つれづれに:比較編年史1949⑦ケニア(2025年5月12日)

2025年5月13日つれづれに

つれづれに:比較編年史1949⑦ケニア

宮崎市民の森花菖蒲園

 妻が宮崎に来た時に、最初に描いた花が花菖蒲である。宮明神宮の北辺りにに借家があったので、市民の森公園(↑)が近くで自転車で行ける距離だった。引っ越ししてしばらくはばたばたしていたが、落ち着いた頃に家族4人が自転車で行ったのが市民の森公園で、花菖蒲が盛りだった。そのまま妻は毎日通い出した。その頃、私が雑誌に書かせてもらったいた出版社の人から装画を描いてみませんかと誘われた。そして、花菖蒲が表紙絵になった。

上田進『琴線にふれる教育を求めて』(1993/3/20)

 比較編年史6回目、ケニアの1949年である。1回目→「1949私 」では、編年史を書こうとした経緯と1949年に私が生まれたということを、2回目→「1949日本」でその年の日本の経済と政治の全般的な状況についてを、3回目→「1949アメリカ」はアメリカについてを、4回目→「1949④アフリカ」はアメリカについてを、5回目→「1949⑤南アフリカ」は南アフリカについてを、6回目→「つれづれに:比較編年史1949⑥コンゴ」はコンゴについて書いた。今回は1949年の最終回である。

コンゴと同様にケニアについては、アフリカ系アメリカや南アフリカほど時間を取れなかったので、植民地時代と独立の頃辺りしか詳しくは書けない。少し調べる時間を取り肉付けしながら書き進めたい。今回は大雑把なケニアの歴史について書いておきたい。

 ケニアの独立は1963年だが、ヨーロッパ人と戦った歴史は長い。1921年にギクユ青年協会が設立され、政治運動が始まっている。その後も政治運動が続き、50年代にケニア土地自由軍が植民地政府に対してイギリスへの抵抗運動を始めたが敗北して、ケニヤッタも投獄されている。しかし、その運動を契機に独立の機運が高まり、1963年に英連邦王国として独立、翌1964年に共和制へ移行してケニア共和国が成立した。従って、ケニアの1948年はケニア土地自由軍が抵抗運動を始める前の年だったわけである。

 ヨーロッパ人の侵略が始まる前のケニアの歴史である。

アフリカ東海岸には豊かな港町がいくつもあった。古くからギリシャやローマやアラビアとも行き来があり、高度な航海術などの影響も受けていた。

西アフリカの黄金を通貨にアフリカ大陸には黄金の交易網張り巡らされていた。交易網はアフリカ内陸部をカバーして、大西洋から中国沿岸部にまで及んでいた。その一大交易網の中心がエジプトの旧カイロである。8世紀半ばにイスラム教徒に征服されたエジプトは、君主の下でイスラム世界の中心になっていった。10世紀にファーティマ朝がカイロを都にしてからは、目覚ましい繁栄ぶりを見せた。繁栄の元は交易で、世界の半分を取り仕切り、国際都市となっていった。北アフリカの歴史家イブン・ハルドゥンは14世紀末のカイロを『カイロは全宇宙の都、世界の園、イスラムの入り口、王者の玉座だ。学識という月の光に照らされた城と王宮の都市、それがカイロだ』と讃えている。

 商取引を支え、繁栄を支えたのは、極めて質の高い硬貨で、アフリカの黄金で出来ていた。北西アフリカで造られたベルベル人の高価ディナールは600年もの間、最も信用度の高だった。そのうち、ヨーロッパも暗黒時代を抜け出し、アフリカから黄金を輸入できるようになり、貨幣価値は安定した。それとともに、ヨーロッパは通称時代の基礎を固めて行く。

当時のカイロには世界中の交易品が集まった。アフリカ東海岸や南部の奥地とカイロを繋いだのは、ペルシャ人とアフリカ人の混血のスワヒリ商人である。元々東海岸には紀元前から、古代ギリシャ人やローマ人、アラブ人が切り拓いた海上ルートがあり、インドや中国にまで延びていた。アラブ人はアフリカ人の中に溶け込み、独自のスワヒリ人とスワヒリ都市が生まれた。

 スワヒリ都市でもモンバサやラム島、ソファラやキルワ島などは特に活気があった。モンバサは今も有名なケニアの港町で、ソファラはキルワ島の対岸にある港町である。ソファラは南部アフリカの入り口で、ジンバブエなどの内陸部から黄金が集まっていた。キルワ島には遠くから商人が集まって、大層賑わっていた。1980年代の初めに島に渡り、今は廃墟になっている宮殿への階段を上りながら、デヴィドソンが当時の様子を語っている。

 「キルワもラムと同じで、沿岸に浮かぶ小さな島です。今もここに行くには船を使うしかありません。伝説ではキルワに最初に来た外国人はペルシャの人々だったとされています。彼らも土地の人と結婚し、この島に落ち着きました。その10世紀末から16世紀初めまで、ここには豊かな都市国家が栄え、内陸から来る金の取引で賑わっていたのです。信じられないような話ですが、600年前にはこの階段を東洋の人々、色んな国の大使や商人、兵隊、船乗りが一歩一歩登っていったんです。そして、一番てっぺんに達したとき、眼の前に広がったのは活気と華やかさに溢れた、それはもう夢のような美しい街でした」

10世紀に歴史家アル・マスーディーがきた頃には、東海岸一帯に豊かなスワヒリ都市がいくつも出来ていた。マスーディーはインド洋の様子を次のように書き残している。
「アフリカ沖の波はまるで山脈だ。深い谷底めがけて一気になだれ落ちる。砕けて泡を立てることもない。私が旅したシナ海、地中海、カスピ海、紅海、どの海もこれほど危険ではない。この海を渡ったのはダウと呼ばれる、今も使われている帆船です。東アフリカとアラビア半島を往来していた船は、向かい風でも進むことが出来ました。ヨーロッパの船がこの技術を身に着けたのはずっと後のことです」

高い航海術は、高度な航海術を持ったギリシャやローマから学んだものを、アフリカ東海岸の人たちが更に改良したものだろう。

 しかし、その豊かな街はポルトガルによって破壊されて行く。