い。20世紀の初めに連邦政府は連邦作家プロジェクト(Federal Writers’ Project)を組んで散逸する資料の保存を図ったそうである。積荷目録が残っているのもそのお陰かも知れない。プロジェクトにはい人若手をかなり重要な立場で登用したと→「黒人研究の会」の例会で聞いたことがある。

ウェブで調べているとき、積荷目録のコレクションを紀伊国屋書店が売っているを見つけた。「教育と研究の未来」(→「Slave Trade in the Atlantic World」)という題がついているが、そういう貴重な歴史資料を売買していいものなのか?なんでも商売にしてしまう。いつの時代も金持ち層の遣りたい放題である。歴史が証明している。

つれづれに

つれづれに:畑も冬模様

 畑もすっかり冬模様である。去年は9月中は暑くて畑に出るのは難しかったが、十月に入ると、昼間の暑さを避ければなんとか畑に出られるようになった。去年は9月の初めに畑を再開した(→「畑を始め‥‥」)が、一昨年始めたのは十月の半ば(→「畑も始めたが」)だった。

9月末の畑の様子

 旧暦では、今年は11月7日に冬が立ち(立冬)、 小雪(11月22日~12月6日)、 大雪(12月7日~22日)、 冬至(12月23日~1月4日)の期間を経て、今は小寒(1月5日~1月19日)の期間である。 冬至を過ぎた頃から昼が少しずつ長くなり、だいぶ日が暮れるのが遅くなった。大寒(1月20日~2月3日)をやり過ごせば、2月4日には春が立ち、(立春)、その後しばらくすれば、冬眠していた虫たちもいっせいに動き出す啓蟄(けいちつ、3月5日~)である。

大根の最初の収穫はある程度の大きさのまますでに何軒かにお裾分けをしてしまい、まだ大きくなっていないのを抜いて来て毎日大根おろしにして食べている。ちりめんじゃこを加えて、ポン酢をかける。ちりめんじゃこは生産者直売所が大分から取り寄せているものである。大根と大根葉は、人参、大根葉、大根、椎茸、牛蒡(ごぼう)と根菜が主体の野菜スープの貴重な材料である。本当かどうかを確認する術はないが、昔隣の人が「がんにいいですよ」と言って作り方を教えてくれたので、毎日飲むようにしている。

苺(いちご)も植え替えが終わった。作るのは初めてである。去年苗を3本買って植えたが、ほとんどならなかった。ランナー(親株から分かれた株、言わばクローン?)の子株がだいぶ根付いていたので、それを植え替えた。実に土がついて傷まないように、取って来ておいてある枯れ草を敷き詰めようと思っている。うまく生るといいが。

ブロッコリー(↑)は葉もずいぶんと大きくなった。もうすぐ食べられそうである。種から大きくなった苗も、ほぼ植え替えが済んだ。一度に植え替えられないのが幸いして、時差で収穫出来る。もうすぐ途切れず食卓に乗るだろう。

レタスも葱(ねぎ)も大きくなりつつある。種が細かいが、ほぼすべての種が芽を出してくれる。苗も細いので、植え替えが面倒くさいが、ほぼ枯れずに根を張って大きくなってくれる。お蔭で、どちらも買わずに済む。レタスは毎日食べる直前に、必要な分だけ摘んで来る。

葱を刻むのは結構面倒で先送りして萎れてしまうことも多いのだが、刻んで冷凍しておけば保存が効く。去年は最後辺りに冷凍した分が切れてしまい、生産者直売所で買うことになってしまった。今年は枯れたり虫にやられたりする前に刻んでおきたいと思ってはいるが、そう思い通りに行くかどうか。体のどこにも支障が出ずに、普段通りに生活出来ればの話である。それが一番難しい。

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つれづれに:波高し

 昨日の海は波高し、だった。曽山寺浜のみらいはしから見た海である。

 →「年の終わりに」行ったときは、青島もすでに年末年始のムードで人出が多かった。

 しかし、昨日は普段通りに戻っていた。運動総合公園の前のラーメン屋さんの駐車場には一台も車はなかった。金曜日の1時過ぎにあの状態で、どうして店を開け続けられるのか、不思議である。コロナ騒動の時に比べれば、ほぼ人出は戻った感じで、昨日も青島参道にはそれなりの人出があった。

 白浜行きは今年に入って2回目だが、週に一度、定期的に揉んでもらい、枇杷の葉の電気お灸をしてもらうのに、自転車で通えるのは有難い限りである。先週は、青島の海岸道路で→「カナダの人」会って、しばらくぶりに英語で喋(しゃべ)る機会があった。北の方の尾鈴山系を背景にシーガイヤの写真を撮ろうとしている時に話しかけられたが、その場所も波が高かったので写真を撮った。

先週の写真

 そのカナダの青年のように自転車を飛行機や新幹線に持ち込んで移動するのはもはや出来ないが、今年後期高齢者になる予定の身で、毎週片道1時間ほどの距離を自分の足でペダルを踏んで自転車で通えるのは、素直に有難い。ここまで生き在(なが)らえるとは思いもしなかったが、死なない限りは当たり前の生活が出来る方がいい。世話になりっ放しの先輩は、「年下の妻が車椅子生活になって、老老介護の身はきついで」とこぼしていた。お返しもお別れも出来ずに逝ってしまった。会いたい。白浜も少し波が高かった。

先週の白浜

 この何週間かは摘んで来た→「水仙」の甘い香りが、家じゅうに漂っている。玄関脇や畑の西側の花壇に咲いている水仙は、まだ生きている。今週も道端の水仙を摘んで持って帰ってきたが、この辺りの水仙の季節もそろそろ終わりのようである。

小島けい画「水仙とぴのこ」

つれづれに

つれづれに:年が変わり

年明けの白浜

 昨日下書きのまま残っていた「今年も終わる」を改題して→「年の終わりに」を書いた。年が明けてから→「ZoomAA」と→「水先案内人」を書いているので、今年最初の「つれづれに」ではないが、今年のカレンダー(→「私の散歩道2024~犬・猫・ときどき馬~」 )のブログを更新して、今年のカレンダーを載せたかった。

 スキャナで更新用の画像を拵(こしらえ)たあと、机の上の右端に置いているスピーカーの上にカレンダーを置いた。ボリビアのウユニ塩湖(Salar de Uyuni)の表紙絵は見えないが、猫の街マントン(Menton)の1月の絵がこれから毎日見える。Mentonはフランスの街だそうだ。フランス語風に発音は出来ないが、ウェブではマントンのカタカナ表記になっていた。Salar de Uyuniはスペイン語らしい。ヨーロッパ列強が植民地支配に血眼になる前に、ポルトガルとスペインが南米や中米を誰に邪魔されることもなく荒らしまわったが、ボリビアはその時にスペインにやられた国の一つというわけだ。

 白浜には年明けの4日に自転車で行くことが出来た。29日の最後の日に揉んでもらい、4日の仕事始めの日の最初の患者になった。その日は海も穏やかで、青島の海岸道路のワシントニアパームの間から北の尾鈴山系を背景にしたシーガイアの写真(↓)を撮ろうと構えたら「いい写真が撮れそうですか?」と声をかけられた。サイクリング車に乗った青年だった。日本語だったのか英語だったのかはっきりとは覚えていないが、そのあと「英語は使えますよ」と言ってしばらく久しぶりに外国人と英語でしゃべった。別れ際に私のメールアドレスを携帯に書いて見てもらったので、戻ったらさっそく短いメールが届いていた。

 戦後の急激なアメリカ化で英語には抵抗が強く、諦めて行った外国語大学(↓)英米学科(→「大学入学」)の→「夜間課程」でも英語はしなかったし、兵庫の県立高校の英語の教師の時も、敢えて「聞く」と「話す」はしなかった。日本の受験勉強用の英語は使うための英語とは全くの別物で、英語が聞けなくてもしゃべれなくても、受験英語の教師はやれる。実際関学に10人という恥ずかしい目標を立てた学年で、英語の成績順でクラス分けをした片方のクラスを持った。受験勉強が出来なかった私がそのクラスを持つのがよかったのか悪かったのか、言葉は使うためのものという意味では、おかしな話である。

修士論文に選んだ作家の伝記の作者だったフランスの人(↓)としゃべりたくて、たくさん聞いて、たくさんしゃべって普通に英語が使えるようになった。しゃべるのは主に医学科の英語の授業だったが、聞くのは放送が開始された衛星放送や英語の授業での聞き取り演習の準備作業が一番役に立った。今回も、相手の言うことがわかったので、普通に遣り取りができたようである。そんな年始めだった。

1985年ミシシッピ大学