続モンド通信・モンド通信

続モンド通信33(2021/8/20)

アングロ・サクソン侵略の系譜30:在外研究

 在外研究では、希望した南アフリカのケープタウンには行けず、北隣のジンバブエに行きました。

文部省で申請手続きをした1991年は、微妙な年でした。一年ずれていたら、行き先も変わっていたのになあと今になっても思います。ネルソン・マンデラが釈放された1990年とアパルトヘイト制度が廃止された1992年の狭間の年で、政府が南アフリカに対する政策を180度転換させたからです。まともに影響を受けたわけです。

それまで日本は長い間、アパルトヘイト政権と手を組んで、アフリカ人の安価な労働力にただ乗りして暴利を貪ってきました。アフリカの人たちの人権を無視する白人政府と手を結びながら、国際世論を気遣って文化交流の自粛を謳っていましたから、文部省は国家公務員を南アフリカに派遣するわけにはいかなかったのです。私は歴史の大きな渦に巻き込まれたということでしょう。

黒船に開国を迫られて以来、欧米に追い付け追い越せの政策を取って来たわけですから当然の結果ではありますが、1988年には南アフリカ政府との貿易高が世界一になり、国際的な非難の矢面に立たされました。当時の政財界と南アフリカの白人政権との橋渡し役が自民党の二階堂進と石原慎太郎。その一人を東京都民は三度も都知事に選びました。今なお自民党の支配が続き、大半の国民の意思を無視して経済を優先させ、オリンピックを強行したのも、ずっと同じ路線を突っ走っているからでしょう。

結局ケープタウンには行けず、南アフリカの入植者が第2のヨハネスブルグを夢見てアフリカ人から土地と家畜を強奪して造り上げた白人の国ジンバブエに短期で3ケ月、家族と一緒にいくことにしました。家族とアフリカで暮らす、ドナウルド・ウッズが友人ビコのために書いた伝記を基にリチャード・アッテンボローがジンバブエで製作したアメリカ映画『遠い夜明け』に出て来る赤茶けた大地を見る、そう心に折り合いをつけてジンバブエ大学に行きました。

在外研究については、帰国後すぐに大学の報告記事(→「海外研修記『アフリカは遠かった』」、→「海外滞在日誌『ジンバブエの旅』」)を書いていますので、今回は前後の経緯について書こうと思います。

ジンバブエ大学教育学部棟

1988年の四月に宮崎医科大学に来た時、英語科には7歳年上の助教授とアメリカ人の外国人教師がいました。小説を書く空間が欲しくて大学を探しましたから、研究室は何よりでしたが、まさか公費で外国に行ける在外研究の制度を利用できるとは思ってもみませんでした。僕を推薦して下さった人の人間関係や大学全体の内部事情などから、必ずしも歓迎されていない人事だったとあとでわかりました。ただ、前任者が辞めたあと欠員状態が続いて、英語科の同僚は在外研究を引き延ばしにされていたようで、僕の着任を待って、その年の秋からテネシー州(6ケ月)とスコットランド(3ケ月)に行きました。そして3年後の1992年度に、僕が在外研究に行くことになりました。

宮崎医科大学(ホームページから)

修士論文をアメリカの黒人作家リチャード・ライトで書いたのも、南アフリカのアレックス・ラ・グーマを読み出したのも、今から思えば大きな流れに巻き込まれていたからでしょう。ライトを選んだのは、行くところがなくて選んだ大学に、アメリカの公民権運動やアフリカの独立運動に関連するテーマで研究をしていた人たちが少なからずいたことと深く関りがあります。ライトだけでなく、ボールドウィンやエリスンなどを英語購読のテキストで使う人もいましたし、黒人英語や黒人文学や公民権運動などの特殊講義をやっている人たちもいました。アフリカ系アメリカにしてもアフリカにしても、小中高ではほとんど扱いませんし、大学でも研究のテーマにする人たちは少数でしたから、今から思えば、その大学に行っていなかったら、おそらくライトには出会っていなかったでしょう。→「アングロ・サクソン侵略の系譜8:『黒人研究』」「続モンド通信10」、2019年9月20日)

リチャード・ライト(小島けいこ画)

ライトをやれば、ルーツとしてアフリカについて考えるのは自然の流れですし、当然南アフリカのアパルヘイト政権と日本との関りに気づきます。反アパルトヘイト運動に加わって活動したのも、ラ・グーマの表題で科学研究費を申請したのも、在外研究の行き先をラ・グーマの生まれ育ったケープタウンにしようとしたのも、何の不思議もありません。→「アングロ・サクソン侵略の系譜16: 科学研究費 1」続モンド通信19、2020年6月20日)

アレックス・ラ・グーマ(小島けいこ画)

首都ハラレの白人街に二か月半ほど家族四人で暮らし、ジンバブエ大学に通いました。それまで十年ほど南アフリカの歴史をやって、オランダ系とイギリス系の入植者が、アフリカ人から土地を奪って課税し、アフリカ人を安価な労働力として農場や工場や鉱山や白人家庭で扱き使う一大搾取機構を南部一帯に打ち立てた経緯と構図がはっきりと見えるようになっていましたが、実際に行ってみて、「ほんまやった」と実感しました。行く前に世話して下さったハラレ在住の日本人の方から「この国には一握りの金持ちと大多数の貧乏人しかいませんから、不動産事情は極めて悪く一軒家を探すのは困難です。ホテル住まいを覚悟して下さい」という手紙をもらっていましたが、まさにその通りでした。

ハラレの白人街で、スイス人から借りた500坪ほどの借家

以前のあからさまな植民地支配とは違って、戦後は開発と援助の名の下に多国籍企業による経済支配を行っていますので見えにくいのですが、日本は加害者側にいます。その意識がずっと心の奥にあって、ハラレにいる間じゅう、加害者意識が働いて、終始息苦しい思いをしました。ハラレからパリに着いてほっとしたのを実感した時は、加害者側に慣れてしまっている自分を特に意識しました。帰ってから半年間は、心のバランスが取れず、何も書けませんでした。しかし「今しか書けませんから是非に」と言って下さった出版社の方の励ましもあって、半年ほどでジンバブエ滞在記を書きました。出版は出来ていませんが、「いつか出版するとして、取りあえずメールマガジンに連載しませんか?」と言われて、一冊分を分けて連載しました。→「ジンバブエ滞在記一覧」(「モンド通信」、2011年7月~ 2013年7月)

11月初めのジャカランダの咲くハラレの街並み

ハラレに行ってから、もう三十年ほどになります。

続モンド通信・モンド通信

続モンド通信32(2021/7/20)

私の絵画館:うさぎのしょうちゃんとチョビちゃん(小島けい)

2 小島けいのエセイ~犬・猫・ときどき馬~⑪:「のらいぬ」の世界へ(小島けい)

3 アングロ・サクソン侵略の系譜28:編註書And a Threefold Cord(玉田吉行)

**************

1 私の絵画館:うさぎのしょうちゃんとチョビちゃん(小島けい)

 以前、大分県の「九州芸術の杜」で個展をしていた時、“私の店で、絵やポストカードを販売しませんか?”と声をかけていただきました。「夢色工房」というお店を開いておられる方でした。

それから長年、大変お世話になりっぱなしでしたが。数年前、お店を閉じると聞き、お礼に何か絵を描かせて下さいとお話したところ、それでは我が家にいたうさぎたちを、とお写真が届きました。

ただ、このうさぎの絵は、すぐ描くことができませんでした。理由は二つあります。一つめは、私がこれまでうさぎとは全く無縁ですごしてきた、ということです。犬・猫・馬たちは、一緒に暮らしたり、身近に接したりしてきましたし、絵も二百枚以上描いてきましたので、たとえ会ったことのない子たちでも、お写真と向きあうことで<友だち>になれました。そうして、描き始めてきました。けれどま近で見たり、触ったりしたことのないうさぎは、どう近づき<友だち>になればよいのか・・・・わかりませんでした。

さらに、もう一つ。数年前から娘さんが絵の才能を開花され、躍動感あふれる力強い絵を描いておられました。

娘さんとは全くちがう描き方の私が、ご家族の大切なうさぎさんをほんとうに描いていいのだろうか?と、少し迷ったりもしていました。

けれど、ようやく昨年完成させて、とりあえず絵のカードをお送りすると、とても喜んで下さり、ご丁寧なお手紙が返ってきました。

そこには、ご家族が非常に大変だった時期、どれほどうさぎたちの存在に助けられ、励まされてきたのかが語られていました。私などが思いもしなかったほど、その存在は大きく、心のささえであったのだと、初めて知りました。

絵の中の<しょうちゃん>と<チョビちゃん>に改めて、“あなたたち、がんばったねえ・・・・”とほめてあげたいくらいです。

ちなみに<しょうちゃん>は、娘さんが小学校からもらってきてお母さんにもなったベージュと白のうさぎです。<チョビちゃん>は、長く体調がよくなかった娘さんを元気づけるために、ご家族が買ってあげた黒いうさぎです。

しょうちゃんとチョビちゃん

カレンダー「私の散歩道2021~犬・猫ときどき馬~」7月

そういえば以前一度だけ、猫のぎんちゃんと仲よく暮らしているうさぎさんを、飼い主さんご希望の三色スミレと一緒に、描いたことがありました。

ぎん君とモモちゃんと三色菫

カレンダー「私の散歩道2014~犬・猫ときどき馬~」表紙

=============

2 小島けいのエセイ~犬・猫・ときどき馬~⑪:「のらいぬ」の世界へ

今、私の手元には、5冊の絵本が置いてあります。いずれも、長年放っていた絵本の棚から、再生した本たちです。

それぞれに選んだ理由は違いますが、大きな共通点が一つあります。それは、古典的な<名作>ではない、ということです。

どの本を<名作>というのかは、よくわかりませんが。

時代をこえて読み続けられてきた絵本といえば、私はすぐに「ひさの星」「ごんぎつね」「なめとこ山の熊」などを思い浮かべます。

それらのお話は、確かに心打ついいお話ですし、絵もすばらしいと思うのですが、私はあえてそれらの<名作>を選びませんでした。

<名作>といわれるお話には、いつも深い哀しみがこめられているからです。

日本のお話ではありませんが、「フランダースの犬」なども、子供たちが小さい頃よく読みましたが。いつも途中から涙があふれて、最後までスムーズに読むことができませんでした。感情移入しすぎる私は、深すぎる哀しみが苦手なのです。

そこで、少し寂しさがあるとしても、たちなおれないほどの哀しみではないお話を、身近に置く本として選びました。

この5冊のなかで、私がひそかに近付きたいなあ・・・と願っているのは「のらいぬ」(谷内こうた絵 蔵冨千鶴子文)です。

その本は、左のページに絵、右のページに言葉(途中から反対になります)、でできていますが、絵も文も、これ以上簡略にはできないと思われるほど、単純化されています。その絵を、言葉で説明するのは難しすぎますが。

例えば1ページめは<暑そうな砂山に少しの草、上の方に空、砂山の向こうにごく一部見えている海、そして、ひどく暑そうに歩いているのらいぬ>です。そして言葉は<あついひ>だけです。

たくさん描かないのに、想いが見る人にきちんと伝わる。

見事だなあ・・・と思います。

主役の犬も、こげ茶色一色ですが。

少年と出会えて、一緒に燈台まで走り、燈台から

海に飛び込み、また一人になって。

 

でも<あついひ すなやまに みつけた ともだち>

<いつか きっと あえる>

と暑い砂山を再び歩く<のらいぬ>は、少年と出会う前と

首のうなだれ方が微妙に違っているのです。

ひとすじの希望があるから、だと思います。

 

できる限り描かない絵で、たくさんのお話を伝えることができたら・・・・と、夢見ている私です。

「のらいぬ」表紙

=============

3 アングロ・サクソン侵略の系譜28:編註書And a Threefold Cord

  編註書については一度詳しく書いていますので(→And a Threefold Cord by Alex La Gum)、今回は出版の経緯と授業について書こうと思います。

And a Threefold Cord(1991年、表紙絵小島けい画)

前回の日本語訳→「アングロ・サクソン侵略の系譜28: :日本語訳『まして束ねし縄なれば』」続モンド通信31、2021年6月20日)

宮崎医科大学に来る前に5年間、大阪工大などで非常勤として一般教養の英語を担当していました。最初の年は修士課程を修了しても博士課程でどこも門前払いを食らい、先輩がいた大阪工大で辛うじて世話してもらった夜間3コマ、月4万8千円の非常勤で大学の授業を始めました。最後の年は明石の家の近くの神戸学院大学や、通うのに片道2時間半ほどかかった桃山学院大学など週に16コマもやりました。→「アングロ・サクソン侵略の系譜10:大阪工業大学」続モンド通信13、2019年12月20日)

大阪工業大学(ホームページより)

大学での授業は初めてでしたが、試験のための英語の授業がずっと嫌だったので、一般教養の英語は有難かったです。専任の話が理事会に認められず組合で交渉する間非常勤で来て下さいと言われた大阪経済法科大学では、わいABCもわからへんねん、という学生もいて授業そのものが成り立たないクラスもあったので、授業が当たり前に出来るクラスは天国のように思えました。英語も伝達の手段だから使えないと意味がない、「英語」をするのではなく、「英語」を使って何かをする、と非常勤で授業をしながら自然に授業の方針が決まっていました。折角大学に来たのだから中高では取り上げない題材で意識下に働きかけ、自分や世の中について考える機会を提供して、大学らしい授業だと思ってもらえるような授業がいい、そんな方向性です。人のテキストを使い、短時間に成績が出せる筆記試験が一番楽ですが、自分が嫌だったものを人に強いるのも気が引けましたし。まわりはそんな人がほとんどでした。

宮崎医科大学での一年目は、ラングストン・ヒューズ(Langston Hughes, 1902-1967)の“The Glory of Negro History”(1964年)を使いました。非常勤の5年間で使っていたこともありますが、この500年ほどのアングロサクソン系を中心とした侵略過程の中で、侵略を正当化するために刷り込まれた白人優位、黒人蔑視の意識について考え、自分自身や世の中について考える機会が提供出来ればと考えたからです。修士論文で取り上げたリチャード・ライトや、アメリカの学会MLA(Modern Language Association of America)での発表をきっかけに南アフリカのアレックス・ラ・グーマを取り上げる過程で、そんな流れになりました。詩人ヒューズの歴史物語は、作者自身が朗読した音声もあり、アレックス・ヘイリー原作のテレビドラマ「ルーツ」や、イギリスの歴史家バズル・デヴィドスンのドキュメンタリー「アフリカシリーズ」の映像なども使えるので最適でした。

“The Glory of Negro History”(南雲堂)

ライトについては→「リチャード・ライト死後25周年シンポジウム」(2019年3月13日)、ラ・グーマについては→「 MLA(Modern Language Association of America)」(2020年2月20日)、アフリカ系アメリカの歴史については→「アフリカ系アメリカの歴史 」(2020年8月20日)、アフリカの歴史については→「アフリカの歴史」(2020年7月20日)

ずいぶんと前のことなので記憶が怪しいところもありますが、たしか医学科の授業が始まってすぐに、出版社の社長さんから電話があり、アレックス・ラ・グーマのA Walk in the Nightの編註書を薦められたと思います。それがテキストの最初です。→A Walk in the Night(2021年4月20日)

A Walk in the Nightの表紙(表紙絵小島けい画)

学生として授業を受けている時は、テキストにはかかわりたくないなと感じていましたが、気がついたらテキストを作っていた、そんな感じです。その時は学生に本を買ってもらえばいいと言われましたが、実際は出すまでも出たあともなかなか大変でした。非常勤も含めてクラスは結構持っていましたので、出してもらったものは何とか買ってもらえました。

ある日編集者の方から東京都立大でこのテキストを使ってくれた人がいますよ、と電話をもらいました。早速連絡を取り、東京で会ってもらいました。南アフリカの作家の英文をどんな人が授業で使いはるんやろ、という素朴な疑問からです。会ってみると、宮崎の高校を出た後一橋大学に行き、学生時代に英文エセイコンテストの賞品でイギリスに留学、そこでアフリカ文学に出会ったとか。よう出来はる人は違うわ、と感心しました。

続モンド通信・モンド通信

続モンド通信32(2021/7/20)

アングロ・サクソン侵略の系譜28:編註書And a Threefold Cord

  編註書については一度詳しく書いていますので(→And a Threefold Cord by Alex La Gum)、今回は出版の経緯と授業について書こうと思います。

And a Threefold Cord(1991年、表紙絵小島けい画)

前回の日本語訳→「アングロ・サクソン侵略の系譜28: :日本語訳『まして束ねし縄なれば』」続モンド通信31、2021年6月20日)

宮崎医科大学に来る前に5年間、大阪工大などで非常勤として一般教養の英語を担当していました。最初の年は修士課程を修了しても博士課程でどこも門前払いを食らい、先輩がいた大阪工大で辛うじて世話してもらった夜間3コマ、月4万8千円の非常勤で大学の授業を始めました。最後の年は明石の家の近くの神戸学院大学や、通うのに片道2時間半ほどかかった桃山学院大学など週に16コマもやりました。→「アングロ・サクソン侵略の系譜10:大阪工業大学」続モンド通信13、2019年12月20日)

大阪工業大学(ホームページより)

大学での授業は初めてでしたが、試験のための英語の授業がずっと嫌だったので、一般教養の英語は有難かったです。専任の話が理事会に認められず組合で交渉する間非常勤で来て下さいと言われた大阪経済法科大学では、わいABCもわからへんねん、という学生もいて授業そのものが成り立たないクラスもあったので、授業が当たり前に出来るクラスは天国のように思えました。英語も伝達の手段だから使えないと意味がない、「英語」をするのではなく、「英語」を使って何かをする、と非常勤で授業をしながら自然に授業の方針が決まっていました。折角大学に来たのだから中高では取り上げない題材で意識下に働きかけ、自分や世の中について考える機会を提供して、大学らしい授業だと思ってもらえるような授業がいい、そんな方向性です。人のテキストを使い、短時間に成績が出せる筆記試験が一番楽ですが、自分が嫌だったものを人に強いるのも気が引けましたし。まわりはそんな人がほとんどでした。

宮崎医科大学での一年目は、ラングストン・ヒューズ(Langston Hughes, 1902-1967)の“The Glory of Negro History”(1964年)を使いました。非常勤の5年間で使っていたこともありますが、この500年ほどのアングロサクソン系を中心とした侵略過程の中で、侵略を正当化するために刷り込まれた白人優位、黒人蔑視の意識について考え、自分自身や世の中について考える機会が提供出来ればと考えたからです。修士論文で取り上げたリチャード・ライトや、アメリカの学会MLA(Modern Language Association of America)での発表をきっかけに南アフリカのアレックス・ラ・グーマを取り上げる過程で、そんな流れになりました。詩人ヒューズの歴史物語は、作者自身が朗読した音声もあり、アレックス・ヘイリー原作のテレビドラマ「ルーツ」や、イギリスの歴史家バズル・デヴィドスンのドキュメンタリー「アフリカシリーズ」の映像なども使えるので最適でした。

“The Glory of Negro History”(南雲堂)

ライトについては→「リチャード・ライト死後25周年シンポジウム」(2019年3月13日)、ラ・グーマについては→「 MLA(Modern Language Association of America)」(2020年2月20日)、アフリカ系アメリカの歴史については→「アフリカ系アメリカの歴史 」(2020年8月20日)、アフリカの歴史については→「アフリカの歴史」(2020年7月20日)

ずいぶんと前のことなので記憶が怪しいところもありますが、たしか医学科の授業が始まってすぐに、出版社の社長さんから電話があり、アレックス・ラ・グーマのA Walk in the Nightの編註書を薦められたと思います。それがテキストの最初です。→「 A Walk in the Night」(2021年5月20日)

A Walk in the Nightの表紙(表紙絵小島けい画)

学生として授業を受けている時は、テキストにはかかわりたくないなと感じていましたが、気がついたらテキストを作っていた、そんな感じです。その時は学生に本を買ってもらえばいいと言われましたが、実際は出すまでも出たあともなかなか大変でした。非常勤も含めてクラスは結構持っていましたので、出してもらったものは何とか買ってもらえました。

ある日編集者の方から東京都立大でこのテキストを使ってくれた人がいますよ、と電話をもらいました。早速連絡を取り、東京で会ってもらいました。南アフリカの作家の英文をどんな人が授業で使いはるんやろ、という素朴な疑問からです。会ってみると、宮崎の高校を出た後一橋大学に行き、学生時代に英文エセイコンテストの賞品でイギリスに留学、そこでアフリカ文学に出会ったとか。よう出来はる人は違うわ、と感心しました。

続モンド通信・モンド通信

続モンド通信31(2021/6/20)

私の絵画館:子猫と山桃(小島けい)

2 小島けいのエセイ~犬・猫・ときどき馬~⑩:運がいいとか悪いとか・・・(小島けい)

3 アングロ・サクソン侵略の系譜27:日本語訳『まして束ねし縄なれば』(玉田吉行)

**************

1 私の絵画館:子猫と山桃(小島けい)

6月は山桃が実のる季節です。赤くてかわいいその実には、やはりかわいい子猫が似合いますが。

絵① <子猫と山桃>

絵② カレンダー「私の散歩道2021~犬・猫ときどき馬~」6月

以前、馬たちとも一緒に描きました。白馬のお母さん、チェックと、生まれて間もないスカイです。

その絵で、2008年の個展案内を作りました。

絵④ 2008年個展用ポスター<山桃と馬(チェックとスカイ)>

 九州芸術の杜(大分県)で個展をしている時、その絵をとても気に入って下さった方がおられました。そして購入されました。

その後、私自身も好きだったその絵をもう一度描きたくて、同じ構図で描きましたが。一枚目よりは、背景の紫が明かるい色に仕上がりました。

絵③ <チェックとスカイ>

絵⑤ カレンダー「私の散歩道2017~犬・猫ときどき馬~」7月(山桃の樹の下で)

=============

2 小島けいのエセイ~犬・猫・ときどき馬~⑩:運がいいとか悪いとか・・・(小島けい)

 今日(6月20日)は日曜日。ということで、午後のカフェ・オレ・タイムは、やっぱり競馬中継です。
あいかわらず、馬券のことなど何もわからないままですが、馬の姿を見ることができるだけで、よいのです。
私がひそかに応援している騎手の方の成績が、最近は以前ほど良くないので、少し寂しいのですけれど、馬たちは今日も懸命に走ってくれている。それだけで十分です。
そして、もう一つの楽しみは、ある解説者の方にお会いできることです。元名調教師といわれるその方は、頭のハゲぐあい(すみません!)や、面長のお顔、話し方などが、私の知っている人にとてもよく似ているのです。
二つ目の高校でお会いしたその方は、最初の職員会議の時、堂々と管理職と渡りあっていました。前任校では全くいなかったタイプの方で<こんな人もいるのだなあ・・・>と強い印象を受けました。
その後、同じ部署になったこともあり、たくさんお話をして、いろいろ教えていただきました。また、様々なことで、かばったり守ったりもして下さいました。
親しくなるにつれ、私はさだまさしさんの歌詞<運がいいとか 悪いとか 人は時々口にするけど そういうことって確かにあると・・・>という一説を思い出しました。
その先生は、京大の法学部に入学した後すぐに戦争となり、戦後はご家庭の事情で復学を断念された、と聞きました。もし復学がかなっていたら、有能な弁護士さんとなり、実力を発揮されていただろうと思います。
また若い頃に奥様が大病され、その介護に何年もご苦労されたとか。亡くなられた後は、一人で幼い娘さんを育てておられました。
そのような事情を知り、私は時々、おかずのおすそ分けをするようになりました。そして、いつのまにか、年末31日のお昼頃からは家で楽しくお酒を飲んでいただき、夕方おせち料理をもって、ほろ酔いかげんで帰っていただくようになりました。
私たちが宮崎への引っこしを決めた時も、最後に家でお酒を召しあがっていただきましたが。帰り際には、<なごり惜しくて・・・>と涙を流されました。
宮崎の遠さを全く理解していなかった私たちは<また、すぐ会えますから・・・>と軽く口にしましたが。先生はその遠さを、距離の遠さが人との遠さに通じることを、すでによくわかっておられたのだと、今になって思います。
そのあとは長い間、バレンタインデーに私から<ウィスキー・ボンボン>を贈り、先生からはお礼の手紙と自作の俳句が送られてきました。
けれど数年前、先生のかわりに妹さんからお手紙が届き、<認知症になりましたので・・・>とありました。
それ以来、どうしておられるのか。とてもよく似た解説者の方のお姿を見ては、思い出す日々となりました。

<馬>といえば、先週牧場に行くとスタッフの方が「子馬が生まれて、ちょうど今、丸馬場に出ていますよ」と教えてくれました。
<カフェちゃん>という白と茶色のお母さんと一緒に、生まれて一週間の子馬がひょこひょこぴょんぴょんという感じのおぼつかない足どりで遊んでいました。
その愛らしさに感動しすぎた私は、いつもは必ずつけるサングラスをかけ忘れたり、乗馬では使わないつば広帽子を脱ぎ忘れたりしたまま、その日の乗馬を始めてしまいました。それほど子馬に心を奪われていたのか!と、後で我ながらあきれてしまいました。

牧場ではこれまでも、何頭もの子馬が生まれました。

子馬① <スカイ>

カレンダー「私の散歩道2018~犬・猫ときどき馬~」2月

子馬② <リープ>

カレンダー「私の散歩道2017~犬・猫ときどき馬~」2月

子馬③ <ひなちゃんと山茶花>


カレンダー「私の散歩道2017~犬・猫ときどき馬~」2月


子馬④ <ベティと水仙>

カレンダー「私の散歩道2014~犬・猫ときどき馬~」1月

子馬⑤ <ジャスミンとコスモス>

カレンダー「私の散歩道2021~犬・猫ときどき馬~」10月

 名前もまだついていないこの子が、6枚目となります。今から絵を描くのが楽しみです。

=============

3 アングロ・サクソン侵略の系譜27:日本語訳『まして束ねし縄なれば』

 ある日、出版社の社長さんから電話があり、アレックス・ラ・グーマのAnd a Threefold Cordの日本語訳を薦めて下さいました。宮崎医科大学で授業を始めて暫くした頃だったと思います。授業用の英文註釈書A Walk in the Night(1989年)とAnd a Threefold Cord (1991年)をすでに出してもらっていましたので、その流れだったと思いますが、その時は思いが及びませんでした。

And a Threefold Cordの表紙

学生として授業を受けている時は、テキストと翻訳にはかかわりたくないなと感じていましたが、気がついたらテキストを作り、日本語訳を出していた、そんな感じです。

しかし、出版事情はかなり厳しく、自分で出せば200~300万は必要だと言われました。僕は出たものを学生に買ってもらえばいいと言われましたが、実際は出すまでも出たあともなかなか大変でした。当時の授業は100分で通年30コマが基本でしたから、テキストは年に一度、医学科の場合、一学年100人ですから、そうたくさんは捌(さば)けません。しかし、非常勤でも何コマか行っていましたので、全部合わせるとそれなりの数が捌(さば)けたと思います。それに、仮説を立てての論証文という課題の参考図書にして、同じ出版社の他の人の本も買ってもらいました。書いた人は新聞記者や大学の教員が大半でしたが、自分で売る人はいませんでしたから。よく考えたら、元々構造的にもアフリカ関係のものが売れるはずはありません。大体、小中高でほとんどアフリカは扱いませんし、「アフリカ文学?」というのが実情です。英米文学にかかわる人は多くても、アフリカ文学の学部も大学院もありませんし、先進国は第3世界から搾り取りながら、アフリカを助けてやっていると勘違いしている人が大半なのですから。せいぜい、僕のように英語の分野で大学の教員になってからたまたまアフリカ文学をやり始めた、くらいしかないわけです。

ラ・グーマを読むようになった経緯については→「MLA(Modern Language Association of America)」続モンド通信15、2020年2月)、テキストについては→「A Walk in the Night」続モンド通信30、2021年4月)に、作品については→「『三根の縄』 南アフリカの人々①」(『三根の縄』はのちに『まして束ねし縄なれば』と改題)、「ゴンドワナ」16号14-20頁、1990年8月)と→「『三根の縄』 南アフリカの人々②」「ゴンドワナ」17号6-19頁、1990年9月)に書いていますので、ここでは①タイトル、②表紙絵、③日本語訳について少し触れておこうと思います。

① タイトル

ラ・グーマは聖書の伝道之書第4章9節~12節(ECCLESIASTES IV: 9–12)を本文の前にエピグラフとして載せ、その中の一部And a threefold cordをタイトルに使いました。ダビデの子、イスラエルの王である伝道者が世の中の抑圧について語る第4章は「ここに我身をめぐらして、目の下に行われる諸々の虐げを視たり。ああ虐げらるる者の涙流る、これを慰むる者あらざるなり。また、虐ぐる者の手には権力あり。彼等はこれを慰むる者あらざるなり……」で始まります。おそらく、ラ・グーマの目には、この1節が南アフリカの現実の姿と重なったのでしょう。独りでいることの辛さについて伝道者が触れたあと、エピグラフに用いられた4節は「二人は一人にまさる。其はその骨おりのために善き報いを得ればなり。/即ち、その倒る時には、ひとりの人そのともを助け起こすべし。然れど、ひとりにして倒る者はあわれなるかな、これを助け起こす者なきなり。/又、二人とも寝ぬれば温かなり、一人ならばいかで温かならんや。/人もしその一人を攻め撃たば、二人してこれにあたるべし、三根の縄はた易く切れざるなり。」(Two are better than one; because they have a good reward for their labour. / For if they fall, the one will lift up his fellow: but woe to him that is alone when he falleth; for he hath not another to help him up. / Again, if two lie together, then they have: heat, but how can one be warm alone? / And if one prevail against him, two shall withstand him; and a threefold cord is not quickly broken.)と続きます。

作品論を書いたときはその日本語訳の『三根の縄』をタイトルに使いましたが、編集者の方が『まして束ねし縄なれば』を考えて下さいました。その時は「うまいこと思いつくもんやなあ!」と感心しただけでしたが、本となって送られてきたときには、改めてそのタイトルでよかったなあとしみじみ思いました。今もその思いは変わりません。

② 表紙絵

日本語訳の作業をしているときに社長さんから電話があり、妻に表紙絵を依頼して下さいました。元々絵が好きで、働きながら神戸の伊川寛さんの絵画教室に通って油絵を描いていました。教室の人たちが年に一度神戸元町のたじま画廊で開くグループ展にも出品させてもらっていました。伊川さんは小磯良平と同じ世代の画伯で、なかなか洒落(しゃれ)た絵を描いておられました。宮崎に来る前は二人の子供と仕事でいっぱいいっぱいの生活でしたので、週に一度土曜日の午後に二時間ほど教室の時間を絞り出すのがやっとでした。ずっと描きたい思いを抱えたまま慌ただしく毎日を過ごしていました。何とか大学が決まったとき、僕と交代して仕事をやめ、絵を描く時間が出来ると大喜びでした。宮崎に来てからは毎日楽しそうに絵を描き始めました。元々体力がないので油絵はきつく、水彩とパステル主体で最初は花を描き、近くにある公園の菖蒲園に毎日通い詰めていました。水仙や椿、桜やポピー、薊(あざみ)や菫(すみれ)、イリスや牡丹(ぼたん)、捩(ねじ)花(ばな)や紫陽花(あじさい)、秋(こす)桜(もす)や木(あけ)通(び)、白い一重の山茶花(さざんか)や木立ちダリヤなど、花や実を調達するのは僕の役目で、描いた絵は当時流行っていたプリントゴッコでカードにしました。それを出版社にも送っていたので、声をかけて下さったのでしょう。

やっと衛星放送(BS)が始まった頃で、そのアンゴラのニュースの場面にお気に入りの犬を加えて、30分ほどでちゃっちゃっと水彩で殴り描きをして表紙絵の元が出来上がりました。注文をもらって描く今の絵はもっと時間をかけて丁寧に仕上げるようになりましたが、ほんとちゃっちゃっという感じです。しかし、変に気を遣わない分、勢いがあるのです。その絵を表と裏に重なるように分けて使って本が出来ました。↓

表紙絵(表)

表紙絵(裏)

元の絵

カレンダー(2020年8月)に入れた絵

その後次々と表紙絵を描かせて下さり、56冊にもなりました。出版された本の一覧です。僕が雑誌に書かせてもらって世界が広がったように、妻も表紙絵の機会をもらって色も絵も幅が広がって行きました。二人とも、違う形で育ててもらいました。→「本の装画・挿画一覧」(門土社)

乗馬に通っている宮崎の牧場に来られていた大分の牧場主から誘ってもらって5年間(2008年~2012年)大分県飯田高原→九州芸術の杜のギャラリー夢での個展に恵まれ、2013年からは世田谷区祖師谷の「ルーマー」→Cafe & Gallery Roomerで個展を続けています。去年はコロナ騒動で個展が叶いませんでしたが、今年は会場に行けない場合はZoomを使ってでも何とか開催したいと考えています。個展の詳細は→ 「個展詳細」、今まで描いたものはブログ→「小島けいの絵のブログ Forget Me Not」で紹介しています。

③ 日本語訳

翻訳は結構大変でした。理由はいろいろありますが、初めてだったこと、イギリス英語だったこと、それに物語で一文一文が極めて長かったことなどです。結局本文の日本語訳だけで一年半ほどかかりました。ワープロを使い始めた頃で、原稿をフロッピーで郵送したあと暫くしてから、社長夫妻と編集者のかたが手を入れて下さった印刷原稿が送られてきました。1割ほどは、読者のためにこの表現でどうでしょうかという付箋がたくさんついていました。翻訳した時のこぼれ話のようなものを少し書いています。→「ほんやく雑記④『 ケープタウン第6区 』」「モンド通信 No. 94」、2016年6月19日)、→「ほんやく雑記③『 ソウェトをめぐって 』」「モンド通信 No. 93」、2016年4月26日)、→「ほんやく雑記②「ケープタウン遠景」」「モンド通信 No. 92」、2016年4月3日)

終わった時ももう翻訳にはかかわりたくないと思いましたが、その後、グギ・ワ・ジオオンゴの『作家、その政治との関わり』(Writers in Politics)とワグムンダ・ゲテリアの『ナイス・ピープル』(Nice People)の2冊の日本語訳を言われて断れず、やっぱり一年半ずつかかって仕上げました。それぞれ200~300万かかると言われたまま出ていません。『ナイス・ピープル』はいつか本を出せるかも知れませんが、取り敢えずメールマガジンに分けて連載しませんかと言われました。→「日本語訳『ナイス・ピープル』一覧」(2008年12月~2011年6月まで「モンド通信 」に連載。)その解説→「『ナイス・ピープル』を理解するために」一覧」(2009年4月~2012年7月まで「モンド通信 」に連載。)その作品論→「医学生とエイズ:ケニアの小説『ナイス・ピープル』」(「ESPの研究と実践」第3号5-17頁、2002年)

『ナイス・ピープル』のタイトルは工夫しないといけませんねとおっしゃっていた社長さんも、『まして束ねし縄なれば』を考えて下さった編集者の方もお亡くなりになり、お会いすることはもう叶いません。

『ナイス・ピープル』の表紙

『作家、その政治との関わり』はケニアの政治状況だけでなく、韓国の民主化運動で死刑を宣告された詩人金芝河とアフリカ系アメリカの抑圧された歴史も含まれていたため、ケニアと韓国の歴史を丸々最初から、アフリカ系アメリカの歴史は再度辿る必要がありました。もちろんずいぶんと視野は広がりましたが、大学での仕事も格段に増え、その上出版できるかどうかも定かでない状況での作業はきつかったなあ、という感覚が残っています。あの時だったからこそ出来たのだと思いますが、今後も出版されることは、まずないでしょう。折角でしたので、独立時から新植民地体制に移行するケニアの状況についてはまとめて、英文で書きました。→“Ngugi wa Thiong’o, the writer in politics: his language choice and legacy”「言語表現研究」19号12-21頁、2003年。

「翻訳にはかかわりたくないな」と感じた学生の頃の思いは今も変わりません。

『作家、その政治との関わり』の表紙