2010年~の執筆物

概要(写真は作業中)

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通(MonMonde)」に25回連載した『ジンバブエ滞在記』の巻末につけたジンバブエの歴史の3回連載で、今回は2回目です。

1992年の11月に日本に帰ってから半年ほどは何も書けませんでしたが、この時期にしか書けないでしょうから是非本にまとめて下さいと出版社の方が薦めて下さって、絞り出しました。出版は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、出版は出来ずじまい。翻訳三冊、本一冊。でも、7冊も出してもらいました。ようそれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。

連載は今回のNo. 60(2013/8/10)からNo. 62(2013/7/10)までの3回です。

本文

前回の→「ジンバブエの歴史1 百年史概要と白人の侵略」でセシル・ローズの侵略軍である遠征隊がハラレに到着してイギリスの国旗を翻した記念の場所、今日のアフリカン・ユニティ・スクウェアで長女と撮った写真を紹介しましたが、1992年の夏の話です。ローズが侵略を初めてから百年も経っていませんでした。あれから20数年、教科書でならう歴史は遠い過去の出来事だと考えがちですが、僕自身もそんな歴史の中を生きて来たんだと実感出来ます。(正確な表現のようにも思えませんが)

僕は第二次大戦直後に生まれた団塊の世代の中にいるようですが、
父親は31歳上で、西暦で言えば1920年代に生まれています。
会ったことはありませんが、
その父親はたぶん1800年代の生まれだと思います。

僕も戦後の貧しい時代や高度経済成長と言われる時代もみてきました。アパルトヘイト反対のささやかな抵抗もしたと思っています。

前回辿った「百年史概要と白人の侵略」は、ハラレで会ったゲイリーやツォゾォさんや二人のお父さんやお爺さんが体験した話、だったわけです。

少し前の新聞(「朝日新聞」2013年8月17日と18日)に、この一世紀もの間、ダイヤモンド業界を独占して来た「デビアス」の原石取引所が11月にアフリカに移転されるという記事が出ていました。移転先はカラハリ砂漠へと続く低木林が広がる
乾いたボツワナの首都ハボローネ。ロシア極東サハ共和国の国営独占企業「アルサロ」に2009年に採掘量を抜かれて追い詰められた「デビアス」が巻き返しを狙って新戦略を打ち出したという事態のようです。

「デビアス」は情け容赦なく採掘権の買収や企業合併を繰り返して1888年にセシル・ローズが操業した会社、その財力を武器にケープ植民地の首相になり、英国のお墨付きをもらって植民地拡大政策を強行、前回辿ったのはそんな白人の侵略の歴史でした。ローズの欲望とイギリスの果てしなき侵略欲のために、ゲイリーたちはずーっと翻弄されて来ましたし、これから先も翻弄され続けるのだと思います。

今回はアフリカ人の抵抗と搾取と収奪の構造をみてゆきます。

チムレンガ(解放)闘争

1896年に入ってアフリカ人の募る不満は爆発しましたが、
二つの出来事が引き金となっていました。

一つはジェイムスン侵入事件です。マショナランドとマタベレランドで金を期待できなくなったローヅにとって、ラントの金は大きな魅力でした。95年の12月に、ローヅは友人のジェイムスンとその部下500名をトランスヴァールに侵入させました。英国人を保護するという名目でしたが、計画は失敗に終わり、ローヅは政界からの引退を余儀なくされました。

トランスヴァールに派遣されたのは、大部分が英国南アフリカ会社の警察でしたので、南ローデシア(現ジンバブエ)にはほとんど警察が残っていませんでした。それに96年1月にはボーア人の勝利の報せがもたらされました。アフリカ人は時期が到来したのを感じて、遂に立ち上がったのです。

もう一つは牛疫です。

牛疫は牛や羊などのウィルスによる、急性で通例は致命的な伝染病です。89年に北アフリカに発生した牛疫は、95年にはザンベジ川にまで達し、96年初頭にはマタベレランドの家畜を襲い始めていました。90%以上の牛が疫病に侵されていましたので、政府の役人は病気の牛を射殺して回っていました。健康な牛が撃たれる場合も多く、アフリカ人の我慢もこの辺りで限界に達していました。更に、旱魃による被害も事態に追い打ちをかけました。

92年3月20日に、ンデベレ人は蜂起し、10日間でマタベレランド周辺には一人の白人もいなくなったと言われています。生き残った白人はグウェルやブラワヨで防御の陣地を組んで背水の陣を敷きましたが、ンデベレ人は会社や入植者から家畜を奪い返しました。

6月にロベングラの子ニャマンダがンデベレ人の王に選ばれましたが、その人選がンデベレ人内の抗争の原因となりました。

白人には、その権力抗争が助けとなりました。英国軍の応援を受けてはいましたが、6月にはすでにマショナランドのショナ人が蜂起していましたので、事態は深刻の度合いを増していました。
マショナランドでは6月14日から20日の間に、100人以上もの入植者が殺害されていました。ソールズベリ(現ハラレ)やウムタリ(現ムタレ)などでは、マタベレランドにならって防御の陣を組んで、白人はアフリカ人に必死になって対抗しました。

ショナ人は、7月中には主要な道路を押さえて勝利を手中にしたかに見えましたが、事態は白人に有利に展開してしまいました。
ンデベレ人が追い詰められて和解を余儀なくされていたために
会社と英国軍がマショナランドに集中出来たことと、ショナ人が団結出来なかったことなどが白人に有利に働いたためです。

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(1896年の和解時のンデベレ人指導者たち。英国南アフリカ会社=BSACの人たちも含まれています。)

戦いは97年の間じゅう続いてアフリカ人側は多数の死者を出し、とうとう白人に屈してしまいました。

搾取と収奪

南ローデシア(現ジンバブエ)では、英国王室の特許状に従って
1890年から1923年まで英国南アフリカ会社の主導による統治が行なわれましたが、23年には入植者が主体となった英国の自治植民地政府を誕生させ、70年まで入植者の統治が続きました。

英国南アフリカ会社の下でも自治植民地政府の下でも、多数を占めるアフリカ人の政治参加は認められず、アフリカ人は小農や賃金労働者として搾取され続けました。

搾取の方法は、強制労働と課税と土地の収奪です。政府は様々な法律を作って、アフリカ人からの搾取と収奪に全力を傾けました。

1903年、政府はローデシア「原住民」労働局を創設して、安価なアフリカ人労働者の確保に乗り出しました。労働局は強制的に鉱山労働者を補給しました。その補給はショナ語でチバロと呼ばれて、強制労働、奴隷労働という意味です。

労働者の半数は、北ローデシア(現ザンビア)やニアサランド
(現マラウィ)やポルトガル領東アフリカ(現モザンビーク)出身のアフリカ人でした。残りの半分は土地を失なったか、税金の支払いが出来ない国内のアフリカ人です。12ヵ月間の契約労働で、鉱山資本家が利益を上げるために賃金を低く抑えましたので、賃金は極めて安く、アフリカ人の労働条件は劣悪でした。用意された粗末なブリキ小屋に寝泊り出来ればいい方で、自分で小屋を立てて住まいを確保しなければならない人もいました。配給される食事も内容が貧弱でしたので、不足分を自分で買い込んで補強しなければなりませんでした。12時間の交替制で労働時間も長く、医療もほとんど受けられませんでした。白人のアフリカ人に対する取り扱い態度もひどく、アフリカ人は鞭で脅されながら働かされていました。1900年から1905年までの間に、
そういった悪条件の下で3万4千人のアフリカ人が肺炎と壊血病のために死亡したと言われています。

こうした資本家の徹底した搾取によって計上された利益は、
英国や南アフリカの投資家の間で分配されました。

アフリカ人には現金で支払う税金も課せられました。1894年に始められた小屋税は、大抵の賃金労働者の1ヵ月分の給料に相当する10シリングにも及んでいます。10年後にはその額が、
倍の二十シリング(一ポンド)に引き上げられました。

政府は、アフリカ人が税金を支払うためには白人入植者のために
働かざるを得なくなると考えていました。事実、北ローデシアやニアサランド(現マラウィ)などではその政策は功を奏し、その地域の多数のアフリカ人が南ローデシアや南アフリカに流れて、
白人入植者のために安い賃金で働かされています。貨幣経済の中にいなかったアフリカ人には税金を支払うための方法が他になかったからです。

しかし南ローデシアの場合は、政府が考えていた程には賃金労働者を生み出せませんでした。多数のアフリカ人が、市場に出す作物や家畜を育てる小農になったためです。アフリカ人小農は自分たちの食糧は確保し、余った作物と家畜を売って税金の支払いに充てました。至る所に点在する鉱山や小さな町に住む人たちが
近在の農家から食べ物を買い入れましたので、小農は自分たちの商品を売りさばく市場が確保出来たのです。

1904年頃までには、食糧の国内市場の90%以上を
ショナ人とンデベレ人の小農が占めるまでになっていました。

しかし、この事態は入植者や資本家の望むところではありませんでした。英国南アフリカ会社は白人農家に土地を売却してアフリカ人小農に対抗しようとしましたが、充分な労働力が得られず、成果は見られませんでした。

そこで、会社はアフリカ人から土地を奪って現金収入の道を断ち、奪った土地を白人農家に売る政策を強行するに及んだのです。政府はアフリカ人だけを居住させるリザーヴを設定しました。リザーヴは雨の少ない痩せた土地で、多くは鉄道や収穫物を売る市場から遠く離れた場所に設けられました。リザーヴへの強制移住は徐々に行なわれ、1920年代には約65%のアフリカ人がリザーヴに住むようになっていました。

最良の土地を確保した白人農家は、政府に援助され、保護されながら着実に経済力をつけて行きました。

一方、肥沃な土地を奪われたンデベレ人とショナ人は経済力を失うばかりか、過密状態になってリザーヴから溢れ出し、政府の思惑どおりに次第に移住労働者に仕立てられていきました。

政府はさらに追い打ちをかけ、30年には土地配分法を成立させました。その法律によって、アフリカ人のリザーヴ外での土地の購入を禁じると同時に、アフリカ人居住地ロケイション以外の都市部の土地をすべて白人のものと定めました。保留した一部の地域や動物保護区を除いて、国土全体を黒人、白人専用の地域に二分してしまったのです。

30年代には、更に世界恐慌の皺寄せがアフリカ人に襲いかかります。政府は玉蜀黍(とうもろこし)規制法や家畜差し押さえ法などを制定して白人農家に優遇措置を与えました。

こうして最初は英国南アフリカ会社主導の政府が、その後は入植者主体の政府が、安価なアフリカ人労働者を抱える一大労働力供給源を作り上げていきました。アフリカ人は契約期間中に仕事を辞めれば、マスター・アンド・サーヴァント法によって厳しく罰せられ、職探しのためにリザーヴを離れる際には、パスと呼ばれる通行証の携帯を義務付けられていました。体制側はパスをアフリカ人の管理や統制の手段として悪用しました。

この間、アフリカ人は一方的に政府の言いなりになっていた訳ではありません。様々な形で抵抗をしながら、理不尽な抑圧と闘っています。

密かな抵抗運動

政府は白人入植者のために安価なアフリカ人労働者を確保する体制を築き上げましたが、同時に賃上げや労働条件の改善を求めて闘うアフリカ人労働者階級をも誕生させました。

小農の多くは土地を奪われて移住労働者に仕立てられましたが、
中には成功して資本を貯える小農もいました。自分たちの資本を店や土地に投資して財産を増やし、その人たちがやがては中産階級を形成するようになっていきます。

賃金労働者と小農と中産階級はそれぞれの形で政府の圧政に抵抗を試みていますが、第二次大戦までは、三者が団結して闘うことはありませんでした。

鉱山労働者はコンパウンドと呼ばれる制度の下で厳しく管理されました。逃亡率の高い移住労働者はフェンスに囲まれた、入り口が一つのコンパウンド(たこ部屋)に入れられました。比較的に逃亡の恐れの少ない熟練者や妻帯者には囲いの外側に住まいが設けられていました。労働者全員がコンパウンド警察に監視され、
命令に従わなかったり、働きが悪い場合には、鞭で打たれました。スパイも多くいましたし、手紙もすべて検閲されていました。

監視が厳しく、公然と抵抗したり組織だった抵抗は難しかったのですが、それでもアフリカ人は密かな抵抗を行なっています。わざと仕事を長引かせたり、監視の目を盗んで施設を破壊して会社に損害を与えたりしました。事故に見せ掛けて扱いの悪い白人監督を狙ったりもしていています。1907年にマゾウェ近くのジャムボ鉱山では、監督の自宅が何者かにダイナマイトで吹き飛ばされています。危険をおかして逃亡を企て、より高い賃金を払ってくれる鉱山に移る労働者も後を断ちませんでした。

事後の厳しい制裁が待ち受けていたにもかかわらず、1895年には初の鉱山ストライキが行なわれました。その後、ワンキー炭坑(1912年)やシャムバ鉱山(1927年)などでもストライキが行なわれています。

通例、指導者は逮捕されて閉じこめられる場合が多く、罰として3ヵ月から12ヵ月の苛酷な労働を強いられました。シャムバ鉱山の場合は、ニアサランド出身の労働者が国外追放となり、二度と南ローデシアで働くことを禁じられました。

農場労働者の場合は、鉱山労働者ほど監督は厳しくありませんでしたが、賃金は鉱山労働者よりも更に安く、生活条件もよくありませんでした。鉱山労働者と同じように、仕事を遅らせたり、
非協力的な態度を取ったりして、経営者の白人農家に消極的な抵抗をおこないました。町では、都市化に伴ってロケイションを中心に労働運動が芽生え始め、1927年にはブラワヨ・ロケイションに最初の労働組合である通商産業労働者同盟(ICU)が創設されました。ニアサランド出身の移住労働者クレメンツ・カダリィがケープタウンで創設したICUの支部として労働組合を発足させ、1932年頃にはソールズベリを中心に5000人の会員を擁するまでに成長させています。しかし、政府の締め付けも厳しく、世界恐慌のあおりも受けて、ICUは1930年の半ばには実質的に崩壊してしまいました。

小農は、移住労働者を作り出す政府の政策に激しい抵抗を示しました。税金をかけられると、可能な限り新しい土地に移り住んで税金逃れを試みました。白人入植者のために働くことを拒んだり、時にはフェンスを盗んだり、家畜を殺したり、作物に火を点けたりもしています。残念ながらまとまった形の抵抗ではなかったので大きな力とはならず、町から最も離れた地域の貧しい人たちが移住労働者になる結果となりました。

1920年代、30年代になって、中産階級層がストライキを行なっています。早くから宣教師の経営する学校で教育を受け、金持ちの小農や教師や商店主などになっていた人たちです。ただ、賃上げなどを強く要望した賃金労働者とは違って、その人たちの要求は、アフリカ人の公正な取り扱いを白人に求めるなどの穏やかなものでした。

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 (中学校の歴史の教科書A New history of SOUTHERN AFRICA

次回は「ジンバブエの歴史3:工業化と大衆運動、武力闘争とジンバブウェの独立」です。向こうで出会ったゲイリーやツォゾォさんたちも巻き込まれた独立闘争も含まれます。(宮崎大学医学部教員)

執筆年

2013年9月10日

収録・公開

「ジンバブエの歴史2 チムレンガ(解放闘争)、搾取と収奪、密かな抵抗運動」(No.61  2013年9月10日)

ダウンロード・閲覧(作業中)

「ジンバブエの歴史2 チムレンガ(解放闘争)、搾取と収奪、密かな抵抗運動」

2010年~の執筆物

概要(写真は作業中)

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通(MonMonde)」に25回連載した『ジンバブエ滞在記』の巻末につけたジンバブエの歴史の3回連載で、今回は初回分です。

1992年の11月に日本に帰ってから半年ほどは何も書けませんでしたが、この時期にしか書けないでしょうから是非本にまとめて下さいと出版社の方が薦めて下さって、絞り出しました。出版は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、出版は出来ずじまい。翻訳三冊、本一冊。でも、7冊も出してもらいました。ようそれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。

連載は今回のNo. 60(2013/8/10)からNo. 62(2013/7/10)までの3回です。

本文

「ジンバブエ滞在記⑮ゲイリーの家」で「ゲイリーのお爺さんも、お父さんも、そんなイギリス人による侵略の波をもろに受け、歴史の巨大な流れの中で苦しんで来た筈です。そしてゲイリーも今、こんなに広大な土地を田舎に持ちながら、1年の大半を家族と一緒に過ごすことも出来ず、僅か170ドルで24時間拘束されて、いいように扱き使われています。渇いたゲイリーの土地を遠くに眺めながら、残酷な歴史と厳しい現実に押しつぶされてしまいそうな気持ちになりました。」と書きました。帰国後しばらくしてから何とかジンバブエ滞在記を一冊の本にまとめながら、ゲイリーたちの歴史を詳しく知りたくなりました。スウェーデンの市民グループがアフリカの歴史を見直して出版したThe Struggle for Africa (London: Zed Press, 1983)とジンバブエの中学校の教科書A New history of Southern Africa (Harare: The College Press, 1982) などをもとに、およそ百年の歴史をまとめて本の附録につけました。今回はその附録に少し手を加え、3回にわけて連載しようと思います。

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(The Struggle for Africa)

百年史概要

長年のアフリカ人の生活を一変させたのはヨーロッパ人ですが、
ジンバブエの場合は私がハラレに滞在してゲイリーたちと出会う
僅か百年余り前のことです。

サハラ砂漠以南の他の地域と同様にジンバブエでも、同じ祖先から別れた一族が、何世代にも渡って農耕と牧畜を中心とした一つの大きな社会(クラン)を形成して暮らしていました。クランには指導的な立場の人間がいて、その社会全体の家畜や農作業の取りまとめを行なっていました。ジンバブエ大学で出会ったツォゾォさんはそんな家系に生まれたようです。→「ジンバブエ滞在記21ツォゾォさんの生い立ち」(「モンド通信」No.55:2013年3月10日)

アフリカ人の間での覇権争いは絶えずあったものの、前世紀の後半まではこの地域での白人の脅威は存在しませんでした。

ジンバブエはイギリスの植民地として征服されましたが、直接イギリス政府に支配された他の植民地とは異なり、南アフリカからの入植者が主体となってイギリス政府の承認の下に支配体制をうち立てました。当初、ジンバブエへの進出は、南アフリカの領土拡張政策の一部に過ぎなかったのです。

二十年代には、白人の入植者が国の統治権を掌握し、アフリカ人を痩せた土地に追い遣り、安価な労働力として鉱山や農場で働かせる搾取体制を確立していました。二十年代の初めに南アフリカとの連合の道が模索されましたが、入植者はその道を選ばずに、独自の自治政府を作りました。ローデシアです。

西洋の資本、安価なアフリカ人労働力、豊かな鉱物資源などに支えられて、第二世界次大戦を境に南ローデシア(現ジンバブエ)は飛躍的に一大工業国となりました。

五十年代には、イギリス政府と国内の鉱山資本家に支持された与党統一連邦党は改革を推し進め、アフリカ人の中産階級を育てて自らの陣営に取り込もうとしましたが、白人の大土地所有農家と
賃金労働者の推すローデシア戦線党に破れました。台頭するアフリカ人賃金労働者階級との競争が脅威となっていたからです。

一九五三年に南ローデシアはイギリス政府と協力して、ローデシア・ニアサランド連邦を作りました。南部アフリカでの市場と北ローデシア(現ザンビア)の銅が狙いでした。南ローデシアは連邦内で、充分に経済力と軍事的力をつけ、六三年には連邦を解体させています。イアン・スミスが首相に就任し、イギリス政府の意向を無視して、六十五年には一方的独立宣言(UDI)を出しました。スミス政権を支えたのは、アフリカ人労働者階級との競争を恐れる白人の大土地所有農家と賃金労働者でした。

イギリスと国連の後押しで経済制裁が試みられましたが、南アフリカやモザンビーク(宗主国ポルトガル)などがスミス政権を支援して効果はあがりませんでした。アフリカ人は、白人が侵入してきた当初から抵抗運動を行なっていましたが、六十年代に入って解放闘争は本格的になりました。六十六年にはソ連や中国に支援を受けて、アフリカ人側は武力闘争を開始しています。

スミス白人政権とアフリカ人の闘争は混迷の度合いを深めましたが、東側の介入を恐れるアメリカ合衆国、南ローデシアに経済的に依存する近隣五ヶ国、投資での損失を懸念するイギリスなどの
西洋諸国が調停に乗り出して、妥協案を取りまとめました。そして、八十年にジンバブウェが誕生しました。ロバート・ムガベを首班とする初めてのアフリカ人内閣です。アフリカ人政権が誕生したとは言え、欧米諸国や日本の資本に経済的、技術的に依存する体制が基本的には変わりませんでしたので、色々な問題を抱えたまま現在に至っています。

白人の侵略

大半が現在のジンバブエに所属するリンポポ川とザンベジ川に挟まれた地域では、ショナ人が何百年にも渡って金を掘っていましたので、その噂はヨーロッパ人の探検家や狩猟家によって、ケープ州や遠くはヨーロッパにまで早くから伝えられていました。

当時、その地域はンデベレ人が住む南部のマタベレランドと、ショナ人が住むマショナランドに別れていて、ンデベレ人の方が力を持っていました。(現在のジンバブエは、北部の東・西・中央マショナランド、東部のマニカランド、南東部のマシィンゴ、中央部のミッドランヅ、南西部の北・南マタベレランドの八つの行政区に分けられています。首都のハラレはマショナランド東、第二の大都市ブラワヨとヴィクトリア・フォールズはマタベレランド北に、グレート・ジンバブウェはマシィンゴ、中央部の都市グウェルはミッドランヅの各行政区内にあります。)

八十年代後半にンデベレ人とグワト人の住んでいた間の地域
タティ(現在のボツワナの北部で、ジンバブウェとの国境付近)で金の採掘が行なわれましたが、思っていたほどの成果が得られずに試みは失敗に終わっています。

この地方の金が再び注目され始めたのは、現在の南アフリカ最大の都市ヨハネスブルグのある地域ヴィトヴァータースラント(通称ラント)で金が発見されてからです。セシル・ローヅの求めた第二のラントの夢が、ジンバブウェの運命を大きく変えました。

ローヅは十七歳の時に兄を頼ってナタールにやってきました。病気療養のためです。たまたまダイヤモンドラッシュに乗り、取引で持ち前の駆け引きの良さと冷徹さを発揮して成功し、巨万の富を築きました。チャールズ・ラッドとともに「ド・ベールス鉱業会社」を設立し、ゴールドラッシュにも進出しました。八十一年には、ケープ植民地議員に、九十年には植民地首相になっています。

南アフリカに最初に入植したオランダ人(最初はボーア人と呼ばれましたが、今はアフリカーナーと呼ばれていて、アフリカーンス語を話します)と後からやって来たイギリス人の間では、領土をめぐって諍いが絶えませんでした。

しかし、一八五四年頃までには、イギリスが海岸部のケープ、ナタールの二州の領有を主張し、内陸部のオレンジ自由国、トランスヴァールの両共和国をボーア人の自治領として承認するという形で事態が落ち着きを見せていました。

金が発見されたのはボーア人が領有するトランスヴァール内でしたが、トランスヴァールには金を採掘するだけの資金力がありませんでしたので、外国人に課税するなどの政策を強行してボーア人は金の占有に努めました。

当時内陸部から金をヨーロッパに運ぶには、鉄道を使ってナール州のダーバン港かケープ州のケープタウン港かを利用するしか方法がありませんでしたので、モザンビークとアンゴラを結ぶ大陸横断の夢を持っていたドイツとボーア人は手を結び、モザンビークのマプト港に通じる鉄道を敷きました。イギリス人に対抗するためには強力な同盟国が必要だったからです。金をめぐってボーア人とイギリス人との緊張関係が高まり、ついには第二次アングロ・ボーア戦争(一八九九~一九◯二)を引き起こします。結果はイギリス人の勝利に終わりましたが、戦いは壮絶を極め、双方に深い遺恨を残しています。

しかし、ボーア人とイギリス人は一九一◯年に南アフリカ連邦を誕生させます。多数のアフリカ人の脅威の中で少数派が考えだした白人連合です。両者がアフリカ人を搾取するという一致点を見いだして造り上げた妥協の産物でした。

ラントでの金の発見によってリンポポ川以北の金鉱脈が注目を浴びるようになりました。理由は二つあります。一つはラントの金によってトランスヴァールが豊かになって、南部アフリカ地域でのイギリスの優位が脅かされ始めたためです。もう一つは、ローヅをはじめとするケープの政財界人がラントでの立ち後れを挽回するに足る金鉱脈を渇望していたからです。

八十八年初めに、ローヅは宣教師のジョン・モファットを送り、
ロベングラ王と「モファット協定」を結ばせ、イギリス以外のヨーロッパ諸国とは契約に応じないことを確約させました。トランスヴァールからの侵略に対して常に危機感を抱いていたロベングラ王は、ボーア人に攻め込まれた際のイギリス人の援護を期待して、その条約に応じました。

ローヅは一方で、十月にチャールズ・ラッドを派遣してロベングラ王と「ラッド協定」を結び、マタベレランドの鉱山採掘権を確保しました。協定の書類は、通訳を介して行なわれた話し合いの内容とは食い違っていましたが、結果的には内容の違いにそれほどの意味合いはありませんでした。すでにイギリス政府はローヅを支援する方針を決めていたからです。

八十九年、ローヅは何人かの友人とイギリス南アフリカ会社(BSAC)を設立しました。イギリス政府は、西アフリカや東アフリカでの領土拡大政策で経済的な負担が増加していましたので、
安上がりな領土拡張を期待してローヅを支援し、イギリス南アフリカ会社にロイヤル・チャーター(英国王室の特許状)を与えました。ロイヤル・チャーターによって、イギリス政府から財政的な援助は期待できないものの、実質的にアフリカ人や入植者を統治する権利を与えられました。

ローヅはただちに遠征隊を組んで北部進出への準備をすすめました。遠征隊は、新しい街づくりが出来るように、色々な職業の若い人たちを主体にして選ばれました。のちに会社専属の警察の中核になる軍隊式の騎馬隊も組織されています。その人たちには、マショナランドでの十五の金鉱区割り当て地と千二百ヘクタールの土地が約束されていました。

ローズの侵略軍である遠征隊は、六月にベチュアナランド(現ボツワナ)の北部からマショナランドに向けて出発しました。
二百人の白人入植者に、騎兵隊五百人とグワト人三百五十人を従えていました(グワト人は隣接する強力なンデベレ人を恐れていましたので、ローヅに協力を申し出ていました)。食料を積んだ荷車は百十七台、牛は二千頭におよび、機関銃や大砲に加えて、
夜間攻撃に備えてのサーチライトまで備えていました。

遠征隊は九月十三日に、現在のハラレの地に到着し、イギリスの国旗を翻しました。入植者はその土地をソールズベリと名付けました。さっそく、今日のアフリカン・ユニティ・スクウェアで、
観光客が好んで写真撮る名所になっているそうです。

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(長女と)

そのアフリカン・ユニティ・スクウェアの近くに城砦を築き、第二のラントを夢見て、金探しを開始しました。しかし、その地は第二のラントにはなりませんでした。いくらかの金鉱脈は見つかったものの、埋蔵量や質においてラントには遥かに及ばなかったからです。その結果、マショナランドへの海外からの投資は大幅に減り、九十一年の末には、会社は倒産寸前にまで追い詰められました。南アフリカのダイヤモンド会社ドゥ・ビアズからの借財と諸経費の削減によって何とか持ちこたえたものの、九十二年から三年に渡っての不況で更に会社は窮地に追い込まれました。

窮地を打開するために、株価の上昇を期待して、ローヅは腹心のジェイムスンとマタベレランドへの進出を決め、ただちに戦争の準備に入りました。二千四百ヘクタールの土地と十五の金鉱区割り当て地、それにンデベレ人から奪う牛の分け前を約束して、会社は入植者と傭兵を集めました。イギリス政府はこの攻撃に支援を約束しています。

まもなくジェイムスン一行は北部からマタベレランドに侵入し、
イギリス軍は南部からブラワヨに向けて侵入を開始しました。十一月三日に一行はブラワヨに攻めこみます。ンデベレ人は激しく対抗しましたが、機関銃や大砲の力にはかなわず、ブラワヨを灰にして逃げのびました。翌年、ロベングラ王は敗走中に死亡しています。

陥落直後にブラワヨに到着したローヅは、ロベングラ王の住んでいた場所に家を建てさせて、その地方の拠点としました。
さっそく金探しが行なわれ、二百以上もの会社が設立されました。イギリスからの投資も順調な伸びを示していましたが、ローズは九十四年に、専門家からマタベレランドにも豊かな金鉱脈がないという報告を受けました。事実が明るみに出れば、海外からの投資が途絶えるのは目に見えていましたので、会社は金に変わる搾取の手段として、マタベレランドとマショナランドに住むンデベレ人とショナ人に目を向け始めます。その犠牲となってンデベレ人とショナ人は富を奪われ、やがては白人社会の安価な労働力に仕立て上げられていきます。

九十年から九十三年にかけて、会社や入植者は金探しと株価を吊り上げるための幽霊会社を作るのに忙しく、実際には鉱山の操業や農場の経営はほとんど行なわれませんでしたので、アフリカ人労働者の需要も限られたものでした。

ただ、ローヅや会社は海外の投資家に入植地の安全性を示す必要がありましたので、ショナの指導者たちをひとりひとり襲撃しています。アフリカ人側はそれぞれの指導者が独立した形で統治を行なっていましたので、会社にとっては攻めやすい相手でした。
しかし、そのペースは緩やかで、ロベングラ王が敗けたマタベレランドでさえも、現実に土地が奪われることはありませんでした。土地の譲渡は書類上だけのもので、今まで住んでいた土地でアフリカ人は以前と同じ生活を続けていました。

しかし、ローヅと会社がマショナランドにもマタベレランドにも
ラントに匹敵するだけの金が望めないという報告を受けてから、
状況は一変します。ンデベレ人とショナ人は家畜を奪われ、税や強制労働に屈していきました。

九十四年と九十五年の間に、少なくとも十万頭、多ければ二十万頭もの牛が会社や入植者によってンデベレ人から奪われたと推計されています。入植者が隊を組み、機関銃を備えた会社の私設警察をしたがえ、全土で牛の強奪作戦を展開したのです。牛の隠し場所を言わないアフリカ人は容赦なく殺されました。

九十四年に入るとすぐに、大規模な形での税の徴収が始まりました。税は家畜か作物の物納という形態が取られました。マショナランドでは牛と山羊が税として集められましたが、九十五年の終わりにはいったん徴税を中止しなければならなくなります。税の比率が大きすぎてそのまま徴税を続ければ、一、二年で集める家畜がいなくなる危険性が出てきたためです。

強制労働も行なわれました。もともとショナ人もンデベレ人も土地は共同所有でしたので、土地を持たない賃金労働者は存在しませんでした。従って、家畜や作物を売ったり、賃金が良ければ何かを買うために働いたりはしましたが、低賃金で危険な鉱山の仕事を好んでするアフリカ人はいませんでした。

会社は、嫌がるアフリカ人を無理やりに働かせました。アフリカ人は武装した警察や警備係の監視の下で働かされました。逃亡したり、仕事で失敗した場合は、厳しく罰せられています。九十五年の末には、ンデベレ人とショナ人の不満は頂点に達していました。やがて両者は白人に抵抗するために立ち上がります。

次回は「ジンバブエの歴史2:解放闘争、搾取と収奪、密かな抵抗運動」です。(宮崎大学医学部教員)

執筆年

2013年8月10日

収録・公開

「ジンバブエの歴史1 百年史概要と白人の侵略」(No. 60  2013年8月10日)

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「ジンバブエの歴史1 百年史概要と白人の侵略」

2010年~の執筆物

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通(MonMonde)」に25回連載した『ジンバブエ滞在記』の巻末につけたジンバブエの歴史です。

1992年の11月に日本に帰ってから半年ほどは何も書けませんでしたが、この時期にしか書けないでしょうから是非本にまとめて下さいと出版社の方が薦めて下さって、絞り出しました。出版は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、出版は出来ずじまい。翻訳三冊、本一冊。でも、7冊も出してもらいました。ようそれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。

連載はNo. 60(2013/8/10)からNo. 62(2013/7/10)までの3回です。

<1>→「ジンバブエの歴史1 百年史概要と白人の侵略」「モンド通信」No. 60」、2013年8月10日)

<2>→「ジンバブエの歴史2 チムレンガ(解放闘争)、搾取と収奪、密かな抵抗運動」「モンド通信」No. 61」、2013年9月10日)

<3>→「ジンバブエの歴史3 工業化と大衆運動、武力闘争とジンバブウェの独立」「モンド通信」No. 62」、2013年10月10日)

 

2010年~の執筆物

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通信(MonMonde)」に『ジンバブエ滞在記』を25回連載した最終回の「ジンバブエ滞在記25『ジンバブエ滞在記』の連載を終えて」です。

1992年の11月に日本に帰ってから半年ほどは何も書けませんでしたが、この時期にしか書けないでしょうから是非本にまとめて下さいと出版社の方が薦めて下さって、絞り出しました。出版は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、出版は出来ずじまい。翻訳三冊、本一冊。でも、7冊も出してもらいました。ようそれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。連載はNo. 35(2011/7/10)からNo. 62(2013/7/10)までです。

本文

「ジンバブエ滞在記」の連載を終えて

ジンバブエに行ったのは1992年、あれからもう20年以上の月日が経ちました。二十年も前に書いたものを今頃メールマガジンに載せていいのかどうか少し迷いましたが、アフリカへの日本人の一般的な意識が当時とさほど変わっていないようですので、
連載することにしました。

前回の「ふたつの壷」で書きましたが、帰って来た当初、しばらくは何も書けませんでした。編集を担当して下さっていた方の奨めもあって、奥さんが書き残した日記を元に、半年ほどかけて何とか「ジンバブエ滞在記」を絞り出しました。

アフリカのことをやる限りは一度はアフリカに行かないと後ろめたい気がするなあというのが行ったきっかけですから、ハラレで家族といっしょに暮らせただけで目的は充分に果たせたわけですが、それでもやはり、行ったという事実は想像以上に重く、その後の歳月に深くかかわることになりました。

アレックスが学生寮に案内してくれたとき3人ほど友人が部屋に来てくれたのですが、一人が聞いた最初の質問が「日本では街にニンジャが走っているのですか?」でした。当時ジンバブエ大学は唯一の総合大学で、約一万人の学生はその国を代表するエリートたちのようでした。その学生の口から最初に出た質問です。流行っていたハリウッドのニンジャ映画の影響でしょうが、街に走っている車の半分はMAZDAでもありました。私は「心配することあらへんで。日本人の大半はアフリカ人が裸同然で裸足で走り回ってると思ってるし、来る前には何人もの人からライオンに気をつけて下さいと言われたからねえ。」と言いました。

アレックスが案内してくれたジンバブエ大学の学生寮「ニューホール」

さすがにエリートたち、お互いの認識不足を自覚したようで、それじゃ実際日本はどうなんですか、と色々と質問をして来ました。

「アフリカへの日本人の一般的な意識が当時とさほど変わっていないようですので」と書きましたが、大半の人は、アフリカは貧しくてかわいそうだから、日本はODAや募金などを通じて援助してあげていると考えているようです。しかし、実態はまるで違います。第二次世界大戦後米国が中心となってつくりあげた搾取制度では、いわゆる先進国と発展途上国の「一握り」が手を携えて大衆から搾り取る仕組みになっています。開発や援助の名目で、多国籍企業、投資、貿易などを通じて搾取が「合法的に」行われています。たとえば、ケニアのナイロビ大学の建物を建てる名目の資金援助の予算がついた場合、国際入札で日本の大手建設会社が建築を請け負い、資材を大手の船舶会社が運び、金銭の取り扱いは日本の大手銀行が請け負う、何割かが「一握り」の懐に収まる、そういう構図です。

旧宮崎大学でいっしょにバスケットをやっていた元ナイロビ大学の教員で当時農学部の大学院生だったルヒア出身のサバが次のように話してくれたことがあります。

いっしょにバスケットをしていたサバや教員や学生たち

「私は日本に来る前、ナイロビ大学の教員をしていましたが、5つのバイトをしなければなりませんでした。大学の給料はあまりに低すぎたんです。学内は、資金不足で『工事中』の建物がたくさんありましたよ。大統領のモイが、ODAの予算をほとんど懐に入れるからですよ。モイはハワイに通りを持ってますよ。家一軒じゃなくて、通りを一つ、それも丸ごとですよ!ニューヨークにもいくつかビルがあって、マルコスやモブツのようにスイス銀行にも莫大な預金があります。今、モンバサで空港が建設中なんですが、そんなところで一体誰が空港を使えるんですか?私の友人がグギについての卒業論文を書きましたが、卒業後に投獄されてしまいました。ケニアに帰っても、ナイロビ大学に戻るかわかりません。あそこじゃ十分な給料はもらえませんからね。92年以来、政治的な雰囲気が変わったんで政府の批判も出来るようになったんですが、選挙ではモイが勝ちますよ。絶対、完璧にね。」(「『ナイスピープル』とケニア」(「モンド通信」No. 9、2009年4月10日)

書くための空間がほしくて30過ぎに大学の職を探し始めて1988年、38の時に宮崎医科大学に辿り着きました。在外研究でジンバブエに行ったのは4年目です。大学では教育と研究が求められますから、人も授業も嫌でなかったのは幸いだったと思います。人が人に何かを教えられるのか、人が人を評価出来るのか、といつも悩んでは来ましたが、研究室に学生がたくさん来てくれますし、授業を負担に感じたこともありません。

宮崎医科大学には一般教養の英語学科目等の講師として採用され、主に医学科一年生の一般教養の英語を担当していました。授業では、出来る限り英語を使い、新聞や雑誌の記事や音声や映像を駆使しながら、修士論文で背景も含めて考えたアフリカ系アメリカの歴史や文学や音楽と、その後始めたラ・グーマの文学や南アフリカの歴史などを取り上げました。受験に追われてあまり考える余裕のなかった学生に、中学校や高校では意図的に避けられて来たような虐げられた側から見た歴史や文学を取り上げることによって、歴史観や価値観を再認識して自分や社会について考えてもらいたい、と思ったからです。(ラ・グーマA Walk in the Night (1988) とAnd a Threefold Cord (1991)の2冊の英文編註書を出版してもらってテキストに使いました。)

ジンバブエに行ってからは、その思いがますます強くなり、授業もそのために準備するようになりました。リチャード・ライトの作品を理解したくてアフリカ系アメリカ人の歴史を辿り、アフリカ系アフリカ人が連れて来られたアフリカ大陸や、富の蓄積を生み産業革命を経て、今の資本主義社会を作りあげ、今の先進国と発展途上国の経済格差を生んだ奴隷貿易などの基本構造を思い知るようになりました。そして何より今もその搾取構造が温存され、今の日本の繁栄もそう言った搾取構造の延長上にあることを知りました。

加害者側にいながらその意識のかけらも持ち合わせていない現状を知ってしまった責任を強く感じるようにもなりました。将来、社会的に影響力のある立場に立ち、人の命にかかわる仕事に就く人たちの意識に働きかけよう、それが見てしまったものの責任かも知れない、と信じ込んでしまったようです。

出版者の方の薦めもあり、この500年のアングロサクソンを中心にした侵略の歴史をまとめて英文のテキストを二冊書きました。Africa and its Descendants 12です。

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Africa and its Descendants 1の表紙)

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Africa and its Descendants 2の表紙

なぜ英語の時間にアフリカ?と反発する学生も多いので、関心を持ってもらいやすいように、医学とアフリカを繋ぐような話題にも目を向け、実際に授業でも取り上げて、聞いたり見たり読んだりするようになりました。

「医学生とエイズ:ケニアの小説『ナイス・ピープル』」(「ESPの研究と実践」第3号5-17頁、2004年。)、「医学生とエイズ:南アフリカとエイズ治療薬」「ESPの研究と実践」第4号61-69頁、2005年「医学生と新興感染症―1995年のエボラ出血熱騒動とコンゴをめぐって―」「ESPの研究と実践」第5号61-69頁、2006年。)“Human Sorrow―AIDS Stories Depict An African Crisis"(「ESPの研究と実践」第10号12-20頁、2009年。)「タボ・ムベキの伝えたもの:エイズ問題の包括的な捉え方」(「ESPの研究と実践」第9号30-392010年。などにまとめました。

2003年に旧宮崎大学と統合してからは、全学対象の科目「南アフリカ概論」や「アフリカ文化論」を担当して、教育学部や農学部、工学部の学生にも同じようにやってきました。それを『アフリカ文化論―アフリカの歴史と哀しき人間の性』(2007年)にまとめました。

また科学研究費の交付を受けて、→「(2003~2006) 科研費報告書:英語によるアフリカ文学が映し出すエイズ問題―文学と医学の狭間に見える人間のさが」
→科研費(2009~2011)報告書「アフリカのエイズ問題改善策:医学と歴史、雑誌と小説から探る包括的アプローチ」(https://kojimakei.jp/tamada/2003_06_Kaken_Report.pdf)にまとめています。

ハラレから帰った年に、300人が歓迎してくれたルカリロ小学校には全校生、教職員、村人をおさめた写真を大きく拡大して送りました。ゲイリーの子供たちウォルターとメリティには中学校を出るための学費も送りました。どちらも返事はきませんでしたが。

ルカリロ小学校での集合写真

その後インフレや赤痢などで大変な事態があったようですが、みんな無事に生きのびたでしょうか。

お世話になった吉國さんはすでにお亡くなりになったと死後出版された著書で知りました。定年まであと2年を切りましたが、一番身近で大切な家族に自分の思いを伝えるような気持ちで、自分の思いを伝え続けて来たように思います。

次回から3回は、「ジンバブエ滞在記」を書いた際に調べたジンバブエの歴史について書きたいと思います。

次回は「ジンバブエの歴史1:百年史概要と白人の侵略」です。(宮崎大学医学部教員)

執筆年

  2013年7月10日

収録・公開

  →「ジンバブエ滞在記25『ジンバブエ滞在記』の連載を終えて」(No.59)

ダウンロード・閲覧(作業中)

  「ジンバブエ滞在記25『ジンバブエ滞在記』の連載を終えて」