つれづれに

つれづれに:共著

 最初の本は共著だった。もちろん本は初めてだったし、大学の職探しの最中でもあったので嬉しかったが、後に思わぬ選択を迫られるとは想像もしなかった。

1980年の初めにアフリカとアフリカ系アメリカに関する小さな研究会(→「黒人研究の会」)に入った。「修士論文」をアフリカ系アメリカ人で書くことにしたので、いろいろ知りたかったからである。それに、大学の職には口頭発表や印刷物の業績も要る。例会で発表して、会誌に書く機会もあると聞いた。

 1960年代のアフリカの独立や60年代、70年代のアメリカの公民権運動の時は盛会だったらしいが、私が入った時は、一年に一回の会誌発行と月例会の開催がやっとの地味な研究会だった。会員数も少なくなっていたようで、私よりも20近く年上の人たちが中心だった。会長や会誌の編集担当や会計は、毎年ほぼ同じ人がやっていて、月例会に出る若い会員はそう多くなかった。別に押し付けられたわけではなかったが、しばらくすると会誌の編集と例会案内の作業をするようになっていた。今と違ってパソコンはなかったので、当時流行(はや)りのプリントゴッコで印刷して万年筆で住所と宛名を書いた。送る葉書が100枚ほどだったとは言え、手間と時間はかかった。当時は明石市の→「中朝霧丘」に住んでいて、毎回近くの郵便ポストに歩いて投函しに行っていた。会誌(↓)に最初に原稿が出たのは1982年で、それからしばらく毎年書かせてもらった。

 研究会では6月に神戸で全国大会を開催し、毎年違う企画を組んでいた。ゲストにアフリカ人作家を呼んだこともある。一つ目のシンポジウムが終わったあたりから、既に終えていたアフリカ系アメリカのシンポジウムと、次回に予定しているアフリカのシンポジウムをまとめて本にしようという話が持ち上がった。会誌の編集を担当していた先輩が「わしが出版社に話してみる」と言い出した。

私はシンポジウムに直接参加はしていなかったが、読んでいた作家の作品が独立前のガーナへの訪問記(→「リチャード・ライトとアフリカ」)を例会と会誌で発表していたので、アフリカとアフリカ系アメリカを繋(つな)ぐ形で参加することになった。非常勤の私以外は助教授か教授で、全国規模の研究会で役員をしている人も多かった。大抵は著書もあり、大学用の教科書もあった。

本が出たあと、出版社の人と接することが多くなり、出版事情を聞いた。出版社の人は本は自分で書い取るか、教科書は自分で学生に買ってもらうかが当然だと考えていたが、研究会の人は売るのは出版社で、費用も出版社、印税は入らないのか?という人たちの集団である。出版社の人と出会う前は、私も研究会の人と同じだったかも知れないが、自分が関わってみると、そうも言っておれなくなった。会員は自分では積極的に売らないし、出版社は出したものの売れなので在庫を抱えるし、という両者の間の溝は深かった。大学の職探しで一番世話になった先輩か出版社か、どちらかを選ぶしかない、そんな気持ちになった。もちろん、誰にも何も言えなかった。しばらく後に、黙って研究会をやめた。

共著は医学科と非常勤2箇所の英語の授業で課題図書に入れ、学生に買ってもらう工夫をした。強制されたわけではないが、他の人が作り、売れないで在庫でたまっていた英文教科書や翻訳本も課題図書に入れた。時間はかかったが、出版社の在庫はなくなった。学生に強制はしなかったが、一冊でも多く本を読んでもらう機会も作りたかった。学生の時は、漠然とテキスト作りや翻訳はやりたくないと思っていたが、出版事情を聞きているうちに、気がつけばその渦中にいた、というのが実際である。

赴任した当時の宮崎医科大学(大学HPから)

つれづれに

つれづれに:春の嵐

木花神社の展望所から、田植えはほぼ終了

 おとといの夜半過ぎから風がざわつき始めた。そして昨日は朝から風が強く、一日中風はやまなかった。

「前線上の低気圧が急速に発達しながら本州の南岸を東へ進むために暖かく湿った空気が流れ込んで大気の状態が非常に不安定となり」、全国的に春の嵐になった。ガレージに立てかけていたアルミの梯(はしご)が倒れていた。人がいなくてよかった。自転車に被(かぶ)せていたナイロン袋などがあちらこちらに散らばっていた。畑でも、ナイロン袋などが飛び散り、大根の花が一部倒れていた。春の嵐といっても相当な荒れようである。

金曜日に白浜に行ったとき、田植えの光景が目に入ってきた。先々週くらいに田起こしをしている風景を見たと思ったら、もう田植えの季節である。下の県道から田圃(たんぼ)道にはいる定位置で写真を撮った。(↑)専業農家が減っているそうだから、今度の土日くらいにはすべての田植えが終わるだろう。台風が来る前に刈り入れをする超早場米である。

 それでも二日ほどぐずついた天気で鬱陶(うっとう)しかったので、晴れると一気に気持ちも晴れる。ただ、風が強いと中国から汚染物質が含まれる空気も流れてくるので、毛布が干せないのが何とももどかしい。1960年代、70年代は日本も同じことをやっていたのだから、何とも言えない。

 散歩の途中に木花神社に寄ったら、若い人が何人かで竹を切ったり、神社横の広場(↓)や99段の階段の手摺(すり、↓)などに提灯(ちょうちん)をかけていた。30日(土)にさくらまつりをするらしい。おそらく、若い人は地元の青年団の人たちで、上の公園で夏祭りを開催したりしている。

 神社は無人だが、仮社務所が丘の下の家にあって、宮司の人もいるようである。下支えをする小さな組織もあって、公園の花植えをしたり近くの畑で野菜を作っている顔見知りの人も役員の一人のようである。新年などの節目には小さな行事をしている。夜中から明け方にやっているので、見たことはない。秋には木花神社と書かれた大きな幟(のぼり)が立つこともあるが、ここしばらくは見かけていない。

 散歩の途中にどくだみを見かけて、2週間ほど前から摘んで帰って風呂に浮かべている。ほんのり漂うかおりもそうだが、なぜか贅沢(ぜいたく)な気分になる。去年は皮膚にいいというドクダミ液を作るのに大量のどくだみの葉っぱを集めたが、今年は風呂に浮かべる分だけでいい。毎日摘めるといいが‥‥。歩けるというのは調子がいいということだから、そんな毎日が続けばと願っている。

どくだみの葉

つれづれに

つれづれに:出版

立原正秋

 思わぬ形で出版と関わることになった。生きても30くらいまでと無為に過ごしながら、諦めきれずに小説を書きたいと未練がわいた。ただ、元より自分の本が形になるのを見たかったわけではなく、原稿を書いて生活が出来ればとぼんやりと考えていただけである。

書くための空間を求めて大学の職を探しているときに、出版社の人に会った。ある日先輩から「出版社の人があんたに会いたい言(ゆ)うてるけど、会(お)うてみるか?」と言われた。会う早々一万年に及ぶ縄文時代と意識下の言語について延々と話を聞いたが、特に何かを言われたわけではなかった。(→「横浜」)そのあと暫(しばら)くしてゼミの担当者が亡くなったとき、先輩から「追悼文を書くけど、あんたにも書いてと言(ゆ)うてたで」と言われた。それが雑誌の初原稿である。(→「がまぐちの貯金が二円くらいになりました」)その頃、アメリカの学会の「イギリス文学アメリカ文学以外の英語による文学」という小さなセッションで発表することになり、南アフリカの作家の物語を読むことになった。その作家のことを知りたくてカナダに亡命中の作家の友人に会いに行ったり、南アフリカの歴史を辿(たど)ったりして、何とか発表にはこぎつけた。(→「エイブラハムさん1」、→「エイブラハムさん2」)その頃には、しっかりと雑誌に書くようになっていた。実際の原稿依頼は、編集者の女性の人からだった。

新幹線西明石駅

 最初は先輩から頼まれて原稿を送るだけだったが、出版事情を聞くようになったのは大学の職が決まってからである。当然、小説を書いて生計を立てるという根本の仕組みに関わっていた。知らなかったというより、考えたことがなかったという方が正しい。基本的に、効率第一の経営をしないと利益があがらないという資本主義の縮図そのものだった。

出版事情を聞いて複雑な気持ちになった。当時大学のテキストは1000円以内が多かった。単行本もしかりである。1冊を出版して流通網に乗せる時と書店で売ってもらう時に中抜きされる。売れ残れば返却。そこにも費用がかかる。残った在庫には、毎年課税される。うまく売れて、半分ほどの利益があるかどうか。流通関係、書店などの人件費はそれで賄われる。本を作る時の編集費、本の形にする印刷などの経費も要る。そう考えると、1冊の純利益はごくわずかである。大学のテキストを生協に置いてもらったが、1割5分か2割の手数料が引かれてあった。医学書は利益率は高い。単価が高いからである。学生は1冊一万円以上の本が教科書である。同僚の麻酔科医は印税をかなりもらっていた。私の場合、本を出して出費はあっても、印税とは無縁だった。

余程のことがない限り、大きな利益を見込めないようになっている。だから、出版社は利益を上げるために賞をもうけ、煽り立て人気作家を作る。如何に利益を出すかが問われるのだから、企業戦略である。資本主義社会である限り、その原則は変わらない。

しかし、私に次々とすることを言われた出版社の人は「東大の医学部やで」と先輩が言っていた。はなから出版の目的が儲けるためではなかったわけである。しかし、生活をするためには費用がかかる。書くための空間を探して大学の職についたのもそのためである。

よくわからないまま、出版社の人から次々と言われて、ひとつひとつこなして行くうちに、時が流れて行った。

赴任した当時の宮崎医科大学(大学HPから)

つれづれに

つれづれに:小説

立原正秋

 過酷な状況のなかで、人は諦めて自分を守る。英語ではその状態をindifferentというようだ。すべてに関心がなくなり、何事にも反応しなくなる。生き延びるために、無意識に身を守る術である。英語の文章の中で何度もみかけて、そう感じた。アフリカから無理やり連れてこられた奴隷が目の前で愛しい人を奴隷主白人に凌辱されたとき、自分を消すか何事にも反応しないindifferentな状態になるか。白人はそのindifferentな状態を従順だと考えた。『アンクル・トムの小屋』の主人公トムは従順にエバお嬢さんにお仕えし、最後は死んで天国に行った、ということになっている。『アンクル・トムの小屋』を書いたハリエット・ビーチャー・ストウの手前勝手な福音書は白人の間では大人気で、その本1冊のための会社も出来たほど売れに売れた。ストウは南部に行ったこともなかったし、主人公のモデルは元逃亡奴隷のジョサイヤ・ヘンソンだと言われている。私自身の諦めた経験からか、『アンクル・トムの小屋』をめぐる奇妙な展開は、何となく理解できるような気がした。PTA向きのお涙頂戴(ちょうだい)話はいかにも胡散(うさん)臭くて、嘘っぽい。しかし、実(まこと)しやかに語られる。母親が子どもに読み聞かせる本の中にも含まれる。アングロ・サクソン系の子孫は、狡猾(こうかつ)に人を騙(だま)す技術に長けている。全世界の人に信じ込ませた白人優位・黒人蔑視の意識は、世界の隅々にまで浸透していて証明済みである。侵略して栄えて来た人たちが使う英語が国際語、ベトナム難民も締め出した国が文部科学省を使ってグローバル化を推進、だそうである。

ミシシッピ川沿いでの綿積み作業(『1200万の黒人の声』から)

 すっかり諦め生きても30くらいまでだと無為な日々を過ごしていたのに、小説を書きたいと思ったのは、それでも何か諦めきれない未練があったということだろう。最初に書き出そうとしたとき、書くばねが見つからないと感じた。そのあと、母親の借金で定職につき、思わず結婚をして子供が生まれた。小説どころではない日々が続いた。元々貧乏だったので売れるまでの貧乏生活は苦にはならないと思ったが、それを妻と家族に強いる気にはなれず、大学の職を思い付いた。7年かかって何とか職が見つかり、書くための空間を確保できたが、実際には書き出せなかった。職探しの途中に出版社の人に出遭ってすでに雑誌にかなりの記事を書いていたが、テキストの編纂(へんさん)や翻訳や著書やウェブの連載を次々と言われて、それどころではなかったからである。予想もしていなかったが、私の職が決まるのを待ち構えていたということだろう。授業の準備に時間もかかったし、非常勤を頼まれたり、看護学科が出来たり。統合して全学向けの大きなクラスが増えたり、日本語支援専修の修士課程設立に駆り出されたりと、気がつけば授業のコマ数や種類もずいぶんと増えていた。教授になってからは、可能な限り会議には出ないように努力したが、それでも避けられない会議や人に会う機会も増えた。1年目から研究室に学生がたくさん来てくれたのは、予想外だった。特に何を話したということはなかったが、来れば1時間、2時間、時には半日もいて、その時間は授業時間よりも多かった。その状態のまま、定年退職の時期が来た。書き始めたのは、出版社の人が亡くなったあと、何年かしてからである。

赴任した頃の宮崎医大