つれづれに

つれづれに:→「深い河」

1回目の終わりに、ポール・ロブソンの歌う「深い河」を聴いてもらった。

深い河 私の故郷はヨルダン川(↑)の向こう岸にある/ 深い河 主よ / 河を渡り 集いの地へ行かん Deep river, my home is over Jordan, / Deep river, Lord, / I want to cross over into campground.

福音の恵みを求めて / すべてが平穏な約束の地へ / 深い河 主よ / 河を渡り 集いの地へ行かん / Oh don’t you want to go to that gospel feast, / That promis’d land where all is peace? / Oh deep river, Lord, / I want to cross over into campground.

長谷川 一約束の地』ヨルダン川」から

 1980年代の終わりに、宮崎医科大学(↓)に来た。最初に授業を担当したのは2年生だった。英語科は創立当初、教授1、助教授1、外国人教師1で出発したらしいが、私が講師で着任した時は、助教授1、外国人教師1だった。7つ上の助教授の人は優秀で、とても優しい人だった。学内事情で、教授職は空席のままだった。

一般教育の英語学科目が担当だった。創立当初は非常勤に来てもらって、6年生まで英語の授業があったと聞くが、その時は1、2年次だけだった。その人が2年生、私が1年生の英語を担当する心づもりだったようだが、次の年に在外研究に行く予定で赴任の年だけ私がその人の2年生の分も持った。そのおかげで、2年生と出会え、今も行き来がある人もいる。

 非常勤が5年と長かったので、大学でしたい授業の方向性はだいたい決めていたが、自分の教科書はまだなかったので、市販のアフリカ系アメリカの歴史のテキスト(↓、→「黒人史の栄光」)を使った。急に決まった人事で、まさか医学生の英語の授業を担当するとは思ってもみなかったが、結構新鮮だった。

 「黒人史の栄光」:Langston Hughes, “The Glory of Negro History” (1964年)

 「わい、ABCもわかれへんねん」と学生が言うのを聞いた関西の私大(→「二つ目の大学」)では、授業そのものが成り立たなかったので、その意味でも有難かった。少し、舞い上がっていたかもしれない。その割には、東大の院と京大を出た1年生2人が、学年全体を操って嫌がらせをされたようで不快な思いもしたが、一人に「奨学金とめたろか」と一言いったら、嫌がらせの動きがぴたりと止まった。関西にいた人にも、穢い播州弁は、充分に効いたようである。

2年生の授業で「深い河」を紹介したとき、「『深い河』、誰か歌わへんか?百点つけるで」と言ったら、窓側の真ん中辺りに座っていた大柄な既卒生らしい学生がすっと立ち上がり、朗々と「深い河」を歌い始めた。低音のきいた素敵な歌だった。初めてのこともあって大感激、温かい気持ちになった。もちろん百点をつけた。のちに、本人から聞いたかどうかは記憶が怪しいが、グリークラブの会員で、その年の音楽祭で歌ったナンバーで、グリークラブの定番だそうだった。全国のグリークラブの数は多そうだから「深い河」は広く歌われている歌だったというわけである。卒業後、大学の医局に入って内科医になっていると、研究室に遊びに来てくれていた誰かから聞いた気もする。

私が初めて「深い河」を聴いたのはポール・ロブソン(↓)の曲で、→「黒人研究の会」の会員から借りたLPレコードでだった。家では再生出来なかったので、非常勤で使わせてもらっていた大阪工大(→「大阪工大非常勤」)の→「LL教室」で、補助員の人に聴かせてもらった。2メートル近くの巨漢が歌う歌声は、迫力があった。それ以降もだいたい英語の授業では聴いてもらったし「そもそも再生するツールがありません」と言われるまで、カセットテープやCDを配り続けた。

 「深い河」の歌詞は、旧約聖書から来ている。キリスト教も押し付けられた奴隷たちが教会で聞いたのは讃美歌などの白人が歌っていたものである。奴隷たちはその歌詞に、西アフリカのリズムやビートを乗せて歌い、その歌を後の世代に引き継いだ。それがブラック・ミュージックである。旧約聖書「出エジプト記」由来の「深い河」の続きも聴いてもらうつもりである。

今日は、このあと2回目が始まる。

「『アフリカシリーズ』」

バズル・デヴィドスン

つれづれに

つれづれに:誰が奴隷を捕まえたのか?

宮崎に来た頃の宮崎医科大学

 12月の初めの1回目は、案の定予定が延びて11時から1時くらいまでになった。予定の90分は今の大学の1コマ分の時間である。何もなければ長い時間だが、あれもこれもと考えたら極めて短い時間でもある。一国の歴史をやるのだから、時間内に出来ることも限られている。そもそも歴史と言っても、実際に見たわけでもないし、今のことだって世の中で起きていることがわかっているわけでもない。

2000年ころに、南部アフリカのHIV(↑)感染者が急増して国の3分の1以上がHIV陽性だと騒ぎ立てられたことがある。すでに抗HIV製剤は開発されていたが、その感染者に無料で配るには高価すぎて国家予算を越えてしまう国もあった。何も治療しなければエイズを発症して10年以内には死ぬと言われていたから、人口が激減した国がたくさん出たはずだ。そんな話は聞かない。

国連(UN)や世界保健機構(WHO)が資金確保のために、HIV感染者の数やエイズの死者数を水増していたわけである。報道する側が製薬会社(↑)をはじめとする儲ける側の支援を受けているのだから、自分たちの都合のいいことしか報道しない。多数の人たちはその報道を信じていたわけである。アフリカ人が編集長(↓)をする雑誌が医療の専門家に依頼して調査団を送って再検査し、実際の数字が水増しされていると主張した。初期症状が同じマラリアや普通の風邪まで、HIV感染者の数に入れていたという調査に裏付けられた主張には信憑(ぴょう)性がある。しかし、その雑誌を読む人は少ない。(「『ニューアフリカン』から学ぶアフリカのエイズ問題」、2011年)

私の見る目だって、極めてあやしい。採用人事でいい人だと思って尽力したあと、実際にいっしょに働き出してからとんでもない人物だったことがわかり、長い間ずいぶんと苦しめられたこともある。そんな不確かな中で、一国の歴史がどうのこうのと言える自信もない。長いこと生きるとそのうちに観方もしっかりして‥‥そんなことを考えてたわけでもないが、実際には、観方の基本の部分はずっと変わらないままだ。

そのうえで、出来る範囲で始めるしかない。その日は「誰が奴隷を捕まえたのか?」に絞った。普通に考えれば奴隷貿易は白人がやったのだから、白人が捕まえたと考えるのが妥当だ。しかし、見てもらった「ルーツ」の奴隷狩りの場面では、同胞のアフリカ人たちが網を使って捕まえていた。強烈な映像である。少し離れたところで、銃を持った白人が様子を窺(うかが)っていた。少し前の場面では奴隷船の船長とその白人が、何人捕まえるかの交渉をしていた。アフリカ人の有力者が奴隷船の船長の求めに応じて、同胞のアフリカ人を売り飛ばしていたのである。その奴隷船(↓)の船長は、イギリスの奴隷主に雇われて、アフリカで奴隷を積み込んでアメリカに運ぶように命じられていた。

奴隷制がいいとかわるいとかではなくて、金持ちが自分の金儲けのために奴隷制を利用したというのが本質的な問題である。金持ちの狡猾(こうかつ)さに敵う筈がない。西アフリカ(↓)から奴隷を連れていったのは、あの地域の文化が優れていて統治機構もしっかりしていたからだ。文化や技術の質も高かったし、統治者と話がつけば儲けやすかったからだ。厚かましさでは誰にも引けをとらないイギリス人が文化の高かった地域を植民地にしたのも、質の高い統治者と組めばより利益が得られたからだ。本質的には金持ちか貧乏人か、奪う側か奪われる側かが本質的な問題である。それは今も昔もかわらない。貴族も長い間、多数の人を働かせて税としてその上前をはね、優雅な暮らしをしていた。農民は稗(ひえ)や粟の暮らしを強いられていた。そういう意味で言えば、横浜で会ったとたんに出版社の人が話を始めた縄文時代はすごい時代だったということである。大陸から押し寄せたツングースにやられるまで、1万年以上も続いたという。

今回のアフリカ系アメリカの歴史は、奪う側、奪われる側の観点から見れば、実にわかりやすい。学校では奪う側からの歴史が正しいように教えられているが、奪う側の都合のいいように造られた機構自体が怪しい。生まれたときからその中にいるので、一度、再認識してみる必要はあるだろう。

あした、2回目がある。2回目は、奴隷貿易をする側の意識と連れ去られる奴隷(↑)たちの反応に絞りたいと思っている。

つれづれに

つれづれに:英語で

 今月の初めから、定期的に1時間半の予定で、英語を使う機会を持っている。

定年退職後、再任の期間も入れてずっと授業で英語を使っていたが、授業をしなくなってから使う機会がなくなっていた。今ならまだ忘れてなさそうなので、機会があればと考えるようになっていた。この3月に卒業して広島に戻った人から広島大にもなれて留学生と英語でディスカッションすることもありますとメールをもらったとき、またやってみようかと考えた。

 この3月に卒業した人たちは2年生から遠隔授業が始まり、大変な思いをした学年である。英語の授業では1年生の前期しかその人を担当できなかったが、前期に続いて研究室に遊びに来てくれていたし、科研やシンポジウムの手伝いをしてもらっていた。構内に入れなくなったあとも、有志でのズームトーイック演習に付き合ったり、科研のズームシンポジウム(→「 2021年Zoomシンポジウム」)につきあってもらったりしていた。その期間に、1度だけだが英語だけで話す機会も持っていた。世間話だけでは長続きしそうにないので、後期も担当できれば予定していた「アフリカ系アメリカ人の歴史はどうや?」と提案したら「それで行きましょう」ということになった。

1冊目英文書『アフリカとその末裔たち』

 そのあと「ズームシンポジウムに参加していた人を一人誘ってもいいですか?」というメールが来た。それから「その人が一人誘いたいと言ってますが、いいですか?」というメールが届いて、結果的に4人ですることになった。12月の初めの日曜日が1回目だった。

 私は1949年生まれで、敗戦直後に父親が復員して来て生まれた団塊の世代の一人である。人や育った場所にもよるが、英語に対しては反発の感情が勝った。受験勉強が出来なくて、諦めて入った大学が外国語大学(↑、→「大学入学」、→「夜間課程」)の英米学科だったし、その後、高校(↓、→「街でばったり」、→「初めての授業」)の英語の教員もしたが、ずっと英語を話すことに抵抗があった。

 小説の空間が欲しくて大学を探し始めて、気がついたらアングロ・サクソンの侵略の系譜みたいなことをやっていた。気持ちの深層には、常にその意識がある。しかし、現実には侵略者たちの厚かましさの度合いが強かったせいで、使えれば英語は便利な言葉になっている。

今回の参加者は4人とも、英語は第2外国語である。伝達の手段だと考えれば、気が楽である。間違ってはいけないと言われる受験英語とは違って、間違っても気を遣わなくても済む。英語が第2外国語の4人が、アングロ・サクソンの侵略の系譜について英語で喋(しゃべ)るというわけである。私は宮崎、一人は広島、一人はインドネシアの首都ジャカルタ、一人は福岡の離島に住んでいる。二人は「海外」である。

しばらく、4人のズームミーティングについて書こうと思う。やった内容の補足にもなるし、歴史の観方や価値観などを整理するいい機会になるかも知れない。今までずいぶんと書く機会をもらって活字にしたものをほとんどブログに載せている。内容が重なるものもあるが、関連するサイトにリンクを貼ろうと思っている。

「ルーツ」30周年記念DVD

つれづれに

つれづれに:穏やかな日

 穏やかな日が続いていたが、昨日の夜半過ぎから降り始め、今日は朝から雨の一日である。午後はかなり降るらしい。久しぶりに、雨水を蓄えられそうである。濁っているポリバケツ(↓)をきれいにして、雨水が垂れる下に置いた。畑に生野菜を埋めたあとの容器を洗ったり、採りたての野菜を濯(すす)いだりするのに便利である。抜いた後の大根についた土も、きれいに洗ったりしている。

 昨日は普段通りに1時間ほど歩けた。高台の公園の坂道を2往復、木花神社では99段(↓)の階段を1往復した。太腿(ふともも)の筋肉のために、上りは1段飛ばしである。遣り過ぎると、体が重くなるし、蓄積すると体のどこかにSOSが出る。自転車に乗る日は歩かない。もう両方に耐える体力はないので、両者の塩梅(あんばい)が大切なようある。

 先週は猫のぴのこ(↓)が歯を気にして食べられなくなったので、獣医さんに診てもらった。預けて診てもらったので、青島を2往復である。飛ばせば25分くらいで行けるが、普通に行くと40分くらいはかかる。妻と二人で2往復した。次の日に手術をしてもらうのに、また2往復だった。おかげで、麻酔をかけてじっくりと手術をしてもらえた。「全体がかなり傷んでいたので相当痛かったでしょう」と言われた。術後は順調で、ほぼ元通りに戻っている。食欲も旺盛である。適切な治療をしてもらえるのはありがたい。

 水曜日に私自身の歯医者だったので、2日目は妻が一人で2往復した。歯医者は清武にあり、やはり40分ほどの距離である。自転車で自力で行けるのはありがたいが、続くとなかなか大変である。調整しながらでないと、体がもたなくなっている。

昨日は日曜日だったせいか、木花神社(↓)に一人参詣客がいた。坂の中ごろに駐車のスペースが拵(こしら)えてあるのに、入り口に近い階段下に車を停めていた。知らなかったのかも知れない。

 木花駅(↓)では北側に簡易の机を置いて、5人ほどが座っていた。乗車券臨時販売所と書いてあった。宮崎・南宮崎とも書いてあったから、そこの駅員だろう。一度通り過ぎたが、気になったので戻って聞いてみた。「マラソンがあり、最寄りの駅ですから」と中の一人が教えてくれた。サンマリーン球場から出発して宮崎神宮辺りで折り返し、球場に戻って来るらしい。そう言えば、宮崎に来た当初は神宮の少し北辺りから自転車で通っていたから、フルマラソンの距離を移動していたということになる。木花駅は、プロ野球のキャンプの時以外にも、マラソンでも賑わうわけである。

 駅の西側に、お結びやさん(↓)が出来ていて、ときたま店先のベンチに座ってスポーツドリンクを飲んだりしている。午前中で売り切れて閉まることが多いので、気軽に座っていたら、突然中から店員さんが顔を出した。少し話をしたら、マラソンのお陰で客が多かったということはなかったらしい。東に球場があるので、電車を利用する人は西側には行かないからだろう。

 金曜日に白浜に行ったとき、海岸道路でマラソンの掲示板がたくさん立ててあったので、てっきりそこを利用するものだと思っていたが‥‥。ウェブの「青島太平洋マラソン2023」の解説には「市内中心部から太平洋・青島を望むトロピカルロードを駆け抜ける」と書いてあったが、実際は違ったわけである。

「いつも通っている海岸道路は、トロピカルロードというんや?」

 普段はサーファーや散策する人とときたま行き交う程度だが、昨日は運動用の服装をした高校生(↓)がたくさん歩いていて、何組もの高校生に挨拶された。総合運動公園で合宿していたんだろう。トロピカルロードを歩いて青島に行った帰りのようだった。

 先週は冬の旧暦の6節気について書いた→「郁子と通草」(12月2日)が、しばらくは12月とは思えないほどの穏やかさだった。特に金曜日は、少し雲は出たもののそう風もなく、気温も高く秋の初めの感じだった。西風のきつい日には、自転車がなかなか進まないが、風の心配をしなくて済んだ。白浜の海(↓)も、冬の色ではなかった。

揉んでくれる人がサーフィンをするので、海流と波の関係や波の質などについていろいろ教えてもらっている。いい波を探すために、天気図を読んで予測するだけあって、天候についてもずいぶんと詳しい。一昨日の波はかなりよかったそうである。昨日はその名残りで、ロングボードで穏やかな波を楽しめたらしい。

白浜の海(12月8日)