2000~09年の執筆物

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通信(MonMonde)」に『ナイスピープル―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―』の日本語訳を連載した分の11回目です。日本語訳をしましたが、翻訳の出版は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、経済的に大変で翻訳を薦められて二年ほどかかって仕上げたものの出版は出来ずじまい。他にも翻訳二冊、本一冊。でも、ようこれだけたくさんの本や雑誌を出して下さったと感謝しています。No. 5(2008/12/10)からNo.35(2011/6/10)までの30回の連載です。

日本語訳30回→「日本語訳『ナイスピープル』一覧」(「モンド通信」No. 5、2008年12月10日~No. 30、 2011年6月10日)

解説27回→「『ナイスピープル』を理解するために」一覧」(「モンド通信」No. 9、2009年4月10日~No. 47、 2012年7月10日)

本文

『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―

(11)第12章 初めてのX線機器

ワムグンダ・ゲテリア著、玉田吉行・南部みゆき訳
(ナイロビ、アフリカン・アーティファクト社、1992年)

第12章 初めてのX線機器

 3人の男性が3つの小型の木箱をリバーロード診療所に運び込んで来たのは、普段と変わらない冷えた7月の朝のことでした。

「ワウェル・ギチンガ先生に頼まれて配達に来ました。」と配達人の1人が、患者用の待合室に木箱を置きながら言いました。木箱はかなり重そうでしたが、中身が何なのかは特に聞きませんでした。

そのあと当日の午後に、ギチンガ医師から電話があって、荷物が配達されて来たかと聞いてきました。やっと何とかX線機器が購入出来たよ、とギチンガ医師が言ったのはその時でした。これで収益があがるのはもちろん、仕事がずっとやり易くなると思って、私はひどく有頂天になっていました。しかし、ギチンガ医師は、融資を受けた銀行に機器の設置場所を知られたくないので、この新しい機材を導入したことについては他に洩らしてはいけないよと言いました。かなり怪しい説明だと思いましたが、その時は特に気にも留めませんでした。分かっていたのは、そのX線機材を診療所の専用機器として使えるということだけでした。

私の初めてのX線患者は、診療所に折れた鼻を診てもらいに来たジェーン・アチエングという35歳の大柄なルオ人女性でした。

「あの男は動物です。野蛮なことは嫌だと断ったから殴られるなんて信じられますか?」とアチエングはすすり泣きを始めました。

私はアチエングをなだめ、顎と鼻のX線写真を撮りました。それから、殴られたために結膜炎を起こしたと思われる左眼の治療をしました。よほどひどく殴られたに違いありません。アチエングは自分と退役陸軍少将との悲しい話を詳しく話し始めました。

コンボ元少将がとても親切で、出身地に関わり無く、特に女性に清掃の仕事を世話をしてくれるとアチエングは前から聞かされていました。役場の事務所に訪ねて行って面接を受けるだけで、仕事がもらえるということでした。他のナイロビの雇い主のように賄賂を受け取ることもなく、用事をたくさん言いつけることもない、となかなかの評判でした。草刈りが出来るか、1日に最低3キロを歩くだけの体力があるか、しっかりした母親であるかをテストするだけだというのです。コンボ元少将はかなりの大金持ちでした。それもかなりの。

アチエングはその日曜の朝、一階にあるコンボ元少将の仕事場を訪ねました。知り合いのグレイディスはアチエングに道案内をしたあと、別れてアンバサダーホテルの近所の職場に行きました。アチエングが座って元少将を待っていた隣りの部屋を60歳くらいの男性が密かにドア越しに見ていました。

ナイロビ市街

その男性はアチエングに設備の整った執務室に入って来るように手招きしました。市の最高責任者の部屋だったようです。半円形の執務用机の中央に座って、アチエングに年齢、出身地、現在の職業、配偶者の有無、子どもの数、滞在年数、住んでいる地区などの詳細を尋ねました。すべての質問にアチエングは一つ一つ丁寧に答えました。ルオ出身で35歳、現在は無職、第3夫人で子どもが二人いて、この5年間はジワニに住んでいます、と。

「あんたはこの5年間、何をしていたんかね?」と、元少将が横柄な命令口調で聞いたため、ジャネット・アチエングは固まってしまいました。

「あのう、たまに魚を売ったりしてましたが・・・」

「他には何を?さあ、部屋の中を歩き回れ!」と、元少将は命令しました。アチエングは歩き出し、ケールの葉と牛肉の煮込みを売ることもありましたけど、大体は主婦をしてました、と口ごもりながら答えました。

「止まれ!」と元少将は怒鳴りました。

「そら、服を脱ぐんだ!」と吠えるように大声で命令しましたので、アチエングはますます縮み上がってしまいました。子どもの頃、人前で服を脱いで湖で泳ぎ、魚釣りもしていましたので、服を脱ぐこと自体は大したことではありませんでした。しかし、元少将の部屋でそんな事をするとは思いもしませんでしたし、グレイディスからも何もこの件については聞いていませんでした。ただ、この偏った金持ちの老人に、体を張って何らかのなお世話をすることがあるかもしれない、ということだけは聞いていました。

アチエングは命令に背こうかとも思いましたが、もう1人の自分が、面接を最後まで見届けるように強く急き立てました。それでベルトを外し、途中で止めるように言ってくれないかと祈りながら、胸のホックを外し始めました。しかし元少将は止めとは言わずに、いやらしい目つきでアチエングを見続けました。服の左袖の部分を掴んでいた左腕が出て、次に同じように右袖の部分をしっかり押さえていた右腕出て両腕が剥き出しになりました。アチエングは、諦めてくれないかと、元少将の顔をまじまじと見つめました。コンボ元少将の目蓋が少し膨れ、唇が僅かに開いているのが分かりました。元少将は一言も喋りませんでした。口元をほんの少し歪めながら、アチエングは服を足元に落とし、一歩前に出ると、狂人と向き合って立ち、次の命令を待ちました。元少将は両手を挙げ、ブラジャーを指差しました。アチエングはブラジャーも取りました。コンボ元少将は、もっと脱ぐのを期待するような目つきでじっと見続けました。いまや、ジャネット・アチエングは素肌に短いペチコートとショーツをつけていただけでした。ペチコートまでは脱いでも、それ以上は脱ぐまいと決めました。

「全部脱ぐんだよ、お母さん。」と元少将は、この常軌を逸した面接を切り抜けられるかな?と言わんばかりに、穏やかに、しかしきっぱりとジャネットに警告しました。

ジャネットはさっさとことを進めて面接を済ませ、出来るだけ早く部屋から出て行こうと決めました。ジャネットがショーツを脱ぐと、元少将はますます気がおかしくなり、部屋の中で行進を始めるよう命令しました。そして、この仕事にはスタミナが必要だと説明しました。裸で2度部屋の中を廻ったあとジャネットは、この老人が何を本当に望んでいるのかに気付きました。

ジャネットが拒んだあと、気違いじみた老人はジャネットの顔を殴りつけ、鼻の骨を折ってしまいました。ジャネットは後で知りましたが、その老人サディストは、自分の目の前で裸の女を歩かせると勃起するという理由で、たくさんの他の面接希望者にも同じようなひどい目に遭わせていました。私はジャネット・アチエングを治療しながらコンボ元少将の件を警察に通報しようという思いに駆られましたが、私の役目は病人を治療することで、強姦未遂を刑事的に起訴するように申し入れることではないと思い留まりました。

HIV

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執筆年

2009年11月10日

収録・公開

モンド通信(MomMonde) No. 15

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『ナイスピープル』─エイズ患者が出始めた頃のケニア物語(11)第12章 初めてのX線機器

2000~09年の執筆物

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通信(MonMonde)」に『ナイスピープル―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―』の日本語訳を連載した分の10回目です。日本語訳をしましたが、翻訳の出版は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、経済的に大変で翻訳を薦められて二年ほどかかって仕上げたものの出版は出来ずじまい。他にも翻訳二冊、本一冊。でも、ようこれだけたくさんの本や雑誌を出して下さったと感謝しています。No. 5(2008/12/10)からNo.35(2011/6/10)までの30回の連載です。

日本語訳30回→「日本語訳『ナイスピープル』一覧」(「モンド通信」No. 5、2008年12月10日~No. 30、 2011年6月10日)

解説27回→「『ナイスピープル』を理解するために」一覧」(「モンド通信」No. 9、2009年4月10日~No. 47、 2012年7月10日)

本文

『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―

(10) 第11章 リバーロード診療所

ワムグンダ・ゲテリア著、玉田吉行・南部みゆき訳
(ナイロビ、アフリカン・アーティファクト社、1992年)

第11章 リバーロード診療所

 ギチンガ医師が卑しい人だと言えるのかどうかは私にはわかりません。毎月私の方から請求する必要があったとは言え、きちんと給料は支払ってくれました。ドクターGGは給料の請求はしませんでしたが、診療所から上がる診療代から自分の分は取っていました。それが実際の額だったのかどうかは分かりませんが、ドクターGGの酒の量は、ギチンガ医師には毎月の貸しがあると周りに言っていた額の2000シリングとはどうも釣合いが取れないように見えました。金がなくなると、私もドクターGGと同じように診療代から金をもらう誘惑に駆られましたが、自分の雇い主に見つかるのがとても怖いと思いました。私は自分の収入の範囲で暮らす正直でしっかりとした医者になりたいと思っていました。注射が必要な病気の場合は大抵、診療代は30シリングからでした。普通に市販されている薬では難しそうな軽度の性感染症や傷口の化膿や咳と風邪が殆んどでした。さらに複雑な症状の場合は、ギクユのトーチ教会の近くにあるP.C.E.A.(東アフリカプレスビテリアン教会)病院を紹介しました。

ンデュクにはどうして私に金がなくなるのかが理解出来ませんでした。

「オモロ先生は今、新車のフォルクスワーゲンに乗ってるわ。」とンデュクがしゃべり始めました。「それから、つい最近インドの医大を出たそうよ。」とンデュクは付け足して言いました。
「ニャンボガは、パークランズに越して来たわ。ハミルトンとハリソンとマシュー病院で助手をしてるだけなのにねえ。」とンデュクが続けました。

メアリ・ンデュクに遠回しに嫌みを言われて、どうしてそんなに苛々したのかは分かりませんが、私は同僚と比べられるのが大嫌いでした。おそらく遠回しに嫌みを言うのが私には効果的だと、ンデュクには分かっていたのでしょう。睨みつけるような私の顔をみて、ンデュクは一瞬ひるみましたが、

「お金持ちになりたいと思ったことは一度もないの?」と絞り出すような声で言いました。必死になって医者にならずに、生まれ育ったタラの町にいるべきだったんでしょうか。しかし、ンデュクの言い分にも一理がありました。当時ケニヤでは、皆金を儲けることばかりで、如何に金を儲けるかなど殆んど問題にしていませんでした。お金が一番だと誰もが考えているようでした。そんな朝、ギチンンガ医師が、歯の治療で200シリングもぼったくられた、と文句を言いながら入ってきました。

「あの忌まわしい金属の機械で45分間も拷問にかけておいて、200シリングの請求書を叩きつけるなど、考えられるか?歯医者の奴らめ、いかれてやがる!」とギチンンガ医師は息巻きました。オモロ医師は、歯科医の世界に足を踏み入れた、ケニアでも数少ない医者の1人でした。歯科医にとっては幸か不幸か、ケニアでは富裕層は除いて、個人的に治療に来る患者はそう多くありませんでした。したがって、歯科医が定期的に診る患者はほんの数えるだけで、治療に行けば必ず高額の治療費を払わされ、少ない患者の埋め合わせをさせられました。

「あいつが自分専用のX線の機械を持っているなんて考えられるか?」とギチンガ医師は続け、「それに、住んでるマンションの家賃に5000シリングも払えるんだからな。」と付け加えました。

ギチンガ医師がナイロビで2件目の診療所を開こうと考えたのは、この時だったと思います。しかしギチンガ医師は、金持ちの多いナイロビの中央ではなく、リバーロードを選びました。

ナイロビ市街市街

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 私たちの診療所はすぐに活動の拠点となりました。診療所はカンポスリベイロ通りの真ん中にありました。隣は、ナイロビの娯楽の殿堂ワカリヌロッジでした。少し歩いて行くと、ワンデルやニャンザ、アマニ、ハリアン、マシャルブといった、日中や夜間営業のクラブが並んでいました。クラブとクラブの間には、昼間の逢引き用専門のゲストハウスがあり、急増するナイロビの男性に最も人気があるようでした。リバーロード診療所の4、5軒先にはワナンチ薬局があり、それに隣接して、夫妻が経営する婦人科専門のペタル診療所が建っていました。

私はすぐに、如何にンデルとリバーロードの診療所が互いを補ない合っているかをギチンガ医師から学ぶようになりました。ナイロビのように法律の厳しいところでは、たとえ法律を犯しても密かに処置出来ない場合がありました。中絶や新生児の売買や密輸された薬剤や器材の保管などです。一方、ナイロビのリバーロードでは、性感染症の商売が繁盛していました。リバーロード診療所では、梅毒や淋病に感染した患者が、ケニア中央病院に行かず、有名なリバーロードカジノの向かい側にある、悪評の高い性感染症診療所にも行かず、100シリングほどを払って、ペニシリン注射を受けていました。殆んどが所得の少ない田舎の人たちであったために診療所の収入が少なかったンデルでは、そういった病気を警察の捜査の手が及ばない範囲で処置をする所を紹介してもらえる診療所の役目をリバーロード診療所が果たしていました。私は本来ならリバーロード診療所の勤務でしたが、より複雑な患者を診るために、時々はンデル診療所にも行きました。ドクターGGはンデルの担当医を続けていましたが、薬を買うか、ギチンガ医師に相談するかの場合以外は、ナイロビに来ることもなく、リバーロード診療所で働くこともありませんでした。

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執筆年

2009年10月10日

収録・公開

モンド通信(MomMonde) No. 14

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『ナイスピープル』─エイズ患者が出始めた頃のケニア物語(10)第11章 リバーロード診療所