つれづれに

つれづれに:春の嵐

木花神社の展望所から、田植えはほぼ終了

 おとといの夜半過ぎから風がざわつき始めた。そして昨日は朝から風が強く、一日中風はやまなかった。

「前線上の低気圧が急速に発達しながら本州の南岸を東へ進むために暖かく湿った空気が流れ込んで大気の状態が非常に不安定となり」、全国的に春の嵐になった。ガレージに立てかけていたアルミの梯(はしご)が倒れていた。人がいなくてよかった。自転車に被(かぶ)せていたナイロン袋などがあちらこちらに散らばっていた。畑でも、ナイロン袋などが飛び散り、大根の花が一部倒れていた。春の嵐といっても相当な荒れようである。

金曜日に白浜に行ったとき、田植えの光景が目に入ってきた。先々週くらいに田起こしをしている風景を見たと思ったら、もう田植えの季節である。下の県道から田圃(たんぼ)道にはいる定位置で写真を撮った。(↑)専業農家が減っているそうだから、今度の土日くらいにはすべての田植えが終わるだろう。台風が来る前に刈り入れをする超早場米である。

 それでも二日ほどぐずついた天気で鬱陶(うっとう)しかったので、晴れると一気に気持ちも晴れる。ただ、風が強いと中国から汚染物質が含まれる空気も流れてくるので、毛布が干せないのが何とももどかしい。1960年代、70年代は日本も同じことをやっていたのだから、何とも言えない。

 散歩の途中に木花神社に寄ったら、若い人が何人かで竹を切ったり、神社横の広場(↓)や99段の階段の手摺(すり、↓)などに提灯(ちょうちん)をかけていた。30日(土)にさくらまつりをするらしい。おそらく、若い人は地元の青年団の人たちで、上の公園で夏祭りを開催したりしている。

 神社は無人だが、仮社務所が丘の下の家にあって、宮司の人もいるようである。下支えをする小さな組織もあって、公園の花植えをしたり近くの畑で野菜を作っている顔見知りの人も役員の一人のようである。新年などの節目には小さな行事をしている。夜中から明け方にやっているので、見たことはない。秋には木花神社と書かれた大きな幟(のぼり)が立つこともあるが、ここしばらくは見かけていない。

 散歩の途中にどくだみを見かけて、2週間ほど前から摘んで帰って風呂に浮かべている。ほんのり漂うかおりもそうだが、なぜか贅沢(ぜいたく)な気分になる。去年は皮膚にいいというドクダミ液を作るのに大量のどくだみの葉っぱを集めたが、今年は風呂に浮かべる分だけでいい。毎日摘めるといいが‥‥。歩けるというのは調子がいいということだから、そんな毎日が続けばと願っている。

どくだみの葉

つれづれに

つれづれに:出版

立原正秋

 思わぬ形で出版と関わることになった。生きても30くらいまでと無為に過ごしながら、諦めきれずに小説を書きたいと未練がわいた。ただ、元より自分の本が形になるのを見たかったわけではなく、原稿を書いて生活が出来ればとぼんやりと考えていただけである。

書くための空間を求めて大学の職を探しているときに、出版社の人に会った。ある日先輩から「出版社の人があんたに会いたい言(ゆ)うてるけど、会(お)うてみるか?」と言われた。会う早々一万年に及ぶ縄文時代と意識下の言語について延々と話を聞いたが、特に何かを言われたわけではなかった。(→「横浜」)そのあと暫(しばら)くしてゼミの担当者が亡くなったとき、先輩から「追悼文を書くけど、あんたにも書いてと言(ゆ)うてたで」と言われた。それが雑誌の初原稿である。(→「がまぐちの貯金が二円くらいになりました」)その頃、アメリカの学会の「イギリス文学アメリカ文学以外の英語による文学」という小さなセッションで発表することになり、南アフリカの作家の物語を読むことになった。その作家のことを知りたくてカナダに亡命中の作家の友人に会いに行ったり、南アフリカの歴史を辿(たど)ったりして、何とか発表にはこぎつけた。(→「エイブラハムさん1」、→「エイブラハムさん2」)その頃には、しっかりと雑誌に書くようになっていた。実際の原稿依頼は、編集者の女性の人からだった。

新幹線西明石駅

 最初は先輩から頼まれて原稿を送るだけだったが、出版事情を聞くようになったのは大学の職が決まってからである。当然、小説を書いて生計を立てるという根本の仕組みに関わっていた。知らなかったというより、考えたことがなかったという方が正しい。基本的に、効率第一の経営をしないと利益があがらないという資本主義の縮図そのものだった。

出版事情を聞いて複雑な気持ちになった。当時大学のテキストは1000円以内が多かった。単行本もしかりである。1冊を出版して流通網に乗せる時と書店で売ってもらう時に中抜きされる。売れ残れば返却。そこにも費用がかかる。残った在庫には、毎年課税される。うまく売れて、半分ほどの利益があるかどうか。流通関係、書店などの人件費はそれで賄われる。本を作る時の編集費、本の形にする印刷などの経費も要る。そう考えると、1冊の純利益はごくわずかである。大学のテキストを生協に置いてもらったが、1割5分か2割の手数料が引かれてあった。医学書は利益率は高い。単価が高いからである。学生は1冊一万円以上の本が教科書である。同僚の麻酔科医は印税をかなりもらっていた。私の場合、本を出して出費はあっても、印税とは無縁だった。

余程のことがない限り、大きな利益を見込めないようになっている。だから、出版社は利益を上げるために賞をもうけ、煽り立て人気作家を作る。如何に利益を出すかが問われるのだから、企業戦略である。資本主義社会である限り、その原則は変わらない。

しかし、私に次々とすることを言われた出版社の人は「東大の医学部やで」と先輩が言っていた。はなから出版の目的が儲けるためではなかったわけである。しかし、生活をするためには費用がかかる。書くための空間を探して大学の職についたのもそのためである。

よくわからないまま、出版社の人から次々と言われて、ひとつひとつこなして行くうちに、時が流れて行った。

赴任した当時の宮崎医科大学(大学HPから)

つれづれに

つれづれに:小説

立原正秋

 過酷な状況のなかで、人は諦めて自分を守る。英語ではその状態をindifferentというようだ。すべてに関心がなくなり、何事にも反応しなくなる。生き延びるために、無意識に身を守る術である。英語の文章の中で何度もみかけて、そう感じた。アフリカから無理やり連れてこられた奴隷が目の前で愛しい人を奴隷主白人に凌辱されたとき、自分を消すか何事にも反応しないindifferentな状態になるか。白人はそのindifferentな状態を従順だと考えた。『アンクル・トムの小屋』の主人公トムは従順にエバお嬢さんにお仕えし、最後は死んで天国に行った、ということになっている。『アンクル・トムの小屋』を書いたハリエット・ビーチャー・ストウの手前勝手な福音書は白人の間では大人気で、その本1冊のための会社も出来たほど売れに売れた。ストウは南部に行ったこともなかったし、主人公のモデルは元逃亡奴隷のジョサイヤ・ヘンソンだと言われている。私自身の諦めた経験からか、『アンクル・トムの小屋』をめぐる奇妙な展開は、何となく理解できるような気がした。PTA向きのお涙頂戴(ちょうだい)話はいかにも胡散(うさん)臭くて、嘘っぽい。しかし、実(まこと)しやかに語られる。母親が子どもに読み聞かせる本の中にも含まれる。アングロ・サクソン系の子孫は、狡猾(こうかつ)に人を騙(だま)す技術に長けている。全世界の人に信じ込ませた白人優位・黒人蔑視の意識は、世界の隅々にまで浸透していて証明済みである。侵略して栄えて来た人たちが使う英語が国際語、ベトナム難民も締め出した国が文部科学省を使ってグローバル化を推進、だそうである。

ミシシッピ川沿いでの綿積み作業(『1200万の黒人の声』から)

 すっかり諦め生きても30くらいまでだと無為な日々を過ごしていたのに、小説を書きたいと思ったのは、それでも何か諦めきれない未練があったということだろう。最初に書き出そうとしたとき、書くばねが見つからないと感じた。そのあと、母親の借金で定職につき、思わず結婚をして子供が生まれた。小説どころではない日々が続いた。元々貧乏だったので売れるまでの貧乏生活は苦にはならないと思ったが、それを妻と家族に強いる気にはなれず、大学の職を思い付いた。7年かかって何とか職が見つかり、書くための空間を確保できたが、実際には書き出せなかった。職探しの途中に出版社の人に出遭ってすでに雑誌にかなりの記事を書いていたが、テキストの編纂(へんさん)や翻訳や著書やウェブの連載を次々と言われて、それどころではなかったからである。予想もしていなかったが、私の職が決まるのを待ち構えていたということだろう。授業の準備に時間もかかったし、非常勤を頼まれたり、看護学科が出来たり。統合して全学向けの大きなクラスが増えたり、日本語支援専修の修士課程設立に駆り出されたりと、気がつけば授業のコマ数や種類もずいぶんと増えていた。教授になってからは、可能な限り会議には出ないように努力したが、それでも避けられない会議や人に会う機会も増えた。1年目から研究室に学生がたくさん来てくれたのは、予想外だった。特に何を話したということはなかったが、来れば1時間、2時間、時には半日もいて、その時間は授業時間よりも多かった。その状態のまま、定年退職の時期が来た。書き始めたのは、出版社の人が亡くなったあと、何年かしてからである。

赴任した頃の宮崎医大

つれづれに

つれづれに:鎌倉

 いざ鎌倉である。海岸道路を見て歩るいたあとは、作家が棲んでいた鎌倉だった。『鎌倉夫人』のように、タイトルに鎌倉の地名が入ったものもあるが、全般に見て、この作家の主な舞台は鎌倉だった。出版社の要請に渋々応じて出版された感じの駄作も結構ある。その中の一冊に、直木賞を取り、本格的に書き始めたころに受けたインタビューがあった。そのインタビューで、当時住んでいた鎌倉の山の手の一軒家の話をしているのを読んで「鎌倉のどこかに住んでるんや」と思った記憶がある。

 てっきり鹿ケ谷だと思っていたが、今回調べてみると、どうも違うようである。~ケ谷だったのは違いないが、平家打倒の陰謀事件があった京都東山の鹿ヶ谷と勘違いしたようである。

作家が死んだあと、夫人と娘さんが随想本を出していたが、その随想の中にはその家で3人で暮らした頃の話が書かれている。ただ、本人に会おうと考えたことはない。若宮通とか鎌倉高校前とか、その辺りを歩いてみたかっただけだと思う。

作品の舞台を歩いたら、小説を書き出すばねが見つかるかもしれないと思っていた節はある。しかし、戻っても書き出せなかった。その後、母親の借金もあり、思わず結婚もして子供が出来、あらぬ方向に動いてしまった。書く空間を求めて大学の職を思いつき、探しているときに横浜の出版社の人と出遭った。大学の職が決まる前から雑誌の記事を書き始めていたが、職が決まったとたんに待っていたかのようにテキストの編纂を、そのあと翻訳や著書を次から次に言われた。最後辺りは、ウェブでの連載を薦められて、週に1本の割りで書いていた。教授会は適当にさぼっていたが、小さな委員会は避けられなかった。会議の数も結構あったし、授業も科目の種類もコマ数も多かった。相変わらず、研究室には学生が来てくれていたし、毎日毎日何やかやあるまま定年を迎えた。

その後、出版社の人が亡くなった。その人からは賞は売るための業界の便法だからやめておきなさいと言われていたが、小説を書こうと思ったのはその人と出遭う前のことだったので、自然に小説を書き出した。今回は、どこかの出版社が売れると判断するかどうかだが、書き溜めた分が5冊になった。そろそろ6冊目をと考え始めているところである。今までも本1冊と翻訳3冊の原稿が活字にならなかったので、今回もそうなる可能性はある。先行きは、見えない。