つれづれに

つれづれに:かき顛末記

 「のど顛末記」の続き、「かき顛末記」である。今回「日常」が乱れたのは喉をやられたのが直接の原因だが、1)干し柿の作業、2)ボイラーの故障、3)原稿の推敲、4)ブログの更新、5)畑仕事、6)妻の個展の準備が一定期間重なって、寝不足と運動不足になったことが遠因である。今後のこともあるので、確認しておきたい。今回は1)干し柿の作業についての「かき顛末記」である。

①今年の「つれづれに」と、②干し柿を始めてからの過去の「つれづれに」と、③西条柿、の3回に分けて書くことにした。

①今年の「つれづれに」

今年は生り年でたくさんの実がなった。500個近く生ったのではないか?去年が7個で、干し柿になったのは6個だった。生り年は隔年のようだ。一昨年は、採り入れて、へたを取り、洗って、剥いて、消毒して陽に干す作業がずいぶんと億劫になっていたが、去年ほとんど実が生らなかったせいか、多くても干し柿を拵えようという思いに傾いていた。小説の修作のつもりで「つれづれに」を書いているので、10月も毎日書いていた。その中に、柿の作業状況を書いた。写真も撮って載せた。「つれづれに」によると、10月18日に作業を始めている。11月2日の「日常」に書いたのが最後で、体調を崩して少し持ち直したときに、採って残っていた最後の柿を剥いて干した。それが11月10日だから、ずいぶんと引き摺っていたわけである。樹から採り入れたあと体調を崩して作業が出来ない間に、熟し過ぎて干せなくなった実を70個前後は畑に戻した。最終的に剥いて干したのは306個だった。以下が「つれづれに」に書いた内容である。

10/19→「畑も始めたが」

2022/10/18現在合計30個、作業継続中

 柿もそろそろ色付き始めた。今年は生り年で500個近くなったが、すでに風で落ちたり、変に熟して落ちてしまったりしたのが50個ほどはある。それでも結構な数の実が残っている。熟したのを剥いて干してはみたが、重さに耐えかねて枝の根元が千切れてぼとりと何個かが落ちてしまった。それでも何とか15個(↑)がもうすぐ食べられそうである。今朝新たに17個をとりこんで、剥いて干した。2個がじゅくじゅくで干せなかったが、15個(↓)は無事にぶら下がっている。これで30個である。

今からが干し柿の本番である。最終的に干しあがるのが何個になるか、数でも数えておかないと‥‥、作業が嫌で煩わしいというわけではないが、どうやらそんな流れになっている。幸い晴れの過ごし易い寒露特有の天気が続く。

前の写真、今は少し色付きかけている

 10/22→日1860」

 柿(↑、↓熟す前)が一気に色付いてきた。短い期間に作業をしないと実が崩れる可能性はあるが、先ずは5つずつである。先は長い。ずいぶんと気温も下がってきたし、雨が降らないでいてくれそうなので、何とか干し柿が出来そうである。生り年につき、お裾分けも充分、連絡があればいつでも送付可である。今年は暑さのせいか、熟し方がおかしいので、剥く時にぐちゃぐちゃになったり、吊(つ)るすための枝の支えの部分が重さで耐えられなくて落ちてしまう柿が50個ほどあった。それに比べて、今から取り込むのは例年通りの熟し方で、剥く作業も例年通りで、助かる。タスカルの原理である。

10/23→「南アフリカ1860」

 色付いてきた柿を昨日は夕方までの第1弾で35個、夜に第2弾で21個、合計56個剥いた。既に出来ていた15個と出来かけの15個を足すと86個まで行ったわけである。最初の15個は取り入れ、きれいに洗って熱湯消毒して拭いた。一部は大根とのなますになっている。「サラダ感覚で食べてね」「細かく千切ってヨーグルトに入れて食べたよ」と妻は言っていた。糖分を一定分しか摂れないのでたくさんは食べられないが、大事に食べようとしてくれている。「手間がかかってるからね‥‥」と言っていた。作業はまだ続く。

10/27→「ボイラー」

柿が色付いているのに、なかなか思うように剥いて陽に干せないでいる。一昨日15個を剥いてやっと116個(↓)になった。まだ200ほどありそうなので、熟しすぎて落ちてしまうまでに終われるかどうかは怪しい。

2022/10/25現在合計116個、作業継続中

 10/30→「『つれづれに』」

「つれづれに」を小説の修作に使うことになって毎日書いてはいるが、時たま書けない日がある(中略)もう一つの理由は干し柿である。生り年で300個~400個もなったようで、風で落ちたり、早熟で干しても落ちてしまったりして100個近くは干し柿にはならないが、それでも300個ほどはある。枝から採って、へたの部分を切って洗い、剥いて、消毒して吊るす、それだけの作業だが、なかなかの手間である。妻は「手作りやから、大事にしないとね」と言ってくれるが「足では作られへんもんな」と、毎回同じことを繰り返す。一生変わりそうにない。口が反射的に動く。「手作り」という言葉自体に違和感を感じるからなのか?「なんでもかんでも手作りをつけんでもええやろ」とでも言いたいのか?

昨日30個剥いて、やっと146個になった。最初の10個ほどはすでに大根なますになって、2回目の分がほぼなくなりかけである。こちらは吉祥寺の娘に甘酒と一緒に、第一号を送ることができた。50個ほどは完成まじかである。今日も今から昨日の晩に取りこんで、へたの部分まで作業が済んでいる30個を剥こうとしているところである。今日中に200個まで行ければと思ってはいるが‥‥。

2022/10/29現在合計146個、作業継続中

 10/31→「コンゴ1860」

苗を植えた7年後に生った唯一の柿(小島けい画)

 土日で65個を剥いて累計がやっと201個になった。すでに食べてなくなった分や出来上がったもの以外半分ほどを外に干している。今日は生憎曇り空で、太陽の恩恵は余りない。あしたは雨になっても夜には上がりそうだから、夜から作業の再開である。昨日の夕方に取り込んだのが50個足らずあって、まだ100個ほどが樹に生ったままである。何個か鳥が啄ばんでいるので、採るのも気が引ける。実を採ったあと落ちた葉を集め回らなくていいように、樹から葉を落としておくか?

2022/10/31現在合計201個、作業継続中

 11/2→「日常」

昨日は雨で柿も小休止だった。また再開である。陽が照っていないが、向こう1週間は雨マークがないので、無事に干し柿は出来そうである。数が多いので、干してある分を2階のベランダまで運んだ。途中で2個が落ちてしまい、へたの部分が千切れてしまった。生乾きの柿は充分に重い。運ぶのも一仕事である。下の場所は確保したので、またせっせと剥いて、消毒して、干すだけである。長男が「おれ干し柿大好きやでえ」と妻に電話で言ったらしい。「送ったろ」と、妻は決めたようだ。干し柿づくりを再開したので、今の家に来てからだから、宮崎に来てからいっしょに借家に住んでいた時は干し柿を作っていなかった。だから、長男が好きだと知らなかったわけである。

2階に移動した柿

 放っておくと「息をするのも面倒くさい」とため息をつくのに、「食べ物が薬だ」と思って努めて野菜を食べ、わざわざ拵えて甘酒を飲み、発酵食品を欠かさない。妻の個展の案内の返事の中に、病気の知らせが多い。身近な人がなくなった知らせもある。大変そうな人が多い。特に配偶者や親が癌になっている人は、ほんとうに大変そうである。もちろん私より上の世代の人では、連れ合いが自分を忘れてしまっている人もいる。「妻が老人ホームに入り丸一年が経ちました。半分は認知、半分は?面会に行ってもすぐ判ってもらえないのが寂しいです。他人ごとではない己こそ‥‥迷惑をかけないよう気をつけます」という90を越えた人の便りは、重い。日常が過ぎていく。

2022/11/1現在合計201個、作業継続中

 追伸:降らないと思っていた雨が降り出した。慌てて2階の分を部屋の中に入れたが、一本がどさっと落ちてしまった。3個が駄目になって、3個が支えの枝が折れている。雨に濡れたままだと、黒ずんでしまう可能性があるから、ドライヤーで乾かす作業が増えた。「向こう1週間は雨マークがないので、無事に干し柿は出来そうである」と書いた矢先だ。なんでもありである。

今の家に来てから暫くした頃、北側の花壇に柿の苗を植えた。桃栗三年柿八年と言われるが、その柿は七年目に一つだけ実をつけた。大ぶりの渋柿だった。二年目に三つ、三年目に十七個、それから百個近くと数が増えて行き、最近は実を数えなくなっている。たくさん生った次の年は実の数が格段に少ない。一年おきに生り年が来るようである。一昨年は二百個近くも実をつけた生り年だったが、去年は七個しか生らなかった。今年は300個くらいが実をつけていて、既に大きくなり始めている。このまま台風にやられなければ、干し柿作りの作業に追われそうである。

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すでにお裾分けもして、50個ほどが残っているだけである。一つ一つラップをして冷凍しておけば、長期保存が可能らしいので、今年から黴をはやさなくて済みそうである。これだけの作業だったので、体調を崩した遠因の一つになったのも無理はない。

来年何個生るのかはわからないが、当たり前のように柿を剥ける「日常」も有難いことの一つである。体調を崩して日常が乱れると、尚のことその思いは強くなるようだ。

つれづれに

つれづれに:のど顛末記

 12月になり、今年もあとひと月になった。→「私の散歩道2022~犬・猫・ときどき馬」

 「つれづれに」の再開である。

「つれづれに」に「日常」(11月2日) を書いたあと、日常がいつも通りではなくなった。病気になったり、事故に遭ったりすると、当たり前の日常が必ずしも当たり前ではないと思い知るとよく言われるが、日常の有難さを充分に感じながら生きるようになっている。それでも、日常が乱れることがある。今回の直接の原因はのどだった。

「日常」を書いたあとに載せるつもで撮った白浜帰りの青島海岸、その日は波が高かった

 いつもの白浜のマッサージから帰った次の日くらいに、右側の喉の奥に少し違和感を覚えた。一年か二年に一回くらいは喉をやられていたが、最近はやられていなかったので、まずまずの調子だったということか。違和感を感じたら、出来るだけ早めにうがいをして熱いものを飲んで寝るようにすると炎症を起こすまで行かないで収まることもある。炎症まで行くと、あとは痰にからまって元に戻るまでしばらくかかる。今回は違和感を感じたのが週末だったので、いつもの対処法をいろいろやってから、週明けの月曜日にいつも世話になるクリニックに行った。聴診器を当てたり、喉を見たり、いつものように診察してもらったあと4日分の薬の処方箋を書いてくれた。

「抗生物質ですか?」

「抗生物質じゃないですよ」

木曜日までの薬をもらって帰った。出来るだけ寝る時間を取って薬も飲んだが、あまりすっきりしなかった。無理をしたら行けないほどではなかったが、金曜日の白浜のマッサージは取り敢えずキャンセルの電話を入れた。

炎症箇所が右から真ん中辺りに移動したがいつものように痰にからまないし、寝ている時に咳も出て少し苦しい時もあった。夜中に起きてトイレに行くときに、少しふらつくような感じも続いた。ふらつく感じは半時間ほどゆっくりと平地を歩くと収まった。日曜日も同じような状態だったので、月曜日に再びクリニックに行った。少し薬をかえて4日間の処方箋を出してくれた。健康診断を2年してなかったからか「血液検査をしときましょうか?」と言われ、別室で看護師さんが採血をしてくれた。終わってから待ち合わせ室で座っている時に、院長さんが前を通りながら「前立腺癌の検査も加えておきましたよ。念のために」と声をかけてくれた。

新ボイラー、旧ボイラー、旧ボイラー撤去跡

 普段ならやられないのにその時に喉をやられたのは、免疫力が落ちていて菌に対抗できなかったということだろう。原因は思い当たる。干し柿の作業(↓)が続いていたこと、ボイラー(↑)がやられて1週間ガスコンロで沸かしたお湯を湯船に運んだこと、3月末締め切りの本のチェックに時間がかかったことなどである。パソコンの前に座る時間が多く、運動も足りてなかったし、少し始めていた畑の力仕事も原因である。パソコンの前に座る時間の中には二つのブログの更新と「つれづれに」を毎日書く時間も含まれる。これからのこともあるので、少し詳しく確かめてみる必要がありそうである。(続く)

干し作業の途中、鳥さん用に5個を残して実を採ったあと

つれづれに

つれづれに:日常

苗を植えた7年後に生った唯一の柿(小島けい画)

 昨日の朝は早くから近くの農産物直売所に行った。起き抜けの八時半過ぎである。お昼近くに行くと、品物がない。みんなよく知っていて、目当ての品を朝早くに買いに行く。八時半から開いてる。夜型の人間には大変だ。とまとが切れそうなのと、次の甘酒用の米麹が要った。とまとはずっと高い。台風のあとは更に高かった。少し落ち着き始めたようだが、お昼頃に行くと僅かしか残っていない。もちろん他にも店があるが、さらに高い。

 宮崎の麹(↑)は安い。40年以上前に明石で米麹を買い始めた時は一枚が900円ほどしていた。木枠に囲まれた洗濯板のような板(↓)の上に延ばされた真っ白な一合が900円だった。そのあと宮崎に来る直前にはたぶん1100円か1300円していたと思う。それが宮崎では2000年過ぎに310円だった。恐れ入った。店に行くようになって仲良くなった夫婦がサンマリーン球場へ行く道に直売店を出していて、清武の味噌やが作る麹を置いているのを買っていたのである。何年か前に値上げをしても450円ほど、これほど都会と価格の違いがあるのも珍しい。その直売店も店主が病気で今はないので、売られている場所を探して買うようになっていた。清武役場の隣の四季の夢という直売店にあった。しかし、大学に行かなくなってから、清武も遠くなって、少し高いが近くの直売店で別の米麹を買うようになったわけである。甕に3合の炊いた米と米麹を重ねて作る。混ぜる手間はいるが、麹菌がいい塩梅に加減してくれる。飲む点滴、らしい。昨日は5袋しかなかったので、また一つを買いに行く必要がある。

江戸創業の明石の麹屋京作の米麹

 とまとと麹の他に大根を2本買った。1本120円で、最近では一番安かった。柿なますと野菜スープに使っているが、最近は毎日私が大根おろしにちりめんじゃこをかけて食べるようになっていて、すぐになくなってしまう。台風のあとは品物そのものがなくなっていたが、少し出回り始めた。畑でも芽を出したあと、順調に大きくなっている。(↓)11月に入ったので、たぶん虫の心配も要らないだろう。ただ春先になって薹が立ち花が咲いてしまうと、鬆(す)が入ってしまって食べられない。実際は食べられるが、まずいので食べない。大根はサイクルが短い冬野菜である。作ると頃合いが難しいとわかる。しかも、でき始めると一斉である。しかし基本的には作りやすい方だろう。

昨日は雨で柿も小休止だった。また再開である。陽が照っていないが、向こう1週間は雨マークがないので、無事に干し柿は出来そうである。数が多いので、干してある分を2階のベランダまで運んだ。途中で2個が落ちてしまい、へたの部分が千切れてしまった。生乾きの柿は充分に重い。運ぶのも一仕事である。下の場所は確保したので、またせっせと剥いて、消毒して、干すだけである。長男が「おれ干し柿大好きやでえ」と妻に電話で言ったらしい。「送ったろ」と、妻は決めたようだ。干し柿づくりを再開したので、今の家に来てからだから、宮崎に来てからいっしょに借家に住んでいた時は干し柿を作っていなかった。だから、長男が好きだと知らなかったわけである。

2階に移動した柿

 放っておくと「息をするのも面倒くさい」とため息をつくのに、「食べ物が薬だ」と思って努めて野菜を食べ、わざわざ拵えて甘酒を飲み、発酵食品を欠かさない。妻の個展の案内の返事の中に、病気の知らせが多い。身近な人がなくなった知らせもある。大変そうな人が多い。特に配偶者や親が癌になっている人は、ほんとうに大変そうである。もちろん私より上の世代の人では、連れ合いが自分を忘れてしまっている人もいる。「妻が老人ホームに入り丸一年が経ちました。半分は認知、半分は?面会に行ってもすぐ判ってもらえないのが寂しいです。他人ごとではない己こそ‥‥迷惑をかけないよう気をつけます」という90を越えた人の便りは、重い。日常が過ぎていく。

2022/11/1現在合計201個、作業継続中

追伸:降らないと思っていた雨が降り出した。慌てて2階の分を部屋の中に入れたが、一本がどさっと落ちてしまった。3個が駄目になって、3個が支えの枝が折れている。雨に濡れたままだと、黒ずんでしまう可能性があるから、ドライヤーで乾かす作業が増えた。「向こう1週間は雨マークがないので、無事に干し柿は出来そうである」と書いた矢先だ。なんでもありである。

つれづれに

つれづれに:ケニア1860

 今日から11月で、今年の11月のカレンダー(↓)である。(→「私の散歩道2022~犬・猫・ときどき馬」)今年もあと2ヶ月となった。一日も早く柿を剥き終えて、冬野菜を植え替えたいものである。

 「米1860」「日1860」「南アフリカ1860」「ジンバブエ1860」「ガーナ1860」、→「コンゴ1860」の次は「ケニア1860」で、これが1860シリーズの最後である。悔しいかな、これ以上は蓄えがない。歴史に関心があったわけではないし、外国の文学に興味があったわけではないが、小説を書くには大学がよさそうと考えて職を探すのに大学院に行き、修士論文を書いたのが始まりである。さほど関心もなかったのによくもまあこれだけの国の歴史を辿ったものだとも言えなくもないが、絞り出してもこれだけかと言う諦めもある。

グギ・ワ・ジオンゴ(小島けい画)

 ケニアの始まりは、大阪工大の教授をしていた先輩から紹介された出版社の社長さんである。グギさん(↑))とえらく気が合ったと言うか気に入ったと言うか、グギさんの小説の日本語訳の出版を続け、ケニアまで会いに行っている。すごいものである。紹介されて横浜で会い、しばらくたってから医科大に決まった。そのあと、言われるままに雑誌用の記事を引き続き書き、大学用の編註書や日本語訳を次から次と言われて、断れないままやっていたら、やっぱりグギさんの『作家、その政治とのかかわり』(↓、Writers in Politics)の日本語訳を言われた。

 すでにラ・グーマの日本語訳を言われて本も出ていたので、1冊の日本語訳にかかる労力と時間もわかる。「この本の日本語訳を‥‥」と本を送り届けられても、「はいはい」とすぐにできるわけではない。最低でも、丸々2年はかかる。それにこの本は評論で、国際会議で読んだ論文を集めている。内容が多岐に渡りすぎる。ケニアの政治と演劇、アフリカ系アメリカの反体制の歴史、韓国の詩人金芝河(↓、キム・ジハ)の詩と反体制活動の三つである。アフリカ系アメリカの歴史以外は、まったく知らない。歴史からである。「どないすんねん」(→「アングロ・サクソン侵略の系譜の中のケニアの歴史」、→「アングロ・サクソン侵略の系譜の中の金芝河さんのこと」 )

 しかし、哀しいかな、読んでみると、反体制の数々、痛いほどわかる。「しゃーない、するしかないか」先ずはケニアの歴史と韓国の歴史からである。手に余るが、嘆いていても終わらない。どちらもぼんやり全体像を掴むだけでも、時間がかかった。歴史をしっかりと理解してからでは何年かかるかわからない、日本語訳と併行して進めるしかない。ほぼ2年、何とか訳し終えたが、出版の目途は立たない‥‥。本を出すのに200万か300万はかかるから、いつかは出せるが‥‥らしい。社長さんがなくなってもう何年かになるが、もちろん原稿はそのままである。他にケニアのエイズの小説『ナイスピープル』(↓)も日本語訳を言われた。また1冊をする気がどうして起きず、辛うじて人の手を借りて訳し終えたが、未出版である。こちらは、だいぶお金もは払った。

 で、ケニアの歴史である。大英帝国の野望にケニアも巻き込まれた。インドへの要衝地を植民地争奪戦の競争相手のフランスに手渡す訳にはいかないとイギリスは南アフリカのケープ地方に1795年に大軍を送った。ケープを領有していたオランダの入植者がいるのを承知の上である。1806年にケープ植民地を発足させた。ケープ植民地相を歴任したセシル・ローズ(↓)はケープと東海岸からエイジプトに至る縦の大英帝国を夢見たと言われる。ジンバブエはその手始め、国の名前に自分の名前を使ってローデシアと名づけた。その首都に家を借りて、家族で住んだ。

ケープ植民地相だったセシル・ローズ(「アフリカシリーズ」から)

 ケニアの植民地化はベルリン会議(1884年から1885年)でのアフリカ分割が直接的原因である。1886年8月、後のタンザニアに艦隊を差し向けたドイツ帝国に対して、支援要請を受けたイギリスも東アフリカに介入した。フランスを交えた三カ国の協議の結果、東アフリカに分割線が引かれ、境界線の南の現在のタンザニアに当たる部分をドイツが、北の現在のケニアに当たる部分をイギリスが取ることになった。

 当時アフリカ大陸南部の権益確保に力を注いでいたイギリス政府は余裕がなく民間の手を借りた。英領インド汽船会社は、モンバサ港周辺にイギリスが持っていた商業利権をもとに、1888年に勅許会社の帝国イギリス東アフリカ会社を設立し、アフリカ東部でのイギリス勢力圏の建設を始めた。1895年に現在のケニアに相当する部分が保護領となり、1920年に直轄のケニア植民地になるまで続いた。その経緯を見ると、1888年が歴史の流れが変わった潮目だったようである。日英の潮目から28年後のことである。

ケニア東海岸の港町モンバサ

 2021年11月27日(土)にZoomシンポジウム「アングロ・サクソン侵略の系譜―アフリカとエイズ」をしたとき、エイズの話の前にバズル・デヴィドスンの「アフリカ・シリーズ」を軸に、ケニアの歴史を辿った。その中で、ジョモ・ケニアッタの独裁政権と対峙したグギさんと『作家、その政治とのかかわり』(Writers in Politics)の中に紹介されている金芝河さんの詩の日本語訳を紹介した。(→「2021年11月Zoomシンポジウム最終報告」