つれづれに

つれづれに:沈丁花2

小島けい画

 妻に描いてもらった沈丁花の絵は上の一枚だけである。本の装画やカレンダーの絵にも入っていない。

 10年ほど住んだ→「明石」の家の庭に大きな沈丁花の樹があり、→「宮崎へ」来てから住んだ→「借家に」は樹がなかったのが主な理由である。都会の住宅街と違って近くに大きな公園が二つもあり、周りに野原や田んぼが広がっていた。出版社の人から本の装画(→「装画第1号」、↓)を言われて妻が描き始めたとき、草花に困ることがなかったというのも大きかったと思う。

 最初は油絵を描いていたが、上から繰り返し塗る油絵は体力が要るので「どうしようか?」と二人で京都に絵を見にでかけた。寺の日本画を見て「こっちも体力が要りそう」と感じて、水彩に決めていた。しかし、特に→「花を描く」と決めていたわけではないが、宮崎では→「ほぼ初めての春の花」(→「春の花2」)が多かったし、プリントごっこでカードを作ったり、毎月のカレンダーを描いてもらったりしていたので、自然と花の絵を描くことが多かった。借家に沈丁花があったら、たくさん絵を描いて、カレンダーや本の装画にも使っていただろう。

京都ではいつも立ち寄る錦市場

 夏には→「葛」の花を、秋には→「通草」(小島けいblog)と→「烏瓜」の実を集めた。→「郁子(むべ)」の花を採って来るようになったのは高台の今の家に越して来てからである。春先に紫色の透明感のある郁子の花の群生(↓)を見つけたときは、感動した。蔓(つる)植物なので、電柱の上の方まで登っているのを見つけて電柱に登ったこともある。平和台公園では、池の上に延びている枝を伝って実を採ろうとしたとたんに、下の池に落ちてしまったこともある。どちらも次の年には切られてしまっていた。蔓植物の哀しい宿命だろう。

 妻が絵を描き、私がせっせと花や実を集めて、カレンダーや本の装画が残ることになった。大分の久住高原の画廊(↓)で→「個展」をしている時に頼まれた犬の絵がきっかけで、最近は犬や猫の絵を描くことが多い。個展の場所も大分から東京に移り、世田谷区祖師谷の「ルーマー」→Cafe &Gallery Roomerを会場に使わせてもらっている。一番傍で見ていて「人物画も特徴をとらえてなかなかなんやけどなあ」と実感するが、今のところ需要はない。宣伝していないからでもあるが。最近、家の近くで郁子の実を見つけ、「つれづれに」に→「郁子と通草」を書いた。

 妻のblogも拵えてもらって私が更新しているが、海外の人が毎日blogを見に来てくれているようなので、一部に英語の訳をつけたついでに、花一覧「花の世界」→「The World of Flowers 」を使って、すぐに載せている絵を確認できるようにした。その一覧を作りながら「沈丁花、入ってなかったんや」と、ふと気がついたのである。

つれづれに

つれづれに:沈丁花

小島けい画

 庭の沈丁花が盛りである。このかぐわしい匂いを感じると春が来たと思う。→「中朝霧丘」の家にいたときは南東の方角に、大きな沈丁花があって、毎年3月になると甘酸っぱい匂いを漂わせていた。結婚した当初は朝霧駅(↓)の近くの瀬戸内海が一望できるマンションに住んでいたが、娘が生まれてからは→「明石」の西の端に出来た新築の職員住宅に移った。

海側(南)から見た朝霧駅

 生まれた頃の娘はよく熱を出した。加湿器をたき、喉(のど)にいいからと眠気眼(まなこ)でとまとを布で越して飲ませる日が続いた。布で絞るのは結構力が要る。ミキサーとかを使えばよかったのかも知れないが、そのときの指の痛さがなんとなく残っている。気密性がいいのがよかったか悪かったのか、熱がなかなか下がらないので、ある日妻は「家に帰る」と言って、妻を亡くして一人暮らしをしていた父親の住む中朝霧の家に行った。ついていくしかなかったが、妻の父親は愛しい娘と孫と毎日暮らせるようになったのだから、結果的にはよかった。娘は変わらずつれなかったが、懐(なつ)いてくれる孫とずっといっしょに過ごせて、一気に若返った。その人が植えた沈丁花で、かなりの大きさに育っていた。その写真がないのが残念である。家は震災の被害を受けて、屋台骨がやられた。その時に更地にしておけば、費用がかからなかったらしいが、更地にしたのはずっと後のことである。

瀬戸大橋はまだなかったが‥‥

 宮崎で最初に住んだ借家では沈丁花とは縁はなかったが、高台の家に越して来てから、宮崎神宮(↓)の植木市で2本苗木を買って、玄関の階段の両脇の花壇に植えた。花が咲いて初めて色が白と臙脂(えんじ)だと知ったが、白の方はなぜか枯れてしまった。そのあと、花壇が窮屈になったので、敷地内の花壇に植え替えた。今満開なのはその花である。

 その頃は、旧の宮崎大学の→「非常勤」でいっしょだった人に頼まれて宮崎公立大(→「市立大学」)に非常勤に通っていたので、帰りに近くの宮崎神宮の植木市に寄って苗木を見つけた。木花駅から日南線で宮崎駅まで行き、駅の駐車場に置いていた自転車で公立大に行った。帰りに量販店に寄ったり、大学の少し北側にある餃子屋さん(↓)を見つけて買って帰っていた。神戸の人で、長いこと台湾に住んでいた女性が拵(こしら)えた餃子は、皮も具も私の好みにぴったりなので、今でも年に何回か買いに行っている。

 その時のように何気に自転車には乗れないが、電動自転車の力を借りて、何とか自力で買いに行っている。20数キロほどあって、1時間余りはかかる。その店が現在の自転車で行っている北限である。ちなみに、南限は内海(うちうみ)港の近くにある南風茶屋(↓)である。そちらは20キロほどで、1時間と少しかかる。

つれづれに

つれづれに:1860年

井伊直弼

 1860年が日米でも歴史の転換点で(→「日1860」、→「日本1860年」、→「米1860」、→「アメリカ1860年」)、その後の経緯を考えると大きな潮目だったことに気づいて、齧(かじ)ったことのある他の国の歴史についても考えてみた。1860年より少し遅れ気味ではあったが、その辺りがどの国にとっても大きな潮目だと確認できた。(→「南アフリカ1860」、→「南アフリカ1860年」、→「コンゴ1860」、→「コンゴ1860年」、→「ガーナ1860」、→「ジンバブエ1860」、→「ケニア1860」、→「ケニア1860年」

 アメリカは修士論文のテーマに選んだRichard Wright (1908-1960、↑)の小説で、南アフリカはAlex La Guma (1925-1985)の物語で、コンゴはエボラ出血熱関連で、ガーナはライトの訪問記で、ジンバブエは在外研究で、ケニアはグギさんの評論とエイズの小説の日本語訳で、必要に迫られて歴史を齧(かじ)ることになった。歴史を知らずに、とても文学は理解できなかったからである。文学のための文学は、絵空事に過ぎないと、ハラレで暮らして思い知った。

 ジンバブエの場合は、過去の歴史が今に直接繋(つな)がっている、と肌で感じた。現在とは無縁の遠い昔のことにように思えていたものが、はっきりと眼の前に広がって見えたからである。ジンバブエ大学での在外研究の名目で首都ハラレに住んだとき、白人街に一軒家(↓)を借りて、家族で3ケ月ほど暮らした。

スイス人から借りた500坪ほどの借家

 その家にガーデンボーイとして雇われていたショナ人のゲイリーとすぐに仲良くなり、帰国前にその人の子供たちが通う小学校を訪ね、そのあとゲイリーの家に行った。小学校では校長が授業をやめて、生徒による演技で(↓)歓迎してくれた。私たちはその村の最初の外国人だったそうである。

家では、両親や親戚一同と会うことができた。小学校でたくさん写真を撮ってフィルムが残り少なくなっていたが、向こうの広い丘の先祖のお墓を撮るように頼まれた。ゲイリーの話によれば、月額4000円ほどで雇われ、ボーイやメイド用の小部屋に寝泊まりして、家族と離れ離れの生活をしていた。小さい時に出稼ぎに出る父親に連れられてハラレに行き、そこの小学校に通ったそうである。ハラレ最大のスラム街ムバレに住み、父親は短期契約の仕事を転々とした。ゲイリーもまた、父親と同じ道を歩いた。1980年の独立戦争では村に帰る途中で腰の辺りを撃たれ、死にかけたという。独立しても、ゲイリーのような出稼ぎの短期労働者の賃金は上がらず、職も転々としている。日曜日ごとに聖歌隊で歌っていた教会で、ガーデンボーイの職を紹介されて、私たちと出会ったというわけである。村で会った父親は、年老いて出稼ぎの仕事がきつくなり、村に戻っていたのである。

両親の住居の前に親戚一同が勢ぞろい、左端が父親

 セシル・ローズ(↓)が私設の軍隊を引き連れて、ヨハネスブルグに次ぐ第2の金鉱脈を見つけにやって来たが、思わしい鉱脈が見つからなかった。代わりにそのまま居ついてしまい、アフリカ人から土地と家畜を奪って、自分の名前をつけた国まで作ってしまった。ゲイリーの祖父の代から、ヨーロッパ人移住者が居座って、搾取体制の中に組み入れられ、父親も、ゲイリーも同じように短期契約の賃金労働者として搾り取られてきたのである。もちろん、1980年に独立して同じショナ人のムガベ政権になってはいるが、大多数の人たちは搾り取られ続けている。

「アフリカシリーズ」から

 ジンバブエ大学に行ったのは1992年で、セシル・ローズが来てから102年後のことである。元白人の大学だったジンバブエ大学は、今では学生の90パーセントがアフリカ人だが、キャンパスではアフリカ人同士が英語で会話している場合が多かった。僅か100年で、侵略者の言葉が行き渡ったということである。3ケ月足らずと滞在期間は短かったが、遠い過去の話ではなかったハラレの現実を突きつけられて、その後長い間消化できないまま、今に至っている。

ジンバブエ大学のキャンパス

 日本が鎖国をしている間に、ヨーロッパでは大きな変化があった。産業中心の社会に変貌したのである。長い間続いた奴隷貿易による蓄積資本で産業革命が可能になり、経済規模が飛躍的に拡大したからである。金持ち層は奴隷貿易より利益の見込める植民地支配に舵(かじ)を切った。そこで求められたのは更なる生産のための安価な原材料と労働力、それに機械で作り出すようになった製品を売り捌(さば)くための市場で、アフリカの植民地争奪戦は激化した。植民地の取り分を決めるためにベルリンに集まったのが1884-85年である。1860年はそういった産業化の流れの真っ只中にあったわけで、黒船に脅され開国した日本も加わって、植民地支配がますます強化されて行く歴史の流れの世界的な潮目だったのである。

セシル・ローズが駐留したセシルズスクウェア近くのジャカランダ

つれづれに

つれづれに:ケニア1860年

 今回はケニアである。日本でもアメリカでも1860年が歴史の大きな潮目だったので、歴史を辿(たど)ったことのある他の国でも確認してみたら、やはりその辺りで大きな潮目があった。(→「日1860」、→「日本1860年」、→「米1860」、→「アメリカ1860年」、→「南アフリカ1860」、→「南アフリカ1860年」、→「コンゴ1860」、→「コンゴ1860年」

井伊直弼

 ケニアに関わるようになったのは、大学の職探しで世話になっていた先輩と、その先輩の紹介で会いその後世話になった出版社の人がグギさんの本の翻訳を続けていたからである。非常勤先ではグギさんの同郷の人といっしょだった。

グギ・ワ・ジオンゴ(小島けい画)

 →「アフリカシリーズ」では、イギリス人と闘った独立戦争の様子が取り上げられていた。イギリス人といっしょに闘った指導者のケニヤッタが自分の取り巻きと、独立後に日本やアメリカと手を握ってしまった話を聞いて「それはないやろ。ケニアも大変な国やったんや。ま、日本も負けとらんけど」と思った記憶がある。グギさんは反体制の象徴になって、国を追われてアメリカにいた。そのことについては英文で書いたことがある。(→“Ngugi wa Thiong’o, the writer in politics: his language choice and legacy”、2003)

ジョモ・ケニヤッタ

 そのあとは、出版社からグギさんの評論が送られて来て、日本語訳することになった。グギさんの書いたものについての評論と、韓国の反体制詩人の詩と、アフリカ系アメリカの文学の系譜についてだった。仕上げてはいたが、出版されなかった。なかなかきつい2年間だった。

『作家、その政治とのかかわり』(Writers in Politics

 医学生の英語の授業で一般教養と医療を繋ぐ工夫でエボラ出血熱を取り上げていたが、次に取り上げたのが当時世界的にも大きな問題になっていたエイズである。そこでは久しぶりに素敵な本に出遭った。「医学と文学の狭間から見た~」という文字を入れて交付された外部資金が、7年間使えた。その時に、今はないロンドンのアフリカブックセンターで購入したエイズ関連の本の1冊である。(→「エイズ問題の包括的な捉え方」、2010)

 立原正秋、ライト、ファーブルさんのライトの伝記、ポグルンドさんのソブクエの伝記を読んだ時と同じような感覚で、全体がすっと心に染みこんできた。ダウニングさんのその本の中に、ケニアにエイズ患者が出始めたころの小説が紹介してあった。その本も翻訳するように、出版社の人に薦められて、日本語訳をつけた。ケニアの本は、2冊とも出版されずじまいだが、この作品もやはり2年ほどかかった。日本語と英語と、文章の質を問われるきつい作業だった。

ワグムンダ・ゲテリア『ナイス・ピープル』

 最後の外部資金はアングロ・サクソン系の侵略の系譜をタイトルを入れて、4年分の研究費が交付された。ズームでシンポジウムをした際に、ケニアの歴史とエイズに関しての発表をした。(→「2021年11月Zoomシンポジウム最終報告」)申請書にシンポジウムの開催も含めていたが、コロナ騒動で普段通りのシンポジウムは組めなかった。しかし、意志とは関係なく始まったリモートでの授業に慣れたころだったので、ズームでの実施を思いつき、すんなりと開催できた。

ケニアの植民地化はベルリン会議(1884~85年)でのアフリカ分割が直接の原因で、アフリカ南部の権益確保に力を入れていたイギリス政府は民間の手を借り、1888年に帝国イギリス東アフリカ会社を設立し、アフリカ東部での勢力圏の拡大に努めた。ケニアは1895年に保護領となり、1920年に植民地になっている。その流れでは、1888年が大きな潮目だったようである。日英の潮目から28年後のことである。(→「ケニア1860」