2010年~の執筆物

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通(MonMonde)」に『ジンバブエ滞在記』を25回連載した17回目の「ジンバブエ滞在記⑰モロシャマリヤング」です。

1992年の11月に日本に帰ってから半年ほどは何も書けませんでしたが、この時期にしか書けないでしょうから是非本にまとめて下さいと出版社の方が薦めて下さって、絞り出しました。出版は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、出版は出来ずじまい。翻訳三冊、本一冊。でも、7冊も出してもらいました。ようそれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。連載はNo. 35(2011/7/10)からNo. 62(2013/7/10)までです。

本文

「モロシャマリヤング」

次の日、私はニューホールにアレックスを訪ねました。ショナ語と英語の家庭教師を頼むためです。ジンバブエに来る前は考えてもみませんでしたが、いざ住み始めてみますと、折角遠くまで来たのだからショナ語をやってみてもいいなあ、幸いショナ語で本を書いているツォゾォさんにも出会ったのだし、短期間に多くは望めないにしても、せめて辞書がひけるようになれば、帰ってから何とか独りでやっていけるかも知れない、と考えるようになっていました。

学生寮「ニューホール」

子供たちも、生活の中で英語の必要性を感じていますし、学校の授業を補うような形で楽しく教えてもらえれば有り難いと考えていました。事情を話してみましたら、アレックスは即座に快よく引き受けてくれました。

学生のアルバイトも見つけにくいうえ、1日に8時間半働いても月に500ドルも貰えればいい方らしいですので、取り敢えずは、月額500ドルで私のショナ語と子供たちの英語を3時間教えてもらうことにしました。子供たちはまだムランボ教室がありますので、私の方が先にショナ語を始めればいいでしょう。

さっそく、アレックスを家に案内して3人に紹介しました。内気な長女は少し恥ずかしそうでしたが、長男の方は一面識で大いに気が合ったようです。ゲイリーにも紹介しましたら、2人はしばらくショナ語で楽しそうに話をしていました。

いよいよ、アレックスのショナ語教室の始まりです。

長女とアレックス

教室を始める前に、2人で本を探しに行こうという話になり、タクシーを呼んで街の本屋に出かけました。これから始めましょうとアレックスは小学校の教科書を何冊か選んでくれました。ゆくゆくは読めるようにと、ツォゾォさんのショナ語の本なども買っておきました。

本屋にはすでに何回か足を運んでいましたが、欧米や日本のように、多数の本が並んでいるわけではありません。一番大きな本屋で大量に本を買って、店の方から直接日本に送ってくれるように頼みましたが、そういうサービスはしていませんと断わられました。ジンバブエで大量に本を買い込んで自分の国まで送る人はそう多くはいないからしょう。結局、重い荷物を家に持ち帰り、質の悪い紙で梱包をして、郵便局で長い列に並んで順番を待つという過程を経なければなりませんでした。本を送るのも、ひと仕事です。

ツォゾォさんのショナ語の本

本屋を出たあと、アレックスは酒場に案内してくれました。中心街より少し南にあるので、ほとんどがアフリカ人です。入り口のガードマンらしき人と何やら話をしています。見学をしたいという 外国からきた友人を連れて来たといって2ドルを渡しましたと、席に着いてからアレックスが耳打ちしてくれました。アフリカ人以外の人がここに入るのは難しいのでしょうか。

アレックスは友人とよくここに来るそうです。酒場とは言っても、あまり清潔そうでない暗い部屋に何組かの椅子とテーブルが置いてあるだけです。食べ物が出るわけでもなく、ただビールを買って、そこで飲んで喋るだけです。グラスもありません。瓶も汚れている場合が多く、この前など、瓶の中に小さな蛇が入っていたらしいですよ、多分瓶を洗う時の検査がいい加減だったんでしょうねと吉國さんが話しておられたのを思い出しました。瓶の汚れ方を見ていますと、そんな事件が起こっても不思議はないなと思えて来ます。

それでも誰もかれも、話に花を咲かせて楽しそうです。エリザベスホテルというらしいのですが、これでホテルなのかと思えるほど、うらびれた感じでした。すすんでここに来る白人は、おそらくいないでしょう。

街で長女とアレックス

グレートジンバブエ行きやお別れ会や小学校の手続きなども重なって、ショナ語教室はすぐには始められませんでしたが、それでも8月中に2度機会を持つことが出来ました。

アレックスは陽気な青年です。来ると必ず片手を上げながら子供たちに向かって「ハロー、マイフレンド」とやります。陽気な長男はすぐにそれを真似て「ハロー、マイフレンド」とやり返すようになりました。

ある日、長女は「ハロー、マイフレンド」に相当するショナ「モロシャマリヤング」をゲイリーから聞き出して、アレックスやゲイリーを相手に「モロシャマリヤング!」とやり始めました。それ以来「モロシャマリヤング」がみんなの合い言葉になりました。

大学構内でアレックス

アレックスと長男の陽気な2人組は、時たま庭に出て、「アチョー!アチョー!」と、すっとんきょうな奇声をあげていました。

カンフー(中国拳法)の真似事のようです。アレックスはクンフー(Kung fu)と発音していたが、その種のアメリカ映画が大流行しているようで、日本人なら誰でもそのクンフーをやるものと信じていたと言います。長男はアレックス直伝のクンフーがすっかり気に入ったようです。2人は人目をはばかる様子もなく、その後も出会う毎に「アチョー!アチョー!」とやっていました。

8月の30日に、出会いの感謝も含めて、アレックスに8月分と9月分の謝礼金を手渡しました。今度はいよいよ、子供たちの英語教室も同時開講です。

しかし翌日、アレックスは現われませんでした。火急の用事でも出来たのでしょうか。それとも体の調子でも悪くなったのでしょうか。電話で確かめる術もありません。

小学校の学期初めで気を遣ったり、私自身の体の調子が思わしくなかったせいもありましので、アレックスと次に会ったのは3日のちでした。

何とか体の調子も戻りましたので寮にアレックスを訪ねますと、友人のムタンデと話し込んでいる最中でした。様子から判断すると、体の調子が悪かったようにも思えません。

教育棟前でムタンデと

アレックスによると、大金を手にしたその日、つい気が大きくなって友人を誘い、例のエリザベスホテルに繰り出して酔っ払ってしまったようです。気にはなっていましたが、約束を果たせなくてすみませんでしたと言います。

ミスタームランボの例もありますので、前金を渡したのがいけなかったのかなという思いが少しは頭をかすめていただけに、経緯を聞き、やはり出会いは嘘ではなかったのだと安堵感を覚えました。そして、何となく嬉しくなりました。

教育棟前でミスタームランボといっしょに

アレックスは煙草を吸います。箱では買えませんので、ばら売りを買って吸っているようです。そこで、百円ライターを一つプレゼントしました。火器類の機内持ち込みは禁止されていますが、百円ライターが貴重品だと聞いていましたので、何個かをトランクの中に忍ばせていたのです。

次の日、ライターを持っているはずのアレックスがマッチを使っているのに気がつきました。その理由を聞きますと、例のホテルの酒場で日本製のライターだと見せびらかしたら、我も我もと取り合いになって、たちまちガスがなくなってしまいましたと言います。その光景が目に浮かびそうで、吹き出してしまいました。アレッスは恥ずかしそうにしています。それまで半信半疑でいたのですが、百円ライターも確かに貴重品の一つだったようです。

アレックスはビールやチキンが大好物です。毎回、お昼を食べながらビールを一緒に飲みました。もともと肌の色が黒いので目立たなのですが、ビールが入ると少し赤くなって、陽気なアレックスが更に陽気になります。私の方も顔を赤くして、陽気になり、話も弾みます。

ビールを飲んで陽気なアレックス

大学の3年間は楽園ですよとアレックスが話します。大学に来るまでも大学を出てからも、どうやって食べていくかの心配ばかりですが、少なくとも寮にいる3年間は、1日に5ドルで3食が保障されていますから、その心配をしなくていいだけでも天国ですよと付け加えました。

妻にとっても、毎回の食事の準備は大変です。ある日、長男も食べたいと言いますので、アレックスにもフライドチキンを買ってきましたら、大好評でした。鳥肉の苦手な妻と長女は敬遠しましたが、それから時折、ビールとチキンが昼食のメニューに加わるようになりました。アレックスも大喜びし、妻も食事の用意の手間が多少軽減されて、まさに一石二鳥です。

ジンバブエでは鳥肉が一番高価です。南アフリカやケニアでもそうらしいようですが、鶏をつぶして客人に供するのが最高のもてなしだそうです。従って、ショッピングセンターや中心街にはチキンインという持ち帰り(テイクアウェイ)の店が必ずありますが、日本のケンタッキーフライドチキンなどよりは高級な扱いです。骨付きの3片にフライドポテトがついて、12ドルほどでした。アレックスも普段はとても食べられませんからと言いながら、おいしそうにチキンを食べていました。

アレックスと長男

ビールにしても、普段はそう飲めるわけではありません。私自身、チキンはあまり好きではありませんでしたが、ビールを飲みながら如何にもおいしそうにチキンを食べるアレックスにつられて、つい食べるようになってしまいました。

アレックスとは色々な話をしました。ゲイリーの場合は、ある程度話題が限定されていましたが、アレックスとは文学を中心にして、話の世界が広がっていったように思います。感性の響き合う部分が重なっていたせいもあるしょう。

ラ・グーマやグギ・ワ・ジオンゴなどのアフリカの作家だけでなく、リチャード・ライトやスタインベックなどのアメリカの作家についても、よく似た受けとめ方をしていました。『怒りの葡萄』に出てくる牧師が僕は好きでねえと私が言いますと、アレックスからジム・ケイシィは私も好きですよという返事が返ってきました。

アメリカ映画『怒りの葡萄』

ラ・グーマもグギさんもライトも亡命作家ですが「亡命後に書いたものはやはり勢いがないですよ、だから例えばラ・グーマなら、南アフリカにいる間に書いた処女作『夜の彷徨』が、やっぱり一番いいですね、また、グギさんが最近出した『マティガリ』も、長い間ケニアを離れているせいか、少し観念的で勢いがないように私には思えます。人物描写にも信憑性がないですよ。」とアレックスは言います。3人とも私の好きな作家ですが、私自身も日頃から同じような感想を持っていましたので、これだけ違った環境で育った2人がこんなにも似通った感覚を持ち得るものなのかと、驚いてしまったほどです。社会主義を掲げている南部アフリカの国で、こういった話が出来るとは夢にも思いませんでした。

グギさん(小島けい画)

子供たちに英語を教えてもらうようにと話は決めたものの、ほとんど英語が聞き取れない2人にどうやって英語を教えるのか、ミスタームランボの時と同じように、心配でもあり興味もありました。

いざ始まってみますと、そんな心配は不要でした。子供の柔軟性は大人の想像をはるかに超えていました。それぞれ1時間ほど英語で英語の説明を受けて、結構反応しています。よく笑い声も聞こえてきました。おかしくもないのに笑ったりはしないでしょうから、それなりに言われている内容を理解し、心も通わせていたのでしょう。初めは恥ずかしそうにしていた長女も、毎日を楽しみにするようになりました。学校で出された宿題をアレックスに聞いたり、日本から持ってきた学校の教科書を読んでもらって録音したり、なかなか積極的に楽しんでいる風でした。時にはウォークマンを持ち出して、尾崎豊やイギリスの歌手グループテイクザットなどの歌をかけて、アレックスに聞かせていました。アレックスも初めて見る高性能のテープレコーダーに目を見張りながら、ヘッドフォンをかけては独り、音響の世界に浸っていました。ジンバブエの音楽とは随分とリズムが違うようですが、アレックスは日本の歌を大変気に入ったようです。長女は日本から持ってきていた音楽テープを録音して、アレックスにプレゼントしていました。

ウォークマンで音楽を聴くアレックス

寮でアレックスは、ジョージやイグネイシャスやメモリーなどの友人を何人か紹介してくれました。それぞれ国中から集まってきた精鋭ですが、日本ではいまだに忍者が走っていると本気で信じ込んでいました。街には日本のメイカーの自動車が溢れていますし、ハイテクニッポンの名前が知れ渡っているのに、です。

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ジョージ(小島けい画)

アメリカのニンジャ映画の影響のようです。アフリカ人がいまだに裸で走り回っていると思い込んでいる日本人もいるし、今回私がジンバブエに行くと言ったら、「野性動物と一緒に暮らせていいですね」とか、「ライオンには気をつけて下さい」とか言う人もいたから、まあ、おあいこですねと説明しましたら、なるほど、それじゃ日本について教えて下さいと誰もが口を揃えて言い出しました。さすがに精鋭の集団です。言われて即座に、ハイテクの国に忍者がいるのはやはりおかしいと気付き、自分たちの誤った認識をただしたいと考えたのです。しかし考えてみますと、精鋭の集団ですらこうなのですから、西洋の侵略を意図的に正当化しようとする力や、自分達の利益を優先するためにあらゆるメディアを巧妙に操作しようとする自称先進国の欲が抑えられない限り、お互いの国の実像が正確に伝わるのは難しいでしょう。日本でのアフリカの情報にも、この国での日本の情報にも、欧米優位の根強い偏見がしっかりとしみついています。

大柄なイグネイシャスは、小さい頃に大人から聞いた民話を書いたり、自ら詩を創ったりしている文学青年です。ヨシの奥さんに絵を描いてもらって、日本で僕の作品を紹介してくれませんかと真剣な顔つきで話します。日本に留学出来ませんかとも言います。

童顔のメモリーは空手に興味があるらしく、しきりに空手についての質問を浴びせかけてきます。経験のない私は、メモリーの質問にはお手上げでした。

アレックスの夢は新車(ブランドニューカー)を買って、ぶっ飛ばすことだと言います。周りの者も頷いています。私が車に乗っていないと言いましたら、アレックスが怒り出しました。日本なら簡単に車が買えるはずなのに、どうして車に乗らないのか、車に乗らないなんてどうしても理解できないと言い張ります。ほぼ詰問です。

車なしでもやっていける、確かに車は便利だが、スピード感が変わってしまうし、今の季節感も失ないたくないなどと私なりに説明を加えてみましたが、アレックスは最後まで不服そうでした。

車中心のこの社会では、車は必需品には違いありませんが、アフリカ人にとっては車を持つこと自体が、同時に一つの成功の証なのかも知れないと思いました。車を手に入れたいというアレックスの願いと、出来れば車文化の渦中に巻き込まれないでいたいという私の思いの間には、想像以上の隔たりがあるように思えてなりませんでした。(宮崎大学医学部教員)

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アレックス

執筆年

  2012年11月10日

収録・公開

  →「ジンバブエ滞在記⑰モロシャマリヤング」(No.52)

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  「ジンバブエ滞在記⑰モロシャマリヤング」

2010年~の執筆物

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通(MonMonde)」に『ジンバブエ滞在記』を25回連載した16回目の「ジンバブエ滞在⑯ 75の出会い」です。

1992年の11月に日本に帰ってから半年ほどは何も書けませんでしたが、この時期にしか書けないでしょうから是非本にまとめて下さいと出版社の方が薦めて下さって、絞り出しました。出版は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、出版は出来ずじまい。翻訳三冊、本一冊。でも、7冊も出してもらいました。ようそれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。連載はNo. 35(2011/7/10)からNo. 62(2013/7/10)までです。

本文

75セントの出会い

ジンバブエ大学のツォゾォさんを訪ねた最初の日、部屋では5人の学生が授業を受けていましたが、その中にアレックスがいました。

ムチャデイ・アレックス・ニョタ。ムチャデイ・ニョタがショナの名前で、ミドルネームのアレックスが英語の名前です。どう呼んだらいいですかと尋ねましたら、アレックスがいいですねと言います。最近、親は好んで子供に英語の名前を付ける傾向があります、流行ですよとアレックスが呟きました。そう言えば、ゲイリーの子供たちは3人とも英語の名前です。

アレックスと仲よしになったのは、偶然です。

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教育棟前でアレックスと

アレックスが受けていたツォゾォさんの授業は、映画や映像に関する特殊講義でした。アメリカで学んだ映画学、映像学を、ここ数年来ツォゾォさんが英文科の学部生を対象に講じていたのです。ツォゾォさんは、演劇や映画に大いに関心があるらしく、著書の半数は戯曲です。大学では演劇の講義も行なっていますし、学生や市民を対象に演劇の指導をしたり、毎日放映されているテレビのショナ語によるドラマ番組の企画も担当していると言うことでした。

「売春を仕事にしている人たちを取材して、エイズのビデオ映画も作ったよ、ヨシ。大変だったけど、実際映画に作ってみると、何とも深刻な問題だとしみじみと考えさせられたね。」とも言っていました。

何回か授業も見せてもらいましたが、その時は、ビデオ機器の説明と、実際の使い方が主体でした。英語科が購入していたのは日立製のカラーテレビと、オートフォーカスのナショナル製のビデオカメラでしたが、テレビの映像があまり鮮明ではありませんでしたし、ビデオカメラも大型でしたので、どちらもかなり旧式に違いないと思いました。

ビデオテープでも鍵を掛けて机にしまいこむのですから、ビデオカメラ自体が相当な貴重品です。英文科の学生でなかったら、ビデオカメラを使って撮影する機会など、そう簡単にはないでしょう。

ビデオカメラの使い方を解説するツォゾォさん

2回目の授業の時だったと思います。ツォゾォさんがビデオカメラの簡単な説明をしたあと、学生たちはカメラを抱え、好きな映像を撮るためにキャンパスに出て行きました。学生は1時間ほどして戻って来ましたが、初めての経験なので誰もが興奮気味です。処女作の出来栄えが気になるようで、来週の授業まで待てないので、出来るだけ早く観る機会を設けてほしいと言い出しました。

「来週まで待てないほど観たいのか?」とツォゾォさんが尋ねています。「ウィアダイイングツーシー(死ぬほど観たい)"We’re dying to see."」と学生が口々に答えました。「ウェル、ウィルユーダイオンフライデイ?(じゃあ、金曜日に死ぬのはどうか?)"Well, well, you’re dying on Friday?"」とツォゾォさんが提案しました。英語で言葉遊びをしています。ツォゾォさんも学生もすべてショナ人ですが、授業中にショナ語は一言も聞かれませんでした。すべて英語です。何だか不思議な気もしましたが、日本で英語科の学生が英語を使う日本人教師の授業を受けていると思えばいいのかと考えました。学内ではショナ人同士の会話もほとんどが英語だったように思います。

授業でのアレックス

「ヨシも金曜日に観に来ませんか?」と学生の1人が言っています。仲間に入れてもらっていたのかと私は嬉しくなり、「では、金曜日に。」と承諾の返事をしました。

金曜日は2時にという約束でしたので、早めに出かけて、ツォゾォさんの部屋の前で待っていました。半時間ほど経っても、誰も来ません。ツォゾォさんの部屋も閉まったままです。これがアフリカ時間なんだろうなと諦めかけていたとき、アレックスがムタンデという学生と一緒に姿を現わしました。

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教育棟前でムタンデと

階段の踊り場で、話をしながら3人でしばらく待ってみましたが、結局ツォゾォさんも残りの学生も姿を見せませんでした。仕方なく解散しかけた時に、アレックスが折角ですからキャンパスでも案内しましょうかと言ってくれました。

ここが図書館で、ここが管理棟ですよと言いながら、アレックスは学生会館に案内してくれました。ゲーム機が置いてあったり、小さな売店があったりで、学生の憩いの場となっているようです。会館の入り口で、アイスクリームマンからアイスキャンディを買い、3人は並んで歩きながら食べました。自転車の荷台のアイスボックスは冷蔵する力が弱いせいでしょうか、アイスキャンディは少々柔らか目でしたが。3本で、3ドルほどだったように思います。

アイスクリームマン(小島けい画)

それから、アレックスが住んでいる寮に案内してくれました。最上級の3年生用のニューホールと呼ばれている寮で、12月の初めには、この寮を出て就職先が決まるまで、一時田舎の自宅に帰るようです。机とベッドが備え付けられた狭い部屋ですが、日当たりもよく清潔な感じです。3食付きで、共同のシャワーがあるそうです。

部屋には、本棚にラ・グーマの本や英語の辞書などが少々並べられてあり、ダブルカセット付きのラジオカセットが置いてあります。ゲイリーの生活水準なら到底考えられない光景です。

学生寮「ニューホール」

しばらく喋ったあと、何か飲み物でも買って来ませんかと私が気をきかせたら、それじゃ売店までみんなでコーラを飲みに行きましょうとアレックスが言いました。中身より瓶の方が高いので、その場で飲む人が多いです。冷蔵庫が貴重品なので、清涼飲料水を冷やしておくのもなかなか大変です。私は普段コーラは飲みませんが、郷に入れば郷に従えです。一緒にコーラを飲みました。
もちろん誘った私が払うつもりでしたが、支払う段になって、アレックスがどうしても自分が払うと言い出しました。折角の好意なので、ここはアレックスの顔を立てることにしました。帰りには、アレックスが近道を行きましょうと学校の外れまで送ってくれました。学費を払うだけでも大変でしょう、無理しなくてもよかったのにと言いましたら、アイスキャンディのお礼ですよ、おごってもらったら、お返しをするのがショナのやり方ですという返事が返って来ました。精一杯背伸びをしている態度が私には気持ちよく思えました。

コーラの値段を聞きましたら、中身は1本75セント(20円足らず)ですからと教えてくれました。僅かな額でしたが、アレックスの気持ちが嬉しく感じられました。

8月19日のことです。ジンバブエに来て、ほぼ1ヵ月が過ぎていました。これが予想もしなかった75セントの出会いとなりました。(宮崎大学医学部教員)

ショナ語をアレックスから

執筆年

2012年10月10日

収録・公開

「ジンバブエ滞在⑯75セントの出会い」(No.50)

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「ジンバブエ滞在記⑯75セントの出会い」

2010年~の執筆物

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通(MonMonde)」に『ジンバブエ滞在記』を25回連載した15回目の「ジンバブエ滞在⑮ ゲイリーの家」です。

1992年の11月に日本に帰ってから半年ほどは何も書けませんでしたが、この時期にしか書けないでしょうから是非本にまとめて下さいと出版社の方が薦めて下さって、絞り出しました。出版は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、出版は出来ずじまい。翻訳三冊、本一冊。でも、7冊も出してもらいました。ようそれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。連載はNo. 35(2011/7/10)からNo. 62(2013/7/10)までです。

本文

ゲイリーの家

作りかけの教室の足しにでも使って下さいと校長に寸志を手渡して、ルカリロ小学校を後にし、私たちは再びゲイリーの家に戻りました。

ゲイリーの家でも、大歓迎を受けました。両親や兄弟やその家族を紹介してもらいましたが、少々人が多過ぎて、両親以外は誰が誰だかわかりませんでした。

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ゲイリーの家族・親族

最初に案内された小屋風の建物は、みんなが集まって寛ぐ場所のようですから、さしづめ居間に相当するインバでしょう。円形の室内は、外から見る以上に天井が高くて広い感じです。周りの壁の一部には、座るのにちょうどいい高さに、ベンチとでも言うべき腰掛け台が設けられ、真ん中に掘られた囲炉裏には、火が入っています。ここで食事をしたり、団欒の時を過ごすのでしょう。採光や換気が充分でないと感じるのは、今の私が都会の生活に慣れてしまっているせいでしょうか。

ゲイリー夫妻のインバにも連れていってもらいました。セメントと土を混ぜて塗ったと思われる床はぴかぴかに光り、隅々にまで手入れが行き届いています。室内には清潔感が漂っていました。フローレンスがどうぞと、さっと床にザンビアを広げてくれました。ルカリロ小学校で録音したテープを聞こうということになって、テープレコーダーを回し始めましたら、だんだんと人の数が増えてきました。

妻は、ゲイリーのインバをスケッチしたいと外に出ました。たちまちの人だかりです。ゲイリーは、向こうにいる女性陣が歌って踊りたいと言っているので、録音しませんかと言っています。何らかの形で歓迎の意を伝えようとして下さっているのでしょう。

ゲイリーとフローレンスの寝室の前で

最後に、ゲイリーは家の墓に案内してくれました。家のすぐ傍の樹の下に、何個か大きな石が置いてあって、石には「……モヨ」という先祖の名前が刻まれています。前の日に用意しておいた36枚撮りのフィルムもあと僅かとなっていましたが、ゲイリーのたっての希望により、墓の写真を何枚かフィルムに収めました。

墓石の前に立ち、向こうに見える小高い山を見つめながら、あの山の麓までがモヨ家の土地なんですよと何気なくゲイリーが言いました。

何も遮るものがない向こうの山の麓まで、2、3キロはあるでしょうか。いや、もっとあるかも知れません。何ということでしょう。こんなに広い土地がありながら、家族と一緒にここで暮らせないなんて。

渇いた大地の中にゲイリーと並んで立ち、激しく吹きつける風を我が身に受けながら、これがアフリカの現実だとしみじみ思いました。おそらく、目の前の墓に眠っているゲイリーのひいおじいさんの世代までは、豊かな家畜の群れを持ち、日の出とともに起き、陽が沈む頃に休むという自給自足の生活を享受していたはずです。

対象が大きすぎて、当事者のゲイリーには把握する術もなく、あまりにも厳しい現実に、考える余裕すら持てないのが本当の所だと思いますが、「先進国」がアフリカ人の安価な労働力を食い物にしている搾取の縮図が、まさに目の前に広がっていました。

この国に本格的に西洋人が侵入して来たのは、19世紀の終わりで、わずか100年前のことです。金を掘り当てるのが目的でした。

最初に南アフリカにやって来たのは、オランダ系の入植者アフリカーナーですが、イギリス人はそのアフリカーナーを内陸部に追い遣って、次第に南アフリカの主導権を握るようになっていました。

1854年ころまでには、豊かで肥沃な海岸部のケープとナタールの2州をイギリス人が占有し、内陸部のオレンシ自由州とトランスヴァール州をアフリカーナーの自治領としてイギリス人が認める形で覇権が確立されていました。他のヨーロッパ列強の進出を阻むために南アフリカを押さえておく必要性がありましたが、イギリスにとって南アフリカ自体はまだそれほど重要性を持つ国ではありませんでした。

南アフリカの地図

しかし、1886年に、現在の南アフリカ最大の都市ジョハネスバーグがあるヴィットヴァータースラント(ラント)地方に金が出てから、状況が一変します。ジンバブエへのイギリス人の侵略は、このラントでの金の発見と密接に関係しています。

金が出たラントは、イギリス人がアフリカーナーに自治領として認めたトランスヴァール州内にありました。のちに金の採掘権をめぐって、2国間で壮絶な第2次アングロボーア戦争(1899年~1902年)が繰り広げられますが、豊かな金を産出するラントの出現は、それまでアフリカ南部の覇権を誇っていたイギリスにとっての脅威となりました。

ジンバブエへの進出を積極的に推し進めたのは、すでにケープ植民地で権力を手にしていたセシル・ローズやその取り巻きです。ローズは、1868年にオレンジ自由州キンバリー付近でダイヤモンドが発見されてから南アフリカに渡って来た入植者の一人です。17歳の若さながら、次々と採掘権を奪いながら、次第に財力をつけ、やがて90年にローズはケープ植民地の首相になりました。

ダイヤモンドの採掘(「アフリカシリーズ」)

ラントの出現により優位を脅かされると懸念したイギリス政府はローズらを後押して89年にイギリス南アフリカ会社(BSAC)を設立させ、第2のラントを求めて、本格的に北部への進出を開始しました。翌年の6月には、武装したBSACの私設軍500人と入植者200人が、ローズの庇護をもくろむ350人のグワト人を従えて、北部のベチュアナランド(現在のボツワナ)からマショナランド(現在のジンバブエの北部)に侵入し、9月には現在のハラレに、入植者がイギリスの国旗を翻しました。

入植者は、その地をソールズベリと名付けました。のちに国はローズにちなんで、ローデシアと呼ばれるようになります。ケープタウンとエジプトのカイロを結ぶ一大帝国を築く野望を持っていたローズにとって、この北部進出は一つの足掛かりでもありました。

相当の土地と金の採掘権とを約束されていた入植者は直ちに金探しに没頭しましたが、期待したほどの成果は得られませんでした。その土地が第2のラントにはならなかったわけです。

予め専門家に金鉱脈の調査を依頼していたローズは、94年に調査結果の報告を受け、南部のマタベレランドに少しは金が出るものの、ラントほど豊かな鉱脈をどこにも期待出来ないことを知りました。そして、ローズとBSACは、金の採掘に代わる手段として、その地に住むアフリカ人から富を奪う道を模索し始めます。北部のマショナランドと南部のマタベレランドを合わせて南ローデシアと呼び、ローズやBSACに守られた入植者は、そこに住むンデベレ人とショナ人から家畜と土地を奪います。その後、強制労働や税金を強要して貨幣経済に巻き込み、アフリカ人を安価な労働力として最大限に利用出来る搾取構造を、系統的に打ちたてていくのです。

セシル・ローズ(「アフリカシリーズ」)

税金をかけられて払えない村人には、働ける者が現金収入を求めて都会に出ていくしか術はありません。都会では、家族を養えるだけの賃金も得られずに重労働を強いられ、劣悪な環境の中での惨めな生活を余儀なくされました。搾取構造がしっかりしている限り、白人側には絶えずアフリカ人の安価な労働力が確保されています。アフリカ人が貧しくなればなるほど、搾取する側はますます豊かになって行く仕組みです。

ゲイリーのお爺さんも、お父さんも、そんなイギリス人による侵略の波をもろに受け、歴史の巨大な流れの中で苦しんで来た筈です。そしてゲイリーも今、こんなに広大な土地を田舎に持ちながら、1年の大半を家族と一緒に過ごすことも出来ず、僅か170ドルで24時間拘束されて、いいように扱き使われています。

渇いたゲイリーの土地を遠くに眺めながら、残酷な歴史と厳しい現実に押しつぶされてしまいそうな気持ちになりました。

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子供たち、ゲーリーたちの土地を背に

1980年の独立を機に、ローデシアはジンバブエに、ソールズベリはハラレに、入植地を記念して名付けられたセシルスクウェアはアフリカンユニティスクウェアにそれぞれ改名されました。アフリカンユニテスクウェアは、ミークルズホテルや国会議事堂や英国国教会に囲まれた街の中心地にあり、今は市民の憩いの場として親しまれています。学生のアレックスが記念撮影の名所ですよと教えてくれました。公園の真ん中にある噴水の前で、私たちも何度かシャッターを切りました。

アフリカンユニティスクウェアで

大変な1日でしたが、暗くならないうちにゲイリーの家をあとにしました。別れ際に、車の陰で、2番目のメリティが泣きたい気持ちを必死に堪えようとしているのが目に入って来ました。別れが妙に切なく思えました。(宮崎大学医学部教員)

メリティと長女

執筆年

  2012年9月10日

収録・公開

  →「ジンバブエ滞在⑮ゲイリーの家」(No.49  2012年9月10日)

ダウンロード・閲覧(作業中)

  「ジンバブエ滞在記⑮ゲイリーの家」

2010年~の執筆物

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通(MonMonde)」に『ジンバブエ滞在記』を25回連載した14回目の「ジンバブエ滞在⑭ ルカリロ小学校」です。

1992年の11月に日本に帰ってから半年ほどは何も書けませんでしたが、この時期にしか書けないでしょうから是非本にまとめて下さいと出版社の方が薦めて下さって、絞り出しました。出版は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、出版は出来ずじまい。翻訳三冊、本一冊。でも、7冊も出してもらいました。ようそれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。連載はNo. 35(2011/7/10)からNo. 62(2013/7/10)までです。

本文

ルカリロ小学校

お別れ会では甥の友達に車を頼もうという話になっていましたが、ゲイリーは信用していなかったようで、新聞広告に出ているレンタカー会社に直接電話をして、予め1人で手続きに行く日を決めていました。私たちを連れて子供たちに会いに行きたいという思いが、それだけ強かったのでしょう。

出発日の3日前に、タクシーを呼んでゲーリーと2人でレンタカー会社に出かけました。VISAカードを保証金代わりに使って、手続きは簡単に済みました。車を返す時に、ガソリン代や超過料金も含めて精算するそうです。運転手つき10人乗りのミニバスだそうで、契約書では、運転手に35ドル支払うようになっています。全体で1000ドル程です。ゲイリーには大変な額ですが、運転手付きで終日契約ですから、約2万5000円は高くはないと思いました。

9月17日木曜日、予定より40分ほど遅れて車が到着しました。白の新しいワンピースを着たフローレンスは身も心も軽そうで、ゲイリーもネクタイを締めていつになくきめています。2人は明らかに小学校を訪れる保護者の装いです。メイビィも新品のワンピースを身につけ、赤い靴を履いてすましています。

私たちの方は、ウォルターとメリティに会い、うまく行けば2人のクラスに顔でも出せればという軽い気持でしたので、普段着のままでした。

運転手はケニーという青年でした。車はISUZUの10人乗りのワゴン車で、タクシーとは違って新しく、エアコンやカーステレオまでついています。

記念撮影のあと、車は快調に走り出しました。一番奥に陣取ったゲイリーとフローレンスの顔からは笑みがこぼれています。街中を抜けて、渇いた大地が続きます。所々に、土か煉瓦造りの壁に草葺き屋根の小屋が見えます。さっそくカメラを構えました。そばではゲイリーがにやにやと笑っています。

ショナ語では小屋風の建物はインバ(IMBA)と呼ばれています。日本や西洋で言う一軒の家(HOUSE)ではなく、両親の寝室用のインバ、居間用のインバ、子供用のインバなどのような、それぞれの独立した建物を指すようです。ジンバブエの名前は、非常に大きなと言う意味のジ(ZI)とこのインバと石を意味するブエ(BE)が集まったもので、大きな石の建物という意味だそうです。

インバ(小島けい画)

南アフリカでは都市部のアフリカ人居住地区をタウンシップ、田舎の居住地区をロケイションと呼んでいるようですが、この国では、都市部のアフリカ人居住地区がロケイションと呼ばれ、タウンシップは田舎地方で商店が集まった1区画を指すようです。

途中で1度、そのタウンシップに立ち寄って、みんなの飲み物を買いました。ゲイリーは家に持って帰る食料や飲み物などを買いこんでいたようです。

出発後1時間半ほどして、ゲイリーの家に着きました。ウォルターとメリティをハラレまで迎えにきたゲイリーのお母さんをはじめ、10数人の縁者と思しき人たちが出迎えて下さいました。よく見ますと、ゲイリーの家も小屋風の建物(インバ)でした。
道理で写真を撮っている時に、ゲイリーがにやにやしていたはずです。こういうことなら、走る車の中から何もわざわざ写真など撮らなかったのに、ゲイリーも人が悪い。

予定より遅れ気味ですからとゲイリーに急かされて、みんなを乗せたワゴン車は、急いでルカリロ小学校に向かいました。

そんな筈ではなかったのに……。車のドアを開けたら、人だらけでした。外に出ると小学生のかわいい黒い手が次々と差し出されています。握手攻めです。横を見ますと、妻も子供たちも初めての経験に戸惑いながら、まんざらでもなさそうな顔つきで握手の求めに応じています。1日皇室を引き受けたら、こんな感じでしょうか。

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ルカリロ小学校の子供たち

教師と思われる人が現われて、子供たちを蹴散らしています。そんなに乱暴に扱わなくてもいいものをと眺めていましたら、校長らしい人物が登場して、丁寧な歓迎の挨拶を受けました。見れば、全校生徒のお出迎えです。300人以上はいるでしょうか。

初めに校長室に案内されました。床土がむき出しの狭い部屋で、ムガベ大統領の写真が掲げられています。例によって、先ずは記念撮影です。

校長室に案内されて

そのあと、校舎の中を回りました。建てかけの煉瓦造りの建物があります。資金不足でこれ以上は作業が進まないのだそうです。一通り、教室などを見て回りました。もちろん教室にも電気はありませんし、地面の床はでこぼこで、全体にみすぼらしい感じです。白人地区の小学校に比べれば、すべての施設がはるかに見劣りします。政府の予算が都市部の開発に集中して、農村部にあまり回らないのは、ジンバブエでも他のアフリカ諸国と同じ状況のようです。

そのあと案内された所は、運動場に設けられた来賓席でした。授業をやめて、私たちを迎えて全校あげての大歓迎会を計画したというわけです。

私たちがこの村ムレワにとっての初めての外国人訪問客だったのは光栄の至りですが、木陰には両親や村の人たちまで、たくさんの人たちが集まっています。まるで村のお祭りです。もう一度、こんな筈ではなかったのだがと思ってはみましたが、今となっては後の祭りです。今更、来賓席から逃げ出すわけにも行きません。観念して来賓席に座りました。校長から短かい挨拶があったあと、さっそく歓迎会が始りました。

来賓席で

太鼓を抱えた5人の女の子がさっと前に出て、棒切れを使って太鼓を鳴らし始めました。くり抜いた大きな木に、獣の皮を張りつけた手製の太鼓で、皮は牛か山羊でしょうか。ひょうたんで作った打楽器オーショを手に持っている生徒もいます。軽快なリズムと巧みな手さばきが独特です。太鼓を合図に、体育の教師に先導された体操服の生徒が弾むように入場して来ました。4年生か5年生あたりでしょうか、全員裸足です。女の子による太鼓と教師の笛に合わせて、体操演技が繰り広げられました。リズム感があって、腰の切れがなかなかです。小さい頃から、踊る機会も多いのでしょう。広大なサバンナによく似合っています。

手製の太鼓で

今度は、きれいな音楽の教師に先導された6年生がしとやかに入って来ました。ウォルターが神妙な顔をしています。来賓席には、日本の友だちと両親、それに自分の両親と妹が座っていますので、やや緊張気味です。澄んだコーラスを聞かせてくれました。さすがに上級生です。

音楽の教師に先導されて

各学年の出し物が続きます。歌や踊りの他に、英語の詩の暗唱というのもありました。1人ずつ交替で前に進み出て、マザーイズクッキング……アイアムルッキングなどとやるのですが、小さな頃から英語をたたき込まれているようです。声が小さな生徒は、校長から「もう一度」の声がかかります。見るからに人の良さそうな校長も、この時ばかりは怖そうです。中には生れつき声の小さな人だっているはずなのに、どうして無理やり大声を出させるのだろう、見ていて、気の毒になってきました。

乾燥しきった大地に、烈しい風が吹いています。木陰に座っていますと、寒いほどです。強い風にあおられた砂埃のせいで、喉がいがいがします。生徒は地べたに座って演技に見入っています。近づいて写真を撮るときに気づいたのですが、鼻をぐすぐすさせたり、空咳をしている生徒が予想外に多く、洟を垂らしている生徒もいます。暖かいのにと以外な感じもしましたが、貧しい暮らしの中では、充分な衛生状態を維持するのも難しいのでしょう。

演技は2時間ほど続きました。来年1年生になるプリスクールの生徒まで登場して歌を歌ってくれました。終わり頃に、来賓と職員だけに貴重品のファンタやコーラが配られました。全校生徒の目が一斉に飲み物の瓶に集中します。たくさんの大きな目に下から見つめられて飲むのも勇気が要るものです。妻も子供たちも、申し訳程度に口をつけています。全く口をつけないのも失礼だし、かと言って全部飲むのも気がひけるし、となかなか難しい状況でした。

何を思い着いたのか、校長は体育の教師を呼び付けて、もう一度体操演技をやれと言い出しました。歓迎の意を更に表してというつもりなのでしょうが、最初の場面からの再現です。

体操演技

体操演技の途中で、感極まったのでしょか、木の下の保護者席から聖歌隊用の赤い服をきたおばさんが飛び出してきました。踊りながら、若い体育の教師に10ドル紙幣をプレゼントしようとしています。観衆からは、やんやの喝采です。体育の教師は照れながらその10ドルを受け取りました。後で聞いたところでは、その青年は教育実習生で、間もなく大学に戻るということでした。

すべての演技が終わりました。

歓迎会の終わりは、生徒、職員、保護者、村の人など、参加者全員による大合唱でした。音楽の教師の指揮でイシェコンボレリアフリカの大合唱が始まりました。映画の中の集会の場面でコシシケレリアフリカの大合唱を聴いたことはありますが、目の前でその同じ曲が聴けるとは夢にも思っていませんでした。400人の大合唱はさすがに迫力があります。ゆったりとしたメロディーが、広々とした大地に木霊しました。

保護者、村の人など

それから校長が壷を抱えて立ち上がりました。私たちへの贈り物です。中には、木の実で作ったネックレスが入っています。相当に大きな壷です。壷の首の部分に、鮮やかな色の模様が描かれています。

こんな予定ではなかったのですが、手持ちのボールペンや鉛筆などの文房具とキャンディをお返しに手渡しました。17人いると聞いていた教員とウォルターとメリティのクラスの人たちにと用意してきた贈り物です。もう少し余計に用意しておけばよかったと思いましたが、今更どう仕様もありません。

そのあと400人の視線が一斉に私に向けられました。

マシィカティと私は大声を張り上げました。「こんにちは」と言うショナ語です。残念ながら、その後をショナ語では続けられません。こんなことなら、ショナ語を教えてもらっている学生のアレックスに頼んで準備しておくんだったなあ、折角の機会だったのに。

何をしゃべったのか正確には覚えていませんが、歓迎へのお礼や、子供たちがウォルターとメリティの大の仲良しだということや、教師に苛められて長女が学校を辞めた経緯や、道で会った心優しいショナの人たちなどの話をしたあと、白人に侵略され、負の遺産を背負わされた現状は厳しいでしょうが、優れた歴史や民族性に誇りを持って下さい、と締めくくったような気がします。最後のあたりはもう、日本国を代表しての演説です。少々お世辞も混じっていた感じもしますが、あんなにたくさんの目が一心に注がれる中で、しかも母国語では話せなかったのですから、あれが精一杯だったような思もします。

やっと終わったと思いましたが、それからがまた大変でした。ゲイリーが得意げに請け負ったのでしょう。各クラスの記念写真をと、それぞれのクラスが準備を始めています。全校生の19クラスに父兄、プリスクールの3クラス、職員、学校の教会の聖歌隊と続きます。あまり経験がなさそうなので無理もありませんが、たいていのクラスが太陽を背に勢揃いです。

クラス集合写真

逆光の説明も英語ではなかなか骨が折れます。暗い室内で並んでいるクラスもあります。電池の残りがあとわずかでしたので、大部分のクラスは外に並んでもらいました。前の日に街で電池を買ってはいましたが、すぐに使えなくなってしまうのです。もっと大量に買いこんでおけばよかったのですが、買う時にはまさか写真屋さんになるとは思ってもいませんでしたから。

後で焼き増しをして判ったのですが、暗い室内で撮ったのが1番映りがいいのです。黒い肌の人を撮るには、外の光では強すぎたようで、現像された写真を見ますと、光が反射し過ぎるか色が濃すぎるかで、顔がわかりにくい場合が多いのです。日本人と同じように考えていつものように何気なく写真を撮ったのですが、写真の光で肌の色の違いを改めて知ったのは新発見でした。

最後に、みんなで1枚撮ってくれと言います。みんなで1枚と気軽に言われても、300人もの人を一体どうやって1枚の写真に収めるというのでしょう。辺りを見回しました。あそこしかないでしょう。造りかけの教室の煉瓦の壁の上です。登ってみれば、1枚に収められるかも知れません。ちょうど足場も組まれたままです。ここまできたら、登るしかないでしょう。二階の高さほどの煉瓦の上に立って全校生を眺めおろしながらカメラを構える姿は、どこから見てもプロのカメラマンでした。(宮崎大学医学部教員)

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ルカリロ小学校の約300人の人たち

執筆年

2012年8月10日

収録・公開

「ジンバブエ滞在⑭ルカリロ小学校」(No.48)

ダウンロード・閲覧(作業中)

「ジンバブエ滞在記⑭ルカリロ小学校」