つれづれに:伊豆大島(2024年2月20日)
つれづれに:伊豆大島
下田に行った時の話から、黒船の幕末と維新の話になり、→「1860年」が歴史の大きな潮目だったことについて書いた。気づいたのは奴隷制と南北戦争について考えている時だった。そのあと奴隷の連れて来られた西アフリカのガーナと、アメリカの学会で誘われて発表するときに選んだ作家の南アフリカ、医学科の授業で医療と一般教育を繋(つな)ごうと始めたエボラ出血熱のコンゴとエイズのケニアの関連で齧(かじ)ったことのある歴史の同じ時期を再確認した。それだけの国の歴史しか辿(たど)れなかったという思いと、「ちょっと齧っただけの知識で、ようそんなにいろいろ書いたもんやなあ」という思いが重なる。
下田のあとに行った旅の話に戻ろう。最近もらった人の手紙に「河津桜が咲きました」と書いてあるのを見て「この時、修善寺で見た桜は彼岸桜やなくて、河津桜やった」と、急に思い出した。下田町の北側が河津町で、その名前を見たとき「ここが発祥の地やったかもな」と思った記憶が蘇(よみがえ)ったのである。「ソメイヨシノがまだ咲くわけないもんな」と思いながら、少し浅い色の桜を眺めた。今回、ウェブで調べてみると、次の解説が見つかった。
「河津(かわず)桜は2月上旬から開花しはじめる早咲きの桜で、1955年に河津町で発見されました。伊豆の温暖な気候と早咲きの特色を生かし、約1ヶ月を経て満開になります。」
下田から小田急(そう思い込んいたが伊豆急だった)で伊東に行った。伊豆大島に渡る連絡船に乗るためだった。今はすぐにウェブで検索ができるが、その時は行き先だけ決めてその場所に行ってから誰かに聞くことが多かった。下田でもたぶんそうしたと思うが、伊東港から大島の岡田港(↓)に渡った。今なら伊東より南の稲取港からジェット船で行く気がする。距離も短く、時間も少なくて済むからだ。行ったのが1970年代なので、ジェット船が運航してなかったかも知れない。
大島に行ったのにさほどの理由はない。椿や椿油でよく知られていたので、機会があれば行ってみたいと思っていただけである。アメリカ(→「アメリカ?」)やアフリカに行ったときと、ほぼ同じだ。行って見ると、実感がわく。アフリカ系アメリカの作家を修士論文で選び、その作家で業績のために書いていたから「アメリカに行ったこともないのも気が引けるなあ」と思ったのである。アフリカの場合も同じだった。→「シカゴ」では目抜き通りの縁石に座って3時間ほどパレードを眺めているときに「アメリカにもアメリカのよさがあるやん」と感じた。ハラレで家族で暮らした時は、搾り取る側にいるのを意識して、終始息苦しかった。帰りにパリに寄ったとき、残念ながら、ほっとした。「先進国にいる」と感じたのである。そういう感覚は行ってみないと実感できない。
パレードのあったミシガン通り
大島では、港周りを歩いて、椿を見た。→「椿」はカレンダーの最初の表紙(↓)に使った花である。今も散歩に出かけて、枝をもらって玄関とトイレに生けている。意識の深層で、大島の椿が関係しているのかも知れない。