つれづれに:註釈書1(2022年9月16日)
つれづれに:註釈書1
今週末に台風が直撃しそうである。今年も今のところ台風の影響はそう強くないが、今回はやられそうな嫌な進路である。300個の柿が半分も残らないかも知れない。ただ、ものは考えようで、獲る、洗う、剥く、干すの作業がかなり減ると考えれば体にはいいかも知れない。台風が来てもいいことは一つもないから、来ないでくれたらと祈るばかりである。祈りが叶う場合は、経験則上、極めて少ない。
1988年4月に「宮崎に」来た年に大学用の教科書の編註(↑)を言われた。雑誌「ゴンドワナ」の記事に色々記事を書いていた(→「雑誌記事」、→「雑誌記事2」、→「雑誌記事3」)中の「ラ・グーマ」の第1作『夜の彷徨』(「『夜の彷徨』上 語り」(11号)、「『夜の彷徨』下 手法」)の編註である。既にある教科書(↓)が送られて来たから、再版するらしかった。編註をよろしくとだけ言われた。
余り人のものを参考にしないので、中はパラパラと見た程度だった。研究やまして教科書や翻訳本に関心がなかったし、大学の時は自分のテキストを学生に買わせている人を見て、教科書は避けたいと思っていたが、次々と雑誌の記事を言われたついでにテキストの編註もよろしくと言われて、断われなかった。妻には表紙絵を頼んだ。主人公がケープタウンのカラード居住区第6区で犯罪を犯して警察に追われている場面があったので、18号に書いた映画評の元の映画「『ワールド・アパート』 愛しきひとへ」の一場面を描いてもらった。白黒でさっと描いてくれた。最後に好きな犬を付け足して完成である。映画の中でも南アフリカの白人ジャーナリストルス・ファースト(↓)が警官に追われている場面があったので、そのイメージである。この時期、白人とアフリカ人の関係は、緊迫していた。官憲は総力を挙げて、武力闘争を始めたアフリカ人を押さえ込みに躍起になっていた。昔の日本の治安維持法より厳しい破壊活動法を改悪し、一般法修正令を出した。逮捕状もなしに逮捕し、90日を一期に孤独拘禁をして拷問を加えるという忌まわしき法律である。転向するまで、その拷問は続く。大概の人は90日前に精神異常をきたしたと言われている。ルス・ファーストはその法律の白人第1号で、出所後『南アフリカ117日獄中記』を書き、モザンビークに亡命した。亡命先で南アフリカ治安当局から送られた小包爆弾で暗殺されている。「ワールド・アパート」は娘ショーン・スロボのしみじみした哀悼歌である。
ルス・ファースト役バーバラ・ハーシー(小島けい画)
宮崎に来てしばらくしてから、手書きからワープロに変わっていたから、東芝の文豪ミニ(↓)で拵えた原稿をフロッピーディスクに入れて送ったようである。作業は家でやった。
研究室は非常勤の時にはなかったものだが、他にもあった。図書館が使えたのである。医学部の図書館なので文学書は殆んどないが、他大学の図書館から研究費で取り寄せるか、文献のコピー依頼が出来た。他にも申請して審査に通れば科学研究費が交付され、在外研究にも行けるらしかった。『夜の彷徨』の日本語訳は非常勤で行ってた時に、桃山学院大学(→「二つの学院大学」)の図書館(↓)でコピーさせてもらっていた。
学藝書林の『全集現代世界文学の発見 9 第三世界からの証言』(1970)に日本語訳がある。この本だけには限らないが、お粗末な日本語訳だった。主人公が同じぼろアパートに住む落ちぶれた白人を瓶で殴り殺してしまったあと部屋に戻った時に、ドア付近で物音がして、警官が来たのではないかと怯える場面に次のような日本語訳をつけている。「きっとおれはやつらに話しに行ったらいいんだ。ベドナード。おまえは警官がおまえをどうするかわかっているな」("Maybe I ought to go and tell them. Bedonerd. You know what the law will do to you.")Bedonerdにベドナードの日本語訳をつけているが、この人、その言葉がアフリカーンス語だと知らなかったようである。ひょっとしたら、いや、たぶん、この人は主人公がケープタウンの「カラード」居住区第6区(↓)に住んでいたことを知らない。かりに知らなかったとしても、前後を考えれば、英語ならshit、日本語なら糞っ!と同じような悪態だと想像がつく。想像がつかない人が、どうして全集を引き受けて日本語訳までつけるのか。政治家が国会で嘘をついても恥ずかしく思わないのとどこが違うのか。そんな大層に思わなくても、英文のテキストにはアフリカ―ス語や俗語の英語の註がついていて、crazyと記載されている。英文の巻末を見なかったのか?アフリカ―ンスの辞書を引けばいいだけではないか。明治大学の教授と書いていたが、やっぱり自覚はなかったようである。日本語訳を読むと齟齬感を感じることが多いが、それ以前の話である。アフリカものの日本語訳をみると、お粗末さの度合いの酷さに気づく。
本の巻末につけたラ・グーマの略年譜・著訳一覧・南アフリカ小史・ケープタウン地図(↓)も何気に大変な作業で、時間もかかった。人の教科書を買ってもらって30分くらいで採点をして成績をつけている人が多いので、それをせずに済んだが、学生には買ってもらうことになて、痛しか痒しの思いだった。
1987年にカナダに亡命中の「伝記家セスゥル・エイブラハムズ」さんに会い、翌年の→「ラ・グーマ記念大会」で夫人のブランシと会った。1992年にジンバブエに行く前にロンドンで亡命中の夫人と家族で会った。1994年にブランシさんがケープタウンに戻ったあとも、手紙の遣り取りをしていた。ある日ブランシさんから友人リンダ・フォーチュンさんの『子供時代の第6区の思い出』(↓、1966)が届いた。ラ・グーマやブランシさんや著者のフォーチュンさんが生まれ育った第6区の思い出と写真がぎっしりと詰まっていた。