アレックス・ラ・グーマ 人と作品5 『夜の彷徨』下 手法

2019年11月1日1976~89年の執筆物アレックス・ラ・グーマ,南アフリカ

概要

 

アレックス・ラ・グーマ

本文(写真作業中)

アレックス・ラ・グーマ 人と作品5『夜の彷徨』下 -手法-

「ゴンドワナ」13号(1987)14~25ペイジ

たたかいの中で

繰り返し述べて来たように、ラ・グーマの作品はすべて、闘いのなかから生まれた。あらゆる人間があたりまえの人間として暮らして行ける統合民主国家を願うラ・グーマにとっては、政治闘争も、記者活動も、文学活動も、人間を取り戻す、同じレベルの闘いだった。

ただし、ラ・グーマが時の試練に耐え得るすぐれた文学作品を生み出し得たのは、セスゥル・エイブラハムズ氏も指摘するように (本誌10号18ペイジ)、ラ・グーマが文学的感性を備え、読者にメッセージを伝え得る文学手法を心得たすばらしい芸術家でもあったからである。ラ・グーマ自身が、政治闘争と創作活動の違いをはっきりと意識していたのは、次のインタビューからも窺える。

 

セスゥル・エイブラハムズ氏

- それでは、小説の中で表現しようとされている価値とは一体どんなものなのですか。

ラ・グーマ できる限りもったいぶらずに人びとの威厳、基本的な人間精神を表現したいと思っています。政治宣伝やうたい文句は避けなければいけません。私も政治的なかかわりはあります。作家活動でも政治活動でも、人の威厳を擁護してはいますが、2つは違った活動なのです。(本誌7号21ペイジ)

現実を見据え、現実に根ざした生き方をするラ・グーマの目には、社会の中の、歴史の中の、そして文学者としての自分の立場や役割が見えていた。「アパルトヘイト下の南アフリカの著作」の次の一節を読めば、様々な人々の努力にもかかわらず、アパルトヘイトの壁によって、本来文学が果たすべき役割を充分に果たしていない現状をしっかりと把握していたことがわかる。

南アフリカではどの作家も人生を平静に全体としてながめることは出来ない。作家は自分自身の経験から、見たり知ったりしたことを書けるだけである。しかも、それは全体像の一部でしかない。白人作家の中で、いままでに、リアルでしっかりとした黒人像を何とかでも創造しえたものはいないし、その逆もまたしかり、である。白人、黒人のどちらの側にも通用する黒人・白人関係を描出し得た白人作家も黒人作家も今のところ出てはいない。

ナディン・ゴーディマは微妙な、明快な語り口で、白人の自由主義者が黒人の世界を如何に見ているかを読者に語りかけるのに成功しているし、黒人が白人観察者の目にどう映るのかを正確に描き得てはいるが、黒人の体内に入り込んでそこから外側を見ることは出来ないのだ。同様に、ピーター・エイブラハムズの小説の中の白人は戯画的で、堅くてぎこちない。その白人たちは血肉の欠けた繰り人形のように唐突に、ぞんざいに喋ったり、振るまったりする。

アラン・ペイトンの『叫べ、愛する祖国よ』に登場する黒人牧師は、黒人の習慣を身につけてはいるが、一種の宗教的ミンストレルにでも登場しそうな、おセンチな善良白人である。アパルトヘイト社会では、そんな創作上の失敗はどうしても避けられないのである。(本誌9号33~34ペイジ)

アパルトヘイトと闘いながら、作家として自分が一体何をすべきなのかを、ラ・、グーマは肌で感じ取っていた。19661966年、ロンドンに亡命した直後、ロバート・セルマガから、「今のところ南アフリカではアパルトヘイトの壁によって大多数の作家が普遍的なものを描き得ていないのだから、多くの批評家たちが指摘するように、事態が解決されるまで、文学は一時中断させたままにしておくのが一番よいのではないか」と問われたとき、ラ・グーマは次のように答えている。

・・・・・・作家たちはいままで南アフリカ一般の状況を描こうと努めて来てはいますが、違った人種グループと現に南アフリカに住む人びとについては殆んど語られて来ませんでした。たとえば、カラード社会やインド人社会について多くは語られて来なかったと思います。そして人種がそれぞれ隔離された状況の中であっても作家には果たさなければならない務めがあると思うのです。少なくとも、現在起こっていることを世界に知らせて行かなければなりません、たとえ隔離された社会の範囲の中でしかやれなくとも。(本誌9号33ペイジ)

前号の「語り」の中で取り上げたマイケル・アドゥニスもウィリボーイも、作家としてラ・グーマが、先ず何よりも描きたい人物像、どうしても書かなければならない人物像だったのである。セルマガによる同じインタビューの中で、マイケル・アドゥニスについてラ・グーマは語る。

マイケル・アドゥニスを私は典型的なカラードの人物像にするように努めました。第6区で暮らしている間に、私はアドゥニスのような人物と遊びましたし、出会いもしました。人生に於けるその境遇のせいで、機会が与えられないせいで、そして自分の膚の色のせいで、全く発展的なものも望めず、何ら希望がかなえられることもなく、否応なしにマイケルのような状況に追いやられてしまう若い人たち-アドゥニスが本の中でやるような経験を個人的に私はしたことはありませんが、そんなことが私のまわりで行なわれるのを見て来ました。そのお蔭で、私はそういった人物像をた易く創り上げて書くことが出来ました。

 

ケープタウン第6区

黒人と白人の狭間で

そして、たたかいのさなかに、特にケープタウンという地に生まれ育った自分が最大限何をなし得るのかについてもラ・グーマは自分なりの答えを見出していた。

オランダ東インド会社の役人や船員たちが喜望峰に到着して以来何世代にもわたって黒人と白人との混交が行なわれて来たケープタウンでは、南アフリカの他の地域に比べて、ヨーロッパ人、アジア人、アフリカ人との混血の人口が非常に多い。ラ・グーマ自身にもヨーロッパ人とアジア人の両方の血が流れており、著作では自らをカラード (Coloured) と呼ぶ。84年に政府が3人種体制が敷かれてからは自分たちへのカラードの呼称を嫌い、敢えて黒人 (Black) を使う傾向があることを本誌十号で紹介したが、その事実は「カラード」の置かれた微妙な立場を象徴していて興味深い。その人たちはインド系の人々と共に、人口比から見ても、圧倒的多数の黒人と少数派の白人の中間層に位置し、少数だが富をほしいままにして豊かな生活を楽しむ白人と貧しく抑圧され続ける多数派黒人との2つの大きな勢力の言わば狭間にいる。

しかも、ラ・グーマは、国民党が政権を握る以前の比較的締めつけの穏やかなときに少年時代を過ごしており、黒人とも同じ地域に住み、一緒に遊んだ経験がある。さらに、同じアフリカーンス語を話すオランダ系の白人アフリカーナーとも接する機会が多かった。つまり、ラ・グーマは、歴史的にも、社会的にも、厳しいアパルトヘイトの壁のわずかな隙間から、黒人の側も、白人の側も同時に、ほんの辛うじてではあるが、垣間見ることの出来る立場にいた、ということである。そして何より、ラ・グーマ自身がその立場をむしろ有利な地点と把えていたのは注目に値しよう。セルマガとのやり取りが私たちにそんな姿勢を伝えてくれる。

 

ケープタウン

セルマガ この本『夜の彷徨』は、南アフリカの事態が個人と、そして肉体的な意味ばかりか精神的な意味でも現在進展している事柄に影響を及ぼす状況をありのままに取り扱っています。同時に、あなたはアフリカーナー社会出身の警官のような人物像も描いています。今まで一緒に生活したことがないアフリカーナー警察官の人物像を創作したり、その人物像を実際あなたがなさっているようにリアルに個人に仕立て上げたりするのはどのくらいむずかしいとお考えですか。

ラ・グーマ そうですね。私は、ケープカラード社会がアフリカーナーや元々その土地に住んでいたアフリカ人たちの血が交っている人々から成り立っているというのは有利な点だと考えています。カラードの人たち自身の文化背景は大部分、アフリカーンス語と英語です。ですから、その観点からのむずかしさはさほど感じませんでした。

「『夜の彷徨』の舞台設定には何か特別重要な意味合いがあるのですか。」(本誌7号19ペイジ) と聞かれたとき、ラ・グーマは「まず何より第6区はよく知っている場所だということです。私はそこで生まれ、そこで暮らしました。しかし、同時に閉所恐怖を暗示し、抑圧的な雰囲気を醸し出したいとも考えました。」と答えたあと、「小説『夜の彷徨』では第6区のイメージ、第6区の雰囲気を創り出すことに努めました。そこで、その目的のために言葉を選び、文章を組み立てました。」(同20ペイジ) と付け加えた。

選び出した言葉で、組み立てた文章で、ラ・グーマはどんなイメージや雰囲気を創り出したのか。そして、それらのイメージや雰囲気から何を描き出しているのか。

シェイクスピア

イメージを創り出すのに、ラ・グーマは慣れ親しんだイギリス文学の古典、シェイクスピアを借用した。

エピグラフに用いたのはハムレット、である。

余はお前の亡き父の霊だ。

定めの時までは夜の闇をさまよい歩き、

昼は猛火につながれて断食の苛責に苦しみつつ、

ひたすら生前犯した罪業の

焼き浄めらるるを待つ身だ。

ウィリアム・シェイクスピア 『ハムレット』第1幕第5場(三神勲訳)

しかも、ラ・グーマはそのセリフを、落ちぶれ果てた末カラード人街に住むようになった白人アンクル・ダウティに朗唱させた。

アンクル・ダウティ かつては、イギリス、オーストラリア、南アフリカなどを巡業して回った元役者のアイルランド系老人で、カラードの妻はすでに亡く、年金の大半は安ワインに消える。世話してくれる者もなく、アル中に冒された痩せさらばえた体は、後はもう死を待つばかり、そんな設定である。

ケープタウンには、プア・ホワイトと呼ばれる人たちがたくさんいる。白人社会で、経済的に失敗したり、人種的考えを受け入れられなかったりするなど、何らかの形で白人社会からはじき出された末、カラー・ラインを越えて、カラード社会に流れて来た人たちである。大抵は、カラードの妻か愛人と一緒に移り住み、飲んだくれて荒んだ生活を送っていて、カラード社会から蔑みの目で見られる場合が多い。アンクル・ダウティもそんなひとりである。モデルとなったある老人を回想してラ・グーマは言う。

その人は元役者で、第6区の一室に住むようになったある老人です。その老人がある朝死んでいるところを大家のおかみさんに発見されました。そのことを私は物語の中の人物像の仕上げに使いました。実を言うと、その老人は私たちの親戚筋にあたります。母親の又従兄弟か何かで、他に行く所がなくなった末第6区に流れ着きました。その人は部屋を一部屋借りていました。いつも酔っ払っていた少しくずれた老人でしたが、特別に何かをしたわけではありません。ただそこにいたというだけなのです。そしてある日、老人は自分の部屋で死んでいるのを発見されました。

ラ・グーマはアンクル・ダウティに、先号の「語り」で書いた黒人が接し得る3番目の白人、つまり「落ちぶれ果てて黒人街に住むようになった白人」の役割を演じさせたのだが、実際には、それ以上の役割を担っている。ラ・グーマによって描き出されたダウティはハムレットの父親のように、まさに亡霊である。その現われ方はこうだ。

廊下の隅にある便所の戸が開いた。そしてひとりの男が宙を掻きむしるようにそこから出て来て、終始壁伝いに、木を切る鋸のような音を立て息を切らせながら、自分の部屋の方に向かって進み始めた。その男は年寄りで、足元がおぼつかなく、ずり下ったズボンのせいで進みにくそうだった。シャツがパジャマのようにズボンからだらりとはみ出していた。その老人はやっとの思いで息をしながら、大きな蟹のように、壁を伝ってゆっくりと進んだ。(21ペイジ)

ハムレットの父親の亡霊がわが子に語りかけて消えたように、ダウティはアドゥニスに『ハムレット』の一節を朗唱して、「そりゃ、わしら、わしらのことじゃ、まるで亡霊じゃよ、夜の闇をさまよい歩くことを運命づけられた、な。シェイクスピアじゃよ。」と眩きかけたあと、殺されて消える。実際に登場する時間は極めて短かいのだが、亡霊アンクル・ダウティは「夜」と「彷徨」の強烈なイメージを残して舞台を去って行く。

ラ・グーマが表題 (A Walk in the Night) に使った「夜」(Night)と「彷徨」(Walk) のイメージは、幾重にも交錯しながら物語全体をおおい、ラ・グーマが意図したように、舞台となったケープタウン第6区の「抑圧的な雰囲気」を見事に醸し出して行く。

 

A Walk in the Night(ノースウェスタン大学版)

「夜」の象徴性

亡霊のさまよう「夜」(night) は闇 (darkness) あるいは暗黒 (blackness) を連想させ、物語全体を通して二つのことがらを象徴的に浮かびあがらせる。一つは第6区の劣悪な環境である。もう一つは警察国家である。

劣悪な環境は目に見えてわかる現象であるが、その現象を生み出した最大の原因はアパルトヘイト体制である。南アフリカの国土はさほど広くはないが、金、ダイヤモンドをはじめ鉱物資源も豊かで自然も美しい。その豊かな富が平等に分配されていれば、そんな現象が表面化することはない。

片方には、機上からでも一軒のプールが識別出来る程の豪邸に住み、何人ものメイドを抱えて優雅な生活をしている少数派の白人たちがいる。その人たちの生活が優雅であればあるほど、言い換えれば、富が一方に片寄れば片寄るほど、搾取される多数派のアフリカ人はそれだけよけいに、惨めな生活を強いられることになる。

体制側にいる白人たちは自分たちの優雅な生活を守るために、黒人に土地は譲り渡したくないし、安価な労働力も手放せない。その結果、大都市やその近辺には数々のアフリカ人居住地区、カラード居住地区が生まれた。ケープタウンの第6区も古くからあるカラード居住区である。老朽化した住宅ばかり、もちろん廃水施設も充分でない。それらの街は、おきまりの穢ない、騒々しい、臭いスラムを形成する。職のない若者たちが昼間から街角にたむろする。犯罪の数も増え、無法者がまかり通る。アドゥニスの殺人も、ちんぴら仲間フォクシィたちのもくろむ強盗も、おそらく極くありふれた日常の、ほんの街角のひとコマに過ぎないのだ。

全編を通してラ・グーマは、その環境のひどさを物語の背後に見え隠れさせているが、殺人の舞台となったアドゥニスやダウティの住むアパートの様子を一部次のように描く。

アパートの床には埃がすぐに溜った。すり切れてそげ立った廊下を住人たちが泥靴を引きずって歩いたあとには、両側の小さな床板の隆起に沿って、埃の小さな土手が出来た。あるいは水がこぼれたり誰かが小便をしたりすると、濡れた箇所が残り、天井や服の縫目から出た埃が宙に舞ってそこに集まり、乾いたときには黒ずんだしみが残る。こぼれ落ちたパンくずや油脂などが踏みつけられて広がると、見えないほど細かい粒となり漂っている埃を吸い寄せた。床板のそり上がったところ、うまくかみ合っていない継ぎ目の突き出たところ、ビクトリア朝しっくいの花飾りや浮彫り細工のあるところ、雨で湿ってふやけたあと次は熱気で乾いてひびの入ったモルタル、すべてが埃を吸い寄せるもとになった。そして湿ってくると腐ったところでは忌まわしい生命が生まれ、細菌がつき、黴が生える。暑くなったり風通しが悪くなるとものが腐り始める。そして、かつては丸ごとあったものや新しかったものが萎びたり腐ったりした。その腐った嫌なにおいが貧しい人たちのアパートじゅうに広がっていた。

隅っこの暗がりやこちらからは見えないが割れ目になっている所では、暑くてにおいがひどくなったり、湿って滑りやすくなる頃には、ダニに南京虫、蛆虫になめくじ、光沢のあるこげ茶色の堅い羽のごきぶり、細い足で死をもたらす小さな灰色の怪物のような蜘蛛、爪や毛に病気を宿し、埃をかぶったような黒い目をした鼠たちが怪しげに動き回っていた。(33~34ペイジ)

そして、ラ・グーマは殺人現場となったアパートの一室、アンクル・ダウティの部屋の様子をも詳しく描き出す。

その老人は少し酔っており、安ワインと汗、それに吐いたにおいを漂わせ、吐く息もくさかった。

部屋は開けたばかりの墓のように暑くむっとしており、片方の壁側には鉄製のベッドが置いてあり、洗たくされていないシーツがかけられていた。その隣には、テーブルとして使う背もたれのない椅子が一つあって、上には吸い殻とマッチの燃えかすで一杯になった欠けた灰皿と強い赤ワインの滓がべっとりついたグラスが一個載っていた。部屋の隅には、壊れかけの戸棚があり、ひびが入り蝿の足跡で汚れた鏡が掛かっていた。戸棚には手埃のついた本が少し積んであり、上に埃が積っていた。別の方の隅っこには、ワインの空瓶が何本もボーリングのピンのように転がっていた。(22ペイジ)

終章の第19章でラ・グーマは、物語の締めくくりに、主な登場人物の真夜中すぎの様子をそれぞれ少しずつ紹介するが、その中に、今は主人亡きアンクル・ダウティの部屋の様子に触れる次の件がある。

暗い部屋の幅木の下の割れ目から、ごきぶりが一匹、用心深そうに現われ、細い髪の毛のような触角をあちこちに振りながら障害物はないかと暗闇の中を探っていた。障害物が何もないのがわかると、ごきぶりは関節で直角に折れ曲った脚で前に進み、床を横切り、床板のはしがそり返ったところを越えた。それからごきぶりは何かねばねばするものに出くわした。それは殺された老人の部屋にこぼれた酒と吐物の混った味がした。その老人の死体はとっくに運び出されており、部屋は警官によって鍵がかけられていた。そして今、部屋にはごきぶりだけがいて、そこには腐敗と死の臭いが漂っていた。ごきぶりはねばねばしたところで暫く立ち止っていたが、どこかで床がきーっとなると、かさかさと小さな音を立てて慌てて逃げていった。しばらくして部屋が再び静かになると、ごきぶりはまた戻って来て貧り食い始めた。(89ペイジ)

アフリカ系アメリカ人作家リチャード・ライトが『ネイティヴ・サン』(1940) を書いたとき、シカゴの黒人居住地区サウス・サイドの環境のひどさを象徴的に表現するために、冒頭部に鼠を登場させた。ライトは、異常に繁殖した鼠が我が物顔に街中を走り回るのを見て、黒人の赤ん坊が就寝中にかみ殺された、という新聞記事を思い出し、鼠を冒頭部に使うことにしたらしい。作品では、登場するとすぐに主人公の黒人青年ビガー・トーマスの手で殺されごみ箱に捨てられてしまうのだが、丸々と太った鼠は狭く、騒々しく、穢ないキチンネットと呼ばれる部屋の、ひいてはサウス・サイド全体の劣悪な環境のイメージを、強烈にまず読者に植えつける役割を演じていた。

 

『ネイティヴ・サン』(1940)

そして、鼠を殺すまでの家族のどたばた劇はこれから始まる慌ただしく騒々しい大事件を暗示していた。

さらに、殺されて厄介ものとしてごみ箱に捨てられた鼠は、死刑を言い渡されてアメリカ社会の厄介者として社会から葬りさられるビガー・トーマスの運命をも暗喩していた。

 

黒人居住地区サウス・サイドのアパート(『1200万の黒人の声』1941年

 ライトの描いた鼠のように、暗闇の中で、アンクル・ダウティの死体から流れ出た血とアドゥニスの吐物を貧るごきぶりは第6区の劣悪な環境を象徴して余りある。この場合、「夜」のイメージから抽き出された闇(darkness)のイメージは、穢なさ、むさくるしさ (dirtiness, sordidness) から忌まわしさ (disgust) にまで広がって行く。

さらに、終章で物語の締めくくりに描き出されたごきぶりの存在は、アパルトヘイト体制が続く限り穢ない暗がりの中で生きることを余儀なくされる黒人たちの運命をも暗喩している。

劣悪な環境のテーマは次作『三根の縄』(のちに『まして束ねし縄なれば』に)にひきつがれ、さらに克明な形で描かれることになる。

 

『まして束ねし縄なれば』

警察国家は「夜」のイメージが象徴的に引き出すもう一つのことがらで、暗黒 (blackness)を連想させる。特に取り上げたちんぴらとの係わりの中でラ・グーマは、先の「劣悪な環境」よりむしろ、この「警察国家」に力点を置いている。

優雅な生活を守るアパルトヘイト体制を維持するために取らざるを得ない形態、それが警察国家である。一人一票制を認めれば体制は崩れ、今のような優雅な生活はない、そんな危惧をぬぐえない白人たちは、不合理を百も承知で力の制圧を強行する。遠くはシャープヴィル、ランガの虐殺、ソウェトの暴動、近くはベンジャミン・モロイセ氏の処刑など、歴史がそれを裏づける。誰でも理由なく逮捕でき、無期限に拘束できるという何とも理不尽な非常事態宣言が今も続いている。デモに参加する黒人たちに容赦なくシャンボック鞭を振るう警官の姿は、海を越えて日本にも映像として伝わって来ている。

南アフリカの黒人が日常生活の中でどれほど警察と深く係わっているかをセスゥル・エイブラハムズ氏とのインタビューの中でラ・グーマは語る。

私たちは南アフリカでいつも警察と背中合わせで生きています。黒人たちは絶えず警察に苦しめられています。パス法でなければ、酔払っているとか、他の社会的問題などによってです。統計を見れば、囚人人ロの多さでは南アフリカが世界でも指折りの国だというのがわかります。南アフリカの黒人たちの生活で警察は大きな役割を演じています。ですから、私が作品の中で係わるように、社会問題に係わろうとすれば誰でも、警察を抜きに考えることは出来ません。私の作品に警察のことがよく出てくるのも結局は、私が意図したというよりはむしろ、避けられないから、ということになると思います。

 

セスゥル・エイブラハムズ氏

 ラ・グーマは体制のそんな担い手の典型としてアフリカーナー白人警官ラアルトにその役割を凝縮させた。

ラアルトはウィリボーイが血を流して苦しんでいるのに、救急車を呼ぼうとする部下を制して、警察署行きを命じた。しかも、署に戻る途中で、切れたタバコを求めてポルトガル人の経営するコーヒーショップに寄り道をしている。急かせる部下には「なあに、時間はたっぷりあるさ。あの野郎はまだ死にかけちゃいねえよ。ここの連中はしぶといのさ。おい、あの店んとこで止めてくれよ。」と言って車を止めさせた。

『遠い夜明け』の中で、脳損傷の兆候が出ているからすぐ病院に、という医師の勧めを無視して、はるかかなたのプレトリア中央刑務所に護送せよ、の命令を下した構図と同じである。(本誌11号27ペイジ)

 

『遠い夜明け』

 ラアルトのウィリボーイを追いつめる執念は異常だった。大騒ぎする群衆に目もくれなかった。発砲を制止する同僚の声も届かなかった。ウィリボーイが隠れて見えなくなったときも、そんな遠くには行っていない、必ず近くに潜んでいるさ、と動じる気配も見せなかった。屋根の上にウィリボーイの気配を感じたとき、ラアルトは貯水タンクの陰で、待った。屋根から飛び降りて足を痛めたウィリボーイが追いつめられてナイフを抜いた時、ラアルトは至近距離からウィリボーイを撃ち倒した。容赦はなかった。まさに獲物を追い詰めるハンター、だった。

ラアルトの異常な行動をみて、アフリカ系アメリカ人のあるリンチ場面を思い出した。うなだれて木に吊るされた黒人を十数人の白人たちがながめている姿が写真には写し出されていた。目の光り方が異様だ。白人たちは、黒人のリンチを見物に、まるでピクニックにでも出かけるように、女子供を連れて出かけた、という。その人たちは、見せしめに黒人をなぶり殺しにすることをむしろ楽しんでいる、そんな風に映る。

ラアルトの場合も捕物をむしろ楽しんでいる風だった。妻との不仲で心が晴れなかった故もあるが、相方の若者アンドリースが「今夜はいやに静かですね。」と言ったとき「静かだな、何か起こってくれりゃいいが。ブッシュマン野郎の汚ねえ首に手をかけてこの手で締め殺してやりてえよ。」と吐き捨てるように答えている。

ラ・グーマは「あなたの使う隠喩的表現には、人間的なものを非人問的なものに同化してしまう傾向があります。ただの叙述的描写のためですか、それとも何か特別な意味を表わすためですか。」と聞かれた時、「私の場合、小説の中では人間らしさを失なった白人を扱っています。ただし、個人的に非人間的な感情はありません。私はまた、肉体的にも精神的にも疎外の問題を取り扱っています。」(本誌7号20ペイジ) と答えている。

「非人間的」ラアルトは、無防備の群衆に向けて無差別に発砲をしたシャープヴィルの警官をほうふつさせる。又、無邪気な少年を撃ち殺したソウェトの一場面を思い出させる。『アモク!』や『遠い夜明け』の映像で再現されたシーンが強烈に目に焼きついているだけに、その思いは強い。

警察国家、官憲の横暴のテーマは『三根の縄』に一部分引き継がれ、第3作『石の国』で刑務所を舞台に、真正面から取り扱われることになる。

「彷徨」の象徴性

亡霊アンクル・ダウティはまた、「彷徨」のイメージを残して去って行く。

サミン氏が「あなたの小説、ことに『夜の彷徨』と『季節終わりの霧の中で』では、登場人物がよく場所を変えて動きます。そこにはどんな意図があるのですか。」と尋ねたとき、ラ・グーマはその意図について語る。

私はただ南アフリカの人々の経験を語りたいのです。選択の余地はありません。人は自らの労働力の切り売りを余儀なくされます。アフリカ人は決してひとところに落ち着くことは出来ません。その場面で他の人物を紹介し、隠された、最下層の南アフリカの姿を示すのもひとつの文学上の手法なのです。細かな部分では自伝的なところもあります。(本誌7号20ペイジ)

3人の主な登場人物は絶えず場所を変えて動く。

アドゥニスは、バスを降りて先ず安レストランに寄り、食事を済ませたあと居酒屋に立ち寄る。それからアパートに戻り、殺人を犯してしまう。事件の後、部屋に居ることが出来ずインド人のコーヒーショップに出かけ、最後は「ジョリー」の店で、とうとうチンピラ仲間に加わってしまう。

ウィリボーイは、安レストランでアドゥニスに会ったあと、暫く街を歩き、金の無心にアドゥニスを尋ねて事件に巻き込まれる。慌ててとび出したウィリボーイは、裏通りからジプシーのシビーン(もぐり居酒屋)に行くが、口論の末たたき出されてしまう。そして暗がりを歩いているときラアルトに発見されて逃げ回ることになる。

ラアルトは、パトロール中にジョリーの店により店主から5ポンド巻き上げ再びパトロールを続ける。そして、ダウティの殺人騒動に出くわし、死体の確認を終えてパトロールに戻った時、ウィリボーイを発見する。それから、追い詰めて仕留めたウィリボーイを警察署に護送中に、既に書いたように煙草を求めてレストランに立ち寄る。

ラ・グーマは「彷徨」のイメージについて更に詳しくエイブラハムズ氏に語る。

私がこの本のタイトルを『夜の彷徨』にした理由の一つは、カラード社会では所詮南アフリカの人種差別に反対する闘争と関連した形でしか人は自分たちの存在を見出せない、ということがいつも心の中にあったからだと思います。その人たちは、さまよい、耐え忍び続けていました。そして、自分たちが貢献する社会の一市民として受け入れられ、一市民であると自認出来るようになるまで、こうして夜の闇をさまよい続けていました。私は、光を見つけ出そうと、夜明けを見ようと、そして何か新しいもの、何か自分たちの限定された社会での経験を越えたものを見ようともがき続ける人物像を創り出そうと努めました。

3人の他にもう一人ジョーという、「彷徨」のイメージを備えた人物が居る。ジョーはアウトローを決め込んだタイプの人間ではあるが、ウィリボーイのように街にたむろして悪事をたくらむちんぴらではない。人畜無害で、岸壁辺りで漁師や釣人たちが捨てていく魚介類を漁って何とか生き延びている浮浪者である。しかし、腹をすかしている自分に、夕食でもとわずかな金を与えてくれるアドゥニスのやさしさを理解する心を持ち合わせている。その証拠に、インド人のコーヒーショップで会ったアドゥニスがちんぴら仲間と親しげに接するのを見て、あとからわざわざ追いかけてきて、あいつらの仲間には入るな、とアドゥニスに渾身の説得をする。

たぶんあんたは大変な問題をかかえこんでいるんだろう。僕なんかよりでっかいのを。僕が言ったように、誰にもみな悩みはあるよ。でもああいう連中は誰もあんたの悩みの手助けなんかになってくれたりはしない。なぜって、あいつら自身がたくさん問題を抱えているからだよ。あんたは悩みを一つ増やすだけだよ。どう言っていいかわからないけど、問題から逃げても、又別の問題が起こる。あの連中のように。あいつら、はじめに起こすのは小さな問題だけど、それから逃げて、又別の問題をおこす、結果的には問題を増やしながら絶えず逃げてばかりいる。全く、わからないよ。(64ペイジ)

ジョーは、言いたいことが喉のところまで出かけていたが、なかなか出て来なかった。うまく言葉にならなかったのである。

アドゥニスの方は、心の中ではジョーの言うことがわかりすぎるくらいわかってはいたが、出て来た言葉は「おまえさんに一体どんな悩みがあるってんだい。」という反発だった。そして「お前さんの家族はどうなってんだい」と問い返す。

ジョーは、自分たちを捨てていった父親や家族のことを話し始める。

僕にはわからないが、たぶん父親にもたくさん悩みがあったんだろう。父親には仕事がなかった。長いこと仕事からあぶれてた、だから食べるものがなかったことが多かったよ。僕と弟マティは朝になると古くなったパン切れをもらいに家々をまわったもんだよ。昨晩のおかずをもらうこともあった。でも家族みんなには到底足りなかった。年老いた母親は食物に決して手を出そうとはしなかったよ。大抵は食物を小さいもの同士でわけて食べた。また、家賃も払えなかった。しばらくして母親は、出て行けという手紙を受け取った。家主は何通も手紙を送って来た。どの手紙にも、きれいに出て行けと書いてあった。それから何人かが紙切れを一枚持って部屋まで入って来て家具を輔道に全部積み上げてからドアに鍵をかけて行ってしまった。もしまた部屋に入ったら、ぶちこんでやるぞと言ったよ。(65ペイジ)

ジョーは更に続けて言う。

年老いた母親は、メアリ、アイザック、マティ、それに僕と一緒に積み上げられた家具のそばにただ座って、泣いた。それから暫くして言ったよ、結局、田舎に戻ってばあちゃんと一緒に暮らすしかないね。中古屋に家具を売って、みんなは戻ったよ。」(65ペイジ)

ジョーは、しかし、母親について戻らなかった。幼な心に、田舎に戻ることは逃げることだ、と考えたからである。勿論、小さな子供であるジョーにこれから先食べて行くあてなどあろうはずがなかった。

それから幾歳月が過ぎ去ったのか。元の生地すらわからないほどに汚れた服を着て、原形すらとどめていない靴をはいたジョーが、ちんぴらの仲間入りなどして自分の悩みから逃げてはいけない、と全身全霊でアドゥニスを諭す。そんな情景を生み出すアパルトヘイト体制とは一体何なのか。

アンクル・ダウティが亡霊なら、アウトローを決め込んで若く貴い命を散らすウィリボーイも、ちんぴらの仲間入りをしてやがてはウィリボーイと同じ運命を辿るアドゥニスもやはり亡霊である。そして、黒人を追いつめることに異常な執念を燃やすラアルトも、今日もまたあてどなく岸壁をさまよい歩くジョーも又、たしかに亡霊である。その亡霊たちは、アパルトヘイト体制が続く限り、各人各様に、「夜」を「彷徨」することを運命づけられているのである。

劣悪な環境と警察国家を浮かびあがらせた「夜」のイメージは、その亡霊たちがさ迷う南アフリカの国そのものを暗に象徴している。又、「彷徨」のイメージは、その国でさまようことを運命づけられた人々の姿を見事に暗喩している。

ラ・グーマは、真実を世界に知らせようと、後世に歴史を伝えようと、1960年代にこの作品を書いた。あれから4半世紀が過ぎ去ったにもかかわらず、南アフリカの事態が基本的なところで何ら変わってないのは残念な限りである。

ラ・グーマが死んで、もうすぐ3年になろうとしている。

今年の8月には、カナダで、アレックス・ラ・グーマ/ベシィー・ヘッド記念大会が開かれる。異国の地で、南アフリカの同僚や後輩が企画したものである。ブランシ夫人が特別ゲストに招かれる。

 

ブランシ夫人

私も参加して、是非その大会の模様をお伝えしたい。(宮崎にて)

(宮崎医科大学助教授・アフリカ文学)

執筆年

1988年

収録・公開

「ゴンドワナ」13号14-25ペイジ

「ゴンドワナ」13号

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アレックス・ラ・グーマ 人と作品5 『夜の彷徨』下 手法