続モンド通信・モンド通信

続モンド通信36(2021/11/20)

私の絵画館:雪之丞くん(ペキニーズ)とおもちゃ(小島けい)

2 小島けいのエセイ~犬・猫・ときどき馬⑮:月は友だち?(小島けい)

3 アングロ・サクソン侵略の系譜33:ケニアの歴史(3)イギリス人の到来と独立・ケニヤッタ時代(玉田吉行)

**************

1 私の絵画館:雪之丞くん(ペキニーズ)とおもちゃ

 雪之丞くんと飼い主さんにお会いしたのは、2019年の個展でのことでした。

お父さんの背負っておられるキャリーバッグ一杯に、見事なふわふわの毛が広がっていました。

まんまるいかわいい目がとても印象的でした。

最初は<ルーマーちゃん>の絵をご覧になり、こんなふうに背景なしで、雪之丞くんだけで、というご希望でしたが。

ルーマーちゃん

 ラフスケッチをお送りしたりする間に、

① 写真のような構図(正面を向いて足がちょこんと出ている)

② お顔は笑っているように見えるものを。

③ 背景は優しい色合いに。

④ 雪之丞くんが大好きなおもちゃたちを一緒に。

というように、ご希望が具体化されていきました。

そして、大好きなおもちゃのお写真が何枚も届きました。

それらのなかから、かわいいうさぎさんとぞうさんの2つを選ばせていただき、雪之丞くんと一緒に描きました。背景には、雪之丞くんの美しい毛がひきたつように、明るい緑を置きました。

初めての“ペキニーズ”でしたが、とびきり愛らしい雪之丞くんと出会えて、幸運でした。

カレンダー「私の散歩道2021~犬・猫ときどき馬~」11月

=============

2 小島けいのエセイ~犬・猫・ときどき馬~⑮:「月は友だち?」

月に眠る(2)

 私は夏が好きでした。

小・中・高から大学、大学院まで、ずっと“夏休み”があることも大きな理由でしたが。暑さそのものも、あまり苦になりませんでした。

ところが、ここ数年、その暑さに悩まされるようになりました。クーラーが苦手な私は、微妙な温度差が、体調に影響するようになりました。

もう一つの理由は、毎年個展をし、カレンダーを出すようになって、絵の〆切りが<暑さのまっ最中>と重なることでした。

昨年の夏は、その両方で、夜うまく眠れなくなりました。途中からは、環境を変えようと、アトリエに布団を運び込み(広々と敷く場所はないので)大きめの机の下に敷いて寝る、などという泪ぐましい努力もしました。

そんなこんなで困っていた時、娘が“裸足で土の上を歩くと、体に良いみたいだよ”と教えてくれました。

私は昔スキーで膝を痛めて以来、足首も痛めています。サポーターなしには出歩けませんので、裸足はあきらめ靴をはきますが。柔かい草の上を歩くのはいいかもしれない、と思いました。

以来、近くのキャンパスのグランドのすみっこ、草のところで、歩くことを始めました。一日1000歩。それも、普通に歩くのではなく、<ナンバ歩き>です。

日本地図を作った伊能忠敬が、高齢にもかかわらず毎日50kmも歩くことができたのは、ナンバ歩きのおかげだ、ということを聞いたからです。

伊能中図九州南半「古地図コレクション」

https://kochizu.gsi.go.jp/items/171?from=category,10,index-table

 右手右足、左手左足と最初は少しギコチなかったのですが。丹田にだけ力を入れ、あとは力を抜いていればよいとわかってからは、かなりスムーズに動けるようになりました。 始めた頃は夏の終わりでしたので、遅い時間でもグランドには少し人がいました。ある晩、グランド回りの外灯も消えたので、懐中電灯で足元を照らしながら歩いていると、走っていた学生さんが突然近付いてきて、“何を探しているのですか?一緒にさがしましょうか?”と声をかけてくれました。“いえいえ・・・・”と事情を話しましたが。ご親切に感謝して。それからは懐中電灯をつけずに歩くことにしています。

季節も移り、秋から冬に。夜グランドにくる人も少なくなりました。

シーンとしたグランドは寂しいのですが、見上げると夜空には星と月。特に月は、うすい三日月から徐々に満月になり、また新月になり、とその形が日々変わります。いつのまにか、毎日最初に月を見上げて、確かめるようになりました。

“今日は昨日より少し丸くなったねえ・・・”などと話しかけながら、今夜も1000歩、歩きます。

カレンダー「私の散歩道2011~犬・猫ときどき馬~」11月

「月に眠る」(1)

=============

3 アングロ・サクソン侵略の系譜33:ケニアの歴史(3)イギリス人の到来と独立・ケニヤッタ時代

2021年Zoomシンポジウム「アングロ・サクソン侵略の系譜」―アフリカとエイズ」(11月27日土曜日)/「ケニアの小説から垣間見えるアフリカのエイズ」3

 今回はケニアの歴史の3回目、ポルトガル人の後に来たイギリス人がケニア社会を根底から変えてしまったという話である。

ポルトガルはアフリカの東海岸で略奪をして、一部を破壊はしたが、社会の基本構造を変えるほどの影響を与えたわけではなかった。しかし、後から来たイギリスは、ケニア社会を根本から変えてしまった。結果的に、キルワ虐殺はヨーロッパ侵略の始まりに過ぎなかったのである。

キルワの復元図

 アフリカ西海岸で直接金を買い始めたポルトガルは、インドへの海上ルートも発見してベニスの都市国家から東インドとの香辛料貿易の支配権を奪いたいと望んでいた。そのためにも栄えていた東アフリカとの貿易は不可欠で、取引の交渉をしたが計画は頓挫した。商品が粗悪だったためである。ならば力ずくでということになり、武力で東アフリカの貿易を独占しようと決めた。キルワ虐殺はその一環だったのである。

前回、前々回のシンポジウムでポルトガルとスペインの植民地支配について寺尾智史さんが発表で再三指摘していた通り、ポルトガルとスペインは植民地支配に向いてなかったようだが、後から来たイギリスは植民地支配に長けていた。貴族社会が支えた王朝で永年培った、自分は働かずにたくさんの人を働かせて上前をはねる、徹底的に管理して骨の髄までしゃぶり尽くすという特技をいかんなく発揮しているわけである。→「2021年Zoomシンポジウム:第二次世界大戦直後の体制の再構築」続モンド通信27、2021年2月20日)、→「2018シンポジウム」(blogには2018年の報告を載せていないが、報告書の印刷物は出来ているで、連絡をもらえれば、PDFでの送付も可、である。)

2018シンポジウム案内ポスター

南アフリカケープ州からのイギリス人入植者が最初に狙ったのはホワイトハイランドという現在の首都ナイロビである。赤道に近く、標高約1800メートルの高地にあるが、快適で過ごし易く、代々多数派のギクユ人が平和に暮らしていた。一番いい場所を力づくで奪い、豊かな文化を持つ人たちの制度を利用して、植民地支配を徹底した。他のアフリカ諸国でも同様だが、イギリスは発達した社会制度を持つ国を植民地化している。遅れを取ったフランスが植民地化した国が、サハラ砂漠も含めて土地は広大ながら、社会制度が未発達の地域だったのとは対照的である。従って、地元の制度を利用しても利点がないのでフランスは直接支配、同化政策を取った。イギリスはケニアの一番過ごし易い土地を奪い、高度な文化を持つ人たちの制度を借用して、着実に植民地支配を続けたのである。

ナイロビ市内を望む

ケニア社会の基本構造を変え得たのは、イギリス人の侵略性と狡猾さゆえだが、キリスト教と貴族社会下の制度を持ち込んだもの大きい。それに時期、である。つまり、奴隷貿易で蓄えた資本で産業革命を起こし、資本主義を加速度的に発展させて、農業中心の社会から産業社会に変えていた最盛期だったのである。すでに経済規模もそれ以前とは比べようもないほど拡張していた。産業化に必要だったのは、更なる生産のための安い原材料と安価な労働力である。必然的に植民地争奪戦は熾烈を極め、ヨーロッパに近いアフリカ大陸の植民地化が一気に加速した。すでに南アフリカで安価な労働力を無尽蔵に生み出す南部一帯を巻き込む一大搾取機構を構築していたイギリスがケニアに進出して来たのだから、ケニアでも南アフリカと同様の制度を導入したのは当然である。課税してケニア人を貨幣経済に放り込んで大量の安価な労働力を生み出し、産業社会に必要だった原材料や豊かな生活のための農産物を安く作らせた。紅茶もその一つである。

ケープ植民地相だったセシル・ローズ

宮崎に来る前に住んでいた明石の家に、当時非常勤でいっしょだったイギリス人のジョンとケニア人のムアンギが来たことがあった。居間で紅茶を淹れている時に「これがイギリス流の紅茶の淹れ方」とジョンが言うと、「イギリスの紅茶やなくて、ケニアの紅茶やで」とムアンギがぼそぼそ反論していたのを思い出す。ジョンにとって「イギリスの紅茶」が当たり前だが、ムアンギにはイギリスに作らされて来たものという意識が強く働いているようだった。次回は一党独裁時代の話をするつもりだが、ムアンギは二人目の独裁者モイ大統領の時代に日本に留学し、同郷で亡命中の作家グギさんの世話をして、ケニアに戻れなくなったと聞く。ムアンギといっしょにいる時、植民地時代や専制政治の身近な影を何度か感じたことがあった。侵略された経験のない国にいるので、どうもその意識が欠落しているらしい。

ムアンギといっしょにしたシンポジウム(大阪工大、1988年)

「変革の嵐」(The Wind of Change)が吹き荒れてケニアも独立したが、アフリカ諸国の独立は第二次大戦で殺し合った宗主国の総体的な力が低下したからである。決して、アフリカ諸国の力が上がったわけではない。独立時の宗主国の狡猾な戦略については、前回のシンポジウムでガーナとコンゴを例にあげた。→「アングロ・サクソン侵略の系譜25: 体制再構築時の『先進国』の狡猾な戦略:ガーナとコンゴの場合」続モンド通信28、2021年3月20日)

ケニアでも独立への胎動は大戦前に始まっている。1942年にギクユ人、エンブ人、メルー人、カンバ人が秘密裏に独立闘争を開始、例によってメディアを巧みに使ってイギリスは闘争をマウマウと蔑み、武力で抑え込みに躍起になったが、闘っていた人たちは闘いの本質を知っていた。デヴィドスンが映像に収めた戦士の一人は「マウマウは独立の力だ。あれなしでは土地も自由も教育も得られなかった。」(「アフリカシリーズ第7回 湧き上がる独立運動」)とインタビューに応じている。

戦士の一人

1953年にジョモ・ケニヤッタが、1956年に指導者デダン・キマジが逮捕されて戦いは激化、1952年10月から1959年12月まで国内は緊急事態下に置かれた。長く険しい闘いを経て1963年に独立、ケニヤッタが初代首相に就任した。

捕らわれたデダン・キマジ

しかし、ケニヤッタは共に闘った人たちを平然と裏切って、欧米諸国や日本と手を結んでしまった。1966年に前副大統領ルオの長老ジャラモギ・オギンガ・オディンガが結成した左翼野党ケニア人民同盟(KPU)を1969年に禁止、事実上のケニヤッタの一党独裁政治が始まった。独立から僅か数年の間にケニヤッタが変節したからだが、変節の背景はケニヤッタが率いたケニア・アフリカ人民族同盟(KANU, Kenya African National Union)の変容にあった。KANUは様々な階級からなる大衆運動で、主導権は、帝国主義と手を携える将来像を描く上流の小市民階級と、国民的資本主義を夢見る中流の小市民階級と、ある種の社会主義をめざす下流の小市民階級との三派にあったが、1964年にケニア・アフリカ人民主同盟(KADU, Kenya African Democratic Union)がKANUに加わったことで、上流の小市民階級の力が圧倒的に増した。外国資本を後ろ盾に、数の力で、ケニヤッタは誰憚ることなく、自分たちの想い描いた将来像を実行に移し始めた。外国資本の番犬となったケニア政府は、植民地時代の国家機構をそのまま受け継ぎ、政治、経済、文化や言語を支配したというわけである。選挙・投票という「民主主義」と数の力を最大限に駆使しての完全勝利だった。

ジョモ・ケニヤッタ

そして、1978年にケニヤッタが死んだあとも、副大統領のダニエル・アラップ・モイが大統領になり、一党独裁政治は維持・強化されていった。

次回は、モイ時代・キバキ時代 ・現連立政権時代である。

続モンド通信・モンド通信

続モンド通信35(2021/10/20)

私の絵画館:子馬(ジャスミン)とコスモス(小島けい)

2 小島けいのエセイ~犬・猫・ときどき馬⑭:秋にはコスモス・・・・(小島けい)

3 アングロ・サクソン侵略の系譜32:ケニアの歴史2(玉田吉行)

**************

1 私の絵画館:子馬(ジャスミン)とコスモス

 以前借りていた家には、50坪ほどの畑がありました。初めての秋、その畑は一面のコスモス畑となりました。

それまで親しんでいた花屋さんのか弱いコスモスではなく、人間の背たけを越え天に向かって咲きほこる、強いコスモスでした。

そこで、来年は畑だけではなく、家の周りすべてをコスモスの花で囲もう!と考えました。30cm間隔に穴を掘り、次々とコスモスの根を植えていきました。大変でしたが、“秋の家”を想像するだけでワクワクする作業でした。

家主さんは、お世話になっている先生でしたので、毎月家賃をもってお宅にお邪魔しました。まわりからは恐れられている方でしたが、毎月の私たちのアホな話を、結構楽しみにして下さっているご様子でした。

コスモスの“植樹”(?)を終えた後、お伺いしてその話をしたところ、ふだんはそれほど大笑いされないご夫妻が、一瞬目を見合わせおかしくてたまらないというように、笑いころげておられます。そうして、ようやく笑いがおさまった後、“コスモスは一年草だから、根を植えてもダメなのですよ”と、奥様が教えて下さいました。

20年前に、私たちは今の家を買い、何年か前にはその先生も旅立たれました。他の人たちには厳しかったようですが、息子さんしかおられない先生には、ちょうど娘のような感じだったのか、私たちには温かいまなざしでした。

コスモスの花を見ると、今よりもっとアホだった私たちと、先生を思い出します。

カレンダー「私の散歩道2021~犬・猫ときどき馬~」10月

=============

2 小島けいのエセイ~犬・猫・ときどき馬~⑭:「秋にはコスモス・・・・」

中島みゆきさんに「アザミ嬢のララバイ」という曲があります。その歌詞のなかに<春は菜の花 秋にはききょう>という一節があり、気だるいメロディとともに、妙に心に残っています。

歌詞には不向きですが、私の場合は<春は桜 秋にはコスモス>となりそうです。

花の絵を中心に描いていた頃、春はめまぐるしいほどの忙しさでした。まさに<花の命は短かくて>。次から次へと、新しい花が咲き出すからです。花を追い、花に追われる日々でした。

そんな春とは違い、秋の花はとても少なく、私のなかでは、ずっと“コスモス”が秋の主役でした。

<花>

No. 1

No. 2

No. 3

No. 4

No. 5

No. 6

No. 7

No.8

No.9

 描く絵が、花から動物たちへと移ってからも、コスモスの花と一緒に描いてきました。

<犬とコスモス>

No. 1(もえちゃんとコスモス)

No. 2(ハーシュくんとコスモス)

No. 3(ターバンくんとコスモス)

No. 4(ポチとコスモス)

No. 5(寅次郎くんとコスモス)

<猫とコスモス>

No. 1(子猫とコスモス①)

No. 2(子猫とコスモス②)

No. 3(さやちゃんとコスモス)

No. 4(まりんちゃんぷりんちゃんとコスモス)

<馬とコスモス>

No. 1(ジャスミンとコスモス)

 これまでも何枚も描いてきましたが、これからもきっと、たくましく時に可憐なコスモスを、私は描き続けてゆくのだろうと思います。

=============

3 アングロ・サクソン侵略の系譜31:ケニアの歴史(2 )

ペルシャ人、アラビア人とポルトガル人の到来

2021年Zoomシンポジウム「アングロ・サクソン侵略の系譜」―アフリカとエイズ」(11月27日土曜日)/「ケニアの小説から垣間見えるアフリカのエイズ」2

ケニアの歴史の2回目である。

1505年のキルワの虐殺を皮切りに世界を侵略し始めた西洋諸国は、侵略を正当化するために自分たちに都合のいいように歴史を書いてきたので、古代に栄えたエジプト文明もアフリカとの関係は完全に無視されて来た。しかし、実際にはエジプト文明はアフリカ人の影響を色濃く受けていたので、古代エジプトを抜きにはアフリカを到底理解することは出来ない。

エジプトのカイロ博物館

 エジプトは、古代世界でも最も高度でユニークな文明を築き上げ、3000年ものあいだ栄えて来た。その影響は、周囲はもちろん遠くオリエントにまで及んでいる。今日のエジプト人やスーダン人の遠い祖先の中には、こうした初期のナイル住人もいる。その後西アジアから来た民族も混じっていったが、一番多く入り込んだのは南や西から来た人々、つまりサハラを追われたアフリカ人だった。

サハラの気候が大きく変わり始めたのは4500年ほど前で、やがてサハラは雨を失ない、動物を失ない、遂には人間を失なっていった。そこで暮らしていた住民は乾燥化が進む土地を捨て、水を求めて次第にサハラを出て行き始めた。南と西に広がる熱帯雨林を目指す人たちもいたし、東のナイル川に向かったグループもいた。その人たちがサハラ流域にも暮らすようになり、エジプト人とも交わっていったわけである。

エジプト人の支配はやがて終わり、ラムセツ2世の時代から約500年後にヌビアの王が北に攻め入り、エジプト全土を掌握した。ヌビアの王は紀元前600年頃までエジプトを支配し、その後再びクシュ王国の都ナパタに戻り、その後、南のメロエに都を移した。ヌビアの地はエジプト文明の形成に大きな影響を与え、後に逆輸入された。

ギリシャやローマ時代にヨーロッパと西アフリカを繋いでいたのはベルベル人で、サハラの砂漠化が進んだ後に西アフリカと外部世界を繋いだのは、ベルベル人の仲間トワレグ人である。ヨーロッパとアフリカ、中東やインドや中国とアフリカが繋がっていて、その交流はサハラの砂漠が進んだのちも大きく広がっていった。西アフリカや東部・南部アフリカにも幾つかの王国が栄え、その王国と外部世界が黄金を通貨にした巨大な交易網で繋がっていたわけである。東部と南部アフリカと外部世界、遠くはインドや中国と繋いだのはペルシャ人で、後にはアフリカ人とペルシャ人の混血のスワヒリの商人がその役目を果たした。

砂漠の民トワレグ人

 トワレグ人やスワヒリ人が繋ぎ、エジプトを拠点に広大なアフリカ大陸に張り巡らせた黄金の交易網については、アフリカ大陸に生きるアフリカ人と暮らしの話と、王と都市をめぐる話のあとに、詳しく取り上げる予定である。

アフリカ大陸に暮らす人々の生活は前回一部を紹介した遊牧と、農耕が主体で基本的にはそう変わっていないが、インド洋に面した海岸部では交易によって栄えた街も増え、経済は拡大していた。元々東アフリカの海岸には、おそらく紀元前からはるかインドや中国にまで延びる海上ルートがあった。インド洋の海上ルートを切り拓いたのは古代ギリシャ人やローマ人、それにアラブ人だったようで、特にアラブ人は東アフリカ沿岸のアフリカ人の中に溶け込んで行き、そこから独自のスワヒリ人が生まれている。10世紀に歴史家アル・マスーディーがやってきた頃には、東海岸一帯に豊かなスワヒリ都市がいくつも出来ていた。

スワヒリ都市と帆船ダウ

マスーディーは「アフリカ沖の波はまるで山脈だ。深い谷底めがけて一気になだれ落ちる。砕けて泡を立てることもない。私が旅したシナ海、地中海、カスピ海、紅海、どの海もこれほど危険ではない。この海を渡ったのはダウと呼ばれる、今も使われている帆船です。東アフリカとアラビア半島を往来していた船は、向かい風でも進むことが出来ました。ヨーロッパの船がこの技術を身に着けたのはずっと後のことです。」と言っている。

ダウを操る船乗り

 モンバサなどのスワヒリの街は東アフリカの海岸に沿って、お互い余り距離を置かずにあり、一番南の街がソハラで、大変重要な交易の拠点だった。そこに南アフリカの内陸部から黄金が集まっていたからである。タンザニアの沖合にあるキルワも栄えていた街の一つで、デヴィドスンは島に行く船の中で次のように語っている。

「私は今タンザニアの沖合の島キルワに向かっています。この島はスワヒリの交易都市を語るにはどうしても忘れられない所です。キルワもラムと同じで、沿岸に浮かぶ小さな島です。今もここに行くには船を使うしかありません。伝説ではキルワに最初に来た外国人はペルシャの人々だったとされています。かれらも土地の人と結婚し、この島に落ち着きました。その十世紀末から十六世紀初めまで、ここには豊かな都市国家が栄え、内陸から来る金の取引で賑わっていたのです。信じられないような話ですが、600年前にはこの階段を東洋の人々、色んな国の大使や商人、兵隊、船乗りが一歩一歩登って行ったのです。そして一番てっぺんに達したとき、目の前に広がったのは活気と華やかさに溢れたそれはもう夢のような美しい街でした。しかし、それは悲惨な結末を迎えました。」

キルワとデヴィドスン

1498年に初めてインド洋に入ったバスコダ・ガマが目にしたものを報告した7年後の1505年に、ポルトガルが武装した船団を送って、キルワを廃墟にしてしまった。同行したドイツ人ハンス・マイルは目撃したことを「ダルメイダ提督は軍人14人と6隻のカラブル船を率いてここに来た。提督は大砲の用意をするよう全船に命令した。7月24日木曜未明、全員ボートに乗り上陸、そのまま宮殿に直行し、抵抗する者はすべて殺した。同行した神父たちが宮殿に十字架を下ろすとダルメイダ提督は祈りを捧げた。それから全員で、街の一切の商品と食料を略奪し始めた。2日後、提督は街に火をつけた。」と書き残している。

キルワの虐殺はヨーロッパ人の大規模な侵略の始まりだった。

キルワ虐殺の版画

次回は、イギリス人の到来と独立・ケニヤッタ時代である。

続モンド通信・モンド通信

続モンド通信34(2021/9/20)

私の絵画館:犬(ももちゃん)と葡萄(小島けい)

2 小島けいのエセイ~犬・猫・ときどき馬⑬:中秋の名月に(小島けい)

3 アングロ・サクソン侵略の系譜31:ケニアの歴史1(玉田吉行)

**************

1 私の絵画館:犬(ももちゃん)と葡萄

この“ももちゃん(ゴールデン・レトリーバー)”は、飼い主さんが、お母様から譲り受けた犬ちゃんでした。

カレンダー「私の散歩道2021~犬・猫ときどき馬~」9月

 そして、ももちゃんが旅立った後に、彼女はトイプードルの“りんちゃん”“すずちゃん”と暮らしていました。

絵のご注文は、このりんちゃんすずちゃんが先でした。長くメキシコに住んでおられたということで、<うちわサボテン・柱サボテン・メキシコの太陽と一緒に>というご希望でした。出来上がったのが、この絵です。

りんちゃん・すずちゃんとメキシコ

カレンダー「私の散歩道2019~犬・猫ときどき馬~」9月

 とても気に入って下さり、この絵で作った個展案内を、いきつけのお店や、ドッグシッターさんなどに、持ち込んで下さるほどでした。

ももちゃんの絵の話がでたのは、その翌年でした。

亡くなった子の絵を描いてもらうと、ご自身がどんな風に感じるのかを心配して、迷っておられたからでした。

そこで、個展の会場でもあるドッグカフェのオーナーさんに、感想を聞かれました。オーナーの映子さんも、亡くなった犬(ルーマーちゃん・ダルメシアン)の絵を、お持ちだったからです。

ルーマーちゃん

 ご自分のCafé & Galleryに<ルーマー>と名付けるほど可愛がっておられたのですから、感想を聞くにはうってつけでした。

確か“いつもそばにいて見守ってくれている感じですよ…”というような話をされていたと思うのですが。

そこで安心して、モモちゃんの絵のご注文、となりました。飼い主さんは、お会いする少し前に葡萄狩りに行ったので、その時の葡萄と一緒にと、ももちゃんの、貴重で大切なお写真をお預かりしました。

そして完成したの、がこの絵です。美しく優しかった百々ちゃんを、淡い色と柔らかいタッチで描きました。

ももちゃんと葡萄

 これまでも、亡くなった子たちの絵を何枚も描かせていただきました。その中で、カレンダーに登場してもらった絵の一部をご紹介します。

カレンダー「私の散歩道~犬・猫ときどき馬~」

No. 1 2011年7月 犬(アレックス)とのうぜんかずら

No. 2 2012年1月 犬(コロちゃん)と水仙

No. 3 2012年3月 犬(ロンくん)と三種類の椿

No. 4 2013年12月 犬(アンくん・ラックくん)と椿

No. 5 2014年3月 猫(ゆきちゃん)とチューリップ

No. 6 2014年11月 犬(ショー子ちゃん)と黄色いダリア

No. 7 2015年表紙 犬(レイチェル)と猫(ジェリー)とマーガレット

No. 8 2015年4月 犬(ナナちゃん)と桜

No. 9 2015年7月 犬(ゴロ)と白百合

No. 10 2015年10月 犬(ポチ)とコスモス

No. 11 2016年2月 犬(シェルター)とログハウス

No. 12 2016年4月 犬(ルーマー)

No. 13 2016年5月 犬(コロ)と牡丹とキャベツ畑

No. 14 2017年1月 猫(ミミ)と窓

No. 15 2017年5月 猫(トラとキタロー)と昼咲き月見草

No. 16 2017年12月 犬(レオ)

No. 17 2018年3月 犬(サンデーくん)

No. 18 2018年11月 犬(ルーシー)と木立ダリア

No. 19 2019年1月 猫(ジーコ)とかすみ草

No. 20 2019年2月 犬(タルト)と梅

No. 21 2019年8月 犬(シェルター)と海

No. 22 2021年4月 犬(ローラ)と子山羊とマーガレット

No. 23 2021年7月 うさぎ(しょうちゃんとチョビちゃん)

横書きの絵で、カレンダーには掲載できなかったものもありますが。

ある飼い主さんから、以前いただいたお手紙に<今では毎朝、絵のなかのこの子たちに“おはよう”と挨拶してから、私の一日が始まります>とありました。

それぞれの絵が、こんなふうに、飼い主さんたちの気持ちに、少しでも寄り添えたら……これほど嬉しいことはありません。

=============

2 小島けいのエセイ~犬・猫・ときどき馬~⑬:中秋の名月に

今年の<中秋の名月>は、8年ぶりの満月とかで、世の中は少し騒がしかったようですが。

私はそのお月さまを、大学のキャンパスのグランドで、草の上を歩きながら見ていました。

そうして、高原の美術館で個展をしていた時は、毎年九月のお月さまを、電柱一つない真っ暗い山の中の道を、散歩しながら見ていたなあ…と思い出しました。

九州芸術の杜(大分県飯田高原)

<九州芸術の杜>は、美しい高原の広い敷地のなかにある、素敵な空間です。ただ、ギャラリーも広かったため、毎年60枚以上の絵を運んでいました。

さらに、まわりには、夜開いているお店が全くなかったため、ギャラリーの2階に滞在する間の自分達の食事を、すべてあらかじめ準備して行きました。

それは、私にとって結構大変な労力でした。

<九州芸術の杜>が、駅からも人里からもずいぶん遠い場所に在る、と思い込んでしまったのには、訳があります。

個展のお話をいただいた年、私たちは事前に、社長さんと館長さんのお二人にご挨拶に伺いました。その時、電車を乗り継いだ後、湯布院の駅からは、タクシーに乗りました。

タクシーは、山の中の曲がりくねった道路を、右へ左へとカーブを切りながら、40分くらいもかかって、美術館に到着しました。

これほど遠い所なら帰りのタクシーを呼ぶのも大変だろうと、私たちはそのタクシーに待っていてもらい、帰りも同じ道を40分程<ドライブ>して、ようやく由布院駅にもどりました。

ところが、5年目の年。いつもは知り合いの方にお願いして、車で家から美術館まで運んでもらっていましたが、今回は電車で行ってみることにしました。そして、湯布院の駅からは、高原を一日に数本走っているバスに乗りました。

すると、“うそでしょ?!”というくらいの近さで、もよりのバス停に着いたのです。時間も10分かかりませんでした。

やまなみハイウェイバス停付近

私たちが初めて乗ったタクシーは、通常10分で着く道をあえて通らず、あきれるくらい遠まわりをしていたことに、この時初めて気付きました。

これほど湯布院が近いなら、ギャラリーを閉めた後、街へ降り、食事も買い出しも十分できる。そうすれば<パン、ご飯、おかずすべてを準備して。冷凍して。送る>というひどくしんどい作業を、五年間倒れそうになりながら、しなくて済んだのに…と悔やみましたが。もうはや過ぎてしまったことでした。

翌年から、体調、体力的な面を考え、私は個展の場所を、東京に移しました。けれど、五年間<九州芸術の杜>で個展をさせていただくことができたからこそ、今がある。心よりそう思います。

ほんとうに、ありがとうございました。

=============

3 アングロ・サクソン侵略の系譜31:ケニアの歴史(1)植民地化以前

2021年Zoomシンポジウム「アングロ・サクソン侵略の系譜」―アフリカとエイズ」(11月27日土曜日)/「ケニアの小説から垣間見えるアフリカのエイズ」1

今回のシンポジウムでは、アングロ・サクソン侵略の系譜の中で、ケニアの小説から見たアフリカのエイズについて話をした。科研費のテーマで、医学と文学の狭間からみるアングロ・サクソン侵略の系譜の一つである。話をした内容の詳細を書いてみたい。

エイズの話の前に先に歴史をみておく必要があるが、ケニアの歴史には詳しくないので、駐日ケニア共和国大使館(東京都目黒区)の「ケニア小史」を借用して、ざっと歴史を辿ってみようと思う。

駐日ケニア共和国大使館

ケニア小史

紀元前2000年頃に北アフリカから来た人たちが東アフリカの今のケニアの一部に定住、のちにアラブ人とペルシャ人が来て植民地化、次いで1498年にポルトガル人が来てモンバサを拠点に貿易を支配、そのあとイギリス人が来て、1895年に東アフリカ保護領に、1920年に植民地に。長年ホワイトハイランド(現在の首都ナイロビ)に住んでいた多数派のギクユ人は、南アフリカケープ州のイギリス人入植者に奪われた植民地を取り戻すためにジョモ・ケニヤッタたちの主導で抵抗運動を開始、1963年に独立を果たし、1969年に「事実上の」単一政党国家に。その後、モイ、キバキの一党独裁支配を経て、大統領の国家統一党とオレンジ民主運動の連立政権で折り合いをつけて、現在に至る。これが大雑把な歴史である。

だが、それだけではアングロ・サクソン侵略の系譜の中でケニアのエイズを捉えることは出来ない。侵略の前にはケニア人が代々培ってきた暮らしや文化があったし、ヨーロッパ人の侵略によって、その伝統や文化や生活様式は大きく変えられてしまったからである。植民地化されたイギリスに抵抗して長く苦しい武力闘争を続けて、やっと独立を果たしたものの、独立後に指導者ケニヤッタとその取り巻きは、いっしょに闘った人たちを裏切って、欧米諸国や日本の勢力と手を組んでしまった。その後、一党独裁時代が長く続き、ケニアはさらに変貌した。ケニア大使館の小史からは、そんな姿は浮かんで来ない。額面上の見える史実を手掛かりに、その意識下に流れる目には見えない深層を探る必要がある。歴史過程の必然的な現象として、貧困や病気なども捉えるべきで、エイズもその一例に過ぎない。

日本もケニヤッタたちが手を結んだ相手国の一つで、関係は想像以上に密である。普通のケニア人や日本人が意識していない歴史の深層は、公教育の場で語られることはない。富を享受する一握りの金持ち層・支配者階級にとって、自分たちのやって来たこと、今も継続的に実行し続けていることを正当化する必然性があるからである。大多数が共有する表面上の歴史も、その手段に過ぎない。だからこそ、可能なら、公教育でこれまで受けてきた歴史を再考する必要がある。その流れで、ケニアの歴史を見てゆきたい。

(1)植民地化以前→(2)ペルシャ人、アラビア人とポルトガル人の到来→(3)イギリス人の到来と独立・ケニヤッタ時代 →(5)モイ時代・キバキ時代 ・現連立政権時代

植民地化以前

遠い遠い昔の話なので確かめようもないが、元タイムズの記者で歴史家のバズル・デヴィッドスンの映像「アフリカシリーズ」(NHK、1983年)を借りながら、「大陸に生きる」(「アフリカシリーズ」2回目の表題)人たちについて考えたい。

バズル・デヴィッドスン

アフリカの生活のあり方として牧畜や農耕はかなり新しいもので、野生の動物を狩り、木の実や草の根を集めて暮らしていた時期が長かった。「アフリカシリーズ」には1580年代に、中央アフリカのピグミーやナミビア・南アフリカのカラハリ砂漠に住むサン人が昔ながらの原始的な生活をしている貴重な映像が収められている。狩猟採集に必要な技術以外に、動物を飼い慣らして家畜にするという大発見によって、人々の定住生活が可能になり、社会組織が大きく変化した。狩猟採集の生活から食べ物を管理して定住する生活への変化は画期的で、牧畜生活が始まると水や草があるところには人が集まり、そこに共同体が生まれ、入り組んだ社会組織も現われ始めた。ケニア北部に住むポコト人が住んでいる地域を訪れて、しばらく生活を共にしながら次のようにその人たちの生活を紹介している。牧畜を営む人たちの例としてポコト人を紹介したい。

「ここにあるポコト人の住まいは見た目には何ともまあ原始的でみすぼらしく、住民はお話にならないほど貧しく無知に見えます。しかし、実際生活に彼らと生活を共にしてみると、それはほんのうわべだけのことで、うっかりするととんでもない誤解をすることが、すぐわかって来ます。私はアフリカのもっと奥地を歩いた時にも、何度となくそれを感じました。外から見れば原始的だ、未開だと見えても、実はある程度自然を手なずけ、自然の恵みを一番して能率的に利用とした結果で、そこには驚くほどの創意、工夫が見られるのです。」

ポコト人とデヴィッドスン

他の草原の住人と同様に、ポコト人の最大の財産は牛で、生活は牛を中心に展開する。雨期には200人もの人が村に住み、乾期になって草や水が乏しくなると牛を連れて遠くまで足を運び、村の人口が減る。次の雨期にはまた人が村に戻る、毎年それが繰り返されわけである。主食はミルクで、栄養不足を補うために儀礼などの時に牛の血を料理して食べる。ミルクと血だけで暮らすにはたくさんの牛が必要で、干魃などの天災にも備えなければならないので、山羊や駱駝も飼うようになっている。

女性は夫とは別の自分の家畜を持ち、男性が草原に行っている間は、村に残って子供や老人の世話をする。ビーズなどの贅沢品を外から買うだけで、ほとんど自給自足の生活をしていた。必要なものは自分たちのまわりにあるものから作り出す。山羊の皮をなめして毛をそぎ取り、油で柔らかくして衣類をこしらえる。牛の糞は壁や屋根の断熱と防水用に利用する。

ポコト人女性

ポコト人の社会では男女の役割がはっきりしていて、家庭は女性の領域で、家事、雑用、出産、育児を担っている。材料集めだけでも重労働だが、女性は誇りを持って日常をこなす。厳しい自然を生き抜くには自分たちの周囲にあるものを詳しく知り、利用できるものは最大限に利用することが必要で、家の周りの藪から薬や繊維や日用品などを作り出す。カパサーモの根を煎じて腹痛や下痢に使い、デザートローズの樹の皮の粉末から殺虫剤を作り出して、駱駝のダニを退治する。ポコト人は厳しい自然をてなづけて、ほぼ自給自足の生活を続けて来たわけである。

アフリカ大陸の東側には壮大なサバンナがあって、今でも遊牧民が要るし、生活に牧畜が占める割合の多い田舎もある。1992年に家族でジンバブエに行った時、借家と在外研究先のジンバブエ大学で3人のショナ人と仲良くなった。3人とも田舎で育ち、少年時代は大草原で牛の世話をして暮らしたと話していた。その中の一人英語科のツォゾォさんは「バンツー(Bantu)とはPeople of the peopleの意味で、アフリカ大陸の東側ケニアから南アフリカまでの大草原で遊牧して暮らす人たちが自分たちのことを誇りにして呼んだ呼び名です」と言いながら、インタビューに応じて子供時代のことをしゃべってくれた。

ツォゾォさんは国の南東部にあるチヴィという都市の近くの小さな村で生まれ、第2次大戦の影響をほとんど受けなかったそうである。幼少期を過ごした村には、伝統的なショナの文化が残っていたようで一族には指導的な立場の人がいて、村全体の家畜の管理などの仕事を取りまとめていたと言う。

村では、雨期に農作業が行なわれ、野良仕事に出るのは男たちで、女性は食事の支度をしたり、子供の面倒をみるほか、玉蜀黍の粉をひいてミリミールをこしらえたり、ビールを作るなどの家事に専念する。女の子が母親の手伝いをし、男の子は外で放し飼いの家畜の世話をするのが普通で、ツォゾォさんも毎日学校が終わる2時頃から、牛などの世話に明け暮れたそうである。乾期には、男が兎や鹿や時には水牛などの狩りや、魚釣りに出かけて野性の食べ物を集め、女の子が家の周りの野草や木の実などを集めたと話してくれた。

ツォゾォさん

食べて出す、寝て起きる、男と女が子供を作って育てる、生まれて死ぬ、基本的な人の営みはそう変わるはずもなく、植民地以前は農耕と牧畜を中心としたこうした生活を、営々と続けていたわけである。そして、田舎では、今も基本的にはこういった生活が続いている地域が多いようである。

続モンド通信・モンド通信

続モンド通信33(2021/8/20)

私の絵画館:秋日和(小島けい)

2 小島けいのエセイ~犬・猫・ときどき馬~⑫:浜辺(小島けい)

3 アングロ・サクソン侵略の系譜30:在外研究(玉田吉行)

**************

1 私の絵画館:秋日和(小島けい)

私が住んでいる<南国>では、まだ暑くるしい夏の気配が濃厚ですが。ふと見上げれば、いつものように、秋は空から静かに始まっています。

そう言えば、住宅地のすぐ横の畑では、しばらく前から白い曼殊沙華が、咲いていました。

<曼殊沙華は赤>との思いが強い私は、白色の花を見ても、すぐ“秋だ!”とは思いませんでしたが。

曼殊沙華

 ちょうど20年前の秋。思いたって臼杵の石仏を訪れました。スケッチをして、写真をとり、それが後に「秋日和―臼杵の石仏―」という一枚の絵になりました。

「秋日和―臼杵の石仏―」

額入り「秋日和」

 石仏だけでは少し寂しく、途中の山道や田んぼで見かけた赤い曼殊沙華を数本描き入れました。おまけに(?!)その時はお留守番だった犬の三太(ラブラドール・レトリーバー)にも、お昼寝で小さく登場してもらいました。

三太は毎月のシャンプーが大好きでした。<お迎え>がくると大はしゃぎで、自分から車に飛びのりました。そこで、私たちがでかける一泊二日の間、いつもお世話になるその方に<お預け>しました。けれど、ブリーダーをされているそのお家では、みんなが共通で使う器から三太は水を飲まないこと。オシッコやウンチも、極力我慢してしまうことを、後で聞きました。

数時間で帰ることのできるシャンプーは大好きでも、<お泊り>ではひどく気を遣ってしまう三太の性格を考えると、もう旅行に行くことはできなくなりました。

遠出をしなくなって六年が過ぎた時。大分県飯田高原の「九州芸術の杜」の社長さんから、<ギャラリー夢>で個展をしませんか、とお話をいただきました。

高原の個展では、毎年数日間泊まりがけで出かけましたが、その時には必ず、東京から娘に帰ってもらうことに決めていました。

九州芸術の杜(大分県飯田高原)

GALLERY・夢

お互いに大好きな<娘と三太>は、水入らずで、大いに私たちの留守を楽しんだというわけです。短かすぎた三太の人生ですが、その時は、普段以上に思い切り甘えて暴れて、限りなく嬉しい時間だったと思います。曼殊沙華の花から、三太が過ごした<至福の秋の日々>を、ふと思い出しました。

赤い曼殊沙華がちょっと入った絵が他にもあります。母馬(キャンディー)と子馬(マックス)の絵です。

<馬の親子(キャンディーとマックス)>

額入り「馬の親子」

=============

2 小島けいのエセイ~犬・猫・ときどき馬~⑫:浜辺

犬(ダーウィンくん)とハイビスカス

 赤いハイビスカスの咲きほこる浜辺を、のんびり散歩しているのはダーウィンくんです。

かわいいビーグル犬が<ダーウィン>?!と一瞬思いましたが。

飼い主さんがこの子と出会い、名前を考えている時、たまたまダーウィンに関する本を読んでおられたとか。

もちろん会ったことはなくても、きっと気難しい人物だろうと想像していたところ。実は大の犬好きで、大きな屋敷には何匹もの犬が飼われていたと知り、とても親近感がわいたそうです。

というわけで、小さい子犬は<ダーウィン>というとてつもなく大きな名前を背負うことになりました。

通称<ダーくん>は、そんなことにはおかまいなしで、毎日浜辺の散歩をゆっくり楽しんでいます。

カレンダー「私の散歩道2021~犬・猫ときどき馬~」8月

<赤いハイビスカス>の花では、以前オウムのクーちゃんとの絵も描かせていただきました。

鸚鵡(クーちゃん)とハイビスカス

カレンダー「私の散歩道2013~犬・猫ときどき馬~」8月

あれから何年もすぎ、クーちゃんは確か20歳を何年かすぎたとお聞きしましたが、今も元気に横浜で暮らしています。

=============

3 アングロ・サクソン侵略の系譜30:在外研究

 在外研究では、希望した南アフリカのケープタウンには行けず、北隣のジンバブエに行きました。

文部省で申請手続きをした1991年は、微妙な年でした。一年ずれていたら、行き先も変わっていたのになあと今になっても思います。ネルソン・マンデラが釈放された1990年とアパルトヘイト制度が廃止された1992年の狭間の年で、政府が南アフリカに対する政策を180度転換させたからです。まともに影響を受けたわけです。

それまで日本は長い間、アパルトヘイト政権と手を組んで、アフリカ人の安価な労働力にただ乗りして暴利を貪ってきました。アフリカの人たちの人権を無視する白人政府と手を結びながら、交際世論を気遣って文化交流の自粛を謳っていましたから、文部省は国家公務員を南アフリカには派遣するわけにはいかなかったのです。私は歴史の大きな渦に巻き込まれたということでしょう。

黒船に開国を迫られて以来、欧米に追い付け追い越せの政策を取って来たわけですから当然の結果ではありますが、1988年には南アフリカ政府との貿易高が世界一になり、国際的な非難の矢面に立たされました。当時の政財界と南アフリカの白人政権との橋渡し役が自民党の二階堂進と石原慎太郎。その人物を東京都民は三度も都知事に選んでいるわけで、今なお自民党の支配が続き、国民はおかまいなしに、経済優先でオリンピックを強行するのも、今までと同じ路線を突っ走っているからです。

結局ケープタウンには行けず、南アフリカの入植者が第2のヨハネスブルグを夢見てアフリカ人から土地と家畜を強奪して造り上げた白人の国ジンバブエに短期で3ケ月、家族と一緒にいくことにしました。家族とアフリカで暮らす、ドナウルド・ウッズが友人ビコのために書いた伝記を基にリチャード・アッテンボローがジンバブエで製作したアメリカ映画『遠い夜明け』に出て来る赤茶けた大地を見る、そう折り合いをつけてジンバブエ大学に行きました。

在外研究については、帰国後すぐに大学の報告記事(→「海外研修記『アフリカは遠かった』」、→「海外滞在日誌『ジンバブエの旅』」、)を書き、滞在記を出版社のメールマガジンに連載(→「ジンバブエ滞在記一覧」「モンド通信」2011年7月~ 2013年7月)していますので、今回は前後の経緯について書こうと思います。

ジンバブエ大学教育学部棟

1988年の四月に宮崎医科大学に来た時、英語科には7歳年上の助教授とアメリカ人の外国人教師がいました。小説を書く空間が欲しくて大学を探しましたから、研究室は何よりでしたが、まさか公費で外国に行ける在外研究の制度が利用できるとは思ってもみませんでした。僕の推薦者と他の人との人間関係や内部事情などから、必ずしも歓迎されない人事だったとあとでわかりました。ただ、前任者が辞めたあと欠員状態が続いて、同僚は在外研究を引き延ばしにされていたようで、僕の着任を待って、その年の秋からテネシー州(6ケ月)とスコットランド(3ケ月)に行きました。そして3年後の1992年度に、僕が在外研究に行くことになりました。

宮崎医科大学(ホームページから)

修士論文をアメリカの黒人作家リチャード・ライトで書いたのも、南アフリカのアレックス・ラ・グーマを読み出したのも、今から思えば大きな流れに巻き込まれていたのでしょう。ライトを選んだのは、行くところがなく選んだ大学に、アメリカの公民権運動やアフリカの独立運動に関連するテーマで研究をしていた人たちが少なからずいたことと深く関りがあります。ライトだけでなく、ボールドウィンやエリスンなどを英語購読のテキストで使う人もいましたし、黒人英語や黒人文学や公民権運動などの特殊講義をやっている人たちもいました。アフリカ系アメリカにしてもアフリカにしても、小中高ではほとんど扱いませんし、大学でも研究のテーマにする人たちは少数でしたから、今から思えば、その大学に行っていなかったら、おそらくライトには出会ってなかったでしょう。→「アングロ・サクソン侵略の系譜8:『黒人研究』」「続モンド通信10」、2019年9月20日)

リチャード・ライト(小島けいこ画)

ライトをやれば、ルーツとしてアフリカについて考えるのは自然の流れですし、当然南アフリカのアパルヘイト政権と日本との関りに気づきます。反アパルトヘイト運動に加わって活動したのも、ラ・グーマの表題で科学研究費を申請したのも、在外研究の行き先をラ・グーマの生まれ育ったケープタウンにしたのも、何の不思議もありません。→「アングロ・サクソン侵略の系譜16: 科学研究費 1」続モンド通信19、2020年6月20日)

アレックス・ラ・グーマ(小島けいこ画)

首都ハラレの白人街に二か月半ほど家族四人で暮らし、ジンバブエ大学に通いました。それまで十年ほど南アフリカの歴史をやって、オランダ系とイギリス系の入植者が、アフリカ人から土地を奪って課税し、アフリカ人を安価な労働力として農場や工場や鉱山や白人家庭で扱き使う一大搾取機構を南部一帯に打ち立てた経緯と構図がはっきりと見えるようになっていましたが、実際に行ってみて、「ほんまやったやったんや」と実感しました。行く前に世話して下さった日本人の方から「この国には一握りの金持ちと大多数の貧乏人しかいませんから、不動産事情は極めて悪く一軒家を探すのは困難です。ホテル住まいを覚悟して下さい」という手紙をもらっていましたが、まさにその通りでした。

ハラレの白人街で、スイス人から借りた500坪ほどの借家

以前のあからさまな植民地支配とは違って、前後は開発と援助の名の下に多国籍企業による経済支配を行っていいますので見えにくいのですが、日本は加害者側にいいます。その意識がずっとあって、ハラレにいる間じゅう、加害者意識が働いて、終始息苦しい思いをしました。ハラレからパリに着いたとき、ほっとしたのを実感した時は、加害者側に慣れてしまっている自分を特に意識しました。帰ってから半年間は、心のバランスが取れず、何も書けませんでした。しかし、今しか書けませんから是非にと言って下さった出版社の方の励ましもあって、半年ほどでジンバブエ滞在記を書きました。出版は出来ていませんが、いつか出版するとして取りあえずメールマガジンに連載しませんかと言われて、一冊分を分けて連載しました。→「ジンバブエ滞在記一覧」(2011年7月~ 2013年7月に「モンド通信」に連載)

11月初めのジャカランダの咲くハラレの街並み

ハラレに行ってから、もう三十年ほどになります。