続モンド通信・モンド通信

1 私の絵画館:「チェリーちゃん・ハッピーちゃんとチューリップ」(小島けい)

2 アングロ・サクソン侵略の系譜4:リチャード・ライト死後25周年シンポジウム (玉田吉行)

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1 私の絵画館:「チェリーちゃん・ハッピーちゃんとチューリップ」(小島けい)

昨年の春頃に書いた文章に、<上質なタオルの生産地として注目されていた愛媛県の今治市ですが、最近では全く違う理由で、えらく有名になってしましました>とあります。確かに1年前はそうだった・・・・と思い出します。けれど新しい大学も出来てしまうと、もうはやニュースにとりあげられることはなくなりました。
あの今治も落ち着いたのかなあと、以前短い間ですが、住んでいた私は、小さい城跡なんぞを思い出しています。
父は明治の終わり頃に生まれた人で、すでに何十年も前に亡くなりましたが、紡績の技術者でした。今からふり返れば、父が紡績の仕事にたずさわっていた時期は、日本の紡績が栄えていた時代とほぼ重なり、そういう点では、とても幸運だったのかもしれません。
当時は日本の各地に工場があり、両親は転勤で何十回も引っ越しをしたと聞きました。
しばらく前、何人かでの食事会の時、<私は小さい頃ずっと塀の中で暮らしていたから・・・・>と話をしたら<どういうこと?!>と回りの人たちから、びっくりして聞き返されましたが。
この場合の<へい>は板べいで、決して映画に出てくるようなコンクリートの頑丈な塀のことではありません。
実は、各工場には必ず社宅があり、それらが高い板塀で囲われていた記憶があるのです。私は小学校6年生の3学期に西宮から今治に引っ越しました。私たちが入った社宅は、美しい浜辺と道路一本をへだてた場所にありました。そのため500坪以上あったと思われる敷地の半分程は砂浜そのままで、昔からはえている巨大な松たちが、大きな枝をあちこちに延ばしていました。
奥の方には、当時としてはまだ珍しいテニスコートがあり、その横が祖母が耕すには広すぎる畑でした。
実際に生活をする家の前方には、日本庭園が造られており、池には鯉が泳いだりしていましたが。この家で珍しかったのは、玄関の間を入るとすぐ横に、小さな窓の3畳の部屋があったことです。私たちには必要ありませんでしたが、昔でいう女中部屋、今でいうなら住み込みのお手伝いさん用の部屋があったのです。
そしてもう一つは、広い廊下の片側にトイレが三つ並んでいたことです。
昔ですので、男性用女性用の二つはあたりまえですが、女性用がもう一つというのは何だったのか。一つはお客様用としてなのか、今考えてもよくわからないままです。
当時、工場長の社宅はおおよそ500坪くらいが普通だったらしいというのは、次に明石へ引っ越してみて見当がつきました。
ただ、各工場によりこだわった部分は異なるようで、明石の家には<電話室>がありました。いわゆる木で作られた電話ボックスが、玄関の間の次にドンとあったのです。
まだ電話そのものにも慣れていなかった私は、お友だちにかける時も、緊張してドキドキしながら電話室のドアをあけたものでした。
明石の家は今治より少し後の時代に作られたのか、南側の庭は日本庭園ではなく、バドミントンがのびのびできるくらいの一面の芝生でした。
父は、この明石の工場を最後に退職しましたが、それからまもなく、今治も明石も、工場が閉鎖されたと聞きました。
私が住んでいた少し時代後れのような社宅も、今では跡かたもなく、なくなってしまいました。

この絵のモデルは、ポメラニアンこのハッピーちゃんとチェリーちゃん。
まだ大分県の九州芸術の杜の<ギャラリー夢>で、個展をしていた時に出逢いました。
二匹は、ご家族と一緒に北九州から来てくれました。ハッピーちゃんが男の子で、チェリーちゃんが女の子ですが、どちらもとても元気で愛らしかったのを覚えています。
その可愛らしさには、明かるいチューリップがぴったりと思い、たくさんのチューリップの花と描きました。
まだまだ元気に遊んでくれているかしらん?!と思いながら、この絵を選びました。

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2 アングロ・サクソン侵略の系譜4:リチャード・ライト死後25周年シンポジウム

2回目のアメリカ行きはミシシッピで、初回から4年後の1985年でした。ミシシッピ州立大学でリチャード・ライトの死後25周年の記念大会があるから行きませんかと、黒人研究の会で知り合った木内さんから誘いがあり、すぐに行くと決めました。ファーブルさん(Michel Fabre)にお会いしたかったからです。
実は、修士論文を書くときに読んだ伝記に感動して、ファーブルさんに読んでもらえるように自分の書いたものを英語訳してパリの自宅に送っていました。
“Some Onomatopoeic Expressions in ‘The Man Who Lived Underground’ by Richard Wright”(Memoirs of the Osaka Institute of Technology, Series B, Vol. 29, No. 1: 1-14.)元は→「Richard Wright, “The Man Who Lived Underground”の擬声語表現」(「言語表現研究」2号 1-14ペイジ。)

伝記を読んだときの感動をファーブルさんに伝えたい、自分が書いたもののレベルが知りたいと思い、手紙を書いて英語訳を添えました。返事はもらっていませんでしたので、ファーブルさんの反応も本人から直に聞きたいと考えたのでしょう。当時、何校かの非常勤講師はしていたものの、大学の口は見つからず経済的にもきつかったと思いますし、会議での僕の英語力にも問題はありましたが、後先を考えずに、取り敢えずミシシッピに行きました。今から思うと後先を考えてなかったなあと思います。地図を見て、ミシシッピ州立大学とテネシー州メンフィスはそう離れてないのでバスで簡単に行けるやろ、と思い込んだんですから。アメリカは車社会、テネシー州メンフィスからのバスの便は極めて少なく、結局タクシーで行くはめになりました。たしか4万ほど払ったと思います。
シンポジウムは11月21日~23日の3日間で12のセッションが組まれていました。7月初めに届いたパンフレットの通りで、すごい顔ぶれでした。会場に着くと早速、面識のあった発表者の一人伯谷嘉信さん〔Critical Essays on Richard Wright (G. K. Hall, 1982) の編者〕が、Keneth Kinnamon, Edward Margolies, David Bakish, Donald Gibsonさんを紹介して下さり、木内さんとファーブルさんはにこやかな挨拶を交わしていました。修士論文を書いたあともライトに関して書き続けていましたので、それぞれ本を通して名前はよく知っていましたが、実際に会えるとは思っていませんでした。

       シンポジウムパンフレット

ビニール資料入れ

23日のニューヨークタイムズ紙は、「ミシシッピはかつて逃げた『ミシシッピ生まれ』を誉めたたえる―ミシシッピはアメリカの息子に帰郷の機会を与える」("Mississippi Honors a 'Native Son’ Who Fled – Mississippi Offers Homage to Native Son" )の見出しの次の記事を載せました。ライトがニューヨークで有名になりましたので、ニューヨークの新聞も取り上げたのでしょう。

国内、中国、フランス、西ドイツ、日本、コートジボワールからの57人の学者をこの落ち葉で美しい約221万坪のキャンパスにひき寄せたシンポジウムは、タイトルに「ミシシッピ生まれのアメリカの息子」を使っています。1940年に出版の後すぐにベストセラーになった、1930年代のシカゴの黒人の苦しみと白人の人種主義の重くて、痛ましい小説「アメリカの息子」は、もちろんライト氏の15冊の中でも一よく番知られている本のタイトルですが、数々の分科会がここミシシッピで、そして、わずか23年前にミシシッピ大学(愛称オル・ミス)の黒人学生第一号になったメレディス(James H. Meredith)を守るために約三万人の州兵が送られたまさにこの大学の構内で開催されたという事実を思うと、ここにおられる多くの方はどうしても信じがたいという思いが拭えないでしょう。」と、ロナルド・ベイリーは木曜日初日の参加者に語りかけました。
(The symposium, which has attracted 57 scholars from the United States, China, France, West Germany, Japan and the Ivory Coast to this lovely 1,800-acre, leaf-strewn campus, is titled “Mississippi’s Native Son." Even though “Native Son" is the title of one of the best-known of Mr. Wright’s 15 books―the harrowing novel of black suffering and white racism in Chicago in the 1930’s that became a best-seller soon after its publication in 1940―the irony of the symposium’s title is not lost on the sponsors.
“The fact that the sessions are being held in Mississippi, and on the very campus where only 23 years ago 30,000 Federal troops were sent to protect James H. Meredith when he became the first black to enroll at Ole Miss, “have struck many of you as incredulous," Ronald Bailey told the opening day audience Thursday…. )

参加者は百五十名ほど、前年に同じミシシッピ出身の白人作家ウィリアム・フォークナーの会議には一万人が参加したと聞きました。個人的にはフォークナーは読みづらく退屈でしたので、ライトの評価は低すぎるなあと感じましたが。

Black Metropolis の共著者、貫名さんに似た白髪の大御所 St. Clair Drake さんと話をしたり、Fabre さんのThe World of Richard Wrightと小説家M. WalkerのThe Daemonic Genius of Richard Wrightの出版記念パーティーにも顔を出したり、最終日の夜にはライト自身が出演して1951年にアルゼンチンで作られた映画「ネイティヴ・サン」も観ることが出来ました。
元々学者の話を聞くのは苦手の上、僕の英語力で発表を理解していたとは言いがたいのですが、それでも本の中でしか思い描けなかった世界が、広がった気がしました。
ファーブルさんに会うのが一番の目的でしたから、その意味では願いは初日にかなっていたわけですが、二日目の夜には伯谷さんの部屋に招かれて、Fabreさんと直にお話することができました。他にもMargolies、Kinnamon, John Reilly, Bakish, Nina Cobb, John A. Williams, James Arthur Millerさんや木内さんなどがいっしょでした。ただ、高校の英語の教師はしていましたが、アメリカ化に抵抗して英語を聞かない、しゃべらないと決めていましたので、思うように自分の意志を伝えられず、木内さんに、玉田さん、英米学科出身でしょ、通訳しましょか、と言われてしまいました。戻ってからテレビやビデオデッキを買って英語を聞き、独り言でしゃべる練習を始めました。七年後、ジンバブエからの帰りにファーブルさんを訪ねたとき、英語に不自由を感じなかったのは幸いでした。
Peter Jackson氏が Native Son の擬声語表現について言及された翌朝、すっと寄って来られて、肩をぽんと叩き、あなたと同じことを言ってましたねと声をかけて下さったとき、手紙の反応を直にファーブルさんから聞きたいという願いも叶いました。
シンポジウムの副産物もありました。伯谷から2年後のサンフランシスコのMLA (Modern Language Association of America)で発表の誘いを受けました。伯谷さんは、当時僕が住んでいた明石から見える淡路島生まれで、広島大学4年生の時にアメリカに渡り、その時はケント州立大学の英語の教授でした。MLAの発表については稿を改めて書くつもりです。(宮崎大学教員)

伯谷ご夫妻と長男の嘉樹くん

日本に戻ってから、シンポジウムについて黒人研究の会の例会で報告し、会報に載せました。
「黒人研究の会会報」(第22号 (1985) 4ペイジ)
「リチャード・ライト国際シンポジウムから帰って(ミシシッピ州立大、11/21~23)」
(英語訳)→“Richard Wright Symposium"

1976~89年の執筆物

Richard Wright Symposium

November 21-23, at the University of Mississippi

This is the translation of my Japanese report of “Richard Wright Symposium  November 21-23, at the University of Mississippi.”

「報告 リチャード・ライト国際シンポジウムから帰って(ミシシッピ州立大、11/21~23)

The Bulletin of the Association of Black Studies in Japan

(1985)

No. 22, p. 4.

Early in July, I received a letter from Mr. Toru Kiuchi, including a pamphlet on the coming international symposium on Richard Wright. I felt overwhelmed by the big names of the participants at first, and I never dreamed I could take part in it. However, no sooner had I found it possible even for me to join it than I determined to go there, hoping that I might get a glimpse of the face of Mr. Michel Fabre.

On the first day I went upstairs to have breakfast after registration, and found there Mr. Suda who was on a six-month stay in America to study. I also found Mr. Yoshinobu Hakutani, the editor of Critical Essays on Richard Wright (G. K. Hall, 1982), who was born in Awaji Island of Hyogo, Japan, and went to America to study when he was a student of Hiroshima University; he is now a professor of English of Kent State University. I had met him once before in August during his short stay in Japan. He said in delight, “I’m very glad to see you again, here." He was kind enough to introduce me to Messrs. Kenneth Kinnamon, Edward Margolies, David Bakish, and Donald Gibson, with whom I was familiar through their books. I got a sight of Mr. Fabre. Toru, who knew him through letters, went up to and greeted him. Mr. Fabre said, “Old Friend!" embracing his arms, smiling. At that moment my first aim had already been completed.

There were 12 sessions and too many participants in three days. I regret to say I could not understand all of them as I was a poor listener of English.

There were many interesting presentations such as Gibson’s, Hakutani’s, John M. Reilly’s, Maryemma Graham’s, and Fabre’s. Mr. Kinnamon mentioned a little about the international bibliography and Richard Wright in Japan by Mr. Hakutani and Mr. Kiuchi. Mr. Fabre talked about Wright’s reception in France. They are all now active in their own fields.

In the session on the Third World, Mr. Jan Crew, who had been in touch with Mr. Wright in his student days, talked about Wright’s time in France and a little criticized the presentations on the third world. I felt very sorry to find that the audience was smaller and the papers were a little poor in quality.

We were lucky enough to attend two memorable receptions for the publications of Fabre’s The World of Richard Wright and Margaret Walker’s The Daemonic Genius of Richard Wright.

Another memorable performance was the screening of the film of Native Son. Through the screen I “met” Richard Wright himself, as it were.

On the second night I was invited to Mr. Hakutani’s room and enjoyed chattering over drinks with Messrs. Fabre, Margolies, Reilly, Bakish, Joh n A. Williams, James Arthur Miller, Mr. Kiuchi, Suda and Miss Nina Cobb. I was interested in the dispute of C. Webb, many unpublished Wright’s haikus and Mrs. Ellen Wright, about which we cannot hear in Japan.

On the third night Mr. Hakutani, Toru and I gathered in Mr. Hakutani’s room and chatted over soft drinks with the two Japanese students of the University, Mr. Koguchi and Miss Takahashi, who were studying Faulkner. Mr. Koguchi was very Americanized, and I felt his gestures looked like most Americans. We talked far into the night, and it was three when we parted.

I thought it necessary to write my paper in English as the articles on and about Wright are written in English. I had translated into English my article on Wright, so I was lucky! I was carrying several copies of my article with me, which were all gone by the end of the symposium. I handed one of them to Mr. Fabre. On the morning of the next day when Peter Jackson talked about some onomatopoeic expressions in Native Son, Mr. Fabre patted me on the shoulder, telling me that Mr. Jackson was meaning the same onomatopoeic expressions as in my article.

When I told Mr. Suda that Mr. St. Clair Drake, with his white beard, co-author of Black Metropolis, is similar in manner to the late Mr. Nukina, the founder of the Japan Black Studies Association, he agreed with me. I told Mr. Drake that the association was founded in 1954, and he looked surprised. I felt the weight of over 30-year-old history of our association. I cannot forget that Mr. Suda and I talked about the past and the future of our association, in Mississippi, so far from Japan.

To me nothing was mo re pleasant than the fact the symposium was held. In November 23, the New York Times reported on the symposium under the title of “Mississippi Honors a 'Native Son Who Fled – Mississippi Offers Homage to Native Son." What, I wonder, was Mr. Wright in heaven thinking about the symposium and the many people who joined to commemorate the 25th anniversary of his death, though he died young on foreign soil?

At the coming December meeting, Mr. Toru Kiuchi is to report in deatail on the symposium.

December 4, 1985

1976~89年の執筆物

リチャード・ライト国際シンポジウムから帰って

(ミシシッピ州立大、11/21~23)

7月はじめ、会員の本内徹さんから Michel Fabreさんを通じてのパンフレットが届いた時、顔ぶれを見てすごいなあと思ったが、それは別世界のことのようだった。しかし、自分にも参加出来るとわかった瞬間、既に行くことに決めていた。Fabreさんの顔たけでも見に行こうと。

初日、受付けを済ませて朝食会場の2階に上がったら、滞米中の会員、須田さんが座って居られた。夏に一度お会いしていた伯谷さん〔Critical Essays on Richard Wright (G. K. Hall, 1982) の編者、兵庫県淡路島生まれ、広島大学在学中に渡米、現在ケント州立大学教授〕が、よく来ましたねと喜ばれて、横に居合わせた Keneth Kinnamon, Edward Margolies, David Bakish, Donald Gibson の各氏を紹介して下さった。いつも本でおなじみの人たちだ。Fabreさんの姿が目に止まった。手紙のやりとりのある木内さんが近づいて挨拶すると、"Old friend!" と腕をかかえながら人なつっこい笑みをこぼされた。当初の目的は既にこの時点で達せられていた。

3日間にセッションが12も組まれ、発表者も多かった。語学力の乏しい私には、充分に聴き取れたとはとても言えないが、Black Boy について語られた Gibsonさん、Lawd Todayの伯谷さん、近刊の3000ペイジに及ぶ解説付きの文献集(伯谷さん、木内さんによるもの。日本の文献も収載予定)に触れられた Kinnamon さん、フランスにおけるライト研究について述べられた Fabreさん、John M. Reilly さん、Robert Tener さん、Maryemma Graham さんなど、現在一線級で活躍中の人達に勢いが感じられた。

第三世界に関するセッションでは、発表のあと、パリでライトのアパートに出人りされたというJan Crewさんが、今の発表は少し違うようだと飄々と語られたのが印象探かった。出席者も一番少なく、内容も少し薄かったように思えたのは残念である。

Fabre さんのThe World of Richard WrightとM. Walker女史の近刊The Daemonic Genius of Richard Wrightの両出版記念パーティーも普段ではお目にかかれないものだった。

普段見られないものの中でも、最終日の夜に上映された「ネイティヴ・サン」は格別だった。フィルムを通じて、ライトその人に「会えた」わけである。

二日目の夜には、伯谷さんの部屋に招かれて、Fabreさん、Margolies、Kinnamon, JohnReilly, Bakish, Nina Cobb, John A. Williams, James Arthur Millerの各氏と須田さん、木内さんとで酒を飲みながらの記念すべき一時を楽しんだ。C. Webbさんの不評話や、俳諧風ポエムが出版されない事情、エレン夫人のことなど、裏話が面白かった。

三日目の夜は、フォークナー研究のために留学中の古口さん、高橋さんを交えての「日本人会」となった。お話から、寸暇を惜しんでの勉学のご様子が窺われた。古ロ氏の場合、身振りまでがアメリカ人風になっていた。解散したのは暁方の三時だった。

ライトのものが英語で書かれている以上、英語で書くことの必要性が思われた。幸い、論文の一つを英訳していたのが役に立った。10部程抜刷を持参していたが、帰りにはきれいになくなっていた。一つを Fabreさんにお渡ししたら、Peter Jackson氏が Native Son の擬声語表現について言及された翌朝、すっと寄って来られて、肩をぽんと叩き、あなたと同じことを言ってましたねと声をかけて下さった。

Black Metropolis の共著者、白髪の St. Clair Drake さんの風貌、話し振りが、貫名さんによく似てられますねえ、と須田さんにお話ししたら、同感だ、とのことだった。会の創設が1954年だとお話したら、Drakeさんは驚いておられた。「1954」年と聞いた人は例外なく驚きの表情を示した。30年余の歴史はと重いようだ。

こんな所で、こんな話をしようとはねぇー、と須田さんと研究会の来し方、行く末をはるかミシシッピの地で語ったのも、忘れ難い。

私には、シンポジウムが行われたこと自体が何よりも嬉しかった。早速、23日のニューヨークタイムズ紙は、Mississippi Honors a 'Native Son’ Who Fled – Mississippi Offers Homage to Native Son の見出しの記事を載せた。若くして異郷の地に果てたライトは、あの世から、死後25年を経た今、生まれ故郷に集まった大勢の人達を見て、一体どんな表情を見せていたのだろうか。

12月の例会で、木内徹さんが詳しく報告される。

続モンド通信・モンド通信

1 私の絵画館:「梅とぴのこ―2019―」(小島けい)

2 アングロ・サクソン侵略の系譜3:「クロスセクション」(玉田吉行)

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1 私の絵画館:「梅とぴのこ―2019―」(小島けい)

のら猫だったアリスは、家につれて帰って24日後に子猫を産みました。もうすぐ11年になります。
5匹生まれた子猫のうち、気の弱い男の子のジョバンニと生まれつき胃腸が弱いといわれた女の子ぴのこを家に残しました。
先生の見立て通り、ぴのこは少食で、ほんの少しでも多く食べるとその瞬間にもどしました。量だけでなくほんの少し固い物もダメ。大きさも5mmくらいでも固い物が混じるとアッというまに出しました。
それは大人になっても変わりませんでした。
2年前の秋、あまりにももどしてしまうので、病院で調べてもらいましたが、レントゲンで見る限り異常はありません。
ただ異常は見つからないといっても、すぐもどしてしまうわけですから、何とかもどさずおいしく食べてもらえるようにするしかありません。
そこで一大決心をしてアレコレ試行錯誤をくり返すこと半年余り、ようやくぴのこがもどさず喜んで食べてくれる食事が完成しました。
まず自家製野菜スープ(液体)をペットボトルのキャップ一杯。もち麦のおかゆを小さじ一杯。野菜のペーストを小さじ半分。ひきわり納豆を小さじ3分の1。
そこにぴのこの好きな魚のカンづめをつぶして小さじすり切れ1枚。さらに消化器系のカリカリをミキサーで粉状にしたものを小さじすりきれ2杯。
このご飯をあげるようになってから、生まれて初めてぴのこは<食>の楽しさに目覚めました。
今では、そんなに早食いだったかしらん?!というスピードで自分のご飯を食べてしまい、お母さんのアリスやジョバンニのところに走り、気の強さでは誰にも負けないため、残りをたいらげてしまいます。
食べてくれるのはいいのですが、一定量を少しこえただけでももどすのは、変わっていません。そこで同じケージのなかで食べるアリスとの間は、食事の度に段ボールの屏風(?)で仕切ります。
魚アレルギーのジョバンニは、別のケージのなかで食べていますが、ぴのこが入って押しのけてしまわないように、扉をきっちり閉めることにしました。
そのため、自分の分を食べ終えたぴのこは扉のまん前に座り込み、待つことになります。その距離の近さと迫力にジョバンニはしばしば負けて、少し残っていても食べるのを止めてしまうほどです。
ほんとうはこんなにも食べることが好きだったのに、もっと早くに食事の大改革をすればよかったと、ぴのこには申し訳ない思いで一杯です。
ただ、よく食べるようになってくれたぴのこですが、細い身体はそのままで、今でも一歳くらいの頃と変わりません。
<梅とぴのこ>は1枚目も、2枚目も、それぞれ猫好きの方のお家に行って手元にありませんので、もう一度描きたいと思い3枚目の<梅とぴのこ―2019―>を描きました。

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2 アングロ・サクソン侵略の系譜3:「クロスセクション」

初めてアメリカに行ったのは1981年で、高校教員のままで通った大学院一年生の夏です。修士論文の軸となるリチャード・ライト(Richard Wright)の「地下に潜む男」(“The Man Who Lived Underground”)が収められている雑誌「クロスセクション」(Cross-Section, 1944)のフォトコピーがニューヨーク公立図書館ハーレム分館にあるとわかったからです。

「地下に潜む男」は教科書(青山書店、1969)も出ていましたし、『八人の男』(晶文社、1969, Eight Men; World Publishing, 1961)にも収められていましたので原作は手元にありましたが、作品の収載されている雑誌が見たかったのだと思います。それに、アメリカのことをするのに、アメリカに一度も行ったことがないのも気が引けるなあという気持ちもあったような気がします。

生まれたのは1949です。第二次大戦直後に生まれた世代は、否応なしにそれぞれのアメリカ化を経験しているような気がします。神戸から電車で西に一時間ほどの小さな町に住んでいましたが、高校の頃に若い宣教師が自転車に乗っているのを家の二階からたまたま見かけるまで外国人を見た記憶がありません。小学校の頃にテレビが普及し始め、ハリウッド映画からエンパイアステートビルディングやナイアガラの滝、ゴールデンゲイトブリッジなどの映像が流れてどっと「アメリカ」が生活に入り込む一方、洗濯機や炊飯器、掃除機などの電化製品でどんどん生活が「便利に」なって行きました。その頃自覚していたとは思えませんが、便利さや快適さから来るアメリカへの憧れと、敗戦後にアメリカ流を無理やり押しつけられたという反発が妙に入り混じっていたように思えます。

入学した大学が外国語大学でもあったせいか留学に気持ちが傾いた時期もありますが、ずっと1ドル360円でしたし、学費も生活費も自分で都合しないといけない中では経済的に実際は無理だったと思います。休学してスウェーデンに遊学したクラスメイトもいましたから、それほど行きたい気持ちが強くなかったということでしょう。そのクラスメイトは、滞在中にお金やパスポートなど一切合切を盗られて2年も余計にスウェーデンにいることになった、と帰ってから話をしていました。

ライトが移り住んだコース(生まれたミシシッピ州→10年ほど住んだシカゴ→ベストセラーを生み出したニューヨーク→アメリカを見限って移住したパリ)のうち、今回はシカゴ→ニューヨーク→(セントルイス経由で)ミシシッピ州ナチェツ(生まれた所)、までを辿ってみようと計画を立てました。コピーしたファーブル(Michel Fabre)さんの『リチャード・ライトの未完の探求』(The Unfinished Quest of Richard Wright)の巻末の参考文献目録を旅行鞄に忍ばせ、サンフランシスコに何泊かしてからシカゴとニューヨークに行きました。1ドル280円台だったと記憶しています。

ナチェツ空港

5年間高校で英語の教員をしていましたが、「敗戦後にアメリカ流を無理やり押しつけられたという反発」もあって、英語は聞かない、しゃべらない、と決めていましたので、英語はまったく聞き取れませんでした。日本ではなぜか、英語がしゃべれなくても英語の教員は「勤まり」ます。

目的は図書館での文献探しでしたが、結局はニューヨークの古本や巡りになってしまいました。今から考えるとおかしな話ですが、ライトの『アメリカの息子』(Native Son, 1940)の初版本はありませんかと出版元まで訪ねて行ったのですから。もちろんあるはずもありませんが、訪ねてみるもんですね。大量の本を古本屋に流していますので、タイムズスクエアーのこの古本屋に行くとひょっとしたら、と言われました。1985年のI Love New Yorkキャンペーンでその辺り一帯がきれいにされる前でしたから、古本屋やポルノショップなどが溢れていました。

教えてもらった古本屋に『アメリカの息子』の初版本はさすがにありませんでしたが、『ブラック・ボーイ』(Black Boy, 1945)、『ブラック・パワー』(Black Power, 1954)など主立った本はもちろんのこと、スタインペッグの『怒りの葡萄』(The Grapes of Wrath, 1939)やハーパー・リーの『アラバマ物語』(To Kill a Mockingbird, 1960)なども難なく見つかりました。そして何より、「地下に潜む男」の掲載された「クロスセクション」(CROSS SECION)の現物が手に入ったのです。雑誌と言っても559ページもあるハードカバーの立派な本でした。見開きにはCROSS-SECTION A NEW Collection of New American Writingとあります。

日本でも神戸や大阪の古本屋には何度もでかけていましたが、ニューヨークで古本屋巡りをするとは思ってもみませんでした。本をぎっしり詰めた旅行バックが肩に食い込んだ重さの記憶が残っています。今ならVISAカードで簡単に処理したんでしょうが、何箱か船便で送ったら、持って行っていたお金がほぼなくなってしまって、経由地のセントルイスまでは辿り着いたものの、そこから予定を変更して戻って来るはめになりました。

初めてのアメリカ行きでもあったので、サンフランシスコではゴールデンゲイトブリッジに行き、シカゴではミシガン通りでパレードを眺め、ニューヨーク州ではナイアガラの滝を見て、エンパイアステートビルディングにも昇りました。元々人が多いのは苦手でエンパイアステートビルディングも入り口に列が出来ていなかったら昇ってなかったと思いますが、入り口には人がまばらで。しかし、途中で乗り換えがあって、そこでは人が溢れかえっていて、何だか騙された気分になりました。

ミシガンストリートで3時間ほどパレードを眺めていた時に、アメリカにもアメリカのよさがある、と何となく感じました。ニューヨークのラ・ガーディア空港では日本語が通じずにカウンターでついに大きな声を出してしまいましたが、ちょっとお待ち下さい、言葉のわかる者を連れて来ますので、と言われて待っていましたら、人が現われて、ゆっくり英語をしゃべってくれました。

通じないもどかしさを何度も味わいましたが、それでも帰って来て、英語をしゃべりたいとは思いませんでした。

「地下に潜む男」を読んだのは大学の英語の購読の時間で、青山書店のテキストです。大学に入ったのは学生運動が国家権力にぺちゃんこにされた翌年の1971年で、浪人しても受験の準備が出来ないまま結局はうやむやに心の折り合いをつけて、家から通える神戸市外国語大学のえせ夜間学生になりました。

えせは、神戸市役所や検察庁などの仕事を終えてから授業に出る前向きな「同級生」に比べて、という意味です。検察庁の「同級生」は「神戸の経済を二度失敗した」末に入学したそうですが、「ワシ、今日はやばいねん、昨日取り調べたやーさんに狙われるかも知れへんから」と帰り道に言っていました。高校も定時制(4年間)だった別の「同級生」は住友金属で働く好青年で、何百万か貯めて着実に生活している風に見えました。若くに人生を諦めてしまって大学の空間を余生としか考えていない身には、ずいぶんと希望に満ちた大人に見えました。もちろん、僕と同じようなえせ夜間学生で、定職は持たず、昼間の運動部に混ざって練習をしている同類も僅かながらいましたが。

学費は年間12000円(昼間は18000円)、月に1000円、定期代も国鉄(現在のJR)と阪急(電鉄)を合わせても1500円ほど、朝早くに1時間ほど配っていた牛乳配達が月に5000円ほど、学費はそれで充分にまかなえていたように思います。もっとも自分から進んでやった牛乳配達ではなく、母親がやっていたのを見兼ねてやるようになっただけでしたが。

神戸市外国語大学全景(上)、木造学舎(下)大学HPより

入学した年、中央以外では学生運動の残り火が燻っていたようで、神戸大でも神戸外大でもヘルメットを被った学生が拡声器を持って「われわれは・・・・」と、がなり立てていました。僕には入学式も無意味なので通常なら出ることはないのですが、一浪したあとよほど気持ちが縮こまっていたようで、つい入学式に出てしまいました。奇妙な入学式で、図書館の階段教室で始まって学長という人が挨拶を始めたとたん、合唱部とおぼしき人たちが初めて聞く校歌らしき歌を歌い始め、違うサイドでは拡声器を持った学生が「われわれは・・・・」とまくし立て始めていました。座っている学生は僕のようにへえーと感心しているものもいれば、四方に野次を飛ばしているものもいました。

その後、授業はなく毎日のようにクラス討議なるものが強要され、ある日学生がバリケードをして学舎を封鎖しました。しばらくして機動隊が突入して「正常化」されたようでした。70年安保の学生運動では国家体制の再構築というような理想論が取りざたされたようですが、覚えている限り、マイクから聞こえて来て耳に残っているのは、たしか、学生食堂のめしが不味いから大学当局と交渉して勝利を勝ちとろう、そんな内容だったと思います。中央では負けたので、地方では部分闘争をということだったんでしょうか。

バリケード封鎖された学舎

昼間のバスケット部といっしょに練習をしていましたが、運動部はバリケードが張られているときも、中に入れて練習もやっていました。マネージャーの女子学生も、ヘルメットを被って封鎖に参加している学生の一人で、後に退学したようなことを聞きました。

学生側についた七人の教員は、最後まで学生側についていたようです。後にゼミの担当者になった教授もその中の一人で、共産党員のようでした。その人は十年ほどかかって仕上げた翻訳原稿を投げ入れられた火炎瓶で焼かれたそうですが、また同じ年月をかけて翻訳出版したという話も聞きました。その担当者の追悼文が僕の記事の第一号です。→<a href="https://kojimakei.jp/tama/topics/works/w1970/282“>「がまぐちの貯金が二円くらいになりました-貫名美隆先生を悼んで-」</a>(「ゴンドワナ」3号、1986年)

神戸市外国語大学ホームページの「大学のあゆみ(沿革)」によれば、1946年に設立された神戸市立外事専門学校が1949年に神戸市外国語大学に昇格(外国語学部に英米・ロシア・中国の3学科設置)しています。僕が入学した夜間課程が設置されたのは1953年、その年に語学文学課程、法経商課程の2コースが設置されています。

学生の時はよくは知りませんでしたが、語学文学課程を担当した教員の中には、おそらく1950年、60年代のアメリカの公民権運動やアフリカの独立運動の影響もあったと思いますが、それまであまり取り上げられなかった分野、アフリカ系アメリカ人やアフリカの歴史や文学や言語などの研究をしていた人たちが少なからずいたようです。小西友七という人の黒人英語などもそんな分野の一つで、他にも西洋のバイアスがかかっていないアフリカ系アメリカやアフリカの名前を学内ではよく見かけたように思います。

そのようなアフリカやアフロアメリカに関心のある人たちの何人かが核になって、1956年に黒人研究の会を作り、研究会や研究誌の発行など、精力的に活動をしていたようです。修士号を取って高校の教員をやめたあと暫く研究会に入って、会誌や会報の編集などを手伝っていましたが、会誌や会報を見ながら、勢いあるなあと感心したのを覚えています。60年代70年代の神戸外大の紀要「外大論叢」の書かれたものの中には今読んでも勢いが感じられる論文が少なからずあります。

自分が意識していたかどうかにはかかわらず、おそらくそんな流れの中で、英語の購読の時間にアフリカ系アメリカ人作家リチャード・ライトの「地下に潜む男」の教科書を読むことになり、修士論文の軸にクロスセクション誌に載った短編を据えることになったのだと思います。

夜間にしろ大学には空間が欲しくて行っただけで、英米学科にもかかわらず英語はしませんでした。学生だと学割が使えるし、という極めて「不純な動機」で修士の試験は受けましたが、案の定「玉田クン、26人中飛び抜けて26番やったね」と好きな新田さんから言われてしまいました。それではと、新田さんにアメリカ文学で読むべき本を聞き、文学史や言語学や英作文の必須図書を自分で探して揃え、一年間目一杯準備をして二度目を受けた時も、結局は書いたものを消して出てきました。大学には行かないという思いの方が、その時は強かったのでしょう。

でも、七十路(ななそじ)足らずの春秋を送れる間に、「世の不思議を見ること、ややたびたびになりぬ」、ですね。その後、書くための空間を求めて大学を探し始めたわけですから。(宮崎大学教員)