2010年~の執筆物

概要

前回は「アフリカとその末裔たち」(Africa and its Descendants 1)の3章「アメリカ黒人小史」("A Short History of Black Americans")の③で、北軍が占領政策を行なった再建期と復活した南部の寡頭勢力による反動について書きました。

今回は第二次世界大戦後、ヨーロッパの総体的な力が落ちたとき、それまで抑えつけられていた第3世界の人たちが1950年代、60年代に独立を求めて闘いました。アメリカ国内では、法的に解放されながら基本的には余り変わらなかったアフリカ系アメリカ人が立ち上がって闘いました。今回はその公民権運動についてです。

『アフリカとその末裔たち』

本文

公民権運動

南北戦争に負けても、奴隷貿易や奴隷制で資本を蓄め込んだ南部の大農園主たちは滅びませんでした。金持ちは死なず、です。反動勢力は強力で、占領軍が出した「法の平等保護条項」(イコール・プロテクション)を保障する修正第14条をめぐる裁判で、連邦最高裁は州政府による「分離平等政策」(分離すれど平等)を退けることが出来ませんでした。

連邦最高裁で「公立学校での人種隔離は違憲である」という判決が下ったのは、1954年です。もちろん判決を勝ち取ったのは長年挫けずに法廷で闘い続けた人たちがいたからですが、実際にはもっと大きな力が働いていました。時の流れです。

「アメリカの20世紀 第6回 黒人の体験~”平等”への戦い~」(1983年米国デビッド・グラビン・プロダクション制作1984年NHK教育、原題:A Walk through the 20th C with Bill Moyers)でこの判決を次のように紹介しています。

1954年という年は国際的なビッグニュースがいくつもありました。インドシナではフランス軍が破れました。イランでは一時亡命していたファーレリ国王がアメリカの梃子入れで返り咲きました。赤狩りで一躍有名になったマッカーシー上院議員がアメリカ陸軍まで非難して自らの墓穴を掘ったのもこの年でした。またこの年、マリアン・アンダーソンが黒人歌手として初めてメトロポリタンハウスの舞台に立ちました。マーチン・ルーサー・キング牧師はアラバマ州モントゴメリーのバプテスト教会に赴任しています。連邦最高裁判所が公立学校での人種差別は憲法違反であるという画期的な判決を下したのもこの年でした。

マーチン・ルーサー・キング牧師

アメリカの独立宣言は人間の自由平等の権利を謳っていますが、それは現実には白人だけが享受してきた権利でした。事実この国の憲法は黒人に対してはこの権利を長い間拒んで来ました。黒人は奴隷でその身分は国が独立しても同じでした。1776年の独立宣言から奴隷制度の廃止まで90年もかかっています。その後も人種差別は根強く残り、1896年に連邦最高裁判所は「分離すれど平等」という苦肉の策を打ち出したものです。公立学校での平等という判決が出たのは1954年です。

アフリカと南アフリカの歴史でも書きましたが、変革の嵐(The wind of change)という時の流れを生んだのは第二次世界大戦で、白人同士が殺し合って総体的に力が落としたために、それまで長い間虐げられ続けて来た人たちが立ち上がり始めました。アメリカにもその変革の嵐が吹き寄せたたわけです。

 

1954年の判決を受けてアーカンソー州リトルロックのセントラル高校では判決に州が抵抗して混乱を極めました。1963年にはアラバマ州立大学のフォーバス知事は学生の入学を阻止するために建物の入り口に立ちふさがりました。

多くの公民権運動指導者に導かれて、バスボイコット運動やレストランでの座り込み運動など、様々な非暴力の運動が展開されました。1963年にはワシントンに25万人(推定)もの人たちが集まり、キング牧師は「私には夢がある」という有名な演説をしました。最初に約束手形を現金化するためにやって来ましたと言いましたが、奴隷解放宣言が空手形で、奴隷解放宣言後も平等を謳う合衆国憲法と現実とがかけ離れていたからです。

ワシントン大行進で壇上から手を振るキング牧師

1964年には公民権法が成立しました。

公民権運動で一番注目されるのはマルコムとキングで、多くの人を引きつけました。

回教団のスポークスマンとして白人社会に過激な発言を繰り返して挑みかかっていたマルコムも、回教団を去り、暗殺される直前には、白人への戦いをアメリカ国内だけの人種闘争で終わらせずに、世界中に見られる格差を是正するための人種闘争の一環にすべきであるという境地に到達しています。

画像

(マルコム・リトゥル:小島けい画)

人種闘争を国内の問題として捉えていたキングも、マルコムの死後、公民権運動の行き詰まりを感じるなかで、活動の目的を黒人の解放だけではなく、すべての虐げられた人の救済に置くべきだと考え始めていました。二人とも若くして暗殺され、志を遂げることは出来ませんでしたが、二人の思想は今もいろんな人たちに影響を及ぼしています。

リトルロックの高校事件を扱った「アーカンソー物語」(1980、原題:Crisis at Central High、 http://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=3)、「いつも心に太陽を」のシドニー・ポワチエ主演で、黒人エリート医師と大富豪の娘との結婚をめぐる「招かれざる客」(1967)、原題:GUESS WHO’S COMING TO DINNERhttp://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD8577/index.html)、スパイク・リー監督、デンゼル・ワシントン主演、アレックス・ヘイリー『マルコムX自伝』を元にした「マルコムX」(1992)、原題:MALCOLM Xhttp://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=22534)はお薦めです。(宮崎大学医学部教員)

アフリカ系アメリカ小史④では、「ブラック・パワー」(BLACK POWER)について、英文で書きました。日本語訳もつけた全文は→ https://kojimakei.jp/tamada/works/africa/ZimHis9.docx(画面上に出てくるZimHis9.docxです。)アドレスをクリックすれば “A Short History of Black Americans” in Africa and Its Descendants「アメリカ黒人小史」:『アフリカとその末裔たち』(Mondo Books, 1995; 2009; Chapter 3) のワードファイルをダウンロード出来ます。

執筆年

  2014年6月10日

収録・公開

  →「アフリカ系アメリカ小史④」(No. 70  2014年6月10日)

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  「アフリカ系アメリカ小史④」

2010年~の執筆物

概要

前回は「アフリカとその末裔たち」(Africa and its Descendants 1)の3章「アメリカ黒人小史」(A Short History of Black Americans)の②で、南部の奴隷主と北部の産業資本家が奴隷の労働力を巡って起こした南北戦争の結果、法制上生み出された奴隷解放にについて書きました。

今回は北軍が占領政策を行なった再建期、と復活した南部の寡頭勢力による反動についてです。

本文

再建期、反動

詩人のラングストン・ヒューズが「黒人史の栄光」の中でこの時期について簡潔にまとめています。

(ラングストン・ヒューズ)

「南北戦争が終わり、リンカーンが死にました。奴隷解放と、歴史家が再建期と呼ぶ時代が始まっていました。暫くの間、自由はすばらしかった。南部の議会に黒人の議員が選ばれ、市や州にも黒人が勤め始めました。それから反動が始まりました。多くの州の自由な黒人から選挙権が奪われました。キュー・クラックス・クラン(KKK)が馬に乗って出没しました。鉄道に黒人席白人席に分けられた列車(ジムクロウ列車)が出来ました。黒人の協会や学校が焼かれました。ユダヤ系の白人が南部から追い出されました。何も解放されないまま、奴隷だった人たちは貧しく、いつもお腹を空かしていました・・・・」

エイブラハム・リンカーン

台頭する北部の産業資本家の期待を一身に受けて大統領になったリンカーンは希望に添うべく南部の寡頭勢力を押さえ込んで占領政策を推し進めました。その結果、元奴隷の人たちには「暫くの間、自由はすばらしく」、「南部の議会に黒人の議員が選ばれ、市や州にも黒人が勤め始め」る光景を目の当たりにしたわけです。連邦政府が憲法修正条項を追加して、合衆国で生まれた(または帰化した)すべての者に公民権を与えて「法の平等保護条項」(イコール・プロテクション)を保障したり(修正第14条)、アフリカ系アメリカ人(男性のみ)に投票権を与えたりした(修正第15条)からです。しかし、それもつかの間、占領政策は大きな成果を出せずに1877年に突如終了され、戦争でたたかれた南部の大農園主たちは巻き返しを始めました。金持ちは死なず、戦争くらいで奴隷貿易でしこたまため込んだ財産を手放さなかったというわけです。金持ちは狡猾で利益のためには手段を選びません。この人たちは人種差別を巧みに利用して搾取体制を復活させました。

ここで忘れてはいけないのは搾り取る側はいつもごく少数で、絞り取られる側は圧倒的に多数だということです。実は南部には運び込まれたアフリカ人以外にも搾り取られ続けて貧しい人たちがたくさんいたのです。いわゆる貧乏な白人、プアホワイトです。
本来元奴隷(sharecroppers、小作人)とプアホワイトが力を合わせて寡頭勢力に賃金の引き上げを求めるべきですが、農園主たちは元奴隷とプアホワイトの間にカラーラインを引きました。プアホワイトを少し優遇して元奴隷の賃金を据え置いたのです。人種差別は表向きの政策で、実態は人種を利用して賃金に格差をつけた、つまり最大限に利益を生む搾取構造を確保しようとしたわけです。

奴隷制度の下で奴隷を管理し、逃亡奴隷を捕まえ、調教していたのは安く雇われたプアホワイトと少し優遇された奴隷でしたが、その人たちは南北戦争後も警ら係として雇われ、法律上解放されて北に流れようとする元奴隷の移動を阻止する役目を担いました。プアホワイトは寡頭勢力と組んで白人優位を標榜する極右翼の組織キュー・クラックス・クラン(KKK)を作って、カラーラインを超えた黒人を白人種優位を隠れ蓑にリンチ(私刑)して黒人を与締め付けました。奴隷解放宣言が出ても、土地も金も食べ物もなく、北に行こうにも警ら係の恐怖に怯えて移動も出来ず。結局「何も解放されないまま、奴隷だった人たちは貧しく、いつもお腹を空かしていました」。

リンチの一場面(リチャード・ライト『1200万の黒人の声』より)

反動の最たるものは1986年の最高裁での「分離すれど平等」判決です。ジムクロウ列車で差別を受けた差別が「法の平等保護条項」(イコール・プロテクション)を保障した修正第14条に違反すると起こした裁判で、最高裁は州政府による「分離平等政策」(分離すれど平等)は、アメリカ合衆国憲法修正第14条に定める「平等保護条項」に反しない、という判決を出しました。この法律が覆るのは1954年で、それまでこの「分離すれど平等」主義がアメリカの標準的な主義として残りました。

前回も紹介したアレックス・ヘイリーの「ルーツ」や、アーネスト・ゲインズの「ミス・ジェーンピットマン/ある黒人の生涯 」(1974年、110歳の黒人女性ジェーン・ピットマンへのインタビューを通して、南北戦争から連綿と続く黒人差別の実情を回想形式で描く自伝的スケッチ)(http://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=953)、裁判を取り上げたハーパー・リーの『アラバマ物語』(1962、人種偏見の根強いアラバマ州の町で無実の暴行事件で訴えられた実直な黒人トムの弁護をした弁護士フィンチと二人の子供たちの話、暮らしの手帖社から翻訳も出版されています。)などには、この時期の白人の巻き返しの場面が克明に描かれています。三冊とも映画になっています。(宮崎大学医学部教員)

画像

『アラバマ物語』語表紙)

アフリカ系アメリカ小史②では、「反動」(REACTION)について、英文で書きました。日本語訳もつけた全文は→ https://kojimakei.jp/tamada/works/africa/ZimHis9.docx(画面上に出てくるZimHis9.docxです。)アドレスをクリックすれば “A Short History of Black Americans” in Africa and Its Descendants「アメリカ黒人小史」:『アフリカとその末裔たち』(Mondo Books, 1995; 2009; Chapter 3) のワードファイルをダウンロード出来ます。

『アフリカとその末裔たち』

執筆年

  2014年5月10日

収録・公開

  →「アフリカ系アメリカ小史③」(No. 69  2014年5月10日)

ダウンロード・閲覧(作業中)

  「アフリカ系アメリカ小史③」

2010年~の執筆物

概要

前回は「アフリカとその末裔たち」(Africa and its Descendants 1)の3章「アメリカ黒人小史」(A Short History of Black Americans)の①で、①北米に渡ったイギリス人入植者の繁栄の基礎となった奴隷貿易と②奴隷制について書きました。

今回は、奴隷解放について書こうと思います。奴隷制を元にのし上がった南部の奴隷主と、北部に新たに台頭し始めた産業資本家が奴隷の労働力を巡って起こした市民戦争―北部と南部に分かれて戦った南北戦争の結果、法制上生み出された奴隷解放についてです。

本文

① 奴隷解放

奴隷貿易のよって蓄積された資本を元に起こった産業革命によって、人類社会には大きな変化が起こりました。それまでの農業中心の社会から、産業を主体とした社会に姿を変え始め、資本主義社会に向けての進度が急速に速まりました。人類は経済格差がますます激しくなる、今の大量消費の産業社会に向けてまっしぐらに進み始めたわけです。

それまで手で作られていたものが機械で作られるようになったわけですから、人類は使い切れないほど大量の工業製品を生み出すようになりました。資本主義は拡大せずには済まない制度ですから、必然的に溢れる製品を売りさばくための市場と、さらに生産するための安価な原材料と、工場で働く安価な労働力が必要になりました。

奴隷と奴隷制で潤ってきた南部の奴隷主(大荘園主)は、民主党を作って南部の北の端にある首都ワシントンに代々自分たちの意見を反映してくれる代弁者として大統領を送り込んで富を独占してきましたが、産業革命以降急速に力をつけてきた北部の産業資本家は新たに共和党を作り、自分たちの意見を代弁してくれる政治家を議会に送り込もうとしました。

奴隷を保持して既得権益の死守をはかろうとする南部の寡頭勢力(アングロサクソンを中心としたいわゆるコンサーバティブと呼ばれる保守勢力)と、奴隷制を廃止して奴隷を自由市場に流して安価な労働者として使いたいと渇望する北部の産業資本家の利益が真っ向から対立したわけです。国を二分して争う、いわゆる市民戦争、それが1861年に始まった南北戦争の実態です。

大統領選挙では大方の予想を裏切って、1860年にエイブラハム・リンカーンが大統領になりました。それはつまり、北部の資本家が自分たちの代表を一国の大統領としてワシントン特別区へ送り込むことに成功したということです。その結果、選挙前からの予定通り、南部は直ちに合衆国を脱退して南部諸州連合を創りました。南北戦争が始まったのは、そのすぐあと1861年です。

画像

(エイブラハム・リンカーン)

大統領となったリンカーンに課された命題はただ一つ、南北の合一でした。リンカーンは「1861年1月1日までに戦争が終わらなければ奴隷制を廃止する」という趣旨の予備宣言を出して北部黒人の参戦を促し、その助けを借りて、何とか北部(共和国軍)を勝利に導きました。戦争は1865年まで続いたために、結果的には法制上奴隷制が廃止されました。

しかし、突然奴隷でないと言われても、元奴隷は北部に移動しようとすると元奴隷主に雇われた貧乏白人の警ら係に捕まって相変わらず厳しく罰せられるし、土地もなく仕事もなく金もなく、結果的には現物支給の奴隷同然の小作人(sharecroppers)になるしかありませんでした。実質的な奴隷解放は百年後の公民権運動まで持ち越されました。

小作人(sharecroppers)

1859年にジョン・ブラウンが黒人、白人を含む22名とともに、ヴァージニア州の政府の兵器庫を襲いました。結局は捕らえられてジョン・ブラウンは絞首刑になりましたが、その蜂起は奴隷制の根幹から揺るがしました。

首謀者が白人だったこと、周到に準備されて武装蜂起を企てたこと、総勢23名で政府軍を導入しても鎮圧に二日もかかったこと、隣国ハイチでは奴隷の反乱軍が政権を樹立していたことなどが原因でした。

その蜂起は奴隷に勇気を与え、奴隷主に恐怖を与えました。ジョン・ブラウンは絞首刑にされましたが、南北戦争が始まるのも時間の問題でした。ジョン・ブラウンの歌は北軍の軍歌として黒人部隊で歌われたと言われています。日本では「ごんべさんの赤ちゃんがカゼ引いた そこであわててシップした♪」のメロディーで親しまれています。(「共和国の戦いの賛歌」が原曲のようです。)

ジョン・ブラウン

前回と今回で紹介した内容は、アフリカ系アメリカ人作家アレックス・ヘイリー(1921~1992)のテレビドラマ「ルーツ」に詳しく描かれています。

おばあさんの話を元に図書館などで調べて7世代さかのぼり、西アフリカガンビアを訪れてグリオ(歴史の語り部)の口から直接自分の祖先のクンタ・キンテが奴隷狩りにあってアメリカに連れて来られたことを聞き出し、その子孫の苦難の歴史を綴って本にした「ルーツ」を元に1977年に放映されたテレビドラマです。日本でも翌年に放送されました。30周年記念にDVDも出ています。

画像

(30周年記念のDVDの表紙)

次回は「アフリカ系アメリカ小史③再建期、反動」です。(宮崎大学医学部教員)

アフリカ系アメリカ小史②では、「奴隷解放」(EMANCIPATION)について、英文で書きました。日本語訳もつけた全文は→ https://kojimakei.jp/tamada/works/africa/ZimHis9.docx(画面上に出てくるZimHis9.docxです。)アドレスをクリックすれば “A Short History of Black Americans” in Africa and Its Descendants「アメリカ黒人小史」:『アフリカとその末裔たち』(Mondo Books, 1995; 2009; Chapter 3, p. 78)のワードファイルをダウンロード出来ます。

『アフリカとその末裔たち』

執筆年

  2014年4月10日

収録・公開

  →「アフリカ系アメリカ小史②」(No. 68  2014年4月10日)

ダウンロード・閲覧(作業中)

  「アフリカ系アメリカ小史②」

1976~89年の執筆物

解説

修士論文「リチャード・ライトの世界」では小説を中心に書いたのですがイギリス植民地ゴールド・コーストを訪れて書いた『ブラック・パワー』に続いて、1955年のインドネシアのバンドンでのアジア・アフリカ会議に出かけて書いた『カラー・カーテン』を黒人研究の会の例会で発表しました。

背景のアフリカ系アメリカの歴史やアフリカの歴史についても考え始めた頃なので、全体像もつかめないままの発表だったと思います。しかしライトの描こうとした世界の全体像をつかむためには避けられない作品だと考えて、例会を利用させてもらいました。

大抵例会で発表したものについてはその後活字にしましたが、『カラー・カーテン』については書いていません。

ナタラジャン著『広島からバンドンへ』は、ペンタゴン(米国攻防総省)の環太平洋構想を知るうえで極めて示唆的な新書でした。インド人が書いたのも印象に残っています。

アフリカ系アメリカ人の背景を知るなかで、奴隷貿易→産業革命による産業化→市場・原材料を求めての植民地争奪戦→植民地分割・植民地化→第二次世界大戦後の資本投資・多国籍企業の貿易による新しい形の搾取構造の構築というアフリカ史を辿るきっかけにもなりました。

フィリピンからスペインを駆逐して居座った米西戦争→第二次大戦・沖縄→朝鮮戦争・ソウル→ベトナム戦争・ハノイ→ソマリア内戦・モガディシオ→アフガニスタン→イラン・イラクと、今も続くペンタゴンの環太平洋構想から見る見方はこの『カラー・カーテン』を発表する準備の段階で得た貴重な視点だったように思います。

会報写真

「黒人研究の会会報」 第24号 (1986) 9ペイジ。

本文

7月例会:神戸外大(7月12日〉

リチャード・ライトと『カラー・カーテン』

ライト写真

『ブラック・パワー』に引き続いて、今回は、『カラー・カーテン』を取り上げました。フランスに移住してからのライトは、抑圧の問題を、より広い視野からとらえようと努力していました。1950年には、インドの首相パンディット・ネルーにあてて「抑圧に反対するだけではなく、人類の発展のために闘うには、世界の人々の団結が必要であります」という旨の書簡を送っています。したがって、アジア・アフリカ諸国の初めての大規模な会議に、ライトが駆けつけたのは、自然のなりゆきであったと言えます。ライトは、ゴールド・コーストへ出かけた場合と同様に、数冊の本を読んでから現地に乗り込んでいます。

今回の発表は、次の順序で行ないました。

1. バンドン会議について(朝日新聞1955年、1965年、1985年の記事を参照にして)

2. バンドン会議と日本(ナタラジャン著『広島からバンドンへ』岩波書店に触れて)

3.ライトとバンドン会議(ネルーへの手紙と『ブラック・パワー』に関連して)

4.『カラー・カーテン』に対する評価

5.私の評価

前回の『ブラック・パワー』の場合もそうでしたが・政治・経済・歴史などに疎い私には、ずいぶんと荷の重すぎる作品でした。しかし、何とかライトを正当に評価したいと願う現在、「ライトを評価する場合、作品だけではなく、闘争的知識人としての業績をも同様に評価すべきである」というファーブルさんの指摘がどうしても耳から離れません。当分は、少なくとも当分は、「苦難」の道は避けられないようです。

発表をひとつのきっかけにしたいと思います。

カラーカーテン写真

執筆年

1986年

収録・公開

「黒人研究の会会報」24号9ペイジ

会報写真

ダウンロード

リチャード・ライトと『カラー・カーテン』(口頭発表報告)(103KB)