つれづれに

つれづれに:小屋

 前回の→「戦士」で書いたヨーロッパ人の蔑みの対象の一つになった小屋(↑)の続きである。ヨーロッパ人はアフリカ人の小屋を見て「みすぼらしい」や「粗末だ」の類の未開の象徴にしたかったのだろうが、西欧風の家(house)とアフリカ人にとっての小屋とは、元々概念自体が違う。

 1990年代の初めにジンバブエ(↑)に行って仲良くなったジンバブエ大学の学生→「アレックス」からその概念の違いの説明を受けたことがある。西欧風の家houseとは違って、大きな敷地内、家屋敷というべき居住区の中に両親の小屋、子供たちの小屋、居間用の小屋という風に分かれて小屋がある。アレックスはそれぞれの小屋をcompartmentという言葉を使っていた。ジンバブエは7割がショナ人であとがンデベレ人、小屋のことをショナ語でインバ(imba、↓)と呼んでいた。1980年に独立したとき、それまで使っていたローデシアという国名をジンバブエに変えているが、ジンバブエ(Zinmbabwe)は大きな(Zi)石の(bwe)家(imba)という意味らしい。

小島けい画

 20世紀の後半にヨハネスブルグに次ぐ第2の金鉱脈を探しに南アフリカのケープ州から私設軍隊を従えて今の首都ハラレに来て、そのまま居座った人物Cecil Rhodesが国に自分の名前をつけてローデシア(Rhodesia)にしたそうである。(→「ジンバブエの歴史1 百年史概要と白人の侵略」)居座った場所は今はCecil’s Squareという公園になっていて、写真を撮る名所になっている。

石の建造物大遺跡→「 グレートジンバブエ」

 ジンバブエでは首都ハラレの借家に家族で住んだ。家主に雇われていた→「ゲイリー」と仲良くなり、子供たちが通う小学校にみんなで行った。ゲイリーのところも「imba」だった。ゲイリー夫妻のimbaに入れてもらったが、思った以上に室内は広く、しっかりとした造りで、床が磨き上げられて清潔だった。家屋敷にたくさんのimbaがあり、大家族で暮らしていた。→「ルカリロ小学校」(↓)では大歓迎を受けたが、私たちは初めての外国人だった。首都から車で1時間ほどの距離だったが、その村を訪ねた外国人はいなかったということである。侵略者が広大なアフリカ大陸のごく僅かな場所しか行っていないのである。行ってもアフリカ人の生活ぶりを見ようとはしない。行かないで、見ないでアフリカやアフリカ人がわかる筈がない。実際に行ってみて、欧米が勝手に捏造(ねつぞう)した偏見が多いのを実感した。小屋が蔑(さげす)みの対象の一つになった絡繰(からく)りである。

 ルーツの主人公クンタ・キンテは15歳の日に自分の小屋をもらった。小屋にお祝いに来た祖母から、世話になった母親に何かプレゼントしなよと言われて、ドラム用の木を切りに出かけて、奴隷狩りに捕まってしまったのである。テレビドラマの祖母役は、歌手で詩人のマヤ・アンジェロウ(↓)である。→「黒人研究の会」で女性作家を研究していた会員から、月例会で発表を聞いたことがある。自伝の日本語訳もある。

つれづれに

つれづれに:戦士

 アメリカのテレビドラマ→「『ルーツ』」の主人公のクンタ・キンテ(↑)は自分たちのことを戦士(warriors)と呼んでいた。外敵から村を守るためだけに、すべての男性がそういう訓練や教育を受けていたのである。15歳で割礼(今でいう包茎の手術)を受けて大人の仲間入りをする。自分一人の藁葺(わらぶき)の小屋(↓)を家族からもらって一人暮らしを始める。そして、村の教育係から戦士になるための教育を受ける。村の大人は、村の子供たち全員を村全体が育てるという昔からの慣習を守っていたのである。

 アレックス・ヘイリー(Alex Haley, 1921-92)が船舶記録や奴隷船の→「積荷目録」(Cargo Manifests)を調べて自分の7世代前の祖先クンタ・キンテの話をその村の歴史を語るグリオをから聞いたのは、西アフリカのガンビア海岸(↓)からモーターボートで川を4日間もかけて遡った村だった。ヨーロッパ人の金持ち層の思惑通り、奴隷貿易や侵略行為を正当化するためにアフリカ人を蔑(さげす)み、キリスト教の高度なヨーロッパ文明の世界に引き上げてやるという高慢な捏造(ねつぞう)を一般の白人層に信じさせるには、こういった藁葺小屋の小さな村のイメージは好都合だった。

 しかし、実際は違う。西アフリカの中心部にはずいぶんと昔からしっかりとした統治機構を持つ王国がいくつもあり、豊かな埋蔵量のあった金をベースにした貨幣経済が発達し、大規模な交易網もあった。トワレグ人が駱駝(らくだ)の背に交易品を乗せ、サハラ砂漠を越えてエジプトまで運んでいた。当時の世界の交易の中心地だったエジプトのカイロを経由して、遠くはインドや中国と、ヨーロッパや東アフリカ、南アフリカと繋がっていたのである。豊かな王国を訪れたヨーロッパ人がその繁栄ぶりの報せを持ち帰っていたので、アフリカ人を蔑む風潮はなかったわけである。田舎もクンタ・キンテの村のように小規模ながら自給自足の生活をし、外敵から村を守り、村全体で次世代を育てる教育制度も整っていた。その制度や仕組みが、代々しっかりと受け継がれていたのである。当時のアフリカは、ヨーロッパや中国や日本と違って、文字を使わない口承の世界だった。しかし、考えてみればクンタ・キンテが「ある日、森に木を切りに行っていなくなった」とヘイリーに語ったグリオの存在は、文字文化が当たり前の人間からすれば、驚異の世界である。村の歴史を丸々覚え、後の世代に口承で伝えていて、実際にヘイリーがそれで祖先を確かめることが出来たのだから。ドラマの中のグリオは村の歴史を何時間も諳(そら)んじていた。グリオにはきっと、かなり理解力や記憶力の優れた人が選ばれたのだろう。世襲だったようである。欧米や日本でも人気のあったセネガルの歌手ユッスー・ンドゥール(↓、Youssou N’dour, 1959-)は自分がグリオの子孫であることを誇りにしていた。常にグリオの子孫であることを意識して歌を作り、歌っていたそうである。セネガルはガンビアの北隣で、ユッスー・ンドゥールが音楽活動をしている首都のダカールは、世界一過酷な自動車レース「パリダカ」(パリ・ダカール・ラリー、Paris-Dakar Rally)で有名である。グリオは吟遊詩人と日本語訳されている場合が多いが、キンタ・キンテの子孫の近くでは、村の歴史を口承で伝える人だったわけである。

 藁や泥の小屋はヨーロッパ人の蔑みの対象の一つになることが多かったが、それも実際は違う。次回は家なども含む、制度の違いについての続きになりそうである。

つれづれに

つれづれに:奴隷船一等航海士

 18世紀の半ばが始まりのテレビドラマ→「『ルーツ』」の中では、アフリカで捕まえられた奴隷が家畜のように扱われていた。鎖に繋がれたまま甲板に連れて行かれ、運動不足を解消するために、奴隷の一人が鳴らすドラムに合わせて「ほら踊れ、ほら跳ねろ」と船員が周りで甲板に鞭を打ち付ける。船長(↑)が臭いが酷いと一等航海士に不平をこぼすと「わかりましたと、きれいにしましょう。清潔が一番です」と返事して、部下に海から汲み上げた海水を奴隷たちにかけさせる。傷口に塩水が当たって、奴隷たちが苦痛に悲鳴を上げる。そんな場面が続く。

 当然、船員も船長もアフリカ人が自分たちより劣った人種だと見下していた。船長と一等航海士の言葉の端々から、その見方が感じ取れる。船長は奴隷船は初めてだったので、アフリカ全般やアフリカ人奴隷については、一等航海士よりは一般の人々の見方に近かったはずである。敬虔なクリスチャンを自任している船長にとっては、想像以上の日々だった。目の前で繰り広げられる非人道的な扱いを目の当たりにして、こんなことをしてもよいのかと良心の呵責に苦しんで、来る日も来る日も眠れない苦しい夜が続く。心の底を見せるわけにはいかなかったが、18回の奴隷船乗船の経験がある一等航海士(↓)に、あれこれと質問を投げかける。アフリカの西海岸に向かうまだ奴隷が積み込まれていない船倉(slave ship hold)での船長と一等航海士の会話の一場面である。

 「どんな人間だ?黒人とは?」

「種類が違うんです。犬に狩猟用の品種とペット用の品種があるように、黒いやつらは頭はトロいが、奴隷に向く。あなたが船長に向くように、自然の秩序(natural order)ですよ」

「そうか、何となく分かるよ」

「それにアフリカから連れ出す方が連中のためです」

「それはどういう意味かね?」

「つまり、キリスト教の国へ来るんですから、アラーの国にいるよりいいですよ。それだけじゃない。共食いから助ける事にもなる。みんな人食い人種だから」

「それぞれの領分で責任を果たそう」

「了解です。積荷はお任せを。言葉も知ってます」

「黒人の?」

「一種のね。連中に言葉などないですよ。うなるだけで」

中世ヨーロッパではアフリカ人とヨーロッパ人が対等で、人種的な偏見はなかったのに、奴隷貿易の最盛期には、黒人を劣ったものとみる意識が定着していたということだろう。

つれづれに

つれづれに:奴隷船船長

 今でも船長か船舶会社かが→「積荷目録」(Cargo Manifests)を作成して、入港する税関に提出する義務があるらしい。大学(↑、→「大学入学」、→「夜間課程」)でいっしょにバスケット(→「運動クラブ」)をした先輩は卒業後三井汽船に就職したらしいので、ひょっとしたらそんな仕事もしていたのかも知れない。卒業後会ったことはないが、一度会って話してみたいと思う一人である。たぶん、芦屋の両親の家を引き継いで、そこに家族と住んでいるような気がする。会えずじまいで終わりそうだが‥‥。4年の夏休みにアメリカに短期留学もして、将来設計が立てられる人だったのだろう。185センチほどあって、プレイのレベルも高かった。いっしょにプレイして、いつも気持ちよかった。練習のあと、並んで話をしながらモップがけをした記憶が残っている。

 →「『ルーツ』」(↑)は奴隷貿易が一番盛んな18世紀の半ばの話なので、今ほど法律的にうるさくはなかっただろうから、たぶん船舶会社も一番事情を知っている雇った船長に積荷目録を書いてもらっていたに違いない。税関が今の制度とどう違うのかは知らないが、入港先のアメリカの奴隷商会に積荷の詳細を書いた積荷目録を渡していただろう。その積荷目録が資料として残り、ヘイリー(↓)が図書館で船舶記録とともに目にした可能性が高い。その当時、積荷目録に商品価値があったかどうかはよくわからないが、連邦政府の作家プロジェクトなどを通して図書館に収められて今に残っているようである。

 「ルーツ」第1部の最初で、入港の準備、アフリカの西海岸での交渉、大西洋上の奴隷船(↓)、入港後の商会との交渉の場面で船長が登場している。会話した相手は、乗船前に説明を受けた船舶会社の所有者、準備段階と船上で色々質問した一等航海士、アフリカ海岸で交渉した奴隷捕獲人、入港後に報告した奴隷商会の代理人である。会話の端々から、当時の奴隷貿易に携わった奴隷船の一員として、船長が持っていた奴隷に対する見方が読み取れる。

 入港準備の場面では、船舶会社の所有者から奴隷船の構造図を見ながら解説を受けている。初めての奴隷船での航海で、戸惑った様子が窺える。一等航海士からは、鉄製のと手枷(かせ、wrist shackles)と首輪(neck rings)や焼きごて(branding irons)、木製の指締め(thumbscrews)などの説明も受けている。初めて見る折檻用の指締めを見て「実際に使ったことがあるか?」と一等航海士(↓)に質問をして確かめていた。予想外の道具に驚きを隠せなかったからだろう。

 初めてのことで戸惑うことも多かった。西アフリカの海岸の砂浜に張ったテントの中で交渉は行われたが、ラム酒を飲んで気合を入れるほど緊張していたようだ。値段の交渉をしようと話を切り出したが「競争相手が多いから、今は奴隷を集めるのも大変だ。先に人数を決めた方がいい。値段交渉はその後だ」と相手の奴隷狩りに急かされていた。

船上でも慣れないせいで寝つきが悪く、敬虔なクリスチャンの船長はこんなことをやっていいのかと寝苦しい夜が続いている。慰めにアフリカの少女を湯たんぽ代わり(a belly warmer)にと薦められているが「姦淫(かんいん)の罪だ!」(Fornication!)と最初は頑(かたく)なに断っていた。船上ではベテランの一等航海士にほとんど任せ切りだった。アフリカ人をどう見ていたのかは、船長と一等航海士の会話からおおよそが窺(うかが)える。次回は一等航海士になりそうである。