2000~09年の執筆物

pp. 1-2

科学研究費報告書英語によるアフリカ文学が映し出すエイズ問題―文学と医学の狭間に見える人間のさが」

(平成15年~平成18年)科学研究費補助金

 基盤研究(C)(2)「一般」 課題番号 15520230

2007年(平成19年)3

研究代表者・玉田吉行(宮崎大学)

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 まえがき

この報告書は、「(平成15年~平成18年)科学研究費補助金「基盤研究(C)(2)」「英語によるアフリカ文学が映し出すエイズ問題―文学と医学の狭間に見える人間のさが」(課題番号 15520230)の研究成果をまとめたものです。

研究の目的は、英語で書かれたアフリカ文学がどのようにアフリカのエイズ問題を描いているかを探ることで、ケニアの2つの小説Nice PeopleThe Last Plague を軸に、疫病に映し出された人間のさがを考察しました。政治や経済の局面ではとらえられない人間のさがを知らなければ、深刻なアフリカのエイズ事情に対抗する方策は見い出せません。日本では、「アフリカに文学はあるの?」と聞かれることが多いのですが、文学作品は疫病に映し出された人間のさがを見事に描き出しています。元来、研究は何かの役に立つべきもので、この研究が何らかのお役にたてばと願っています。

報告書は、以下5章にまとめました。

1章 アフリカとエイズ

2章 アフリカの歴史

3章 『ナイス・ピープル』と『最後の疫病』

4章 南アフリカとエイズ治療薬

5章 哀しき人間の性(さが)

1章では、HIVの特徴を軸に、アフリカのエイズの状況を描きました。

2章では、現在のエイズの惨状を生み出したアフリカの歴史を概観しています。

3章では、アフリカのエイズの現状を描き出しているケニアの小説『ナイス・ピープル』と『最後の疫病』を取り上げ、ケニアの歴史と作家グギ・ワ・ジオンゴを軸に、二つの作品を分析しました。

4章では、南アフリカの歴史を辿りながら、エイズ治療薬を巡る南アフリカの状況を考察しています。

5章では、辿ってきた哀しき人間の性(さが)について整理したあと、エイズの現状を打開する解決策の例として、アーネスト・ダルコー医師を紹介しました。

元々文学に関心があり、疎外された状況下での自己意識をテーマにアメリカ人作家リチャード・ライトの作品を中心に研究を始めました。

リチャード・ライト

作品理解のために、アフロ・アメリカの歴史を辿る過程で、自然にアフリカについて考えるようになりました。1987年にMLA (Modern Language Association of America) のEnglish Literature Other than British and Americaのセッションでの発表をきっかけに、南アフリカの作家Alex La Gumaを軸に、文学だけでなく南アフリカとアフリカ全般についても考えるようになりました。

アレックス・ラ・グーマ

その頃に、旧宮崎医科大学(現在は旧宮崎大学と統合して宮崎大学)で、一般教育科目の英語を担当し始め、今年で20年目に入ります。1988年度に科学研究費補助金(一般研究C1000千円)の交付があり、アパルトヘイト体制下の1950~60年代の南アフリカ文学、特にLa Gumaの初期の二つの物語

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A Walk in the Night (1962) とAnd a Threefold Cord (1964) を軸に、作品の中に反映された当時の文化的、社会的状況を描きました。

A Walk in the Night

And a Threefold Cord

一般教育科目の英語の授業では、アフロ・アメリカやアフリカの歴史や文化、文学などを取り上げ、今までの歴史観などを見直したり、自分と自分の将来について考える機会が提供できるように、医学生の自己意識に問いかけました。それらを、注釈書La Guma, A Walk in the Night(1989)、La Guma, And a Threefold Cord(1991)、翻訳書アレックス・ラ・グーマ『まして束ねし縄なれば』(1992年)、英文書Africa and its Descendants 1 (1995), Africa and its Descendants 2(1998)にまとめました。

『まして束ねし縄なれば』

Africa and its Descendants 1 (初版1刷)

 Africa and its Descendants 1 (初版2刷) 

    

Africa and its Descendants 2

当初は授業では意識的に医学に関係ないものを取り上げていましたが、5年目あたりから自然とエイズやエボラ出血熱、臓器移植問題や土呂久砒素中毒問題など、医学関連の話題も取り上げるようになり、それらを「アフリカとエイズ」(2000年)、「「医学生とエイズ:ケニアの小説『ナイス・ピープル』」(2004年)、「医学生とエイズ:南アフリカとエイズ治療薬」(2005年)、「アフリカ文学とエイズ ケニア人の心の襞を映す『ナイス・ピープル』」(2005年)、「医学生と新興感染症―1995年のエボラ出血熱騒動とコンゴをめぐって―」(2006年)にまとめました。

そうした「アフロ・アメリカ→アフリカ→エイズ」という流れのなか、①文学と医学、②教育と研究、③教養と専門の狭間にいたからこそ、今回のテーマ「エイズを主題とするアフリカ文学が描く人間性(さが)」が生まれたのだと思います。

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研究組織

研究代表者 玉田吉行

宮崎大学医学部医学科社会医学講座英語分野教授

pp. 7-8

目次

   まえがき                                                         3

研究組織                                                   5

目次                                                               7

活動報告                                                         9

1章  アフリカとエイズ                                 11

2章  アフリカの歴史                                    16

3章  『最後の疫病』と『ナイス・ピープル』   25

4章  南アフリカとエイズ治療薬               41

5章  哀しき人間の性(さが)                           69

資料1 “Ngugi wa Thiong’o, the writer in politics:

his language choice and legacy”                      73

資料2-1 第27回宮崎医科大学すずかけ祭シンポジウム

掲示パンフレット                     80

資料2-2 第27回宮崎医科大学すずかけ祭シンポジウム

配布パンフレット                                                  81

資料3 医学生とエイズ:ケニアの小説『ナイス・ピープル』 83

資料4  アフリカのエイズ問題―制度と文学          92

資料5-1 ホームページ「ノアと三太」               97

資料5-2  ホームページ「د انگریزی دایره(英語科)」      97

資料6 「エイズを主題とするアフリカ文学が描く人間性(さが)」                            98

資料7 アフリカ文学とエイズ ケニア人の心の襞を映す

『ナイス・ピープル』」                                         100

資料8 医学部生とエイズ:南アフリカとエイズ治療薬  105

資料9 (一九九二年・ハラレ) ジンバブエ滞在記  113

資料10 医学生と新興感染症

―1995年のエボラ出血熱騒動とコンゴをめぐって―    116

資料11 アフリカ文化論1 南アフリカの歴史と哀しき人間の性                               124

資料12 "Human Sorrow – AIDS Stories Depict An African Crisis"                           129

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活動報告

本研究の目的は、アフリカのエイズの問題を文学がどう描いているのかを探ることで、平成15年度(2003)は以下の活動を行ないました。

1 新植民地体制を批判・分析している Ngugi の作品のうち、Writers in Politics を中心に、上記の両作品の舞台となったケニアの政治や体制の事情を分析して “Ngugi wa Thiong’o, the writer in politics: his language choice and legacy” を活字にしました。(資料1)

2 Wamugunda の Nice People を医学科2年生選択授業(講読)の中で取り上げ、そのねらいについて執筆しました。(2004年度に出版)

3 2003年度の宮崎大学医学部の大学祭で「アフリカと医療」のシンポジウムを行ない「アフリカのエイズ問題 制度と文学」の発表を行ないました。(資料2)

平成16年度(2004)は以下の活動を行ないました。

1 Wamugunda のNice People についてまとめたものを出版しました。(資料3)

2 Meja Mwangi のThe Last Plague の作品論をまとめ、出版の準備に入りました。

3 Ngugi wa Thiong’oの作品やジンバブエと南アフリカのエイズ事情、政治事情についてのまとめの作業を継続しました。

4 2003年度の大学祭で行なった「アフリカと医療」のシンポジウムの発表「アフリカのエイズ問題 制度と文学」をホームページに公開しました。(資料4)(http://tamada.med.miyazaki-u.ac.jp/tamada/works/africa/index.html)

5 科研費の謝金で「ノアと三太」(http://tamada.med.miyazaki-u.ac.jp/)と「د انگریزی دایره英語科」(http://tamada.med.miyazaki-u.ac.jp/tamada/)のホームページを作りました。(資料5)

6 大学の広報誌「2003 Research 研究活動紹介宮崎大学」「-エイズを主題とするアフリカ文学が描く人間性(さが)-]を書き、HPにも公開しました。(資料6)

(http://tamada.med.miyazaki-u.ac.jp/tamada/works/essays/04-kenkyushokai.doc

Nice People を、引き続き医学科2年生の英語Ⅱ(Medical Topics)で取り上げました。

平成17年度(2005)は以下の活動を行ないました。

1 平成16年度に引き続いて、Wamugunda の Nice People についてまとめたものを出版しました。

http://tamada.med.miyazaki-u.ac.jp/tamada/works/africa/04esp-nicepeople.doc (資料7)に公開しています。

2 平成16年度に昨年度に掲げた「Ngugi wa Thiong’oの作品やジンバブエと南アフリカのエイズ事情、政治事情についてのまとめを行ないます。」のうちの南アフリカのエイズ事情、政治事情について出版しました。(資料8)

http://tamada.med.miyazaki-u.ac.jp/tamada/works/safrica/05esp.s.africa.aids.doc

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に公開しています。

3 今回の研究課題の出発点ともなったジンバブエ滞在のまとめたものの一部を出版しました。(資料9)

http://tamada.med.miyazaki-u.ac.jp/tamada/works/essays/05harare.docに公開。

4 Meja Mwangi のThe Last Plague の作品論をNice People と合わせて英文にまとめました。(出版はまだです)

5 ジンバブエと南アフリカのエイズ事情、政治事情についての小論を、出版予定の『アフリカ文化論(1)―南アフリカの歴史と哀しき人間の性』(横浜:門土社)の中に収載予定です。

6 研究費の謝金でホームページを充実させました。

7 Nice People を、引き続き医学英語(医学科1・2年生選択科目)と医学科2年生必修科目の英語Ⅱ(Medical Topics)で取り上げました。

平成18年度(2006)は以下の活動を行ないました。

1 新興感染症と医学生ついてまとめたものを出版しました。

http://tamada.med.miyazaki-u.ac.jp/tamada/works/africa/06Congo.docに公開。

2 ジンバブエと南アフリカのエイズ事情、政治事情についての叢書『アフリカ文化論(1)―南アフリカの歴史と哀しき人間の性』(横浜:門土社)出版しました。(資料10)

http://tamada.med.miyazaki-u.ac.jp/tamada/works/africa/06_book_Africa_1.doc に概略と一部を公開しています。

3 Meja Mwangi のThe Last Plague の作品論をNice People と合わせて英文にまとめました。今秋に投稿、来春に出版予定。

http://tamada.med.miyazaki-u.ac.jp/tamada/works/africa/05lastplague.docに公開しています。

4  研究費の謝金でホームページを充実させました。

5 Nice Peopleを、引き続き英語(医学科・看護学科1年生科目)と国際保健論(看護学科4年)で取り上げました。

今回の科学研究費補助金による最大の成果は、『アフリカ文化論1南アフリカの歴史と哀しき人間の性』(横浜:門土社 、64ページ、760円)が出版出来たことと、ホームページ「ノアと三太」(http://tamada.med.miyazaki-u.ac.jp/tamada/)・「宮崎大学医学部英語科」(http://tamada.med.miyazaki-u.ac.jp/)が開設出来たことです。

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章 アフリカとエイズ

アフリカのエイズの惨状

アフリカのエイズ事情は深刻で、英日刊紙「インディペンダント」(1995年7月)の「エイズ流行病、南部アフリカの息の根を止める」という記事は、アフリカのエイズの惨状を象徴的に次のように報じています。

この病気による死者が、サハラ以南のアフリカでは年間に30万人を数えており、世界保健機構によれば、5年以内には死者が90万人に達すると予想される割合です。ジンバブエでは、総死者数が2000年までに現在の国の人口の約10分の1である100万人を超えると予想されています。5年後には、死者の数が200万人に達する可能性もあります。性的に一番活動的な人口の25~40パーセントが感染していると思われます。あと10年以内にジンバブエの平均余命は55歳から30~35歳に下がるという予測もあります。

しかし、ジンバブエ厚生相ティモシー・スタンプスさんが「流行病の最盛期」と呼んだものについての厳しい統計は、話の一部に過ぎません。ブヘラのような農村地域では、若い女性の数の激減によって未曾有の経済的、社会的危機をもたらす可能性があります、なぜなら、その女性たちが農業生産や子供と病人と年配者の面倒をみる責任を負っているからです。

1993年に世界銀行は、「感染者の90パーセント以上が経済的に最も生産性のある年頃の15~40歳である」と報告しました。ジンバブエ最大の私企業アングロアメリカンコーポレーションは、15000人の従業員の25パーセントがHIV陽性者だと推計しています。葬儀社の一人は、死亡率が極めて高く、ハラレでの埋葬場所が不足しているために、「埋葬場所を確保するために、死んだ人を縦に埋めることを考えるか、多層葬式埋葬にする必要があるかも知れません。」と言っています。

ナンシー・マサラさんもダナナイ企画に参加しており、主に予防の仕事をしています。ムランビダの4000人強の人口の10パーセントを占める売春婦に目を向けています。その女性たちは、鉱山労働者や警察と同様に、HIV陽性者が50パーセント以上になると信じられています。マサラさんは、「同僚教育者」として知られるエイズ覚醒突撃隊として登録してる60人の売春婦と一緒にコンドームの箱を抱えて、ビアホールにメッセージを運んでいます。

しかし、売春婦と男性の複数のセックス・パートナーが広く受け入れられている文化では、女性に焦点を当てる「同僚教育」は的はずれであると、批評家は指摘しています。WHOは、感染している女性の感染していない男性への感染率が1000分の1であるのに対して、コンドームをつけないセックスで感染している男性が感染していない女性に感染させる可能性は100分の1であると推計しています。既婚女性は、特に影響を受けやすいのです。アフリカでは、HIV陽性の女性の80パーセントが一夫一妻制であるのに対して、HIV陽性の男性の80パーセントに複数のセックスパートナーがいると考えられています。国連開発計画は、「たいていの女性にとって、HIV感染の主な危険因子は結婚していることである。」と最近の報告で述べています。は「たいていの女性にとって、HIV感染の主な危険要因は、結婚し

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ていることである」と報じています。(註1)

アフリカで実際にエイズ治療に当たった医師は、その深刻さを肌で感じ取っています。英国人医師リグビィ氏は「アフリカで働こうと心に決めたとき、アフリカのエイズ問題の深刻さを私は充分承知している、と信じていました。しかし、(アフリカでの医療活動を経験した)今、本当に事態の深刻さが分かっている人がいるとは、私には信じられません。」と『イギリス医学誌』(1995年6月)のなかで告白しています。(註2)

1998年8月のケニア米大使館爆破事件で、血塗れの犠牲者の救急治療に当たる医療関係者のニュース映像を見ながら、米国人医師スティーム氏は、背筋の凍る思いをしたと誌しています。(註3)スティーム氏はケニアでの医療活動経験者で、爆破事件の時も、エイズ事業の視察を終えたところでした。ナイロビでの若者成人人口のHIV(ヒト免疫不全ウィルス)感染率は約25パーセントで、手術を伴なう救急治療室でのHIV感染の危険度は極めて高いと言われています。今回の視察で出会った若い米国人外科医は、ボランティアとして田舎の病院で複雑な手術を行なう予定でしたが、感染に備えて、二重の手袋をはじめ、ケニアでは入手出来ない緊急時用の抗HIV剤などと、輸血の必要性が出た場合にヨーロッパの病院に空輸してもらえる保険の準備をしていたと言います。それだけに、手袋もつけずに血塗れの患者の治療に当たるケニア人医師や看護婦たちの映像を見た時の衝撃は大きく、現状では「悲しいことだが、エイズ流行病で爆破以上の死者が出て、その死者の中にはこの事件で危険に晒された医療関係者が間違いなく含まれるだろう」と予測せざるを得ませんでした。アフリカの厳しい現状を垣間見た人の正直な感想でしょう。

HIVの特徴と南部アフリカ

HIVの特徴は、病原ウィルスが主に、免疫を司るリンパ球ヘルパーT細胞を標的にして増殖し、感染者の免疫力を低下させることです。

1981年に最初のエイズ患者が発見されてから数年後には、ウィルスの構造や伝播形式も明らかにされています。したがって、感染の予防も可能なわけですが、感染者は増加し続けています。それは、この流行病が、主に異性間性交によって伝播される性感染症だからです。

1995年に人々を震撼させた旧ザイール(現コンゴ民主共和国)のエボラ出血熱やインドの肺ペストなどの感染症は、致死率は高いのですが潜伏期間も短かく、そのうえ地域封鎖などの厳戒体制が敷かれるため、患者が回復するか、死亡するかすれば一応の終息をみます。

それに比べて、このHIV感染症は、極めて質(たち)が悪いと言わざるを得ません。感染しても無症状の期間が長く、その間に無意識に、ある場合は意識的に、二次感染が起こるからです。ウィルスの恐ろしさを知らなければ、当事者に意識されることもなく、性交渉を通じて病気は蔓延していきます。

アフリカ大陸、特に南部はHIVの温床です。入植したヨーロッパ人はアフリカ人から武力で取りを奪い、課税することによって、大量の出稼ぎの低賃金労働者を作り出しました。その労働者を鉱山や農場近くのコンパウンド(たこ部屋)に住まわせていますが、そのコンパウンドに売春婦が通うのです。鉱山労働者が汗水流して稼いだ僅

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かな賃金のおこぼれにあずかるためです。「(ジンバブエの)ムランビンダ村の4000人強の人口の約10パーセントが売春婦で、鉱山労働者とほぼ同数である。その約半数の売春婦がHIVに感染していると警察は信じている」と先に引用した報告記事が伝えています。売春婦を介して感染したアフリカ人男性は、契約が切れて村に帰り、その配偶者に感染させています。多重婚のところも多く、男性は通常、複数の性交渉の相手を持ちます。しかも、統計では、男性から女性に感染させる率の方がはるかに高いのです。様々な事情が折り重なって「たいていの女性にとって、HIV感染の主な危険要因は、結婚していることである」という悲劇が起こっています。そして、男性の働き手を都会に吸い上げられている農村部では、不可欠な労働力として、あるいは残された子供や老人の世話をする担い手として農村経済を支えている女性たちが、次々とエイズにやられ、たくさんの子供たちを残して斃れています。経済面でもその基盤そのものが、まさに崩壊しようとしているのです。

結婚していることが不治の病に感染する危険要素なら、どうやって子孫を増やしていけばよいのでしょうか。娘たちに死なれ、残された年寄りたちはただただ途方に暮れます。その報告記事は次の老婆の嘆きで締めくくられています。

どうして子供らはみんな、死んでゆくんだろう?どうして若い者たちは、わたしら年寄りに孤児(みなしご)を残して、逝ってしまうんだろう?

そんな老婆の哀しみを伝える冒頭の記事(1995年7月)出てから、すでに10年以上の歳月が経過しました。

エイズ会議    

1994年8月に第10回国際エイズ会議が横浜で開かれました。日本での開催とあって、アジア諸国のエイズ事情が詳しく紹介されたり、母子感染の際の逆転写酵素阻害剤AZTの効果や感染者の長期生存の症例報告があったりなど、会議の成果が日本でも連日報道されました。(註4)

1996年のヴァンクーバー会議では、従来の逆転写酵素阻害剤と、新たに開発された蛋白分解酵素阻害剤を併用する多剤療法の効果が報告されて、エイズが、ウィルスとの共生も可能な病気になるかもしれないと、誰もが希望を持ちました。その年をエイズ治療元年と呼ぶ記事も出て(註5)、ワクチン開発への希望も膨らみました。

しかし、1998年のウィーン会議は「視界に治療法も見えぬまま、悲観的に閉幕」しました。(註6)多剤療法で副作用が出たという症例報告や、ワクチンの開発がむしろ後退している現状報告に、会場は重い空気に包まれたと言われます。そして、病気への最大の戦略は、やはり予防しかない、と再確認せざるを得ませんでした。

次回2000年のエイズ国際会議開催国南アフリカ、ダーバンの医師は「ダーバンの大きな黒人用の病院で治療にあたる子供たちの40パーセントがエイズ患者です」と言う。国際会議で議長を努める予定のその医師は「私は今まで抗エイズ治療薬を使ったことはありません。病院には治療薬を使う経済的な余裕はありませんから」と付け加えました。参加者はアフリカの厳しい現状を突き付けられて、ますます気を重くしました。

しかし、そんな深刻な状況を、アフリカ諸国も、自称「先進国」も、深刻に受け止

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めているとは思えません。

1999年9月にザンビアで開かれたエイズ会議にアフリカの首脳は参加しませんでした。世界で最も事態が深刻だとされる南部アフリカ六ヶ国は、大統領はおろか、一線級の官吏さえも送りませんでした。エイズ患者、医療関係者、研究者など数千人が集まって、何とか対抗策を見いだせないものかと真剣に討議をしたにもかかわらず、主催国ザンビアの大統領は、会議にも出ませんでした。(註7)

「死にゆく大陸」

今のアフリカに、エイズよりも緊急の課題があるはずもありません。アフリカ諸国は奴隷貿易以来、イギリスを筆頭とする西洋諸国に富を絞り取られてきて、富の搾取は今も続いています。搾取する側と搾取される側の富の格差は広がるばかりで、第二次世界大戦後は、戦略を変え、開発・援助の名目で、アメリカ主導の搾取構造を維持しています。国際通貨基金(IMF)、世界銀行(IBRD、通常はWORLD BANK)などの機関を通じて金を貸して利子を絞り取っているわけです。日本も搾取側にいて、1998年度のODA予算は百億円にのぼっています。(註8)

借金が嵩んで、個人なら破産している重債務貧困国が、36ヶ国もあります。(註9)このままだと元も子もなくなってしまうと、主要国首脳がドイツ・ケルンに集まって知恵を出しあい、貧困国が保有する負債全体の3分の1を削減することを決めました。総額700億ドル(約8兆4000億円)である。

主要7ヶ国(G7)のODAOの中で、借款の占める割合が最も大きい日本は、借金の帳消しを渋っています。円借款の予算の約半分が郵便貯金や公的年金などを財源とする財政投融資からの借入金だからという財政上の事情をその理由にあげています。しかし、「アフリカ諸国の債務帳消しに必要とされるのは、日本の場合、単純に計算して約7000億円にすぎない。日本長期信用銀行に投入された公的資金とそう違わない金額で」す。(註10)

債務の帳消しを渋っているのは日本だけではありません。ケニアなどは新たに借金が出来なくなるのを恐れて債務帳消しを渋っています。前大統領モイは米国や英国や日本と組んで、新植民地政策の片棒を担ぎ、巨額な援助金を我が物にして約20年にわたる長期政権を維持してきました。次の「ケニア人のエコノミスト」の厳しい批判は民衆の本音でしょう。

(債務帳消しの)救済を求めないことで救われるのはだれか。ずるずる援助を受けて延命する政府と、借金棒引きがなくてすむ先進国じゃないか。結局、何の特権もない庶民が貧乏くじを引き続けるのだけは変わらない。(註11)

借金に喘ぎ、エイズに攻められる。先進国が搾取の手を緩める気配もなく、先進国の番犬を任じるアフリカ諸国の首脳は、自らの野望を諦めようとはしません。このまま放っておけば、アフリカはまさに「死にゆく大陸」です。副題の「次の20年でエイズウィルスによって3000万人のアフリカ人が死ぬ。製薬会社はその事態を更に悪くしようとするのか?」(註12)は、アフリカの危機を言い得ています。

<註>

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註1 カール・マイア「エイズ流行病、南部アフリカの人々をじわじわと絞め殺す」提携紙「デイリー・ヨミウリ」(1995年7月30日)に収載の「インディペンダント」の記事。

註2 註1と同じ記事。

註3 リチャード・スティーム「アメリカのワクチンがアフリカのエイズ恐怖を和らげるだろう」、「デイリー・ヨミウリ」(1998年8月29日)。「ボルチモア・サン」へ特別寄稿した記事。

註4 わだえりこ「エイズ会議終わる、しかし課題は山積されたまま」、「デイリー・ヨミウリ」(1994年8月12日)。

註5 鍛冶信太郎「新薬承認で迎える『エイズ治療元年』」、「朝日新聞」(1997年3月20日)など。

註6 ローレンス・アルトマン「世界エイズ会議、治療法も視界に見えぬまま、悲観的に閉幕する」、「インターナショナル・ヘラルド・トゥリビューン」(1998年7月6日)。

註7 「アフリカ、会議に首脳が不参加のまま、エイズの解決策を探る」、「デイリー・ヨミウリ」(1999年9月15日)。

註8 「日本のODA、98年度、10億円に達する」、「デイリー・ヨミウリ」(1998年8月28日)。

註9 「苦しい中で対応様々 重債務貧困国の実情と救済」、「朝日新聞」(1999年7月28日)。

註10 小野行雄「アフリカの債務帳消しに理解を」、「朝日新聞」(1998年12月28日)。

註11 註10と同じ記事。

註12 アレックス・スミス「アフリカ:放っておけば死にゆく大陸」、提携紙「デイリー・ヨミウリ」(1999年9月12日)に収載の「インディペンダント」の記事。

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2章 アフリカの歴史

「たいていの女性にとって、HIV感染の主な危険要因は、結婚していることである」という悲劇や「死にゆく大陸」の惨状が生み出された原因を探るために、アフリカの歴史を見てみる必要があります。

今回は「スウェーデンのアフリカ・グループ」が出版した『アフリカの闘い』The Struggle for Africa (London: Zed Press, 1983) と、1983年にNHKで放映された、英国人歴史家バズゥル・デヴィドスンが語る英国MBTV制作「アフリカ8回シリーズ」を軸に、ルネッサンス以降の西洋諸国によるアフリカ侵略の歴史を概観したいと思います。

バズゥル・デヴィドスン

奴隷貿易

デヴィドスンは、ルネッサンス以前のヨーロッパ絵画を紹介し、白人優位・黒人蔑視の風潮を「比較的、近代の病なのです」と指摘しながら、つぎのように語ります。

18世紀、19世紀のヨーロッパ人は、祖先の知識を受け継ごうとはしなかったようです。それ以前のヨーロッパ人は、例えば西アフリカに、中世ヨーロッパにひけをとらない立派な王国がいくつもあることをよく知っていました。しかも、そうした王国を訪れた貿易商人や外交官の報告には、人種的な優越感をにおわせる態度は全く見られません。人種差別というのは、比較的、近代の病なのです。この違いを何よりよく語っているのは、ルネッサンスまでのヨーロッパ絵画です。ここには、黒人と白人が対等に描かれています。非常に未熟な人間という後の世の言葉を思わせるものはありません。美術の世界だけではありません。中世では、広く一般に、黒人は白人と対等に受け入れられていました。「アフリカシリーズ 第1回 最初の光 ナイルの谷」

西アフリカにヨーロッパ人が来るようになるのは15世紀の半ば頃からですが、最初は貢ぎ物と引き換えに、国王たちが許可を与えるという形で交易が始まりました。当時のヨーロッパ人は、その頃の王の権威や宮廷の華やかさを伝える記録を多く残しています。そのような王国の一つ、ベニン王国を千六百年頃に訪れたオランダ人は次のように書いています。

都は30の大通りが碁盤の目に交錯している。どの大通りも真っすぐで、大層広い。家は整然と並び、鏡のように磨きたてられている。清潔さという点では、ここの人たちは、オランダ人に少しもひけをとらない。立派な法律や警察組織もあり、住民は交易にきた外国人に極めて友好的であった。「アフリカシリーズ 第3回 王と都市」

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ヨーロッパは八世紀から15世紀にかけて、急速な社会の発展を遂げますが、それでも、かなりの発達段階に達していた近隣のアフリカ諸国には多くの点で劣っていました。たとえば、1497年に初めて喜望峰を回って北上したヴァスコ・ダ・ガマは、ペムバ、キルワ、モンバサなどの華やかな都市に目をみはっています。アラビア商人によってアフリカの内陸部やメソポタミヤ、ペルシャ、インド、中国を結ぶ黄金の交易網が張りめぐらされて、200年に渡る繁栄を続けていたからです。ポルトガル人は東アフリカとの交易をもくろみますが、商品が劣っていたために相手にされませんでした。そこで、ポルトガル人は東海岸の貿易を独占するために掠奪を始めます。キルワの例をあげて、デヴィドソンが語ります。

その年、ヴァスコ・ダ・ガマが率いる小さなポルトガル船三隻が、歴史上初めて喜望峰を回り、インド洋へと入っていきました。ここにヨーロッパ人の侵略が始まります。ポルトガルへ戻ったガマは、旅先で目にしたものを報告しました。そして、7年後の1505年、今度は前より大きな武装した船団が水平線に姿を現わしたのです。それに同行したドイツ人ハンス・マイルは、目撃したことをこう書いています

「ダル・メイダ提督は、軍人14人と6隻のカラブル船を率いてここに来た。提督は、大砲の用意をするように全船に命令した。7月24日木曜未明、全員ボートに乗り上陸、そのまま宮殿へ直行し、抵抗するものはすべて殺した。同行した神父たちが宮殿に十字架を下ろすと、ダル・メイダ提督は祈りを捧げた。それから、全員で街の一切の商品と食料を掠奪し始めた。2日後、提督は街に火をつけた」「アフリカシリーズ 第4回 黄金の交易路」

こうしてヨーロッパ人のアフリカ侵略が始まります。ヨーロッパ人のねらいは、主に香辛料、布、金、象牙などでしたが、明らかに理不尽な侵略が出来たのは、火薬を人殺しの道具に使用した狡猾さ、相手にされないなら掠奪してしまえという侵略性、祈りを捧げてから掠奪や殺戮行為をなし得る傲慢さや残虐性などをヨーロッパ人が備えていたからでしょう。マルコムもヨーロッパ人の侵略性や残虐さを指摘し、中国で発明された火薬をヨーロッパ人が人を殺すための道具として使い出してから黒人が戦場で敗北し始めた、と言って、次のように続けます。

中国人は、火薬を平和な目的のために使いました。たしか、マルコ・ポーロだったと思いますが、マルコ・ポーロは火薬を手に入れて、ヨーロッパに持ち帰りました。そして、ヨーロッパ人はすぐにその火薬を人を殺すために使い始めます。ここが違う所です。ヨーロッパ人は、他の人たちが求めないものを必死になって獲ようとするのです。ヨーロッパ人は、殺すことが好きなんです、そう、本当にそうなんです。アジアやアフリカでは、食べ物のために殺します。ヨーロッパでは、楽しみのために殺すのです。そのことに気が付いたことはありませんか。あの人たちは血に飢えているんです、血が好きなんです。自分の血ではなく、他人の血が流れるの を見るのが好きなんです。あの人たちは血に飢えていますが、昔のアジアやアフリカのどの社会でも、獲物を殺すのは、食べ物のためで、楽しみのためではなかったのです

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……白人が黒人をリンチした話をよく聞きますが、黒人をリンチしながら、白人は刺激を得て、スリルを楽しんでいたんですよ。でも、あなた方も私も、殺すときは、食べ物のためか自分を守るためかのどちらかの必要性があるからなんです。そこのところをよく考えてほしいのです。(『マルコムX、アメリカ黒人の歴史を語る』28ページ)

マルコム・リトゥル

当初、ポルトガル人は海路と海岸線を支配しただけでしたが、ポルトガルに続いて、初めはオランダが、次にはイギリスとフランスが参入して、東海岸貿易の支配権をめぐって競争を繰り広げ、次第に本格的な侵略を開始していきます。

西海岸で海賊まがいの行為をしていたポルトガル人は、すでにアフリカ人を奴隷として本国に連れかえっていました。しかし、その規模は小さく、奴隷も権利は認められてはいなかったものの結婚も認められ、一般の貧しい人たちとそう変わらない生活を送っていました。奴隷貿易の性質や重要性を根本的に変えたのは、スペイン人による南アメリカ大陸の侵略です。栄えていたペルー、ボリビア、メキシコなどを武力で制圧したスペイン人の多くは、農民としてその地に留まり、そこに住んでいた人たちを強制的に働かせました。しかし、病気や劣悪な労働条件に耐えられず、強制労働を強いられた人たちの大半が死んでしまいます。鉱山や農場での汚なくて辛い仕事をする労働者を必要としたヨーロッパ人は、その労働力をアフリカに求めました。ヨーロッパ人がアフリカに目を向けたのは、もちろん距離的に近かったこともありますが、当時、アフリカが鉱山技術でヨーロッパよりも優れていたために熟練した鉱山技師が少なからずいたからでもありました。

1518年に、スペイン船が初めての積荷を直接アフリカからアメリカに運んだと言われています。それから350年に渡って、アフリカ人が奴隷として西インド諸島や北、南、中央アメリカに売られていきました。奴隷の3分の2は西アフリカから、残りの大部分はコンゴやアンゴラから連れ出されました。デヴィドソンによれば、少なく見積もって1500万のアフリカ人が売買されたと言います。輸送の途中や、奴隷狩りやそれに伴なう争いや飢きんなどの際に多くのアフリカ人が死んでいますから、おそらく被害者の数は、2000万から、3000万、あるいはそれ以上であったと考えられます。

奴隷貿易は「ヨーロッパで奴隷船に銃や布を積みこんでアフリカに向かう➝アフリカで銃や布を奴隷に換え、奴隷船に積みこんでアメリカに運ぶ➝アメリカで奴隷を売り、綿や砂糖、タバコなどの原材料を積んでヨーロッパに帰る➝ヨーロッパで原材料をさばいて高利を得て、その利益を布や銃の製造にあて、再び布や銃を積みこんでアフリカに向かう」というヨーロッパ、アフリカ、アメリカの三点を結んで行なわれました。いわゆる三角貿易です。1977年に全米を沸かしたテレビ映画「ルーツ」は、奴隷貿易の一部を画面に再現しましたが、ニューイングランドのアナポリス港に着いた奴隷船の中で、奴隷を商うアンドルーズ商会の代理人ジョン・カリントンと奴隷船ロード・リゴニア号のデイヴィス船長が交わす次の会話は、三角貿易の内容を端的に示しています。

デイヴィス「ガンビア川の河口で、140人の奴隷をロード・リゴニア号に乗船させました」

カリントン「それは、ゆったりとした積み方で。それで……」

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デイヴィス「そのうち、港に着いたときの生き残りは98人でした」

カリントン「98人。そうですか、それじゃ死んだのは3分の1以下ですな。入港した時に、生き残りが半分以下でも、まだかなりの利益があった奴隷商を私は何人も知っておりますよ。おめでとうございます、船長」

デイヴィス「一刻も早く積荷を下ろしたいのですがね」

カリントン「直ちに船を引いて行って、岸壁にお着けしましょう」

デイヴィス「船倉で燃やす硫黄の粉をぜひご用意いただきたい。もう一度、きれいになった船が見たいのです」

カリントン「それは、もう、船長。それから、船長はまた、ロンドンへ煙草を運んで行かれることになりますね」

デイヴィス「そして、ロンドンで……」

カリントン「ギニア海岸向けの貿易の品を、それから、またガンビア川に向けて」

デイヴィス「そして、もっとたくさんの奴隷を……」

カリントン「その通りですよ、船長。かくして天は我らにほほ笑みかけ、黄金の三角で点と点を結ぶ。煙草、貿易の品、奴隷、煙草、貿易の品など、永遠に限りなく。誰もが得をし、損するもの誰もなし、ですよ」

奴隷船(帆船)

「誰もが得をし、損するもの誰もなし」の言葉どおり、奴隷船の船長をはじめ、奴隷商や奴隷を使う大農園主が暴利をむさぼりますが、これほど大規模な経済的不均衡が生じたことは、それまでにはおそらくなかったでしょう。奴隷貿易や奴隷制によって生じた偏った経済的不均衡によって、アフリカ社会は甚だしく疲弊し、西洋社会、特に米国と英国の金持ちは莫大な利益を獲得します。その利益は蓄積されて、やがて産業革命を引き起こす要因となるのです。

奴隷貿易や奴隷制によって生じたのは、経済的不均衡だけではありませんでした。それまであった交易の相手としての平等な関係は消え去り、白人優位・黒人蔑視の考え方が定着していきます。鎖につながれて船に運ばれるとき、あるいはアフリカからアメリカに向かう奴隷船の中で、あるいはアメリカの岸壁での競買で、アフリカ人は家畜並みの扱いを受けました。また、アメリカの農園では、アフリカ人とその子孫は、しばしば人間以下の扱いを受け、時には見るものが目をそむけたくなるような屈辱を味わいました。

奴隷貿易の最盛期に、初めて奴隷船に乗ったデイヴィス船長から、黒人についての質問を受けたスレイター1等航海士の次の話からも、黒人がどのように白人に考えられていたかの一端がうかがえます。

奴らは別の人種なんですよ、船長。人間が狩り用に犬を育てたり、女子供のペット用に育てたりするのに似ていますな。黒人っていう人種は、まあ、おつむの方は弱いんですが、体の方はいたって頑丈なんです。奴ら、奴隷にぴったりなんです。ちょうど、船長がこの船の船長にぴったりなように。自然の摂理ってやつですかな。

アメリカ映画『ルーツ』の主人公クンタ・キンテ

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奴隷貿易が激しくなるにつれて、ますますその考えは浸透していきました。

奴隷貿易によって苦しみを味わったのは、連れ去られたアフリカ人やその子孫だけではありません。残された人たちもまた、共同体の柱を奪われて深い苦しみを味わったのです。奴隷貿易の被害にあった地域は人的な資源を失なって、急速に疲弊していきます。そして、ヨーロッパから来た安い製品によって、それまでかなり発達していた手工業の技術も衰えていきました。

植民地支配

奴隷貿易によってもたらされた最大の変化は、蓄積された資本によって産業革命が可能になり、資本主義に向けての発達過程が早まったことです。おそらく、欲に目のくらんだデイヴィスもカリントンも、自分たちのやっている奴隷貿易が、後の世にそれほど大きな経済的、社会的変化をもたらすことになろうとは、当時、夢にも思わなかったでしょう。

奴隷貿易やアメリカの鉱山や大農園の奴隷労働から得た多額の利潤を、自国の産業の発展のために投じるようになったヨーロッパの資本家は、徐々に力をつけて、それまで国を動かしていた奴隷商をしのぐようになり、奴隷制を廃止するに至ります。奴隷制よりも儲かる商売を見つけたというわけです。その人たちの関心は、産業のための原材料と労働者の低賃金を保障してくれる安価な食糧を確保することでした。

産業革命が最初に起こったのは、奴隷貿易で一番潤った英国でした。19世紀前半のことです。それまでは手で作っていたものを機械でつくるわけですから、かなり多くの製品が生産されるようになります。それでも、まだ、製品をさばくための市場の問題は起きていませんでした。しかし、19世紀後半になって状況は一変します。英国に続く他のヨーロッパ諸国と米国が、関税を引き上げて自国の産業を保護したために産業が巨大化し、余剰生産物を生み出す結果になったからです。つまり、消費者が買える以上の生産が可能になったのです。米国とドイツはなお、自国産業の保護政策を取り続けますが、英国とフランスは、生産拡大のための新しい市場を探さなければならない段階にまで産業が発達していました。そうした事態を打開してくれるのが、市場と原材料を確保してくれる植民地でした。こうして、ヨーロッパ列強によるいわゆるアフリカにおける植民地争奪戦が始まります。

アフリカ争奪戦はかなり激しいものとなり、戦争の危機さえはらむようになりますが、植民地を搾取するという共通の利害関係と、台頭しつつあった自国内の労働者階級への不安もあって、1884年から85年にかけて、西洋諸国が調停のために話し合いのテーブルにつきます。これがベルリン会議です。ヨーロッパ列強によって「正式に」アフリカが植民地として分割されたわけですが、実際は、すでに行なわれていた植民地争奪戦の結果を確認し合っただけに過ぎませんでした。

一番大きな分け前を取ったのは英国で、エジプト、ケニア、ナイジェリア、ゴールド・コースト(現ガーナ共和国)など一番いい場所を確保しました。次いでフランス、ドイツの順で、特に産業化のすすんだその三国で全体の80%を占めました。残りを、ベルギーとイタリア、それにポルトガルとスペインが分けてアフリカ分割が完了し、本格的な植民地支配が始まります。余剰製品を売りさばく市場を確保し、原材料の価

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格を思い通りに操作するためには、植民地内のアフリカ人を完全に掌握し、管理しなければなりませんでした。支配の仕方は、その地域社会の発達段階によって異なりますが、中央集権化の進んだ地域では、その統治機構や支配者層をうまく利用しました。これがいわゆる間接統治で、進んだ地域を占領した英国は、おおむねこの支配形態を取りました。あまり発達していない地域を支配したフランスなどは、直接統治の形態を取りました。

一部の地域を除いて、各地でアフリカ人による強い抵抗運動がありますが、ヨーロッパ列強は資本と武器の力にまかせて強引にそれらの抵抗運動を鎮圧します。ドイツに支配された南西アフリカのように、大量虐殺に及んだ例も少なくありませんでした。植民地での搾取は苛酷を極め、直接統治によって1000万人以上もの人が殺されたと言うレオポルド二世のベルギー領コンゴの例などは特によく知られています。

多くの植民地では、農園や鉱山での労働者を獲得したり、植民地支配のための資金を得るために、強制労働や人頭税や小屋税などの税金、あるいは輸出用作物の耕作などの方法が取られました。アフリカ人は否応なしに貨幣経済に巻きこまれ、重い税金を払うために、あるいは巷にあふれるヨーロッパ製品を買うために、現金収入の道を求めて村を離れざるを得ませんでした。出稼ぎ労働者の誕生です。ほとんどの場合、短期間の契約労働の形が取られました。熟練した技術を覚えさせずに単純労働に従事させるには短期契約が一番都合がよかったからです。契約期間が切れたら、賃金のベースアップなしに、新たに他のアフリカ人を雇えばいいのです。あり余る出稼ぎ労働者は、低賃金を確保するにはもってこいのシステムでした。出稼ぎ労働者として村の働き手を奪われることで、旧来のアフリカ社会は完全に崩壊していきます。

レオポルド二世

また、多くの地域では輸出向けの換金作物を強制的に作らされました。セネガルのピーナッツ、ガーナのココア、タンザニアのコーヒーとサイザル麻、モザンビークの綿などです。大体が単一の作物で、以前のように自分たちが食べるのではなく、宗主国の産業用だったのです。土地を休めずに連作を強いられて土壌が疲弊しただけでなく、それまでの自給自足の形態も根本から崩れて、のちの飢餓の要因となります。輸出価格を含め、植民地の経済は、完全に宗主国に支配されるようになりました。

一方、ヨーロッパでは、アフリカ人を幼稚で怠け者で救いようのない野蛮人と決めつけて、さかんに笑い者にしました。そうでもしなければ、国を取り上げて甘い汁を吸うことを正当化できなかったでしょう。ありとあらゆる形で自らの侵略を正当化する試みがなされて、白人優位・黒人蔑視の考え方はしっかりと定着していきました。

新植民地支配

「白人同士が殺し合った」第1次、第2次世界大戦では、アフリカ人も駆りだされ、多くの犠牲者を出しました。しかし、両大戦で白人と共に銃を持って闘ったアフリカ人は「自分たちにもやれる」という自信を持ちました。戦争で荒れ果てた自国の復興に追われる西洋諸国を尻目に、アフリカは独立に向けて静かに動き始めます。

 

独立の先頭に立ったのは、宗主国のヨーロッパや米国に留学したことのある知識階級の若者たちでした。ブラック・アフリカでは、それまで模範的な植民地とされていたゴールド・コースト(現ガーナ共和国)が1957年に最初に独立を果たします。イギリスはあらゆる手段で独立を阻止しようとしますが、大衆の圧倒的な支持を得たクワメ・エンクルマの勢いを止めることは出来ませんでした。時代の流れには逆らえず独立を許しますが、元植民地の利権を守るための新たな手口を考え出します。いったん独立を認め、形式的にアフリカ人に政治はやらせるものの、混乱に乗じてやがては軍事介入、実質的な経済力を握ってそれまでの利権を守るというやり方です。これが今も続く新植民地政策です。その意図は、エンクルマの次の自伝の一節からもはっきりと読み取れます。

遺産としてはきびしく、意気沮喪させるものであったが、それは、私と私の同僚が、もとのイギリス総督の官邸であったクリスチャンボルグ城に正式に移ったときに遭遇した象徴的な荒涼さに集約されているように思われた。室から室へと見まわった私たちは、全体の空虚さにおどろいた。とくべつの家具が一つあったほかは、わずか数日まえまで、人びとがここに住み、仕事をしていたことをしめすものは、まったく何一つなかった。ぼろ布一枚、本一冊も、発見できなかった。紙一枚も、なかった。ひじょうに長い年月、植民地行政の中心がここにあったことを思いおこさせるものは、ただ一つもなかった。

この完全な剥奪は、私たちの連続性をよこぎる一本の線のように思えた。私たちが支えを見い出すのを助ける、過去と現在のあいだのあらゆるきずなを断ち切る、という明確な意図があったかのようであった。[クワメ・エンクルマ著野間寛二郎氏訳『アフリカは統一する』(理論社、1971年)14ページ。]

クワメ・エンクルマ

結局、エンクルマは、1966年にベトナム戦争収拾の協力で極東に出向いている間に、クーデターを起こした軍部に失脚させられてギニアに亡命、6年後、失意のうちに病死するはめに陥りました。

 

ベルギー領コンゴ(現ザイール)の場合は、もっと悲惨です。1960年、ベルギー政府は、政権をコンゴ人の手に引き継ぐのに、わずか6ヵ月足らずの準備期間しか置きませんでした。ベルギー人官吏8000人は総引き上げし、行政の経験者はほとんどなく、36人の閣僚のうち大学卒業者がわずかに3人といった状態になります。その結果、独立後1週間もせずに国内は大混乱し、そこにベルギーが軍事介入、コンゴは「自治の能力なし」のレッテルを貼られてたちまち大国の内政干渉の餌食となりました。大国は、鉱物資源の豊かなカタンガ州(シャバ州)での経済利権を確保するために、首相パトリス・ルムンバの排除に取りかかります。危機を察知したルムンバは国連軍の出動を要請しますが、米国の援助でクーデターを起こした政府軍のモブツ大佐に捕えられ、国連軍の見守るなか、利権目当てに外国が支援するカタンガ州に送られて、惨殺されて

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しまいます。

パトリス・ルムンバ

独立は勝ち取っても、経済力を完全に握られては正常な国政が行なえるはずもありません。名前こそ変わったものの、搾取構造は植民地時代とあまり変わらず、「先進国」産業の原材料の供給地としての役割を担わされているのです。しかも、原材料の価格を決めるのは輸出先の「先進国」で、高い関税をかけられるので加工して輸出することも出来ず、結局は原材料のまま売るしかないのが現状です。サイザル麻を作らされているタンザニアの元大統領ニエレレは次のように嘆きます。

第1次5ヵ年計画を準備していた当時、サイザル麻の価格はトン当たり148ポンドの高値でした。これは続くまいと考え、トン95ポンドの値を想定して計画を立てました。ところが、70ポンド以下に暴落です。私たちにはどうしようもありません。

原料生産者は、一体どうしたらいいのか。サイザル麻を作って売るしかありません。その価格が下がったら、もうお手上げです。苦しむのはいつも弱者です。「アフリカシリーズ 第8回 植民地支配の残したもの」

ジュリアス・ニエレレ

また、カカオが主要輸出品であるガーナのローリングス議長(後に大統領になります)は、怒ります。

ひどい話です。買い手が一方的にカカオの値段を決定する。昔はトン当たり3500ポンド。それが、今では1000ポンド。奴隷並みに働いて、カカオを差し出している。一方で、輸入品の値段は天井知らずに上がっているが、押しつけられ、慣らされて、今や、買わずにはいられない。「同シリーズ 第8回 植民地支配の残したもの」

ジェリー・ローリングス

第2次大戦後は、再進出の西ドイツと、米国、日本を加えた多国籍企業に経済を握られ、開発援助の名の下に累積債務は増えるばかり、より巧妙かつ複雑になった搾取構造の下で、アフリカ諸国は苦しんでいます。「先進国」の大幅な経済的譲歩がない限り、先の希望は望めそうにありません。その意味では、デヴィドスンのつぎの提言は、傾聴に値するでしょう。

飢えている国の品を安く買いたたき、自分の製品を高く売りつける。こんな関係が続いている限り、アフリカの苦しみは今後も増すばかりでしょう。アフリカ人が本当に必要としているものは何か。私たちは問い直すことを迫られています。

戦争、内乱、飢え、貧困、その中で、今、アフリカは何とか前進しようとしています。それを支えているのは、虐げられた歴史を覆した自信と未来に賭ける夢です。

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奴隷貿易時代から植民地時代を通じて、アフリカの富を搾り取って来た先進国は、形こそ違え、今もそれを続けています。アフリカに飢えている人がいる今、私は難しいことを承知で、これはもうこの辺で改めるべきだと考えます。今までアフリカから搾り取ってきた富、今はそれを返す時に来ているのです。(「同シリーズ 第8回 植民地支配の残したもの」)

しかし現状は、先進国の大幅な譲歩どころか経済格差は開くばかりです。そこへエイズの追い打ちです。まさにアフリカは「死にゆく大陸」です。

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3章 『最後の疫病』と『ナイス・ピープル』

  1. 『最後の疫病』

ケニアの二つの小説、メジャー・ムアンギの『最後の疫病』とワムグンダ・ゲテリアの『ナイス・ピープル』は、そんな「死にゆく大陸」でエイズにやられて苦しむ農民や労働者の話を見事に描いています。

『ナイスピープル』

著者のメジャー・ムアンギは、グギ・ワ・ジオンゴやチヌア・アチェベほどの国際的な評価は受けていないものの、厳しい抑圧の時期も国内で作品を書き続けてきた中堅の作家で、ケニアの経済的な危機とエイズの差し迫った状況を誰よりも感じているはずです。

エイズ患者が社会問題となってから十年ほどでウィルス増幅のメカニズムが解明され、治療薬が開発されたあと、作家に咀嚼されて本格的なエイズの小説が出るのはそれから数年後だろうと考えていた矢先に、『最後の疫病』が出版されました。コンドームを配って感染の予防の手助けをする未亡人とその女性を助ける獣医師の青年と村の人たちとの諍いをめぐる話ですが、「割礼」をめぐってグギが『川をはさみて』で描いた西洋的な価値観とアフリカ的な価値観の衝突が大きな主題の一つになっています。国の経済を支える農民や労働者の話で、抑圧体制の極めて厳しい国内に踏みとどまった作家にしか書けない世界でもあります。

(「エイズ」を正面から取り上げている作品はまだ多くありませんが、この『最後の疫病』を軸に、英語によるアフリカ文学が「エイズ」をどう描いているのかを分析し、病気の爆発的な蔓延を防げない原因や、西洋的な価値観とアフリカ的な見方の軋櫟などを明らかに出来れば、また、英語の授業でエイズの問題を取り上げ、エイズの小説を読む立場から見える何かが見つかるかもしれないと考えて、「英語によるアフリカ文学が映し出すエイズ問題―文学と医学の狭間に見える人間のさが」の表題で2003年度の科学研究費補助金を申請したのです。)

主人公のジャネットは、子供3人と母親と暮らしている女性です。夫ブローカーが他の女性と家を出たあと、自殺を試みますが死に切れず、子供と母親を抱えて強く生きざるを得ませんでした。ケニアの田舎の村での女性の自立は極めて難しく、生計のために政府のエイズプロジェクトの仕事を選びます。エイズ対策のために政府が無償でコンドームや避妊薬などを配布する仕事でした。ジャネットの毎日が次のように描かれています。

ジャネットは毎日、自分の村クロス・ローヅの丘を何十キロも自転車で越えて、歩き回りました。毎日、たくさんの人に説いてわまりました。コンドームはとても大事なのよ、家族計画のためにも必ず要るし、性感染症からみんなをちゃんと守ってくれるのよ、と自信を持って話しました。なるほどとジャネットの話に耳を傾ける人もいるにはいましたが、大抵は話を聞きたがらず、訪問先で煙たがられる場合

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の方が多かったのです。ジャネットが来るのを見つけるとそそくさと家に逃げ込む人もいましたが、ジャネットは逃げた人を捕まえて、相手の敵意もお構いなしに、すべきことをし、言うべきことを言いました。それが自分の仕事で、それもとても大切な仕事だったからです。ジャネットは自分を信じて疑いませんでした。

エイズにやられて今まさに死にかけのケニアの小さな村クロス・ローヅが本文には次のように描かれています。

見渡す限り、至る所に墓土が盛られていました。かさばって陰気な固まりで、暗くて死のの臭いが漂っています。人の無益の忌まわしい残り滓の墓土を一つも盛らなかった家はありませんでした。そして、今日は墓土が一つ、明日は二つになりそうです。、二つが四つ、四つが八つになりました。墓土は増え続けて、突然変異を起こし、遂に怪物になってしまいました。人の生活に墓碑銘を刻み続ける飢えた野獣となったのです。

ジャネットのかつての級友フランクが村に戻って来たとき、生まれ育った村の余りの荒廃ぶりと変わりように驚きました。フランクは村から多大の寄付を受けて大学にいくために村を離れていましたが、大学を卒業出来ずに村に戻ってきていたのです。期待を背に村を送り出されていながら夢も果たせずに村に戻るのもはばかられましたが、HIVの検査で自らが陽性であることを知り、やむなく帰郷する決意をして戻って来たのです。次のくだりは、その時フランクが目にした村の様子です。

旧の高速道路を横切って村に入りながら、フランクは クロス・ローヅもすっかり変わり果ててしまったなあと感じていました。子供の頃には楽しかった町もすっかりくたびれて、荒廃していました。家の壁や屋根は崩れ落ち、おびただしい数の廃屋から出るごみの山が通りの両脇に積まれていました。壊れた石造建築の山、崩壊する夢の山また山。クロス・ローヅはすっかり意気消沈していました。病気にこっぴどくやらえ、回復の見込みもなく絶望の淵にあり、まさに苦痛に苛まれるもの、その苦境に対しえほとんど抵抗すらも出来ずに、鳴き声すら出せずに死にかけている、そんな生き物のようでした。

ジャネットを捨てて村を出て行った夫のブローカーも村に戻って来ます。一山あてて金持ちにはなったものの、HIVに感染し、死に場所を求めて生まれ故郷に戻ってきたのです。ブローカーはかつてモンバサにいっしょに行った女性ジェミナの家を訪れ、ジェミナがすでにエイズで斃れ、たくさんの子供と祖母だけが取り残されているのを知りました。ジェミナの家の荒廃ぶりが、次のように描かれています。

ブローカーはすっかり当惑した面持ちでジェミナの墓を後にしました。墓を案内してた少年がブローカーの両手を引いて他の少年たちのいる小屋に戻りました。小屋の二つの戸は開いたままになっていました。ブローカーは戸を押しやって暗がりを覗き込みました。薄汚れた室内は小便と貧乏の臭いが立ちこめていました。鼠が何匹も屋根裏にこしらえた巣に戻るために我先に壁をよじ登っていました。部屋に

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は家具らしい家具も見あたりません。床じゅうに麻布やら敷きマットやらが広げられていました。二つ目の小屋も同じように惨めな様子でした。寝床は一日中、鼠の天下ででした。小屋から飛び出して来た痩せこけて、ねじれた角をした乳山羊にブローカーは死ぬかと思うほど仰天しましたが、山羊はそのまま駆けていきました。

HIVに感染したと思いこむフランクとブローカーは、死に場所を故郷に定めて帰って来ていました。幼馴染みのフランクは元々ジャネットに好意を寄せていましたし、ブローカーもジャネットへの未練は捨てきれないでいました。二人がジャネットの仕事を手伝うようになったのも自然の流れでした。

ジャネットは二人の助けを借りて懸命に働きますが、先ずは村人に染みついて離れないタブーや古い考え方と戦わなければなりませんでした。タブーと旧弊について述べたくだりです。

意味ある発展をするためには、タブーと旧弊は消え去るべきで、排除しなければなりません。エイズ撲滅の戦いには、凝り固まった信念と思いこみが一番の障害でした。実際には、その人たちには複数の妻、いわゆる安全な連れ合いががいて、売春婦と付き合ったりはしなかったからです。しかし、そお人たちの安全な連れ合いにはまた安全な連れ合いがいて、その連れ合いにはまた安全な連れ合いがいる、そんな安全の環が永遠に繋がっていて、実際にはその安全な繋がりが空恐ろしい大惨事を招いているのです。

偏見や旧弊との戦いは外だけではありませんでいした。ジャネットは、毎日毎日、家でも祖母の凝り固まった偏見と思いこみに苛まれます。結婚をしないで自立をめざすジャネットが祖母には論外で、誰か経済的に援助してくれる男性の何番目かの夫人になるべきだと主張して譲りません。そんな祖母が執拗に、容赦なくジャネットを責め立てます。

「自分のことを考えてみなよ。自分の旦那もいないじゃないか。どうするつもりなんだい?」と祖母が言いました。

ジャネットは自分に生き方についてのこんな言葉をほとんど毎日聞かされました。言葉に傷つき、怒りのあまり泣き叫びたくなりました。しかし、自分が再婚するか祖母が死ぬまで、同じことを聞かされることになるのは目に見えていました。

「あんたは結婚しないとね。あんたと子供たちが心配なんだよ。」と祖母はジャネットに言いました。

「もう一回結婚するの?」とジャネットは祖母に聞きました。

「ブローカーは間違いだったのさ。あんたにゃ違う人と結婚する権利があるんさ。あんたと子供たちをちゃんとみてくれるちゃんとした男とね。ほんとの男とだよ。」と祖母が言いました。

「ほんとの男?このクロス・ローヅで?」とジャネットは祖母を小馬鹿にしたように言いました。

ジャネットは二人が今またあの会話の方に流れているのがわかりました。堂々

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巡りの忌まわしい結論、二人が既に何度も何度も繰り返した末に辿り着いた結論。

ジャネットは沈んだ様子で薄ら笑いを浮かべました。このクロス・ローヅには自分自身の面倒をみて、妻や子供を思いやれる男が充分にはいないのを改めて思いかえしました。

目下の最大の問題は、妹の夫カタがエイズで志望した弟の妻と結婚しようとして譲らないことでした。カタはウィッチ・ドクターと呼ばれ、占いしたり薬草を煎じたりしている金持ちです。弟の妻が亡くなれば兄が妻を引き受ける伝統的な習慣を信じて疑いません。しかし、エイズでなくなった弟妻を夫人に加えれば、ジャネットの妹ジュリアも無縁でいられるはずもありません。ジャネットは、カタを説得するようにジュリアに言って聞かせます。

「カタに何かを辞めさせるなんて出来ないことくらい知ってるでしょ。あの人がどれくらい伝統を大事にして生きてるかも知ってるでしょ。」とジュリアはジャネットに向かっていました。

「あんた、何もわからないの?カタかサイモンの奥さんを引き取れば、あんただって確実に死ぬんだからね。」とジャネットは諦めきった様子で言いました。

「あんたに死ぬ時期がわかるんかい?」と祖母が愕然として言いました。

「姉さんには、何でもわかるわけ?私にああしろ、こうしろと、もううんざりだわ」とジュリアが開き直って言いました。

「あんたが心配なのよ」とジャネットはジュリアに言いました。

「 心配しないでよ。あんた、わたしの母親じゃないでしょ。」 とジュリアは不機嫌そうに立ち上がりました。

「あんたの姉よ。心配をして当然じゃないんお。」とジャネットはジュリアに言いました。

「モニカは私には姉妹以上よ。みんな男たちを頼りにしてるわ。わたしたち、売春婦じゃないわ。」とジュリアが言い返しました。

ジャネットの懸命の説得にも応じず、カタは弟の元妻モニカと結婚してしまいます。

ジャネットは子供に希望を託して、学校を回って性教育をしようとしますが教師たちの反応はよくありません。教会を訪れて会衆にコンドームの必要性を説き、使い方を説明しますが、こちらも反応がよくありません。また、ウィッチ・ドクターを訪ねて、割礼の儀式での血液感染の危険性を説きますが、逆鱗に触れ、協力してくれるフランクの動物診療所が壊されてしまします。

もの語りは、ある日政府から派遣されたオスロからの視察団にジャネットが、学校や教会やブローカーの開いたコンドーム販売所などを案内して評価を得、財団の援助を受けて村をあげてのHIV検査を実施するという皮肉な結末で終わります。

物語は、性感染症の怖さを教えてくれます。HIVの感染原因は解明されているわけですから、理論的には予防できるはずですが、実際には感染の拡大はとまりません。

ケニアでも他のアフリカ諸国のように、経済搾取の対象は常に農民と労働者です。ヨーロッパの入植者は、アフリカ人から武力で土地を奪って課税しました。多くのアフリカ人は税金を払うための現金を求めて村を離れ、出稼ぎに出ることを余儀なくさ

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れました。多くの場合、白人の大農園で紅茶を摘んだり、白人家庭の召使いをしたりせざるを得ませんでした。

ヨーロッパ人による搾取機構の中に組み入れられたアフリカ社会は変容せざるを得ませんでした。かつては自給自足のために積み上げられた制度も、変容によって形骸化してゆきます。一夫多妻制にしても割礼にしても、乳児死亡率の高い現実に対処して労働力を確保する有効な手段だったはずです。しかし、形骸化した伝統は、弊害をもたらします。

ジャネットがたたかわなければならなかったのは、そういった形骸化された伝統やタブーだったのです。

二度の大戦で総力が低下した旧植民地支配国に対して、アフリカ諸国は独立の戦いは繰り広げられますが、しっかりとした経済基盤を持たないアフリカ諸国は、形だけの独立は果たすものの、結局は新しい機構植民地支配の下に組み入れられます。炎上や開発の名目で投資をして利潤を得るという仕組みです。ケニアも英国、米国、日本などの投資の対象となり、政権はその仲介者の役割を演じているわけです。独立闘争で自由のために戦った農民や労働者は、形だけの自由を手に入れても、結局は基本構造は変わらないまま、昔と同じような貧乏な生活を強いられることになたのです。

そして、エイズ禍です。『最後の疫病』には、そういった農民や労働者がエイズにやられて、今まさに朽ち果てようとする様子が描かれています。

2.グギ・ワ・ジオンゴ

その農民と労働者のために書き続けるケニアの作家がいます。グギ・ワ・ジオンゴです。

グギは隣国ウガンダのマケレレ大学を出て、英国、米国で学んだ経験を持つ知識人です。南アフリカのソブクエやマンデラ、ジンバブエのムガベなどがフォート・ヘア大学で受けたように、植民地体制が「原住民のために設立した」大学で西洋流の教育を受けました。ジェイムズ・グギの名で書いた小説『夜が明けるまで』(1964)や『一粒の麦』(1967年)などで国際的な評価を受け、様々な会議に招待されていました。日本にも招待されています。

72年には、ギクユの名前グギ・ワ・ジオンゴに改名し、翌年には、アジア・アフリカ作家会議からロータス賞を受けています。しかし、そういった国際的名声も、「原論の自由を保障する民主国家」ケニアを宣伝する材料とはなっても、体制の脅威となるには至りませんでした。体制側の脅威となったのは、英語ではなく母国語のギクユ語で書いた脚本を、ギクユの農民と労働者が見事に演じきってしまった、つまり、多数派である搾取される側の農民と労働者が、演劇活動を通してグギさんの作品を理解し、自らの隷属的な立場に気づき、団結して体制側に挑み始めたからです。その時からグギさんは反体制側の象徴となりました。

『拘禁されて』は副題が示すとおり「一作家の獄中記」で、1977年の大晦日に逮捕されてからほぼ1年の間、国家最高治安刑務所に拘禁された顛末が仔細に綴られており、自らの体験や思いを誌した「獄中の記」に、「獄中からの書簡」と政府やナイロビ大学当局の公文書などを含む「拘禁の名残り」が添えられています。闘いは、奪う側のケニア政府と、奪われる側、国民の大半を占める農民・労働者との間の階級闘争で

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した。

もとより、侵略とは他人(ひと)のものを掠め取ることに他なりませんが、16世紀初頭にダルメイダ一行が東アフリカのキルワで行なったようなその場限りの虐殺・掠奪行為は効率的ではありません。一般に侵略者は、一時の利益よりもむしろ、出来る限り長く搾取する構造を打ちたてることに思いをめぐらせるものです。

ケニアのように古くから文明の発達した地域では、その社会機構を利用出来ないかを考えます。すべてを敵にまわして闘うのは、犠牲が大きすぎますから、相手の分断を試みます。言葉巧みに相手に近づいて、支配層の一部を味方にする、つまりケニア人の支配層の一部と手を組んで利用するわけです。

アメリカのテレビ映画「ルーツ」を見た人の中には、奴隷狩りで直接アフリカ人を捕まえていたのがアフリカ人自身だったのを見て、驚いた人もいるでしょう。大半の奴隷は同じアフリカ人に売り飛ばされていたわけで、首長と呼ばれる支配者層の中には、奴隷一人をジン一本と交換した者もいたと言われます。その人たちは、自らの欲望と引き換えに同胞を西洋人に売り渡したのです。その構図は、英国主導の植民地支配でも、外国資本と組んだケニア政府による新植民地支配でも、基本的には渝ってはいません。

『拘禁されて』には、ケニアの侵略の歴史や構図と、グギさん自身の思いがぎっしりと詰まっています。

西アフリカでの奴隷貿易で蓄積した資本によって産業革命を起こし、生産手段を手から機械へと大幅に変えて消費しきれないほどの工業製品をつくり出した西欧社会は、市場を求めて、アフリカでの植民地争奪戦を繰り広げました。それは同時に、原材料と工場労働者の安価な食料を確保するための戦いでもありました。アフリカ大陸で侵略者は、アフリカ人から土地を奪って課税した。無産者となったアフリカ人は現金収入を得るために、賃金労働者にならざるを得、ませんでした。ケニアの場合、安価な賃金労働者として奴隷並みに、主として、工場で働くか、農園で紅茶を摘むか、白人の家で召し使いをするかしかなかったのです。グギさんの祖先は肥沃な土地で豊かな暮らしをしていましたが、その土地も英国人入植者に奪われました。1906年には、肥沃な土地は白人専用の農地に指定され、ケニア人は痩せた狭い土地に押しやられます。侵略を正当化するために、キリスト教を含めた西洋流の文化と英語が強要さます。「植民地文化の傲慢さよ!」とグギさんは書いています。

植民地文化の傲慢さよ!その盲目的で自惚れに満ちた野望には限度がない。

抑圧される側の抑圧する側への服従、搾取される側と搾取する側の平和と調和、ご主人さまを敬愛し、ご主人さまが末永く私どもをお治め下さいますようにと神に祈るべき下僕、これらは、警官の靴と警棒と軍隊の銃剣と、選ばれた少数派の目の前にぶら下げられた個人的な天国という人参によって、入念に躾けられた植民地文化の審美的な究極の目標だった……。

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「掠奪、強奪、殺人。それがイギリス流のやり方」で、ケニア人の歴史は侵略者との闘いの歴史でもありました。侵略者と果敢に闘って散っていった数々の英雄の歴史をグギさんが辿ってゆきます。ワイヤキは1892年に初めて人質として拘禁された英雄で、護送中に撃たれて、生き埋めにされました。

初代大統領ジョモ・ケニヤッタも祖国のために闘った英雄の一人です。しかし、その英雄にグギが投獄され、拘禁されたのは、独立してからの数年間で、ケニヤッタが変節を遂げたからです。グギはその変節の背景が、ケニヤッタの率いたケニア・アフリカ人民族同盟(KANU, Kenya African National Union)の変容にあったと分析しています。KANUは様々な階級からなる大衆運動で、主導権は、帝国主義と手を携える将来像を描く上流の小市民階級と、国民的資本主義を夢見る中流の小市民階級と、ある種の社会主義をめざす下流の小市民階級との3派にありましたが、1964年にケニア・アフリカ人民主同盟(KADU, Kenya African Democratic Union)がKANUに加わったことで、上流の小市民階級の力が圧倒的に増したというわけです。外国資本を後ろ盾に、数の力で、ケニヤッタは誰憚ることなく、自分たちの想い描いた将来像を実行に移し始めましたた。新植民地支配の始まりです。 グギの逮捕は、その延長上にあったわけです。 外国資本の番犬となったケニア政府は、植民地支配の国家機構をそっくりそのまま受け継ぎます。政治や経済はもちろん、文化や言語にまでその新植民地支配は及びます。ケニア文化の状況をグギは『作家、その政治とのかかわり』(1981)の中で次のように指摘しています。

今日、ケニアの生活の中心的な事実は外国の利益を代表する文化の力と、愛国的国民の利益を代表する力の間の猛烈な闘争です。その文化的な闘いは日頃から見ていない人には必ずしもはっきりとは見えないかも知れませんが、そんな人も、ケニアの生活が外国人と外国の帝国主義的文化の利益に実質的に支配されているのを知ったらきっとびっくりすると思います。

そういう人たちがもし映画を見たいとしたら、外国人所有の映画館(たとえば、トゥエンティ・センチュリィズ・フォックス)に行って、アメリカ配給の映画をみることになるでしょう……。

同じ人が今度は日刊新聞を買い求めたいと思えば、パリのアガ・カーン所有のネイション紙かロンドンのタイニー・ローランド社のロンロ所有のスタンダード紙かのどちらかしかありません……。

さて、今度は学校を訪れるとしましょう。ケニア人の子供の生活は、小学校から大学までとそれ以降も、英語が支配的です。スワヒリ語とすべてケニアの国語が必修ではないというばかりではなく、フランス語とドイツ語ともうひとつの中から一つを選択するという選択肢の一つの言葉というに過ぎないのです。ケニアを構成する民族の言葉を完全に蔑ろにしています。このように、ケニアの子供はこういった外国語、つまり西ヨーロッパ支配階級の文化が伝える文化をすばらしいと思いながら育ち、自分自身の民族の言葉、つまり国民文化に根ざしたケニア農民が伝える文化を見下します。言葉をかえて言えば、学校は子供たちが国民的で、ケニア的なも

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のを蔑み、たとえそれが反ケニア的であっても、外国的なものをすばらしいと思うように育てるのです……。

なかでも、外国文化の利益に支配されているのがもっともあからさまなのが劇場です……。

私たち自身の国の演劇の分野で、最も国を愛するケニア人が本当に悩んでいるのは、今まで述べたような外国人の存在というよりは、むしろケニア政府の財産ケニア文化センターとケニア国立劇場が、外国の演劇をケニア人に提供する外国人によって管理されているという事実なのです。外国人帝国主義者の使節団であるイギリス文化協会が事実上ケニア文化センターのすべての事務所を占有しています。同センターの管理委員会の委員長はイギリス人ですし、加えて、イギリス文化協会が評議会の代表者です。管理委員会によって経営されるケニア国立劇場は、シティ・プレイアーズなどの外国人主体の演劇団体が完全に優勢を占めています。おそらく、「王様と私」や「ロビンソン・クルーソー」のような人種差別的な劇を提供する時以外は、こういった劇団の提供するものはケニア人の生活とは何の関係もありません……ケニア国立劇場のこういった劇団は、たいてい、ケニアにはケニアの監督も、ケニアの衣装も、ケニアの俳優も、ケニアの楽器もないかのような印象を与えるために、監督や衣装、オーケストラの楽器や俳優をイギリスやカナダから呼び寄せたり、取り寄せたりすることがよくあります。演劇評論家(これまた外国人)はと言えば、批評で使う言葉は「それは普遍的です」か「それは弾圧の話ではありません」か「それはウエスト・エンドまたはブロードウェイ風です」かの三種類の言い回ししか知りません……。(「第3章ケニア文化、生存のための国民的闘争」から抜粋)

(画像掲載予定)

『作家、その政治とのかかわり』

そんな文化状況の中で、グギさんがグギ・ワ・メリーエさんと一緒にギクユ語で書いた劇『ガアヒカ・デンダ』(『結婚?私の勝手よ!』、1981年)が上演されたのである。その上演の持つ意味をグギさんが次のように述懐します。

リムルのカーメレーゾ村教育文化センターのように村を拠点にした劇団が出現したのは歴史的に重要です。1977年にこの劇団は、グギ・ワ・ジオンゴとグギ・ワ・メリーエ共作による、ケニアの言葉の一つで書かれた最初の重要な現代劇『ガーヒカ・デンダ』を上演しました。役者はすべてカーメレーゾ村出身の農民と労働者で、みんなで考えて村の中央に野外舞台を作り、演出でも脚本の書き替えでも協力を惜しみませんでした。その過程で、今まで受容し続けてきた演劇の伝統と訣別を果たしたのです。例えば、脚本の第一回目の読み合せや討論は野外でしましたし、役者の選出も、選出を手伝ってくれる村の観衆と一緒に野外で行なわれました。四ヵ月間のリハーサルもすべて、ますます数の増えて行く批評家や演出家とともに野外でなされたのです。衣装合わせのリハーサルも千人以上の農民と労働者の前で行なわれました。ついに劇が有料で開演されたとき、劇を見るために貸切バスを仕立てたり、徒歩で足を運んだりした何千という農民と労働者の前で劇団は公演しました。初めて、田舎の人たちは肯定的に描かれた自分たち自身と、自分たちの生活と、自分たちの歴史を観ることが出来たのです。独立後の歴史のなかで初めて、それまで自分たちの運命であった法廷か教会かという残酷な選択から解放されたのです。そして少なからず、恵み多き外国人から洗練された文化を享受するだけの文化水準

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の低い受け手としか農民を見做さない人種偏見に満ちた見方を完全に打ち砕きました。

『ガアヒカ・デンダ』

「何千という農民と労働者」は『ガアヒカ・デンダ』の中で、どんな「肯定的に描かれた自分たち自身と、自分たちの生活と、自分たちの歴史を観ることが出来たの」でしょうか。

『ガアヒカ・デンダ』は農民のキグーンダと、実業家キオイをめぐる三幕六場の劇で、貧しいキグーンダが、金持ちのキオイに騙されて僅かな土地を巻き上げられるという体験を通して、社会の仕組みと自分たちの置かれた現実を自覚し始めるという筋立てです。

第一幕、キグーンダの家。土作りの一部屋の小屋、片隈に夫婦のベッドが置かれ、床に娘ガソニの粗末な寝具が敷かれています。壁には夫婦の継ぎ接ぎだらけの外套と、180坪余りの土地の権利書がかかっています。先祖の肥沃な土地は取り上げられ、イギリス人の手下だった少数のアフリカ人の手中にあり、あてがわれた180百坪余りは痩せこけた土地です。キグーンダはキオイの農園で雇われる身で、貧乏が染みついた我が身と、我が妻を嘆きます。キオイ夫妻が来るという手紙を受け取った二人は、落ち着きません。用件が、キオイが殺虫剤工場建設のために進める土地買収の話なのか、キオイの息子ムフーンニから一人娘への結婚の申し込みなのかを図りかねているからです。

キオイ訪問を嗅ぎつけた隣人ギカーンバ夫妻が、金持ちには騙されるなと忠告にやって来ます。ギカーンバも安給料で働く、工員である。工場が環境を汚し、利益の大半はヨーロッパとアメリカと日本と、一握りのケニア人に流れ、学校など社会のすべてが金持ちの手中にあると嘆く。

やがてキオイ夫妻が友人を連れてやってくる。その友人は独立前は白人に雇われてアフリカ人を多数殺したが、悔い改めて洗礼を受け、今では豊かな暮らしをしているので、あなたも罪を悔い改めて、教会で結婚式をして、神に祈りなさいと、キオイと声をそろえていう。キグーンダは、家のことには干渉するなとキオイたちを追い返す。

入れ代わりに娘のガソニが着飾って戻って来る。外には、車のエンジンの音。高価な靴や鞄を買ってくれたキオイの息子ムフーンニと一緒にモンバサまで一週間の旅行に行くのだという。両親は押し留めようとするが、振り払って、ガソニは出かけてゆく。

第二幕一場、別の日、キグーンダの家の中。キオイたちに騙されるなとキグーンダ夫妻を諭すギカーンバ夫妻。

1985年にイギリス人たちがやってきたとき、宣教師たちは左手に聖書、右手に銃を携えていた。宗教の甘い雰囲気に酔わせながら、しばらくして、肥沃な土地を奪い、工場を建て、商売をやり始めた。独立のために闘った時も、強制収容所に来て神に身を委ねなさいと説いたのは聖職者たちだったのを覚えてないのか、とギカーンバが説く。自分たちの土地なのに、今や道路脇の狭い土地に追い遣られて乞食のような暮ら

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しを強いられる毎日の生活を嘆く。

俺は日なが機械をまわし続け、

あんたは一日じゅう茶の葉を摘む、

妻たちは朝から晩まで畑仕事、

それでも、おまえらは懸命に働いていないという奴がいるって?

実際は、

俺たちの大地が育む豊かな富を、

外国人たちと手を組んだ

数僅かな連中

キオイやジュゲレスたちが

ずーっと懐に収めてきたんだ。

第二幕二場、キオイの家。豪華な家具の家で、仕事仲間が、計画中の殺虫剤工場についてキオイと話しこんでいる。手を組む外国人が今すぐ仕事を始めたいと言っていること、悪臭を放つので大物のいない土地、例えばキグーンダの持っている土地などが必要なこと、相手が欲しがっているのはアフリカ人の名前だけで、自分たちアフリカ人は番人の役目をすればいいんだというようなことを説明するが、キオイは、モンバサなどでヨーロッパ人目当てにホテルをやる方が儲けがいいと反論して、工場建設には乗り気ではない。

やがて、仕事仲間と入れ替わりに、キグーンダ夫妻が訪ねてくる。二人は、教会での結婚式の費用を借りに来たという。キオイは、土地を売るか、土地を担保に自分が理事をしている銀行から金を借りるかの二者択一を迫る。

第三幕一場、キグーンダの家。教会での結婚式を夢想するキグーンダと妻。ムフーンニに捨てられたと泣きながら戻ってきた娘に現実に引き戻される。妊娠を告げて、売女呼ばわりされた娘のかたきをうちにと決意を固めたキグーンダは、剣を取ってキオイの家に出かけてゆく。

第三幕二場、キオイの家。キオイの家に乗りこんだものの、躾けも出来ないで子供を売女にしてしまうような親を守ってくれるような法などないわと罵られたキグーンダは、逆上して剣を抜く。挙げ句は、一命こそ取り留めたものの、キオイの妻の放った弾に倒れてしまう。

第三幕三場、キグーンダの家。およそ二週間のち。土地は競買にかけられてキオイのものとなってしまった。あれ以来酒浸りの日々を送るキーンダと詰り合う妻に、ギカーンバ夫妻が諭す。背負う荷物がいくら重くても仲間うちで喧嘩したり、お互いに暴力をふるうのはよしましょう、敵がのんびりと鼾をかいているというのに、家庭を壊すなんて、と。そして、ひとりでは力が足りなくても、二人なら蜂の巣を運ぶことが出来る、一本の指ではしらみは殺せないが、手が多くなれば仕事も軽くなるというギクユの諺を引いて、団結すればやがては展けてゆく、団結こそが私たちの力であり、財産であると、みんなで声をあわせて高らかに歌う。

ケニヤッタの死去により、理由を明かされないままグギは釈放されますが、ナイロ

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ビ大学への復職は認められませんでした。依然として体制の脅威だったからです。82年に英語版『悪魔を磔刑に』の刊行のためにロンドンを訪れたグギは、祖国に戻らず、亡命の道を選びました。

拘禁されてから、すでに30年、独立から40年以上の歳月が流れました。、英国、米国、日本をはじめとする外国資本と手を携えた少数のアフリカ人は、その体制を守り続けています。グギさんが祖国に帰れなくなってからも、少数派のモイとその取り巻きが、外国資本と手を組み、多数派である農民と労働者から搾り取り続けていたわけです。モイ政権下で副大統領であったキバキが政権を担っていますが、多数派の農民と労働者が搾取され続けるという基本的な構図は変わっていません。

  1. 『ナイス・ピープル』

『ナイス・ピープル』は、多数派の農民と労働者ではなく、少数派の金持ち層に焦点があてられています。

ヨーロッパからの入植者はアフリカ人から土地を奪って課税し、大量の「出稼ぎ労 働者」を生み出しましたが、ケニアも南アフリカからの白人入植者がアフリカ人労働者を基に搾取機構を打ち立てた国です。激しい闘争の末に独立は果たしたものの安価な出稼ぎ労働者を基盤とする搾取の基本構造は変わらず、大統領となったケニヤッタもモイも、先進国と組んで体制維持をはかってきました。少数の金持ちと大多数の貧乏人という歪な世界で、日本はよき貿易のパートナーです。

エイズはそんな歴史にはお構いなしで、ウィルスは金持ちにも貧乏人にも感染します。『ナイス・ピープル』は少数の金持ちの側の実態を描いたもので、3つの点で意義深い小説です。

1つ目は、エイズ患者が出始めたころの混乱した社会状況が描かれている点で、文学という切り口で書かれた貴重な歴史記録でもあります。

2つ目は医者を含めた少数の金持ちに焦点が当てられている点です。『最後の疫病』のように虐げられた側に焦点を当てた小説は少なくありませんが、支配層に焦点が当てられたものは珍しく、その点でも貴重です。

3つ目は、主人公の医者の目を通して小説が描かれている点です。

『ナイスピープル』

1884年:謎の疾病」

主人公ジョセフ・ムングチ (Joseph Munguti) は、ナイジェリアのイバダン大学の医学部を1974年の6月に卒業したあと、直ちにケニア中央病院「Kenya Central Hospital (KCH) 」で働き始めたという設定です。卒業論文のテーマに性感染症を選んだこともあって、先輩医師ギチンガ (Waweru Gichinnga) の指導を受けながら、ギチンガ個人が経営する診療所で稼ぎながら勤務医を続けます。ギチンガは国立病院では扱えないような不法な堕胎手術などで稼ぎを得ていたようで、やがては告発されて刑務所に送られてしまいます。10年後、ギチンガから譲り受けた診療所の看板に「性感染症専門医」と記して、ムングチは念願の売春婦などを相手にひとりで診療を継続し

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ます。

1984年12月、「ケニアでは指折りの性感染症専門医であり、診断を下せない性感染症はない」と自負するムングチの元に、年老いたコンボ (Kombo) と名乗る中国人がやってきます。「やあ、先生さんよ、わしは金持ちじゃよ。2万シリング持ってきた。わしのこの病気を治してくれる薬なら何でもいい、何とか探してくれんか」と言って、大金を残して立ち去ります。

法外な大金に戸惑いを見せて一度は辞退するものの、格安の料金で社会の底辺層を相手に性病の治療を続けるムングチには、断る理由もなく、謎の病気の正体を突き止めることになりました。最初はトラコーマクラミジアにより生じる性病性リンパ肉芽腫かと思いましたが、どうも違うようです。その日から、ケニア中央研究所 「the Kenya Medical Research Institute (KEMRI)」の図書館に入り浸り、2日目にようやく、同年12月にアメリカで発行された以下の症例報告に辿り着きます。

あらゆる抗生物質に耐性を持つ重い皮膚病の症状を呈し、生殖器に疱疹が散見される。下痢、咳を伴い、大抵のリンパ節が腫れる。極く普通にみられる病気と闘う抵抗力が体にはないので、患者は痩せ衰えて、やがては死に至る。病気を引き起こすウィルスが中央アフリカのミドリザルを襲うウィルスと類似しているので、ミドリザル病と呼ばれている。サンフランシスコの男性の同性愛者が数人、その病気にかかっている。(『ナイス・ピープル』、140ペイジ)

老人の症状から判断して診断に確信を持たざるを得ませんでしたが、元同僚の意見を求ます。大学でも講義を持つケニア中央病院の2人の医師は、未知のウィルスによって感染する新しい性感染症の診断に間違いはなく、すでに同病院でも米国人2人、フィンランド人2人、ザイール(現コンゴ民主共和国)人2人が同じ症状で死亡しており、3人のケニア人の末期患者が隔離病棟にいる、と教えてくれました。

興奮気味の心を抑えながら、隔離病棟に出向いたムングチは、改めて死にかけている老人の症状を確かめます。

私は調べた結果と比較して患者を見てみたかった。目的を説明すると、看護婦は3人が眠っているガラス張りの部屋に連れて行ってくれた。私たちを怪訝そうに見つめる救いようのない3人を見つめながら、私は言いようのないわびしさを感じた。そのとき、その老人が目に入った。私の患者、コンボ氏に違いなかった。口から泡を吹き、背を屈め、ひどく苦しそうに繰り返し咳き込んでいた。渇いた咳は明らかに両肺を穿っていた。老人には私が誰かは判らなかったが、隔離病棟の柵を離れながら、後ろめたいほろ苦さを感じた。(『ナイス・ピープル』、141ペイジ)

患者コンボ氏は、実は以前ムングチの診療所を訪ねてきたルオ人女性の鼻を折った張本人で、ナイロビ市の清掃業を一手に引き受ける大金持ちでした。ルオ人の女性は清掃会社の就職面接でコンボ氏から裸になって歩き回るように命令された時に抵抗したために暴力をふるわれたのですが、噂では、肛門性交嗜好家の異常な行動の犠牲者が他に何人もいたようです。ムングチは、コンボ氏の死に際の哀れな姿を思い浮かべながら、神が犠牲者たちに代わってコンボ氏の蛮行への鉄槌を下されたに違いない

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と結論づけます。

元同僚の医師Dr GG (Gichua Gikere) は、「スリム病」と呼ばれるこの病気については既に知っており、唯一薬を提供出来るだろうと「ウィッチ・ドクター」と呼ばれる地方の療法師・呪術師を紹介してくれたのですが、実際の役に立ちそうにはありませんでした。

こうして、性感染症専門医ムングチのエイズとの闘いが始まるのです。

「ナイス・ピープル」

コンボ氏と同じように、医者のムングチも金持ちの階級に属しており、「ナイス・ピープル」とはそんな金持ち専用の次のような高級クラブに出入りする人たちのことです。

ムングチも、今では、役所や大銀行や政府系の企業の会員たちが資金を出し合う唯一の「ケニア銀行家クラブ」の会員だった。クラブには、ナイロビの著名人リストに載っている人たちが大抵、特に木曜日毎に集まって来る。テニスコート5面、スカッシュコート3面、サウナにきれいなプールも完備されており、ナイロビの若者官僚たちの特に便利な恋の待合い場所になっている。(『ナイス・ピープル』、146ペイジ)

「開発」や「援助」の名の下に、西洋資本と手を携えて大多数の人たちから搾り取る現代のアフリカ社会は、一握りの金持ちと大多数の貧乏人で構成されています。資本を貯め込める中産階級が極端に少なく、大抵はいつでも国外に追放できる外国人で政府はその階級を埋めています。

「ウィルスは金持ちにも貧乏人にも感染する」と書きましたが、実は、病気の治療を担う側の医者や官僚などの専門職の人たちも多数 HIVに感染しており、その感染率の高さを作者は問題にしているのです。冒頭の「著者の覚え書き」からその深刻さが伝わって来ます。作者がオーストラリアに留学していた時に読んだ以下の新聞記事の一節です。

ケニアの地図

著者の覚え書き

『ナイス・ピープル』でどうしても書いておきたかった一つに1987年6月1日付けの「シドニー・モーニング・ヘラルド」の切り抜きがあります。3年のち、ここでその記事を再現してみましょう。

ハーデン・ブレイン著「アフリカのエイズ:未曾有の大惨事となった危機」

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(ナイロビ発)中央アフリカ、東アフリカでは人口の4分の1がHIVに感染している都市もあり、今や未曾有の大惨事と見なされています。

この致命的な病気は世界で最も貧しい大陸アフリカには特に厳しい脅威だと見られています。専門知識や技術を要する数の限られた専門家の間でもその病気が広がっていると思われるからです。

アフリカの保健機関の職員の間でも、アフリカ外の批評家たちの間でも、アフリカの何カ国かはエイズの流行で、ある意味、「国そのものがなくなってしまう」のではないかと言われています。

病気がますます広がって、既に深刻な専門職不足に更に拍車がかかり、このまま行けば、経済的に、政治的に、社会的にかならず混乱が起きることは誰もが認めています。

世界保健機構(WHO)によれば、エイズは他のどの地域よりもアフリカに打撃を与えています。今年度の研究では、ある都市では、研究者が驚くべき割合と記述するような率でエイズが広がり続けているというデータが出ています。

第3世界のエイズのデータを分析しているロンドン拠点のペイノス研究所の所長ジョン・ティンカー氏は、「死という意味で言えば、アフリカのエイズ流行病は2年前のアフリカの飢饉と同じくらい深刻でしょう。

しかし、飢饉は比較的短期間の問題です。エイズは毎年、毎年続きます。」

基本的に同性愛者間の触れ合いや静脈注射の回し打ちや輸血を通してエイズが広がってきた世界の多くの国とは違って、アフリカでは主に異性間の触れ合いを通して病気が広がっています。

70年代後半から80年代前半にかけてアフリカで病気が始まって以来、男性も女性も数の上では同じ割合で病気にかかっています。

アフリカでは性感染症を治療しないままにしている割合が高く、その割合の高さがエイズの広がりの大きな要因になっている可能性が高いと多くの研究者が主張しています。

WHOのエイズ特別企画の責任者ジョナサン・マン氏は、一人当たり平均約1.75米ドル(2.40オーストラリアドル)しか医療費を使わないアフリカ諸国の保健機関にてこ入れをし、教育への直接の国際支援と血液検査を行なえば、病気の広がりを抑えることが出来ると発言しています。(『ナイス・ピープル』、Ⅶ~Ⅷペイジ)

幼馴染みのメアリ・ンデュク (Mary Nduku) の愛人イアン・ブラウン (Ian Brown) も Dr GG の娘ムンビ (Mumbi) の愛人ブラックマン (Blackmann) も、ムングチが高級クラブで出会った「ナイス・ピープル」です。

南アフリカからの入植者を祖父に持つブラウンは、高級住宅街に住む34歳の青年で、ジャガーを乗り回し、一流のゴルフ場でゴルフを楽しみます。勤務する大手の「スタンダード銀行」で秘書をしているンデュクと愛人関係にあります。エイズを発症し、英国で治療を受けるために帰国しようとしますが、航空会社から搭乗を拒否されて失意のなかで死んでゆきます。

ブラックマンはモンバサの売春宿でムンビと出会い、常連客の一人となったフィンランド人の船長で、結果的には、2人の間に出来た子供を連れてヘルシンキまで押しかけてきたムンビを引き取ることになる。エイズに斃れたムンビの亡骸は、ケニアに

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送り返される。

高級住宅街に住むマインバ夫妻も「ナイス・ピープル」である。妻のユーニス・マインバは、ある日、額から夥しい血を流しながら病院に担ぎ込まれます。その傷が夫の暴力によるもので、のちに、夫とメイドとの浮気の現場を見て以来、精神的に不安定な症状が続いていることが判り、精神科の治療を受けるようになります。数ヶ月後、コンボ氏と同じように肛門性交を好む夫が、かかりつけの医者からHIV感染の疑いがあるので血液検査を薦められていると、ムングチに訴えにやって来ました。

性感染症専門医と性

HIVは血液と精液によって感染するわけですから、治療に比べれば予防は簡単だと思われがちですが、現実にはそうは行きません。性感染症専門医ムングチの診療と日常生活が、性感染症の恐ろしさと感染対策の難しさに加えて、複数婚が続くケニア社会と今の日本社会との、性や売春行為に対する社会通念の違いを教えてくれます。

ムングチは、メアリ・ンデュクとユーニス・マインバとムンビと、同時に関係を持つ。幼馴染みのメアリ・ンデュクとは高級クラブで再会し、イアン・ブラウンの愛人であることを承知で関係を持ち、一時は同居しています。アパートで鉢合わせになったブラウンとは、大げんかをして別れています。ブラウンはエイズを発症して死んで行きます。

ユーニス・マインバはムングチが担当した患者です。性的な関係を持つようになり、中年マダムのお供をして週末毎に豪華な小旅行に出かけた時期もあります。夫がHIVに感染した可能性が高いと相談され、恐ろしくなってムングチはマインバと別れました。

ムンビとは父親を訪ねて来たときに私設の診療所で出会ったのですが、モンバサで娼婦をしているのを承知でムングチは恋人関係になりました。一時期同棲をして、子供を身ごもったことを告げられたとき、結婚を決意します。ムングチの働いていたホスピスでムンビは出産するのですが、生まれてきた子供はムングチの子供ではなく、売春宿の常連客ブラックマンの子供でした。ムンビは逃げるようにヘルシンキへ渡りますが、エイズを発症して死んでしまいます。

ムングチは、のちにエイズで死ぬ愛人を持つメアリ・ンデュクと、HIVに感染したと思われる夫を持つユーニス・マインバと、異国の地でエイズを発症して死んだムンビの3人と同時に性的な関係を持っていたことになります。

ムングチは、売春行為を社会の必要悪と捉え、性感染症については治療を優先すべきで、社会の底辺層には国が無料で治療活動を行なう義務があるという趣旨の卒業論文を書きました。私設の診療所では、最低限の料金でその人たちの性感染症の治療に専念しました。性感染症の怖さを充分に承知していたわけで、ムングチをはじめとする「ナイス・ピープル」の性や売春に対する考え方を思い合わせれば、この小説の冒頭に載せられた「アフリカの何カ国かはエイズの流行で、ある意味、『国そのものがなくなってしまう』のではないか」という記事が、真実味を帯びて来ます。

南アフリカからの入植者によって侵略されたケニア社会は、かつての自給自足の豊かな農村社会ではありません。複数婚は、乳児死亡率の高い中で子孫を確保したり、農作業や老人・子供の世話を担当する労働力を確保する、などの必要性から生み出さ

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れたものでしょう。西洋社会が批判する割礼にしても共同体全体で次世代を育てる教育制度の大切な一環でした。しかし、土地を奪われ、無産者にされて課税される農民や、都市部で働かされる出稼ぎの賃金労働者に、旧来の制度を踏襲し発展させる力はありません。割礼や複数婚の制度が残っていても、かつての共同体を基盤にして機能していた制度とは全くの別物なのです。

大多数の農民や労働者は食うや食わずの生活を強いられ、国全体も、西洋資本と手を組む一握りの貴族やその取り巻きの豊かさと引き替えに、背負いきれないほどの累積債務に喘いでいます。そこにHIVが出現し、猛威をふるい始めたわけです。2003年の推計では、ケニア全体の平均寿命は45.22歳にまで落ち込んでいます。

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4章  南アフリカとエイズ治療薬

1 南アフリカの歴史

『最後の疫病』と『ナイス・ピープル』に描かれたケニア以上に、南アフリカのエイズ事情は深刻です。

アパルトヘイト体制がなくなりアフリカ人政権が誕生しても、大多数のアフリカ人の生活は変わらず、従来の貧困問題に加えて「昨年九月までの過去10年間で、約18000人(南ア人種関係研究所)が政治犯罪により殺害された南アでは、四月末の制憲議会選挙後、政治犯罪は減少傾向にある。しかし、凶悪犯罪も含め一般の刑事犯罪は減らず、この温床になっているのが最貧困層で、その多くが黒人だという事実は変わっていない」と報じられる犯罪率の高さが国の荒廃に拍車をかけています。

そして、未曾有のエイズ禍が追い打ちをかけているのです。NHK海外ドキュメンタリー「アフリカ21世紀」は、南アフリカのエイズの現状を次のように報告しています。

「この国を直撃しているエイズは、アパルトヘイトと深い関係があると言われます。現在、エイズ感染者は500万人、6人に1人、ここソウェトでは3人に1人が感染しています。アパルトヘイト時代、鉱山で隔離され、働かされていた単身者が、先ず、売買春によって感染し、自由になった今、パートナーに感染を広げているのです。」

番組では、月に1度、国立病院に薬をもらいにくる末期のエイズ患者が紹介されていますが、その女性患者が手にしたのはエイズ治療薬ではなく、抗生剤とビタミン剤だけでした。ウィルスの増殖を防ぐ抗HIV薬は1人当たり約100万円の費用がかかります。その年の末に、南アフリカは欧米の製薬会社と交渉してコピー薬を10分の1の価格で輸入出来るようにはなりましたが、薬の費用を政府が負担する国立病院では、感染者があまりにも多過ぎて薬代を政府が賄うことが出来なかったからです。「感染者すべてに薬を配るとすれば、年間6000億円が必要で、国家予算の3分の1を当てなければならなりません」、と報告しています。

永年の苦しい獄中生活や解放闘争を経験した新政府のアフリカ人が国民の生活水準の向上を願わないとは考えられませんが、経済基盤を持たない政権に、実質的な改革を求める方が無理というものです。

番組の中で、バラグァナ病院のグレンダ・グレイ医師は政府の無策を次のように嘆いています。

「アパルトヘイト政府は、エイズに何の手も打ちませんでした。アフリカ人の病気だからと切り捨てたからです。新しいアフリカ人政府も、対策を講じない点では同罪です。感染の拡大は止まりません。これはもう、大量虐殺です」。アパルトヘイトは廃止されたものの、アフリカ人の安価な出稼ぎ労働者を基盤にする基本構造を変えられないまま政権を担当せざるを得なかったANC(アフリカ民族会議)内閣は、1997年にコンパルソリー・ライセンス法を成立させてエイズ治療薬の確保に乗り

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出しますが、欧米の製薬会社の猛烈な反対にあって計画は頓挫し、HIV感染の拡大を防げませんでした。

現在の南アフリカの惨状が一日でもたらされたわけではなく、以下の長い歴史の必然の結果なのです。

オランダ人

最初に南アフリカに立ち寄ったヨーロッパ人はポルトガルの航海者ですが、移り住んだのはオランダ人です。1652年に、オランダの東インド会社のヤン・ファンリーベック一行は、南アフリカ南端のケープに上陸しました。本国と植民地インドネシアとの間に、船に食料や水を補給できる中継基地を築くためでした。そして、現在南アフリカ第二の大都市となっているケープタウンが造られます。当初、安定した補給基地を求めた東インド会社が入植者を認めたために、宗教改革で国を追われていた新教徒がヨーロッパから続々と流れ込みました。入植者はオランダ人農民が中心で、オランダ語で農民という意味のボーアと呼ばれます。後に、「アフリカに根ざした白人」という意味のアフリカーナーを名乗るようになります。アフリカーナーは、南オランダのオランダ語を根幹とした一種の混成語アフリカーンス語を使っています。アフリカーンス語は、アパルトヘイト体制の下では、英語と並んで公用語でした。

ヨーロッパ人が移住を開始したとき、ケープ地帯には、狩猟民のサン人と牧畜民のコイコイ人が住んでいました。入植者はサン人を「ブッシュマン」、コイコイ人を「ホッテントット」と蔑んで、戦争をしかけ、コイコイ人から広大な土地と家畜を奪い、より抵抗を示したサン人の大多数を虐殺しました。

女性不足から、入植者はコイコイ人や、労働力として輸入されたマレー人たちと結婚して、今日の「ケープカラード」と呼ばれる混血のグループが生まれます。大体、18世紀末までに、先住のコサ人などと武力衝突を繰り返しながら、入植者はケープ州東端イーストロンドン辺りにまで到達しています。しかし、ケープ地方の支配体制を完成させたのは、後から乗り込んで来るイギリス人でした。

南アフリカの地図

イギリス人

市場争奪戦での競争相手国フランスのケープ進出がアジアとの貿易を脅かすことを懸念したイギリスは、1795年に大軍を送り込んでオランダ人を降伏させ、ケープを占領します。1度はケープをオランダ人に返すものの、ケープの重要性を再認識して1805年には植民地政府を樹立しました。奴隷を必要としなくなったイギリスは、

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1833年に奴隷を一方的に解放しますが、奴隷解放は労働力を奴隷に依存していたボーア人には大打撃でした。イギリス人との権力闘争に敗れたボーア人の富裕層は翌年、家財道具一式を牛車に乗せ、大挙して内陸部に向けて大移動を開始します。やがて内陸部を経て、翌年には、一部はインド洋岸のナタール地方に、他の集団は現在のジンバブエとの国境辺りにまで到達しています。しかし、ナタールではズールー王国と衝突し、1838年にはコモ川流域で壮絶な戦いを繰り広げました。川はボーア人に殺された3000人のズールー兵の血で真っ赤に染まったと言われます。有名なブラッド・リバーの戦いです。

戦いには勝ったもののナタール州はボーア人のものとはならず、1834年にイギリスに併合されてしまいました。

ナタール州をイギリスに併合されたボーア人は再び内陸に移動し、トランスバール州でンデベレ人と、オレンジ白由州でソト人と衝突します。

ナタール併合を果たしたイギリスは、コサ人の居住地区のシスカイとトランスカイを、ソト人のバソトランドを、ズールー人のズールーランドを、近代兵器にものを言わせて次々に併合して行きます。

1854年頃には、南アフリカは四つの州に分割され、イギリス人が海岸線の肥沃なケープ州とナタール州を領有し、ボーア人が内陸部のオレンジ自由州とトランスバール州での自治権を認められる形で落ち着きます。

しかし、1967年にダイヤモンドが、1887年には金が、それぞれボーア人の自治領内で発見されたことによって、様相は一変します。

(画像掲載予定)

キンバリーのダイヤモンド採掘現場

金とダイヤモンドの採掘権をめぐってイギリス人とボーア人は壮絶な戦いを繰り広げました。第二次アングロ・ボーア戦争です。結局、またイギリス人の勝利に終わりますが、イギリス人はボーア人との共存の不可避を悟り、1910年に南アフリカ連邦を設立します。イギリス人の統一党とアフリカーナーの国民党からなる連立政権でした。

イギリス本国が南アフリカの白人に全権を委譲したのですが、その結果、南アフリカに入植した白人には帰るべき本国がなくなってしまいます。独立の騒ぎが起きたとき他のアフリカ諸国の入植者には帰る祖国がありましたが、南アフリカの入植者には戻るべき場所がありませんでしたので、土地への執着が余計に強かったと言われています。

入植以来、イギリス人とボーア人は絶えず抗争を繰り返しますが、アフリカ人を搾取するという点では利害が一致しました。両者が妥協点を見い出して打ち立てた連立体制は、多数派のアフリカ人に囲まれ、常に脅威にさらされていた少数派には、必然の結果だったでしょう。

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リザーブの設定

手を組んだ白人側は、アフリカ人の安価な労働力を基盤に体制固めをはかってゆきます。1913年には、原住民土地法を制定しました。それまで実際に行なっていた慣習を法制化したものに過ぎませんでしたが、アフリカ人居留地「リザーブ」なるものを設定して、人口の75%に及ぶアフリカ人を全国土の僅か七、3%のリザーブに押し込めたのです。カラード人口の多いケープ州は例外とされましたが、白人はリザーブ内での、アフリカ人はリザーブ外での土地売買を禁止されました。リザーブは散在する不毛の土地で、手を組んだ白人がアフリカ人から奪い取った大部分の土地を自分達のものだと法律で決めた訳です。

その後、ケープ州の例外条項がはずされて、リザーブが13. 7%に広げられ、1936年に原住民信託土地法と名前を変えますが、アパルトヘイト法が廃止されるまでその法律は生き続けました。

リサーブは、後にバンツースタン 、ホームランドと呼ばれますが、実体は同じです。

農場では引き続きアフリカ人はボーア人に扱き使われますが、鉱山でも大規模な形でアフリカ人労働者が搾取されました。フォアマンと呼ばれる管理者には、労働争議の恐れの少ないヨーロッパ人が雇われたうえ、白人の突き上げで、政府は熟練技術を要する職にはアフリカ人を就けませんでした。つまり、アフリカ人の賃金は極力抑えられたのです。アフリカ人は出稼ぎ労働者として、コンパウンドと呼ばれるたこ部屋に押し込められ、信じられない程の低賃金で働かされ続けました。

国民党政権の誕生

アフリカ人労働者の犠牲のもとに、南アフリカの工業化は進んでゆきます。ことに、製造部門は第2次世界大戦中に飛躍的な伸びを示しました。国内産業を軍需産業に切り替えなければならなかったイギリスやアメリカが、連合国側についた南アフリカにも消費物資を求めたからです。より多くのアフリカ人労働者を必要とした国内産業は、賃金の引き上げによってアフリカ人労働者を獲得しようとしましたが、安価なアフリカ人労働者に依存していた白人の農場経営者や鉱山所有者の反対に遭います。その人たちは逆に安定したアフリカ人の安価な労働力を保証してくれる労働力市場を国に要求します。アフリカ人労働者にその地位を脅かされつつあった貧しい白人層いわゆるプア・ホワイトは、人種差別を前面に掲げ、白人の特権を保証することを謳う国民党に傾いてゆきます。第2次大戦でナチスドイツに傾倒した国民党の掲げる人種差別主義こそが、社会の低辺層に沈みつつある自分達を救ってくれる唯一の道だと信じたからです。1948年に行なわれた白人だけの総選挙では、白人層の六割を占めるアフリカーナーの大半の票を集めて国民党が第一党となり、アパルトヘイト政権が誕生したのです。

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アパルトヘイト政策

アパルトヘイトは「分けること」という意味のアフリカーンス語で、「白人とアフリカ人が完全に分かれて生活し、それぞれの特性を発展させる」という未来図を描く国民党の政治スローガンです。しかし、実際に白人社会の繁栄がアフリカ人労働力の基盤の上に成り立っているのですから、完全な分離発展という国民党のスローガンは詭弁にしか過ぎませんでした。

アパルトヘイトは、小さなアパルトヘイト(プティ・アパルトヘイト)と大きなアパルトヘイト(グランド・アパルトヘイト)に分かれます。

プティ・アパルトヘイトは、ホテルやバスなどでの白人と白人以外の人々との差別政策で、グランド・アパルトヘイトは少数派の白人が大部分の上地を占有し、多数派のアフリカ人を散在する不毛の地に隔離することによって市民権を奪い、アフリカ人の安価な労働力を確保しようとする政策です。「白人地域」で働くアフリカ人は、「パス」の所有を義務づけられ、携帯しない場合や記載事項に不備な点が認められる場合は、罰金、懲役、強制労働を強いられるほか、人種別に割り当てられた「ホームランド」に強制的に送還されました。1965年から75年までの10年間に、年間平均50万人ものアフリカ人が逮捕されたと言います。パス法は86年7月に廃止され、かわって全国一律の新たな身分証明書が交付されました。また、労働許可証も必要とされ、仮に許可証があっても、余剰労働力として、政府の一方的な方針で強制送還される場合もありました。アメリカ映画「遠い夜明け」の中で、ケープタウン郊外のクロスローヅという「不法居住地区」が強制的に撤去される凄まじいシーンがありますが、あれも余剰労働力を調整するために強行されたものです。しかし、ラジオから流れる英語放送では、「強制立ち退きは衛生上の見地から行なわれ、反対もなく住民は自主的に警察に出頭した」ということでした。

アパルトヘイト体制とは、つまり、少数の白人が大部分の土地を占有し、残りの散在する不毛の土地にアフリカ人を締め出したうえ、その労働力だけは利用して、南アフリカの豊かな富を独り占めにする国家形態だったのです。しかも、その体制を守るために、自分たちに都合のよいありとあらゆる法律を制定し、体制を維持するためには武力行使をも辞さないというファシズム体制でもあったのです。

国民党が政権をとるまでは、現に法律はあったものの、締めつけはさほど強くなかったようで、たとえば、ケープタウン生まれの「カラード」作家アレックス・ラ・グーマは、小さい頃、アフリカ人と同じ街に住んでいたと書いています。集団地域法はあっても、厳密に施行されていなかった地域もあったということです。しかし、国民党が政権の座についてからは事態がにわかに厳しくなります。

アフリカ民族会議

勿論、アフリカ人はヨーロッパ人の一方的な侵略を黙って見ていたわけではありません。1882年12月には、100人のアフリカ人労働者がキンバリーで賃上げを要求してストライキを行ないました。1920年代の初めにはかなり大規模なス

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トライキが敢行されていますが、ことごとく力で制圧されています。

1912年、アフリカ人の土地の権利の擁護と政治的な諸権利を求めて、抵抗組織南アフリカ原住民民族会議(1925年にアフリカ民族会議ANCに改名)が結成され、様々な人種グループから成る民主的で平等な統合国家実現をめざして活動を開始しました。しかし当初は、イギリス本国に代表を派遣して誓願したり、大衆に直接呼びかけるだけの消極的な活動をするだけでした。やがてはその方針に不満を持つ若い人たちが、大規模なデモやストライキなどを組織するようになって行きます。

会議運動

次々と法律がつくられ、アパルトヘイト体制が強化されるにつれて、アフリカ人の抵抗運動も次第に高まって行きます。50年代初めには、ANCを中心に、ガンジーに率いられたインドにならって「不服従運動」が展開されますが、厳しく弾圧されて運動は中止せざるを得ませんでした。しかし直後に、アフリカ人は白人、インド人、カラードと連携して会議運動を展開します。55年には、ジョハネスバーグ近郊のクリップタウンに集まり、国民会議を開き、自由憲章、フリーダム・チャーターを採択しました。解放後の、国の展望を示したもので、以下の文章で始まっています。

「自由憲章

われわれ、南アフリカの民衆は、すべてのわが国土と世界に宣言する、

南アフリカは、黒人と白人を問わず、そこに住むすべての人々に属し、如何なる政府も、全国民の意志に基づかない限り、その権利を正当に主張することは出来ない、と。」

自由憲章自体は短いものでしたが、人種の平等、少数派の尊重、基本的人権の確立、アパルトヘイトの廃止、土地の再配分などをうたっており、その後の解放闘争の指針となります。

反逆裁判

会議運動の高まりに対して、政府は弾圧を強化し、1956年12月には、会議運動の指導者156名を一斉に逮捕し、全員を反逆罪で起訴しました。反逆裁判事件と呼ばれ、政府は結局反逆罪を立証し得ずに16日後には全員を保釈し、1961年3月までに全員に無罪を言い渡さざるを得ませんでした。

大変な事態であったはずですが、マンデラを含む指導者層は、一堂に会せたことに感謝して、刑務所内で勉強会を開いたと言われます。経済的に苦しく、広い国内を自由に動き回れるだけの余裕のない人が大部分だったからです。当時、ケープタウンの左翼系週刊紙「ニュー・エイジ」の記者だったラ・グーマは、ジョハネスバーグに赴いたあと「皆それぞれに大変だが不平をこぼすものは誰一人としていない」という記事で、裁判での指導者たちの息吹を伝えています。

この運動で示された多人種統合国家の実現がANCの基本路線ですが、58年に、白人の手を借りないアフリカ人だけによる闘いをスローガンに掲げるパン・アフリカニ

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スト会議(PAC)が、ロバート・ソブクウェに率いられて、ANCと袂を分かちます。ソブクウェが人間的に大きな人物でなかったら、それほど大きな分裂騒ぎにはならなかったのでしょうが、実際にはたくさんの人が理想主義的なソブクウェに惹かれてANCを去り、PACに加わりました。

解放闘争におけるこのアフリカ人側の分裂は、体制側には願ってもない事態でしたが、南アフリカの歴史にとっては大きな、悲しい分岐点となりました。ANCを率いていたマンデラとPACを率いて袂をわかったソブクウェとの歩み寄りが実現していたら、南アフリカの歴史も、アフリカ全体の歴史も、人類全体の歴史も大きく変わっていたかも知れません。

ロバート・マンガリソ・ソブクウェ

後に一番の理解者となるベンジャミン・ポグルンドの伝記『ロバート・ソブクウェとアパルトヘイト』をもとに、歴史の流れを左右するほどの人物ロバート・マンガリソ・ソブクウェをみてゆきたいと思います。

ロバート・マンガリソ・ソブクウェ

ソブクウェは、1924年に、ケープ州南東部の貧しい町に生まれて、ミッション系の高校を出た後、アフリカ人用の南アフリカ原住民大学フォートヘア・カレッジに進んでいます。

当初政治への関心を見せませんでしたが、フォートヘアで「原住民」の優等生から、体制に立ち向かうアフリカ人に生まれ変わります。「原住民行政」学を担当していたセスゥル・ントゥロコの感化を受けて、アフリカ諸国や広く世界の情勢についても考えるようになり、それまでの教育が如何に白人中心であったかを知り、愕然とします。白人でない人たちが、人種隔離制度によって劣等の意識を植え付けられたうえ、惨状に黙従することに慣らされてしまっている現状を、強く意識し始めました。

43年には、ANC内に青年同盟が結成され、ソブクウェも、フォートヘア支部で、中心的な役割を果たします。高校の教員をしたあと、54年に看護婦をしていたヴェロニカと結婚し、ヴィットヴァータースランド大学の語学助手として、ジョハネスバーグのソウェトに移り住みました。

4人の子供を設け楽しい家庭生活や大学での教員生活を送りますが、長くは続きませんでした。まわりの現実と時の情勢が厳しすぎたからです。定期的に自宅で会合がもたれ、ソブクウェのもとに、次第に人が集まるようになりました。ポグルンドが最初にソブクウェと出会ったのは、そんな時期で、如何にも学者風で、気弱なというのが第一印象でしたが、58年の半ば頃には「気高く、明晰で、思慮深く、極めてすぐれた感性の持ち主で、接すれば接するほど好きになって、感化を受けています……何とも偉大な男です」という印象に変わっていました。

48年からの10年間で、国民党政権は体制を固め、58年4月の選挙では3分の2の議席を確保します。58年に首相になったファブールトは、政府のブレーンに「分離発展」の政策を研究させ、ミニ独立国家を作ってアフリカ人を外国人に仕立てるバンツースタン政策の基礎固めを始めています。

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こうした厳しい状況のなかで、ANCが分裂します。特権を享受する白人や共産社会を目指すコミュニストとも共闘する指導層と、アフリカ人だけでの闘いを主張するアフリカニストの路線の違いが58年末の年次総会で決定的となり、翌年、パン・アフリカニスト会議(PAC)が結成されます。ソブクウェが議長に選ばれ、次の5つの目標を掲げます。

(1)アフリカ・ナショナリズムに基づいた国民戦線に、アフリカ人を統合、集結させること、

(2)白人支配を打倒するため、また、アフリカ人のための自己決断の権利を履行、保持するために闘うこと、

(3)各人の物質的、精神的な利益を優先するアフリカ社会民主主義を打ちたて、維持するために働き、尽力すること、

(4)アフリカ人の教育的、文化的、かつ経済的発展を促進すること、

(5)アフリカ人同士の連帯を強めることによって、南アフリカ同盟とパン・アフリカニズムの概念を伝え、広めること。

ソブクウェは「日頃、白人の侮蔑や屈辱に黙って従うことが、アフリカ人の劣等性を認めることになるのだから、先ずアフリカ人自身が人間としての誇りを取り戻した上で、政治的、経済的、社会的な地位(ステイタス)の改善を求めて広範なキャンペインを展開する」という声明を発表し、不満の多かったパスの問題を取り上げました。労働者がパスを置いたまま家を出て、仕事に行く途中、最寄りの警察署に出頭して、自らパス不所持の罪で逮捕されるという戦略です。その方法が成功すれば、警察署や裁判所や留置場に人があふれて政府は混乱し、労働者がいなくて雇用者が困るという二重の効果があらわれると、ソブクウェは考えたのです。

共闘を呼びかけたANCに時期尚早と断られた為に、60年3月21日に単独で行動を始めます。

当日、ソブクウェは会員数名とソウェトの中央警察署に出頭して、パスを携帯していないので逮捕してほしいと申し出ていますが、11時頃まで外で待つように指示されます。外で待っている間に、事態は思わぬ展開を見せました。何箇所かのアフリカ人居住区で、警察の発砲によって死者も出ているというニュースが伝えられたのです。ポグルンドは、居住区の1つシャープヴィルに駆けつけ、大量虐殺を目のあたりにしました。死者68名、負傷者186名。350人の警官が、20000人近いアフリカ人に対して無差別の銃撃を行なったのです。警察の放った705発の銃弾によって歴史を大きく塗り替えられた南アフリカは、もはや元の状態には戻りませんでした。

ソブクウェは会員数名とソウェトの中央警察署に出頭

シャープヴィルだけでなく、各地でキャンペインが展開されました。特に、ケープタウンとその近郊では、ソブクウェに深く感化を受けた大学生フィリップ・コゥサーナの指揮のもとに、活発な活動が繰り広げられ、事態が収まるまでケープタウンではパス法を一時停止する、という約束を警察から取り付けています。25日に、必要ならPACとANCの活動を禁止させる法律を議会に提出するという声明が出され、翌26日には、パス法の一時停止が発表されました。

PACの勝利は明らかでしたが、指導者の逮捕による組織の弱体化は隠せませんでした。悪いことに、ANCがキャンペインの主導権を握ったことで、組織は更に混乱しま

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した。パス法の一時停止措置などの流れに乗じて、ANCがアフリカ人にパスを焼き捨てるように呼びかけたからです。当初はキャンペインに反対し、非難までしておきながら、パス法の一時停止措置などの成果を見てキャンペインに便乗するANCの日和見主義的なやり方をソブクウェは非難しますが、大衆の勢いと時の流れの早さは、ソブクウェの読みをはるかに超えていました。

28日の在宅ストライキは史上最大のものとなりました。大都市では、アフリカ人労働者の九十%近くが、また小さな町でも、相当数の労働者がストに参加して、仕事に行きませんでした。同日、政府はPACとANCの活動を禁止させる議案を国会に提出し、30日には裁判なしに人々を拘禁し、集会を禁止できる権限を警察に認める非常事態宣言を出して、事態の収拾に乗り出しました。

4月8日には、PACとANCを非合法化する法律が発令されましたが、既に両組織とも壊滅状態で、4月10日にはパス法が復活しています。PACの呼びかけに応じて立ち上がったアフリカ人勢力は、警察や軍隊や議会などを駆使した少数派白人に、完全に封じこめられてしまったのです。

ソブクウェはマーシャル・スクウェアに二晩拘留されたあと、法廷に連れ出され刑事法修正令が適用されました。同修正令はANCの不服従運動をつぶす目的で52年に改悪されたもので、500ポンド以下の罰金もしくは5年以下の懲役が課せられる重刑でした。ソブクウェは、白人が作った法律のもとで、アフリカ人が公正な裁判を受けられるとは思えないので、抗弁はしないと述べました。5月4日には、3年の禁固刑で、フォート刑務所に送られました。ソブクウェは「不正な法律が公正に適用されることはあり得ないのです。自分たちが起こした行動の結果と対峙するのを恐れたりはしません」と、判決前に語っています。

ソブクウェが法廷で闘っている間、政府は「秩序の回復」をはかりました。コミュニストやリベラルを含む1800人が逮捕されてフォート刑務所に送りこまれ、5月初めまでに、アフリカ人の逮捕者は、18001人にのぼりました

3年の刑期を終えて、63年に出獄するはずのソブクウェの運命は、獄中にいる間に大きく変わっていました。その最大の要因は、ポコと呼ばれる集団のテロ活動でした。非暴力を貫いた反パス法キャンペインを力で押さえこまれて遣り場を失なったPACの若者たちの憎しみが、白人に向けられたのです。2年の刑期を終えてバソトランドに逃れたレバロが指揮を取り始めた八月には、その勢いを強め、翌年2月には、トランスカイで、5人の白人を惨殺しました。既にANCが武力闘争を開始していましたから、白人社会に与えた衝撃は尚更でした。

4月に蜂起する計画は未遂に終わり、3000人以上が逮捕されてポコは消滅しましたが、レバロの無謀な行為は、体制側にソブクウェの拘禁を延長する口実を与えました。時の首相フォルターは、刑期終了後も法務大臣が認めれば、拘禁を再延長できる「ソブクウェ法」を考え出し、議会に提案し、5月1日には効力を発揮しました。「ソブクウェ法」は、64年6月30日が期限となってはいましたが、国会の承認があれば1年毎に延長が可能という法律で、ソブクウェはロベン島に送られました

6月には、65年6月30日まで「ソブクウェ法」が延長され、次回からの期間延長には議会の審議は必要なく、法務大臣の命令さえあればよいという改悪がなされていました。政府の強硬な対応によってアフリカ人側の状況は更に厳しくなっていきました。

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65年2月早々に、再延長され、以後、68年まで延長措置が続きます。

68年にはキンバリーに移され、5年間の自宅拘禁を言い渡されています。長い間の孤独拘禁によって精神障害の兆候が見え出したソブクウェをこれ以上ロベン島に監禁して国際非難を浴びるよりは、自宅拘禁の方が得策だと政府は考えたのでしょう。

ダイヤモンドの町キンバリーには白人とカラードが36000人、アジア人1000人、アフリカ人66000人が住んでいました。ツワナ系のアフリカ人が主流で、コサ出身のソブクウェには初めての環境でした。ソブクウェは、鉄製のベッドとわずかな家具しか準備されていないトタン屋根の家を割り当てられ、そこでの5年間の自宅拘禁を言い渡されました。キンバリー市内からは出てはならない、午後6時から朝の6時までは自宅内に留まることなど、様々な制限を受けています。それでも、世間から全く隔絶されたロベン島の生活に較べれば、大きな変化でした。

77年6月になって、ソブクウェは体調の不調を訴えました。熱が高く、ひどい咳が取れなかったからです。その時点での診断は、細菌感染によって心臓の筋肉が弱り病状は思わしくないものの、治療次第では良くなるだろうということでしたが、九月には肺癌に侵されていることが判明します。政府は、ブルームフォンティンでの手術を指示しましたが、ソブクウェはその命令をかたくなに拒否しました。政府が、どこで手術を受けてもよいと発表したのは9月9日、ソブクウェがケープタウンで肺除去の手術を受けたのは、9月14日でした。その後、放射線治療を受けるために、キンバリーとケープタウンを何度か往復しましたが、78年2月には危篤状態に陥り、78年2月27日、54歳の若さで、二度と還らぬ人となりました。

白人政権は、政府を転覆させる可能性の最も高かった人物を合法的に歴史の闇に葬り去ったのです。

シャープヴィルの虐殺

PACが始め、後にANCが便乗して繰り広げたキャンペイン活動はシャープヴィルの虐殺として歴史に名をとどめています。その事件はショッキングな「虐殺事件」としてただちに世界中に伝えられ、非難の声が高まりました。そして、非難の声は制裁へと動きます。政府は非常事態宣言を発令して弾圧に乗り出す一方、経済制裁に動き出した各国に使節を送り友好関係の継続を訴えました。

シャープヴィルの虐殺

この時、日本政府は、国際世論に反して国交の再開と大使館の新設を約束し、翌年の一月には通商条約を結びました。白人政府はこれに対して4月の議会で、日本人を居住地に関する限り白人なみに扱うことを表明します。1920年、30年代に既に使われていた名誉白人の称号は、貿易関係が親密になるにつれて実を伴う不名誉な称号となっていきます。

60年4月に、ANCとPACが禁止されますが、アフリカ人の抵抗は根強く、フルウールト首相暗殺未遂事件などもあって、弾圧はさらに強化されていきます。

そんな中、61年5月31日、政府は白人

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の一方的意志により、英連邦を離脱、共和国を宣言します。地下解放戦線はマンデラを総書記にしてゼネストで対抗しますが、力で押し切られてしまいます。白人のこうした異常なまでの弾圧に、ANCは五十年近く続けてきた非暴力の道を捨てて、武力闘争部門「民族の槍」を創設し、61年12月、遂に武力闘争を開始します。

ネルソン・マンデラ

リボニアの裁判

ネルソン・マンデラは、1918年にテンブ人の首長の長男としてトランスカイに生まれました。52年には、オリバー・タンボと一緒にジョハネスバーグで弁護士事務所を開設し、解放運動の只中にいました。ANCが禁止された後も、果敢に地下活動を続けますが、62年8月に逮捕され、5年間の禁固刑を言い渡されてロベン島に送り込まれてしまいます。裁判では、白人が一方的に決めた法律に従う義務は自分になく、刑期終了後も不正がなくなるまで戦うことを言明します。

激しくなる一方の破壊活動の脅威から、政府は62年6月に一般法修正令、俗にいう破壊活動法を成立させていました。その法律は常識を越えて市民さえ容易に巻き込む厳しいものでした。

しかし、破壊活動法を強行し、マンデラを逮捕・監禁しても、破壊活動の火は鎮まりませんでした。追い詰められた政府は、63年5月にさらに法を改悪、再修正して、名目上一期を90日として、破壊活動に少しでも係わりがあると思える個人を、逮捕状・裁判なしに拘禁できる「90日無裁判拘禁法」を成立させ、指導者層を追い込んでいきます。拘禁された者は、1日に23時間半、孤独拘禁され、様々な精神的・肉体的拷問を受けました。

63年7月、ジョハネスバーグ近郊にあるリボニアにあったANCの武力闘争部門「民族の槍」の司令部が急襲され指導者が大量に逮捕されます。そして、追訴されたマンデラとともに裁判にかけられ、「リボニアの裁判」が始まります。

マンデラは育てられた心豊かなアフリカ人の伝統社会と、貧しいアフリカ人の窮状と、なぜ非暴力を捨てて破壊活動という形で武力闘争を始めなければならなかったのかを語ります。そして、五時間に渡る陳述を次の格調高い一節で締め括りました。

「……今まで述べてきましたように、これまでの人生をすべてアフリカ人の闘いのために捧げてきました。白人支配とずっと闘ってきましたし、黒人支配とも闘ってきました。みんなが協調して、平等に機会を与えられて共存する民主的で自由な社会を理想としてきました。それは私がそのために生き、成し遂げたいと願う理想です。もし必要なら、その理想のために死ぬ覚悟は出来ています」。

世論を懸念した政府は、極刑は下さずに八名全員に終身刑を言い渡し、マンデラを含む七名をそのままロベン島に送り込みました。解放運動の指導者は、国外逃亡を強いられるか、拘禁されるか、抹殺されるかの壊滅状態に追い込まれ、大衆は指導者を

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失なって、南アフリカは暗黒の時代に突入していきます。

その頃、日本では東京オリンピックが開かれ、高度経済成長の時代が始まろうとしていました。

アレックス・ラ・グーマ

ソブクウェやマンデラと同様に、解放闘争で指導者として闘いながら、作家としても優れた作品を残した人たちがいます。ラ・グーマもその一人です。

アレックス・ラ・グーマ

ラ・グーマは1925年にケープタウンに生まれました。父親が解放運動の草分けの一人でしたから、早くから政治意識に目覚め、高校を中退したあと、46年にはストライキを先導して会社を解雇されました。48年には共産党に入党し、55年には南アフリカ・カラード人民機構の議長に選ばれています。同じ年にケープカラード社会での人望と文才を認められて、反政府路線の週刊紙「ニュー・エイジ」に記者として採用されました。57年からコラム欄「わが街の奥で」を書き始め、62年に破壊活動法によって記者活動を断念させられるまで健筆を揮いました。

56年には他155名とともに反逆罪の嫌疑で逮捕されています。以来、60年、61年、63年、66年にも逮捕・拘禁されていますが、それはラ・グーマが白人政府に脅威を与える存在だったからです。66年に釈放され、5五年間の自宅拘禁を強いられたラ・グーマは、家族と共にロンドン亡命の道を選び、祖国を離れます。

亡命してからもラ・グーマは、積極的に反アパルトヘイト運動を続け、70年にANCロンドン地区議長になり、78年にはカリブ代表としてキューバに赴任しました。様々な国の作家と連帯しながら精力的な創作活動を展開し、70年にはアジア・アフリカ作家会議からロータス賞を授与され、79年には議長に選出されています。81年には来日して会議などに出席し「日本をどう変えるかはあなたがたの問題ですが、原則的なことは、日本の物資的豊かさは第三世界の搾取の上に成り立っていることです」と語りました。

しかし、85年に心臓発作のため、60歳の若さで2度と還らぬ人となりました。

ラ・グーマは2つの思いから作品を書きました。1つは、世界の人々に南アフリカの実状を知って欲しかったからです。美しい南アフリカを強調する政府の観光宜伝とは裏腹に、人々は現実にアパルトヘイト体制の中で苦しみを強いられていました。

もう1つは、歴史を記録してアパルトヘイトが廃止されたあとも厳しい時代があったことを後の世の人に伝えたかったからです。

『夜の彷徨』では、ケープタウンのカラード居住地区の夜を彷徨いながら、無為な時を過ごす若者たちが容易く犯罪の世界に巻き込まれてゆく姿を描いています。当時、警察の厳しい監視下にありましたが、幸いなことに60年に再逮捕されたとき『夜の彷徨』の草稿はほぼ完成されていました。ラ・グーマは原稿を一年間郵便局に寝かせておくようにブランシ夫人に指示してから拘置所に赴いています。一年後、郵便局から首尾よく引き出された原稿は、ブランシ夫人の手から、私用で南アフリカを訪れていたムバリ出版社のドイツ人作家ウーリ・バイアーの手に渡り、国外に持ち出されま

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した。ラ・グーマの機転、ブランシ夫人の助力、ウーリ・バイアーの好意、どれひとつが欠けていても、『夜の彷徨』の出版はかなわなかったでしょう。

ブランシ夫人

第2作『まして束ねし縄なれば』は東ベルリンのセブン・シィーズ社からの要請に応えたもので、執筆の一部や出版の折衝、契約なども刑務所内で行なわれていますので、文字通り鉄格子の中から世に送り出された作品です。

田舎から仕事を求めて出てきた人たちが住み着いたケープタウン郊外のスラムが舞台で、住人は、ナイロンや鉄くずや段ボールを集めて小屋を建て、雨露をしのいでいます。

心優しい主人公チャーリーを軸に、家族や恋人や親戚との日常の出来事、葬式や出産、警察の手入れなどを雨と絡ませながら、色彩語、擬声語などを駆使して、アパルトヘイト体制の下で呻吟しながらも力を合わせて何とか生き永らえている人々の姿を、ラ・グーマは描きました。

伝記『アレックス・ラ・グーマ』を書いた南アフリカの学者セスゥル・エイブラハムズさんは「あの人は絶えずものごとのいい面をみていました。いつも山の向う側をみつめていました。だから、たとえ人々がよくないことをしても、楽観的な見方で人が許せたのです」と評しています。南アフリカ解放の日を見ることはありませんでしたが、ラ・グーマの思いは、作品を通して生き続けています。

バンツー・スティーヴン・ビコ

人々が指導者を失なった暗黒の時代に、次の新しい世代が生まれます。バンツー・スティーヴン・ビコに率いられる学生たちを中心にした世代です。

ビコは1946年にケープ州東部のキングウィリアムズタウンで生まれました。ナタール大学医学部の学生時代に解放運動の指導者となり、のちに、白人の手を借りないアフリカ人だけによる「ブラック・コミュニティ・ブログラム」を推進していきます。

ビコはまず何よりも、自己意識の変革を訴えます。白人のもとに働きに出るために両親が不在のまま、惨めなスラム街で幼少時代を過ごす子どもたちが、やがて白人居住区に出るようになると、いやでも白人社会との格差を思い知らされます。白人の教育を受け、白人の価値観に飼い慣らされ続けるなかで、知らず知らずのうちに肌の色に起因すると思われる劣等感を抱くようになってゆきます。したがって、アフリカ人は、人間性を取り戻すために、白人とは係わりなく、まず自分自身の価値体系を確立し、自分の生き方を自分で決める必要がある……つまり、何よりも自己意識の変革の尊さを説いたわけです。そして、「プログラム」に従って、74年にザネンピロ・コミュニティ・ヘルス・クリニックを創設して、自ら実践をしてみせます。すべてのものが白人の価値体系下にあった当時の状況の中で、アフリカ人自身の手によって、白人に影響されることのない自立の方向性を具体化し、実践に移し得たのは画期的なことでした。法廷においても、理路整然とアフリカ人自身の自己変革の必要性を説きました。76年の裁判では、黒人・白人の武装した警官の立ち並ぶな

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かで「警察当局のために働いているアフリカ人をどう思うか」と尋ねられた時「その人たちは裏切り者です」と厳然と言い切りました。

別の裁判では、黒人意識運動の概念について質問されて、次のように述べています。

「基本的に『黒人意識』が言っているのは黒人とその社会についてであり、黒人が国内で2つの力に屈していると、私は考えています。まず何よりも黒人は、制度化された政治機構や、何かをしようとすることを制限する様々な法律や、苛酷な労働条件、安い賃金、非常に厳しい生活条件、貧しい教育などの外的な世界に苦しめられています。すべて、黒人には外因的なものです。2番目に、これが最も重要であると考えますが、黒人は心のなかに、自分自身である状態の疎外感を抱いてしまって、自らを否定しています。明らかに、ホワイトという意味をすべて善と結びつける、言い換えれば、黒人は善をホワイトと関連させ、善をホワイトと同一視するからです。すべて生活から生まれたもので、子供の頃から培われたものです。」

その存在があまりにも大きくなり過ぎたために官憲の手によって獄中で葬り去られてしまいます。77年9月12日のことでした。

そのビコの存在は、社会や親たちに希望を見い出せなくなっていた若者たちを立ち上がらせる大きな力となりました。

バンツー・スティーヴン・ビコ

ソウェト蜂起

70年代のアフリカ人の抵抗運動は73年の労働者の広範囲にわたるストライキで始まりました。ストライキの波はナミビアの鉱山ストライキやダーバンでのゼネストヘと波及して翌年まで続きます。厳しい弾圧にもかかわらず、ストライキの参加者は2年間で20万人、数も246に達しました。

75年のモザンビークとアンゴラの独立やアンゴラ内戦に介入した南アフリカ正規軍の敗戦・撤退の知らせは国内のアフリカ人たちを勇気づけます。

76年6月、自らの意志で、自らが決定して、ソウェトの高校生たちが立ち上がります。アフリカーンス語の強制的な導入などを拒否して、高校生がデモ行進を始めたのです。希望を挫かれてもぐり酒屋に逃避する親たちを叱咤して、警官隊と対峙し、銃弾に立ち向かっていったのです。警官隊の発砲により多数の死傷者をみますが、抗議と連帯のデモは各地のアフリカ人居住地区に広がります。この一連の事件はソウェト蜂起と呼ばれ、「ソウェト以後」という言葉で表現される新しい世代が解放運動の流れを大きく変えていくことになります。

575人の死者、数千人の負傷者と公式発表されましたが、実際の犠牲者はそれ以上であったと言われます。

セスゥル・エイブラハムズ

87年8月に亡命先のカナダで出会った南アフリカの学者セスゥル・エイブラハムズさんは、銃弾に立ち向かって殉教した若者に次の詩を捧げました。

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「ソウェト殉教者たちに寄せる詩」

わたしは一枚の写真を見た

一万二千マイル離れた国の、ある

新聞に

わたしの同胞の血が

その憎しみの手に

ふたたび流れ落ちるのを

ひとりの勇敢な少年が

その少年は

わずか八歳でしかなかったが

避けようのない、見るからに恐ろしい

死の銃弾にむかった

少年はまっ先に死んでいった

一番あとから行動を始めたのに

少年の罪は

憎しみにただ抗議しただけであった

どこで確かめればよいのか

おぞましい地獄絵から

そんなにも遠く離れて

どのように語ればよいのか

恐怖の

重い残忍な手を

決して感じたことのない

隣人たちに

革命の心に深く沈む

この苦しみ

この憤りを

私がエイブラハムズさんにお会いしたのは、1987年の米国での会議に向けてラ・グーマの資料を探していた頃です。ライトのシンポジウム(1985)の際に立ち寄ったミシシッピの本屋のリチャードさんから届いた『アレックス・ラ・グーマ』を読んで、その本格的な作品論・伝記を書いた人に会いたいと思いました。住所を調べて「お訪ねしたいのですが」と手紙を書きましたら、「北アメリカに着いたら電話して下さい」という返事が届きました。

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南アフリカのアフリカ人にとって日本は当時アメリカと並んで白人政権への投資高を競う最悪の貿易パートナーで、シャープヴィルの虐殺以来の裏切りの国のはずです。にもかかわらず、そんな国からやってきた突然の訪問者を受け入れて丸々3日間、温かくもてなして下さいました。長時間のインタビューにも応じて下さり、ラ・グーマの作品の草稿のコピーなども分けて下さいました。7月に移ったばかりのオンタリオ州のブロック大学で、「私の国が解放されたとき、この学校管理の仕事を役立てたいんです」と言いながら、学生1万人、教授陣300人を擁する人間学部の学部長として忙しい日々を送っておられました。

エイブラハムズさんは、1940年にジョハネスバーグ近郊のブルドドープに生まれています。父親がインド出身で、母親がユダヤ人の父とズールー人の母を持つ家庭に生まれ、政府に「カラード」と分類分けされました。貧しい家庭でしたが、教育熱心な母親のお陰で、高校を出てヴィットヴァータースラント大学に進んでいます。99%が白人のその大学ではアフリカ人は授業に出ることと図書館を利用することしか許されませんでしたので、1年で退学し、その後現在のレソトの大学で学士号を取って再び南アフリカに戻り、7ヶ月間無免許で高校の教壇に立ちました。

セスゥル・エイブラハムズさん

インタビューのなかで少年時代のことを次のように語ってくれました。

「私が拘置所に初めて行ったのは12歳のときですよ。サッカーの競技場のことで反対したんです。アフリカ人の子供たちと白人の子供たちの競技場があって、黒人の方は砂利だらけで、白人の方は芝生でした。すり傷はできるし、ケガはするし、だからみんなを白人用の芝生の所まで連れて行ったんです。そうしたらみんなで逮捕されました。それから、人々があらゆる種類の悪法に反対するのを助けながら自分の地域で大いに活動しました。だから、3度刑務所に入れられたんです。」

ANC(アフリカ民族会議)の会員になったのは16歳の時です。61年5月共和国宣言に抗議して行なわれた在宅ストを指導して裁判なしに4ヶ月間拘禁された後、63年に、ANCの車で国境を越え、スワジランド、タンザニアを経てカナダに亡命しています。エイブラハムズさんが亡命したため、母親が逮捕され、兄が教職を奪われたことをのちに口づてに聞かされたということです。

ラ・グーマより15歳年下のエイブラハムズさんも、12歳で拘禁され、ラ・グーマより3年も前に亡命を余儀なくされていたのです。

カナダでは市民権を得て、修士号、博士号を取ったあと、大学の教壇に立ちました。カナダにはアフリカ文学のわかる人がいなかったため、英国詩人ウイリアム・ブレイクで博士論文を書いたそうです。

そんなエイブラハムズさんがラ・グーマと出会ったのは、客員教授としてタンザニアのダル・エス・サラーム大学に招かれた76年のことです。当時、ラ・グーマは客員作家として同大学に滞在していました。2年後、エイブラハムズさんはロンドンでラ・グーマに再会し、ラ・グーマに関する本を書くことを決意したと言います。80年

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あたりから本格的にその作業に取りかかり、82年には、ラ・グーマの出版や原稿の管理を家族から頼まれ、更に伝記家としての仕事も引き受けました。私が読んだ『アレックス・ラ・グーマ』は、こうして生まれたのです。

「わが子を見つめる父親のように」「いつも山の向う側をみつめていた」ラ・グーマを偲びながら、エイブラハムズさんが語ります。

「アレックスは、カラード社会の人々の物語を語る自分自身を確立することに努めました。その人たちが無視され、ないがしろにされ続けて来たと感じていたからです。

ラ・グーマはまた、自分たちが何らかの価値を備え、断じてつまらない存在ではないこと、そして自分たちには世の中で役に立つ何かがあるのだという自信や誇りを持たせることが出来たらとも望んでいました。だから、あの人の物語をみれば、その物語はとても愛情に溢れているのに気づくでしょう。つまり、人はそれぞれに自分の問題を抱えてはいても、あの人はいつも誰に対しても暖かいということなんですが、腹を立て『仕方がないな、この子供たちは・・・・・・』と言いながらもなお暖かい目で子供たちをみつめる父親のように、その人たちを理解しているのです。それらの本を読めば、あの人が、記録を収集する歴史家として、また、何をすべきかを人に教える教師として自分自身をみなしているなと感じるはずです。それから、もちろん、アレックスはとても楽観的な人で、時には逮捕、拘留され、自宅拘禁される目に遭っても、いつも大変楽観的な態度を持ち続けましたよ。あの人は絶えずものごとのいい面をみていました。いつも山の向う側をみつめていました。だから、たとえ人々がよくないことをしても、楽観的な見方で人が許せたのです・・・・・・・。」

エイブラハムズさんは、若い世代に希望を託していました。

「若い世代は変わると思います。あの子たちはたいへん違っていますよ。男とか女とかではなく、人間としてお互いを尊敬し合っています。だから、あの子たちが完全な変革をもたらすんだと私は考えているんです。南アフリカで現在起こっている事態はきわめて実践的で、若い人たちは自分たちの両親のやってきたことをしようとはしません。あの子たちは姿勢が全く違いますよ。南アフリカにはとてもいいことだと思うんです。ですから、ANCには、政府を変える前に人間性をまず変えろ、といつも言ってるんですよ。言い換えれば、ANCのトップに女性の数が充分でないと感じているということなんです。ANCのために働いている女性がこんなにたくさんいるのに、女性は高い地位に就いていない。だから、女性をもっと正当に扱え、といつも言っているのです。ANCの大半は、もちろんアフリカ人で、ズールーやコサなどいろんな共同体から来ています。伝統では、男は自己中心的に育てられてきました。今まで男が女性と権力を分かち合うことなど決してなかった。男が常に主人で、すべての穢ない仕事は女性がしなければならなかった。ANCの多くは、特にタンボやマンデラのような古い世代の人たちは、愛国主義中心の考え方の中で育てられた。あの人たちが、革命は単に政治ばかりではないということを理解するには暫く時間がかかると思います。それはあなたが日々行なうことでもあり、子供や妻を扱うやり方でもあるのです。つまり、人の生き方なのですよ・・・・・・私はANCの

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会員ですが、来るべき政府にだけ関心があるのではありません。それが一番重要だというのではないのです。大切なのは、私たちが新しい社会を、新しい生活のやり方をつくり上げることなのです。お互いが尊敬し合い、お互いがいたわり合い、感性を大切にする、そしておまえは男だ、あいつは女だ、などと言わずに,相手を理解する、そんな社会なのです。私にはそれが重要だと思えてならないのです。今の若い人たちは酒を飲みません、人々が闘い方を知らないのは酒のせいだと言うんです。だから、あの子たちは酒を飲むのを嫌います。デモをやるときは、まずシビーン(もぐり居酒屋)に行って、酒を投げ棄て、そこに居る人たちを叩き出してしまいます。襲うのは政府ばかりではなく、自分たちの同胞もやるんです。あんなものは健康によくないんだ、とあの子たちは言います。人々は給料をもらったらまっすぐシビーンに行き、家には帰らない。帰る頃には妻や子供のための、ミルクやパンや着物や本の金がすっかりなくなってしまっている。亡命しているたくさんの南アフリカ人は、多くは政治的な理由でイギリスに行っていますが、あの人たちは集まっては酒を飲む。かつてイギリスに行ったとき、この人たちは何て飲むんだ、と驚いたのを覚えています・・・・・・。」

翌年、私はブロック大学で開かれたラ・グーマとベシー・ヘッドの記念大会に招かれ、50人ほどの国内外の南アフリカの人の前で話をする機会を与えられ、亡命先のロンドンから駆けつけたラ・グーマのブランシ夫人ともお会いしました。

エイブラハムズさんはアフリカ人政権誕生後、マンデラの公開テレビインタビューを受けて西ケープタウン大学の学長になり、今は米国セントルイスのミズーリ大学セントルイス校の招聘教授として活躍中です。

ラ・グーマやエイブラハムズさんのような人たちが国外で闘っている間、南アフリカ国内ではアパルトヘイト政権崩壊に向けて事態が進んでいました。

ボタ政権

ソウェト蜂起以後、南アフリカ国内ではゲリラ活動が激しくなります。国際世論の非難が高まりANCへの支援が強まったこと、ソウェト事件での亡命者によってゲリラ要員が大幅に増えたこと、モザンビークとアンゴラの独立でゲリラ活動の拠点ができたことなどが要因でした。

外からは世界の経済制裁の波と「民族の槍」の破壊活動など国内外の様々な運動が強まるなか、78年9月、首相のピーター・ボタが登場します。

フォルスター政権失脚の後を受けて登場したボタは、「アパルトヘイト体制の手直し」のポーズを見せる一方、軍事体制を強めながら強攻策を打ち出して、少数派白人の体制死守をはかりました。

強まる世界の非難に対して、政府は84年に、前政権の導入できなかった白人・カラード・インド系からなる3人種体制を発足させます。狙いは、カラード・インド系とアフリカ人を分裂させることによって白人単独支配の安定をはかる分断支配でした。しかし、事態が政府の思惑通りに進まなかったのは、カラードとインド系の投票率の低さ(10%ほど)からも窺えます。80年に「背徳法」「異人種問結婚禁止法」を、八十六年には「パス法」などの法律を廃止しますが、すべてアパルトヘイト体制の根

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幹は変えずに見せかけの改革によって世論の非難をかわしながら、多数派を国政から締め出すことを優先させようとしたものです。

ボタは次々と懐柔策を繰り出す一方、白人権益を擁護し体制を死守するために、軍事予算を拡張しながら、警察国家から軍事国家への国家体制の脱皮をはかります。

81年末に南アフリカ軍は、激しくなる「民族の槍」の破壊活動への報復手段としてモザンビークの首都マプートのANC本部を襲撃しますが、ソ連・キューバなどの東側諸国への接近を懸念するアメリカ大統領ロナルド・レーガンは政府軍の襲撃に暗黙の了解を与えていたと言われます。この時からレーガン政権の「建設的関与」政策が始まりました。さらに白人政権は、ゲリラ活動を支援する周辺諸国に圧力をかけ、82年にはスワジランドと、84年にはモザンビークと不可侵条約を締結することに成功しています。

ボタ政権が人種「改革」を進めていた83年5月に、あらゆる人種、様々な団体が参加した南アフリカ史上最大の政治運動組織統一民主戦線(UDF)が結成されます。約六百の団体が参加したUDFの運動は、50年代の会議運動の再来であり、組織と数の力だけではなく、労働組合を中心にして大衆が動員されたために、白人政権の脅威となりました。

過去においても常にそうであったように、白人政権はUDFの弾圧を開始し、85年には指導者16名を逮捕して反逆罪で起訴しました。そして88年2月には、他16六団体とともにUDF自体を活動禁止処分にしてしまいます。

体制を支えたもの

理不尽なアパルトヘイト体制が半世紀以上にもわたって生き続けたのは、その体制によって多大な恩恵を受ける人々がいたからです。また、アフリカ人の抵抗という中からの突き上げにあっても、経済制裁という外からの締めつけを受けても、なりふり構わずに体制を死守しようとしたのは、搾取構造を維持することによって、南アフリカが生み出す豊かな富を、その人たちが独り占めに出来たからです。

体制内の白人の生活水準がいかに高かったかは、「遠い夜明け」や英国映画「ワールド・アパート」などでも少し紹介されていますが、商用でヨハネスブルクを訪れた日本人のある記事を見てみましょう。

「500坪 (1650平方メートル)の敷地に10メートルのプール、3つの浴室のついた120坪 (396平方メートル)の建物、それにバーベキュー用の中庭がついている。読者は家賃はいくらだと思われるか。日本では手が出ないし見当がつかないと言われるだろう。

南アフリカ、ジョバーグ (商業都市ヨハネスバーグの現地名)でのお話である。場所は都心から車で30分の住宅地。月の家賃は日本円にして5万円である。このくらいで中級という。では高級の基準となると……最低でも1000坪 (3300平方メートル)はあるだろう……。

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某日本商社の支店長宅に招かれた。白人高級住宅地の真ん中、敷地面積2600坪 (8580平方メートル)、4面のテニスコート、15メートルのプールと6台駐車できる車庫、建物は250坪 (825平方メートル))大木の植わったすばらしいこの庭園つきのこの豪邸が日本円で2600万円。では億の家はどのくらいの大きさか。たまたま、1億2000万という家を尋ねた。敷地1万2000坪 (396000平方メートル) で、プールやテニスコート、それに建物、庭園は想像がつくだろう。また馬屋がついている。金持ちの条件には馬は欠かせないのかもしれないが欧米型だろうが、その馬を世話する人が4人は必要なので、その人たちの家、そして馬の運動場。なにしろ、日本の金持ちと規模を異にする。(原文のまま)

1992年に家族で住んだジンバブエの首都ハラレの借家

その「豊かな白人社会」を内側からしっかりと支えていたのは、強力な警察力と軍事力です。84年から85年の統計によれば、警察を含める軍事費は国家予算の20%近くに及んだといわれています。また、63年、77年に国連で決議された対南アフリカヘの兵器輸出禁止措置に対抗して、白人政権は国内の軍需産業を発展させ、兵器類を自国で賄うことによって軍事力の強化をはかりました。その結果、軍需産業は重要な国内産業の一つとなり、82年のアメリカ政府の統計によれば、その生産高は世界の第十位に達していたということです。兵器輸入国から輸出国へと脱皮した訳です。

さらに、75年には核実験が行なわれたとも言われます。当時の政権は潜在的な核兵器保有国と見なされており、アフリカ人との最終的な対決の場面で追い詰められれば、核兵器が使用される可能性もあったとさえ考えられています。

しかし、いくら強力な力によって内側から支えられていると言っても、アフリカ人による屈強な内圧や経済制裁の外圧を白人政権が単独で受け止められる訳がありません。実は、外側からのもっと大きな力によって支えられていたのです。その力とは、英国、フランス、西ドイツや米国、日本などの「工業先進国」で、強固な搾取構造を持つ内側の「豊かな白人社会」と協力して、貿易や産業投資によって莫大な利益を得ていたのです。その構図は、多国籍企業による「植民地」の様相を呈していました。南アフリカがアフリカ大陸に残る最後の「白い牙城」と言われた所以もそこにあります。

国連の経済制裁決議に反して、「工業先進国」が白人政権と貿易を止めないのは、豊かな鉱物資源、特にクロム、マンガン、モリブデン、バナジウムなどの希少金属から多くの利益を得ているからで、それらの希少金属は「先進国」の先端技術産業や軍需産業には不可欠なものだからです。日本のように鉱物資源の乏しい国では、より依存度が高くなり、その結果、貿易の関係もより親密になるというわけです。

各国が競って南アフリカに産業投資するのは、無尽蔵で、安価なアフリカ人の労働力を利用して莫大な利益が得られるからです。日本のように、国から直接投資を禁じられていても、現地法人を作って巧妙に法の網の目を潜ってまで経済を優先させたのは、その利益が大きかったからに他なりません。

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経済的な要因ばかりではなく、政治的、軍事的な要素も見逃せません。西側諸国は南アフリカの社会主義化を恐れていました。アパルトヘイト体制の崩壊以上の間題とも考えられました。埋蔵量、生産高ともにアメリカに次いで二位を誇るウランをはじめ、豊かな鉱物資源を持つ南アフリカが社会主義国家になれば、当時の東西の力のバランスが崩れたでしょう。周辺国が社会主義路線を打ち出していたため、その懸念は大きく、レーガンが南アフリカに介入したのもそのためでした。

南アフリカは軍事戦略上でも重要な役割を担っていました。インド洋と大西洋を結ぶ喜望峰まわりの航路を西側諸国の商船が通過し、中東原油や戦略鉱物資源が多量に運ばれていたからです。白人政権はその戦略上の重要性を盾に、ナミビアの独立問題など様々な局面で西側諸国に難題を吹きかけました。

また、イスラエル、韓国、台湾、チリ、アルゼンチン、ブラジルなどとの関係も密にしています。それらの国との政治的、軍事的な協力関係も、体制を支える一つの力となりました。

アパルトヘイト体制は、内側からは経済力に裏打ちされた強力な警察力・軍事力で、外側からは経済的、政治的、軍事的な利益に与る西側諸国によって支えられていたのです。

マンデラの釈放

しかし、アパルトヘイト体制は崩壊しました。

ANCと白人政権が妥協点を見いだして、基本構造を変えないままの政権委譲を行なったからです。

キューバやソ連の支援を受けるANC、西側諸国の後押しを受ける白人政権、両者の全面戦争となれば、かつてのズールー戦争のように銃と槍の闘いとはいきません。湾岸戦争と同じ頃ですから、軍需産業界から在庫一掃を迫られて大統領ブッシュが起こした湾岸戦争のように、ミサイル交戦は避けられなかったでしょう。追いつめられれば、核すら使用される危険性も孕んでいたと言われます。全土が灰燼に帰す可能性が現実味を帯びていたのです。

マプートに本部を置いてゲリラ戦を展開していたANCも、長引く闘争に疲れていました。87年に来日した当時のANC議長オリバー・タンボは「27年の逃亡生活、故郷のケープ州に帰りたいと思わないか」と問われて「帰り……たくない。今は闘いの最中だ。闘いを続けることが私の仕事だから」と答えたと報じられています。ラ・グーマのように亡命して国外で闘いながら、客死した人もたくさんいます。ANC幹部のウィニー・マンデラが闘争資金を流用し、護衛隊に殺人を指示したとか、上層部の腐敗問題も表面化していました。

白人側も経済制裁による経済不況で孤立感を深めていました。元々アパルトヘイトは不経済な制度です。施設は「非白人」用、白人用の2種類を用意しなければなりませんし、有能なアフリカ人を熟練工として採用することも法律で禁じられ、無能でも全人口の僅か10数%しかいない白人を採用するしかなかったのです。堪り兼ねた経済界は、80年代の初めには国外のANC幹部と解放後の展望について、話し合いを始めていたと言われます。

全面戦争を避け、ANCが政権を取り白人側が既得権益を守るためには、1人1票制

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の「民主的な」選挙で改憲に必要な3分の2以上の得票は困るが過半数は得票が期待出来る「英雄」が必要で、それが獄中にいるマンデラだったわけです。

64年以来ロベン島に幽閉されていたマンデラは、82年にケープタウン郊外のボールズムーア刑務所に移され、88年には民間施設に移送されていました。

軍事体制を強めながら体制死守をはかったボタも、89年には獄中のマンデラと会見し、声明を発表せざるを得ませんでした。ボタの辞任を受けて登場したフレデリック・デ・クラークには、マンデラの釈放しか道は残されていませんでした。

米国大統領ジョージ・ブッシュと英国首相マーガレット・サッチャーの合意を得て、マンデラは90年2月12日に釈放されます。

白人政権は、自らが作った法律を自らが破り、無条件でマンデラを釈放せざるを得なかったのです。

マンデラ政権

当然のことながら、91年にはアパルトヘイト関連法が廃止され、94年には全人種による総選挙が行なわれて、マンデラ政権が誕生しました。予定通り、ANCの得票は62.6%、新聞には「ANCの得票、惜しくも3分の2に届かず」の見出しが踊りました。

第1副大統領に、オリバー・タンボの片腕だったタボ・ムベキ、住宅事業相に白人で唯一のANC・共産党のメンバーだったジョー・スロボを起用するものの、国民党党首デ・クラークの第2副大統領就任、白人政権からの資金で「部族抗争」を演出してANCを混乱させた張本人、ズールー人を率いるガッチャ・ブテレジを含めたインカタ自由党の3人の入閣を認めざるを得ませんでした。国民党は20.4%、インカタ自由党は10.5%もの得票数を得ていたわけですから、当然の結果だったと言えるでしょう。

大統領施政演説では、マンデラはアフリカ人雇用や住宅建設など、貧困との戦いを強調しました。特に住宅建設に関しては、5年間で、新住宅100万戸の建設を打ち出しました。しかし、財源確保が叶うわけもなく、計画が破綻するのは目に見えていました。

2000年オリンピック誘致問題では、マンデラが筆頭になって誘致運動を繰り広げたにも拘わらず、国際オリンピック委員会はアフリカ大陸初の開催を見送りました。メイン会場が予定されていたケープタウンの住宅事情や治安が、余りにも悪すぎたからです。そこには、ラ・グーマが『夜の彷徨』や『まして束ねし縄なれば』で描いたスラムが、変わらず存在していたのです。

マンデラの釈放は、悲願だったアパルトヘイト体制の終焉という名目を取ったアフリカ人側と、アフリカ人を搾取する経済構造を変えずに既得権益を守るという実質を取った白人側との妥協の産物であったわけです。経済基盤を持たずに主要な部門を白人に牛耳られて思うように政策を実行し得なかった他のアフリカ諸国と同じように、植民地支配から新植民地支配への移行を余儀なくされたのです。

厳しい見方をすれば、アフリカ人側は、安価な労働力として搾取され続けるという基本構造を変える最後の機会を失なったことになります。当然の結果として、大多数のアフリカ人の生活が良くなることはなく、相変わらず貧しい暮らしを強いられ続けるというわけです。

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2 エイズ治療薬

米国疾病予防センター(CDC)がエイズの本格的な調査に乗り出したのが81年、アフリカにエイズ患者が出始めたのが84, 85年ですから、瞬く間にエイズが広がったわけですが、どうしてこんなにも爆発的に感染が拡大したのでしょうか。

原因の一つは、エイズが性感染症だったからでしょう。一時世界を震撼させた旧ザイールのエボラ出血熱やインドの肺ペストなどの感染症は、致死率は高いものの潜伏期間も短かく、厳戒体制が敷かれるために、患者が回復するか、死亡するかすれば一応の終息をみますが、性感染症の場合はそうはいきません。HIV感染症は感染しても無症状の期間が長く、その間、無意識に、ある場合は意識的に、2次感染が起こるからです。ウィルスの恐ろしさを知らなければ、当事者に意識されることもなく、性交渉を通じて病気は蔓延していきます。

ウィルス自体の感染力は極めて弱く、血液か精液による感染ですから、理論的には予防はそう難しくないはずです。しかし、貧困や医療施設の貧しさ、病気に対する無知や偏見などが複雑に絡んで、実際には感染を爆発的に拡大させてきました。先に引用したジンバブエの報告記事でその辺りの事情を次のように報じています。

「ムランビンダの売春婦は、顧客と寝るとき平均10ジンバブエドル(当時約200円)、約80ペンス、1晩約2ポンドの料金を取ります。エイズ防止キャンペーンによって、売春婦の中には、顧客の多くにコンドームを使うのを納得させたという人もいます。しかし男性の間ではコンドームへの抵抗感が強く、特に5万人強のジンバブエ国軍の間ではコンドーム装着への抵抗は依然として強いと認めています。医療関係者は、国軍のHIV感染率は少なくとも50%と推計しています。スタンプスさんは、「兵士が若い女性の間にエイズを広げている」と公然と批判しています。ある医師は、処女とセックスすればエイズが治るという神話のせいで、北ハラレ郊外の高級住宅地マウントプレザント地区で一連の若い女性の強姦事件が起きていると言っています……」

出稼ぎ労働とジンバブエ

当時の10ジンバブエドルは200円前後で、僅かなお金のために、「売春婦」は鉱山や農場で働く出稼ぎ労働者のおこぼれにあずかっていたわけですが、その出稼ぎ労働者のコンパウンドが感染の温床になっているのも爆発感染の原因の一つだと思います。

既に述べましたが、入植者はアフリカ人から土地を奪って課税し、大量の安価な労働者を生み出しました。アフリカ人は税金を払うための現金収入を求めて村を離れ、鉱山や農場の賃金労働者か白人家庭の召使いとして、働かざるを得ませんでした。金やダイヤモンドなど、鉱物資源の豊かな南部アフリカでは、鉱山近くの粗末なコンパウンドに男ばかりが十数ヶ月を過ごすわけで、このコンパウンドがエイズ感染の温床となっているのです。鉱山労働者の実態を、鉱山労組書記長ラマフォサ氏は「ニュースステーション」の中で、次のように解説しています。

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「この国では、ダイヤモンドと金の発見以来百年以上も、鉱山会社は安価な労働力を使って来ました。ずっと、アフリカ人労働者を使ってきました。会社は家族を充分に養っていけないほど安い賃金しか払わずに、ずっとアフリカ人労働者を搾取してきました。現在、白人労働者は、アフリカ人が稼ぐ6倍もの給料を稼いでいます。しかも、南アフリカの鉱山は世界一危険で、毎年800人もの犠牲者が出ています。家を離れ、鉱山にやって来なければならない労働者は、丸1年の間、家族とは会えません。白人は鉱山の近くで家族と暮らせますが、アフリカ人労働者は鉱山の近くで家族と暮らすことを法律上許されていません。年に1度、配偶者に会う場合でも、会えるのは僅か2週間にしか過ぎません。」

92年にジンバブエで2ヶ月半の間、家族と暮らしましたが、そこでその出稼ぎ労働者の実態を目の当たりにしました。

在外研究員として通ったジンバブエ大学は首都ハラレの北、広い敷地に瀟洒な建物が並ぶ白人地域にありました。先の記事にも出てきた辺りです。滞在中に世話になっ た人からは「この国には一握りの貴族と大多数の貧乏人しかおらず、不動産事情は極めて悪い」と言われていましたが、運よくスイス人から月額10万円の家賃で家を借りることが出来ました。敷地が500坪ほどで、「ガーデンボーイ」として雇われていたショナ人が小さな部屋に寝泊まりしていました。住み始めてからすぐに仲良しになり、名前がガリカーイ(通称ゲイリー)・モヨで、月給が170ジンバブエドル(約4200円)、1年の大半を家族と離れて暮らしていると知りました。やがて冬休みに入り、ゲイリーの奥さんと3人の子供たちが来て一緒に暮らし始め、私の子供たちとも仲良しになりました。毎日庭でボールを蹴ったり、木登りをしたりして遊んでいましたが、蹴っていたバスケットボール一個の値段が、ゲイリーの1ヶ月の給料よりも高い199ドル(約5000円ほど)でした。

ガリカーイ(ゲイリー)・モヨさんと番犬のデイン

休みが終わって2人の子供たちが田舎に帰ったので、ゲイリーに頼んでハラレから車で1時間ほどの小学校に案内してもらいました。私たちは村始まって以来の外国人客だったそうで、全校あげての大歓迎を受けました。ゲイリーの家にも案内してもらいましたが、家には遥かに望む山裾までの広大な土地があるようでした。出稼ぎに行ける男は街に出て侘しい一人暮らし、残った女性が農作業と年寄りや子供の世話をする典型的な田舎の暮らしぶりでした。

ゲイリーの家族

豊かな自給自足の生活を送っていたゲイリーのお祖父さんたちは、突然侵入して来たヨーロッパ人によって、それまでの生活を奪われたわけです。

英国人入植者がハラレに来たのは1880年代の後半で、僅か100年余り前のことです。目的は金でした。ケープ植民地相セシル・ローズは、現在のジョハネスバーグに

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次ぐ第2の金鉱脈を夢見て、私設の軍隊を送り込みます。豊かな鉱脈は見つかりませんでしたが、軍隊は立ち去らず、アフリカ人から土地と家畜を奪って居座り続けました。後に、大量の入植者が流れこむようになります。

入植者は1920年代に南アフリカとの合併を拒みますが、安価なアフリカ人労働力と豊かな鉱物資源などによって、南ローデシア(現ジンバブエ)は第2次大戦を境に一大工業国になっていました。その後、60年代には、英国政府の意向を無視して独自の路線を歩みます。66年には、ソ連と中国の支援を受けて独立闘争を始め、経済を欧米や日本に依存したまま、80年に独立を果たして、現在に至っています。

ハラレで出会ったゲイリーもゲイリーのお父さんも、白人の貨幣経済の渦中に投げこまれ、現金収入を得るために村を離れることを余儀なくされた、典型的な安価なアフリカ人賃金労働者だったのです。

南アフリカからの入植者が自分たちの住み易いように作り変えたジンバブエは、かつては「南アフリカの第5州」と言われたようで、制度も街並もよく似通っています。ハラレでは、1年を通じて概ね北東から南西の方角に風が吹くようで、風上に水源地を確保して白人街を作り、工業地帯を緩衝地帯にして、南西にアフリカ人の居住区を造ったと言われます。大学の近くの白人街には大きな家が建ち並んでいました。実際、借りた家の隣には、夜間照明つきのテニスコートやプールもありましたし、庭には数匹の番犬が走り、たくさんのメイドやボーイが雇われていました。

65年に英国に対して一方的に独立を宣言して独自路線を取った白人政府は、アフリカ人の武力闘争や英国主導の経済制裁にあい、大多数のアフリカ人を無視しては国政を行えないことを悟ります。従って、南アフリカとは違ってジンバブエには、かなりのアフリカ人中産階級が生まれました。

在外研究の受け入れ先ジンバブエ大学英語科のトンプソン、クンビライ・ツォゾォさんもそんな一人でした。裕福で村の指導的な立場にあった家系に生まれたツォゾォさんがジンバブウェ大学(当時はローデシア大学と呼ばれていたそうです)に入学した68年頃の社会情勢は非常に緊迫し、人種差別政策も厳しく、白人地域に出入り出来るアフリカ人は、白人の下で使われる労働者に限られていたと言います。大学が白人地区にあったので、キャンパス内だけは特別な扱いを受けていたそうですが、近くの白人地区に足を踏み入れたとたんに警察に逮捕される仕組みになっていたようです。今では嘘のような話ですが、「当時、アフリカ人は、白人と肩を並べて歩道を歩けなかったよ」とも言っていました。

学生1500人のうち5分の1の300人がアフリカ人だったそうで、訪れた92年でも、学生総数は約1万人だと言われていましたから、ツォゾォさんも含めて、大学教育の機会を得た人はほんの一握りの選ばれた人たちであったのは確かです。

独立闘争で危険な目に遭いながらも活躍したツォゾォさんは、独立後ルーマニアと中国での視察と、アメリカでの留学を経験し、当時は英語科科長代行、訪問中には副学長補佐に昇進していました。小・

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中学校や大学向けの著書もたくさん書き、テレビ番組作りでも活躍中でした。大学では演劇指導や映像学のような科目を担当していました。

学生のアレックスが案内してくれたジンバブウェ大学の学生寮

ある日「ヨシ、村をまわってエイズにかかった売春婦にインタビューをしてドキュメンタリーを作ったんだけど、見る?」と聞かれました。(外国では、ヨシと呼ばれます)当時、それほど気にも留めなかったのですが、既にジンバブエでは、エイズが大きな問題になりかけ、ゲイリーの村や、ツォゾォさんが取材した田舎では、まさに先の95年の報告記事にあった事態が展開されようとしていたのです。

「田舎の地域では、若い女性の数が激減することによって、未だかつてない規模での経済的、社会的な危機が引き起こされる可能性があります。その女性たちが農業生産や、老人や病人や子供の世話の大部分を担っているからです。」

さらに、すでに書きましたが、報告記事では、「たいていの女性にとって、HIV感染の主な危険要因は、結婚していることである」 という衝撃的な内容が紹介されています。また、当時のジンバブエの55歳の平均寿命(国自体の調査の信用性から考えれば、実際にはもう少し低かったと思われますが)が2010年までには40歳以下に落ち込むだろうと予測していますが、すでに40歳のラインを割っています。そして、次の標的が南アフリカであることを以下のように書いています。

「医療関係者はエイズは二十年前に、ザイールやウガンダのような中央アフリカから輸送経路を通って、ケニア、ルワンダ、タンザニア、マラウィ、ジンバブエに南下し始めたとみています。優れた道路が整備され、出稼ぎ労働者の歴史と男性が性交渉の相手を複数持つ文化があるために、ジンバブエは特にエイズの影響を受け易い。次の標的は、南アフリカで、そこでは毎日550人の人々が感染していると推計する人もいます。」

その南アフリカでは、記事での予測通りに感染は拡大し、エイズ患者が急増していました。欧米では、従来の逆転写酵素阻害剤と新たに開発されたプロテアーゼ阻害剤を併用する多剤療法が劇的な成果をあげ、96年が「エイズ治療元年」と呼ばれるようになっていましたが、特許料を含めた抗HIV薬は高価すぎて南アフリカでは、少数の金持ち以外には手がでませんでした。

エイズ患者が激増する事態に対処するために、南アフリカ政府は、97年に「コンパルソリー・ライセンス」法を成立させます。

安価な供給を保証するために提案された同法の下では、国内の製薬会社は、特許使用の権利取得者に一定の特許料を払うだけで、より安価な薬を生産する免許が厚生大臣から与えられるというものです。(他国の製薬会社が安価な薬を提供できる場合は、それを自由に輸入することを許可するという条項も含まれていました)

99年、米国の副大統領ゴアと通商代表部が、二国間援助の不履行をちらつかせて、共同議長である大統領タボ・ムベキに、その法律を改正するか破棄するように求めて話題になりました。

ゴアや欧米製薬会社は、開発者の利益を守るために設けられた特許権を侵害する南アフリカのやり方が、世界貿易機関(WTO)の貿易関連知的財産権協定(TRIP’s)に

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違反すると主張しましたが、協定自体が、国家的な危機や特に緊急な場合には、コンパルソリー・ライセンスを認めており、当時のエイズの状況が「国家的な危機や特に緊急な場合」に当たるかどうかが争点でした。製薬会社を大票田とする地域から選ばれていたゴアは、インフラが充分とは言えない南アフリカは予防を優先させるべきだと言い張る製薬会社の代弁者を演じて「心の冷たい製薬産業のおべっか使いだ」と集中砲火を浴びたわけです。

「アフリカ21世紀」でも明らかなように、仮に当時、南アフリカで抗HIV薬が「10分の1の価格で輸入出来るように」なっていたとしても、現実には患者の手元に届くことはなかったわけですから、欧米の製薬会社は「知的財産所有権の保護」を楯に、コピー薬承認の時期を意図的に延ばしに延ばしていたということになります。

欧米の製薬会社とWTOの間で、交渉に尽力した世界保健機構 (WTO)のベラスカ医師は、命まで狙われています。99年のシアトル会議の成果も反故にされ、2001年10月の最終妥協案も、米国とスイスが拒否して成立しませんでした。会議を開催して合意はしても、約束を履行しないまま時間稼ぎをしていたのです。

『アフリカの瞳』の中に、そういった抗HIV薬と欧米の製薬会社をめぐる様々な経緯が、南アフリカ国内から見た視点で詳しく書かれています。

医師作田が、結婚したパメラやスラムの診療所の医師サミュエルや細菌学者のジュリアン・レフと協力して、ダーリー市で開かれたエイズ学会で、欧米の製薬会社の横暴と、その製薬会社と結託する政府の無策を告発したあとの次の一節です。

「こうした動きとは別に、フランスの〈ル・モンド〉が日曜版の特集で、製薬会社がエイズ治療薬の知的所有権をいかに主張してきたかを詳細に報道した。ひと月前のことだ。製薬会社はこの十数年、ひとつのエイズ治療薬の開発費が最低でも3億ドルから10億ドルにのぼるのを理由に、知的所有権を譲れないと強調し続けてきた。貧しい開発途上国が、価格の大幅値引きとコピー薬の製造あるいは輸入の許可を世界貿易機関に訴えても、毎回否決され続けた。今ではエイズ治療には多剤併用が中心なので、ひとりの患者が1年間に使う薬剤費は平均して5000ドルから1000万ドルだ。それは開発途上国の1人あたりの年収の10倍から20倍に相当する。つまり現在の薬価を10分の1に下げたところで、貧しい国の患者には手の届く額ではない。それなのに、世界貿易機関は去年の8月、いかにも大英断のような顔をして、コピー薬の製造認可と、正規薬の薬価の10分の1での輸入を認めた。しかしこれは全くの御為ごかしであり、貧しい国の患者の救済にはほど遠い。〈ル・モンド〉の記事内容を翻訳紹介した英字新聞を読んだとき、作田はこれまでの自分の主張がそのままそっくり認められたような気がした。ところが記事は、さらに2歩も3歩も踏み込んだ論調を繰り広げていたのだ。記者たちは、エイズ治療薬によって得た各社のこれまでの利益を細かく計算して、具体的な数字を出していた。それによれば、10数年前に発売されたエイズ治療薬による収益は既に開発費の七、8倍に達し、開発途上国での価格を現在の1000分の1に下げても、充分採算がとれていた」。

製薬会社が時間稼ぎをして暴利を貪っていた絡繰りが手に取るようにわかります。作田は、安価な偽薬抗HIV薬ヴィロディンを5年間も販売し続けた政府の無策を次の

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ように締めくくります。

「これまで、欧米の製薬会社は知的所有権を楯にして、治療薬の価格を下げようとしませんでした。多くのHIV感染者・エイズ患者が貧困の中であえいでいるのを知りながら、買えるものなら買ってみろと、高い治療薬を私たちの前でちらつかせる態度をとり続けてきました。ある国がたまりかねてコピー薬を作り、安く国民に配布しようとしたのにも反対し、世界貿易機関に訴えてやめさせる暴挙さえしました。これが破棄されたのは、世界の良識ある人々の抗議によるものです。昨年夏ようやく、発展途上国は特別割引価格で薬の提供を受けられるようになりました。しかしそれでも、価格はヴィロディンより高いのです。

私は人類の英知として、特定の国、つまりHIV感染が蔓延している国では、治療薬を無料にすべきだと訴えたいのです。無料化の財源は世界規模で考えれば、どこかにあるはずです。戦争が仕掛けられ、数百億ドルの戦費がただ破壊のためだけに空しく費やされています。その何分の1かの費用を、エイズに対する戦いにあてれば、私たちは確実に勝てるのです。

この国の政府はヴィロディンに頼り過ぎて、まだ何ら効果的なエイズ対策を打ち出していません。コピー薬の製造が可能になって半年は経過するというのに、政府が製造を開始したという話もきかないし、輸入したという情報もありません。私たちが訴えるべきなのは、ヴィロディンの製造販売の即時中止と、本物のコピー薬の製造と輸入です。そして無料配布に向けて、私たちの声を全世界に高らかに響かせることです。これこそ、大統領が唱えるアフリカン・ルネッサンスの実現なのです」。

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5章  哀しき人間の性(さが)

長々と、ケニアのエイズの2つ小説『最後の疫病』と『ナイス・ピープル』と南アフリカの歴史とエイズ治療薬をめぐって綴ってて来たわけですが、そこに浮かび上がって来るのは、侵略という行為を通して透かして見える哀しい人間の性です。

最初は、直接侵略に関わったオランダ人、英国人入植者においてです。ヨーロッパ人はある日、片手に聖書、もう片方の手に銃を携えて南アフリカに現われました。力ずくでアフリカ人から土地を奪って無産者に仕立て、種々の税を課して、大量の安価な労働力を産み出しました。そして、アフリカ人に金やダイヤを掘らせては巨万の富を築きます。搾取体制を守るために連合国家を作り、反対するものは自分たちの作った法律で罰して「合法的に」排除、抹殺してきたのです。いいものを食べたい、広い土地に住みたいという個々の欲望が集まって総体的な意思となりました。植民地政策は本国を潤し、世論にも支持され続けました。

次にその白人王国に群がり、手を携えて共に甘い汁を吸い続けて来た多くの「先進国」においてです。「先進国」は、これ以上はあからさまな搾取体制を維持出来ないことを悟ると、アパルトヘイト政権に自らが決定した法律を反故にすることを強いて「政治犯」を釈放させ、基本構造を替えない形でアフリカ人政権を誕生させました。

そして、新アフリカ人政権においてです。未曾有のエイズ禍に苦しむ国民に抗HIV薬を供給出来ないと見るや、まだ治験の済んでいない薬を無料で配布したり、安価で販売するという暴挙に出たのです。欧米の製薬会社はエイズまでも食い物にしたわけですが、新政権の担い手の大半は、長く苦しいアパルトヘイトとの闘いを続けて来たはずです。その人たちはどうして、欧米の製薬会社の言いなりになったのでしょうか。エイズに苦しむ同胞をどうして苦しませることが出来たのでしょうか。

最後に、日本人においてです。授業で出会う学生が、「暗黒大陸」や「未開の地」というあからさまな偏見は持たないにしても、多くは「アフリカ人はかわいそう」「アフリカに文学があるとは思わなかった」「日本は、ODAを通じてかわいそうなアフリカに支援してやっている」と考えています。貿易や投資でアパルトヘイト政権を支えて莫大な利益を得たばかりか、今も形を変えてIT産業に不可欠な希少金属や電力供給に欠かせないウランなどを通して利益を得続けている現実に無関心を装い、積極的に深くを知ろうとはしません。そして、「遠い夜明け」を見ると、たくさんの人が「日本に生まれてよかった」と胸をなで下ろし、私たちに何か出来ることはありませんかと言います。アパルトヘイトの抑圧の中でも、外的要因によって自己否定して自らに見切りをつける人たちに自己意識の大切を説き、自分への希望を捨てず、国に対しても希望を育もうと語りかけたソブクウェやビコの崇高さに比べて、その無知と無関心と傲慢さに虚しさを覚えます。

そんな狭間に立って現実と直面していますとつい悲観的になって、授業の最後に「もう溜め息しか、出ませんね」と呟きましたら、受講生から次のような反論が届きました。

「『人間について考えれば考える程に絶望的になる』『人間の問題の現状について努力することは大切だけれども、ほんの少ししか変わらないか、全く変わらないか

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のどっちかだろうな。』という考えは十分にわかります。が、それで終わってしまうのはどうでしょうか。もちろん絶望を知ることは大切なことです。絶望と向き合うこと無しでは、何も理解出来ません。しかし、先生は、折角教壇に立てる機会を持つことが出来ているのです。私達生徒に絶望だけ、無力感だけを叩き込むのではなく『行動することで、現状はほんのわずかしか動かない。けれども、そのほんのちょっとが大事なんだ。』という方向も教えたほうが、私には社会や国にとって有益だと思えるのです。こんな考え方は短絡過ぎるでしょうか?」

その学生が指摘する通りです。溜め息をついていても、問題が解決するわけではありません。現状を正しく受け止めたうえで、少しずつでもやれることをして行くしかないでしょう。アフロ・アメリカの小説を理解したいという思いでやり始めて気がついて見れば、妙な空間に踏み入ってしまいました。以来、大学の英語や教養の授業でアフリカやアフロ・アメリカを取り上げて20年以上になりますが、余りにも出口の見えない現実に、悲観的になり過ぎているようです。

アーネスト・ダルコー医師

人が持つ哀しい性と無力を思い知ったうえで、何が出来るかを考えたいと思います。 これだけ規模が大きくなった今、世界の構造の枠組みを変えるのは不可能に近く、実質的ではありません。しかし、意識や発想を変えて枠組みの中でやれることをやって、結果的に少しは変わるというのは可能です。

ボツワナのエイズ対策事業に取り組んで成功したアーネスト・ダルコー医師の例は参考になります。

アーネスト・ダルコー医師

ボツワナは極めて絶望的な状況にあった国です。ダルコーさんは医療とビジネスを両立させて、多くのエイズ患者を社会復帰させています。

36歳のダルコーさんは、アメリカに生まれ、タンザニアとケニアで過ごしました。ハーバードで医学の資格を、オクスフォードで経営学の修士号を得た後、ニューヨーク市の経営コンサルタント会社マッキンゼー社に就職して、2001年にエイズ対策事業のためにボツワナに派遣されました。

派遣された当時、3人に1人がHIVに感染していたと言います。最初の一年間は、「夜明け」という意味の国家プロジェクトMASAの責任者として「1日最低22時間」は働いたそうです。感染者数を知るためにモハエ大統領にテレビでエイズ検査を受けるように呼びかけてもらう一方で、医療体制を把握するために国じゅうを隈無く調査しています。その結果、絶対的な医師不足を痛感しました。周辺国に呼びかけ破格の給料を出して数年契約で医師を雇い入れると同時に、国内でも医師を育成し、現場に2200人の医師を配置しました。

最大の問題は薬でしたが、米国の製薬会社と交渉し、患者の資料を提供する代わりにほぼ無料で薬を確保し、半数以上の患者の治療を可能にしました。

政府の資金では足りませんでしたので、「エイズ撲滅のためのプロジェクト」を展開するマイクロソフト社のビル・ゲイツと掛け合い、1兆円を引き出しています。その薬と豊富な資金を基に、ネットワークシステムを構築します。プロジェクト本部の

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下に四つの支部を置き、それぞれの支部にコーディネーターを配置、コーディネーターはその下にある多くの拠点病院と連携し、現場の状況に応じて薬を届けるというシステムです。ダルコーさんは学んだ経営学の知識を生かし、ウォルマートの最先端の納品システムを参考にしたと言います。2000年に36歳までに落ち込んでいた平均寿命は上昇に転じ、2025年には54歳に回復する可能性も出てきたと言われています。

ダルコーさんは今、エイズ対策を専門に行なうブロードリーチ・ヘルスケア社を設立して、最大のHIV感染国南アフリカのケープタウンでエイズと闘っています。現在、アフリカ12カ国がダルコーさんのエイズ対策モデルを取り入れていると言います。

ダルコーさんは、永年のアパルトヘイト体制の影が色濃く残っている南アフリカで医師や病院に頼らずにエイズ治療が出来るシステムを開発しました。白人の利用する民間病院に医師が集中し、アフリカ人が利用する公立病院に医師が極端に少ない現状の中でシステムを機能させる必要性に迫られたからです。そのシステムでは、感染者の多い地域で雇い入れられた現地スタッフが、定められたマニュアルに従ってエイズ患者の簡単な診察を行ないます。その診断結果がファックスで出先事務所に送られます。出先事務所では、情報をパソコンに入力してデータベース化され、必要に応じてケープタウンのセンターの医師に相談します。センターでは、医師が情報を総合的に判断し、現地スタッフが患者に薬を届けるのです。医師が現場にいなくても治療が出来、一人の医師がたくさんの患者を治療するという、南アフリカの現状に即した体制です。

そのダルコーさんに、かつて「国境なき医師団」で活動した医師貫戸朋子さんがケープタウンの事務所を訪れてインタビューを試みました。「私たちはエイズとの闘いに勝てますか?」という貫戸さんの質問にダルコーさんは次のように答えました。

「もちろんです。私は不可能なことはないと自分に言いきかせています。四千万人の感染者を救うのは無理だと言う人もいます。でも、然るべき時に然るべき場所で指導力を発揮すれば、実現できます。そもそも私たちは、何故失敗するのでしょうか。それは、私たち自身の中に偏見が潜んでいるからです。その偏見に打ち克つことが出来れば、エイズは克服できるのです。恐れることなく、国民に正しいメッセージを伝えれば、必ず前進できます。一人一人が精一杯呼びかけるのです。明日は、明日こそはエイズを食い止めることが出来るのだ、と。」

インタビューを終えた貫戸さんは、困難に立ち向かっている人たちのために再び現場に立つ意欲をかき立てられたと言います。

ダルコーさんは、壊滅的な医療体制を考えれば予防を最優先すべきだと主張して欧米の製薬会社が目を向けなかったエイズ患者を救い、帚木蓬生が『アフリカの瞳』の中で託したメッセージ「私は人類の英知として、特定の国、つまりHIV感染が蔓延している国では、治療薬を無料にすべきだと訴えたいのです。無料化の財源は世界規模で考えれば、どこかにあるはずです。戦争が仕掛けられ、数百億ドルの戦費がただ破壊のためだけに空しく費やされています。その何分の一かの費用を、エイズに対する戦いにあてれば、私たちは確実に勝てるのです。」を実践したわけです。

『最後の疫病』と『ナイス・ピープル』は、エイズの惨状を見事に描き出してはいますが、それはエイズ問題解決の処方箋でもあります。『最後の疫病』は、ジャネットがオスロからの視察団に認められてHIV検査を試行する場面で終わり、『ナイス・ピープル』は、皮肉にも主人公が性感染症の専門家としてWHOに招聘される場面で終

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わっていますが、それはエイズに苦しむ人たちを救うためには、外部の力を借りるのもやむを得ないというメジャー・ムアンギとワムグンダ・ゲテリアのメッセージでもあります。ダルコーさんは、メジャー・ムアンギとワムグンダ・ゲテリアが作品で描いた実情を把握した上で、その解決策を実行していると言えるでしょう。

ダルコーさんのようには出来なくても、体制の枠の中で意識の持ち方を少し変えるだけでやれることもあります。80年代の後半に、朝日放送がジョハネスバーグの日本人学校を取材したことがあります。有名企業から派遣された「名誉白人」に話を聞いたわけです。校長は治安の悪さから子供を如何に守るかについてだけを語り、母親たちは政治的無関心を貫き通し、子どもたちは、自分の家にいるアフリカ人のメイドたちのことを「住むかわりにやっぱり働かせてあげるっていう感じで」と答えていました。もし、同じ立場に立った時に、「折角の機会なのですから、子供たちにはこちらの子供たちと友だちになって、次の時代の橋渡しをしてもらいたいと思います」と校長や母親が言い、「一緒に遊んで友だちになり、将来いつかまた戻って来て何かのお役に立ちたいと思います」と子供たちが言えれば、親の世代が続けてきた損得だけの南アフリカとの関係を少しは変えて行けます。先ずは自分を大切にし、身近な回りを大切にして行けば、相手のことも敬えてたくさんのことを学ぶことが出来るでしょう。

アフリカに限らず世の中の仕組みや人の営みについて考えれば考えるほど絶望しか見えて来ないように思えてなりませんが、絶望の淵にあっても、ダルコーさんのように、まだ出来ることはあると信じたいと思います。先ずは自分を大切にし、身近な回りを大切にして行けば、相手のことも敬えるでしょう。後の世に一縷の希望を託したいと思います。

後世は畏るべし、なのですから。

p. 73

資料1

TAMADA Yoshiyuki, “Ngugi wa Thiong’o, the writer in politics: his language choice and legacy”

(画像掲載予定)

Studies in Linguistic Expression No. 19 (2003) pp. 12-21

ホームページでも公開しています。

http://tamada.med.miyazaki-u.ac.jp/tamada/works/ngugi/ngugi-writer-e.doc

  1. “Shipwrecked”

The aim of this essay is to provide an estimation of Ngugi wa Thiong’o and his writings by tracing how he made a language choice of his writing, and how he has been forced to live in exile and still struggles against injustice from outside his country.  The following analyses are to point out the harsh realities that contemporary African writers in politics are to confront, and at the same time, to pose us a grave question that part of the prosperity in the developed world is based on the sacrifice of those kinds of harsh realities that Ngugi is now confronting.

Twenty years have passed since Ngugi wa Thiong’o visited London on June 8, 1982 and never returned to his home. He is staying in the United States in exile and his homecoming has never been realized. As he refers to his own situation as being “shipwrecked,” recalling James Joyce’s mariners, renegades, and castaways, he is now living “the reality of the modern writer in Africa.”1

Why was he forced to be “shipwrecked”? The reason is quite simple; he became a real threat to the Kenyan government.

He was educated at Makerere University, Uganda and at Leeds University, in the United Kingdom, in a Western style as many African leaders were. “At Makerere University the course was based on the syllabus for English studies at the University of London,”2 so in due course he began to make his writings in English under the name of James Ngugi. His works were highly evaluated; Weep Not, Child won the first prize for Anglophone novels at the first World Festival of Negro Arts in Dakar in 1966; he was awarded the Lotus Prize in Literature at the 5th Afro-Asian Writers Conference in Alma Ata, Khazakhstan in 1973. That same year he attended the International

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Emergency Conference on Korea in Tokyo and delivered a speech, appealing for the release of the Korean poet Kim Chi Ha, then imprisoned in South Korea.

In 1967 he became Special Lecturer in English of University College, Nairobi, the first African member of the department. At many international conferences he delivered vigorous plenary speeches and presented extensive papers. He was also invited by many universities to lecture. All his activities, however, were in the context of English literature by an African writer, not in the context of African Literature. As long as he was perceived in this context, he was not a real threat to the regime; on the contrary he was to play a role of the spokesman who showed the world that the newly independent Kenya was a “democratic” country with freedom of speech guaranteed.

It was not until he began to walk together with peasants and workers by making his writings in his mother tongue, Gikuyu, after changing name to Ngugi wa Thiong’o that he became a symbol of threat to the system.

In Kenya, like in other African countries, the basis of the exploiting system is peasants and workers. When Europeans began to colonize African countries, they robbed Africans of their land and posed them various taxes, so Africans were forced to become landless peasants and workers. Some were forced to pick up tea as wage workers in white man’s farms and others to serve as domestic workers for white families. In that system there were no problems for the regime as long as Ngugi was not truly on the side of the peasants and workers, however hard he made his literary activities even in an international context.

The situation became totally different when Ngugi began to stand on the side of peasants and workers.

  1. “To choose an audience is to choose a class”

Under the colonial system the creation of a middle class was intentionally prevented by Europeans and filled the gap with imported foreigners. But companies and plantations needed foremen who served as mediators and could speak the language of the employers, which led to the development of a new type of administrative African middle class. They were given the privilege of going to school and learned much of European culture. They began to read criticism against colonialism. Some of them reacted against the cultural oppression in the colonies.  Some of them were against social discrimination as a group, but they were tempted to imitate the Europeans’ privileged way of life. From the beginning Ngugi was involved in that kind of contradiction.

So, it is natural that while he was active as a creative writer and teacher at Nairobi University, he repeatedly asked himself: “For whom do I write?” He keenly felt the contradiction of language choice. He recalls:

I was a student at Leeds University in the mid-Sixties when I first strongly felt a sense of despair at that contradiction in my situation as a writer.  I had just published A Grain of Wheat, a novel that dealt with the Kenyan peoples’ struggle for independence.  But the very people about whom I was writing were never going to read the novel or have it read for them.  I had carefully sealed their lives in a linguistic case.  Thus whether I was based in Kenya or outside, my opting for English had already marked me as a writer in exile.  Perhaps Andrew Gurr had been right after all.  The African writer is already set aside from people by his education and language choice.

The situation of the writer in 20th-century Africa mirrors that of the larger society.  For if the writer has been in a state of exile – whether it is physical or spiritual – the people themselves have been in exile in relationship to their economic and political landscape.3

When he was involved in the community activities by the peasants and workers, it was natural that he made a major shift in his life. At that time there was a choice for him as to whether he should stand on the side of the regime or on the side of peasants and workers. He explains:

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In 1976 the peasants and workers of Kamiriithu village, which is about 30km from Nairobi, came together to form what later came to be called the Kamiriithu Community, Education, and Culture Centre. These people wanted a theatre. How could one then write or script a play without using their own language?  I must say that this was a major shift in my life, and part of my decision, in fact, to write in the Gikuyu language had its origins in my experience working with the people of Kamiriithu.4

He chaired the cultural committee of the Centre, which commenced adult literacy classes. Village-based theatre groups were established and tried to create their own performances but found it difficult to find a theatre to perform in. Even after independence, in every phase of society the cultural forces representing foreign interests were virtually dominant. Ngugi points out:

Now our visitor might visit schools. The English language dominates a Kenyan child’s life from primary school to university and after….a Kenyan child grows up admiring the culture carried by these foreign languages, in effect western European ruling class cultures and looks down on the culture carried by the language of his particular nationality….

But it is in the theatre that this domination by foreign cultural interests is most nakedly clear.  Nairobi has recently seen a mushrooming of neo-colonial foreign cultural institutions like the French Cultural Centre, the German Goethe Institute, the Japanese Cultural Institute, and of course the American Information Services.  Some of these institutes promote theatre and theatre-related events and discussions.  But naturally they are basically interested in selling a positive image of their neo-colonial profit-hunting adventurism in Asia, Africa and Latin America….

What really annoys most patriotic Kenyans about the theatre scene in their own country is not so much the above foreign presences but the fact that the Kenya government-owned premises, The Kenya Cultural Centre and The Kenya National Theatre, should themselves be controlled by foreigners offering foreign theatre to Kenyans. A foreign imperialist cultural mission, i.e. The British Council, occupies virtually all the offices at The Kenya Cultural Centre. The governing council of the same Centre is chaired by a British national and The British Council is in addition represented on the council. The Kenya National Theatre which is run by the governing council is completely dominated by foreign-based theatre groups like The City Players and Theatre Ltd. What these groups offer has nothing to do with Kenyan life except when maybe they offer racist shows like The King and I or Robinson Crusoe….5

Given these circumstances the group at the Center began to perform their own play by themselves in 1977. They asked Ngugi and his colleague Ngugi wa Mirii to script a play in Gikuyu. It was a turning point and a major shift in his life; he was not able to avoid his language choice. He sums up his own choice:

…If you write in a foreign language, you are (whether you like it or not) assuming a foreign-language readership.  In other words, if you are writing in English you must be assuming an English-speaking readership – in most African countries this can only mean a minority ruling class, a ruling class which is often the object of your criticism as a writer.  If I write in the Gikuyu language (or in any African language, for that matter); I am assuming an African readership and so, in fact, am assuming a peasant and worker audience.  That is why it is correct to say that to choose an audience is to choose a class.6

Ngugi chose a peasant and worker audience and, along with Ngugi wa Mirii, wrote for them a script of Ngaahika Ndeenda which later came to be known as I will marry when I want.

He became reassured that he should play the role of a writer:

What is important is not only the writer’s honesty and faithfulness in capturing and reflecting

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the struggles around him, but also his attitude to those big social and political issues. It is not simply a matter of a writer’s heroic stand as a social individual – though this is crucial and significant – but the attitudes and the world view embodied in his work and with which he is persuading us to identify vis-a-vis the historical drama his community is undergoing. What we are talking about is whether or not a writer’s imaginative leap to grasp reality is aimed at helping in the community’s struggle for a certain quality of life free from all parasitic exploitative relations – the relevance of literature in our daily struggle for the right and security to bread, shelter, clothes and song, the right of a people to the products of their own sweat. The extent to which the writer can and will help in not only explaining the world but in changing it will depend on his appreciation of the classes and values that are struggling for a new order, a new society, a more human future, and which classes and values are hindering the birth of the new and the hopeful. And of course it depends on which side he is in these class struggles of his times.7

Through the theatrical activities with peasants and workers, he made clear his standpoint as a writer. He began to stand on the side of the class of peasants and workers.

Those peasants and workers were enthusiastic; they designed and built an open-air stage in the centre of the village. The actors were all peasants and workers. They completely broke with the hitherto accepted theatrical traditions; the initial reading and discussion of the script was done in the open; the selection of actors was done in the open with the village audience helping in the selection; all the rehearsals for four months were done in the open with an ever increasing crowd of commentators and directors; the dress rehearsal was done to an audience of over one thousand peasants and workers.

“When the show finally opened to a fee-paying audience, the group performed to thousands of peasants and workers who often would hire buses or trek on foot in order to come and see the play. For the first time, the rural people could see themselves and their lives and their history portrayed in a positive manner. For the first time in their post-independence history a section of the peasantry had broken out of the cruel choice that was hitherto their lot: the bar or the church. And not the least, they smashed the racialist view of peasants as uncultured recipients of cultures from beneficient foreigners.”8

With the help of writers peasants and workers began to become conscious of their position in the society and to understand the exploiting system around them, which might have been a real threat to the regime.

  1. Ngaahika Ndeenda

How is his imaginative leap to grasp reality “aimed at helping in the community’s struggle for a certain quality of life free from all parasitic exploitative relations”? How could “thousands of peasants and workers see themselves and their lives and their history portrayed in a positive manner”?

Ngaahika Ndeenda is a three-act play about Kiguunda, a farm labourer and his relatives and his neighbours. He is cheated by Ahabkioi (Kioi), a wealthy farmer and businessman and robbed of his land. In the process he realizes how farm labourers are exploited by wealthy Kenyans who collaborate with foreign businessmen, and at the same time how important their unity is to struggle “for the right and security to bread, shelter, clothes and song, the right of a people to the products of their own sweat.”

In the play Kiguunda complains of their hardships of life:

…I drive a machine all the day,

You pick tea-leaves all the day,

Our wives cultivate the fields all the day

And someone says you don’t work hard?

The fact is

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That the wealth of our land

Has been grabbed by a tiny group

Of the Kiois and the Ndugires

In partnership with foreigners!…9

Kiguunda is one of the poor wage workers. One day he receives Kioi’s visit. Kioi has become rich as he was one of the homeguards who were employed as local agents enforcing Emerency rules during the Independence War. His aim was to acquire Kiguunda’s small pieces of land. A foreign businessman asks Kioi to drive the poor labourers to sell their strips of land for a planned insecticide factory. He always collaborates with foreign businessmen.

Kiguunda is cornered and ends up with losing his land.  He tries to kill Kioi with a knife for revenge, but in vain.

One of the neigbours tries to comfort Kiguunda during his troubles.

Whatever the weight of our problems,

Let’s not fight among ourselves.

Let’s not turn violence within us against us,

Destroying our homes

While our enemies snore in piece.…10

At the end of the play they sing together in unison;

[Sings]

Two hands can carry a beehive,

One man’s ability is not enough,

One finger cannot kill a louse,

Many hands make work light.

Why did Gikuyu say those things?

Development will come from our unity.

Unity is our strength and wealth.

A day will surely come when

If a bean falls to the ground

It’ll be split equally among us,

For –11

This historical success of those peasants and workers eventually leads to Ngugi’s political detention.  At the end of 1977 he was arrested and detained. After about a whole year’s detention he was released, but denied his position of University of Nairobi.  In 1979 he was arrested again, this time, with Ngugi wa Mirii, the co-author of Ngaahika Ndeenda.

  1. Kenyatta detained Ngugi

In 1977 Ngugi was detained by the president Jomo Kenyatta, who once fought against colonialism for independence together with peasants and workers.  In 1979 he was detained by Daniel arap Moi who succeeded Kenyatta and has ruled unchallenged for more than twenty three years.

It was ironic indeed that Jomo Kenyatta, the hero of the Independence War detained Ngugi.  Kenyatta, once one of the oppressed, who fought against the oppressor for independence, became the oppressor.  Ngugi hints to us how Kenyatta made the shift after independence;

But KANU (the Kenya African National Union) was a mass movement containing within it different class strata and tendencies: peasant, proletarian, and petty-bourgeois.  Leadership

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was in the hands of the petty-bourgeoisie, itself split into three sections representing three tendencies: there was the upper petty-bourgeoisie that saw the future in terms of a compradorial alliance with imperialism; there was the middle petty-bourgeoisie which saw the future in terms of national capitalism; and there was the lower petty-bourgeoisie which saw the future in terms of some kind of socialism. The upper petty-bourgeoisie can be branded as comprador; and the middle and lower petty-bourgeoisie can be branded as nationalistic. The internal struggle for the ideological dominance and leadership of KANU from 1961 to 1966 was mainly between the faction representing comprador bourgeois interests, and the faction representing national patriotic interests.  The faction representing the political line of comprador bourgeoisie was the one enormously strengthened when KADU (the Kenya African Democratic Union) joined KANU.  This faction, led by Kenyatta, Gichuru and Mboya, also controlled the entire coercive state machinery inherited intact from colonial times.  The patriotic faction was backed by the masses but it did not control the central organs of the party or the state and it was the one considerably weakened by KADU’s entry.  But the internal struggles continued with unabated fury.

The struggles were primarily over what economic direction Kenya should take. The comprador bourgeoisie which had been growing in the womb of the colonial regime desired to protect and enhance its cosy alliance with foreign economic interests….

But by 1966, the comprador bourgeois line, led by Kenyatta, Mboya and others, had triumphed.  This faction, using the inherited colonial state machinery, ousted the patriotic elements from the party leadership, silencing those who remained and hounding others to death.12

Kenyatta, as the president of the state and the representative of the comprador bourgeoisie class, had no other choice but to oust Ngugi, one of the patriotic elements, for he was a real threat to the whole system. Through cultural activities Ngugi helped peasants and workers, the very basis of the exploitative system, to be conscious of who they are and what the system is.

And, he was “shipwrecked.”

  1. “The continent left to die”

In the past twenty years while Ngugi was away from his country, the comprador bourgeoisie class and some industrialized countries have enhanced their alliances by strengthening their economic ties. Those industrialized countries have prospered by making the best use of ODA (Official Development Assistance), an important instrument of neo-colonial strategies, in addition to investments and trade. Japan is one of the leading trading partners being the No. 1 ODA donor to Kenya.13 The comprador bourgeoisie class, the most influential force in those countries, has salted away a personal fortune by using the state machinery. President Moi is believed to own a whole street in Hawaii, some buildings in New York City, and to keep a tremendous amount of money in a Swiss bank, as Mobutu in Zaire once did. The debts of the country have accumulated year by year. Corruption has eaten deep into the fabric of the whole society. The gap between the rich and the poor has deepened further. The land has deteriorated even more. And now the AIDS epidemic has attacked the country relentlessly. This sexally transmitted disease is fatal in poor countries, especially in a culture like Kenya’s where prostitution and male promiscuity are widely accepted because of the polygamy system.

Once a person is infected with HIV, there is no cure at present, even though therapy can prolong the lives of the patients. It follows that without drugs many infected victims will die soon or later in countries like Kenya. The drastic reduction of population in developing countries never fails to threaten the present structure of the neo-colonial system in the industrialized countries to its foundation, for the basis of exploitation is upon peasants and workers in developing countries.

Researchers have developed a lot of drugs and now multi-drug therapy, through a combination of reverse transcriptase inhibitors and protease inhibitors, is transforming and prolonging the lives of many AIDS patients. But the price of the drugs is tremendous even in the industrialized countries. In developing countries like Kenya, drug therapies are completely out of reach financially.

p. 79

“Africa: the continent left to die,” the title of a newspaper article, is very shocking, but it symbolizes the scourge of this AIDS epidemic:

Twenty years is a long time. The fact that Ngugi’s homecoming has not been realized shows that the comprador bourgeoisie class has prospered by using the state machinery and by enhancing alliances with foreign economic interests. But the land has deteriorated even more. The gap between the rich and the poor has deepened.  The country is in crisis with corruption and accumulated debts. And now the AIDS threat has been added. “Africa: the continent left to die,” the title of a newspaper article, is very shocking, but it symbolizes the plight of this AIDS situation:our time;

With the “AIDS time bomb" widely perceived as having been brought under control in the industrialised world, new figures show that despite strenuous efforts in many African countries, the Human Immunodeficiency Virus (HIV) is beginning to exact its deadly toll on the continent. At least 30 million Africans are expected to die from AIDS in the next 20 years: it will kill more people than war or famine, it will undermine young democracies and put millions of orphans on the streets.

Among Africans, whose nutritional intake is poor, Acquired Immune Deficiency Syndrome (AIDS) kills quickly. Among the uneducated and superstitious, where the status of women is low, AIDS spreads unhindered and sufferers are thrown out by their families or have their homes burnt down. Only a tiny elite can afford drugs such as AZT, 3TC and protease inhibitors, which can make AIDS a chronic disease rather than a death sentence.14

Kenya is in a deep crisis that we have never seen before. Ngugi’s mother country is now “left to die.”

Kenya, Ngugi wa Thiong’o’s mother country, is now “left to die.”

(Miyazaki Medical College)

<Notes>

1 Ngugi wa Thiong’o, “From the corridors of silence,” The Weekend Guardian (October 21-22, 1989), p. 2.

2 Ngugi, “Ngugi on Ngugi,” in Ngugi wa Thiong’o: The Making of a Rebel by Carol Sicherman (Hans Zell Publishers, 1990), p. 21.

3 Ngugi, “From the corridors of silence,” p. 3.

4 Ngugi, “Interview with Ngugi wa Thiong’o,” Marxism Today (September, 1982), p. 35.

5 Ngugi, Writers in Politics (London: Heinemann, 1981), pp. 43-44.

6 Ngugi, “Interview with Ngugi wa Thiong’o,” p. 35.

7 Ngugi, Writers in Politics, pp. 74-75.

8 Ngugi, Writers in Politics, p. 47.

9 Ngugi, Ngaahika Ndeenda; I Will Marry When I Want (Harare: Zimbabwe Publishing House, 1986), pp. 61-62.

10 Ngugi, Ngaahika Ndeenda; I Will Marry When I Want, p. 110.

11 I Will Marry When I Want, pp. 114-115.

12 Ngugi, Detained: A Writer’s Prison Diary (London: Heinemann, 1981), pp. 52-54.

13 The Homepage of the Ministry of Foreign Affairs of Japan:

(http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda99/ge/g5-12.htm)

14 Alex Duval Smith, “Africa: the continent left to die,” The Independent included in The Daily Yomiuri (September 12, 1999), p. 14.

p. 80

資料2-1

(画像掲載予定)

第27回宮崎医科大学すずかけ祭シンポジウム掲示パンフレット

pp. 81-82

資料2-2

(画像追加予定)

第27回宮崎医科大学すずかけ祭シンポジウム配布パンフレット

p. 83

資料3

(画像掲載予定)

医学生とエイズ:ケニアの小説『ナイス・ピープル』

「ESPの研究と実践」第3号(2004)5~17ペイジ

ホームページでも公開しています。

http://tamada.med.miyazaki-u.ac.jp/tamada/works/africa/04esp-nicepeople.doc

<Summary>

p. 84

The aim of this paper is to show how and why I used Nice People1 in my English class for second-year medical students.2

Nice People is a novel by a Kenyan writer published in 1992. I selected the book as a textbook for the class because it is unique and important in three ways. Firstly, it depicts the dawn of the AIDS epidemic of the early 1980’s, which serves as a precious history. Secondly, it focuses on the richer class who held many privileges in the exploitative system during the neo-colonial stage. Thirdly, it is written from the point of view of a doctor, which will interest medical students.

I hope the novel will show the future doctors of Japan the unknown realities of how Kenyans were panicked by the emerging infectious disease and forced to fight against the outbreak, which I hope will motivate them to learn more and provide hints to them as to how to cope with an unexpected crisis.

The AIDS crisis is a global issue that we are facing and cannot avoid, especially medical students. It is important for us to know what students need in English classes, and that it is necessary to prepare suitable materials which will motivate them. That is why I chose Nice People in my English class for second-year medical students.

はじめに

医学科学生の英語の授業を担当するようになって17年目になるが、試行錯誤が続いている。初めは一般教養科目として、1993年の大学設置基準の大綱化以降は、基礎教育科目と位置づけて授業を担当してきたが、授業に関して基本的に変わらない点と、変わった点があるように思う。

変わらないのは、英語を手段に授業を価値観を問い直す機会にと願う姿勢で、アフリカやアフロ・アメリカの問題を意識的に取り上げているのはその視点からである。

変わったのは、出来るだけ英語を使うようになったこと、発表などを含め学生が積極的に関わる時間が増えたこと、それに医学的な問題も取り上げるようになった点である。すべて、学生から授業の感想や意見、要望などを聞いたり、希望者との面接をしながら、自然の流れのなかで変化してきたものである。3

当初は、基礎医学、臨床医学の担当者には出来ないものを、文科系の視点からしか出来ないものをと考えたりしたが、膨大な量の基礎医学をこなす学生の実情も考え合わせて、教養的な問題に関連させて医学的な問題も授業の中で取り上げるようになった。

エイズ

今回、2年生のリーディングに焦点を当てた授業で、ケニアの小説『ナイス・ピープル』を取り上げたのも、そういった流れの中からである。

受講した2年生は、1年の前期で、アフリカとエイズに関して全般的な話には触れているので、小説の舞台ケニアが政治的には抑圧的で「野生の王国」だけではないことや、エイズの状況が極めて危機的であることは認識している(と思う)。マスメディアを通じて植え付けられたアフリカの負のイメージを疑わない学生も多かったが、授業を通して少なくともアフリカにも文学があることは知ってもらえたと思う。4

アフリカに関しては、イギリスの歴史家バズル・デヴィドスンの「アフリカシリーズ」5 の映像を軸に、侵略を始めた西洋諸国が奴隷貿易で暴利を得て、その資本で産業革命を起こし、作った製品の市場獲得のためにアフリカ争奪戦を繰り広げ、結果的には2つの世界大戦を引き起こしたあと、大戦後は戦略を変え、「開発」や「援助」の名のもとに、国連や世界銀行などに守られながら新しい形の支配体制(新植民地体制)を築き上げている歴史を概説した。

エイズに関しては、基礎医学への橋渡しとして、HIV複製のメカニズム6 や免疫機構7 について触れ、HIV発見の歴史8 と、エイズ治療薬の知的財産権をめぐる製薬会社と南アフリカの問題9 を取り上げたあと、1996年のジンバブエに関する新聞記事10 を読んだ。南部アフリカのエイズ

p. 85

事情が深刻で、鉱山などの出稼ぎ労働者用のコンパウンドと呼ばれる「たこ部屋」が、売春婦を介して、エイズ蔓延の温床となり、期間が過ぎて村に戻る男性労働者が配偶者に感染させるために「たいていの女性にとって、HIV感染の主な危険要因は、結婚していることである」とまで言われるほどで、その状態が続くと55歳のジンバブエの平均寿命が2010年までには40歳以下になることと11、次のエイズ蔓延の標的が南アフリカであることが予測されているという衝撃的な内容の報告記事である。12

「出稼ぎ労働」は、ヨーロッパからの入植者がアフリカ人から土地を奪って課税をして作り上げた一大搾取機構で白人支配の根幹をなす制度である。その制度の下で、搾取される側の大多数のアフリカ人が貧しさとエイズに苦しめられていて、先進国と呼ばれる日本もその一員である私たちも、現実には搾取する側にいると結論づけた。

ケニアも南アフリカからの白人入植者がアフリカ人労働者を基に搾取機構を打ち立てた国である。激しい闘争の末に独立は果たしたものの基本構造は変わらず、大統領となったケニヤッタもモイも、先進国と組んで体制維持をはかってきた。少数の金持ちと大多数の貧乏人という歪な世界で、日本はよき貿易のパートナーである。13

エイズはそんな歴史にはお構いなしで、ウィルスは金持ちにも貧乏人にも感染する。

『ナイス・ピープル』

『ナイス・ピープル』はたまたまケニアの友人14 に借りたものである。

横浜で第10回国際エイズ会議が行なわれた頃から、HIV複製のメカニズム、CD4陽性T細胞の受容体、マジック・ジョンソンの告白、血液製剤による薬害問題、多剤療法、エイズコピー薬とWTOなど、様々な問題を授業で取り上げてきた。98年にHIV複製のメカニズムとジンバブエの報告記事を軸に “AIDS epidemic” 15 を書き、2000年に「アフリカ:放っておけば死にゆく大陸」の記事を軸にアフリカの深刻なエイズ事情を「アフリカとエイズ」16にまとめた。本格的にエイズを主題に据えた小説『最後の疫病』17 が出版されたのは、その頃である。

著者のメジャー・ムアンギは、グギやアチェベほどの国際的な評価は受けていないものの、厳しい抑圧の時期も国内で作品を書き続けてきた中堅の作家である。ケニアの経済的な危機とエイズの差し迫った状況を誰よりも感じているはずである。18 エイズ患者が社会問題となってから十年ほどでウィルス増幅のメカニズムが解明され、治療薬が開発されたあと、作家に咀嚼されて本格的なエイズの小説が出るのはそれから数年後だろうと考えていた矢先に、 『最後の疫病』が出版された。コンドームを配って感染の予防の手助けをする未亡人とその女性を助ける獣医師の青年と村の人たちとの諍いをめぐる話だが、「割礼」をめぐってグギが『川をはさみて』19 で描いた西洋的な価値観とアフリカ的な価値観の衝突が大きな主題の一つである。国の経済を支える農民や労働者の話で、国内で踏みとどまった作家にしか書けない世界である。

そういった予測のもとに、「英語によるアフリカ文学が映し出すエイズ問題―文学と医学の狭間に見える人間のさが」で、2003年度の科学研究費補助金を申請した。「エイズ」を正面から取り上げている作品はまだ多くないが、『最後の疫病』を軸に、英語によるアフリカ文学が「エイズ」をどう描いているのかを分析し、病気の爆発的な蔓延を防げない原因や、西洋的な価値観とアフリカ的な見方の軋櫟などを明らかに出来れば、また、英語の授業でエイズの問題を取り上げ、エイズの小説を読む立場から見える何かが見つかるかもしれないと考えたからである。今までは英米文学以外はすべて「その他外国語文学」という分類分けだったが、2003年度からイギリス文学、アメリカ文学の次にアフリカ文学の領域が加えられてこともあって、科研費が交付された。20(アフリカ文学を知らない学生の実態を紹介したアンケートとはあまりにもかけ離れ過ぎているが。)

しかし、『ナイス・ピープル』の出版年を見て驚いた。1992年である。読んで、また驚いた。主人公の医者の目を通して書かれた小説で、内容も私の予測を超えていた。

『ナイス・ピープル』は三つの点で意義深い小説である。

一つ目は、エイズ患者が出始めたころの混乱した社会状況が描かれている点で、文学という切り口で書かれた貴重な歴史記録でもある。

p. 86

二つ目は医者を含めた少数の金持ちに焦点が当てられている点である。『最後の疫病』のように虐げられた側に焦点を当てた小説は少なくないが、支配層に焦点が当てられたものは珍しく、その点でも貴重である。

三つ目は、主人公の医者の目を通して小説が描かれている点で、医学生の興味をひく作品である。

大学卒業後すぐに私設の診療所で稼ぎながら国立病院で研修を受ける鷹揚な医療制度、未知の(エイズ)患者を隔離している特別病棟、売春が社会の必要悪で治療こそが最優先と結論づける性感染症をテーマにした卒業論文とその審査過程、売春婦など社会の底辺層が通ってくる診療所での日々の診察風景、金持ちの末期エイズ患者に快楽を提供して稼ごうと目論むホスピス、雑誌の症例から判断して担当の患者をエイズと診断したことなど、数年のちには同じ立場で患者と向き合う可能性の高い医学科の学生には、興味の尽きない内容が盛り沢山で、興味津々の内容に加えて医学用語なども含めて専門的な知識も含まれており、まさにうってつけの題材である。

早速授業で使うことにした。21

「1984年:謎の疾病」

主人公ジョセフ・ムングチ (Joseph Munguti) は、ナイジェリアのイバダン大学の医学部を1974年の6月に卒業したあと、直ちにケニア中央病院「Kenya Central Hospital (KCH) 」で働き始めたという設定である。卒業論文のテーマに性感染症を選んだこともあって、先輩医師ギチンガ (Waweru Gichinnga) の指導を受けながら、ギチンガ個人が経営する診療所で稼ぎながら勤務医を続ける。ギチンガは国立病院では扱えないような不法な堕胎手術などで稼ぎを得ていたようで、やがては告発されて刑務所に送られてしまう。10年後、ギチンガから譲り受けた診療所の看板に「性感染症専門医」と記して、ムングチは念願の売春婦などを相手にひとりで診療を継続する。

1984年12月、「ケニアでは指折りの性感染症専門医であり、診断を下せない性感染症はない」と自負するムングチの元に、年老いたコンボ (Kombo) と名乗る中国人がやってきた。「やあ、先生さんよ、わしは金持ちじゃよ。2万シリング持ってきた。わしのこの病気を治してくれる薬なら何でもいい、何とか探してくれんか」と言って、大金を残して去った。

法外な大金に戸惑いを見せて一度は辞退するものの、格安の料金で社会の底辺層を相手に性病の治療を続けるムングチには、断る理由もなく、謎の病気の正体を突き止めることになった。最初はトラコーマクラミジアにより生じる性病性リンパ肉芽腫かと思ったが、どうも違うようである。その日から、ケニア中央研究所 「the Kenya Medical Research Institute (KEMRI)」の図書館に入り浸り、2日目にようやく、同年12月にアメリカで発行された以下の症例報告に辿り着く。

あらゆる抗生物質に耐性を持つ重い皮膚病の症状を呈し、生殖器に疱疹が散見される。下痢、咳を伴い、大抵のリンパ節が腫れる。極く普通にみられる病気と闘う抵抗力が体にはないので、患者は痩せ衰えて、やがては死に至る。病気を引き起こすウィルスが中央アフリカのミドリザルを襲うウィルスと類似しているので、ミドリザル病と呼ばれている。サンフランシスコの男性の同性愛者が数人、その病気にかかっている。(『ナイス・ピープル』、140ペイジ)

老人の症状から判断して診断に確信を持たざるを得なかったが、元同僚の意見を求めた。大学でも講義を持つケニア中央病院の2人の医師は、未知のウィルスによって感染する新しい性感染症の診断に間違いはなく、すでに同病院でもアメリカ人2人、フィンランド人1人、ザイール人2人が同じ症状で死亡しており、3人のケニア人の末期患者が隔離病棟にいる、と教えてくれた。

興奮気味の心を抑えながら、隔離病棟に出向いたムングチは、改めて死にかけている老人の症状を確かめる。

私は調べた結果と比較して患者を見てみたかった。目的を説明すると、看護婦は3人が眠っているガラス張りの部屋に連れて行ってくれた。私たちを怪訝そうに見つめる救いようのない

p. 87

3人を見つめながら、私は言いようのないわびしさを感じた。そのとき、その老人が目に入った。私の患者、コンボ氏に違いなかった。口から泡を吹き、背を屈め、ひどく苦しそうに繰り返し咳き込んでいた。渇いた咳は明らかに両肺を穿っていた。老人には私が誰かは判らなかったが、隔離病棟の柵を離れながら、後ろめたいほろ苦さを感じた。(『ナイス・ピープル』、141ペイジ)

患者コンボ氏は、実は以前ムングチの診療所を訪ねてきたルオ人女性の鼻を折った張本人で、ナイロビ市の清掃業を一手に引き受ける大金持ちだった。ルオ人の女性は清掃会社の就職面接でコンボ氏から裸になって歩き回るように命令されたが抵抗したために暴力をふるわれたのだが、噂では、肛門性交嗜好家の異常な行動の犠牲者が他に何人もいたようである。ムングチは、コンボ氏の死に際の哀れな姿を思い浮かべながら、神が犠牲者たちに代わってコンボ氏の蛮行への鉄槌を下されたに違いないと結論づけた。

元同僚の医師Dr GG (Gichua Gikere) は、「スリム病」と呼ばれるこの病気については既に知っており、唯一薬を提供出来るだろうと「ウィッチ・ドクター」と呼ばれる地方の療法師・呪術師を紹介してくれたが、実際の役には立ちそうにはなかった。

こうして、性感染症専門医ムングチのエイズとの闘いが始まるのである。

「ナイス・ピープル」

コンボ氏と同じように、医者のムングチも金持ちの階級に属しており、「ナイス・ピープル」とはそんな金持ち専用の次のような高級クラブに出入りする人たちのことなのである。

ムングチも、今では、役所や大銀行や政府系の企業の会員たちが資金を出し合う唯一の「ケニア銀行家クラブ」の会員だった。クラブには、ナイロビの著名人リストに載っている人たちが大抵、特に木曜日毎に集まって来る。テニスコート5面、スカッシュコート3面、サウナにきれいなプールも完備されており、ナイロビの若者官僚たちの特に便利な恋の待合い場所になっている。(『ナイス・ピープル』、146ペイジ)

「開発」や「援助」の名の下に、西洋資本と手を携えて大多数の人たちから搾り取る現代のアフリカ社会は、一握りの金持ちと大多数の貧乏人で構成されている。資本を貯め込める中産階級が極端に少なく、大抵はいつでも国外に追放できる外国人で政府はその階級を埋めている。

「ウィルスは金持ちにも貧乏人にも感染する」と書いたが、実は、病気の治療を担う側の医者や官僚などの専門職の人たちも多数 HIVに感染しており、その感染率の高さを作者は問題にしている。冒頭の「著者の覚え書き」からその深刻さが伝わってくる。作者がオーストラリアに留学していた時に読んだ以下の新聞記事である。

著者の覚え書き

『ナイス・ピープル』でどうしても書いておきたかった一つに1987年6月1日付けの「シドニー・モーニング・ヘラルド」の切り抜きがあります。3年のち、ここでその記事を再現してみましょう。

ハーデン・ブレイン著「アフリカのエイズ:未曾有の大惨事となった危機」

(ナイロビ発)中央アフリカ、東アフリカでは人口の四分の一がHIVに感染している都市もあり、今や未曾有の大惨事と見なされています。

この致命的な病気は世界で最も貧しい大陸アフリカには特に厳しい脅威だと見られています。専門知識や技術を要する数の限られた専門家の間でもその病気が広がっていると思われるからです。

アフリカの保健機関の職員の間でも、アフリカ外の批評家たちの間でも、アフリカの何カ国

p. 88

かはエイズの流行で、ある意味、「国そのものがなくなってしまう」のではないかと言われています。

病気がますます広がって、既に深刻な専門職不足に更に拍車がかかり、このまま行けば、経済的に、政治的に、社会的にかならず混乱が起きることは誰もが認めています。

世界保健機構(WHO)によれば、エイズは他のどの地域よりもアフリカに打撃を与えています。今年度の研究では、ある都市では、研究者が驚くべき割合と記述するような率でエイズが広がり続けているというデータが出ています。

第3世界のエイズのデータを分析しているロンドン拠点のペイノス研究所の所長ジョン・ティンカー氏は、「死という意味で言えば、アフリカのエイズ流行病は2年前のアフリカの飢饉と同じくらい深刻でしょう。

しかし、飢饉は比較的短期間の問題です。エイズは毎年、毎年続きます。」

基本的に同性愛者間の触れ合いや静脈注射の回し打ちや輸血を通してエイズが広がってきた世界の多くの国とは違って、アフリカでは主に異性間の触れ合いを通して病気が広がっています。

70年代後半から80年代前半にかけてアフリカで病気が始まって以来、男性も女性も数の上では同じ割合で病気にかかっています。

アフリカでは性感染症を治療しないままにしている割合が高く、その割合の高さがエイズの広がりの大きな要因になっている可能性が高いと多くの研究者が主張しています。

WHOのエイズ特別企画の責任者ジョナサン・マン氏は、一人当たり平均約1.75米ドル(2.40オーストラリアドル)しか医療費を使わないアフリカ諸国の保健機関にてこ入れをし、教育への直接の国際支援と血液検査を行なえば、病気の広がりを抑えることが出来ると発言しています。(『ナイス・ピープル』、Ⅶ~Ⅷペイジ)

幼馴染みのメアリ・ンデュク (Mary Nduku) の愛人イアン・ブラウン (Ian Brown) も Dr GG の娘ムンビ (Mumbi) の愛人ブラックマン (Blackmann) も、ムングチが高級クラブで出会った「ナイス・ピープル」である。

南アフリカからの入植者を祖父に持つブラウンは、高級住宅街に住む34歳の青年で、ジャガーを乗り回し、一流のゴルフ場でゴルフを楽しむ。勤務する大手の「スタンダード銀行」で秘書をしているンデュクと愛人関係にある。エイズを発症し、イギリスで治療を受けるために帰国しようとするが、航空会社から搭乗を拒否されて失意のなかで死んでゆく。

ブラックマンはモンバサの売春宿でムンビと出会い、常連客の一人となったフィンランド人の船長で、結果的には、2人の間に出来た子供を連れてヘルシンキまで押しかけてきたムンビを引き取ることになる。エイズに斃れたムンビの亡骸は、ケニアに送り返される。

高級住宅街に住むマインバ夫妻も「ナイス・ピープル」である。妻のユーニス・マインバは、ある日、額から夥しい血を流しながら病院に担ぎ込まれる。その傷が夫の暴力によるもので、のちに、夫とメイドとの浮気の現場を見て以来、精神的に不安定な症状が続いていることが判り、精神科の治療を受けるようになる。数ヶ月後、コンボ氏と同じように肛門性交を好む夫が、かかりつけの医者からHIV感染の疑いがあるので血液検査を薦められていると、ムングチに訴えにやって来る。

性感染症専門医と性

HIVは血液と精液によって感染するのだから、治療に比べれば予防は簡単だと思われがちだが、現実にはそうは行かない。性感染症専門医ムングチの診療と日常生活が、性感染症の恐ろしさと感染対策の難しさに加えて、複数婚が続くケニア社会と今の日本社会との、性や売春行為に対する社会通念の違いを教えてくれる。

ムングチは、メアリ・ンデュクとユーニス・マインバとムンビと、同時に関係を持つ。幼馴染みのメアリ・ンデュクとは高級クラブで再会し、イアン・ブラウンの愛人であることを承知で関係を持ち、一時は同居している。アパートで鉢合わせになったブラウンと大げんかをして別れて

p. 89

いる。ブラウンはエイズを発症して死んだ。

ユーニス・マインバはムングチが担当した患者である。性的な関係を持つようになり、中年マダムのお供をして週末毎に豪華な小旅行に出かけた時期もある。夫がHIVに感染した可能性が高いと相談され、恐ろしくなって別れた。

ムンビとは父親を訪ねて来たときに私設の診療所で出会ったのだが、モンバサで娼婦をしているのを承知で恋人関係になった。一時期同棲をして、子供を身ごもったことを告げられたとき結婚を決意する。ムングチの働いていたホスピスでムンビは出産するのだが、生まれてきた子供はムングチの子供ではなく、売春宿の常連客ブラックマンの子供だった。ムンビは逃げるようにヘルシンキへ渡るが、エイズを発症して果てる。

ムングチは、のちにエイズで死ぬ愛人を持つメアリ・ンデュクと、HIVに感染したと思われる夫を持つユーニス・マインバと、異国の地でエイズを発症して死んだムンビの3人と同時に性的な関係を持っていたことになる。

ムングチは、売春行為を社会の必要悪と捉え、性感染症については治療を優先すべきで、社会の底辺層には国が無料で治療活動を行なう義務があるという趣旨の卒業論文を書いた。私設の診療所では、最低限の料金でその人たちの性感染症の治療に専念した。性感染症の怖さを充分に承知していたわけで、ムングチを始めとする「ナイス・ピープル」の性や売春に対する考え方を思い合わせれば、この小説の冒頭に載せられた「アフリカの何カ国かはエイズの流行で、ある意味、『国そのものがなくなってしまう』のではないか」という記事が、真実味を帯びてくる。

南アフリカからの入植者によって侵略されたケニア社会は、かつての自給自足の豊かな農村社会ではない。複数婚も乳児死亡率の高い中で子孫を確保したり、農作業や老人・子供の世話を分担する労働力を確保する、などの必要性から生み出された制度だろうし、西洋社会が批判する割礼にしても共同体全体で次世代を育てるための教育の一環だったと思う。しかし、土地を奪われ、無産者にされて課税される農民や、都市部で働かされる賃金労働者に、旧来の制度を踏襲し発展させる力はない。割礼や複数婚の制度が残っていても、かつての共同体を基盤にして機能していた制度とは全くの別物である。

大多数の農民や労働者は食うや食わずの生活を強いられ、国全体も、西洋資本と手を組む一握りの貴族やその取り巻きの豊かさと引き替えに、背負いきれないほどの累積債務に喘いでいる。そこにHIVが出現し、猛威をふるい始めたわけである。2003年の推計では、ケニア全体の平均寿命は45.22歳にまで落ち込んでいる。22

おわりに

当然のことながら、学生の英語の授業に対する要望や必要性は様々である。その多様性に応えるのは難しい。回りには結構いるのだが、今だに教科書1冊を読んでひたすら訳すだけ、テープを聞いて選択肢の答えを当てさせるだけのような授業を続けている人もいる。テープを再生する機械を持たない人が増えている現実にも気づかないで、カセットテープしか用意出来ない人もいる。授業をする側にも受ける側にも大切な時間なのだから、お互いに最低限の努力はしたいものである。言葉が手段である限り、手段を使えるような工夫はすべきであるし、基礎教育や一般教育としての授業なら、自分や社会について考える機会を提供できるような材料を準備すべきだろう。

ケニアを始めとするアフリカ諸国の危機的なエイズ事情と、ケニアに「援助」して協力していると考える大半の日本人の意識との格差は、大き過ぎる。

第2次世界大戦後、欧米や日本は世界銀行や国連などを設立して直接的な植民地支配から、「開発」や「援助」の名の下に資本を提供して利子をとる新植民地方式に戦略を変えた。ケニアへのODAの予算の大半は日本の大手の建設会社が請け負い、日本の大手金融機関、造船会社、運輸会社、商社などを経て日本に還元する仕組みになっている。ケニアも重債務国だが、ケニア政府は債務の帳消しには反対である。債務が帳消しになると一握りの貴族が困るからである。

日本政府は1993年から東京でアフリカ開発会議を東京で始めた。23 このエイズ事情が進めば、

p. 90

外交政策に支障をきたすのが予測出来たからだろう。資本を提供する相手から利子を取ろうにも、エイズによって死者が増加すれば絞り取る相手の人口自体が減ってしまうのだから。ほとんどの人がアフリカ文学の存在も知らないような状況で、科学研究費の分類項目に「アフリカ文学」が突如出現したのも、そういった国策と決して無縁ではない。

2年前、本学医学科の学生が『ナイス・ピープル』にも登場するケニア中央研究所(KEMRI)に、国際協力機構(JICA)の専門家を訪れている。24 夏休みを利用してケニアやタンザニアでボランティア活動に従事する学生もいる。途上国で医療活動に従事したいと考える学生も多く、アフリカもかつてほど遠い所ではなくなってきている。

国の構造改革の一環として大学改革を迫られ、学生の満足度や効率を求められることが多いが、教育は効率だけでははかれないし、短期的な視野だけで見てはならないだろう。生理学や生化学などの膨大な量の基礎医学をこなさなければならない2年生に英語に割ける時間がどれだけあったかは心もとないし、授業時の反応が必ずしも満足の行くものではなかったが、短期的な判断は禁物である。いつか、授業で出会った学生の1人が、KEMRIの専門家になるとも限らないのだから。25

試行錯誤は、続きそうである。

<註>

1 Wamugunda Geteria, Nice People (Nairobi: African Artefacts, 1992)

2 横山彰三「医科大学における英語教育とESP」(本誌第2号70-77ペイジ)に紹介されている後期開講の選択必修クラスで、56名が選択した。後期は基礎医学実習が組み込まれているので授業回数が制限されるが、Nice Peopleの他に、元NBA選手マイケル・ジョーダンの伝記 – “Michael Jordan” in Michael Jordan ☆ Magic Johnson by Richard J. Brenner (New York: Paradise Press) – を題材に選び、どちらも関連の映像を組み入れて授業を行なった。

3 例年、一学年百人中20人から40人程度の希望する学生と授業時間外に、それぞれ1~2時間程度の個人面接をしている。英語に限定していた時期もあるが、最近は限定していない。英語での面接は1割程度で、前半は英語、後半は日本語でという場合もある。特に決めた話題はなく、雑談から進路相談まで百人百様である。授業の最後には、大学が行なう授業評価アンケートとは別に、記名式で授業の感想や意見を書いてもらっている。

4 2004年度担当の新入生にアンケートを行なったところ、アフリカに関心を持つ学生が少なからずいたが、ほとんどの学生はアフリカ文学については知らなかった。

「アフリカに関心がありますか。」の問いに、(医学科97名)1.非常に関心がある。(13名)、2.まずまず関心がある。(39名)、3.どちらとも言えない。(28名)、4.あまり関心がない。(10名)、5.全く関心がない。(7名) (農学部51名) 1. 非常に関心がある。(3名)、 2. まずまず関心がある。(23名)、 3. どちらとも言えない。(19名)、 4. あまり関心がない。(6名)、 5. 全く関心がない。(0)

「アフリカ文学を知っていますか。」の問いに、(医学科97名) 1. よく知っている。(0)、 2. まずまず知っている。(1名)、 3. あまり知らない。(12名)、 4. 全く知らない。(74名)、 5. アフリカに文学があったことも知らない。(10名) (農学部51名) 1. よく知っている。(0)、 2. まずまず知っている。(0)、 3. あまり知らない。(14名)、 4. 全く知らない。(34名)、 5. アフリカに文学があったことも知らない。(3名)との解答を得た。アンケートは初回(4月第2週目)に無記名で行なった。

5 イギリスMBTV制作「アフリカ8回シリーズ」(NHK総合、1983年)

6 Geoffrey Cowley, “Targeting a Deadly Scrap of Genetic Code,” Newsweek (December 9, 1996) 学生は一年次必修科目「生命科学入門」で読む Human Biology  (An Imprint of Addison Wesley Longman, Inc., 2001) の中の “Immune deficiency: The Special case of AIDS” で少し専門的に触れるので、専門との橋渡しの意味で一般の雑誌記事を選んだ。

p. 91

7国立大学保健管理施設協議会特別委員会編『エイズ 教職員のためのガイドブック’98』(国立大学保健管理施設協議会特別委員会、1998年)からの抜粋を使用した。

8 “History of AIDS discovery,” The Daily Yomiuri (August 6, 1994) 1994年の横浜での国際エイズ会議の特集記事の一つである。

9池内了「エイズが問う『政治の良心』 南ア特許法に米が反発」、「朝日新聞」(1999年8月6日)の中で言及のあった “Gore’s humanitarianism loses out to strong-arm tactics,” Nature (July 1, 1999) を取り上げた。

10 Karl Maier, “Aids epidemic chokes the life out of Southern Africa,” Independent (July 30, 1995)

11 留学経験から考えると、国税調査が必ずしも信用出来るとは思えないので、55歳という元の数字を疑わざるを得ないが、WHO(2002年推計)によれば、ジンバブエの平均寿命は男性37.7歳、女性38.0で、既に40歳を切っている。

http://www3.who.int/whosis/country/compare.cfm?country=ZWE&indicator=strLEX0Male2002,strLEX0Female2002&language=english 2003年の推計で総人口39.01歳というデータもある。http:// www.cia.gov/cia/publications/factbook/geos/zi.html

12 NHKスペシャル「エイズ・世界はどう立ち向かうべきか」(2003年12月1日NHK総合テレビ)で、この記事に描かれたように、平均寿命36歳のボツワナで、「コンパウンド」でHIVに感染した短期契約の鉱山労働者が帰郷後配偶者に感染させて死亡、残されて途方に暮れる配偶者を現地取材する映像が放映された。

13 外務省のHP: http://www.mofa.go.jp/region/africa/kenya/index.html 1986年以来、日本はケニア最大のODA供与国である。

14 体制に批判的な立場を取る友人は、2002年の暮れに現キバキ政権が誕生する前は、事実上20年以上も帰国できなかったので、在外研究で滞在した時か、国際会議に出席した際に、イギリスか南アフリカかジンバブエかで入手したようである。

15 “AIDS epidemic” in Africa and Its Descendants 2 Neo-colonial Stage (Yokohama: Mondo Books, 1998), pp. 51-58.

16 「アフリカとエイズ」、「ごんどわな」22号、2~13ペイジ、2000年。http://tamada.med. miyazaki-u.ac.jp/tamada/works/africa/index.html に公開している。

17 Major Mwangi, The Last Plague (Nairobi: East African Educational Publishers, 2000)

18 グギの亡命の経緯と亡命中のケニアの荒廃ぶりについて “Ngugi wa Thiong’o, the writer in politics: his language choice and legacy,” Studies in Linguistic Expression, No. 19 (2003) にまとめhttp://tamada.med.miyazaki-u.ac.jp/tamada/works/ngugi/index. html で公開している。

19 Ngugi wa Thiong’o, The River Between (Nairobi: Heinemann, 1965) 北島義信訳『川をはさみて』(門土社、2002年)

20 学術研究協力部発行の広報誌「宮崎大学における研究活動紹介」(現在校正中)に研究内容の紹介文を書いている。公共機関に配布され、大学のホームペイジにも公開される予定である。すでにhttp://tamada.med.miyazaki-u.ac.jp/ には公開している。

21 原文は絶版で手に入らないので、スキャナで取り込んだ。全文(188ペイジ)は時間内には読み切れないので、B5版36ペイジに編集した。研修第一日目、私設診療所、卒業論文審査、エイズ発症騒動、ホスピス騒動など、そのまま残した箇所以外は要約に書き換え、分量的に数回で読み切れるように編集した。希望者には、別途、全文を用意した。

22 http://www.aneki.com/facts/Kenya.html 全体で45.22歳(男性45.02 / 女性45.43)

23 http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/ticad/tc_0.html

24長田裕明、小野香奈子、庄司健介「ケニア滞在記」、宮崎医科大学「学園だより」第87号14-15ペイジ(2002年12月31日)

25 表紙に日本国宮崎医科大学玉田先生様と書かれた絵はがきが舞い込んだことがある。かつて授業で出会った農学部の学生が、海外青年協力隊の理科の教師としてガーナに行って、「授業中に見た『ルーツ』のシーンを思い出しました」という内容の葉書だった。

p. 92

資料4

アフリカのエイズ問題―制度と文学

<解説>

2003年11月23日(日)に宮崎大学医学部すずかけ祭で開催されたシンポジウム「アフリカと医療」で行なった講演の記録で、国際保健医療研究会の葛岡桜さんがして下さったテープ起こしの原稿に手を加えたものです。テープ起こしの原稿を見ながら、我ながらあまりの日本語のひどさに悲しくなりました。美しい日本語の会会員などと称していることに後ろめたさも感じました。そして、普段の話し言葉も、話し方も考えなくてはと思いました。これからは、美しい日本語の会準会員を名乗ります。

当日は、時間の関係で、当初予定していた内容を変更して話をしました。当日の内容に手を加えたものがこの「アフリカのエイズ問題―制度と文学」で、その前に、事前に配られたパンフレットの表紙とその内容を載せました。

予定していた原稿につきましては、ずいぶんと遅くなりましたが、手直しのうえ「アフリカとエイズと文学」と題して、近々ホームペイジに掲載の予定です。

ご一緒した山本さんとムアンギさんの話は、ホームペイジには掲載できませんでした。

ホームページでも公開しています。

http://tamada.med.miyazaki-u.ac.jp/tamada/works/africa/03aidssympo.doc

(パンフレットの表紙)

第28回すずかけ祭医学展

宮崎大学医学部

シンポジウム「アフリカと医療」

~世界で一番いのちの短い国~

国際医療ボランティア・派遣医師 山本敏晴

「世界で一番いのちの短い国」

…本当に意味のある国際協力とは?…

四国学院大学社会学部教員 Cyrus Mwangi

「アフリカにおけるエイズとセクシュアリティ」

宮崎大学医学部英語科教員 玉田吉行

「アフリカのエイズ問題―制度と文学」

日時 2003年11月23日(日)1時~4時

主催 宮崎大学医学部国際保健医療研究会・英語科

場所 宮崎大学医学部臨床講義棟205教室

主な対象者; 発展途上国での医療活動やボランティア活動などに従事することも含め、その分

p. 93

野に深い関心のある医療関係者、医療系学生、将来そういう分野で活動したいと考える中学生や高校生、および、国際保健活動に関心のある方々。◆

アフリカのエイズ問題―制度と文学

玉 田 吉 行

玉田と申します。よろしくお願いします。旧宮崎大学と旧宮崎医科大学が(10月に)統合して、こちらは清武キャンパス、向こうは木花キャンパスと呼ばれています。実際には(統合後の最初の授業が始まるのは)4月からなんですが、(今は)こちらの方で英語を担当しています。4月からはさっきお話にありましたように、アフリカ文化論とか、南アフリカ概論とかの名前で、(木花キャンパスの方でも、主題教養科目の)授業を担当する予定です。

今回のシンポジウムは、わりと準備していたんです。一応、こういうタイトル(『アフリカのエイズ問題―制度と文学』)で、初めに少し挨拶をして、それからアフリカのエイズの現状を少しお話してと、本当はそういうつもりでした。

病気でもそうですが、(たとえば)喉が痛いとか、それは(それで)原因があるわけです。西洋医学の場合だと、対症療法で熱を下げましょうとか、薬を与えましょうとか、まあ、そういうことになるわけですが。本当は、免疫力があれば、病気にならない確率が高いわけで、「ちゃんと良く寝ましょう」、「規則正しい生活をしましょう」、「むちゃくちゃ飲まないようにしましょう」、そういうことが一番大事だと思うんですが、そのためにはやっぱり何が原因かというのを知らなければなりませんし、出てきた症状から、病気の場合だと、診断しなければいけません。

実際に、エイズの惨状は、今日ムアンギさんがお話されましたように、大陸が滅びるかもしれないという可能性を含んでいるほどだと、ぼくは思っているんですが。それは、HIVだけが原因というわけではなくて、それを生み出した原因というのはもっと大きな所にあると思うからです。

ぼくは、たまたま読んだアフリカ系アメリカ人の作家リチャード・ライトの祖先が奴隷貿易で連れてこられたという縁で、アフリカに辿り着きました。その人はアメリカから追われるような形パリに渡った人で、常に「自分は何か?」を問い続けていました。生まれながらにして、肌の色が黒いというだけで疎外されていましたから。同じような意味で、ぼく自身もいつも「自分は何か?」を問い続けていました。生まれてくるとわけのわからない親でしたし、子供もたくさんいて貧乏だったですし、大学入試はすべって行く所はないし、学校へ行っても腹が立つし、地域社会にも腹が立つし。そんな状況でしたから、自分の居場所というか、つまり疎外された状況のなかで、自分はいったい何ができるんだろうか?とか、どうしたらいいんだろう?とか、そんな事ばかり考えていました。リチャード・ライトがアフリカの問題を取り上げていたのがきっかけで、僕自身も自然にアフリカについて考えるようになりました。

ですが、そこで考えて、(ぼくはここの英語の授業でもアフリカの話をずっとしてきたんですが。ここに来て16年になります。その前の5年間も含めますと、20年以上にもなりますが。)最後にたどり着いた地点は、山本さんとか、ムアンギさんとはだいぶ違うとは思うんですが、なんかため息しか出ないというか、希望的な観測が全くもてないというか。それもありますし、それから実際に長いあいだ授業をしていますと、この部屋でもそうですが半分以上寝ている中で授業が行われていますし、(学生は)あまり来ません。ほかの大学でもそうですが。以前いました大阪工業大学とかだと、授業の一番初めに出席をとって、ぱっと見上げたら前半分全部いないんですよね。それで、おかしいなぁと思って、出席を後からとるようにしたら、最初あまり来なくて、終わりの方に(たくさん)来ましたね。(非常勤としてご一緒した)ムアンギさんは、アルファベットで名前書けない奴にどないして単位だすねん、とぼやいてましたね。大阪工大は、(偏差値でいうと)関関同立(関西学院大学、関西大学、同志社大学、立命館大学)の次くらいだと言われている大学です。(ムアンギさんも僕も)ひどいところで授業をやっていたわけです。ここでも実際に授業をやってみますと、(学生は)授業には来ませんし、(来ても)半分くらいは寝ていますし。今、(その時の学生が)2人くらい(会場に)来ているんですが、その学年のときの話です。ぼくは一

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年間一生懸命話をしてきて、(それでも大体半分くらいは寝てましたけど)すごく頑張って(まとめの話を)やりだしたのに、ふと見ましたら前の方で漫画を読んで、パンを食べている学生がいるんです。腹が立って、こんなやつは絶対に医者にしたらあかんと思って、授業やめて出てきたんです。医学部でさえそうですから、別に医学部でなくてもいろんなところでそんな状況があるのが実際のようです。授業中に夢中になって携帯電話をしている人もいますし、すこし進歩的な話をしたら寝てしまいますし。ま、そういうのが現状のようです。

どちらかと言いますと、(授業で)アフリカのことをしながら日本にいて、その狭間に立って、その希望を託すべき、有能な若者と実際に授業をやりながら、その合間に立ってみますと、いろんなことが見えてきて、やっぱり最終的に、授業の最後で「いや申し訳ない、もうため息しか出ない」という感じになってしまうんです。でも(そのような状況でも)20年間ずっと話し続けてきたのは、そこにしか希望はないんじゃないかなと思っているからなんです。ですから、今日もそうですが、やる事に対しては、やはり準備もしますし、それなりにやります。ですが、人のためにやっていますと、例えば、「なんで授業に出てこれんのや?」とか、「なんで寝てしまうねん?」と思うかもしれないんですが、でもその人がいつかこの話を思い出して、医者になったときに、ああ、あんなことをいってたなと思ってくれること…まぁこれは実際にあるんですが…そのほうが一番大事で、ひょっとしたらそういう希望があるのかもしれません。でも、実際にはそんなに希望があるわけでもないし、だけどやっぱり喋り続けないといけない、みたいな(感じです)。そういう狭間で、ぼくは毎日少しずつ…。あ、もちろんこのシンポジウムはなかなか大変で。最初、授業でアフリカの話をしていたときに、山本さんの本(『世界で一番いのちの短い国』)を課題図書で紹介しました。一年生の石崎さんが、私知ってるよ、みたいな感じで。すぐメールを打って山本さんに「講演をお願いします」と頼んでみたら、山本さんからすぐ返事が来て、「それじゃ玉田先生に相談してみてください」、と(いうことになりました)。それで(講演が実現しましたので)、今日はぼくとムアンギさんは二人とも、付け足しみたいなものです。国際保健医療ですから、山本さんの話に関連して話をするので、ムアンギさんも来ませんかみたいな感じで電話したわけです。で、はじめの話では、前半、半分以上(山本さんに)やってもらって、ムアンギさんとぼくとで残りの時間を分けるつもりだったんですが、もうほとんど終わりであと(残り時間が)5分くらいしかない。(一同笑)で、一応ぼくがここで今言いましたように、普段考えてきて授業の中で言っているような話をした後、実際に1992年にジンバブエに行ってみて、「ほー、やっぱり同じやった」みたいな話をして(と考えていました)。

実際には、ぼくらは大学にいる(知的な欲求を満たしやすい環境にいる)わけですから、ほかの人の事(実際には行けない外国のことなど)を知るために、例えば、山本さんの話を聞いたり、ムアンギさんの話を聞いたり、そういう部分も大事ですが、制度(についてだけ)じゃなくて、実際に生活している人のことを書いているとか、文化(について書いてる)とか、そういうものを読めればそれにこしたことはないと思います。例えばエイズの話でも、1991年に、エイズが問題になり始めた時期のケニアの混乱した状況を描いた小説をゲテリアという作家が書いています

ぼくは今、(本学の)2年生で授業をやっているんですが、実際に授業やっていましても、2年生は忙しいからと、あんまり来ませんし。授業では、そんな深刻な問題を話していても、半分くらい寝ていますけど。

そういう風な本の内容をみてみますと、例えばケニアの場合など、実際に今日お話しましたように、植民地(支配)で、それから新植民地(支配)で、その侵略は今も続いてるんですが。ですから、極端に言いますと、日本のように、中産階級がいるわけではなくて、一握りの貴族と西洋の人たちが手を結んで長い事(新植民地体制を)引きずってるわけで。で、ごく一部ですよね、その(支配階級に属している)人たちは。その人たち以外はほとんど全て貧乏人で。そういう構図の中でHIVにこの人達もたくさん感染しているんです。いっぱい。その小説は、『ナイス・ピープル』というタイトルですが、こっちの方の人たち…治すものの側(の人口)がものすごく減ってきてるわけで。こっち側(支配される側)の方は、そこにムアンギさんが持っていらっしゃいますが、メジャー・ムアンギという人が書いている本 [『最後の疫病』(2000年)] では、そのHIV

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に関して、一般的な人たちが西洋文明を、受け入れるか – つまり、HIVは精液や血液で感染しますから、原因がわかっているはずですよね、だけど実際には抑えられないみたいな、それのせめぎ合いみたいなところが書いてあるわけです。その中で、どういう風な感じで人間の尊厳を保つかみたいな、そういう部分も書いてあるわけです。

僕自身はもともと、文学を志して、30ぐらいで高校(の教員)を辞めて、それから書いたり読んだりするには大学しかないって思って、5年間ほど(通算にしたら9年位)浪人してるんですが。ですから、ここが初めて(の大学)で、それ以来で、16年目になります。そういう感じで生きてきました。

文学は、生き死にの問題が優先される場合…戦争をやっているときには文学は(直接には)役に立たないかもしれませんが、やっぱりものすごく大きな役割を持っています。根本的なことになるんですが、人間が人間に何か教えられるかと言うのは、非常に疑問で。その事を一年間ほど考えて、棒に振ったことがあります。結論は、やっぱり分からないというか。例えば今授業で先生をやっていますけど…何年か前に生まれてきて、先に少しだけ多く覚えて、それを言ってるだけですから。そういうことを考えていましたから、中学や高校では、こいつ何言ってんねん、そんなもん教科書に書いてあるやないか、といつも腹立てていたんです。だけど、そういう側面はどうしてもあるように思えますので、人のために教えてやるというのは、少し違うかな、と思っています。そんなことを考えながら、もんもんと授業をやっているんです。

ですから、ここで一番いいたかったのは、やっぱり、そのアフリカの問題を授業の中で取り上げているのも、大学の時代がやっぱり大事(な時期)だと考えているからだ、ということです。なぜかと言いますと、知的な欲求は、(今は物が豊かで、なんか無理やり勉強やらされて、その中でそがれてる部分もものすごい多いと思うんですが)本来は、何か知りたいとか、何かやってみたいというところから始まります。知的な欲求が、人間にはすごくあると思うんです。だから、そういう欲求を満たすには、(大学に)入ってきて、その中でいろいろ話を聞いて……。そのときに、人生が方向付けられる事があるかもしれないですし。ですから、そういう意味では、ぼくは大学入ってきた人たちに、できるだけ、「今まで持ってきた価値観は大丈夫か?」みたいな揺さぶりのための材料として、アフリカの事をずっと話したりしてきたんですが。ぼくがその中でよくするのは、14、15世紀ぐらいから、中国から持ち帰った火薬を武器に、西洋社会が銃(武器)を作って、それから侵略を始めたという話です。当初は、東アフリカを略奪したりしていましたが、もっと恒久的に略奪しつづける方法はないかと考え出して、結局は片方(の手)に聖書、もう一方に銃を持って侵略を始めたんです。南アフリカなんか、オランダ人に侵略されたんですが。1972年にマジシ・クネーネいう南アフリカの詩人が来て、多分あのときだと、日本の文学者の野間宏とか針生一郎とか、その辺の人に案内してもらったと思うんですが。その人がオランダの出島を見て、「日本人てえらいなぁ」と言ったそうです。実際に、南アフリカはオランダ人に侵略されましたからね、「(オランダ人を出島に閉じこめた)日本人はえらいなあ」という意味でしょうが、そういうことを、ぼくは雑誌で読んだことがあります。実際に、南アフリカはそういう形で侵略されていったんですよね。そのうちに、今度は人間を売買し始めて、ものすごく片一方(西洋)は富んだわけで、その資本で、今度はもっと儲ける方法を考え(始め)たのです。つまり、奴隷貿易は、大きな損失(リスク)もありますよね。(逃亡とか反乱とかの)リスクを伴いますから。だからもっと効率よく儲ける方法、つまり今まで手でやっていたことを機械でやるようになって。ものすごくたくさん作って、それを売り始めたわけです。売るための材料をもっと手に入れるために、植民地化を始めます。その勢いはとても大きかったわけです。そのときにあつかましく、たくさんの植民地を取ったのは、英語をしゃべっていたアングロ・サクソン系の人達です。特に文明のあったケニア、ガーナや、ナイジェリア、南アフリカ、ジンバブエなど。とにかく、文化の発達していた所ばかり狙ってたわけです。その人達は自分の言葉を押し付けました。押しつけられた国は数多く、(今も経済的に結びつきが強い)Common Wealth countriesは、確か51か52あると思いますが。その人達は、(国として)英語をしゃべるようになってるわけです。ですからジンバブエに行った時もそうでしたが – ジンバブエはショナ人がほとんどなんですが – それが、キャンパス内で(ショナ人同士が)英語でしゃべっているのです。みんながそうなんです。自分

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の子供に母国語のショナ語を教えないで、英語を教えている人が増えているようです。名前もAlexや、そんな名前ばっかりです。そういう傾向は顕著で、インドもそうらしいです。小田実さんがインドで行われている英語支配は、だいたい形を変えた侵略じゃないかのかねとあるインドの友人に尋ねたら、何を言ってる、侵略そのものだ、と言い返されたと言ってましたが。そんな状況になっているようです。

いまさっき、山本さんがシェラレオネ(の平均寿命が)34歳とおっしゃったんですが、何日か前、インターネットで調べてみましたら、ジンバブエの場合、36.5歳でした。1995年の記事ですが、イギリスのインディペンダントという新聞を授業で読んだことがあります。その記事は、2010年くらいまでには平均寿命が55歳くらいから40歳くらいに落ち込むだろうと予測していました。 55歳(という元の数字)が、そんなに高くないとぼくは思いますけれども。ここ(提示したグラフ)でみてもらったら分かりますが、ムアンギさんのケニアも、南アフリカも、45歳ぐらいです。日本は80歳こえていますから、このあたりのところは、(原因が)絶対あると思います。そういうふうなことを考えると、形態は変わっても(侵略は)ずっと続いているのです。

実際に知的なものを考えて世の中をなんとかしていかないといけないという大学生でさえも、知的な好奇心が薄い(人も多い)ですし。それから、政治とか、社会的なことをあんまり考えません。今ぼくがお話したようなことが、その侵略の延長だとしますと、アメリカなんかずーっとそれを続けているわけです。その国が国連を無視して、イラクを侵略した事を、ぼくらは止めることもできなかったわけです。そういうふうなことに対して、そういうことを考えもしないと言いますか。その辺りのところに対してぼくはどういう風に話しかけたらいいのか。すごく、とまどいながら。それでもやっぱり言わないといけないな – そういうところで過ごしていますね。

南アフリカに関して言いますと、ジンバブエで…ジンバブエに行って、家を借りました。今言いましたように(ジンバブエには)貴族と貧乏人しかいませんから、ほとんど借家はないんですが。でも、たまたまみつけてもらって。10万円の家賃ですと言われて、行きましたら、500坪ですよ、これくらい。ちゃんとガーデン・ボーイ付きでした。知り合って、いろいろ話を聞きましたら、その人の給料は4千円くらい(ひと月ね)。子供たちも(その人の子供たちと)一緒に遊んだのですが、遊びに使ったボールがひとつ5千円くらいでした。実際はそんな中で生活をしていて、その人の田舎のほうに行ったんですが、(写真をうつしながら)こういうところに住んでいて、ジンバブエに関しての新聞にあったように。大体、田舎のでは女性が農作業と、それから老人や子供の世話をしてるんですが。HIVで、みんな倒れていくんです。

ヨーロッパ人がやって来たときにどんな侵略の形態を取ったかと言いますと、つまりアフリカ人の土地を奪って課税したんです。課税されて、その現金を払わなければなりませんから、みんな出稼ぎに出ざるを得ませんでした。たいていは鉱山か、農場か、白人の家か、工場か。たいがいそれは短期契約…つまり(労働単価の)1番安いパートタイムです。男ばっかり集めてコンパウンドという、まぁ、日本で言うたこ部屋ですね。そこに売春婦が入りますから、そこで感染します。こんどは、1年に2回ほど田舎に帰って、奥さんにうつすんです。アフリカの場合、特にそれが極めて多いのです。英語では「マイグラント・レイバー」、いわゆる季節労働とか、出稼ぎ労働とかいわれます。そういうシステムがあるわけです。それは今さっきも言いましたが、実際に、ぱっと略奪するのではなくて、永遠に略奪し続けるというか。だって、奴隷みたいに、大の大人が24時間中拘束されて、ひと月4000円ですよ。今(写真に映っている)ここで子供達が遊んでいましたが、ここはスイスのおばあさんが持ってるところで、そこの人達(ショナの人たち)は子供が遊びにきても、ぼくらがたまたまいたので子供たちもいましたけど、普通はそこに入れてもらえなくて。家族とほとんど1年離れて(暮らしているんです)。(田舎に)帰ったら、家も大きく土地もあるんですが。だから、そういう状態ですよね。それは、いってみれば奴隷と一緒じゃないですか。経済の配分は、システムは……。それが基礎なんです。あまりそういうことは言われないんですが、安価な労働力によって、人が生産したものを掠め取ってるわけです。実際に例えば、ここ(臨床講義室)の電力でも、そうですよね。南アフリカとか、ナミビアとかその辺りの安い労働力で、(ウランが)掘られて運ばれ、(日本では)安い電力が供給されているわけです。そういうことを考えてきますと、ぼくらは、完璧に加害者なわけです。そのことを山本さんも、

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ムアンギさんも言われてましたが。それが問題なのです。何が問題かというと、(たいていの人が)その事にも気が付いていないことなんです。

そんなことを考えてみますと、自分の自己存在も肯定できるのかなと思います。やっぱり生きる自信が持てないと思いながら。(授業で)そんな話をすると半分くらい寝てしまいます。もう、ひどいのになると、授業終わった後、あー、なんてあくびして。あーもう(受験勉強で詰め込んだ)英語も忘れてしまった、なんて言って。授業終わった直後に言われますと、さすがに、がっくりときますが。でも、現実なんですよね。

アパルトヘイトがあったときに、(ヨハネスブルグの)日本人学校に(取材に)行って、(朝日テレビの)「ニュースステーション」がインタビューをして、日本人学校の校長は(管理職だから)、「いやー、もう危険だから、(安全確保のために、もっと)フェンスを高くしないと」、と言ったんですが。せめて、「将来を託す子供達だから、知らない所に来てぼくらにできないことをやってもらいたい」くらいは言ってもらいたいですよね。企業の特派員の子供達が大きな顔をして、「あの人達とは生活が違うから雇ってあげなくちゃいけないですよね」と言うんです。「せっかく一緒に友達になったんだから、もう帰りたくない」くらいは、せめて(その子供たちに)言って欲しいですよね。

良く分かりませんが、現状がどうであれ、受験勉強で疲れて、何もものを考えないようになって大学入ってきたとしても、例えばぼくらみたいに授業する立場の人間が、「もうしゃーないから」といって諦めてしまう、そうなったら終わりじゃないですか。そう思っているんです。しかし、今の状況でぼくらが何かが言えるかといったら、いやー、あまり自信がなくて、何かぶつぶつ言いながら、「ぼくは英語嫌いです」とか、「外国人が苦手です」とか言いながら、最後にぼそっとと「いやー、ため息しか出ない」としかいえないんです。ですが、人のためだけにやっているわけではありませんので、ぼくは、最初にも言いましたが、自分が読んだり書いたりする空間を求めて大学にも来ましたし、授業をもつことで実際に生活もしているわけですから、その責任として、やっぱり、それでもきちっと準備をして、ぶつぶつ言いながらでも、しゃべりかけないといけないと思っています。とくに、医者になる人が多いですので、ぼくは、「医者になる人が風邪をひいていてどうする?」と、いつもそれだけは言うんです。(高校の教員をやっていたときにもあったのですが)ここ(宮崎)の人なんかもそうですが、自分はたばこを吸いながら、「お前たち、たばこ吸うな」、なんて生徒指導でやっている人がいますけど、そんなの(元々)信用できるわけがありませんから。医者(の場合で)もそうだと思うんです。だから、今はどうか分かりませんけど、いつか気が付いて、(患者の)いのちを預かるときになって、山本さんもお話されましたように、勉強するのは大事だということを思い出して、自分のために考えてもらえればいいなぁ、と思います。

今回、たまたまこういう形でやったわけなんですが、アンケートの中にもお書き下されば、今日お話できなかったこととか、興味がおありの方に、ホームペイジとか或いは印刷物とかを通して、連絡が取れると思います。

もう13年にもなりますが、アパルトヘイトが廃止される前の年に、この下の105(臨床講義室)で、南アフリカの作家をお呼びして講演会をしたとき、またやったらどうだって言われたんですが。もし、機会があれれば、誰かをお呼びしてまたやろうかな、と思っています。予定していた事が充分にはできなかったんですが、わざわざ足を運んで下さって、有り難うございました。

資料5-1 ホームページ「ノアと三太」

(画像掲載予定)

資料5-2 ホームページ「د انگریزی دایره(英語科)」

(画像掲載予定)

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 資料6

「エイズを主題とするアフリカ文学が描く人間性(さが)」

(画像掲載予定)

「2003 Research研究活動紹介 宮崎大学」(平成15年度版宮崎大学広報誌)2004年56ペイジ

ホームページでも公開しています。

http://tamada.med.miyazaki-u.ac.jp/tamada/works/essays/04-kenkyushokai.doc

宮崎大学における研究の成果等を、広く地域社会にPRするための広報誌(平成151年度版冊子)に収載され、大学のホームペイジにも掲載されている原稿です。

宮崎大学における研究活動紹介

研究助成種目 : 科学研究費補助金 基盤研究(C)(2)「一般」

研究代表者  : 医学部 教授 玉田吉行

交付金額   : 2500千円(平成15年~平成18年)

研究課題名  : 『英語によるアフリカ文学が映し出すエイズ問題-文学と医学の狭間に見える人間のさが』

研究の内容と展望 : [-エイズを主題とするアフリカ文学が描く人間の性(さが)-]

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英語によるアフリカ文学が「エイズ」をどう描いているのかを探りたいと思っています。「エイズ」を正面から取り上げている作品はまだ多くはありませんが、文学作品を通して、病気の爆発的な蔓延を防げない原因や、西洋的な価値観とアフリカ的な見方の軋櫟などを、明らかに出来ればと考えています。

社会や学校にいつも疎外感を感じながら生きてきましたので、疎外された状況下での自己意識について考えることが多かったのですが、同じような問題意識をもったアメリカ人作家リチャード・ライトの祖先の地として、たまたまアフリカについて考えるようになりました。その過程で、英語は侵略者の使っていた言葉で、侵略が形を変えて今も続いていると思い始めてから、妙な空間をうろつく羽目になりました。

昭和64年度に「1950-70年代の南アフリカ文学に反映された文化的・社会的状況の研究」で科学研究費をもらったのですが、今回の「エイズ」と「アフリカ文学」、前回の「アパルトヘイト」、どちらも国の政策や利害と深く関わりがあるようです。

授業でもアフリカを取り上げていますが、偏見や無知や傲慢には、人間としての恥ずかしさを覚えます。アフリカにもすぐれた文学があり、すてきな人がいるという当たり前のことを伝えるのは、妙な空間にはまり込んだ人間の務めかも知れません。

(http://tamada.med.miyazaki-u.ac.jp/tamada/)に書いたものを掲載しています。

(この研究を代表する著書・論文)

“AIDS epidemic” in Africa and Its Descendants 2 Neo-colonial Stage (Yokohama: Mondo Books) by TAMADA Yoshiyuki, 1998, pp. 51-58.

「アフリカとエイズ」、「ごんどわな」22号、2~13ページ、2000年。

“Ngugi wa Thiong’o, the writer in politics: his language choice and legacy,” Studies in Linguistic Expression, No. 19 (2003), pp. 12-21.

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資料7

アフリカ文学とエイズ

ケニア人の心の襞を映す『ナイス・ピープル』」

玉 田 吉 行

Mon-monde 創刊号(2005)(横浜:門土社)25~31ページ

ホームページでも公開しています。

http://tamada.med.miyazaki-u.ac.jp/tamada/works/africa/04esp-nicepeople.doc

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 アフリカ文学

ケニアの小説『ナイス・ピープル』(1992年)を感心しながら読みました。メジャー・ムアンギの『最後の疫病』(2000年)を読んだ時、エイズの問題が作家に咀嚼されてようやく小説になったかと思ったのですが、『ナイス・ピープル』は1992年に出版されていました。

欧米志向の強い日本では、アフリカに文学があることすら知られていないのが実状ですが、最初のエイズ患者が出た直後の社会状況と未知の感染症に振り回されるケニアの人々の心の襞を見事に描いています。

著者について詳しくは判りませんが、オーストラリアに留学中に目にした次の新聞記事がこの本を書く動機になったようです。

「著者の覚え書き

『ナイス・ピープル』でどうしても書いておきたかった1つに1987年6月1日付けの「シドニー・モーニング・ヘラルド」の切り抜きがあります。3年のち、ここでその記事を再現してみましょう。

ハーデン・ブレイン著「アフリカのエイズ 未曾有の大惨事となった危機」

(ナイロビ発)中央アフリカ、東アフリカでは人口の4分の1がHIVに感染している都市もあり、今や未曾有の大惨事と見なされています。

この致命的な病気は世界で最も貧しい大陸アフリカには特に厳しい脅威だと見られています。専門知識や技術を要する数の限られた専門家の間でもその病気が広がっていると思われるからです。

アフリカの保健機関の職員の間でも、アフリカ外の批評家たちの間でも、アフリカの何カ国かはエイズの流行で、ある意味、「国そのものがなくなってしまう」のではないかと言われています。

病気がますます広がって、既に深刻な専門職不足に更に拍車がかかり、このまま行けば、経済的に、政治的に、社会的に必ず混乱が起きることは誰もが認めています。

世界保健機構(WHO)によれば、エイズは他のどの地域よりもアフリカに打撃を与えています。今年度の研究では、ある都市では、研究者が驚くべき割合と記述するような率でエイズが広がり続けているというデータが出ています。

第3世界のエイズのデータを分析しているロンドン拠点のペイノス研究所の所長ティンカー氏は、「死という意味で言えば、アフリカのエイズ流行病は2年前のアフリカの飢饉と同じくらい深刻でしょう。

しかし、飢饉は比較的短期間の問題です。エイズは毎年、毎年続きます。」(『ナイス・ピープル』、Ⅶ~Ⅷペイジ)

医学部で英語の授業を担当し始めてから18年目になります。最近は、授業に使えないかな、科学研究費が取れるかな、という不純な動機で本を読むことが多くなりました。その点では、この本はうってつけだった訳です。特に3つの点に牽かれました。

1つ目は、エイズ患者が出始めたころの混乱した社会状況が描かれている貴重な歴史記録だという点です。

2つ目は、医者を含めた少数の金持ちに焦点が当てられ、新植民地時代の構図が分かり易く描かれている点です。

3つ目は、主人公の医者の目を通して小説が描かれている点です。大学卒業後すぐに私設の診療所で稼ぎながら国立病院で研修を受ける鷹揚な医療制度、未知のエイズ患者を隔離している特別病棟、売春が社会の必要悪で治療こそが最優先と結論づける卒業論文とその審査過程、売春婦などが通ってくる診療所での日々の診察風景、金持ちの末期エイズ患者に快楽を提供して稼ごうと目論むホスピス、雑誌の症例から判断して担当の患者をエイズと診断したことなど、これなら

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医学部の授業にも、科研用にも使える、と考えた訳です。作品を紹介しましょう。

1984―謎の疾病」

主人公ジョセフ・ムングチが、ナイジェリアのイバダン大学の医学部を1974年に卒業したあと、直ちにケニア中央病院で働き始めたという設定です。卒業論文のテーマに性感染症を選んだこともあって、先輩医師ギチンガの指導を受けながら、ギチンガ個人が経営する診療所で稼ぎながら勤務医を続けます。ギチンガは国立病院では扱えないような不法な堕胎手術などで稼ぎを得ていたようで、やがては告発されて刑務所に送られてしまいます。10年後、ギチンガから譲り受けた診療所で、ムングチは念願の売春婦などを相手にひとりで診療を継続します。

1984年、ムングチの元に、年老いたコンボと名乗る中国人がやってきます。「やあ、先生さんよ、わしは金持ちじゃよ。2万シリング持ってきた。わしのこの病気を治してくれる薬なら何でもいい、何とか探してくれんか」と言って、大金を残して去って行きます。法外な大金に戸惑いを見せますが、格安の料金で社会の底辺層を相手に性病の治療を続けるムングチには、断る理由もなく、謎の病気の正体を突き止めることになりました。最初は性病性リンパ肉芽腫かと思いますが、どうも違うようで、ケニア中央研究所の図書館に入り浸った2日目に、同年12月にアメリカで発行された以下の症例報告を見つけます。

あらゆる抗生物質に耐性を持つ重い皮膚病の症状を呈し、生殖器に疱疹が散見される。下痢、咳を伴い、大抵のリンパ節が腫れる。極く普通にみられる病気と闘う抵抗力が体にはないので、患者は痩せ衰えて死に至る。病気を引き起こすウィルスが中央アフリカのミドリザルを襲うウィルスと似ているので、ミドリザル病と呼ばれている。サンフランシスコの男性同性愛者が数人、その病気にかかっている。(『ナイス・ピープル』、140ペイジ)

老人の症状から判断して診断に確信を持たざるを得なかったのですが、元同僚の意見を求めます。ケニア中央病院の2人の医師は、未知のウィルスによって感染する新しい性感染症の診断に間違いはなく、既に同病院でも米国人2人、フィンランド人1人、ザイール人2人が同じ症状で死亡しており、3人のケニア人の末期患者が隔離病棟にいる、と教えてくれます。早速、隔離病棟に出向いたムングチは、改めて死にかけている老人の症状を目の当たりにします。

「私は調べた結果と比較して患者を見てみたかった。目的を説明すると、看護婦は3人が眠っているガラス張りの部屋に連れて行ってくれた。私達を怪訝そうに見つめる救いようのない3人を見つめながら、言いようのない侘びしさを感じた。その時、その老人が目に入った。私の患者、コンボ氏に違いなかった。口から泡を吹き、背を屈め、酷く苦しそうに繰り返し咳き込んでいた。渇いた咳は明らかに両肺を穿っていた。老人には私が誰かは判らなかったが、隔離病棟の柵を離れながら、後ろめたいほろ苦さを感じた。」(『ナイス・ピープル』、141)

患者コンボ氏は、実は以前ムングチの診療所を訪ねてきたルオ人女性の鼻を折った張本人で、ナイロビ市の清掃業を一手に引き受ける大金持ちでした。ルオ人の女性は清掃会社の就職面接でコンボ氏から裸になって歩き回るように命令されて抵抗した為に暴力をふるわれました。噂では、肛門性交嗜好家の異常な行動の犠牲者が他に何人もいたようです。ムングチは、コンボ氏の死に際の哀れな姿を思い浮かべながら、神が犠牲者たちに代わって蛮行への鉄槌を下されたに違いないと結論づけます。

元同僚のギチンガ医師は、「スリム病」と呼ばれるこの病気については既に知っており、唯一薬を提供出来るだろうと地方の療法師・呪術師を紹介してくれますが、実際の役には立ちませんでした。こうして、ムングチのエイズとの闘いが始まります。

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「ナイス・ピープル」

コンボ氏と同じように、ムングチも金持ちの階級に属しており、「ナイス・ピープル」とはそんな金持ち専用の次のような高級クラブに出入りする人たちのことです。

「ムングチも、今では、役所や大銀行や政府系の企業の会員たちが資金を出し合う唯一の「ケニア銀行家クラブ」の会員だった。クラブには、ナイロビの著名人リストに載っている人たちが大抵、特に木曜日毎に集まって来る。テニスコート5面、スカッシュコート3面、サウナにきれいなプールも完備されており、ナイロビの若者官僚たちの特に便利な恋の待合い場所になっている。(『ナイス・ピープル』、146ペイジ)

開発や援助の名の下に、西洋資本と手を携える現代のアフリカ社会は、一握りの金持ちと大多数の貧乏人で構成されています。資本を貯め込める中産階級が極端に少なく、その階級の大半は外国人で埋められています。病気の治療を担う側の医者や官僚などの専門職の人たちも多数、HIVに感染しており、その感染率の高さを作者は問題にしています。幼馴染みンデュクの愛人ブラウンもギチンガ医師の娘ムンビの愛人ブラックマンも、ムングチが高級クラブで出会った「ナイス・ピープル」です。

南アフリカからの入植者を祖父に持つブラウンは、高級住宅街に住む34歳の青年で、勤務する大手の銀行で秘書をしているンデュクと愛人関係にあり、ジャガーを乗り回し、一流のゴルフ場でゴルフを楽しんでいます。エイズを発症し、英国で治療を受けるために帰国しようとしますが、航空会社から搭乗を拒否されて失意のなかで死んでゆきます。

ブラックマンはモンバサの売春宿でムンビと出会い、常連客の一人となったフィンランド人の船長で、結果的には、2人の間に出来た子供を連れてヘルシンキまで押しかけてきたムンビを引き取ることになります。

高級住宅街に住むマインバ夫妻も「ナイス・ピープル」です。妻のユーニスは、ある日、額から夥しい血を流しながら病院に担ぎ込まれます。その傷が夫の暴力によるもので、のちに、夫とメイドとの浮気の現場を見て以来、精神的に不安定な症状が続いていることが判り、精神科の治療を受けるようになります。数ヶ月後、コンボ氏と同じように肛門性交を好む夫が、かかりつけの医者からHIV感染の疑いがあるので血液検査を薦められていると、ムングチに訴えにやって来ます。

性感染症専門医と性

ムングチの診療と日常生活が、性感染症の恐ろしさと感染対策の難しさに加えて、複数婚が続くケニア社会と今の日本社会との、性や売春行為に対する社会通念の違いを教えてくれます。

ムングチは、メアリとユーニスとムンビと、同時に関係を持ちます。幼馴染みのメアリとは高級クラブで再会し、ブラウンの愛人であることを承知で関係を持ち、一時は同居しています。アパートで鉢合わせになったブラウンと大げんかをして別れますが、ブラウンは後にエイズを発症して死んでいます。ユーニスはムングチが担当した患者です。性的な関係を持つようになり、中年マダムのお供をして週末毎に豪華な小旅行に出かけた時期もありますが、夫がHIV感染の可能性が高いと相談され、恐ろしくなって別れます。ムンビとは父親を訪ねて来たときに私設の診療所で出会ったのですが、モンバサで娼婦をしているのを承知で恋人関係になります。一時期同棲をして、子供を身ごもったことを告げられて結婚を決意しますが、生まれてきた子供はムングチの子供ではなく、売春宿の常連客ブラックマンの子供でした。ムンビは逃げるようにヘルシンキへ渡りますが、エイズを発症して死んでしまいます。

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おわりに

ムングチは、のちにエイズで死ぬ愛人を持つメアリと、HIVに感染したと思われる夫を持つユーニスと、異国の地でエイズを発症して死ぬムンビの3人と同時に性的な関係を持っていた訳です。売春行為を社会の必要悪と捉え、性感染症については治療を優先すべきで、社会の底辺層には国が無料で治療活動を行なう義務があるという趣旨の卒業論文を書きました。私設の診療所では、最低限の料金でその人たちの性感染症の治療に専念します。性感染症の怖さを充分に承知していたわけで、ムングチを始めとする「ナイス・ピープル」の性や売春に対する考え方を思い合わせれば、この小説の冒頭に載せられた「アフリカの何カ国かはエイズの流行で、ある意味、『国そのものがなくなってしまう』のではないか」という記事が、信憑性を帯びて迫って来ます。

南アフリカからの入植者によって侵略されたケニア社会は、かつての自給自足の豊かな農村社会ではありません。複数婚も乳児死亡率の高い中で子孫を確保したり、農作業や老人・子供の世話を分担する労働力を確保する、などの必要性から生み出された制度でしょうし、西洋社会が批判する割礼にしても共同体全体で次世代を育てるための教育の一環として生まれたものです。しかし、土地を奪われ、課税される農民と都市部で働かされる賃金労働者には、旧来の制度を踏襲し発展させる力はありません。割礼や複数婚の制度が残っていても、かつての共同体を基盤にして機能していた制度とは全くの別物なのです。大多数の農民や労働者は食うや食わずの生活を強いられ、国全体も、西洋資本と手を組む一握りの貴族やその取り巻きの豊かさと引き替えに、背負い切れない程の累積債務に喘いでいます。そこにHIVが猛威をふるい始めた訳です。2004年のCIAの推計では、ケニア全体の平均寿命は約45歳にまで落ち込んでいます。

ケニアをはじめとするアフリカ諸国の危機的なエイズ事情と、ケニアに援助して協力していると考える大半の日本人の意識との格差は、大き過ぎます。

第2次世界大戦後、欧米や日本は世界銀行や国連などを設立して、開発や援助の名の下に資本を提供して利子をとる新植民地方式に戦略を変えています。ケニアへのODAの予算の大半は日本の大手の建設会社が請け負い、日本の大手金融機関、造船会社、運輸会社、商社などを経て日本に還元する仕組みになっています。ケニアも重債務国ですが、ケニア政府は債務の帳消しには反対です。債務が帳消しになると一握りの貴族が困るからです。

日本政府は1993年から東京でアフリカ開発会議を東京で始めました。このエイズの深刻な事情が進めば、外交政策に支障をきたすのが予測出来るからでしょう。資本を提供する相手から利子を取ろうにも、エイズによって死者が増加すれば絞り取る相手の人口自体が減ってしまうのですから。

『ナイス・ピープル』を読んで、そんなことを考えました。

(たまだ・よしゆき、宮崎大学医学部英語科教員)

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資料8

医学部生とエイズ:南アフリカとエイズ治療薬

宮崎大学医学部 玉田吉行

「ESPの研究と実践」第4号(2005 年)61~69ペイジ

ホームページでも公開しています。

http://tamada.med.miyazaki-u.ac.jp/tamada/works/safrica/05esp.s.africa.aids.doc

Abstract

This paper aims to show how important it is for medical and nursing students in the ‘global age’ to understand the AIDS crisis in Africa, especially in Southern Africa, through the analysis of the relationship between South Africa and the AIDS drug issues.

The AIDS situation in Africa is now devastating, so we might easily understand from the data on life expectancy below that the ‘AIDS epidemic chokes the life out of Southern Africa.’1

The consciousness of medical and nursing students in Japan seems not to be ready to understand the harsh realities of the AIDS situation in a fundamental sense. But such students are in an advantageous position to be able to get an accurate grasp of the situation because they can understand the infection mechanisms of the disease. And Japan, as well as the ‘developed’ countries, is responsible for the neo-colonial system imposed under the guise of ‘aid’ and ‘development’ which has been one of the main causes of poverty and ignorance in Africa. For we cannot deny the fact that we are on the side of the robber and, consciously or unconsciously, have benefited from the present system.

It has been a long time since the relationship between intellectual property and the WTO on the AIDS drug issue was discussed, but the realities of the disease remain primarily unchanged, perhaps having become even worse.

The AIDS crisis is a global issue that we are facing and cannot avoid, especially medical and

p. 105

nursing students. I hope this paper might motivate them to think about AIDS issues more deeply as something connected to their own lives.

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南部アフリカとエイズ

アフリカのエイズの惨状が報じられるようになってから久しいが、事態は改善されず、むしろ悪化している。ほぼ10年前に、イギリスの日刊紙インディペンダントはジンバブエの報告記事で、エイズ流行病が、かつてイギリス人入植者が北方向に切り開いて築き上げた幹線道路を反対方向に辿る形で、1980年代の初め頃から南下し始めてジンバブエに至ったことや、次の標的が南アフリカであること、その当時約55歳だったジンバブエの平均寿命が2010年までには40歳以下に落ち込むことなどを予測した。2

インターネット上に公開されているCIA – The World Fact Book3 によると、事態はその予測をも上回っている。下の表は、その資料から、主な南部アフリカ諸国と「先進国」の平均寿命、成人のHIV感染率を抜き出したものである。(平均寿命は2004年の推計、感染率は2003年の推計、ジンバブエ、イギリス、ドイツ、ロシアの感染率は2001年の推計である)

国名                      全体平均寿命       成人HIV感染率 (%)

南アフリカ              44.19                21.5

ジンバブエ              37.82                33.7

ザンビア                 35.18                16.5

ボツワナ                 30.76                37.3

モザンビーク           37.10                12.2

マラウィ                 37.48                14.2

ナミビア                  40.53               21.3

アンゴラ                  36.70               3.9

アメリカ合衆国         77.43               0.6

イギリス                  78.27               0.1

フランス                  79.44               0.4

ドイツ                     78.54               0.1

カナダ                     79.96               0.3

ロシア                     66.39               0.9

日本                       81.04                0.1 以下

昨年末に、ドイツ在住の疫学研究 (Epidemiology) の最前線にいる研究者から、ホームペイジ上に載せているエイズ関連の私の文章についての感想を述べたメイルが届いたが、そのメイルには「実際にかつてイギリスの直接支配を受けたアフリカ諸国のHIV/AIDS事情は最悪で、疫学的見地から見れば、特にマラウィと南アフリカは未曾有の人口の激減に直面しており、最貧国(多分、マラウィかコンゴ)は二十年以内に倒壊すると思われます」、4 と書かれてあった。

大半がアフリカに文学があることも知らない日本の医学部の学生が5、この深刻な状況をどこまで理解出来るかは心許ないが、日本が、「開発」や「援助」の名の下に、国連や世界銀行などで維持をはかる体制(新植民地体制)の上に「繁栄」を続ける「先進国」の一つである限りは、人ごとで済ますわけにはいかない。新植民地政策の名の下に金を貸して利子を取る現行のシステムを継続させようにも、エイズによる人口激減により、やがてはそれもかなわず、例外なく「先進国」は早晩の構造変革を迫られているのだから。

しかし、医学部の学生はHIVの複製や免疫不全の仕組み、それに性感染症の怖さを誰よりも理解出来る立場にいる。だからこそ、その有利な立場からエイズ事情の深刻さを理解して、何らかの形で状況の改善に寄与すべき責任がある、とエイズの問題を医学部の英語の授業で取り上げながら、考えるようになった。

今回は、南部アフリカとエイズ治療薬をめぐる問題に焦点を絞ろうと思う。

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「アフリカの蹄」

NHKドラマ「アフリカの蹄」6 の中で、主人公の日本人医師作田信がスラムの診療所で反政府活動家のアフリカ人青年ネオ・タウに突然殴られる場面があるが、残念ながら、その青年の微妙な心理を読み取れる日本人はそう多くないだろう。

その時の作田とネオの認識は、どう違っていたのか。

作田は大学の上司とそりが合わずに「心臓移植の研修」の名目で、偶々南アフリカに飛ばされた優秀な心臓外科医だが、南アフリカについての知識は、一般の日本人と大差はなく、動物の保護区や豪華なゴルフ場、ケープタウンやダーバンなどの風光明媚な観光地、世界一豪華な寝台列車くらいで、作田にとっての南アフリカは、「日本から遠く離れた、アパルトヘイトに苦しむ可哀想な国」にしか過ぎなかった。

しかし、ネオにとっての日本は違う。日本は、1960年のシャープヴィルの虐殺以来、アパルトヘイト政権を支えてアフリカ人を苦しめ、貿易で莫大な利益を得てきた経済最優先の国であり、その日本からやって来た作田は、貿易の見返りに「居住区に関する限り白人並みの扱いを受ける」恥知らずな日本人だった。

世界の経済制裁の流れに逆行して1960年に「国交の再開と大使館の新設」を約束した日本政府は、翌年には通商条約を結び、以来、先端技術 (ハイテク) 産業や軍需産業には不可欠なクロム、マンガン、モリブデン、バナジウムなどの希少金属やその他の貿易品から多くの利益を得てきた。石原慎太郎が旗を振った「日本・南アフリカ友好議員連盟」や、大企業の「南部アフリカ貿易懇話会」などに支援されて、日本は1988年には最大の貿易相手国となり、国連総会でも名指しで非難されている。

当初、作田にもその理由はわからなかったが、ネオが本当に殴りつけたかった正体は、南アフリカと深く関わり利益を貪りながら、加害者意識のかけらも持ち合わせない一般の日本人とその自己意識で、ネオには、作田もそんな日本人に他ならなかった。

では、日本が支援し利益を貪ったアパルトヘイト体制の実体とは何だったか。

出稼ぎ労働

アパルトヘイト体制は、紛れもなくヨーロッパからの入植者が編み出した一大搾取機構であり、その根幹は、土地政策と、17世紀の半ば頃にやってきたオランダ人と遅れて移住して来たイギリス人が考え出した南部アフリカを中心とした出稼ぎ労働制度 (migrant labour system) にある。その制度は、1505年のキルワの虐殺のような一時的な略奪ではなく、アフリカ人から土地を奪って課税をし、大量の安価な労働者を生み出すことによって、恒久的な搾取体制を目論んだヨーロッパ人入植者が、永年に渡って築き上げたものである。土地を奪われて無産者となったアフリカ人は、税金を払うための現金収入を求めて村を離れ、鉱山や農場の賃金労働者として、或いは白人家庭の召使いとして、家族を支えるには不充分な賃金で働くことを余儀なくされた。

入植当初、南アフリカはインドへの中継地でしかなかったが、19世紀の後半に金とダイヤモンドが発見されてから、産業的にも軍事的にも重要な拠点となった。オランダ系入植者とイギリス系入植者は金とダイヤモンドの利権をめぐって戦争を繰り広げたが、アフリカ人を搾取するという妥協点を見つけ出し、1910年に「南アフリカ連邦」を設立した。国家設立と言っても、既に築き上げていた支配体制を法制化しただけに過ぎず、1913年に原住民土地法を制定し、人口の75 % 強のアフリカ人を全土の僅か7.3 % の不毛の土地「リザーブ」に押し込め、必要な労働力だけを白人の近くに住まわせた。アフリカ人は通行証(パス)を持たされ、行動の自由を奪われた。その後、「リサーブ」は「バンツースタン」、「ホームランド」と名前が変わったが実体は同じである。ホームランド政策では、アフリカ人は「外国人」の扱いを受け、パスは文字通り、国家が管理するパスポートになった。

アパルトヘイト体制が出来たのは1948年である。2つの大戦で白人の総体的な力が低下した第2次大戦直後、世界各地で差別撤廃や地位向上の運動が展開された。南アフリカでもアフリカ民

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族会議 (ANC) の青年同盟が中心となり、盛んにストライキなどを行なって賃上げを要求した。イギリス系の統一党に変わって、1948年の白人だけの総選挙では、人種差別を前面に掲げ、白人の特権を保証することをうたうアフリカーナー(オランダ系)の国民党が政権を取った。白人(総人口の15%)の60%を占めるアフリカーナーの大半が、台頭するアフリカ人労働者にその地位を脅かされ社会の低辺層に沈みつつある自分達を救ってくれる唯一の道だと信じて国民党に投票したからである。国民党は、法律で人種による賃金格差をつけ、アフリカ人を技術を要する仕事 (skilled labour) 、つまり給料の高い仕事には就かせなかったのである。

インドの独立、エジプトのスエズ運河封鎖、ガーナの独立などの動きに刺激を受けて、1950年代、南アフリカでも抵抗運動は激しくなった。ヨーロッパ勢力の復興が少し遅れ、アフリカ人側が分裂していなければ、ヨーロッパ支配を覆す歴史の分岐点になっていたかも知れない。しかし、そうはならなかった。アフリカ人自身による戦いの路線を掲げた理想主義的なロバート・ソブクエと、融和路線を取るネルソン・マンデラが衝突して、ANCが分裂したからである。

その歴史の分岐点で、西ドイツと日本は、アパルトヘイト政権に荷担した。作田に対してネオが取った行動には、そんな歴史的な背景が潜んでいたのである。

ソブクエは1960年から、マンデラは1962年から監禁され続け、欧米と日本の支援を受けたアパルトヘイト政権は、体制を強化していった。不要なアフリカ人はバンツースタンに閉じこめ、使用可能な労働力は、安価な賃金労働者として、鉱山や農場や白人家庭で扱き使ったのである。

鉱山労働者の実態を、鉱山労組書記長ラマフォサ氏は1989年に放映された「ニュースステーション」の中で、次のように解説している。

この国では、ダイヤモンドと金の発見以来百年以上も、鉱山会社は安価な労働力を使って来ました。ずっと、黒人労働者を使ってきました。会社は家族を充分に養っていけないほど安い賃金しか払わずに、ずっと黒人労働者を搾取してきました。現在、白人労働者は、黒人が稼ぐ6倍もの給料を稼いでいます。しかも、南アフリカの鉱山は世界一危険で、毎年800人もの犠牲者が出ています。家を離れ、鉱山にやって来なければならない黒人労働者は、丸1年の間、家族とは会えません。白人は鉱山の近くで家族と暮らせますが、黒人労働者は鉱山の近くで家族と暮らすことを法律上許されていません。年に一度、配偶者に会う場合でも、会えるのは僅か2週間にしか過ぎません。7

鉱物資源の豊かな南部アフリカでは、村を離れて集まったアフリカ人労働者は、鉱山の近くの粗末な「コンパウンド」と呼ばれるたこ部屋に、(1回の契約期間は、パートタイムとしては一番効率のいいと言われる14ヶ月)一年近く寝泊まりをする。

安価な賃金労働者が扱き使われるという点では、アフリカ大陸のどこへ行っても基本的には同じである。1992年に在外研究で訪れたジンバブエでも同じだった。

不動産事情は極めて悪いと言われていが、運よくスイス人の老婆から月額10万円の家賃で家を借りた。500坪ほどの敷地があったが、老婆に「ガーデンボーイ」として雇われていたショナ人ガリカーイ・モヨさん(通称ゲイリー)が北の小さな部屋に寝泊まりしていた。すぐ仲良しになった。月給が4000円余り、1年の大半は家族と離れて暮らしていた。休みに入ってゲイリーの子供たちが来て、私の子供たちとボールを蹴って遊んだが、その値段が1個5000円ほどだった。

イギリス人入植者がハラレに来たのは1880年代の後半で、目的は金だった。ケープ植民地相セシル・ローズは、現ジョハネスバーグに次ぐ第2の金鉱脈を夢見て、私設の軍隊を送りこんだ。豊かな鉱脈は見つからなかったが軍隊は立ち去らず、アフリカ人から土地と家畜を奪って居座り続けた。後に大量の移住者が流れこむようになる。1920年代に南アフリカとの合併を拒んだが、安価なアフリカ人労働力、豊かな鉱物資源などによって、南ローデシア(現ジンバブエ)は第2次大戦を境に一大工業国になっていた。その後60年代には、イギリス政府の意向を無視して独自の路線を歩む。1966年にはソ連と中国の支援を受けて独立闘争を始め、経済を欧米や日本に依存したまま、1980年に独立を果たして現在に至っている。

ハラレで出会ったゲイリーも父親も、白人の貨幣経済の渦中に投げこまれ、現金収入を得るた

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めに村を離れることを余儀なくされた、典型的な安価なアフリカ人賃金労働者だったのである。

この出稼ぎ労働制度が、エイズの温床になっている。HIV感染率が南部アフリカで特に高いのも、その制度が感染拡大の大きな要因になっているからである。1年近く男ばかりが住むコンパウンドに、そのおこぼれに与るために売春婦が通う。そこで感染した男性労働者が、期間が過ぎて村に戻り、その配偶者に感染させる。先に引用したジンバブエの記事は「たいていの女性にとって、HIV感染の主な危険要因は、結婚していることである」8 と報告している。

平均寿命36歳(当時の推計)のボツワナで、「コンパウンド」でHIVに感染した短期契約の鉱山労働者が帰郷後配偶者に感染させて死亡、残されて途方に暮れる配偶者を現地取材する映像が放映された。9

エイズ治療薬をめぐって

NHKスペシャル「アフリカ21世紀 隔離された人々 引き裂かれた大地 ~南ア・ジンバブエ」では、南アフリカのエイズの現状が次のように報告されている。

この国を直撃しているエイズは、アパルトヘイトと深い関係があると言われます。現在、エイズ感染者は500万人、6人に1人、ここソウェトでは3人に1人が感染しています。アパルトヘイト時代、鉱山で隔離され、働かされていた単身者が、先ず、売買春によって感染し、自由になった今、パートナーに感染を広げているのです。10

番組では、月に1度、国立病院に薬をもらいにくる末期のエイズ患者が紹介されている。その女性患者が手にしたのはエイズ治療薬ではなく、抗生剤とビタミン剤だけだった。ウィルスの増殖を防ぐ抗HIV薬は1人当たり100万円で、その年の末に、南アフリカは欧米の製薬会社と交渉して10分の1の価格で輸入出来るようにはなったが、薬の費用を政府が負担する国立病院では、感染者があまりにも多すぎて薬代を政府が賄うことが出来なかったからである。感染者すべてに薬を配るとすれば、年間6000億円が必要で、国家予算の3分の1を当てなければならない、と報告している。

従来の逆転写酵素阻害剤と、新たに開発されたプロテアーゼ阻害剤とを組み合わせる多剤療法により1996年は「エイズ治療元年」11 と言われたが、1998年にウィーンで開かれた世界エイズ会議では、多剤療法の副作用の症例報告や、ワクチンの開発がむしろ後退している現状報告に、会場は重い空気に包まれた。更に、2000年の会議開催国南アフリカから出席していたダーバンの医師が「ダーバンの大きな黒人用の病院で治療にあたる子供たちの40パーセントがエイズ患者ですが、今まで私は抗HIV薬を使ったことはありません。病院には治療薬を使う経済的な余裕はありませんから」と付け加えて、アフリカの厳しい現状を参加者に突き付けた。12「アフリカ21世紀」の映像は、この医師の発言を裏打ちする形で、私たちに迫って来ている。

1999年の夏、アメリカの副大統領ゴアと通商代表部が、南アフリカ政府が1997年に成立させた「コンパルソリー・ライセンス」法を改正するか破棄するように求めて物議をかもした。13 感染者が抗HIV薬の恩恵を受け易いように、安価な供給を保証するために提案された同法の下では、南アフリカ国内の製薬会社は、特許使用の権利取得者に一定の特許料を払うだけで、より安価な薬を生産する免許が厚生大臣から与えられる(その法律には、他国の製薬会社が安価な薬を提供できる場合は、それを自由に輸入することを許可するという条項も含まれる)が、ゴアや欧米製薬会社は、開発者の利益を守るべき特許権を侵害する南アフリカのやり方が、世界貿易機関(WTO)の貿易関連知的財産権協定 (TRIP’s Agreement) 14  に違反していると主張したのである。しかし、その協定自体が、国家的な危機や特に緊急な場合に、コンパルソリー・ライセンスを認めており、エイズの状況が「国家的な危機や特に緊急な場合」に当らないと実質的に主張したゴアが、集中砲火を浴びたのである。

「アフリカ21世紀」にも映し出されたように、「10分の1の価格で輸入出来るように」なっても、抗HIV薬がたいていは患者の手元に届かないのに、欧米の製薬会社は「知的財産所有権の保

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護」を楯に、その決定の時期を延ばしに延ばした。欧米の製薬会社と世界貿易機関 (WTO) の間で交渉に尽力した世界保健機構 (WHO) のベラスカ医師は命を狙われる妨害を受けている。1999年のシアトルでの会議の成果も反故にされ、2001年10月、回を重ねてやっとこぎ着けた最終妥協案も、アメリカとスイスが拒否したために成立しなかった。15 会議を重ねて合意はしても、履行しないまま時間稼ぎをしていたのである。その辺りの事情が、『アフリカの蹄』の続編として2004年に出版された『アフリカの瞳』の中に詳しく描かれている。抗HIV薬をめぐる経過を、南アフリカ国内から見た点が特に興味深い。

『アフリカの瞳』

『アフリカの蹄』で天然痘の拡大を防ぐのに命を懸けた医師作田が、結婚したパメラやスラムの診療所の医師サミュエルや細菌学者のジュリアン・レフと協力して、ダーリー市で開かれたエイズ学会で、欧米の製薬会社の横暴と、その製薬会社と結託する政府の無策を告発したあとの次の一節である。

こうした動きとは別に、フランスの〈ル・モンド〉が日曜版の特集で、製薬会社がエイズ治療薬の知的所有権をいかに主張してきたかを詳細に報道した。ひと月前のことだ。製薬会社はこの十数年、ひとつのエイズ治療薬の開発費が最低でも三億ドルから十億ドルにのぼるのを理由に、知的所有権を譲れないと強調し続けてきた。貧しい開発途上国が、価格の大幅値引きとコピー薬の製造あるいは輸入の許可を世界貿易機関に訴えても、毎回否決され続けた。今ではエイズ治療には多剤併用が中心なので、ひとりの患者が一年間に使う薬剤費は平均して五千ドルから一万ドルだ。それは開発途上国の一人あたりの年収の十倍から二十倍に相当する。つまり現在の薬価を十分の一に下げたところで、貧しい国の患者には手の届く額ではない。それなのに、世界貿易機関は去年の八月、いかにも大英断のような顔をして、コピー薬の製造認可と、正規薬の薬価の十分の一での輸入を認めた。しかしこれは全くの御為ごかしであり、貧しい国の患者の救済にはほど遠い。〈ル・モンド〉の記事内容を翻訳紹介した英字新聞を読んだとき、作田はこれまでの自分の主張がそのままそっくり認められたような気がした。ところが記事は、さらに二歩も三歩も踏み込んだ論調を繰り広げていたのだ。記者たちは、エイズ治療薬によって得た各社のこれまでの利益を細かく計算して、具体的な数字を出していた。それによれば、十数年前に発売されたエイズ治療薬による収益は既に開発費の七、八倍に達し、開発途上国での価格を現在の千分の一に下げても、充分採算がとれていた。16

製薬会社が時間稼ぎをして暴利を貪っていた絡繰りが手に取るようにわかる。作田は、安価な偽薬抗HIV薬ヴィロディンを5年間も販売し続けた南アフリカ政府の無策を次のように締めくくる。

これまで、欧米の製薬会社は知的所有権を楯にして、治療薬の価格を下げようとしませんでした。多くのHIV感染者・エイズ患者が貧困の中であえいでいるのを知りながら、買えるものなら買ってみろと、高い治療薬を私たちの前でちらつかせる態度をとり続けてきました。ある国がたまりかねてコピー薬を作り、安く国民に配布しようとしたのにも反対し、世界貿易機関に訴えてやめさせる暴挙さえしました。これが破棄されたのは、世界の良識ある人々の抗議によるものです。昨年夏ようやく、発展途上国は特別割引価格で薬の提供を受けられるようになりました。しかしそれでも、価格はヴィロディンより高いのです。

私は人類の英知として、特定の国、つまりHIV感染が蔓延している国では、治療薬を無料にすべきだと訴えたいのです。無料化の財源は世界規模で考えれば、どこかにあるはずです。戦争が仕掛けられ、数百億ドルの戦費がただ破壊のためだけに空しく費やされています。その何分の一かの費用を、エイズに対する戦いにあてれば、私たちは確実に勝てるのです。

この国の政府はヴィロディンに頼り過ぎて、まだ何ら効果的なエイズ対策を打ち出していま

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せん。コピー薬の製造が可能になって半年は経過するというのに、政府が製造を開始したという話もきかないし、輸入したという情報もありません。私たちが訴えるべきなのは、ヴィロディンの製造販売の即時中止と、本物のコピー薬の製造と輸入です。そして無料配布に向けて、私たちの声を全世界に高らかに響かせることです。これこそ、大統領が唱えるアフリカン・ルネッサンスの実現なのです。17

南アフリカ政府の無策については、「アフリカ21世紀」の中でも、バラグァナ病院のグレンダ・グレイ医師が次のように痛烈に批判している。

アパルトヘイト政府は、エイズに何の手も打ちませんでした。黒人の病気だからと切り捨てたからです。新しい黒人政府も、対策を講じない点では同罪です。感染の拡大は止まりません。これはもう、大量虐殺です。

医療に携わる人間として

アフリカ人の安価な労働力を基盤にしたアパルトヘイト体制から利益を貪ったのはヨーロッパ人入植者の子孫だけではなく、その体制に荷担した欧米や日本である。南アフリカで戦争が起きれば、社会主義国家の後押しを受けて国土は灰燼に帰す可能性もあった。東西冷戦も終了したあと、その戦争を回避するためにネルソン・マンデラが釈放され、アパルトヘイトが廃止された。しかし、アフリカ人労働力を基盤とする基本的な搾取機構は温存されたままで、それが政府の無策の最大の原因である。

「南アフリカとエイズ治療薬」を通じて浮き彫りにされるのは、南アフリカや日本といった国の枠をはるかに超えた余りにも大きな問題である。感染力が弱く、精液や血液によって伝播されるHIVの性質やそのメカニズムを知れば、予防が可能だと思えそうだが、現実には、感染は拡大し続けている。

その現状認識は必要である。「アフリカに文学があることも知らない」や「ODAを通じてアフリカに支援している」では、国際的な相互理解はかなわない。現状を認識した上で、出来ることはある。作田医師が言うように、「世界の良識ある人々」の一員にもなれるし、「無料化の財源」への協力も可能である。日本国内でも、アパルトヘイト政権を積極的に支持した石原慎太郎に反対票を投じることも出来る。医者や看護師になれば、上昇しつつあるHIV感染率を下げる手助けも出来るはずである。

歴史認識を踏まえ、専門的な知識を再認識しながら出来るところからやって行く、それが将来は人の生き死に携わる医療人としての、また、最高学府に学ぶ知識人としての務めだろう。

1 Karl Maier, 「エイズ流行病、南部アフリカの息の根を止める」“Aids epidemic chokes the life out of Southern Africa,” Independent (July 30, 1995)

2 同上のKarl Maierの記事。

3 URL: http://www.cia.gov/cia/publications/factbook/index.html

4 “….I agree the biggest importance is to feel and struggle in the real field. Although I’ve not been to South Africa, once I’ve helped the work of my friend in Zimbabwe. In these British African countries of your interests, we see the worst situation of HIV/AIDS. From the epidemiologic point of view, South Africa and Malawi are experiencing even the demographic impact (population loss) due to AIDS. I guess some of the least developed countries (maybe Congo or Malawi) will be collapsed because of AIDS epidemic within 20 years.” A private e-mail (December 21, 2004) from Dr. Hiroshi Nishiura, one of the graduates of Miyazaki Medical College.

5  2004年度担当の新入生にアンケートを行なったところ、アフリカに関心を持つ学生が少なからずいたが、ほとんどの学生はアフリカ文学については知らなかった。

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「アフリカに関心がありますか。」の問いに、(医学科97名)1. 非常に関心がある。(13名)、2. まずまず関心がある。(39名)、3. どちらとも言えない。(28名)、4. あまり関心がない。(10名)、5. 全く関心がない。(7名) (農学部51名) 1. 非常に関心がある。(3名)、 2. まずまず関心がある。(23名)、 3. どちらとも言えない。(19名)、 4. あまり関心がない。(6名)、 5. 全く関心がない。(0)

「アフリカ文学を知っていますか。」の問いに、(医学科97名) 1. よく知っている。(0)、 2. まずまず知っている。(1名)、 3. あまり知らない。(12名)、 4. 全く知らない。(74名)、 5. アフリカに文学があったことも知らない。(10名) (農学部51名) 1. よく知っている。(0)、 2. まずまず知っている。(0)、 3. あまり知らない。(14名)、 4. 全く知らない。(34名)、 5. アフリカに文学があったことも知らない。(3名)との解答を得た。アンケートは初回に無記名で行なった。

6 2003年2月25日(NHK総合)放映。帚木蓬生の同名小説原作、矢島正雄脚本、大沢たかお主演のドラマ。「心臓移植の研修」の名目で南アフリカに飛ばされた医師作田信が、偶々少年を助けたきっかけでスラムに出入りするようになり、極右翼グループが画策する天然痘によるアフリカ人殲滅作戦に巻き込まれるが、アフリカ人医師のサミュエルや恋人パメラたちと協力して、その陰謀を阻止する、という話である。原作でも映画でも、南アフリカの実名は出ていない。

7 「白いアフリカ 南アフリカ共和国 緊急報告 アパルトヘイトは変わったかー」、朝日放送「ニュースステーション」(1989年9月23日、24日)

8 同上のKarl Maierの記事。

9 NHKスペシャル「エイズ・世界はどう立ち向かうべきか」(2003年12月1日NHK総合テレビ)

10 NHKスペッシャル「アフリカ21世紀 隔離された人々 引き裂かれた大地 ~南ア・ジンバブエ」(2002年2月20日)

11鍛冶信太郎「新薬承認で迎える『エイズ治療元年』 高い薬代の軽減急げ」、朝日新聞(1997年3月20日)

12 Lawrence K. Altman, “World AIDS Conference Ends Pessimistically, With No Cure in Sight,” International Herald Tribune (July 6, 1998)

13 “Gore’s humanitarianism loses out to strong-arm tactics,” Nature (July 1, 1999) 及び、池内了「エイズが問う『政治の良心』 南ア特許法に米が反発」、「朝日新聞」(1999年8月6日)

14 TRIP’s はthe Trade-Related Intellectual Property Rights (Agreement) の略。抗HIV薬の場合、1994年から最低20年間の権利を保障されるという合意があった。

15 アルテフランスCAPA製作「“Profits or People” (HIV感染症治療薬 コピー薬普及への戦い)」(2003年、英語・日本語2ヶ国語放送)、NHK衛星第1プライムタイム(2004年12月29日再放送、)

16 帚木蓬生『アフリカの瞳』、講談社(2004年)、411-412ペイジ。『アフリカの蹄』の続編小説。

17 『アフリカの瞳』、398-399ペイジ。

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資料9

(1992年・ハラレ)

ジンバブエ滞在記 2  玉 田 吉 行

買い物と自転車

Mon-monde 創刊号(2005)(横浜:門土社)25~31ページ

ホームページでも公開しています。

http://tamada.med.miyazaki-u.ac.jp/tamada/works/africa/06harare_2.doc

1992年に家族と一緒にジンバブエの首都ハラレで暮らした2ヶ月半の滞在記の1部です。今回は生活を始めた頃の、買い物と自転車の話です。

買物

日本では何のこともない買い物もハラレではなかなかの大仕事でした。車に乗るのは金持ち、歩くのは貧乏人という白人街では、前篭一杯に買いこんだ食料品を乗せて自転車を走らせる外国人の姿は珍しかったようです。

2日目、家から一番近くのショッピング・センターに食料の買い出しに出かけました。辺りの見物も兼ねて、四人は地図をたよりに出発しました。地図で見ると1キロほどの距離でしたが、乾燥して道が埃っぽいうえ、車も猛スピードで走りますし、道路を渡るのも命懸けに思えました。野菜に果物、牛乳に卵やジュースのほか、当座の日用品や文具からパンやドーナツまでたくさん買い込みましたので荷物も重く、随分と遠くまで出かけたような気がしました。

量や形が違いますので、単純に日本と比較は出来ませんが、野菜や果物、肉や卵やパンなどの生活必需品は大体半分から3分の1程度の値段のようです。例えば、この日買った英国風のパン

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は、日本のトースト用のパン2斤くらいの大きさですが、3ドル(80円)足らずです。選べば1ドルから2ドルくらいのパンもありました。ビールは小瓶よりやや小さめですが、2ドル(50円)足らず、それも半分は瓶代ですから、1本が30円ほどです。日本より大きめの瓶に入ったコーラ類も1ドル(25円)以下で、ビールよりも安いようです。その時は気づきませんでしたが、空港で飲んだ飲み物の領収書を見ますと、スプライト類2本で1ドル90セント(50円足らず)、紅茶2杯3ドル20セント計5ドル10セント(130円ほど)でした。

吉國さんが手紙の中で「衣類から靴まで大体のものはそろいます。物価は国産のものなら日本の半分くらい、輸入『贅沢』品なら日本の2倍ぐらいでしょうか。為替レートの関係で、ジンバブエ人は物価高騰に苦しんでいますが、外人(外貨所持者)は安い、安いと左うちわの生活です」と教えて下さった通りでした。ただ、パンなどの必需品が僅か2ヵ月半の間に目に見えて値上がりしましたが、こんなに物価が高騰して、ハラレの人は一体これからどうやって暮らしていくのだろうかと不安になりました。ゲイリーも、先月と同じ値段では買えないとしきりに嘆いていました。

タオルや文房具類は、日本と同じか高めのようでした。品物は粗悪なものが多く、特に紙の質はひどかったと思います。厚手の紙に包んで出した小包は、日本の税関で再包装され、透明のナイロンに包まれて届けられていました。再包装されていない場合でも、破れて中身の見えていないものはなかったように思います。紙が長い旅に耐えられなかったわけです。

後日、家の中で履くスリッパを2足買いましたが、底が質の悪いゴムと木で出来たスリッパは、3日もしないうちにひび割れてしまい、使いものになりませんでした。それでも1足53ドル(1300円ほど)でした。

5日目に、近くの国立植物園まで4人でスケッチに出かけました。広い敷地で、小学校と違ってフェンスもなく、入り口には次のような掲示がありました。

「当公園は、日の出から日没後半時間まで開園しています」

殺伐とした都会の生活の中で忘れかけている何かが残っているようで、何だか嬉しくなりました。無料で入れる園内の花には期待が持てませんでしたが、それでも所々に鮮やかな熱帯系の大きな花が咲いていました。

自転車

ゲイリーの1月の給料が170ドル(約4300百円)ですから、中古にしろ2万円足らずの自転車は、乗り捨てられた自転車が駅などに溢れかえっている日本とは違って、貴重品です。

4日目に中古の自転車が2台届いて、行動範囲が広がりました。植物園に出かけたあと、2台の自転車にそれぞれ2人乗りして、4キロほど離れたショッピング・センターに買い出しに行きました。自転車の性能が悪く、ペダルを踏んでも踏んでもなかなか進みません。サドルも高く、帰り道は登り坂、後に子供、前に荷物、まさに「捨てきれない荷物のおもさまへうしろ」でした。

予想通り、自転車は故障しました。ある日、いざ出発と家を出たとたんに、荷台から長女が転げ落ちてしまいました。大事に至らなかったのが幸いでしたが、突然のことでびっくりしてしまいました。見ると、荷台の止め金が2本とも外れています。初めから止め金がついていなかったのです。

長女が落ちたのは大きい方の自転車からですが、その自転車、今度はある日突然道の真ん中でペダルが空回りしてしまいました。どうやら右のペダルの根元の止め金が取れてしまっているようでした。家までまだ3キロほど残っていましたので、仕方なく、左側片方のペダルで漕いで帰るはめになりました。坂道制覇を挑んでみましたが、片足では登り切れませんでした。帰ってゲイリーに話しますと、その部品なら近くに売っていますよと言って、買ってきてくれました。さっそくペダルと車軸とを貫く小さな穴にその止め金をハンマーで打ち込んでみましたが、少し大き目だったようで半分程しか入りませんでした。しかし、こんな部品が走っている間に取れたりするものでしょうか。それでも応急処置で何とか走るようにはなりました。日本に帰ってからその部分を調べてみましたら、止め金が中心に向かって車軸の方向に埋め込まれていました。これ

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なら、外れる心配も要りません。

子供用の自転車の方も、ある日ショッピング・センターから少し離れた所で、ぶしゅっと音を立てて空気が抜けてタイヤが裂けてしまいました。今回は3キロの道のりを押して帰るしかありませんでした。

幸い前輪でしたので取り外し、タクシーを呼んで、購入したマニカ・サイクルまで持って行きました。領収書を見せて事情を説明しましたら、すんなり新しいのと取り替えてくれましたが、初めから新しいのを着けてくれれば良かったのにと恨めしく思いました。

自転車での買い物は、瀟洒な白人街では珍しかったようです。すれ違うアフリカ人とは、ゲイリーに教えてもらったショナ語での挨拶を交わしましたが、大抵は温かい笑顔が返ってきました。時々、ショナ語で会話を続けられて、喋られずに謝る場面もありましたが、冷やかさは感じませんでした。ただ、篭の荷物を指差して、その食べ物を分けてくれませんかとか、バス代をくれませんかとか、突然話しかけられるのには閉口しました。しつこくという風でもなく、やんわり断わるとまるで何もなかったように去っては行きましたが。

自転車の篭に乗せて中身が見える形で、買物した品物を大量に運ぶ状況はないようでした。スーパーで買物出来る白人や一部の金持ちのアフリカ人は、車のトランクに乗せて荷物を運ぶからです。ほとんどのアフリカ人は、時には唐もろこしの粉の大きな袋を担いだりもしますが、パンとかマーガリンとか砂糖とかの単品を入れた小さな袋をもっているだけです。

前と後ろに買物した荷物を乗せて自転車を走らせるのも、そのうち心苦しくなってきましたが、毎回タクシーを呼ぶわけにもいかず、最後まで自転車での買い物が続きました。

白人街のスーパーでは、アフリカ人の店員が荷物を運び白人が僅かなチップを渡す、それが当たり前の光景のようでしたが、どうしても馴染めませんでした。アフリカ人の店員は当然のように荷物を運ぼうとしますが、断るのが大変でした。断るのにチップを払ったりしましたが、息苦しい思いが先に立ちました。

セカンド・ストリートのスーパーでは、こちらが断わるのに、松葉杖の老人が私たちの自転車の所まで買物のカートを押していこうとするので、結局、なにがしかのチップを出すはめになりました。悪いことをしているわけでもないのに、それ以降はその老人に見つからないようにと気を遣わざるを得ませんでした。目につかないようにと出来るだけ遠くに自転車を留めましたが、必ず目敏く見つけて近づいて来るのには参りました。足も悪いのですから、毎回運んでもらってチップを出せばよかったのでしょうが、猜疑心に満ちた卑屈な目を見たくない思いが先に立ちました。

2台の自転車はゲイリーに置いていくつもりでしたが、

帰国する日の一週間前の金曜日の夜から土曜日の明け方(金曜日は、週給の給料日で酒を飲んで浮かれる日だそうです)に見事に盗まれてしましました。ゲイリーによれば、番犬も吠えず、もの音1つ立てずに、ゲイリーが眠っているガレージから盗み出せたのは、以前に働いていたメイドの仕業だと言うことでしたが、

誰にも怪我がなかったのが不幸中の幸いでしたが、ゲイリーの落ち込みようは、見ていて辛いほどでした。

(たまだ・よしゆき、宮崎大学医学部英語科教員)

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資料10

医学生と新興感染症

1995年のエボラ出血熱騒動とコンゴをめぐって―

Medical Students and the Emerging Infection

On the 1995 Ebola Issue in Zaire―

玉田吉行 TAMADA, Yoshiyuki

宮崎大学医学部 Faculty of Medicine, University of Miyazaki

「ESPの研究と実践」第5号(2006年)61~69ペイジ

ホームページでも公開しています。

http://tamada.med.miyazaki-u.ac.jp/tamada/works/africa/06Congo.doc

<Summary>

This paper aims to show why I have picked up the 1995 Ebola issue in Zaire in my English classes for medical students. It is important for English teachers to know what students need in English classes, and necessary to prepare suitable materials which motivate them. The 1995 Ebola outbreak in Zaire, a good material for the classes, spread fear around the globe through media. It is mainly because there were some wrong and exaggerated reports and lack of fundamental information on Zaire. Cong, including the former Zaire – the present République Démocratique du Congo, has been exploited by European and American powers. Without precise information and perspective, we cannot find possible RX for survival. Through historical analysis of the Congo, this paper shows the backgrounds for a fair understanding of the Ebola issue and the Congo for the students.

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1.はじめに

医学生の英語を担当し始めてから19年目になりますが、医学に無縁だった人間が医学部の英語の授業で何をするか、何が出来るかを考え続けています。当初、一般教養科目として医学科1年生の授業を担当したこともあり、専門家には出来ない何かをという思いが強かったのですが、理想論だけではやってはいけません。何事にもあまり関心を示さない学生から英語の必要性を認識して実際に英語が使えるようにと願う学生まで、学生も様々で、一年間の長丁場です。学生の思いに応え、しかも自分の気持ちのバランスも取るというのは難しいもので、試行錯誤の末、医学と僕の専門分野の(アフリカ)文学の狭間から何かが提示出来ないかと考え始めました。EGP (English for General Purposes) とESP (English for Specific Purposes) の狭間で、基礎医学・臨床医学への橋渡しの役目を果たす、それが現実に対応出来るやり方ではないかと考え始めたわけです。修士論文で取り上げたアフロ・アメリカの文学からアフリカに辿り着いていましたから、守備範囲にあるアフリカと医療を結びつける形で何かが出来ないかと考え、エイズなどの新興感染症も取り上げるようになりました。エボラ出血熱もその一つです。

2.1995年エボラ出血熱騒動

1995年のエボラ出血熱騒動は、毎年取り上げている医学的な話題の一つですが、EGP 、ESPに共通する題材として、興味深いものがあります。当時の騒動を伝える新聞記事、ニュース映像、アメリカ映画「アウトブレイク」などを使用しています。

エボラ出血熱はエボラウィルスによる急性熱性疾患で、1995年以前に、スーダン(1976、1979)、ザイール(1976、1977)、コートジボアール (1994)、ガボン(1994) でも発生しています。キクウイットの場合、4月に町の総合病院を中心に患者が発生し、約40日後に米国、WHO(世界保健機構)、ベルギー等のチームが入り、6月20日に終焉しています。最終的には315名が感染し、256名(81%)が死亡しました。(注1)

1995年のエボラ出血熱は、想像以上に大きな騒動になりました。世紀末の不安もあったでしょうが、ベルリンの壁やソ連の崩壊、湾岸戦争、ネルソン・マンデラの釈放とナミビアの独立、マンデラ政権の誕生など、歴史的な出来事が立て続けに起こったからかも知れません。不安を煽った最大の原因はメディアの過剰な反応ですが、メディアに容易く惑わされたのは、永年の白人優位・黒人蔑視に起因する、正確な歴史認識の絶対的な不足だったのではないかと思います。

「エボラは突然の発熱、嘔吐、筋肉痛、頭痛や下痢などの症状が特徴的です。しばしば、内蔵での出血が見られます。器官が溶解してどろどろになり、目や鼻や他の開口部から血液が流れ出ます」といったような誤った内容を伝えた新聞記事(注2)が騒ぎを大きくしたのも事実ですが、最大の原因はハリウッド映画「アウトブレイク」でしょう。アフリカの未開の奥地で未知のウィルスを発見、CDC(米国疾病予防センター)が軍医を送り生物兵器開発のために血液を採取したのちに村を爆破、致死率100%・空気感染のウィルスがアメリカ本土を直撃、汚染された街を爆弾で気化させるという大統領命令が下る、という内容は、映画としては刺激的でしたが、タイミングが良すぎました。NHKのBS世界のドキュメンタリー「人類の健康は守れるか:第3回エイズ・鳥インフルエンザ対策」(2006年3月16日BS1) の中で、1976年にCDCから派遣された軍医が撮影した当時のビデオ画像が放映されましたが、映像から伝わる当時の混乱した状況を見てその思いを強くしました。映像が映画と重なっていたからです。永年植え付けられた西洋優位の思想に由来するザイールへの関心のなさと、基本的な認識の欠如によって騒ぎは更に大きくなりました。

騒ぎは、もう一つ大きな問題を浮き彫りにしました。当時の大統領モブツの暴虐ぶりです。1995年5月16日のロイター通信が次のように報じています。

ザイールでエボラウィルスが発生したために、1963年(原文のまま、独立は1960年)のベルギーからの独立以来次々と起こる危機に揺れ動くアフリカの中心部にある四千万人の広大な国に再び世界の注意が向けられました。

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治療法もワクチンも知られていないため、そのウィルスによって少なくとも64人の死者が出ました。多くのザイール人がモブツ・セセ・セコ大統領の政府に公然と腹を立てています。批評家によるとモブツは、過去約30年もの間、誰の挑戦も受けずにずっと政権の座にあり、推計で数十億ドルもの個人資産を蓄財したと言われています・・・

腐敗はザイール社会と政府の隅々にまで行き渡り、五百万人の首都へのウィルスの侵入を阻止しようとして取られた隔離対策にも賄賂が効く体たらくです、と市の職員が話しています・・・(注3)

さらに、6月14日のCNNは、「モブツ大統領は、エボラ対策の費用は他の国が保証すべきで、自分がすべき問題ではありませんと語っています」というニュースと本人の画像を大きく映し出しました。

そんなモブツを生んだコンゴは一体、どんな国だったのでしょうか。

3. コンゴをめぐって

3.1 「コンゴ自由国」:植民地支配

現在の「コンゴ民主共和国」はこれまでに何度か国名を変えていますが、ここではすべてコンゴと言う呼び方を使います。(注4)

コンゴの悲劇は、植民地を持ちたいというベルギー王子の夢で始まります。奴隷貿易で暴利を貪って資本蓄積を果たした西洋社会は、更なる冨を求めて産業革命を起こして資本主義を加速させます。さばき切れない製品の市場と原材料を求めてアフリカ争奪戦を繰り広げますが、争奪戦は余りにも激しく、世界大戦の危機を回避するためにベルリン会議を開いて妥協案を模索します。英国、フランスなどが植民地分割を決めたのはよく知られていますが、その会議で、コンゴがレオポルド2世個人の植民地として認められた事実はあまり知られていません。植民地を増やす余裕はないので競争相手には取られたくないが小国ベルギーに譲るなら安全と計算する英国とフランス、増えるアフリカ人奴隷の子孫をアフリカ大陸に送り返す策を模索していた米国、3国の思惑が一致し、レオポルド2世の接待外交も功を奏して、レオポルド2世個人の植民地「コンゴ自由国」が認められたのです。

レオポルド2世自身は生涯アフリカの地を踏んでいませんが、私兵を送り、電気と自動車という時宜を得て、銅と天然ゴムで暴利を貪り尽くします。

「黒人をアフリカに送り返せ」という南部の差別主義者の野望と、「アフリカへ帰れ」と唱える黒人の考えが、皮肉にも一致した結果、白人の牧師と共に、プレスビテリアン教会からコンゴに派遣されたアフリカ系米国人牧師ウィリアム・シェパードは、教会の年報「カサイ・ヘラルド」(1908年1月)に、赤道に近いコンゴ盆地カサイ地区に住むルバの人たちの当時の様子を次のように記しています。

この土地に住む屈強な人々は、男も女も、太古から縛られず、玉蜀黍、豌豆、煙草、馬鈴薯を作り、罠を仕掛けて象牙や豹皮を取り、自らの王と立派な統治機構を持ち、どの町にも法に携わる役人を置いていました。この気高い人たちの人口は恐らく40万、民族の歴史の新しい一ペイジが始まろうとしていました。僅か数年前にこの国を訪れた旅人は、村人が各々一つから四つの部屋のある広い家に住み、妻や子供を慈しんで和やかに暮らす様子を目にしています……。

しかし、ここ3年の、何という変わり様でしょうか!ジャングルの畑には草が生い茂り、王は一介の奴隷と成り果て、大抵は作りかけで一部屋作りの家は荒れ放題です。町の通りが、昔のようにきれいに掃き清められることもなく、子供たちは腹を空かせて泣き叫ぶばかりです。

どうしてこんなに変わったのでしょうか?簡単に言えば、国王から認可された貿易会社の傭兵が銃を持ち、森でゴムを採るために夜昼となく長時間に渡って、何日も何日も人々を無理遣り働かせるからです。支払われる額は余りにも少なく、その僅かな額ではとても人々は暮らし

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ていけません。村の大半の人たちは、神の福音の話に耳を傾け、魂の救いに関する答えを出す暇もありません。」(注5)

 

「認可」を出したのは、レオポルド2世で、王は1888年にベルギー人とアフリカ人傭兵から成る軍隊を組織し、多額の予算を拠出して中央アフリカ最強のものに作り上げました。1890年に、タイヤや、電話、電線の絶縁体にゴムが使われ始めて世界的なブームが起こります。原材料の天然ゴムは利益率が異常に高く、それまでの過大な投資で窮地にいた王は蘇ります。アジアやラテン・アメリカの栽培ゴムに取って代わられるのは、木が育つまでの20年ほどと読んだ王は、容赦なく天然ゴムを集めさせます。配偶者を人質にし、採取量が規定に満たない者は、見せしめに手足を切断させました。密林に自生する樹は、液を多く集めるために深い切り込みを入れられ、すぐに枯れました。作業の場はより奥地となり、時には、猛烈な雨の中での苛酷な作業となりました。牧師シェパードが見たのは、そんな作業の中心地カサイ地区での光景だったのです。

ヨーロッパとアメリカの反対運動で、王は1908年にベルギー政府への植民地譲渡を余儀なくされますが、その支配は23年間に及びました。その間に殺された人の数を正確に知るのは不可能ですが、少なくとも人口は半減し、約一千万人が殺されたと推定されています。王が植民地から得た生涯所得は、現在の価格にして約120億円とも言われます。王はアフリカ人から絞り取った金を、ブリュッセルの街並みやフランスの別荘、65歳で再婚した相手の16歳の少女に惜しげもなく注ぎ込み、1909年に死んでいます。

「コンゴ自由国」は1908年にレオポルド2世からベルギー政府に譲渡されて「ベルギー領コンゴ」になり、搾取構造もそのまま引き継がれます。支配体制を支えたのは、1888年に国王が傭兵で結成した植民地軍(The Force Publique)です。その後、植民地政府の予算の半分以上が注がれて、1900年には、1万9000人のアフリカ中央部最強の軍隊となっています。軍はベルギー人中心の白人と、主にザンジバル〈現在はタンザニアの一部〉、西アフリカの英国植民地出身のアフリカ人で構成され、「一人か二人の白人将校・下士官と数十人の黒人兵から成る小さな駐屯隊に分けられていました。」(註6)兵隊がアフリカ人に銃口を突きつけて働かせるという、まさに力による植民地支配だったのです。

レオポルド2世は国際世論に押されて渋々政府に植民地を譲渡しますが、国際世論とは言っても、この時期、ドイツは南西アフリカ(現在のナミビア)で、フランスは仏領コンゴで、英国はオーストラリアで、米国はフィリピンや国内で同様の侵略行為を犯していましたので、批判も及び腰で、国王が死に、1913年に英国が譲渡を承認する頃には、国際世論も下火になり、第一次大戦で立ち消えになってしまいました。アフリカ人は人頭税をかけられて農園に駆り出され、栽培ゴムや綿や椰子油などを作らされました。第一次大戦では、兵士や運搬人として召集され、ある宣教師の報告では「一家の父親は前線に駆り出され、母親は兵士の食べる粉を挽かされ、子供たちは兵士のための食べ物を運んでいる」(註7)という惨状でした。第二次大戦では、軍事用ゴムの需要を満たすために、再び「コンゴ自由国」の天然ゴム採集の悪夢が再現されます。また、銅や金や錫などの鉱物資源だけでなく「広島、長崎の爆弾が作られたウランの80%以上がコンゴの鉱山から持ち出された」(註8)と言われています。名前が「ベルギー領コンゴ」に変わっても、豊かな富は、こうして貪り食われたのです。

コンゴが貪り食われたのは、豊かな大地と鉱物資源に恵まれていたからです。ベルギーの80倍の広さ、コンゴ川流域の水力資源と農業の可能性、豊かな鉱物資源を併せ持つコンゴは、北はコンゴ(旧仏領コンゴ)、中央アフリカ、スーダンと、東はウガンダ、ルワンダ、ブルンジ、タンザニアと、南はアンゴラ、ザンビアとに接しており、地理的、戦略的にも大陸の要の位置にあります。植民地列強が豊かなコンゴを見逃す筈もなく、鉄道も敷き、自分達が快適に暮らせる環境を整えていきました。「1953年には、世界のウラニウムの約半分、工業用ダイヤモンドの70%を産出するようになったほか、銅・コバルト・亜鉛・マンガン・金・タングステンなどの生産でも、コンゴは世界で有数の地域」(註9)になっていました。綿花・珈琲・椰子油等の生産でも成長を示し、ベルギーと英国の工業原材料の有力な供給地となりました。行政区は、北西部の赤道州、北東部の東部州、中東部のキブ州、中西部のレオポルドヴィル州、中部のカサイ州、南東部のカタ

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ンガ州の六州に分けられ、大西洋に面するレオポルドヴィル州に首都レオポルドヴィル(現在のキンシャサ)があり、カタンガ州とカサイ州南部が鉱物資源に恵まれた地域です。

コンゴは南アフリカと並んで、暴虐の限りを尽くした植民地支配の典型だったのです。

3.2 独立とコンゴ動乱:新植民地支配の始まり

2度に渡る世界大戦での殺し合いで、ヨーロッパ社会の総体的な力が低下したとき、それまで抑圧され続けていた人たちが自由を求めて闘い始めます。その先頭に立ったのは、ヨーロッパやアメリカで教育を受けた若い知識階層で、国民の圧倒的な支持を受けました。宗主国は当初、独立への動きを抑えにかかりますが、大衆の熱気を見て戦略を変更します。独立は認めるが独立過程で最大限に混乱させる、自国の復興を待って力を回復させ機が熟せば傀儡政権を立てて軍事介入をする、それがその時点での最良の戦略だったのです。

コンゴの場合、ベルギーの取ったやり方は、何ともあからさまでした。1960年、ベルギー政府は政権をコンゴ人の手に引き継ぐのに、わずか6ヵ月足らずの準備期間しか置きませんでした。ベルギー人管理八千人は総引き上げ、行政の経験者もほとんどなく、36閣僚のうち大学卒業者は3人だけでした。独立後一週間もせずに国内は大混乱、そこにベルギーが軍事介入、コンゴはたちまち大国の内政干渉の餌食となりました。大国は、鉱物資源の豊かなカタンガ州(現在のシャバ州)での経済利権を確保するために、国民の圧倒的な支持を受けて首相になったパトリス・ルムンバの排除に取りかかります。危機を察知したルムンバは国連軍の出動を要請しますが、アメリカの援助でクーデターを起こした政府軍のモブツ大佐に捕えられ、国連軍の見守るなか、利権目当てに外国が支援するカタンガ州に送られて、惨殺されてしまいました。このコンゴ動乱は国連の汚点と言われますが、国連はもともと新植民地支配を維持するために作られて組織ですから、当然の結果だったかも知れません。当時米国大統領アイゼンハワーは、CIA(中央情報局)にルムンバの暗殺命令を出したと言われます。

独立は勝ち取っても、経済力を完全に握られては正常な国政が行なえるはずもありません。名前こそ変わったものの、搾取構造は植民地時代と余り変わらず、「先進国」産業の原材料の供給地としての役割を担わされているのです。しかも、原材料の価格を決めるのは輸出先の「先進国」で、高い関税をかけられるので加工して輸出することも出来ず、結局は原材料のまま売るしかないのが現状です。

こうして、コンゴでも新植民地体制が始まりました。

3.3 モブツ:新植民地支配

政権の座に着いたモブツは、アメリカの梃子入れで30年以上も独裁政権を続けました。その暴政はよく知られています。1984年から2年間、海外協力隊員としてザイールの田舎で過ごしたアメリカ人の新聞記事から、モブツ政権下で人々の悲惨な様子が窺い知れます。

2年間、私はザイール中部のカサイ地区でボランティアをしました、この地球上の他のどの地域よりも痛ましい、土の小屋と裸足と貧困のまっただ中で・・・

20世紀の後半に、人々が銃に脅されて奴隷のように綿摘みを強要され、今は失脚したモブツ・セセ・セコの金庫を一杯にするのを、私はこの目で見ました。

ザイールでの私の仕事はたんぱく質の欠如によって病気にかかった子供たちを助けることでした。・・・村の養魚池を作って、田舎の地域に栄養補給をすることでしたが、田舎の地域は貧しくてアスピリンの一錠が家計を圧迫する惨状でした。しかし、私の仕事はまったく象徴的なものでした。貧困は余りにも根が深く、広範で深刻過ぎました。そしてアメリカの援助は余りにも小さすぎました。私はそれぞれ何軒かの家族の手助けをしました。

神(あるいは神の不在)は細部に潜んでいます。腐りかけの歯を何とかしてもらうために私の家に来た村の人々の泣きじゃくる顔のような細部にです。アフリカの基準から言っても、ザ

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イールの医療の状況は驚くほど酷く、ほとんど医療は望めません。アメリカや他の西側諸国によって寄贈された薬は、モブツ軍によって慣例的に強奪され、法外な価格で闇市場に転売されました。目的の場所に援助物資が届いた時でも、保証はありませんでした。私は、以前不釣り合いなフランスとアメリカの軍服を着た兵士が、ユニセフが配給した粉ミルクを溶いてこしらえた飲み物を下痢で苦しむ少女の手から取り上げて、自分で飲んでしまう光景を目の当たりにしました。

私のいた小さな村で、人々が病気になった時、私は持っていたアスピリン、マラリア用の錠剤、包帯などどんな僅かなものでも与えました。また、村人たちが歯痛のため私の所へ来た時には、求められたガソリンをその人たちに与えました。私は、オートバイのキャブレターから半インチのガソリンを注ぎました、そして70歳の女性と15歳の男の子がガソリンを唇にたらし、そのガソリンを口に含んで、シュシュと音を立てるのを見ました。ザイールの容赦のない基準では、これが歯の治療だったのです。地元の人々によると、このように使う僅かなガソリンは感染を防ぎ、痛みを和らげる手助けをするということでした。私はその考えに拒絶反応を見せました。しかし、人々は私の所へ来続けました。口を腫らして、泣きながら、頼むから何とかしてくれと言って、数十キロも歩いてくる人もいました。だから私は歯医者になりました。何もないよりはいいと思ったのです。

私が住んでいたザイール中部では、政府が求める強制労働の要求を満たせるように、村人は健康でいることが特に重要でした。家族の十分な食料を得るために耕す為に既に充分苦労していたすべての成人男性は、600坪ほどの土地に綿を植え、その綿を政府に売るように要求されました。綿を植えない人、または植えられない人々には厳しい罰金や、凶暴なライフル銃の銃身で規則を守らせるために派遣された兵士から鞭打ちの刑を受ける危険がありました。それはベルギーによる植民地時代からそっくり受け継がれた体制だったのです。モブツは独占的に綿の価格を不自然なまでに低い基準に規制し、買い取る際にいつものように目盛りをわざと不正に操作し、村人を再び騙しました。村での綿販売は私の前庭で行われていましたので、ことの子細をすべて知っています。私は無数の鞭打ちを含め、すべてを戸口から見たのです。(註10)

これはすべてアメリカとヨーロッパの支援によって可能になりました。1977年、1978年と1984年には、アメリカとフランスが直接的、または間接的に、最後にモブツ政府を倒した人たちに似た改革派による暴動からモブツ政権を救う手助けをしました。1980年代、アメリカは、腐敗や夥しい人権侵害についての信頼し得る報告書を入手していたにもかかわらず、モブツ政権に軍事援助と経済援助をし続けました。モブツは冷戦を最大限に利用し、新植民地主義者から最大の援助を引き出しました。その代わり、ロシア人とキューバ人を国内に入れずに領土を安定させ続け、西洋の工場向けの鉱物を生産しました。

冷戦の終わりには、モブツの個人資産と国債が共に60億ドルに達したと言われています。

3.4 コンゴ民主共和国

外圧によって腐敗や人権侵害が取り沙汰されるようになるにつれて、国内政治への支配力は弱まりました。モブツは1990年に民主主義的な改革にむけての内外の圧力に屈服しますが、1994年のルワンダの大量虐殺で、また息を吹き返します。西洋がモブツをもう一度必要としたからです。1996年10月18日、東部地域で反乱が発生しました。ローラン・カビラ(当時56歳)に導かれたルワンダ人の支持する反乱軍、及びコンゴ・ザイール解放民主勢力連合は、余り訓練されずに士気のあがらないザイール軍を敗走させて、ゴマとブラブなど、東部の境界周辺の主要な町を占領したのです。

米国大統領ビル・クリントンはモブツに、ロナルド・レーガンが1986年にフィリピンでフェルディナンド・マルコスに明言したように、武力を行使しない形で平和裡に政権移譲を行なうべきだと伝えます。5月17日、反体制軍は首都に行進し、2日後に、カビラはコンゴ民主共和国の大統領として宣誓しました。国民への演説の中で、カビラははっきりと以前のザイールに民主主義

p. 122

的な変化をもたらすと言いました。

ルムンバ内閣の閣僚の一人だったカビラは、モブツの支配した残酷な時代に、辛うじて死を免れ、キブ州とリフト渓谷沿いの境界線地区と湖畔地区の深い森の中に逃げ込みました。カビラを探した人もいましたが、その人たちからは何の情報も聞かれませんでした。カビラは1960年代からずっと小規模な反乱に参加しており、モブツの追放を切望していました。その反乱で初めて反体制の代表者を務め、1996年10月に、指導者として前面に推されました。それはカビラがザイールのルバ人の一員として、フツ人とツチ人の間の紛争で、恐らく中立の立場にいる人に見えたからでしょう。広大な国を平和な流れに導く舵取りとして忽然と姿を現わしたのです。カビラは大統領宣言を果たしますが、2001年に暗殺されて、息子のジョゼフ・カビラが大統領に就任しました。そして、カビラのいたコンゴ東部では、今、ITビジネスに欠かせない希少金属タンタルが新たな紛争の種になっています。

1995年のエボラ出血熱騒動には、こうした凄まじい背景が潜んでいたのです。

NHKで放送中の海外ドラマ『ER緊急救命室』の第9シリーズと第10シリーズで、カーター医師は、カビラの潜んでいたコンゴ東部にボランティアとして出向きますが、今まで述べたような背景なしにはカーターが訪れたコンゴを理解するのは難しいでしょう。

4.医師をめざす人のための英語の授業

宮崎大学医学部では2005年度から、タイのプリンス・オブ・ソンクラ大学との学生交換プログラムに向けての英語講座を始めました。1・2年次にはさほど関心を示さなかった4・5年生が、タイでの単位互換を伴なうクリニカル・クラークシップ・プログラムに参加するという差し迫った目標が出来て、生き生きと英語を学び始めました。語学を学ぶうえで、明確な目標が如何に大切かを肌で感じています。一ヶ月間のプログラムに参加した学生は例外なく、英語もさることながら、医学をもっと勉強しなければと言います。タイでは医者の数が少なく、5・6年生は実際の医者に近いことを要求されますから、日本の学生に比べて遙かに勉強もしますし、よく出来るのです。感染症病棟でエイズ患者の回診をした学生は、社会制度を学ぶ大切さを口にします。

大学に入学するために大量の知識を詰め込んできた中で得た歴史観や考え方を再点検して、自分自身について考える機会になればと願って授業をやりますが、うまく行くとは限りません。新入生の最初の授業でカーターの行ったコンゴのERを授業で見てもらったとき、ある学生は「初回の授業を受け、(それなりに覚悟はしていたつもりではありましたが、)やはり衝撃を受けました・・・“人であることを止めるか” “人に尽くそうとすることを止めるか” の選択であるような気がしました。せめて誠実でありたい―今はそう思います。」という感想を授業専用のホームペイジの掲示板に寄せています。「誠実で」あるためには、まず西洋寄りの体制の中で作り出された自分の価値観を見直し、大学生として相応しい基礎知識が何であるかに気づく必要があります。その学生はまた、「第1回目の授業はとても衝撃的でした。授業そのものも勿論ですが、授業のあとで、私同様に “油断していた所に直撃を受けて激しく動揺する人” と “「てか超だるいんだけどー」と言える人” の2通りに大別されたことが面白かったです。」と同級生の反応について記しています。

制度の問題もあります。医者を志望して医学科に入って来ていない学生の数が想像以上に多く、そういう学生は教養でも専門でも授業には関心が薄く、単位や試験には敏感です。しかし、入学試験で学科の成績を問う限りは、「したいことは見つからないし他の学部に行くよりは医学部へ行く方がまし」と考える学生を排除することなど実際には出来ません。

一対多という講義形式にも限界があります。いくら準備や工夫をしても、誰もが満足する授業が出来るとは思えません。厳しく出席を取らないと成立しない授業もあるようですし、厳しく出席を取っても、後の席で寝ていたり、携帯をしている学生もいるようです。

色々な問題を抱えながらやって行くしかないわけですが、やはり大学の自由な空間で培う素養は大切なものです。ESPとEGPとの狭間で、歴史観や考え方を再認識するきっかけを提供し、結果的にはそれが基礎医学・臨床医学への橋渡しの役目を果たすような授業をして、学生一人一人

p. 1223は適切な処方箋(RX)を書けるようになることを願いながら、十年一日の如く試行錯誤を続けたいと思います。

<註>

  1. IDSC(国立感染症研究所感染症情報センター)「感染症の話」

(http://idsc.nih.go.jp/idwr/kansen/k02_g2/k02_32/k02_32.html

  1. (May 13, 1995). Deadly ebola virus sweeps through Zairean town. Los Angeles Times in THE DAILY YOMIURI.「解剖は非常に気持ち悪かったが、いったん血をすべてきれいにしてしまうと、内蔵器官は損なわれていないままだとわかりました」[Robin McKie, “Nature of the killer virus,” (Johannesburg: Mail & Guardian, May 19 to 24, 1995)] という記事からも、誤った推測記事だと判ります。
  2. (May 16, 1995) Ebola virus returns Zaire into World’s spotlight. THE DAILY YOMIURI.
  3. 1885年のベルリン会議でベルギー王レオポルド2世個人の植民地「コンゴ自由国」として認められて以来1908年「ベルギー領コンゴ」→1960年「コンゴ共和国」→1967年「コンゴ民主共和国」→1971年「ザイール民主共和国」→1997年「コンゴ民主共和国」と名前が変わって現在に至っています。
  4. Hochschild, Adam. (1998) King Lopold’s Ghost – A Story of Greed, Terror, and Heroism in Colonial Africa, 261. New York: Mariner Books. 同時期に仕事で当地に滞在した作家のジョセフ・コンラッドは、自らの体験に基づいた小説 Heart of Darkness を書き、ヨーロッパや アメリカで注目を浴びました。
  5. 前掲書. 121.
  6. 前掲書. 279.
  7. 前掲書. 278.
  8. 小田英郎(1986)『アフリカ現代史Ⅲ中部アフリカ』東京:山川出版社. 118.
  9. Tidwell, Mike. (June 6, 1997) Looking back in Anger: Life in Mobutu’s Zaire. Washington Post in THE DAILY YOMIURI.

p. 124

資料11

アフリカ文化論1

南アフリカの歴史と哀しき人間の性

玉田吉行

(横浜:門土社)(2007年)64ページ

本の目次と1章 はじめに、と15章 哀しき人間の性、を収録しました。

ホームページでも公開しています。

(http://tamada.med.miyazaki-u.ac.jp/tamada/works/africa/06_book_Africa_1.doc)

一章  はじめに                                     3

二章  「アフリカの蹄」                         4

三章  南アフリカ概観                            6

四章  アフリカ史のなかで                      9

五章  ヨーロッパ人とリザーブ             12

六章  アパルトヘイトと抵抗運動            15

七章  ロバート・マンガリソ・ソブクウェ 19

八章  武力闘争                                   24

九章  アレックス・ラ・グーマ              26

十章  バンツー・スティーヴン・ビコ      28

十一章 セスゥル・エイブラハムズ              30

十二章 体制を支えたもの                        35

十三章 ネルソン・マンデラの釈放            39

十四章 エイズと『アフリカの瞳』              43

十五章 哀しき人間の性                           52

註                                                        57

南アフリカ小史                                      62

p. 125

一章 はじめに

この小冊子は、「アフリカ文化論」「南アフリカ概論」などの授業で話した内容をまとめたものです。

書く空間を求めて辿り着いた宮崎医科大学は旧宮崎大学と統合して宮崎大学となり、今はそこで英語と一般教養の科目などを担当しています。

授業では、折角大学で学ぶ空間を得た人に、価値観や歴史観を問い直してもらえればと考えて、アフリカなどを題材に取り上げています。アフリカ史を辿れば、英語が一番侵略的だった英国の言葉であることも、白人優位・黒人蔑視の思想が都合よく捏造されて来たことも判ります。アフロ・アメリカ史を見れば、今日のアメリカの繁栄が奴隷貿易や奴隷制の上に築き挙げられたことも分かりますし、全てが過去の出来事の羅列ではなく、過去から繋がっている現在の問題であることにも気づきます。

元来、自由な空間で培う素養は大切なものです。素養が価値観や歴史観の基盤でもあり、生き方を決める要素でもあるからです。大学に入学するために大量の知識を詰め込んできた人に、今までの歴史観や考え方そのものを揺さぶるような話をして、「さすがは大学だ」と思ってもらえるような授業がしたいといつも思っています。この小冊子が、自分自身について考えるための一助になれば嬉しい限りです。

一章ではこの小冊子の生まれた経緯を、二章では「アフリカの蹄」の中の問いかけを、三章では南アフリカの地理や言語などの紹介を、四章ではアフリカ史の中での南アフリカを、五章ではヨーロッパ人入植者が打ち立てた搾取機構を、六章ではアパルトヘイト体制とアフリカ人の抵抗運動を、七章では抵抗運動を指導したソブクウェを、八章では武力闘争の経緯を、九章ではアパルトヘイト体制下の作家ラ・グーマを、十章ではカナダで出会った学者エイブラハムズさんを、十一章では黒人意識運動の指導者ビコを、十二章ではアパルトヘイト体制を支えた実体を、十三章ではマンデラの釈放とその後の実状を、十四章ではエイズの実態を、十五章では人間の性についての正直な思いを綴っています。

最後に、註と南アフリカ小史を載せました。

十五章 哀しき人間の性

哀しき人間の性

長々と南アフリカの歴史を辿って来たわけですが、そこに浮かび上がって来るのは、侵略という行為を通して透かして見える哀しい人間の性です。

最初は、直接侵略に関わったオランダ人、イギリス人入植者においてです。ヨーロッパ人はある日、片手に聖書、もう片方の手に銃を携えて南アフリカに現われました。力ずくでアフリカ人から土地を奪って無産者に仕立て、種々の税を課して、大量の安価な労働力を産み出しました。そして、アフリカ人に金やダイヤを掘らせては巨万の富を築きます。搾取体制を守るために連合国家を作り、反対するものは自分たちの作った法律で罰して「合法的に」排除、抹殺してきたのです。いいものを食べたい、広い土地に住みたいという個々の欲望が集まって総体的な意思となりました。植民地政策は本国を潤し、世論にも支持され続けました。

次にその白人王国に群がり、手を携えて共に甘い汁を吸い続けて来た多くの「先進国」においてです。「先進国」は、これ以上はあからさまな搾取体制を維持出来ないことを悟ると、アパルトヘイト政権に自らが決定した法律を反故にすることを強いて「政治犯」を釈放させ、基本構造を替えない形でアフリカ人政権を誕生させました。

そして、新アフリカ人政権においてです。未曾有のエイズ禍に苦しむ国民に抗HIV薬を供給出来ないと見るや、まだ治験の済んでいない薬を無料で配布したり、安価で販売するという暴挙に出たのです。欧米の製薬会社はエイズまでも食い物にしたわけですが、新政権の担い手の大半は、長く苦しいアパルトヘイトとの闘いを続けて来たはずです。その人たちはどうして、欧米の

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製薬会社の言いなりになったのでしょうか。エイズに苦しむ同胞をどうして苦しませることが出来たのでしょうか。

最後に、日本人においてです。授業で出会う学生が、「暗黒大陸」や「未開の地」というあからさまな偏見は持たないにしても、多くは「アフリカ人はかわいそう」「アフリカに文学があるとは思わなかった」「日本は、ODAを通じてかわいそうなアフリカに支援してやっている」(註27)と考えています。貿易や投資でアパルトヘイト政権を支えて莫大な利益を得たばかりか、今も形を変えてIT産業に不可欠な希少金属や電力供給に欠かせないウランなどを通して利益を得続けている現実に無関心を装い、積極的に深くを知ろうとはしません。そして、「遠い夜明け」を見ると、たくさんの人が「日本に生まれてよかった」と胸をなで下ろし、私たちに何か出来ることはありませんかと言います。アパルトヘイトの抑圧の中でも、外的要因によって自己否定して自らに見切りをつける人たちに自己意識の大切を説き、自分への希望を捨てず、国に対しても希望を育もうと語りかけたソブクウェやビコの崇高さに比べて、その無知と無関心と傲慢さに虚しさを覚えます。

そんな狭間に立って現実と直面していますとつい悲観的になって、授業の最後に「もう溜め息しか、出ませんね」と呟きましたら、受講生から次のような反論が届きました。

「『人間について考えれば考える程に絶望的になる』『人間の問題の現状について努力することは大切だけれども、ほんの少ししか変わらないか、全く変わらないかのどっちかだろうな。』という考えは十分にわかります。が、それで終わってしまうのはどうでしょうか。もちろん絶望を知ることは大切なことです。絶望と向き合うこと無しでは、何も理解出来ません。しかし、先生は、折角教壇に立てる機会を持つことが出来ているのです。私達生徒に絶望だけ、無力感だけを叩き込むのではなく『行動することで、現状はほんのわずかしか動かない。けれども、そのほんのちょっとが大事なんだ。』という方向も教えたほうが、私には社会や国にとって有益だと思えるのです。こんな考え方は短絡過ぎるでしょうか?」

その学生が指摘する通りです。溜め息をついていても、問題が解決するわけではありません。現状を正しく受け止めたうえで、少しずつでもやれることをして行くしかないでしょう。アフロ・アメリカの小説を理解したいという思いでやり始めて気がついて見れば、妙な空間に踏み入ってしまいました。以来、大学の英語や教養の授業でアフリカやアフロ・アメリカを取り上げて二十年以上になりますが、余りにも出口の見えない現実に、悲観的になり過ぎているようです。

意識や発想を変えて

人が持つ哀しい性と無力を思い知ったうえで、何が出来るかを考えたいと思います。これだけ規模が大きくなった今、世界の構造の枠組みを変えるのは不可能に近く、実質的ではありません。しかし、意識や発想を変えて枠組みの中でやれることをやって、結果的に少しは変わるというのは可能です。

ボツワナのエイズ対策事業に取り組んで成功したアーネスト・ダルコー医師の例は参考になります。

ボツワナは、四三ペイジの表にも示しましたが、極めて絶望的な状況にあった国です。ダルコーさんは医療とビジネスを両立させて、多くのエイズ患者を社会復帰させています。(註28)

三六歳のダルコーさんは、アメリカに生まれ、タンザニアとケニアで過ごしました。ハーバードで医学の資格を、オクスフォードで経営学の修士号を得た後、ニューヨーク市の経営コンサルタント会社マッキンゼー社に就職して、二〇〇一年にエイズ対策事業のためにボツワナに派遣されました。(註29)

派遣された当時、三人に一人がHIVに感染していたと言います。最初の一年間は、「夜明け」という意味の国家プロジェクトMASAの責任者として「一日最低二十二時間」は働いたそうです。感染者数を知るためにモハエ大統領にテレビでエイズ検査を受けるように呼びかけてもらう一方で、医療体制を把握するために国じゅうを隈無く調査しています。その結果、絶対的な医師不足を痛感しました。周辺国に呼びかけ破格の給料を出して数年契約で医師を雇い入れると同時

p. 127

に、国内でも医師を育成し、現場に二千二百人の医師を配置しました。

最大の問題は薬でしたが、アメリカの製薬会社と交渉し、患者の資料を提供する代わりにほぼ無料で薬を確保し、半数以上の患者の治療を可能にしました。

政府の資金では足りませんでしたので、「エイズ撲滅のためのプロジェクト」を展開するマイクロソフト社のビル・ゲイツと掛け合い、一兆円を引き出しています。その薬と豊富な資金を基に、ネットワークシステムを構築します。プロジェクト本部の下に四つの支部を置き、それぞれの支部にコーディネーターを配置、コーディネーターはその下にある多くの拠点病院と連携し、現場の状況に応じて薬を届けるというシステムです。ダルコーさんは学んだ経営学の知識を生かし、ウォルマートの最先端の納品システムを参考にしたと言います。二〇〇〇年に三六歳までに落ち込んでいた平均寿命は上昇に転じ、二〇二五年には五四歳に回復する可能性も出てきたと言われています。(註30)

ダルコーさんは今、エイズ対策を専門に行なうブロードリーチ・ヘルスケア社を設立して、最大のHIV感染国南アフリカのケープタウンでエイズと闘っています。現在、アフリカ十二カ国がダルコーさんのエイズ対策モデルを取り入れていると言います。

ダルコーさんは、永年のアパルトヘイト体制の影が色濃く残っている南アフリカで医師や病院に頼らずにエイズ治療が出来るシステムを開発しました。白人の利用する民間病院に医師が集中し、アフリカ人が利用する公立病院に医師が極端に少ない現状の中でシステムを機能させる必要性に迫られたからです。そのシステムでは、感染者の多い地域で雇い入れられた現地スタッフが、定められたマニュアルに従ってエイズ患者の簡単な診察を行ないます。その診断結果がファックスで出先事務所に送られます。出先事務所では、情報をパソコンに入力してデータベース化され、必要に応じてケープタウンのセンターの医師に相談します。センターでは、医師が情報を総合的に判断し、現地スタッフが患者に薬を届けるのです。医師が現場にいなくても治療が出来、一人の医師がたくさんの患者を治療するという、南アフリカの現状に即した体制です。

そのダルコーさんに、かつて「国境なき医師団」で活動した医師貫戸朋子さんがケープタウンの事務所を訪れてインタビューを試みました。「私たちはエイズとの闘いに勝てますか?」という貫戸さんの質問にダルコーさんは次のように答えました。

「もちろんです。私は不可能なことはないと自分に言いきかせています。四千万人の感染者を救うのは無理だと言う人もいます。でも、然るべき時に然るべき場所で指導力を発揮すれば、実現できます。そもそも私たちは、何故失敗するのでしょうか。それは、私たち自身の中に偏見が潜んでいるからです。その偏見に打ち克つことが出来れば、エイズは克服できるのです。恐れることなく、国民に正しいメッセージを伝えれば、必ず前進できます。一人一人が精一杯呼びかけるのです。明日は、明日こそはエイズを食い止めることが出来るのだ、と。」

インタビューを終えた貫戸さんは、困難に立ち向かっている人たちのために再び現場に立つ意欲をかき立てられたと言います。(註31)

ダルコーさんは、壊滅的な医療体制を考えれば予防を最優先すべきだと主張して欧米の製薬会社が目を向けなかったエイズ患者を救い、帚木蓬生が『アフリカの瞳』の中で託したメッセージ「私は人類の英知として、特定の国、つまりHIV感染が蔓延している国では、治療薬を無料にすべきだと訴えたいのです。無料化の財源は世界規模で考えれば、どこかにあるはずです。戦争が仕掛けられ、数百億ドルの戦費がただ破壊のためだけに空しく費やされています。その何分の一かの費用を、エイズに対する戦いにあてれば、私たちは確実に勝てるのです。」を実践したわけです。

ダルコーさんのようには出来なくても、体制の枠の中で意識の持ち方を少し変えるだけでやれることもあります。八十年代の後半に、朝日放送がジョハネスバーグの日本人学校を取材したことがあります。有名企業から派遣された「名誉白人」に話を聞いたわけです。校長は治安の悪さから子供を如何に守るかについてだけを語り、母親たちは政治的無関心を貫き通し、子どもたちは、自分の家にいるアフリカ人のメイドたちのことを「住むかわりにやっぱり働かせてあげるっていう感じで」と答えていました。(註32)もし、同じ立場に立った時に、「折角の機会なのですから、子供たちにはこちらの子供たちと友だちになって、次の時代の橋渡しをしてもらいたい

p. 128

と思います」と校長や母親が言い、「一緒に遊んで友だちになり、将来いつかまた戻って来て何かのお役に立ちたいと思います」と子供たちが言えれば、親の世代が続けてきた損得だけの南アフリカとの関係を少しは変えて行けます。先ずは自分を大切にし、身近な回りを大切にして行けば、相手のことも敬えてたくさんのことを学ぶことが出来るでしょう。

絶望の淵にあっても、ダルコーさんのように、まだ出来ることはあると信じて、十年一日の如く語り続けられたらと思います。

後世は畏るべし、なのですから。

p. 129

資料12

未出版ですが、2008年3月に出版予定です。

“Human Sorrow – AIDS Stories Depict An African Crisis”

TAMADA Yoshiyuki

1. AIDS epidemic in the neo-colonial stage

This essay aims to show how AIDS stories in Kenya depict an African crisis that we have never seen in history. The AIDS situation in Africa is so devastating as is pointed out in a newspaper article containing the headlines; “Africa: the continent left to die – The Aids virus will kill 30 million Africans in the next 20 years. Are the drug companies making the situation worse?”1 Most Japanese, however, do not pay much attention to African issues including the emergent AIDS crisis, even though our country is closely related to some of the African countries through trade. The Japanese have prospered by making use of ODA (Official Development Assistance), a central instrument of the neo-colonial strategy, in addition to investments and trade, by having enhanced alliances with the ‘nice people,’ a few chosen African elites. For example, Japan is one of the leading trading partners of Kenya as well as the most important ODA donor.2 Nevertheless, most Japanese do not even know the existence of African literature.3 But there is in fact a high-standard literature in Africa. Nice People 4 is a memoir which records the history of the outbreak of AIDS as early as 1984. The Last Plague 5 is a novel which depicts the details of those suffering with AIDS related problems, which offers to us hints at solutions to this unprecedent crisis.

I hope this essay will be some help to fill in the gap between the realities of Africa and the Japanese consciousness on Africa.

It has been less than a quarter century since the word “AIDS" entered our vocabulary. It is in 1981 when the CDC (Centers for Disease Control and Prevention) set up a special investigation team, the beginning of the first methodical study of the unknown disease. The team discovered that the symptoms were caused by a drop in T-lymphocyte cells, which play the key role in the cellular immune system that protects the human body from an invasion of pathogenic organisms. It was then that the disease was given the name AIDS (Acquired Immune Deficiency Syndrome). In the spring of 1983 AIDS was fully diagnosed with the virus now generally called human immunodeficiency virus (HIV).

Since then, researchers have developed a number of drugs to combat AIDS. In 1996 multi-drug therapy administered through a combination of reverse transcriptase (RT) inhibitors and protease inhibitors prolonged the lives of many AIDS patients. That year was heralded as the year AIDS treatment came of age, but none of the drugs shuts down the HIV life-cycle for long. Within a few weeks after it enters a body, HIV produces billions of genetically varied offspring. Drugs can shackle most of them, but a few survive and go on reproducing in the offspring. Many may look well on the surface but not everyone fared well with the drugs, as there have been some reports of problems with resistance and side effects.

Effective multi-drug therapy is costly. The price is tremendous, even in the industrialized countries. In the developing countries those drugs are completely out of reach financially, as a report from the 1998 World AIDS Conference points out;

…And even when the drugs offered hope, still other speakers said, it is hope beyond the reach of the vast majority of the 34 million people now infected the AIDS virus. Those patients cannot

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afford the treatment. It can cost about $15,000 to provide the drugs to one person a year, a sum greater than the entire budget of many a Third World village.6

It was in the early 80’s that the ADIS problem appeared in Africa. In such a short period the disease spread much more rapidly than expected. An article in 1997 reports;

In the developing world, and especially in Africa, the virus continues to take an extraordinary, and often hidden, toll pf suffering. It is estimated that 2,300,000 people will die of Aids-related diseases this year, a 50-percent increase on 1996.

The UN-Aids programme now admits that it has “grossly under-estimated” the number of people who have the HIV virus, and full-blown Aids, in Africa,…

The impact of HIV on this continent is so devastating that it has wiped out 30 years of gains from improved nutrition and medical treatment….7

Nice People and The Last Plague depict the devastating situation of AIDS in Kenya. The former story shows us the panic felt when doctors had to face this unknown sexually transmitted disease for the first time. The latter novel describes many suffering people in a village withered by an attack of the plague.

2. Nice People

The protagonist of Nice People is Joseph Munguti, a doctor in Kenya Central Hospital (KCH). He began to work there in 1974, after graduating from Ibadan University in Nigeria.

At the university he was interested in STDs (Sexual Transmitted Diseases) and wrote a sub-thesis entitled: “Kenyan morality and its effects on the epidemiology of Gonorrhoea and the Treponematoses." He insisted that “we would gain tremendous progress in the fight against venereal diseases were we to provide by, extensive and intensive media communications, acceptance of sexually transmitted diseases instead of moralising about them and concealing them.”

He starts his internship under Waweru Gichinnga, his officer in-charge, who advises Munguti to work on night duty on a clinic in Nderu. Later Gicinga opens his own clinic, the River Road Clinic in Nairobi. The Nderu and River Road Clinics complement each other. As the law is vigilant in Nairobi, some operations can be illegally performed in Nderu. Most patients at Nderu have contacted venereal diseases (VDs). Ten years later Gicinga is arrested for his illegal treatments, so Munguti inherits the clinic as his own – a VD clinic for the down-trodden in society.

In January 1984, he reopens the clinic under a new name, believing he is the leading venereologist in the county and that there is no venereal disease he has not diagnosed and treated. In December of 1984, however, a diagnostic puzzle appeared in his clinic. At first he thinks the patient has a simple case of lymphogranuloma venereum, then, on a second visit, the sores that he thinks are simple genital herpes have spread all over the body. His patient, named Kombo, tells him that he has tried all sorts of medicines without success. A friend had referred him to Munguti and assured him that he would be cured.

Kombo says, “I am a rich man, young man. Here is twenty thousand shillings. Go and look for any medicine that will get rid of this."

Kombo and Munguti belong to the upper classes. They are rich enough to use the Kenya Banker’s club “which was patronised by many members of the civil service, the big banks and government corporations. In this club most of the people in the who’s who of Nairobi converged, especially on Thursdays. It had five tennis courts, three squash courts, a sauna and a beautiful swimming pool which made it a particularly convenient rendezvous point for Nairobi’s young bureaucrats.” (146)

So, Munguti starts researching in the Kenya Medical Research Library and finds in the November issue of the “American Medical Journal":

p. 131

A serious dermatological condition follows the genital herpes which resists all known antibiotics. Persistent diarrhoea, coughing and swelling of most lymph nodes accompanies the disease. Since the body is incapable of fighting many common diseases, the patient begins to wither away and eventually dies. It has been named the green monkey disease as the virus causing it is synonymous to the one similarly attacking the green monkeys of Central Africa! Several San Franciscan homosexuals are suffering from it."8

Munguti is certain that these symptoms were the same that he saw in Kombo. What he requires is a diagnosis with clinical tests, further research on causal factors, plus an understanding of Kombo’s background. He goes for a drink hoping to meet a medic with whom he can share his thoughts and comes across his old colleagues at the KCH. They confirm his fears that a new sexually transmitted disease has been diagnosed and is transmitted by a strange virus. It has already killed five persons at the KCH, a Finish man, two Americans and two Zaireans. Three Kenyans were also admitted with the disease that week. The disease is highly contagious and is terminal. The men and women are therefore isolated in cages from other patients.

Munguti visits the KCH to look at the patients for comparative purposes. When he is taken by a nurse to a glass walled room where three men sleep, he feels such helplessness as he watches the helpless men anxiously looking at them. Then he recognizes his patient, Kombo. Kombo froths at the mouth, arches his back and appears in great pain as he coughs repeatedly, a dry cough that is definitely puncturing his lungs;

“The one you were looking at is Major Kombo. Cleansing Superintendent of the Nairobi Garbage Handlers Company Ltd. They brought him in yesterday and he is unlikely to survive another day," the nurse-in-charge advised and I started warming up in the heart. My guilt started waning as I recalled a battered Luo lady who years ago had come to the River Road Clinic complaining of a sodomist City garbage collection boss. I remembered thinking of going to the police station to report a felony, but declined because my medical profession barred me from doing so. Poor Major Kombo, I rationalised, his maker must have decided to avenge the women he had bestialized. (141)

Munguti asks for a second opinion from his older colleague, Gichua Gikere. Gikere already knew of the disease which was called “Slim" and came from Uganda. Gikere talks about one witch-doctor. Although he does not believe in witch-doctors, he decides to go to the witch-doctor anyway. But before going on the planned trip, Kombo passes away.

Munguti also has sexual realationships with three women: Mumbi, Mary Nduku, and Eunice Maimba, at the same time. They are all ‘nice people.’ He meets Mumbi, his colleague’s daughter at the clinic and is enchanted by her. They become intimate, and he finally promises to marry her. But she mothers a white baby boy of Captain Blackman, whom she met in Mombasa as a prostitute, flees to him in Helsinki just after childbirth. She dies of AIDS there.

Mary Nduku, his friend from childhood, introduces Ian Brown to Munguti at the Kenya Bankers’ Club. She is a secretary and lover of Ian Brown, 34, an Englishman, who works for the Standard Bank and lives in Muthaiga, the Beverly Hills of Nairobi. His grandfather came to Kenya from South Africa. He drives a Jaguar and plays golf at the leading clubs. He dies of AIDS, too.

Eunice Maimba visits his clinic because of her husband’s domestic violence. At first she was only his patient but he finally found himself a “sugar boy” with a “sugar mummy.” Her husband passes away because of AIDS, too.

One morning he wakes up with swollen salivary glands and wonders:

I began wondering whether the dreaded disease that had been stalking me for the last ten years had finally caught up with me. Was it with Mary Nduku via Ian Brown? I asked myself, or was it Eunice Maimba through Godfrey Maimba? I sent a prayer to the heavens, then continued

p. 132

wondering if Mumbi, Dr. GG’s daughter, could also have been the cause of my problem. She had mothered a healthy child all right but this did not necessarily free her from seropositivity, or did it? I continued to ponder.

Captain Blackmann was a Finnish sailor who frequented Mombasa’s whore houses, as did Major Oluoch, Mumbi’s other associate. All this substraction and addition led to the fact that I was surrounded in the last ten years by likely pathways of the killer virus and there was to be no escape. I had coitus often with the three women, who had done the same with three or more men who in turn had themselves been involved with others. I saw a picture similar to that of a spider-web that traps any flies that come into it and I knew we were all in the web. A sudden fear gripped me as I saw my mother listening to the news of her dear son’s final journey and its cause. (166-167)

The author focuses on ‘nice people,’ for they are the ‘limited pool of professional and technical elite’ in the country who are to play key roles in treatment. The author’s note shows his concern;

AUTHOR’S NOTE

Among the things that made me embark on ‘Nice People’ was this cutting from the Sidney Morning Herald sent to me in June, 1987. I reproduce it here 3 years after:

AIDS in Africa: the crisis that became a catastrophe by Blaine Harden

NAIROBI, Sunday: AIDS has infected up to a quarter of the population of some cities in central and eastern Africa, where it is now regarded as an unprecedented catastrophe.

The fatal disease is viewed as a particularly severe threat to Africa, the world’s poorest continent, because it appears to have spread among its limited pool of professional and technical elite.

Health authorities in Africa and observers elsewhere say the AIDS epidemic could, in a sense, decapitate some African countries.

The growing epidemic, these authorities agree, aggravates an already severe shortage of skilled people and raises the prospect of economic, political and social disorder. (VII)The

3. Last Plague

The Last Plague, on the contrary, focuses on the poor, ordinary masses.

The heroine of the novel is Janet, who tries to become independent through her job. When her husband, Broker leaves her family, Janet tries to kill herself, but doesn’t succeed. There are three children to raise and a Grandmother to care for. She is forced to become strong and conscious of herself in society. She willingly takes a job in the Government, which gave her condoms and pills to dish out, free of charge, in order to save the community from poverty and death. Her daily life is described as follows:

She walked and pedaled her bicycle dozens of kilometers every day, from hill to hill and throughout Crossroads. She talked to numerous people every day; sang them the song of the condom and told them of the benefits of planning heir families and of protecting themselves from sexually transmitted diseases. Some listened to her, but most people did not want to hear her at all and she was unwelcome in many homesteads that she visited. Some ran to hide when they saw her coming, but she chased after them and did what she had to do and said what she had to say, no matter how hostile the reception, for it was her job, a vital and important job, and she did not have to convince herself of that any more.9

Crossroads, a small town in Kenya, is going to die. The text reads; “There were burial mounds everywhere one turned; large, brooding things, darkly vibrant with death, and there was hardly a single homestead in Crossroads that did not host one, or two or three or more, of these terrible

p. 133

reminders of the futility of man. And where thee was one today, tomorrow there would be two. Two became four and four became eight. They grew, they multiplied and they mutated. They turned into monsters: hungry beasts with insatiable carving for human life.” (22)

When her classmate Frank comes back home, he is much surprised to find the changes in his native village. He had left for education through villagers’ donation, but he comes back with his education uncompleted: “As he crossed the old highway into town, he realized that Crossroads had changed too. The joyous town of his youth had aged, and done so badly. The walls had caved in, the roofs had collapsed and the streets were lined with piles of rubble from countless dead buildings; mountains of crushed masonry and heaps upon heaps of decomposing dreams. Crossroads lay still and despondent, a disease-ravaged animal, hopeless and despairing, an affliction-ridden thing whose resistance to adversity had decisively collapsed, dying without whimper.” (24)

Broker, Janet’s husband, comes back, too. He visits the house of Jemina, a woman with whom he left Crossroads for Mombasa, and finds that she has died of Aids and her grandmother remains, along with many orphans. He is also surprised to find the devastation:

Broker left Jemina’s grave a thoroughly troubled man. The boy took his hands as they walked back to the huts and the other children. Two of the huts were now open. Broker pushed a door to look into a dark and dank room, smelling of urine and poverty. Rats scrambled from the floor and ran up the walls to their nests in the thatching. There was not a stick of furniture in the room. The entire floor was covered with sacks and sleeping mats. The second hut was in the same dismal condition; one vast sleeping place where rats ruled most of the day. A scrawny milk goat, with twisted horns, leaped out of the hut, startling Broker half to death, and bolted. (321)

Janet desperately tries to fight against Aids problems with the help of Frank and Broker, who think themselves to be HIV-positive. Janet has to wage a fierce battle against the villagers’ taboos and tradition:

Taboos and tradition had to go, they had to be eliminated, to make way for meaningful progress. Old believes and assumptions were the biggest handicaps in the battle of Aids, because they had many wives, and so-called safe partners, and did not manga-manga, or consort with prostitutes. But their safe partners too had their own safe partners, who also had safe partners; in an endless long chain of safe partners that was a recipe for a terrible catastrophe. (336)

At home, Janet is assailed by her Grandmother’s fixed idea day after day:

“Talk about yourself,” Grandmother said. “You don’t even have a man of your own. What are you doing about it?”

Janet heard these words nearly every day of her life. The words hurt, and made her want to scream with fury, but she knew she would hear them till she married again or Grandmother died. (40)

“You must get married,” she said to Janet. “I worry about you and the children.”

“Marry again?” Janet asked her.

“Broker was a mistake,” she observed. “You have a right to marry again, another man. A proper man, someone who can look after you and your children. A real man.”

“A real man?” Jane scoffed at her. “In Crossroads?"

Janet saw where they were now headed with the conversation; down the old labyrinths and tedious dead ends that they had visited too many times already.

Janet laughed, wearily and without mirth, and reminded her there were not enough men in Crossroads who could take care of themselves, never mind their women and children. (42)

p. 134

Janet visits schools to give sex education for children, a church to advise their congregation to use condoms, a witch-doctor to stop circumcise village boys, but meets with strong opposition. The witch-doctor, in revenge, smashes Frank’s animal clinic to pieces because he helped Janet.

The most difficult problem Janet has to face is the marriage of her sister’s husband, Kata, the witch-doctor. Following tradition, he will inherit the wife of his dead brother who has just died of Aids. Janet tries to persuade her to change Kata’s mind:

“You know I can’t stop Kata from doing anything,” Julia said to Janet. “You know how he is a traditional man.”

“Don’t you understand anything at all?” Janet was on the point of despair. “If Kata takes Solomon’s wife, he will die. Then Julia too will die.”

“Do you now know when people will die?” Grandmother was appalled.

“Do you think you know everything?” Julia said, defiantly. “I’m tired of your telling me what to do.”

“I worry for you,” Janet said to her.

“Don’t worry for me,” she rose in a huff. “You are no my mother.”

“I’m your sister,” Janet told her. “I must worry about you.”

“Monika is more of a sister to me,” Julia retorted. “We depend on our men. We are not prostitutes.” (57-58)

In spite of her efforts Kata marries his brother’s wife, but he reluctantly accepts using condoms with Janet’s sister largely influenced by the graphic book on Aids which Janet advised her sister to read. One day a team of inspectors from Oslo comes to see Janet. She shows them around to the schools, the church, the deserted houses with orphans, her house, and the condom shop Broker started.

It is an ironic ending, the team decides to help Janet and the village even though most of the villagers are still against the change of taboos and tradition.

An HIV test is given to all the villagers. Frank finds himself HIV-negative, but Broker’s infection is confirmed. Soon after, Broker passes away.

4. Human Sorrow

Now that the cause of the disease is clear, it seems possible to prevent this viral invasion. The two stories, however, show how difficult it is to control STDs and, even more, human desire. In this we feel human sorrow.10

In Kenya, like in other African countries, the basis of the exploiting system is peasants and workers. When Europeans began to colonize African countries, they robbed Africans of their land and posed various taxes upon them, so Africans were forced to become landless peasants and workers. In Kenya some were forced to pick tea leaves as wage workers on white man’s farms and others to serve as domestic workers for white families.

Under the colonial system companies and plantations needed foremen who served as mediators and could speak English, the language of the employers, which led to the development of a new type of administrative African middle class. They were given the privilege of going to school and learned much of European culture. They began to read critiques of colonialism and some of them reacted against the cultural oppression in the colonies. Some of them were against social discrimination as a group, but they were tempted to imitate the Europeans’ privileged way of life. They led the fight toward independence.

Independence, however, gave nothing to peasants and workers, for the aristocracy who had previously fought for independence with the masses, made an alliance with industrialized countries. We cannot deny that fact Japan is among them, as an important trading partner. Some of our prosperity is based upon the profits from investments and trade.

p. 135

Now Aids has been added to the burden of ordinary African masses. The solution of the Aids problems is dualistic: Africans like Janet must change the ‘taboos and tradition’ from inside and robber nations like Japan and the U.S.A. must concede something in investments and trade.

Both are necessary.

(The Faculty of Medicine, University of Miyazaki)

<Notes>

1 Alex Duval Smith, “Africa: the continent left to die,” The Independent included in The Daily Yomiuri (September 12, 1999).

2 The Homepage of the Ministry of Foreign Affairs of Japan:

http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda99/ge/g5-12.htm.

3 According to the questionnaires I made to the freshmen in April, 2004, just one student among 236 knew the existence of African literature. (The Faculty of Medicine -134, The Faculty of Engineering – 46, The Faculty of Agriculture – 56) Every year the situation is the same.

4 Wamugunda Geteria, Nice People (Nairobi: African Artefacts, 1992) I happened to borrow this book from my Kenyan friend. I was told he had got it in some overseas conference. I wrote to the publisher for some inquiries, but there was no reply. I’m afraid the publisher exists no longer. I think few have read this novel in Japan.

5 Major Mwangi, The Last Plague (Nairobi: East African Educational Publishers, 2000)

6 Lawrence A. Altman, “World AIDS Conference Ends Pessimistically, With No Cure in Sight,” The International Herald Tribune included in The Japan Times (July 6, 1998).

7 John Lichfield, “Lethal epidemic is much larger than feared,” The Independent included in The Daily Yomiuri (November 30, 1997).

8 Nice People, p. 140; all subsequent page references to this work will appear in parentheses in this paper.

9 The Last Plague, p. 80; all subsequent page references to this work will appear in parentheses in this paper.

10 This work has been supported by JSPS. KAKENHI Grand-in-Aid-for Scientific Research (A) (15520230 – H.15~H.18) under the title: “Human Sorrow Seen between Medicine and Literature – AIDS Issues African Literature in English Depicts”

2000~09年の執筆物

概要

ムアンギの『最後の疫病』(The Last Plague, 2000)とゲテリアの『ナイスピープル』(Nice People, 1993)のケニアの小説が描き出したエイズの惨状を分析した作品論です。小説にしか描けない人の心理や性に対する考え方など、日本人に伝えると同時に、この500年のアングロサクソンを中心にした西洋諸国の侵略におかされて来たアフリカの将来への提言も分析しました。

本文

Human Sorrow:―AIDS Stories Depict An African Crisis―

TAMADA Yoshiyuki

The Faculty of Medicine, University of Miyazaki

<Summary>

This essay aims to show how AIDS stories in Kenya depict an African crisis that we have never seen in history. The AID situation in Africa is so devastating as is pointed out in a newspaper article containing the headlines; “Africa: the continent left to die – The Aids virus will kill 30 million Africans in the next 20 years. Are the drug companies making the situation worse?”1, but most of Japanese do not pay much attention to African issues including the emergent AIDS crisis, even though our country is closely related to some of the African countries through trades: The Japanese have prospered by making the best use of ODA (Official Development Assistance), an important instrument of neo-colonial strategies, in addition to investments and trade by having enhanced the alliances with the ‘nice people,’ a few chosen Africa elites. For example, Japan is one of the leading trading partners of Kenya as well as the most important ODA donor.2 Nevertheless, most of Japanese do not know even the existence of African literature.3 But they have high-standard literature in Africa. Nice People4 is a memoir which records the history of the outbreak of AIDS as early as 1984. The Last Plague5 is a novel which depicts everyday life of ordinary people suffering from HIV infection and AIDS.

I hope this essay will be some help to fill in the gap between the realities of Africa and the Japanese consciousness on Africa.

1.AIDS epidemic in the neo-colonial stage

It has been less than a quarter century since the word “AIDS" entered our vocabulary. It is in 1981 when the CDC (Centers for Disease Control and Prevention) set up a special investigation team, which was the beginning of the first methodical study of the unknown disease. The team discovered that the symptoms were caused by a drop in T-lymphocyte cells, which play the key role in the cellular immune system that protects a human body from invasion of pathogenic organisms. It was then that the disease was given the name AIDS (Acquired Immune Deficiency Syndrome). In the spring of 1983 the full proof of AIDS came and the virus is now generally called human immunodeficiency virus (HIV).

CDC(米国疾病予防センター)

Since then, researchers have developed a number of drugs. In 1996 multi-drug therapy by a combination of reverse transcriptase (RT) inhibitors and protease inhibitors prolonged the lives of many AIDS patients. That year was heralded as the year AIDS treatment came of age, but none of the drugs shuts down the HIV life-cycle for long. Within a few weeks after it enters a body, HIV produces billions of genetically varied offspring. Drugs can shackle most of them, but a few survive and go on reproducing the offspring. Thousands of them look well but not everyone fares well with the drugs. Moreover, there have been some reports of problems with resistance and side effects.

抗HIV製剤

Effective multi-drug therapy can cost much. The price is tremendous, even in the industrialized countries. In the developing countries those drugs are financially completely out of reach as a report of the 1998 World AIDS Conference points out;

And even when the drugs offered hope, still other speakers said, it is hope beyond the reach of the vast majority of the 34 million people now infected the AIDS virus. Those patients cannot afford the treatment. It can cost about $15,000 to provide the drugs to one person a year, a sum greater than the entire budget of many a Third World village.6

It was in the early 80’s that the ADIS problem appeared in Africa. In such a short period the disease has spread much more rapidly than expected. An article in 1997 reports;

In the developing world, and especially in Africa, the virus continues to take an extraordinary, and often hidden, toll of suffering. It is estimated that 2,300,000 people will die of Aids-related diseases this year, a 50-percent increase on 1996.

The UN-Aids programme now admits that it has “grossly under-estimated” the number of people who have the HIV virus, and full-blown Aids, in Africa,…

The impact of HIV on this continent is so devastating that it has wiped out 30 years of gains from improved nutrition and medical treatment….7

Nice People and The Last Plague depict the devastating situation of AIDS in Kenya. The former story shows us the panic of the time when some doctors had to face this unknown sexually transmitted disease for the first time. The latter novel describes many suffering people in a withering village by the attack of the plague.

2.Nice People

The protagonist of Nice People is Joseph Munguti, a doctor in Kenya Central Hospital (KCH). In 1974, after graduating Ibadan University in Nigeria, he begins to work there.

At the university he was interested in STDs (Sexual Transmitted Diseases) and wrote the sub-thesis: “Kenyan morality and its effects on the epidemiology of Gonorrhoea and the Treponematoses." He insisted that “we would gain tremendous progress in the fight against venereal diseases were we to provide by extensive and intensive media communications acceptance of sexually transmitted diseases instead of moralising about and concealing them.”

He starts his internship under Waweru Gichinnga, his officer in-charge, who advises Munguti to work on night duty on a clinic in Nderu. Later Gicinga opens his own clinic, the River Road Clinic in Nairobi. The Nderu and River Road Clinics complement each other. As the law is vigilant in Nairobi, some operations can be illegally performed in Nderu. Most patients at Nderu contact venereal diseases (VDs). Ten years later Gicinga is arrested for his illegal treatments, so Munguti inherits the clinic as his own VDs’ clinic for the down-trodden in society.

ケニア地図

In January, 1984, he reopens the clinic under a new name, believing he is the leading venereologist in the county and that there is no venereal disease he has not diagnosed and treated.

In December of 1984, however, a Chinese puzzle came to his clinic. At first he thinks it is a simple case of lymphogranuloma venereum, then, on a second visit, the sores that he thinks are simple genital herpes has spread all over the body. His patient named Kombo tells him that the patient tried all sorts of medicines without success. A friend referred him to Munguti and assured him that he would be cured.

Kombo says, “I am a rich man, young man. Here is twenty thousand shillings. Go and look for any medicine that will get rid of this."

Kombo and Munguti belong to the rich class. They are rich enough to use the Kenya Banker’s club “which was patronised by many members of the civil service, the big banks and government corporations. In this club most of the people in the who-is-who in Nairobi converged especially on Thursdays. It had five tennis courts, three squash courts, a sauna and a beautiful swimming pool which made it a particularly convenient rendezvous for Nairobi’s young bureaucrats.” (146)

ナイロビ市街

So, Munguti starts researching in the Kenya Medical Research Library and finds out the November issue of the “American Medical Journal":

A serious dermatological condition follows the genital herpes which resists all known antibiotic. Persistent diarrhoea, coughing and swelling of most lymph nodes accompanies the disease. Since the body is incapable of fighting many common diseases, the patient begins to wither away and eventually dies. It has been named the green monkey disease as the virus causing it is synonymous to the one similarly attacking the green monkeys of Central Africa! Several San Franciscan homosexuals are suffering from it."8

Munguti is certain that these symptoms were the same that he saw in Kombo. What he requires is a diagnosis with clinical tests and further research on causal factors, plus an understanding of Kombo’s background. He goes for a drink hoping to meet a medic with whom he can share his thoughts and comes across his old colleagues at the KCH. They confirm his fears that a new sexually transmitted disease has been diagnosed and is transmitted by a strange virus. It already killed five persons at the KCH, a Finish man, two Americans and two Zaireans. Three Kenyans were also admitted with the disease that week. The disease is highly contagious and is terminal. The men and women are therefore isolated in cages from other patients.

Munguti visits the KCH to look at the patients for comparative purposes. When he is taken by a nurse to a glass walled room where three men sleep, he feels such helplessness as he watches the helpless men anxiously looking at them. Then he recognizes his patient, Kombo. He froths at the mouth, archs his back and appears in great pain as he coughs repeatedly, a dry cough that is definitely puncturing his lungs;

“The one you were looking at is Major Kombo. Cleansing Superintendent of the Nairobi Garbage Handlers Company Ltd. They brought him yesterday and he is unlikely to survive another day," the nurse-in-charge advised and I started warming up in the heart. My guilt started waning as I recalled a battered Luo lady who years ago had come to the River Road Clinic complaining of a sodomist City garbage collection boss. I remembered thinking of going to the police station to report a felony, but declined because my medical profession barred me from doing so. Poor Major Kombo, I rationalised, his maker must have decided to avenge the women he had bestialized. (141)

Munguti asks the second opinion to his older colleague, Gichua Gikere. He already knew of the disease which was called “slim" and came from Uganda. Gikere talks about one witchdoctor. Although he does not believe in witch-doctors, he decides to go to the witch-doctor. But before going on the planned trip, Kombo passes away.

Munguti also has sexual realationships with three women: Mumbi, Mary Nduku, and Eunice Maimba, at the same time. They are all ‘nice people.’ He meets Mumbi, his colleague’s daughter at the clinic and is enchanted by her. They become intimate, finally promise to marry. But she has a white boy of Captain Blackman, whom she met in Mombasa as a prostitute, flees to to him in Helsinki just after childbirth. She dies of AIDS there.

モンバサ周辺地図

Mary Nduku, his friend from childhood, introduces Ian Brown at the Kenya Bankers’ Club to Munguti. She is a secretary and lover of Ian Brown, 34, an Englishman, who works for the Standard Bank and lives in Muthaiga, the Beverly Hills of Nairobi. His grandfather came to Kenya from South Africa. He drives a Jaguar and plays golf at the leading clubs. He dies of AIDS, too.

Eunice Maimba visits his clinic because of her husband domestic violence. At first she was only his patient but he finally found himself a “sugar boy” with a “sugar mummy”. Her husband passes away because of AIDS, too.

One morning he wakes up with swollen salivary glands and wonders:

I began wondering whether the dreaded disease that had been stalking me for the last ten years had finally caught up with me. Was it with Mary Nduku via Ian Brown? I asked myself, or was it Eunice Maimba through Godfrey Maimba? I sent a prayer to the heavens, then continued wondering if Mumbi, Dr. GG’s daughter, could also have been the cause of my problem. She had mothered a healthy child all right but this did not necessarily free her from seropositivity, or did it? I continued to ponder.

Captain Blackmann was a Finnish sailor who frequented Mombasa whore houses, so did Major Oluoch, Mumbi’s other associate. All this substraction and addition led to the fact that I was surrounded in the last ten years by likely pathways of the killer virus and there was to be no escape. I had coitus severally with the three women, who had done the same with three and more men who in turn had themselves been involved with others. I saw the picture similar to that of a spider-web that taps any flies that come into it and I knew we were all in the web. A sudden fear gripped me as I saw my mother listening to the news of her dear son’s final journey and its cause. (166-167)

The author focuses on ‘nice people,’ for they are their ‘limited pool of professional and technical elite’ in the country who are to play the key role of treatment. The author’s note shows his concern;

AUTHOR’S NOTE

Among the things that made me embark on Nice people was this cutting from the Sidney Morning Herald sent to me in June, 1987. I reproduce it here 3 years after:

AIDS in Africa: the crisis that became a catastrophe by Blaine Harden

NAIROBI, Sunday: AIDS has infected up to a quarter of the population of some cities in central and eastern Africa, where it is now regarded as an unprecedented catastrophe.

The fatal disease is viewed as a particularly severe threat to Africa, the world’s poorest continent, because it appears to have spread among its limited pool of professional and technical elite.

Health authorities in Africa and observers elsewhere say the AIDS epidemic could, in a sense, decapitate some African countries.

The growing epidemic, these authorities agree, aggravates an already severe shortage of skilled people and raises the prospect of economic, political and social disorder. (VII)

著者解説付きの『ナイスピープル』裏表紙

3.The Last Plague

The Last Plague, on the contrary, focuses on many poor people, ordinary masses.

It is a novel of Janet, who tries to become independent through her job. When her husband, Broker left her family, Janet tried to kill herself, but didn’t. There were three children to raise and Grandmother. She was forced to become strong and conscious of herself in the society. She willingly took a job of the Government, which gave her condoms and pills to dish out, free of charge, in order to save the community from poverty and death. Her daily life is as follows:

She walked and pedaled her bicycle dozens of kilometers every day, from hill to hill and throughout Crossroads. She talked to numerous people every day; sang them the song of the condom and told them of the benefits of planning heir families and of protecting themselves from sexually transmitted diseases. Some listened to her, but most people did not want to hear her at all and she was unwelcome in many homesteads that she visited. Some ran to hide when they saw her coming, but she chased after them and did what she had to do and said what she had to say, no matter how hostile the reception, for it was her job, a vital and important job, and she did not have to convince herself of that any more.9

Crossroads, a small town in Kenya, is going to die. The text reads; “There were burial mounds everywhere one turned; large, brooding things, darkly vibrant with death, and there was hardly a single homestead in Crossroads that did not host one, or two or three or more, of these terrible reminders of the futility of man. And where thee was one today, tomorrow there would be two. Two became four and four became eight. Hey grew, they multiplied and they mutated. They turned into monsters: hungry beasts with insatiable carving for human life.” (22)

When her classmate Frank comes back home, he is much surprised to find the change of his native village. He left for education by villagers’ donation, he comes back, his education unfinished: “As he crossed the old highway into town, he realized that Crossroads had changed too. The joyous town of his youth had aged, and done so badly. The walls had caved in, the roofs had collapsed and the streets were lined with piles of rubble from countless dead buildings; mountains of crushed masonry and heaps upon heaps of decomposing dreams. Crossroads lay still and despondent, a disease-ravaged animal, hopeless and despairing, an affliction-ridden thing whose resistance to adversity had decisively collapsed, dying without whimper.” (24)

Broker comes back, too. He visits the house of Jemina, a woman with whom he left Crossroads for Mombasa, and found she is dead of Aids and her grandmother remains with many orphans. He is also surprised to find the devastation:

Broker left Jemina’s grave a thoroughly troubled man. The boy took his hands as they walked back to the huts and the other children. Two of the huts were now open. Broker pushed a door to look into a dark and dank room, smelling of urine and poverty. Rats scrambled from the floor and ran up the walls to their nests in the thatching. There was not a stick of furniture in the room. The entire floor was covered with sacks and sleeping mats. The second hut was in the same dismal condition; one vast sleeping place where rats ruled most of the day. A scrawny milk goat, with twisted horns, leaped out of the hut, startling Broker half to death, and bolted. (321)

Janet desperately tries to fight against Aids problems with the help of Frank and Broker, who thought themselves to be HIV-positive. Janet has to make a fierce battle with the villagers’ taboos and tradition:

Taboos and tradition had to go, they had to be eliminated, to make way for meaningful progress. Old believes and assumptions were the biggest handicaps in the battle of Aids, because they had many wives, and so-called safe partners, and did not manga-manga, or consort with prostitutes. But their safe partners too had their own safe partners, who also had safe partners; in an endless long chain of safe partners that was a recipe for a terrible catastrophe. (336)

At home Janet is assailed by a fixed idea of her Grandmother day after day:

“Talk about yourself,” Grandmother said. “You don’t even have a man of your own. What are you doing about it?”

Janet heard these words nearly every day of her life. The words hurt, and made her want to scream with fury, but she knew she would hear them till she married again or Grandmother died. (40)

“You must get married,” she said to Janet. “I worry about you and the children.”

“Marry again?” Janet asked her.

“Broker was a mistake,” she observed. “You have a right to marry again, another man. A proper man, someone who can look after you and your children. A real man.”

“A real man?” Jane scoffed at her. “In Crossroads?"

Janet saw where they were now headed with the conversation; down the old labyrinths and tedious dead ends that they had visited too many times already.

Janet laughed, wearily and without mirth, and reminded her there were not enough men in Crossroads who could take care of themselves, never mind their women and children. (42)

Janet visits schools to give sex education for children, a church to advise their congregation to use condoms, a witch-doctor to stop circumcise village boys, but meets a strong opposition. The witch-doctor, in revenge, smashes Frank’s animal clinic to pieces because he helped Janet.

The most difficult problem Janet has to face is the marriage of her sister’s husband, Kata, the witch-doctor. Following tradition, he will inherit the wife of his dead brother who has just died of Aids. Janet tries to persuade her to change Kata:

“You know I can’t stop Kata from doing anything,” Julia said to Janet. “You know how he is a traditional man.”

“Don’t you understand anything at all?” Janet was on the point of despair. “If Kata takes Solomon’s wife, he will die. Then Julia too will die.”

“Do you now know when people will die?” Grandmother was appalled.

“Do you think you know everything?” Julia said, defiantly. “I’m tired of your telling me what to do.”

“I worry for you,” Janet said to her.

“Don’t worry for me,” she rose in a huff. “You are no my mother.”

“I’m your sister,” Janet told her. “I must worry about you.”

“Monika is more of a sister to me,” Julia retorted. “We depend on our men. We are not prostitutes.” (57-58)

In spite of her efforts Kata marries his brother’s wife, but he reluctantly admits to use condoms with Janet’s sister influenced by the graphic book on Aids which Janet advised her sister to read. One day a team of inspectors from Oslo comes to see Janet. She shows them around to the schools, the church, the deserted houses with orphans, her house, and the condom shop Broker started.

It is an ironic ending the team decides to help Janet and the village, even though most of the villagers are still against the change of taboos and tradition.

The HIV test is given to all the villagers. Frank finds himself HIV-negative, and Broker makes sure of his infection. Soon after, Broker passes away.

イライザ法検査器具

4.Human Sorrow

Now that the cause of the disease is clear, it seems possible to prevent the virus invasion. The two stories, however, show how difficult it is to control STDs and even more human desire. We feel even human sorrow.10

In Kenya, like in other African countries, the basis of the exploiting system is peasants and workers. When Europeans began to colonize African countries, they robbed Africans of their land and posed them various taxes, so Africans were forced to become landless peasants and workers. In Kenya some were forced to pick up tea as wage workers in white man’s farms and others to serve as domestic workers for white families.

ケニア地図

Under the colonial system companies and plantations needed foremen who served as mediators and could speak English, the language of the employers, which led to the development of a new type of administrative African middle class. They were given the privilege of going to school and learned much of European culture. They began to read criticism against colonialism. Some of them reacted against the cultural oppression in the colonies. Some of them were against social discrimination as a group, but they were tempted to imitate the Europeans’ privileged way of life. They led the fight toward independence.

Independence, however, gave nothing to peasants and workers, for the upper petty- bourgeoisie class and the petty-bourgeois tried to make an alliance with industrialized countries. We cannot deny that fact Japan is among them, the important trading partner. Some of our prosperities are based on the profits of investments and trades.

Now Aids has been added to the burden of ordinary African masses. The solution of the Aids problems is alternative: Africans like Janet will change the ‘taboos and tradition’ from inside or the side of the robber like Japan and the U.S.A. will concede even an inch in investments and trades.

Both are necessary.

HIV

Notes

1 Smith, Alex Duval. (September 12, 1999) Africa: the continent left to die. The Independent included in The Daily Yomiuri.

2 The Homepage of the Ministry of Foreign Affairs of Japan:

http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda99/ge/g5-12.htm

3 According to the questionnaires I made to the freshmen in April, 2004, just one student among 236 knew the existence of African literature. (The Faculty of Medicine -134, The Faculty of Engineering – 46, The Faculty of Agriculture – 56) In April, 2009. there are only 3 among 140 (1 nursing student and 3 medical students in the Faculty of Medicine.) Every year the situation is almost the same.

4 Geteria, Wamugunda. (1992) Nice People. Nairobi: African Artefacts. I happened borrow this book from my Kenyan friend. I was told he had got it in some overseas conference. I wrote to the publisher for some inquiries, but there was no reply. I’m afraid the publisher exists no longer. Now we can get a version by East African Educational Publishers and Michigan State University Press.

5 Mwangi, Major. (2000) The Last Plague. Nairobi: East African Educational Publishers.

6 Altman, Lawrenc A. (July 6, 1998) World AIDS Conference Ends Pessimistically, With No Cure in Sight. The International Herald Tribune included in The Japan Times.

7 Lichfield, John. (November 30, 1997) Lethal epidemic is much larger than feared. The Independent included in The Daily Yomiuri.

8 Nice People. 140. All subsequent page references to this work will appear in parentheses in this paper.

9 The Last Plague. 80. All subsequent page references to this work will appear in parentheses in this paper.

10 This work has been supported by JSPS. KAKENHI Grand-in-Aid-for Scientific Research (A) (15520230 – H.15~H.18) under the title: “Human Sorrow Seen between Medicine and Literature – AIDS Issues African Literature in English Depicts”

執筆年

2009年

収録・公開

Research and Practice in ESP (No. 10), pp. 12-20

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Human Sorrow – AIDS Stories Depict An African Crisis

2000~09年の執筆物

概要

グギの言語選択と亡命後のケニアの状況を論じたグギの作家論、作品論です。英語で書いていたグギが母国語のギクユ語で書き始めた動機、ギクユ語で農民や労働者のために書いた劇『結婚?私の勝手よ!』(Ngaahika Ndeenda, 1978)の上演から逮捕・拘禁、亡命に至るまでの経緯を、亡命後に出された新聞や雑誌のインタビュー記事を基に検証した後、『結婚?私の勝手よ!』の作品と、経済不況やエイズ禍に見舞われている亡命後の二十年の分析を行ないました。

本文(写真作業中)

Ngugi wa Thiong’o, the writer in politics:

his language choice and legacy

  1. “Shipwrecked”

The aim of this essay is to provide an estimation of Ngugi wa Thiong’o and his writings by tracing how he made a language choice of his writing, and how he has been forced to live in exile and still struggles against injustice from outside his country.  The following analyses are to point out the harsh realities that contemporary African writers in politics are to confront, and at the same time, to pose us a grave question that part of the prosperity in the developed world is based on the sacrifice of those kinds of harsh realities that Ngugi is now confronting.

Twenty years have passed since Ngugi wa Thiong’o visited London on June 8, 1982 and never returned to his home.  He is staying in the United States in exile and his homecoming has never been realized.  As he refers to his own situation as being “shipwrecked,” recalling James Joyce’s mariners, renegades, and castaways, he is now living “the reality of the modern writer in Africa.”1

Why was he forced to be “shipwrecked”?  The reason is quite simple; he became a real threat to the Kenyan government.

He was educated at Makerere University, Uganda and at Leeds University, in the United Kingdom, in a Western style as many African leaders were.  “At Makerere University the course was based on the syllabus for English studies at the University of London,”2 so in due course he began to make his writings in English under the name of James Ngugi.  His works were highly evaluated; Weep Not, Child won the first prize for Anglophone novels at the first World Festival of Negro Arts in Dakar in 1966; he was awarded the Lotus Prize in Literature at the 5th Afro-Asian Writers Conference in Alma Ata, Khazakhstan in 1973.  That same year he attended the International Emergency Conference on Korea in Tokyo and delivered a speech, appealing for the release of the Korean poet Kim Chi Ha, then imprisoned in South Korea.

In 1967 he became Special Lecturer in English of University College, Nairobi, the first African member of the department.  At many international conferences he delivered vigorous plenary speeches and presented extensive papers.  He was also invited by many universities to lecture.  All his activities, however, were in the context of English literature by an African writer, not in the context of African Literature.  As long as he was perceived in this context, he was not a real threat to the regime; on the contrary he was to play a role of the spokesman who showed the world that the newly independent Kenya was a “democratic” country with freedom of speech guaranteed.

It was not until he began to walk together with peasants and workers by making his writings in his mother tongue, Gikuyu, after changing name to Ngugi wa Thiong’o that he became a symbol of threat to the system.

In Kenya, like in other African countries, the basis of the exploiting system is peasants and workers.  When Europeans began to colonize African countries, they robbed Africans of their land and posed them various taxes, so Africans were forced to become landless peasants and workers.  Some were forced to pick up tea as wage workers in white man’s farms and others to serve as domestic workers for white families.  In that system there were no problems for the regime as long as Ngugi was not truly on the side of the peasants and workers, however hard he made his literary activities even in an international context.

The situation became totally different when Ngugi began to stand on the side of peasants and workers.

  1. “To choose an audience is to choose a class”

Under the colonial system the creation of a middle class was intentionally prevented by Europeans and filled the gap with imported foreigners.  But companies and plantations needed foremen who served as mediators and could speak the language of the employers, which led to the development of a new type of administrative African middle class.  They were given the privilege of going to school and learned much of European culture.  They began to read criticism against colonialism.  Some of them reacted against the cultural oppression in the colonies.  Some of them were against social discrimination as a group, but they were tempted to imitate the Europeans’ privileged way of life.  From the beginning Ngugi was involved in that kind of contradiction.

So, it is natural that while he was active as a creative writer and teacher at Nairobi University, he repeatedly asked himself: “For whom do I write?”  He keenly felt the contradiction of language choice.  He recalls:

I was a student at Leeds University in the mid-Sixties when I first strongly felt a sense of despair at that contradiction in my situation as a writer.  I had just published A Grain of Wheat, a novel that dealt with the Kenyan peoples’ struggle for independence.  But the very people about whom I was writing were never going to read the novel or have it read for them.  I had carefully sealed their lives in a linguistic case.  Thus whether I was based in Kenya or outside, my opting for English had already marked me as a writer in exile.  Perhaps Andrew Gurr had been right after all.  The African writer is already set aside from people by his education and language choice.

The situation of the writer in 20th-century Africa mirrors that of the larger society.  For if the writer has been in a state of exile – whether it is physical or spiritual – the people themselves have been in exile in relationship to their economic and political landscape.3

When he was involved in the community activities by the peasants and workers, it was natural that he made a major shift in his life.  At that time there was a choice for him as to whether he should stand on the side of the regime or on the side of peasants and workers.  He explains:

In 1976 the peasants and workers of Kamiriithu village, which is about 30km from Nairobi, came together to form what later came to be called the Kamiriithu Community, Education, and Culture Centre.  These people wanted a theatre.  How could one then write or script a play without using their own language?  I must say that this was a major shift in my life, and part of my decision, in fact, to write in the Gikuyu language had its origins in my experience working with the people of Kamiriithu.4

He chaired the cultural committee of the Centre, which commenced adult literacy classes.  Village-based theatre groups were established and tried to create their own performances but found it difficult to find a theatre to perform in.  Even after independence, in every phase of society the cultural forces representing foreign interests were virtually dominant.  Ngugi points out:

Now our visitor might visit schools.  The English language dominates a Kenyan child’s life from primary school to university and after….a Kenyan child grows up admiring the culture carried by these foreign languages, in effect western European ruling class cultures and looks down on the culture carried by the language of his particular nationality….

But it is in the theatre that this domination by foreign cultural interests is most nakedly clear.  Nairobi has recently seen a mushrooming of neo-colonial foreign cultural institutions like the French Cultural Centre, the German Goethe Institute, the Japanese Cultural Institute, and of course the American Information Services.  Some of these institutes promote theatre and theatre-related events and discussions.  But naturally they are basically interested in selling a positive image of their neo-colonial profit-hunting adventurism in Asia, Africa and Latin America….

What really annoys most patriotic Kenyans about the theatre scene in their own country is not so much the above foreign presences but the fact that the Kenya government-owned premises, The Kenya Cultural Centre and The Kenya National Theatre, should themselves be controlled by foreigners offering foreign theatre to Kenyans.  A foreign imperialist cultural mission, i.e. The British Council, occupies virtually all the offices at The Kenya Cultural Centre.  The governing council of the same Centre is chaired by a British national and The British Council is in addition represented on the council.  The Kenya National Theatre which is run by the governing council is completely dominated by foreign-based theatre groups like The City Players and Theatre Ltd.  What these groups offer has nothing to do with Kenyan life except when maybe they offer racist shows like The King and I or Robinson Crusoe….5

Given these circumstances the group at the Center began to perform their own play by themselves in 1977.  They asked Ngugi and his colleague Ngugi wa Mirii to script a play in Gikuyu.  It was a turning point and a major shift in his life; he was not able to avoid his language choice.  He sums up his own choice:

…If you write in a foreign language, you are (whether you like it or not) assuming a foreign-language readership.  In other words, if you are writing in English you must be assuming an English-speaking readership – in most African countries this can only mean a minority ruling class, a ruling class which is often the object of your criticism as a writer.  If I write in the Gikuyu language (or in any African language, for that matter); I am assuming an African readership and so, in fact, am assuming a peasant and worker audience.  That is why it is correct to say that to choose an audience is to choose a class.6

Ngugi chose a peasant and worker audience and, along with Ngugi wa Mirii, wrote for them a script of Ngaahika Ndeenda which later came to be known as I will marry when I want.

He became reassured that he should play the role of a writer:

What is important is not only the writer’s honesty and faithfulness in capturing and reflecting the struggles around him, but also his attitude to those big social and political issues.  It is not simply a matter of a writer’s heroic stand as a social individual – though this is crucial and significant – but the attitudes and the world view embodied in his work and with which he is persuading us to identify vis-a-vis the historical drama his community is undergoing.  What we are talking about is whether or not a writer’s imaginative leap to grasp reality is aimed at helping in the community’s struggle for a certain quality of life free from all parasitic exploitative relations – the relevance of literature in our daily struggle for the right and security to bread, shelter, clothes and song, the right of a people to the products of their own sweat.  The extent to which the writer can and will help in not only explaining the world but in changing it will depend on his appreciation of the classes and values that are struggling for a new order, a new society, a more human future, and which classes and values are hindering the birth of the new and the hopeful.  And of course it depends on which side he is in these class struggles of his times.7

Through the theatrical activities with peasants and workers, he made clear his standpoint as a writer.  He began to stand on the side of the class of peasants and workers.

Those peasants and workers were enthusiastic; they designed and built an open-air stage in the centre of the village.  The actors were all peasants and workers.  They completely broke with the hitherto accepted theatrical traditions; the initial reading and discussion of the script was done in the open; the selection of actors was done in the open with the village audience helping in the selection; all the rehearsals for four months were done in the open with an ever increasing crowd of commentators and directors; the dress rehearsal was done to an audience of over one thousand peasants and workers.

“When the show finally opened to a fee-paying audience, the group performed to thousands of peasants and workers who often would hire buses or trek on foot in order to come and see the play.  For the first time, the rural people could see themselves and their lives and their history portrayed in a positive manner.  For the first time in their post-independence history a section of the peasantry had broken out of the cruel choice that was hitherto their lot: the bar or the church.  And not the least, they smashed the racialist view of peasants as uncultured recipients of cultures from beneficient foreigners.”8

With the help of writers peasants and workers began to become conscious of their position in the society and to understand the exploiting system around them, which might have been a real threat to the regime.

  1. Ngaahika Ndeenda

How is his imaginative leap to grasp reality “aimed at helping in the community’s struggle for a certain quality of life free from all parasitic exploitative relations”?  How could “thousands of peasants and workers see themselves and their lives and their history portrayed in a positive manner”?

Ngaahika Ndeenda is a three-act play about Kiguunda, a farm labourer and his relatives and his neighbours.  He is cheated by Ahabkioi (Kioi), a wealthy farmer and businessman and robbed of his land.  In the process he realizes how farm labourers are exploited by wealthy Kenyans who collaborate with foreign businessmen, and at the same time how important their unity is to struggle “for the right and security to bread, shelter, clothes and song, the right of a people to the products of their own sweat.”

In the play Kiguunda complains of their hardships of life:

…I drive a machine all the day,

You pick tea-leaves all the day,

Our wives cultivate the fields all the day

And someone says you don’t work hard?

The fact is

That the wealth of our land

Has been grabbed by a tiny group

Of the Kiois and the Ndugires

In partnership with foreigners!…9

Kiguunda is one of the poor wage workers.  One day he receives Kioi’s visit.  Kioi has become rich as he was one of the homeguards who were employed as local agents enforcing Emergency rules during the Independence War.  His aim was to acquire Kiguunda’s small pieces of land.  A foreign businessman asks Kioi to drive the poor labourers to sell their strips of land for a planned insecticide factory.  He always collaborates with foreign businessmen.

Kiguunda is cornered and ends up with losing his land.  He tries to kill Kioi with a knife for revenge, but in vain.

One of the neigbours tries to comfort Kiguunda during his troubles.

Whatever the weight of our problems,

Let’s not fight among ourselves.

Let’s not turn violence within us against us,

Destroying our homes

While our enemies snore in piece.…10

At the end of the play they sing together in unison;

[Sings]

Two hands can carry a beehive,

One man’s ability is not enough,

One finger cannot kill a louse,

Many hands make work light.

Why did Gikuyu say those things?

Development will come from our unity.

Unity is our strength and wealth.

A day will surely come when

If a bean falls to the ground

It’ll be split equally among us,

For –11

This historical success of those peasants and workers eventually leads to Ngugi’s political detention.  At the end of 1977 he was arrested and detained.  After about a whole year’s detention he was released, but denied his position of University of Nairobi.  In 1979 he was arrested again, this time, with Ngugi wa Mirii, the co-author of Ngaahika Ndeenda.

  1. Kenyatta detained Ngugi

In 1977 Ngugi was detained by the president Jomo Kenyatta, who once fought against colonialism for independence together with peasants and workers.  In 1979 he was detained by Daniel arap Moi who succeeded Kenyatta and has ruled unchallenged for more than twenty three years.

It was ironic indeed that Jomo Kenyatta, the hero of the Independence War detained Ngugi.  Kenyatta, once one of the oppressed, who fought against the oppressor for independence, became the oppressor.  Ngugi hints to us how Kenyatta made the shift after independence;

But KANU (the Kenya African National Union) was a mass movement containing within it different class strata and tendencies: peasant, proletarian, and petty-bourgeois.  Leadership was in the hands of the petty-bourgeoisie, itself split into three sections representing three tendencies: there was the upper petty-bourgeoisie that saw the future in terms of a compradorial alliance with imperialism; there was the middle petty-bourgeoisie which saw the future in terms of national capitalism; and there was the lower petty-bourgeoisie which saw the future in terms of some kind of socialism. The upper petty-bourgeoisie can be branded as comprador; and the middle and lower petty-bourgeoisie can be branded as nationalistic. The internal struggle for the ideological dominance and leadership of KANU from 1961 to 1966 was mainly between the faction representing comprador bourgeois interests, and the faction representing national patriotic interests.  The faction representing the political line of comprador bourgeoisie was the one enormously strengthened when KADU (the Kenya African Democratic Union) joined KANU.  This faction, led by Kenyatta, Gichuru and Mboya, also controlled the entire coercive state machinery inherited intact from colonial times.  The patriotic faction was backed by the masses but it did not control the central organs of the party or the state and it was the one considerably weakened by KADU’s entry.  But the internal struggles continued with unabated fury.

The struggles were primarily over what economic direction Kenya should take. The comprador bourgeoisie which had been growing in the womb of the colonial regime desired to protect and enhance its cosy alliance with foreign economic interests….

But by 1966, the comprador bourgeois line, led by Kenyatta, Mboya and others, had triumphed.  This faction, using the inherited colonial state machinery, ousted the patriotic elements from the party leadership, silencing those who remained and hounding others to death.12

Kenyatta, as the president of the state and the representative of the comprador bourgeoisie class, had no other choice but to oust Ngugi, one of the patriotic elements, for he was a real threat to the whole system.  Through cultural activities Ngugi helped peasants and workers, the very basis of the exploitative system, to be conscious of who they are and what the system is.

And, he was “shipwrecked.”

  1. “The continent left to die”

In the past twenty years while Ngugi was away from his country, the comprador bourgeoisie class and some industrialized countries have enhanced their alliances by strengthening their economic ties.  Those industrialized countries have prospered by making the best use of ODA (Official Development Assistance), an important instrument of neo-colonial strategies, in addition to investments and trade.  Japan is one of the leading trading partners being the No. 1 ODA donor to Kenya.13  The comprador bourgeoisie class, the most influential force in those countries, has salted away a personal fortune by using the state machinery.  President Moi is believed to own a whole street in Hawaii, some buildings in New York City, and to keep a tremendous amount of money in a Swiss bank, as Mobutu in Zaire once did.  The debts of the country have accumulated year by year.  Corruption has eaten deep into the fabric of the whole society.  The gap between the rich and the poor has deepened further.  The land has deteriorated even more.  And now the AIDS epidemic has attacked the country relentlessly.  This sexally transmitted disease is fatal in poor countries, especially in a culture like Kenya’s where prostitution and male promiscuity are widely accepted because of the polygamy system.

Once a person is infected with HIV, there is no cure at present, even though therapy can prolong the lives of the patients.  It follows that without drugs many infected victims will die soon or later in countries like Kenya.  The drastic reduction of population in developing countries never fails to threaten the present structure of the neo-colonial system in the industrialized countries to its foundation, for the basis of exploitation is upon peasants and workers in developing countries.

Researchers have developed a lot of drugs and now multi-drug therapy, through a combination of reverse transcriptase inhibitors and protease inhibitors, is transforming and prolonging the lives of many AIDS patients.  But the price of the drugs is tremendous even in the industrialized countries.  In developing countries like Kenya, drug therapies are completely out of reach financially.

“Africa: the continent left to die,” the title of a newspaper article, is very shocking, but it symbolizes the scourge of this AIDS epidemic:

Twenty years is a long time.  The fact that Ngugi’s homecoming has not been realized shows that the comprador bourgeoisie class has prospered by using the state machinery and by enhancing alliances with foreign economic interests.  But the land has deteriorated even more.  The gap between the rich and the poor has deepened.  The country is in crisis with corruption and accumulated debts.  And now the AIDS threat has been added.  “Africa: the continent left to die,” the title of a newspaper article, is very shocking, but it symbolizes the plight of this AIDS situation:our time;

With the “AIDS time bomb" widely perceived as having been brought under control in the industrialised world, new figures show that despite strenuous efforts in many African countries, the Human Immunodeficiency Virus (HIV) is beginning to exact its deadly toll on the continent.  At least 30 million Africans are expected to die from AIDS in the next 20 years: it will kill more people than war or famine, it will undermine young democracies and put millions of orphans on the streets.

Among Africans, whose nutritional intake is poor, Acquired Immune Deficiency Syndrome (AIDS) kills quickly.  Among the uneducated and superstitious, where the status of women is low, AIDS spreads unhindered and sufferers are thrown out by their families or have their homes burnt down.  Only a tiny elite can afford drugs such as AZT, 3TC and protease inhibitors, which can make AIDS a chronic disease rather than a death sentence.14

Kenya is in a deep crisis that we have never seen before.  Ngugi’s mother country is now “left to die.”

Kenya, Ngugi wa Thiong’o’s mother country, is now “left to die.”

(Miyazaki Medical College)

<Notes>

1 Ngugi wa Thiong’o, “From the corridors of silence,” The Weekend Guardian (October 21-22, 1989), p. 2.

2 Ngugi, “Ngugi on Ngugi,” in Ngugi wa Thiong’o: The Making of a Rebel by Carol Sicherman (Hans Zell Publishers, 1990), p. 21.

3 Ngugi, “From the corridors of silence,” p. 3.

4 Ngugi, “Interview with Ngugi wa Thiong’o,” Marxism Today (September, 1982), p. 35.

5 Ngugi, Writers in Politics (London: Heinemann, 1981), pp. 43-44.

6 Ngugi, “Interview with Ngugi wa Thiong’o,” p. 35.

7 Ngugi, Writers in Politics, pp. 74-75.

8 Ngugi, Writers in Politics, p. 47.

9 Ngugi, Ngaahika Ndeenda; I Will Marry When I Want (Harare: Zimbabwe Publishing House, 1986), pp. 61-62.

10 Ngugi, Ngaahika Ndeenda; I Will Marry When I Want, p. 110.

11 I Will Marry When I Want, pp. 114-115.

12 Ngugi, Detained: A Writer’s Prison Diary (London: Heinemann, 1981), pp. 52-54.

13 The Homepage of the Ministry of Foreign Affairs of Japan:http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda99/ge/g5-12.htm

14 Alex Duval Smith, “Africa: the continent left to die,” The Independent included in The Daily Yomiuri (September 12, 1999), p. 14.

執筆年

2003年

収録・公開

「言語表現研究」19号 12-21 ペイジ

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Ngugi wa Thiong’o, the writer in politics: his language choice and legacy

1990~99年の執筆物

概要

Africa and Its Descendants(英文書、Mondo Books, 1995)の続編です。

Africa and Its Descendants

Africa and Its Descendants 2

本文

目次PrefaceBibliography奥付け、「テキストの解説」(メールマガジンに連載)のリンクです。

<目次>

CHAPTER 1 (pp. 6-29) : The neo-colonial stage: Mechanism and realities

I Introduction
II The mechanism and realities of neo-colonialism

II-1 The age of independence
II-2 The creation of African new classes
II-3 Economic dependence
II-4 Development aid
II-5 Growth without development
II-6 Self-reliance and concession

CHAPTER 2 (pp. 30-47) : Literary works

1 And a Threefold Cord by Alex La Guma
2 The Honourable MP by Gonzo H. Mesengezi

Chapter 3 (pp. 48-75) : Contemporary issues

1 AIDS epidemic
2 Zaire’s turmoil
3 My stay in Harare, 1992

Chapter 4 (pp. 76-91) : Afro-American songs: spirituals and gospel music by African descendants

1冊目はアフリカと南アフリカとアフロアメリカの歴史の簡単な紹介をしましたので、2冊目は、

1章:第二次世界大戦後に先進国が再構築した搾取制度、開発や援助の名目で繰り広げられている多国籍企業による経済支配とその基本構造、

タンザニア初代大統領ジュリアス・ニエレレ(小島けい画)

独立前にガーナを訪れたリチャード・ライト(小島けい画)

コンゴの初代首相パトリス・ルムンバ(小島けい画)

2章:アフリカの作家が書き残した書いた物語や小説、

Alex La Guma’s And a Threefold Cord

H.G. Mesengeni’s The Honourable MP

3章:今日的な問題に絞り、

4章:アフロアメリカについてはゴスペルからラップにいたるアフリカ系アメリカ人の音楽

ゴスペルの女王マヘリア・ジャクソン

に絞って、内容を深めました。①が半分ほどを占め、引用なども含めて少し英文が難しくなっています。医学科の英語の授業で使うために書きました。

<Preface>

Preface Our self-image reflected by Africa
This is the second volume of the AFRICA TODAY series. In the previous work, Africa and its Descendants (1995), I tried to provide a general introduction to African and Afro-American history. In the first chapter I described the colonization of Africa by Europeans, briefly mentioning some contemporary problems, such as the AIDS epidemic. I wanted to show a historical view free from the distortion of Western bias. In the next chapter I gave weight to the struggle on the part of black South Africans for equality and justice, for a key role of the new South Africa is to become a leading nation. In the final chapter I added a survey of Afro-American history to show what has transpired among one part of the diaspora of African descendants. Japan has been too much influenced by the United States of America, not least in its historical perspectives, especially after the Second World War. I felt keenly that it would be of some use for us to reconsider American influence and free ourselves from its bias.

In this second work I’d like to depict the neo-colonial phase in African history, as well as the music of African descendants. In the first chapter the focus is on the mechanism and realities of neo-colonialism. In the second chapter I’ll deal with the neo-colonial scenes in two literary works by African writers: Alex La Guma’s And a Threefold Cord and Gonzo H. Musengezi’s The Honourable MP. In the third chapter, after discussions of the AIDS epidemic and Zaire’s turmoil, I would like to add a brief account of our family’s short stay in Harare, Zimbabwe in 1992. In the final chapter, spirituals and gospel music by African Americans are examined; some messages of their forefathers have been passed on to later generations in the form of music. African descendants are still singing their songs in their own styles.

Since the equal relationship between Africans and Europeans was broken down by the slave trade and colonization process, the exploitation has continued even to this day by changing its forms. Now we are in the last stage: the neo-colonial phase. What we should remember here is that we are on the side of the robber and that some 'chosen’ Africans are in a similar position.

Nowadays all citizens on this earth face some life-threatening problems: nuclear war, global warming, etc. Those urgent issues should take priority over all other problems, but selfish human desire seems to be worsening the situation, as was shown at the Third Conference of the U.N. Framework Convention on Climate Change, held in Kyoto.

I often hear many Japanese say how lucky we are to be living in such a rich and safe country. They seem satisfied with their 'peaceful’ situation with material abundance and convenience. However, we have to reevaluate our way of life and thinking, for our vanity is based partly on the sacrifice of the robbed, who are still suffering from poverty and racial conflicts. It’s time to reconsider our self-image as reflected by Africa and world problems.

I hope the following chapters will be of some help in formulating a new approach to African and Afro-American problems and studies.

I am thankful to have benefited from The Struggle for Africa, 'The Glory of Negro History,’ as well as other works cited in my bibliography, and Basil Davidson, a strong advocate of African solutions to African problems. I borrowed the dedication phrase from his book Can Africa Survive?

I would like to thank Mrs. Blanche La Guma and Dr. Cecil Anthony Abrahams, Mr. Junpei Hasumi, and Mr. Masaki Ota.

I met the two South Africans while they were forced to live in exile. Blanche welcomed our family to lunch at her temporary house in London in 1992, and has kindly permitted me to use her correspondence.

Cecil accepted me with his family at his house in Canada in 1987. He talked about La Guma and gave me the chance to take part in the 1988 La Guma / Bessie Head Memorial Conference, where I met Blanche for the first time.

Both Blanche and Cecil are now back in South Africa. Blanche enjoys her retired life and Cecil plays an important role at the University of Western Cape.

Mr. Hasumi visited Harare this March again and offered me some precious information about Zimbabwe. Mr. Ota gave me some advice on the AIDS issue. They were also kind enough to proofread some sections of my manuscript. Both Mr. Hasumi and Mr. Ota are medical students.

This time again, I wish to thank both Mr. William (Bill) Nikolai, my friend, editor and former colleague (now living in Canada), and Mondo Books, my publisher.
In Miyazaki, Japan                                 Yoshi

Bibliography

CHAPTER One

1. Books

Basil Davidson, Can Africa Survive? (Boston: Little, Brown and Company, 1974)
N’gugi wa Thiong’o, Writers in Politics (London: Heinemann Educational Books, 1981)
N’gugi wa Thiong’o, Writing Against Neocolonialism (Middlesex: Vita Books, 1986)
Kwame Nkrumah, Autobiography (London: Panaf, 1957).
Kwame Nkrumah, Africa Must Unite (London: Panaf, 1963).
Kwame Nkrumah, Neocolonialism: The Last Stage of Imperialism (London: Panaf, 1965).
Ed. Mai Palmberg, The Struggle for Africa (London: Zed Press, 1983).
Andro Proctor et al, People and Power Book Two (Harare: Academic Books, 1992)
Richard Wright, Black Power (New York: Harper & Brothers, 1954).
Steve Biko: I Write What I Like (New York: Harper & Row, 1978).

2. Periodicals

Brook Larmer, “The New Colonialismーnot Since 1945 Have So Many Nations Needed Rebuilding" in Newsweek (August 1, 1994).
David Gordon, “Haves and Have-NotsーWhat about those who can’t afford the new AIDS drugs? The view from the rest of the world" in Newsweek (December 9, 1996).

3. TV Film

African Series 1-8. 1983. NHK Educational.

CHAPTER Two

1. Books

Cecil Anthony Abrahams, Alex La Guma (Boston: Twayne Publishers, 1985).
Alex La Guma, A Walk in the Night (Ibadan: Mbari Publications, 1962).
Alex La Guma, And a Threefold Cord (Berlin: Seven Seas Publishers, 1964).
Gonzo H. Musengezi, The Honourable MP (Harare: Mambo Press, 1984).

2. Periodicals

“Alex La Guma’s First NovelーBanned by the Sabotage Act" in New Age (August 9, 1962).
Donna Bryson, “Housing South Africans still has long way to go" in the Daily Yomiuri (September 17, 1996).
Mary Braid, “Crooks push Cape Town’s credentials" in the Daily Yomiuri (August 24, 1997).
“Mbeki takes over as president of ANC" in the Daily Yomiuri (December 12, 1997).

3. Film

Cry Freedom. 1987. A director: Richard Attenborough.

CHAPTER Three

1. Books

秋山武久、『HIV感染症』(南山堂、1997年) [AKIYAMA Takehisa, HIV Infectious Diseases (Tokyo:Nanzando,1997)].国立大学保健管理施設協議会特別委員会、『エイズ教職員のためのガイドブック’98』(国立大学保健管理施設協議会特別委員会、1998年) [Ed. by the Special Committee of the Health Facilities of National Universities, AIDSーA ’98 Guide Book for University Teachers and Officials (the Special Committee of the Health Facilities of National Universities, 1998)] .

2. Periodicals

<On AIDS>

“'AIDS orphans’ rise as Africa battles disease" in the Daily Yomiuri (August 7, 1994).
Karl Maier, “Aids epidemic chokes the life of southern Africa" in the Independent included in the Daily Yomiuri (July 30, 1995).
Roger J. Pomerantz and Didier Trono, “Genetic therapies for HIV infections: promise for the future" in AIDS (1995), 9: 985-993.
John Balzar, “In Uganda, a scourge on families" in the Los Angeles Times included in the Daily Yomiuri (November 27, 1995).
“AIDS onslaughter straining resources in Africa" in the Daily Yomiuri (April 30, 1996).
“Targetting a Deadly Scrap of Genetic Code" in Newsweek (December 9, 1996).
Joanne Kenen, “Reserchers: An AIDS cure likely would involve multidrug therapies" in the Daily Yomiuri (February 1, 1997).
“Zimbabwe battles with alarming rise in rapes" in the Daily Yomiuri (August 17, 1997).
“AIDS rivals malaria as killer in Africa" in the Daily Yomiuri (December 9, 1997).

<On Zaire>

David Orr, “A nation at his finger tips" in the Daily Yomiuri (November 24, 1996).
William Wallis, “Zaire’s Mobutu faces difficult homecoming" in the Daily Yomiuri (December 17, 1996).
Mary Braid, “West gives Mobutu green light to unleash dogs of war in Zaire" in the Daily Yomiuri (February 2, 1997).
Lucy KomIsar, “U.S. Put Him In, Now Get Mobutu Out" in the Daily Yomiuri (February 11, 1997).
Helen Watson Winternitz, “The U.S. Must Cut Its Ties to Mobutu" in the Los Angeles Times included in the Daily Yomiuri (March 24, 1997).
Bob Drogin, “Zaire’s Elite Seek to Keep Positionsーand Wealth" in the Los Angeles Times included in the Daily Yomiuri (March 31, 1997).
Bob Drogin, “Ali Won the Fight, But Zaire Was the Loser" in the Washington Post included in the Daily Yomiuri (April 4, 1997).
Basil Davidson, “Zair’s Turmoil Invites an African Solution" in the Los Angeles Times included in the Daily Yomiuri (April 28, 1997).
Susan Linnee, “Rift on the river: Rebels getting snagged?" in the Daily Yomiuri (April 28, 1997).
Reuben Abati, “World needs to get more involved in Zaire" in the Daily Yomiuri (May 11, 1997).
“Mobutu escapes to Morocco after civil war defeat" in the Daily Yomiuri (May 19, 1997).
“Kabila wins Zaire・ can he keep it?" in the Daily Yomiuri (May 20, 1997).
“Zaire’s Second Chance" in the Washington Post included in the Daily Yomiuri (May 23, 1997).
“Kabila stalls on naming new government" in the Daily Yomiuri (May 23, 1997).
Julius Nyerere, “Pushing Kabila on Early election unrealistic" in the Los Angeles Times included in the Daily Yomiuri (May 25, 1997).
“Kabila takes oath as president of Congo" in the Daily Yomiuri (May 31, 1997).
Mike Tidwell, “Looking Back in Anger: Life in Mobutu’s Zair" in the Washington Post included in the Daily Yomiuri (June 6, 1997).
Ann M. Simmons, “In Congo, Hopes Rise With Fall of Dictator" in the Los Angeles Times included in the Daily Yomiuri (June 23, 1997).
Tina Susman, “Mobutu ーlast of Africa’s Cold War relics" in the Daily Yomiuri (September 9, 1997).
Helen Watson Wintemitz, “Overcoming Mobutu’s Sad Legacy in Congo" in the Los Angeles Times included in the Daily Yomiuri (September 29,
1997).

<On Harare>

“Price rises trigger Zimbabwe riots" in the Daily Yomiuri (January 21, 1998).
“Zimbabwe president warns rioters" in the Daily Yomiuri (January 22, 1998).

3. Dictionary

Stedman’s Medical Dictionary 26th Edition (London: Williams & Wilkins, 1995).

CHAPTER Four

1. Books

Herman Bartelen, The Story of American Popular Music (Tokyo: Macmillan Laguagehouse, 1997).
Langston Hughes, “The Glory of Negro History" in The Langston Hughes Reader (New York: George Braziller, 1958), pp. 464-480.
Eileen Southern, The Music of Black Americans (New York: W・W・Norton & Company, 1983).
Howard Thurman, Deep River and the Negro Spirituals Speak of Life AND Death (Richmond: Friends United Press, 1975).

2. Periodicals

鈴木啓志、「ゴスペルという黒い宗教音楽」(ミュージック・マガジン増刊号、1986年12月)。
Roxanne Brown, “The Glory of Gospel" in Ebony (May, 1988).
Lisa C. Jones, “Kirk Franklin New Gospel Sensation" in Ebony (October, 1995).
Lisa Jones Townsel, “Gospel Star Kirk Franklin Back From the Brink of Death" in Ebony (April, 1997).

奥付け

著者●玉田吉行(たまだよしゆき)

1949年、兵庫県に生まれる。
翻訳書にアレックス・ラ・グーマ著『まして束ねし縄なれば』、注訳書にAlex La Guma, A Walk in the Night,、Alex La Guma, And a Threefold Cord、著書に『箱舟一21世紀に向けて』(共著),、Africa Today 1 Africa and its Descndants (いずれも門土社刊)がある。
宮崎医科大学助教授。

校閲●William Nikolai

Born in Vancouver, Canada in 1956 and graduated from the University of British Columbia. He was a teacher of English at Fukuoka University of Education and Miyazaki Medical College and now conducts reserch in cross-cultural communication in Canada.

挿画●小島けい

<テキストの解説>を、門土社(横浜)のメールマガジン「モンド通信」に連載しました。→「Africa and Its Descendants 2 アフリカとその末裔たち2一覧」

執筆年

1998年

収録・公開

英文書、Mondo Books

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Africa and Its Descendants Neo-colonial Stage – Africa Today Series 02