つれづれに

つれづれに:旧暦のこと

 この前、「薊」(↓)を摘んで来て壺に投げ入れた。茎が空洞になっているので、水の減り方が早い。採る時もそうだが、生けるときも、あちこち棘(とげ)にやられて大変である。野に咲いているのに、摘んで持って帰る方がよくない。それでも、毎回持って帰ってくる。この浅ましさ、である。

 去年の10月に体調を崩し、年明けに生体組織検査もやって以来、どうも普段の調子に戻れないでいる。3月も終わり、4月に入って‥‥と思っているうちに、もう半ばを過ぎている。

その間も何とか小説だけは細々と書き続けていたが、4作目もやっと3分の2が終わったくらいである。最近の募集は30×40をA4に印刷して提出するのが多い。ウェブでの投稿が増えているようだ。A4に1200字だから昔風に言えば、1枚で400字詰め原稿用紙に3枚である。今回は130~140枚、原稿用紙400枚前後になりそうである。

一つの山を越えても、また次の山で、その都度滞っては時が熟すのを待って進む糸口が見つかり、また少しだけ進み始める、その繰り返しである。果てしなく続く。しかし、本来そういうものかも知れない。ただ、ラ・グーマのように、一つの作品が頭の中に出来上がると、あとはタイプライターに打つだけという人もいるようだから、人まちまちなんだろうと思う。しかし、その人たちのことを考えると、いつも「凡才やなあ」とは思うが、「そうなんやからしゃーない」と諦めることにしている。

少し前は、一つの山の最後に旧暦の話を挟もうとしてぐずぐずしていた。

「畑作業をしていると、旧暦が身近になった。24節気に使われる漢字に魅かれているからかも知れない」

絹鞘豌豆(きぬさやえんどう)

 そんな話を挟むのに言葉を探していたのである。そのために旧暦について調べることになった。もちろん、ブログにもよく書いていたので少しは調べてはいたが、今回はそれよりは詳しく、という感じだった。

今まで何気なく旧暦という言葉を使っていたが、その旧暦が終わって新暦に変わったのが明治6年、黒船に脅されて渋々開国したころの話である。改暦まで使われていた天保歴(てんぽうれき)が一般に言われている旧暦だそうである。それまでは、中国の宣明暦(せんみょうれき)をもとに毎年の暦が作られて、その暦法が平安時代から800年以上も使われていたと言う。江戸時代には天文学の知識が高まって4回も改暦が行われたらしい。その最後が天保歴というわけである。

月の満ち欠けを基にしていた暦が太陽の動きを基に作られた暦に変わったわけだから、国内は当然混乱したらしい。しかし、黒船(↓)に脅されて渋々開国した明治維新政府の西洋に追い付け、追い越せの政策の一環で、改暦も激変の一つとして人々も受け入れざるを得なかっただろう。名前も太陽暦(グレゴリオ暦)と呼ばれる。

 旧暦では1年を4つの季節に分け、それぞれを6つに分けて名前をつけた。それが24節気である。1節気は15日~16日で、春の最初の節気立春が1年の始まりだった。旧暦のひと月は29日半くらいで、1年では今より11日ほど短かく、ずれが大きくなると、閏(うるう)月というのを入れて修正していたらしい。実際には季節とのずれに不満を持つ人も多かったらしいし、旧暦よりも合理的で、欧米と足並みを揃えられるしという理由もあって、次第に定着して行ったようである。

旧暦は元々農業が基本の社会の暦である。開国後は国をあげて産業社会に走り出したので、社会との相性もよかったのかも知れない。畑作業をしているときに旧暦を身近に感じるのは、産業化が進み農業が基本の社会を忘れかけている自分の感覚をほんの少し取り戻すからかもしれない。

そんなことを書いた。

カレンダーはすでに4月(↓)。

「私の散歩道2023~犬・猫・ときどき馬~」4月

 散歩をしていると、あちこちにみかんの花(↓)の甘酸っぱい香りが漂って来る。今年もそんな季節になった。

つれづれに

つれづれに:さくら満開

「桜」(小島けい絵のブログ Forget Me Not)

 桜の季節になった。

きのう散歩の途中に高台の公園を通ったら、平日だったが何組かが満開の桜の下にシートを敷いて食事を楽しんでいた。今日も何組か見かけた。週末には、たくさんの家族ずれで公園も賑わうだろう。

いつも青島を確かめる場所にも桜が咲いている。この前写真を撮った時は蕾が固かったが‥‥。

たんぼでは田植えの作業が継続中である。超早場米に備えて、ほぼ田植えを終わっている。残っている分も、この週末には作業が終わるだろう。果樹園でおじいさんが丹精をこめて作った不揃いの果物を置いている百円コーナーからの帰り道に田植え作業の場面に出くわし、写真を撮った。

「米つくってみませんか?たんぼもトラクターもぜーんぶ貸しますよ。今はトラクターに乗ってるだけで、下にも下りずに作業が終わりますよ。最近、年寄りが多くなって、米をつくる人が減り、たんぼも機械も余ってますから‥‥」

物産展をしていたわたなべさんと仲良くなっていろいろしゃべるようになった。「友人に鶏糞を一杯もらったので、持って帰って下さいよ」と言われて、近くの畑に鶏糞をもらいに行ったとき、たまたま作業をしていた人とわたなべさんが仲良くしゃべっている横に座った。そのとき、話しかけられた。若かったら、たぶん「おもしろそうですねえ、ぜひ」と飛びついた気もするが「そうですねえ」と言ってやんわりと断った。しばらくわたなべさんの小学校の話を聞きながら、加江田の山に向かって3人で並んで座っていた。体調を崩して店をやめたが、わたなべさどうしてはるやろ?

最初に宮崎に来た1980年代の終わりに初めてこの時期の田植えを見て驚いたが、ずいぶんと見慣れた。去年の秋に会って食事した人は鹿児島から来ていたが、鹿児島では超早場米用の田植えはないと言っていた。「つれづれに」→2017/03/13「 田植えが始まりました。」

春は花が多彩である。桜のむこうに木蓮が咲いていた。白木蓮は終わって、紫木蓮が盛りだ。あちこちに咲いている。→「木蓮」(Forget Me Not)

躑躅(つつじ)も真っ盛りである。眩しいくらいだ。妻が表紙を描いているときに、演劇の本の表紙絵に躑躅を頼まれた。冬場で季節外れだったが、探し回ったら、ぽつぽつ花が咲いているのに気がついた。表紙絵には役に立たなかったが‥‥→正木邦彦『グッバイ、ネバーランド』(Forget Me Not)

ほぼ普段通りの生活が出来るようになった。ありがたいことである。畑の勢いが夏野菜向けである。食べて、寝て、歩いて、その空いた時間に畑に出て、4作目の小説を書いている。そんな感じで毎日が過ぎていく。充分に有難い。

つれづれに

つれづれに:畑を再開しました

「私の散歩道2023~犬・猫・ときどき馬~」3月

 組織検査のあと入院に近い状態が続いている間に、すっかり春になったようである。カレンダーも3月である。

3日前に畑を再開して、大根とブロッコリーを植え替えた。普段この時期に植え替えはしないので、うまく行かないかも知れない。植え替えていないブロッコリーも大きくなっている。まだ20本以上もある。

 虫にやられるし、植え替えても去年は黄色くなって結局食べられなかったが‥‥。ただ、今年は畑が出来なかった時間が長かったので、夏野菜のオクラと胡瓜の種を蒔き、瓢箪南瓜の柵の準備も併行してやっている。近いうちに茄子ととまとの種を買って来て、蒔こうと思う。それと、今年初めてだが、去年食べた西瓜の種を取っているので、それも蒔いてみようと思っている。甘くない西瓜は食べる気がしないので、肥料も準備しておいしいのが穫れるといいが。瓢箪南瓜を登らせる柵の下の地面に西瓜を這わせるつもりだが、そんなにうまくいくかどうか。ま、一度やってみるつもりだ。

畑をすると、旧暦が身近になる。旧暦を意識するのは久しぶりである。なんでもない日常がありがたい。普段通りに日常を送れない間に、小雪(11月22日)、 大雪(12月7日)、冬至(12月22日)、 小寒(1月5日)、 大寒(1月20日)、立春(2月4日)、雨水(2月19日)が終わり、啓蟄(3月5日)も過ぎてしまった。次は 春分(3月21日)である。

啓蟄(けいちつ)は「土中で冬ごもりをしていた生き物たちが目覚める頃のこと」だそうで、そろそろ冬野菜が虫にやられ始めている。大根にもしろい花が咲き始めた。

 北側に植えているので、沈丁花はなかなか大きくならないが、満開でいい香りの盛りも過ぎてしまったようである。南側に植えたかったが、畑と紫陽花や日向夏や他の花で空間に余裕がなく北側になってしまった。

 今年初めて散歩の途中で気づいたのだが、黄色い花に勢いがあった。春先、黄色い花で検索をかけて調べようとしていたら、ウェブのページに写真入りで「ミモザ ふんわりとした黄色の花を咲かせ見頃を迎えたミモザ=7日午前10時50分、佐野市黒袴町(下野新聞SOON)」と解説があった。ミモザは名前は聞いたことがあったが「この花の名前やったんや」と納得した。写真は撮り方が悪かったのか、あまり鮮明ではないが、実際は鮮やかで勢いがあった。樹はよく通る道筋にあったのに、今年初めて気づくとは。「だいぶ大きな樹なのに‥‥」、そんなことを思いながら、見上げてシャッターを切った。

 白木蓮もあちこちで咲いている。去年の鮮やかな花を思い出してカメラを持って行ったのだが、すでに盛りを過ぎていた。それで、去年と同じ写真(↓)である。来年は盛りに間に合うように、カメラを持っていければいいのだが。→「木蓮」

 落ちた蜜柑を拾って来て、二つ切りにして南側の金木犀の垣根の枝にさしておくと、鳥さんたちが来てくれる。畑に降りるときもある。猫が窓辺で興奮気味にじっと見つめる。大きなブロッコリーの葉っぱも好きなようだ。「虫に葉がやられた」ではなく「鳥にやられた」である。それでも、影響なく収穫してすでに食べてしまっている。鳥の写真は撮るのが難しい。気配を消して待つ必要があるからだ。今年はとてもそんな余裕はなかった。窓から「また来てくれてるなあ」と猫といっしょに眺めていた。気配を消してじっと待ち、何年か前に撮れた写真(↓)である。近くにいても逃げないで、撮らせてくれた。版権についての文句は出なかったように思う。

 豌豆の白い花が緑に映える。もうすぐ絹さやが収穫出来そうである。

 去年採ったオクラの種と、買って来て蒔けずに置いたままだった胡瓜の種を蒔いた。うまく芽を出してくれればいいが。どちらも芽が少し大きくなった頃に植え替えるつもりである。直播で充分だが、今年は肥料を入れる余裕がなかったので、少しの間の時間稼ぎである。

日常を普段通り過ごせるのは何よりである。七部くらいは、元に戻ったようである。

つれづれに

つれづれに:日常を少しずつ

白浜海岸

 昨日は雨だったが、今日は朝からきれいに晴れている。日常を少しずつ戻したい。昨日は組織検査の前から行けていなかった白浜で、マッサージをしてもらった。それまでの日常が無事に送れていた何割かは、そのマッサージのおかげである。宮崎で指まできっちりと入れて揉んでもらえるのは、奇跡に近い。長いこと2週間に1度のペースで通っていたが、去年から週に1度のペースにした。検査の話が出てからはしばらく通えないと思っていたが、車で送迎してもらって、今は週2回のペースである。マッサージのあと、鍼と電気の灸をしてもらっている。あと3ケ月程はこのペースを続けようと思う。

 今日は散歩に出かけた。これもずいぶんと久しぶりである。加江田の山(↑)は春の陽射しを浴びてかすみ気味だった。高台の公園には階段を使わずに、なだらかな坂を登って行った。公園では久しぶりに遠くに青島(↓)を望む景色も眺めた。桜が花を咲かせる準備をしている。桜の頃には、満開の樹の下に敷物を敷いて夜桜を楽しむ家族もいるし、昼に弁当を広げて楽しむ家族もいる。もうすぐその季節がやってくる。

 最近は墓の横の道ではなく、公園の東端の舗道を通って散歩コースを歩くことが多い。今日も公園から少し進んだ道の最初の角を右に曲がって木花神社(↓)の前の坂道を下って大通りに出て、踏切前の農産物に行こうと考えて歩いていた。突然、その最初の曲がり角で転んでしまった。

 最近娘が送ってくれた山専用のmont bellのオーバーズボン(↓、上から撮影)が少し破れてしまった。いつものところなので下を見ずに曲がろうとしたら、ブロック塀が切れる辺りで急に下の感じが変わって前のめりに崩れてしまったのである。幸い捻挫とかもなく、そのまま散歩は続けられたが、少し痛みは残ったままである。久しぶりの散歩でふら付いたということだろう。

 それからは、休み休みに進んだ。いつもは目に入って来ないバス停の前のベンチ(↓)で、しばらく休んだ。こういう形で役に立つこともあるようである。

 農産物店で買い物は済ませたが、普段はいない若い人が何組か東の方に歩いていた。何個所かの駐車場(↓)では警備員が何人か立っていて、無断駐車をする人を見張っているようだった。

 いつもは車が止まっていない駐車場(↓)も一杯で、団体が借りたと思われる小型バスも停まっていた。すぐ近くで野球の試合があるので、ざわついているようだ。大通りの突き当りを右折して少し行けば、球場である

 イチローという野球選手が宮崎観光ホテル(↓)に泊まったとき、ちょうど外国からの招待客があって、普段は泊ってもらえる観光ホテルが取れなくて、ビジネスホテルに案内した。その時は「迷惑なこっちゃな‥‥」と腹が立った。道路も車が多くて自転車でも横断し難い所があって、余計に腹が立った。今回は前回に学び、無料駐車場に3000円の料金をかけたそうである。おかげで前回のような渋滞はないような話を聞いた。

 帰りに、小振りの藪椿の枝を切って持って帰った。ちょうど誰の家のものでもない樹が散歩道にはたくさんあって、その樹の一本から拝借したものである。夏は葛に覆われて(↓)花が咲かないのではないかと心配したが、奥の方で辛うじて蕾をつけていた。しばらくは椿の季節が続く。

紀伊国屋、旭屋、東急ハンズなどで販売された「私の散歩道2009~犬・猫・ときどき馬~」表紙