つれづれに

つれづれに:鎌倉

 いざ鎌倉である。海岸道路を見て歩るいたあとは、作家が棲んでいた鎌倉だった。『鎌倉夫人』のように、タイトルに鎌倉の地名が入ったものもあるが、全般に見て、この作家の主な舞台は鎌倉だった。出版社の要請に渋々応じて出版された感じの駄作も結構ある。その中の一冊に、直木賞を取り、本格的に書き始めたころに受けたインタビューがあった。そのインタビューで、当時住んでいた鎌倉の山の手の一軒家の話をしているのを読んで「鎌倉のどこかに住んでるんや」と思った記憶がある。

 てっきり鹿ケ谷だと思っていたが、今回調べてみると、どうも違うようである。~ケ谷だったのは違いないが、平家打倒の陰謀事件があった京都東山の鹿ヶ谷と勘違いしたようである。

作家が死んだあと、夫人と娘さんが随想本を出していたが、その随想の中にはその家で3人で暮らした頃の話が書かれている。ただ、本人に会おうと考えたことはない。若宮通とか鎌倉高校前とか、その辺りを歩いてみたかっただけだと思う。

作品の舞台を歩いたら、小説を書き出すばねが見つかるかもしれないと思っていた節はある。しかし、戻っても書き出せなかった。その後、母親の借金もあり、思わず結婚もして子供が出来、あらぬ方向に動いてしまった。書く空間を求めて大学の職を思いつき、探しているときに横浜の出版社の人と出遭った。大学の職が決まる前から雑誌の記事を書き始めていたが、職が決まったとたんに待っていたかのようにテキストの編纂を、そのあと翻訳や著書を次から次に言われた。最後辺りは、ウェブでの連載を薦められて、週に1本の割りで書いていた。教授会は適当にさぼっていたが、小さな委員会は避けられなかった。会議の数も結構あったし、授業も科目の種類もコマ数も多かった。相変わらず、研究室には学生が来てくれていたし、毎日毎日何やかやあるまま定年を迎えた。

その後、出版社の人が亡くなった。その人からは賞は売るための業界の便法だからやめておきなさいと言われていたが、小説を書こうと思ったのはその人と出遭う前のことだったので、自然に小説を書き出した。今回は、どこかの出版社が売れると判断するかどうかだが、書き溜めた分が5冊になった。そろそろ6冊目をと考え始めているところである。今までも本1冊と翻訳3冊の原稿が活字にならなかったので、今回もそうなる可能性はある。先行きは、見えない。

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つれづれに:江之電と「天国と地獄」

 海岸道路を見て歩くには、江之電が便利だったが、江之電に乗りたかった理由は他にもあった。黒澤明監督の「天国と地獄」に出て来たシーンが目に焼き付いていたからである。一度近くで見てみたいと思っていた。録音した江之電の音を手掛かりにして犯人の動向を割り出し、江之島の見える高台の別荘で逮捕することに成功した。電車の架線の出す音が特徴的だったことにヒントを得て、別荘を割り出していた。今では考えられないが、今以上にあほな男社会で、煙草(たばこ)の煙がもうもうとする中で行われていた捜査会議が、いかにもその時代を象徴していた。男中心のあほな基本構造はそう変わっていないように見えるが、少なくとも職員室や捜査会議で煙草を吸えることはないだろう。

「天国と地獄」は1963年の製作である。翌年に東京オリンピックがあった。後に南アフリカの作家の作品を理解するのに歴史を辿(たど)り、日本がアパルトヘイト政権と深く関わっていることを知った。第二次大戦で中断されていた通商条約を結んで白人政権に加担した日本は、南アフリカの人にとっては経済を優先する恥知らずの国である。1960年の大量虐殺でアフリカ人側がオランダ人とイギリス人の連合政権の横暴に耐えかねて武力闘争を開始したとき、アパルトヘイト政権はなりふり構わず欧米や日本に協力を求めて力でねじ伏せしまった。ネルソン・マンデラなどの指導者たちは逮捕され、終身刑を言い渡されてロベン島に送られた。1964年のことである。南アフリカは地上での指導者を失い暗黒の時代に入り、日本は高度経済成長時代に突入した。映画はその頃の話である。

 映画を見たのは三ノ宮の高架下のビッグ劇場という映画館だった。旧作が3本1000円だった。夜の授業に行くつもりで家を出たが、三ノ宮で阪急電車に乗り換えるときに、大学には行かずに映画館に行き先を変えることも多かった。シドニー・ポワチエ(Sidney Poitier、1927-2022)の「いつも心に太陽を」(To Sir with Love)、「谷間の百合」(The Lily of the Valley)、「招かれざる客」(Guess Who’s Coming to Dinner)や黒澤明の「赤ひげ」などは、無為な日々を過ごしていた私の心にも充分に響いてきた。のちに、まさか授業で「招かれざる客」を使うとは、その時は思いもしなかった。

阪急に乗り換える時に利用した国鉄三ノ宮駅(今はJR)

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つれづれに:湘南

 『海岸道路』の一節である。

「鎌倉を中心にして海岸道路は左右にのびていた。左は江之島、茅ケ崎(ちがさき)を経て大磯、小田原に至り、右は逗子(ずし)を経て葉山に至る道である。海岸道路にはいたるところにホテルが建っていた。これらのホテルは夏場は混むが、いくつかのホテルは季節はずれになるとひっそりとしてしまう。したがって予約なしに行っても、いつでも泊まれる。海岸道路ぞいに朝まで営業しているレストランが何軒かあり、深夜、東京からわざわざバーのホステスをつれてくる男達もいた、これらの男達は、ひとむかし前は、ホステスををつれて横浜の″南京街″にくりだした連中である。その頃ホステスは女給とよばれていた。

地元のある人達は、この海岸道路を有閑道路とよんでいた。よくも深夜これだけの人間があつまるものだ、と思うほど、どのレストランもまいばん満員だった。」

主人公も朝まで営業しているレストランの常連で、有閑道路脇のホテルに泊まる。海岸道路を見て歩くには、江之電が便利だった。

 鎌倉と藤沢間を走る江之島電鉄である。ウェブで検索して見つけた1970年代の写真(↑)では、電車と併行して走っている海岸道路と江之島が見える。

 鎌倉から電車に乗り、途中で稲村ケ崎、腰越(こしごえ)、江ノ島の駅で降りて海岸道路を歩いた。『海岸道路』のほか、『春のいそぎ』、『はましぎ』、『恋人たち』の主な舞台である。

 私の日常は方埒(ほうらち)な生活とはまるで無縁だったが、生きても30くらいまでかなあと、ぼんやりと過ごしていた先の見えない無為な生活に、主人公の無為な世界を重ね合わせて、大根のところでは理解できる気がしたのか。

 しかし、小説を書き出せなかった。書き出すばねがないと感じたからだが、突然の母親の借金騒動であらぬ方向に動き出してしまった、というのが正直なところだ。その後、結婚して子供も出来てと、また思わぬ方向に展開して、小説どころではなかった。このままでは書けそうにないと言う気持ちが高じて、先ずは書くための空間をと、大学の職を思いついた。元々貧乏だから自分一人ならそれでもよかったが、妻や子供に強いる気にはなれなかった。返すあてもなく金を借りて、借りてまで生きてはいけないと思った感情に似ている。

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つれづれに:湘南

 →「漂泊の思ひ」と、入れ込んでいた作家の作品の舞台を見たいという思いもあって、三月の初めに湘南・鎌倉に出かけた。1970年代の半ばである。舞台を見る前に、一度は行ってみたいと常々思っていた伊豆地方にも立ち寄った。→「伊豆」では「修善寺」、→「西海岸」の戸田、→「下田」から→「伊豆大島」に渡ったあと、→「小田原」に行った。小田原城公園では、仰向けになって空を眺めた。そのあとは、最終地の湘南・鎌倉だった。初期の作品の主な舞台だったからである。作品の中の地名を思い浮かべながら、江ノ電に乗り、海岸線を歩いた。

 その後、1980年代にアメリカ文学を選んで修士論文を書く時にも、同じことがあった。英文だったが、作品がすっと意識下に入ってきた。著者が多感な時期を過ごしたミシシッピは、やはり初期の作品の舞台だった。作者が生まれたナチェズには、首都ジャクソンからプロペラ機を利用した。

ナチェズ空港

 空港前に広がる長閑(のどか)な景色から黒人を樹に吊(つ)るしていた残虐な場面は浮かんでこなかったが、眼の前の美しい光景がかえって残酷な風に思えた。旅先から学会誌に送った原稿には、その時ミシシッピを回りながら感じた思いが綴(つづ)られている。(→「ミシシッピ、ナチェズから」、1986)

 「『風土が美しければ美しいほど、読者の目には白人社会が、より苛酷なものに映る』とある雑誌に書いたが、心のどこかで、その豊かで美しい風土をこの目で確かめたかったのかも知れない。ライトは、たしかに文学的昇華を果たしていた、という思いが深まって行く」

 英文だったが作品の文字がすっと心に染みこんで、意識下に働きかけてきた何かを確かめたかったのだろう。時代も違うし、英語も充分に使える状態ではなかったが、作家の生まれ育った辺りの土地に立ってみたいという思いは強かった。

 日本人の作家が新聞に連載していた小説だったが、文字が意識下にすっと入ってきて、何かに響くのを感じた。作品の舞台を歩いてみたいと感じたのも同じ思いからである。

 『海岸道路』はその頃に書かれた代表作で、由比ケ浜、七里ケ浜、稲村ケ崎、腰越(こしごえ)、江ノ島、鵠沼(くげぬま)、藤沢、逗子(ずし)などの名が躍(おど)る。鎌倉に住む主人公はその海岸道路の近くで、放埓(ほうらち)な日々を過ごしていた。従妹で銀行の頭取の娘、有閑マダム、夫が有名大学教授の人妻、隣町の県会議員の妾(めかけ)など、女に困ることはなかった。ときには喧嘩(けんか)や、いかさま坊主と吊るんで喝(かつ)上げもする。手際よく相手を倒すまでには、数々の修羅場(しゅらば)をくぐって来たに違いない。

 作品を読みながら、海岸道路を見てみたいと思い、出かけて海岸線を歩いてきた、そんな湘南行きだった。