1976~89年の執筆物

概要

(作業中)

アレックス・ラ・グーマ (1925ー1985)が闘争家として、作家としてどう生きたのかを辿っています。大きな影響を受けた父親ジェームズや少年時代、ANC(アフリカ民族会議)やSACP(南アフリカ共産党)に加わり、ケープタウンの指導者の一人として本格的にアパルトヘイト運動に関わる一方、作家としても活動しました。今回は、辺りまでを書きました。

本文(作業中)

◎反逆裁判

1956年12月13日、ラ・グーマは逮捕された。8日前に既に捕えられていたANCルツーリ議長を含む155名と共に「国家」への反逆罪に問われたのだが、それは国内外の情勢によって強められた白人政府の不安の表われに他ならなかった。

国内では、ANCを中心に解放闘争が高まりを見せていた。1950年6月26日〈南アフリカの自由の日〉のストライキで多数の大衆動員を果たしたANCは、若きネルソン・マンデラらが先頭に立って人種差別法に対して非暴力非協力の〈不服従運動〉を展開していたが、共産主義弾圧法や53年の〈修正刑法〉などによって徹底的に弾圧を受け、53年はじめには闘争打切りの声明発表を余儀なくされていた。しかし、すぐANCは、白人の民主主義者会議、インド人会議、カラード人民会議(もと南アフリカ・カデード人民機構-SACPO)と連帯して、4人種からなる統合民主国家をめざす連合戦線、いわゆる〈会議運動〉を推し進め始めた。55年の「人民会議」による自由憲章の採択は、そんな「解放戦線」による挑戦であり、政府にばかり知れない脅威を与えたのである。自由憲章採択後も、婦人で唯一のANC中央委員リリアン・ンゴイを中心に婦人たちによるパス反対闘争が展開されたりするなど解放への闘争は盛り上がりを見せていた。

国外では、56年にアフリカ大陸で二つの衝撃的な出来事が起きていた。一つは、6月のエジプトの共和国憲法の公布と共和国の正式な樹立である。イギリスとの長年の抗争を経て、スエズ地帯からイギリス軍を駆逐した末のその出来事は、独立の波がアジアからアフリカに広がりつつある証拠でもあった。もう一つは、3ヶ月のちの9月に、イギリス政府が植民地ゴールド・コーストに対して翌1957年3月に独立を与えるという声明を発表したことである。黒人主権国ガーナの誕生は、ヨーロッパ帝国主義と白人支配からの解放への第一歩を意味しており、アフリカとアフリカ人にとっては想像以上の重みを持っていた。こうした内外の情勢のもとで、大量156人の一斉逮捕が強行されたのである。

逮捕されたのは、アフリカ人、白人、インド人、カラードと人種や職業もさまざまであったが、カラード人民会議の議長を務めていたラ・グーマをはじめ、すべてが〈会議運動〉の指導者か活動家であり、その事件が〈会議運動〉阻止を狙う政府の弾圧強化の産物であるのは明らかであった。

反逆罪は、南アフリカでも最大の犯罪であったにもかかわらず、ルツーリ議長らが捕えられてから僅か16日後には全員が保釈されるなど政府側の計画性のなさとは対照的に、被告たちの取った行動は、秩序正しく堂々としたものであった。ルツーリは、むしろ収容されたヨハネスブルグの要塞刑務所を会議運動指導者たちの絶好の会合の場と考えたほどである。というのも、現実に指導者たちの大半は広大な南アフリカをたやすく旅行できる階層には属していなかったし、警察の干渉をうけるなかで会合を持つことの難しさをいやという程味わっていたからである。なかなか実現することのなかった「指導者たちが一堂に会する」という夢を、皮肉にも、政府が強要して適えてくれた、と考えたのである。刑務所内では全員が二つの大きな監房にわかれて収容されたが、昼間は会うことができ、事実、講義や討論会、礼拝などのほかに、コーラスの練習まで行なわれている。(Albert Luthuli, Let My People Go, An Autobiography, Collins, 1962に詳しい)

こうして歴史に残る〈反逆裁判〉が始まった。裁判は5年の長きに及んだが、争点は〈会議運動〉が反逆罪にあたるかどうかであった。検察側は、自由憲章が共産主義を指向し、暴力による社会変革と国家の転覆をめざすものであると非難したが、弁護側は、自由憲章に示された理想と信念は大多数の国民が公然と抱いているものであり、その思想を裁こうとしていると反論した。結局、検察側は156名の反逆罪を立証できず、61年3月までに全員に対して無罪の判決を言い渡さざるを得なかった。裁判は検察側の完全な敗北に終ったのである。

反逆裁判の間じゅう、ラ・グーマは政治活動を禁じられた。公然と係わりを持てたのは「ニュー・エイジ」のコラムニストとしてだけである。裁判が始まると、いきおい投稿回数も減り、家計は妻ブランシの肩に重くのしかかった。しかし、ラ・グーマは定期的にヨハネスブルグから被告たちの息吹をケープタウンに持ち帰った。57年1月24日付の「皆それぞれに大変だが、不平をこぼすものは誰一人としていない」と題された記事は、裁判での人々の様子を鮮明に伝えている。

 

私は被告たちの不平や後悔や泣きごとをみつけ出そうとしましたが、無駄でした。見つかったのはただ、自信と温かさと気概だけで、それらが不退転の決意で固められているのを知るだけだったのです。ここには人間の魂と、前進しようとする意志と、前向きにものを見つめ、全体の目的のためには個人の辛苦をも耐え忍ぼうとする勇気があります。また、レンガにモルタル、筋肉に腱など、新しい生命を創造するのに欠かせない生きた血が、ここにはあるのです。

 

57年5月2日に「ニュー・エイジ」の専属コラムニストに採用され「わが街の奥で」と題するコラム欄を担当することになったラ・グーマは、一方では短篇を書きながら、ジャーナリストとしても、精力的に創作活動に携わることになる。(反逆裁判についてはLionel Forman & E .S . Sache, The South African Treason Trial (John Calder,1957)があり、雪由慶正訳『アフリカは自由を求めている』(角川書店、1959年)の邦訳も出ている)

 

◎シャープヴィルの虐殺

反逆裁判の最終判決が未だ出ていない1960年3月21日に、解放闘争の、ひいては南アフリカの歴史の転換点となる出来事が勃発した。20世紀最大の蛮行といわれるシャープヴィルの虐殺である。多人種統合国家をめざすANCの平和主義を批判して59年3月に訣を分っていたパン・アフリカニスト会議(PAC)の呼びかけに応じて集まったシャープヴィルの大衆に向かって、白人警官が一斉射撃を行ない、69名の死者、数百名の負傷者を出したのである。政府筋は「暴動鎮圧」の声明を発したが、パス法廃止などを求めて集った無防備の民衆に向かっての一方的な突然の発砲は、まさに虐殺行為であり、国内外の情勢の不安にかられた白人政権の力による制圧強化に他ならなかった。

政府のこの非道に抗議して、各地で民衆が立ち上がった。武力鎮圧を強行する警官に対して、激怒した大衆は放火、投石などで対抗するなど、国内は騒然となった。3月26日に、政府はパス法の一時停止声明で騒ぎを鎮めようとしたが、抗議の波はおさまらず、28日に行なわれた一日在宅スドでは大半の民衆が職場を放棄し、国の機能は完全にマヒ状態となった。これに対し、政府は翌29日に非常事態宣言を発令して武力弾圧を強化、解放運動指導者の一斉検挙に乗り出した、また、4月6日にはパス法の復活とANC、PACの非合法化の声明を発表、更に翌9日のフルウールト首相狙撃事件を機にますます弾圧を強化して多数の運動家を逮捕した。ラ・グーマが逮捕されたのもこの時期である、ラ・グーマは最初、ケープタウンにあるローランド.ストリート刑務所に収容されたが、すぐにケープ州ウォルセスター特別刑務所に移され、その年の終わりまでの七ヶ月間、収監された。非常事態宣言によって「いかなる人物も自由に逮捕できる」などの権利を我が物にした政府の暴挙により、裁判もなしに長期問拘留されたのである。こののちラ・グーマは、繰り返し投獄、拘禁を余儀なくされる運命となる。

(シャープヴィル虐殺に対する国際世論は厳しく、各国の経済制裁が始まった。61年5月に白人政府は英連邦からの離脱、共和国宣言を実施せざるを得なくなっている。孤立化を深める白入政府は、苦しまぎれに各国に友交関係の継続を訴えたが、それに応じたのがドイツと日本である。日本政府は第二次世界大戦とともに断絶していた外交関係の再開と大使館の新設を約束している。このことによって日本は「名誉白人」の称号をいただき、「白人」なみの扱いを受けているが、それは恥辱以外の何ものでもない。ここで思い起こされるのは、今回来日したアラン・ブーサック氏の来日前の日本へのメッセージである。(本誌7号でも紹介した)

 

われわれを追い回し、連行する車はトヨタ、ニッサン車だ。それを日本は知ってほしい。85年、私が拘留された際に乗せられた車も日本製だった。英国、西ドイツは自己の立場を弁明するためにこう言っている。「われわれが撤退すれば日本がやってくる。日本の反アパルトヘイト運動は微々たるもので、日本企業は世論の圧力を気にしなくてすむからだ・・・・・・」

 

日本企業、ニッボンに対する「恐れ」は、町に氾濫するトヨタ、ソニーばかりか、この時の日本政府の道義に反する抜け駆け行為に裏打ちされている。

日本の”繁栄”が、現に被害者の犠牲の上になり立っており、直接的にであれ、間接的にであれ、私たちが加害者側に立っている事実は否定出来ない。そんな自己矛盾とむき合う思いはなんとも複雑である。

アメリカの黒人作家リチャード・ライトも独立前のガーナを訪れたのちに出版した紀行文の中で同じようなことを書き残している。

 

人はその人となりや、その暮しぶりに応じてアフリカに反応する。人のアフリカに対する反応は、その人の生活であり、その人の物事についての基本的な感覚である。アフリカは大きな煤けた鏡であり、現代人はその鏡の中で見るものを憎み、壊したいと考える。その鏡をのぞき込んでいるとき、自分では劣っている黒人の姿を見ているつもりでも、本当は自分自身の姿を見ているのだ。・・・・・・アフリカは危険をはらんでおり、人の心に人生に対する総体的な態度を呼び覚まし、存在についての基本的な異議をさしはさむ。

 

「その鏡の中で見るものを憎み、壊したい」心境に傾いていく自分と、「存在についての基本的な異議」を意識しないわけにはゆかない。

 

◎文化荒廃のなかで

もとより、自分たちの利害に従って自分たちの法を作り、自分たちの都合のいいように築き上げた差別社会にあっては、虐げられる側に及ぶ悪影響は、目に見える政治や経済面といった分野だけでは決してない、その悪影響は目には見え難い、人の精神文化に係わる側面にまで及んでいく。

たとえば、先述のリチャード・ライトは、閉鎖的で、人種差別の厳しいアメリカ南部で少年期を過ごしているが、読みたい本を図書館から借りるだけで屈辱と危険を体験せねばならなかった。H.L.メンケンの本を図書館から借り出すのに、知り合いのアイルランド系の白人に恐る恐る頼み込んで図書館カードを借り、「この『黒んぼ』にメンケンの本を何冊か持たせて下さい」というメモ書きを自分で作り、白人図書館員の前で「低能な黒人」の役を演じている。もと奴隷であった「低能な黒人」に図書館など要らぬ、というのが当時の南部社会の実態であったからである。

南アフリカの場合、状況はさらに厳しい。のちに発表した「アパルトヘイト下の南アフリカの著作」(「新日本文学」1977年4月号に邦訳があるが、残念ながら、例によって「ヨハネスブルグがその大部分の労働者を引き出すソゥェト族(下線は筆者)・・・・」(96ペイジ)などといった類のもの。原文はアジア・アフリカ作家会議の国際季刊誌「ロータス」23号(1975)に揚載されている)の中で、ラ・グーマは白人支配下で文化状況が如何に荒廃しているかについて述べたあと次の具体例を引き合いに出して論を展開している。

 

・・・・・・今まで述べてきたことが南アフリカの作家にとって一体何を意味しているのか。最もはっきりしているのは、多数派の黒人の利用出来る文化施設が少数派の白人のに較べてはるかに劣っており、ある場合にはその施設が無きに等しい、ということである。ヨハネスブルグにその労働力の大半を供給している巨大なアフリカ人居住地区ソウェトでは、ほぼ100万の人口に対してたった一つの映画館しかない。それも、その映画館で鑑賞できる映画の数は検閲制度によっておびただしく制限されており、アフリカ人は白人の16歳以下と同じレベルに置かれている。国内にあるすぐれた図書館は黒人には閉ざされている。ほとんどの黒人は劇場やコンサートホールの内側を見た経験もない。

 

ラ・グーマが少年時代に黒人少年と同地区に住むことが出来たり、ある時期まで一部のものが投票権を持ち得たりするなど、カラード人口の多いケープタウンの状況が黒人社会に比べて幾分か厳しくなかったのは事実である。しかし、アパルトヘイト体制によってもたらされる文化荒廃の実情は、基本的に変わるものではない。その意味では、貧しいながらも、闘争家ラ.グーマ、作家ラ・グーマが白然に育つ環境を与えてくれた父ジェイムズ・ラ・クーマの存在は、大きい。

もっとも、少年の頃からラ・グーマ自身にその素養が備わっていたようで、次のインタビュー記事などを見ると、子供ながらにもう一端の作家である。

 

・・・・・・生徒として、いつも私はペンを走らせました。何度かは、授業中に文章を編み出し教室で読んでみせたりしたものです。作家としての資質があると特に自分でも意識したことはありませんが、教師たちは口を揃え、君には作家としての才能があると言いました。私はいつも話をでっちあげてみせたのですが、それは学校の生徒が書く種のもので、たいていは生徒の冒険ものでした。自由帳はその話で一杯になり、いつしか原稿が部屋にたくさんたまってしまいました。たぶん、ある春先のことだったと思いますが、母が家の大掃除をやったとき、私の大切な原稿はすっかリごみ箱行きになってしまったのです。

 

「各々の切なる思いをかき回し、みんなの注意を意のままに集めることの出来る」能力が自分にあったからこそ級友たちの間で人気があったのだと思う、と自負することのできたラ・グーマは、既に少年の頃から書くことの威力を、そしてペンの力をひそかに信じていたのかも知れない。

「アレックス・ラ・グ~マヘのインタビュー」(本誌7号)でも少し触れていたが、ラ・グーマはロシアや英米作家のものを好んで手にしている。学校での勉強には精を出さなかったラ・グーマであるが、父の影響もあって本をむさぼるように読んでいる。父やそのとりまきの刺激を受けながら、書物の世界を通して自分の世界を広げていったのである。次のインタビューはそんな経緯を教えてくれる。

 

私は本を読むのがとりわけ好きでした。小さい頃からずっと、いつも本を探し求めていました。初めは、誰でも子どもなら読むようなスティーヴンスンにデュマやユーゴーなどの本を読みました。それから冒険もの、ウェスタンものや探偵もの、そして次第にシェイクスピアのような古典やトルストイにゴーリキーなどのロシアの作家、それにジェイムズ・ファレルやスタインベック、ヘミングウェイなどのアメリカ作家といったより堅いものを読み始めました。一冊の本が手に入るのなら、決してその機会を逃したりすることはありませんでした。実際、わずかな小遣銭はいつも古本屋で本を買うのに使いましたし、高い本屋で一冊の本を買い求めるというぜいたくな喜びを味わうためにわざわざお金を貯めたりしたこともありました。

 

作家針生一郎氏はアジア・アフリカ作家会議ベイルート大会報告座談会でラ・グーマの印象を次のように述べている。

 

たとえば南アフリカ代表はわれわれとホテルが同じなのでしばしば会う機会があったんです。ジャワ人と黒人の混血というアレックス・ル・グマという作家、これはあとでイギリスや東ドイツででている彼の小説をよんでみると、フォークナーばりの粘液的な文体で、抑圧された心理や行動を描いている。彼と食卓で雑談していたら、一番若いクネーネという詩人・・・・・・(「新日本文学」1967年7月号)

 

そんな印象も、ラ・グーマが欧米の文学に慣れ親しんでいたことと決して無縁ではないだろう。

 

◎闘争・文学・人生

闘いのさなかに、自然に書くことを始めたラ・グーマが、解放闘争を含む人生と文学は切り離せるものではない、と言ったのはむしろ当然である。人間の自由を奪い、文化を荒廃させるアパルトヘイト体制が現に存在している限り、アパルトヘイト打倒をめざして闘う政治活動もペンでの創作活動も、ラ・グーマにとっては人生そのものであり、拘禁され生活する権利を奪われても、亡命して祖国を離れてもその姿勢は貫かれ、終生変わることはなかった。

アフリカ・スカンジナビア作家会議やアジア・アフリカ作家会議などの国際会議でも必ずそのことを主張したし、「ロータス」誌やANC機関誌「セチャバ」でも同趣旨の論文を発表している。(「アレックス・ラ・グーマヘのインタビュー」の会見者コート・ジボアール、アビジャン大学のリチャード・サミン氏の手紙によれば、タンザニアのダル・エス・サラーム大学に客員作家として招かれていたラ・グーマが、文学部主催のアフリカ文学国際会議で行なった講演「アフリカ文学と唯物論者の芸術の概念」と「文学と反帝国主義者の闘争」も「ロータス」や「セチャバ」での論文に似たものであったとのこと、と本誌七号で紹介したばかりである)

たとえば「ロータス」誌1巻4号(1970)の「文学と人生」と題する小論の中では、その年が百年祭にあたるゴーリキーの文章を引用してその文学への業績をたたえたあと、ラ・グーマは次のように続けている。

 

人は文学と人生を切り離すことはできないし、文学と人間の経験や人間の願望とを切り離すことはできない・・・・・・

・・・・・・文学の最大の価値の一つは、自己意識を深め、人生に対する感覚を広げることによって、すべての考えや行動が社会現実の範囲内の現実性や経験からきているということを文学を通じて再認識することである。すべての人間もあらゆる言語も自分たち自身の、そして自分たち自身の運命の、同じ根本的な欲求に一番関心があるのである。

 

現実を見据え、現実に根ざしたその姿勢が決して生半可でなかったことは、のちのラ・グーマの解放闘争との係わりや創作活動を通じて次第に証明されていく。アフリカ・スカンジナビア作家会議では、作家であっても必要ならば銃を持って立ちむかうべきだと言明したし、先の「文学と人生」の中では、現に作家が銃を取って闘っているベトナムの例をあげて、闘争・文学・人生が不可分な関係にあることを強調している。

 

◎「ニュー・エイジ」

ラ・グーマの創作活動が現実を見据え、現実に根ざしたものであったことは「ニュー・エイジ」で取り扱った題材を見てもわかる。前号でも少し触れたように「ニュー・エイジ」は反アパルトヘイトを掲げた左翼系の週刊新聞である、前掲の『アフリカは自由を求めている』の中にも何ケ所か顔を出すので、少し紹介しておこう。

 

・・・・・・彼は、ケープタウンの建築家で反政府的な新聞「ニュー・エージ」を出版している会社の支配人をつとめていたために逮捕されたのだった。(34ペイジ)

 

チャップマン会社のボイコットは徹回された。そして一週間後に、「ニュー・エージ」紙上にチャップマン会社の煙草の大きな広告がのった。

「ニュー・エージ」は大きな発行部数をもっていてこれに広告をだすことは会社にとってきわめて有利であることが一般にひろくみとめられていたにもかかわらず、永いあいだ広告主から完全にボイコットされていたのだ。チャツプマン会社は「ニュー・エージ」と長期の広告契約を結んだ。従来広告主たちに「ニュー・エージ」の紙面を利用することを恐れさせていたナショナリストの側からの脅迫という堤防は破壊されたのだ。(91ペイジ)

 

又、「ニュー・エイジ」1961年3月31日付の一面記事の写真がNELSON MANDELA: THE STRUGGLE IS MY LIFE (New York: Pathfinder, 1986)に収載されており、演説中の若きネルソン・マンデラの雄姿や「反逆裁判今週中にも結審の可能性あり」の大見出しなどが見える。(ちなみに、同書には、56年12月に取った反逆裁判被告156名全員の写真も含まれており、7列目に腕組みして微笑みかける若きラ・グーマが、3列目中央にはやや斜交いに構えたマンデラがはっきりと写っており、156名全員の生き生きとした表情がこちら側に伝わって来る)

「ニュー・エイジ」のコラム欄「わが街の奥で」を担当したのは、専属として採用された57年5月2日から、共産主義弾圧法によってジャーナリストとしての活動を禁じられた62年6月28日までだが(「ニュー・エイジ」そのものも同年秋には廃刊に追いやられている)、「ニュー・エイジ」で取り上げたのは、浮浪者、チンビラ、もぐり酒場などを含む街の様子やローランド・ストリート刑務所のこと、それに傍聴に出かけた法廷のレポート、ケープタウン市政に対する攻撃など、すべてアパルトヘイト体制下で坤吟するケープカラード社会の実態についてである。56年9月30日の「つるはしにシャベル」と題するコラムには次のような街の様子が描かれている。

 

いたるところ、すえた食べものの臭いや汗や淀んだ水のくさい臭いで一杯である。街角では街燈の下に人が群がってはサイコロが振られ、1ペニーや3ペンス硬貨がアスファルトにチャリンと音を立てている。どこかで静かに鳴り始めたギターの音は巧みな手前仕込みの指がフレットの上を軽快に走るにつれて、しだいに大きくなって来る。パブが閉まれば、もぐり酒屋(シービーン)の開店である・・・・・・一番安物のワインがひと壜3シリングに6ペンス、ブランデーなら15から25シリングのあいだだ。大きな酒場は警察の手入れを受けないように袖の下を使っている、と囁かれている。国勢調査によれば、この辺りの人口は約125万と言う。しかし、身元の確認を姓名とか膚の色とかでやらずに、厳しさに喜び、楽しさと苦しさ、それにあこがれと挫折、報われることのない厳しく辛い単調さ、絶望、飢え、文盲、肺炎、栄養失調、笑いに悪意、無知、天才、迷信、他愛もない知恵、ゆるぎない自信、愛に憎しみなど、で行なってみれば、きっと数えること自体を諦めざるを得なくなるだろう。

 

少々長くなるが、もう一つ別の記事を紹介しよう。スラム街第六区とそこであてもなくたむろする若者たちのことを書いた56年9月20日付けの「ハノーバー・ストリートの貧民街浮浪児たち」と題する次の一節である。

 

キャッスル・ブリッジからシェパードストリートまでのハノーバー・ストリートが第6区の中心部を通って走っており、その通り沿いに社会の息吹が感じられる。それは金持ちと貧乏人、働きものと怠け者、弱者と強者たちのローカル社会の主動脈である・・・・・・レコード店から流れて来る大きなジャズの音にも負けないで、街頭売りたちが大声を張り上げてものを売る。「さあさあ、じゃがいもだよ。たまねぎだよ」・・・・・・貧民街の浮浪児たち、家の軒下や店やカフェーの辺りでうろつく人の群れ・・・・・・うろつき廻る少年たちのたいていは教育を殆んど受けていないか、全く受けていないものばかり、子どもの頃から新聞を配達するか、街頭売りの手伝いをするかして家計を助けなければならなかったからだ。たとえ如何なる手段を使っても、人生そのものが生き延びるためのたたかいなのだ。しかしながら、誰一人として自分たちの窮状の原因がどこにあるのかに気付いているものはいない・・・・・・ただぶらぶら、何かを待っているばかり。スラム、病気、失業、教育の欠如、人生のすばらしいものを決して許さない人種の壁の空恐しいほどの重み、すべてが貧民街の浮浪児たちを虐げる手助けをしており、その結局、大半のものが餌ものを求めて敵意の満ちたジャングルをさまよう猛獣と化してしまっているのだ。

 

これら「ニュー・エイジ」の記事が発展してやがて『夜の彷徨』が生まれ、そして『三根の縄』(のちに『まして束ねし縄なれば』に改題)が生まれる。又、別のコラム欄で取り上げたローランド・ストリート刑務所には、すぐのちに自らが収容されることになり、その体験をもとに『石の国』が生まれている。それらはすべて、現実を見据え、現実に根ざした闘争家ラ・グーマの生き方から生まれたが、同時に作家ラ・グーマのそののちの文学の主題ともなっていく。そんな経緯を考えると、「ニュー・エイジ」が、ある意昧で作家ラ・グーマを育て上げた大きな源動力の一つであった、と言えるだろう。

 

◎アパルトヘイトの嵐の中で

ラ・グーマが専らカラードの社会の実態を問題として取り上げたのは、繰り返し述べるように、ラ・グーマの目が現実を見据え、その闘いの姿勢が現実に根ざしていたからであり、ラ・グーマが虐げられる同胞たちの代弁者としての自負をしっかりと抱いていたからである。たとえば、66年にロバート・セルマガによって行なわれた次のインタビューでの発言の中にもその気概がうかがわれよう。

 

・・・・・・作家たちはいままで南アフリカ一般の状況を描こうと努めて来てはいますが、違った人種グループと現に南アフリカに住む人びとについては殆んど語られて来ませんでした。たとえば、カラード社会やインド人社会について多くは語られて来なかったと思います。そして人種がそれぞれ隔離された状況の中であっても作家には果たさなければならない仕事があると思うのです。少なくとも現在起こっていることを世界に知らせて行かなければなりません、たとえ隔離された社会の範囲の中でしかやれなくても。

 

吹き荒れるアパルトヘイトの嵐が人びとに文化荒廃をもたらすことについては先に少し触れたが、特に作家には致命的とも言える状況を生み出す。人種の壁にさえぎられて作家は南アフリカの社会を総合して見ることが出来ず、作晶の中で人種の壁を越えた人物像を描き切れないのである。その実情をラ・グーマは充分承知しておリ、前に紹介した「アパルトヘイト下の南アフリカの著作」の中でも次のよつに書いている。

 

南アフリカではどの作家も人生を平静に全体としてながめることは出来ない。作家は自分自身の経験から、見たり知ったりしたことを書けるだけである。しかも、それは全体像の一部でしかない。白人作家の中で、いままでに、リアルでしっかりとした黒人像を何とかでも創造しえたものはいないし、その逆も又、しかりである。白人、黒人のどちらの側にも通用する黒人・白人関係を描出し得た白人作家も黒入作家も今のところ出てはいない。

ナディン・ゴーディマは徴妙な、明快な語り口で白人の自由主義者が黒人の世界を如何に見ているかを読者に語りかけるのに成功しているし、黒人が白人観察者の目にどう映るのかを正確に描き得てはいるが、黒人の体内に入り込んでそこから外側を見ることは出来ないのだ。

同様に、ピーター・エイブラハムズの小説の中の白人は戯画的で、堅くぎこちない。その白人たちは血肉の欠けた人形のように唐突にぞんざいに喋ったり、振るまったりする。アラン・ペイトンの『叫べ、愛する国よ』に登場する黒人牧師は、黒人の習慣を持ってはいるが、一種の宗教的ミンストレルにでも登場しそうな、おセンチな白人の善人である。そのような創作上の失敗はどうしても隔離社会では避けることが出来ないのである。

 

幸いラ・グーマの住むケープカラード社会は、もともと、政権を握るオランダ系白人アフリカーナーとアフリカ人との混成社会で、言葉も英語と、アフリカーナーの話すアフリカーンス語が使用されており、アフリカーナーの文化背景とも近い。ラ・グーマが作品の中で白人(アフリカーナー)像を難なく描いているのも、そんな背景があったからである。又、アパルトヘイト体制がまだ比較的穏やかな少年時代に黒人と同地区に住んだり、会議運動や反逆裁判などを通して違った人種グループも共闘するなかで得た経験も、虐げられるものの代弁者として、南アフリカの社会を総合的にながめる上で大いに役立ったことは言うまでもない。それらはすべて、アバルトヘイトと真向うから闘うラ・グーマの生き方の中から、生まれた。

 

◎拘禁されて

57年に初めてラ・グーマは短篇「練習曲」を「ニュー・エイジ」に発表した。(同短篇は63年にR・リーブ編『四重奏』の中に「夜想曲」と題して再録されている)すぐ後引き続いて「暗闇の中から」「グラスのワイン」など四編を書き、60年から65年の間には「運送屋で」「毛布」など七編の短篇を書いている。「雑誌に発表したものも多いが、大半は『四重奏』はじめ本の中に収録、再録されており、今でも比較的手に入りやすいものが多い)「アレックス・ラ・グーマへのインタビュー」の中にもあったように、ラ・グーマが短篇を書いたのは、出版事情なども含めて短篇が南アフリカの実情に即していたからである。(短篇については、稿を改めて詳しく取り上げる予定である)

61年には最初の小説『夜の彷徨』を書き始め、翌年の4月までには脱稿を終えている。(同作品は62年にドイツ人作家ウーリ・バイアーの尽力によリナイジェリアのイバダンにあるムバリ出版社から出版された)反逆裁判でヨハネスブルグに通うかたわら、精力的に「ニュー・エイジ」のコラム欄「わが街の奥で」を担当していた時期である。

前に述べたように60年の春から7ヶ月間拘禁され、その年の終わりに釈放されたラ・グーマは、ただちに「ニュー・エイジ」の仕事に復帰し、前にもまして活発に解放闘争に携わっている。61年5月末には、ANC指導者ネルソン・マンデラの呼びかけで、白人政府の一方的な南アフリカ共和国宣言に抗議して全国一斉にストが敢行された。この時、ラ・グーマはケープタウンのカラード人民を率いてストライキに参加したため10日間の拘禁処分を受けている。釈放されたあとすぐに父親を亡くしたり、63年には母親を亡くすなど個人的にもラ・グーマにとって不幸な出来事が相次いだ。

先に触れた共産主義弾圧法によってすべての活動を禁じられたラ・グーマは62年から翌63年にかけては小説の第2作『三根の縄』(『まして束ねし縄なれば』)を仕上げるのに集中した。皮肉にも政府によってすべての活動を禁じられた時問がすべて創作活動に費やされることになったのである。『三根の縄』は六四年に東ベルリンのセブン・シィーズ社から出版された。同書の一部は、63年にANCの地下活動に加担した嫌疑で5ケ月拘置されたローランド・ストリート刑務所内で書き上げられている。

同年には妻のブランシも同罪で逮捕された。ブランシはすぐに釈放されたが、ラ・グーマは12月に釈放されたのち、5年間の24時間自宅拘禁を命じられている。その時の模様をラ・グーマは次のように説明する。

 

つまり、当局の許可なしに私は家、の門さえ越えられないし、収入を伴う如何なる仕事にもつけないということだったのです。訪問者さえ許されませんでした。家で妻と一緒に居ることさえ許可を求めなければならなかったのです。当局の手抜かりを一つだけあげるとすれば、私がペンを持つことを止められなかったことでしょう。当局はいままでに書くことを禁じればどれだけ危険を伴うかを経験ずみでしたから、どんな形にしろ書くことを止めさせることだけはしないでしょう。

 

64年から65年にかけて第3作『石の国』の草稿をラ・グーマは書きあげている。同書はロンドン亡命後の67年にやはりセブン・シィーズ社から出版されている。

66年にラ・グーマは再び逮捕された。今回は非合法化された南アフリカ共産党の地下活動を推進したという疑いであった。7月に釈放されるまでの4ケ月間、やはり裁判なしに投獄されている。

政府の弾圧により、政治活動を禁止されても、ラ・グーマは断じてひるまなかった。投獄されても、拘禁されても、ベンを持って闘うことを止めなかった。そんなラ・グーマも釈放された同年6月から3ヶ月後の九月に、永久出国ビザを取得して、家族とともにロンドンに亡命する道を選ぶことになる。

《つづく》

(大阪工業大学嘱託講師・アフリカ文学)

執筆年

1987年

収録・公開

「ゴンドワナ」9号28-34ペイジ

 

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アレックス・ラ・グーマ 人と作品2 拘禁されて

1976~89年の執筆物

概要

アレックス・ラ・グーマ (1925ー1985)が闘争家として、作家としてどう生きたのかを辿っています。大きな影響を受けた父親ジェームズや少年時代、ANC(アフリカ民族会議)やSACP(南アフリカ共産党)に加わり、ケープタウンの指導者の一人として本格的にアパルトヘイト運動に関わる一方、作家としても活動しました。今回は、ブランシさんと結婚し、1反体制の週間紙「ニュー・エイジ」の記者になった辺りまでを書きました。

アレックス・ラ・グーマ(小島けい画)

本文

1.闘争家として

◎解放の前夜

南アフリカの事態は非常に緊迫している。ボタ白人政権は、いよいよ追いつめられてきた。外では、国連をはじめとする国際世論が厳しく、経済制裁も強まっており、内では、アバルトヘイト体制では立ち行かなくなった南ア経済への不満から人種差別撤廃を打ち出した財界のつきあげを受けている。ザンビアに本部を置く非合法黒人解放組織アフリカ民族会議 (ANC) は、果敢な武力闘争の手を緩めていない。83年11月に結成された反アパルトヘイト国内組織「統一民主戦線」(UDF) には、650以上の組織、二百以上のあらゆる人種の人々が参加しており、その力は圧倒的だ。ロンドンの反アパルトヘイト団体IDAF製作の記録映画「燃えあがる南アフリカ!-南ア組織UDFの記録」を見ると、もはや何びとも押し寄せる怒濤はとめようがない、という思いがひしひしと伝わってくる。指導者のひとりアラン・ブーサック牧師の演説に呼応する聴衆の姿は、50年代、60年代のアメリカ黒人公民権運動を率いたマーチン・ルーサー・キング師の演説に歓呼する人々の姿に重なって仕様がない。それは、もはやとどまるところを知らぬ歴史のうねリ、と言ってよい。

そんな危機感の強まるなか、白人政権は5月6日の総選挙で、国際世論に反して圧勝し、166議席のうち123議席 (改選前110、定数178のうち12は任命議員) 議席を確保した。そればかりか、アパルトヘイト政策体制の維持を訴えた右翼保守党の進出で、結果的にはますます保守化の傾向を強める勢いである。

5月31日付の朝日新聞 (朝刊) は、29日未明、南ア特殊部隊がモザンビークの首都マプトのANC本部を襲撃した、と報じた。また、6月2日には、ボタ大統領が「日本を含めた西側先進七か国首脳に対して書簡を送り、人種問題解決に向けて、同大統領自身が黒人諸組織の代表と話し合いに入る用意がある旨を説明するとともに、この話し合いを可能にするために、先進諸国が非合法黒人解放運動組織アフリカ民族会議 (ANC) に『暴力主義を放棄するよう』圧力をかけてほしいと訴えた」との記事を掲載した。そもそもANCに武力闘争路線を強いたのは「シャープビル虐殺事件」での白人側の蛮行がきっかけだ。ANCはルツーリ初代議長のはじめから、平和的な話し合いを提唱してきた。獄中に居る前議長ネルソン・マンデラ氏も、現議長オリバー・タンボ氏も同じことを言い続けている。日本アジア・アフリカ・ラテンアメリカ(AALA)連帯委員会の招きで、ANC東京事務所開設の具体化を図るために来日したANCの指導者のひとりダン・シンディ氏(ポール・ラベロソンと共に来日) も、その路線が変わっていないことを言明した。(6月3日夜、京都立命館大学で行なわれたAALAアフリカ研究会にて、翌日、ムアンギさんも同行して、清水寺などを訪問されたとのこと。)

  • マンデラ氏を含むすべての政治犯を即時釈放すること。
  • ANCを含む非合法とされる組織をすべて認めること。
  • 非常事態宣言を解き、黒人地区に駐留する軍隊を引き上げること。
  • それらの意志をはっきり示すこと。

以上の4つの条件が満たされれば、いつでも白人政府と話し合う準備があると・・・・・・。

歴史に照らしてみても、無恥厚顔な「悪あがき」を演じ続ける白人政府側の非は、誰の目にも明らかだ。白人政権のますますの孤立化は必然の結果である。

そんな潮流を察知してか、日本政府は4月にANC現議長オリバー・タンボ氏を招待した。8月には、UDFの若き指導者アラン・ブーサック師を正式に招く、という。今日のハイテク産業を支えるクロム、マンガン、モリブデン、コバルトなどの希少金属 (レアメタル)の大半を「南アフリカ共和国」に依存しているニッポンとしては、白人政権崩壊後の次期政権に、何とか早めに媚を売っておかねばならぬ、というわけである。新聞では40万ドルの資金援助、ANC東京事務所設置の約束、などと報じられたが、中曽根首相との会談の翌日、アラン・ブーサック師の来日依頼に出かけた政府高官が、昨日の中曽根首相の約束は、あれはあくまで、民間団体の援助でANC事務所を東京に開設することに関して政府は一切関知しないということでして、と語ったはなしを耳にすると、人間として、むしょうに哀しい、恥ずかしい。拘禁されても、弾圧されても、毅然とした人間としての態度と誇りを持ち続けてきたアフリカ人、自らの利害にのみ窮々とし、火事場ドロボウのように他人の富を狙い、掠め取るニッポンジン、ニッポン政府。最後の最後まで醜態を演じ続けるボタ白人政権―最近の一連の動きは、解放前夜近し、の感を抱かせる。歴史の流れは、誰にも止めようがない。

オリバー・タンボ氏

◎南アフリカ人として

黒人も、白人も、「カラード」も、そしてアジア人も、手を携えて共存しあえる統合民主国家「南アフリカ」を願いながら、アレックス・ラ・グーマは、1985年10月11日、夢なかば、異郷の地キューバの首都ハバナで死んだ。日本の各紙はその死を報じなかったが、民族の真の解放を信じて勇敢に斗い続けた闘争家として、作家として、歴史にそして文学史に、はっきりとその名を刻んで死んでいった。

1925年2月20日、ラ・グーマは、ケープタウンの「カラード」居住地区「第六区」に生まれた。母方の祖母は、インドネシアからの移民で、オランダ系とインドネシア系の血を引いており、祖父はスコットランド系の移民であった。一方、父方の祖父母はマダガスカルからの移民で、インドネシア系とドイツ系の血を引いていた。19世紀初頭に、ボーア人 (先住オランダ系移民) からケープ地方の支配権を奪ったイギリス人は、世界経済の流れに便乗して奴隷制そのものを廃止し、それまでボーア人が保持していた奴隷を解放した。そんなイギリス人の支配を嫌ったボーア入の大半は、内陸部への大移動 (グレート・トレック) を開始したが、残ったボーア人は、奴隷にかわる安価な労働力として、旧オランダ植民地から大量に移民を輸入した。母方の祖父、父方の祖父母はその時の移民である。(ラ・グーマのラは、東インド諸島の特定の地域に見られる名前である、とラ・グーマ自身、ある専門家から教えられたことがあるという。) 従って、母ウィルヘルミナ・アレクサンダーも、父ジェイムズ・ラ・グーマも、アジア人とヨーロッパ人の血を引いた、言わば「歴史」の落とし子であったと言える。そのような両親のもとに生をうけたアレックス・ラ・グーマもまた、必然的に、政治や社会的関係が生んだ「いわゆる」カラードではあったが、粉れもなく南アフリカの地に生まれ、南アフリカの大地に育った、れっきとした南アフリカ人には違いなかった。

ケープタウンの「第六区」

◎父ジェイムズ・ラ・グーマ

ジェイムズ・ラ・グーマは、1984年にケープタウンで生まれた。革職人の徒弟修行を終えてしばらくしてから、故郷を離れている。ひとりで南西アフリカに行き、ドイツ系移民の経営する農場や、港、ダイヤモンド鉱山などで働くかたわら、労働運動に従事し、ストライキなどを指導した。1924年に共産党に加わり、1933年には活動中に当局に逮捕された。その間、1924年には、当時たばこ工場で働いていたウィルヘルミナ・アレクサンダーと結婚し、翌年、長男アレックスが誕生、8年後には長女ジョーンが生まれている、ラ・グーマ家は、闘争拠点として若き活動家の出入りも激しく、闘争家ジェイムズも忙しかったが、子供の教育への配慮も決して怠らなかった。息子アレックスに政治や文学への関心を植えつけたのも父ジェイムズであったし、アレックスの文才をほめ、育んだのもジェイムズだった。そんな父を、ラ・グーマは次のように語る。

父から受けた影響は非常に強く、そのお蔭で私は自分の哲学観や政治観を持つようになりましたし、政治や文学についての堅い作品も読むようになりました。父自身も、本はむさぼるように読んでいました。成長する過程で、そんな姿に、おそらく、私は何らかの形で感化をうけたのではないかと思います。父は1961年に死にました。私の処女小説『夜の彷徨』が出る直前のことでした。父は自分の蒔いた種が芽を出して立派に実を結んだ姿を自らの目で確めずに死んでいった、と言えるでしょう。

父親だけではない、ラ・グーマによれば、ウィルヘルミナ・ラ・グーマは「第6区の他の女性たちと同様、辛く厳しい毎日の、ありきたりの雑事をやりこなし」、夫には献身的な妻であり、子供には優しくて心の寛い母親であった。両親の慈愛は、スラム街の生活環境が惨めであればあるほど、ラ・グーマにとってはかけがいのないものであったに違いない。

ラ・グーマに接した人は、一様に、その物腰の柔らかさ、同胞への愛の深さを指摘する。「ゴンドワナ」編集子の言葉を借りれば、「恐れというものを痛いほど知り、悲しいほど同胞を愛するラ・グーマ」であった。

アパルトヘイト下の、目をそむけたくなるほど陰惨な実態が克明に描かれている作品のなかに、それでも何かしらホッとする暖かさを読者が感じとるのは、目をそむけたくなる現実に、自ら真っ向から挑んだラ・グーマの慈愛の深さのゆえからだろう。「私にとって写実的表現とは単なる現在の投影ではないのです。その進展状況の中で写実的表現を見るべきです。写実的表現には原動力が含まれています。活力や様々な直接的反応とつながりがあります。写実的表現によって読者に真実を確信させ、何かが起こり得ることをほのめかす必要性があります。その目的は読者の心を動かすことなのです。」とラ・グーマが語り得たのは、統合民主国家の実現を願うラ・グーマが、虐げられた同胞への暖かい目を絶えず具え持っていたからだろう。その願いを慈愛にくるんで作品に刻み込んだラ・グーマ。父ジェイムズ・ラ・グーマと母ウィルヘルミナ・ラ・グーマの存在がなかったら、闘争家アレックス・ラ・グーマも、あるいは作家アレックス・ラ・グーマも生まれなかったかもしれない。

◎少年から青年へ

親子二代にわたった解放闘争も、息子アレックスの時代と較べて父ジェイムズの時代は、締めつけもまださほどきつくはなかった。白人長期政権確立にむけて、多数派黒人と白人との間に位置するカラード、インド人、それに少数の黒人エリート層との協調路線を推し進めていた1890年のセシルローズ政策のなごりが未だ残っていたからである。その政策の下で少年期を過したアレックスは、従って、アジア人や黒人と同地域に住み、毎日一緒に遊ぶことが出来た。当時のことを思い起こしながら、特に仲のよかった一人の黒人少年について、あるインタビューの中でラ・グーマは回想するー

私の家の真向いに住むダニエルという友だちのことを特に憶えています。ダニエルは黒人でしたが、当時は正式な形での人種隔離、つまりアパルトヘイトはありませんでしたから、労働者階層は黒人もカラードもインド人も同地域で一緒に住んでおりました。ダニエルは私とおない年の黒人少年で、二人は大の仲よしでした。ダニエルはすごく生きのいい陽気な奴でしたから、特に私のお気に入りで、ずいぶん一緒に遊んだものでした。しかしながら、そのうち居住区の人種隔離政策もだんだんと厳しくなって、ダニエルの家族もその地域から出て行かざるを得なくなりました。ダニエルの家族はケープタウンの郊外のランガというところへ移りました。それっきり、ダニエルとは長いこと会いませんでした。それからずっとあと、私が自活するようになって働きに出ていたある日、突然、再会することになりました。しかし、そのときのダニエルはもはや昔のダニエルではありませんでした。もういっぱしのチンピラで、刑務所にも行ったことがあり、これから先にバラ色の未来が開けているとは私にはどうしても思えませんでした。うまくやっていけない環境の犠牲になったかつての友人と再会したのは心動かされる痛ましい経験でした。

徐々に強化されるアパルトヘイト政策によって、仲よしの二人、カラード少年アレックスと黒人少年ダニエルは引き離された。(ダニエルは『夜の彷徨』の主人公青年マイケル・アドニスのモデルの一人である)。人種隔離政策は、様々な形で多感な少年の心に深い傷跡を残したが、前号のインタビュー記事にあった「サーカス」の一件もその一つである。諸々の差別を規定したアパルトヘイト法は「サーカス」にまで及び、黒人席に座っていたラ・グーマ少年は、白人と同じ料金を払いながら、演技者たちの背中ばかりを見るはめになった。しかし、その体験が、結果的にラ・グーマの心に「ある程度の政治的意識」を芽生えさせるきっかけになるのだが・・・・・・。それっきり、南アフリカでラ・グーマがサーカスに行くことはなかったが、亡命後のヨーロッパでサーカス見物に出かけた時のことに触れて「当時はじめて味わった人種差別の体験、その時の状況を、とても悲しい思いで振り返りました」とあるインタビューの中で答えている。(「サーカス」の経験は、のちに作品の中で少し顔を出す。『季節終わりの霧の中で』において、主人公ビュークが、あるお祭りに出かけた時に「少年の頃、叔母にサーカスに連れて行ってもらったことがあるよ」とほろ苦い思い出を友人に語りかける場面である)

 『夜の彷徨』(ナイジェリア版)

1932年、ラ・グーマはアパー・アッシュリ小学校に入学、ダニエル少年と遊んだのもその頃である。1938年には、トラファルガル・ハイスクールに入学。学業成績は特によくはなかったが、それは関心がもっぱら学校の外にあったからである。当時闘争拠点になっていたラ・グーマ家では、ヨーロッパで台頭し、その勢力を拡大して自由主義陣営を脅かしつつあったファシズムが話題の中心であった。当時まだ13歳であったにもかかわらず、アレックス少年はスペイン市民戦争の国際旅団への従軍を志願している。もっとも、13歳の少年の夢が実現することはなかったが。(最近NHK番組「1963年・スペイン」というのがあった。昨年10月に首都マドリッドで行なわれたスペイン内戦50周年記念集会の模様や、日本人国際義勇兵の話やら、なかなか興味深かった。クーデターを起こした軍部ファシズムに対抗し、自由を守れ、と子供心にラ・グーマも熱く燃えていたわけだ。「スペインでの出来事が家族の間や家でたびたび行なわれていた会合でよく話題にのぼりました。自分の性格の理想主義的な側面がその出来事から幾分か刺激を受けたのではないかと思います」とのちにラ・グーマは語っている。貨物船で函館からニューヨークに密入国し、某レストランで働いていたジャック・白井という日本人がひとり、アメリカリンカーン旅団の義勇兵として市民戦争に参加した史実と、南アフリカの片隅で、年端も行かぬラ・グーマ少年が志願をした、という史実に、なぜかしら感動を覚えた)

15歳、まだハイスクール在籍中に、第2次大戦が始まった。父親は、エチオピア、エジプトでケープ陸軍兵団員として従軍している。ラ・グーマは再び志願したが、今度はやせ細っていたために入隊を断られ、又も「戦争参加」は果たせなかった。しかし、戦争への関心は消えず、1942年に入学許可認定試験に合格すると、卒業を待たずに学校を離れ、職に就いた。結局、ケープ・テクニカル・カレッジは、のちに、働きながら修了することになる。

最初、ラ・グーマが働いたのはある倉庫で、梱包をしたり家具を運んだりの仕事であった。そのうち、一般労働者のより近くで働きたいとの願いもあって工場で働くことを決意、運よくケープタウンの「メタル・ボックス・カンパニー」で職を得る。約2時間、缶詰用の缶の製造などに携ったが、賃上げや労働条件改善を求めたストライキを先導した委員会の一員であったとの理由で解雇された。しばらく、ケープタウンの商店や石油会杜の帳薄係をやったのち、レポーターになる。「メタル・ボックス・カンパニー」で、はじめて解放闘争に関心を持つようになったラ・グーマは次第にストライキやデモなどの労働闘争に積極的に参加するようになった。1948年、アフリカーナの国民党が政権を握ってからはアパルトヘイト政策が強化され、反体制運動に対する弾圧はますます厳しくなって行った。この頃から、ラ・グーマは実質的に闘争家として、民族解放のための闘いの渦中に身を置くことになる。

2.作家として

◎闘いのさなかに

国民党が政権を取る前年、ラ・グーマは青年コミュニスト・リーグに参加、翌年南アフ刃力共産党に修り「第20区」のメンバーになった。1950年の「共産主義弾圧法」によって共産党がその活動を禁止され、弾圧された時、著名コミュニストのリストにラ・グーマの名も記載されていた。

1954年には、看護婦であり助産婦であったブランシ・ハーマンと結婚した。ブランシは、ケープタウンで名高いセイント・モニカ産院を卒業したあと、ケープタウンの貧民層のあいだで働いていた。厳しい現状に立ち向かいながら必死に働く日々のなかで、いつしか虐げられた人々の生活地位向上を願って、自ら積極的に政治活動に参加するようになっていた。ハイスクール以来会うことのなかったラ・グーマと再会したのは、そんな政治活動を通してである。ブランシによれば、ラ・グーマは「いつもロマンティストで、最初のデートでプロポーズをしてくれましだ」とのこと。ブランシはその場で結婚を承諾はしたが、同時に父親を説得しなければ、と覚悟を決めていた。札付きのコミュニストで定職もままならぬラ・グーマだが、きっと私を幸せにしてくれるんだと・・・・・・。幸い、父親の反対はなかった。ただ、教会で式を挙げるように、との条件が出された。無宗教を任じていたラ・グーマだが、この時ばかりは譲歩し、教会で2人は、無事結婚式を挙げるごとが出来た。そして1956年に長男ユージーンが、1959年には次男バーソロミューが生まれている。(長男は結婚してソ連に在住、次男は東ドイツで写真の勉強中、とのことである)

ブランシさんと(1992年に、ロンドン亡命中のブランシさんから)

1954年、ラ・グーマは新しく創設された南アフリカ・カラード人民機構 (SACPO)の執行委員会の一人となった。翌年には議長となり、「人民会議」へのSACPO代議長にも選出されている。「人民会議」は、1955年6月25日、ヨハネルブルグ郊外のクリップタウンで開かれ、アフリカ民族会議(ANC)、南アフリカ・インド人会議 (SAIC)、南アフリカ労働組合会議 (SACTU)、民主主義者会議 (COD)、それにラ・グーマの属するSACPOの5組織から3000人の代議員が出席した。会議では「われわれ南アフリカ人民は、つぎの事頂を確認するよう南アフリカ全土と世界に宣言する。

南アフリカは、黒人、白人を問わず、そこに住むすべての人びとにぞくし、どんな政府も、全人民の意志にもとづかないかぎり、その権威を正当に主張することはできない。」[野間寛二郎著『差別と反逆の原点』(理論社、1969) に全文訳がある] という言葉で始まる自由憲章が採択された。あらゆる人種が手を携えて集い合った事実は白人政府に脅威を与えた。人民会議は弾圧され、消える運命となったが、28年後の1983年には、統一民主戦線 (UDF)として甦り、あらゆる人種、階層の人々が参加、650組織200人以上の大規模な合法的反体制勢力に発展することになる。

ラ・グーマは、しかし、人民会議に出席できなかった。ラ・グーマに率いられた代表団の一行は、ケープ州ビューフォート・ウェストで警察に足止めされたからである。結局は会議に出るはずの週末をトラックの中で眠って過ごすことになった。もっとも、そんなことで代表団の闘争への情然が萎える筈もなかった。ラ・グーマは、足止めを食った人々の心境を代弁して「SACPOや他の組織のこれからの課題は、自由憲章をわが国のすみずみにまで浸透させ、現在解放闘争にかかわっていない人びとにも自由憲章に具体的に示された考えを知らせていくことである」という新たなる意を表明している。その後ただちに、人民会議を指導した人たちへの政府側の弾圧が開始された。SACPOの議長ラ・グーマの演説や.抗議運動も厳しい当局のチェックを受けるようになった。それでもラ・グーマは一斉検挙や禁止令や拘禁を強行しても解放闘争を止められはしない」と強調し続け、次々と出される差別法に対する攻撃の先頭に立った。中でも、1956年ケープタウン市当局がバスに於ける人種隔離法の決定を下した際には、当局を烈しく非難し、4月、5月にかけて、バスボイコット運動を指導した。その際には「ケープタウンの人民は、白人政府の人種的狂気に対して、いつでも全面的に反対闘争に入る準備があることを示したのである」という声明を発表している。そして同年のメーデーには次のような激しく挑戦的なメッセージをラ・グーマは贈っている。

この重大な日に、私は南アフリカのすべての労働者と虐げられた人びとに対して、民主的で明るく平和的な未来を願いながら、心よりのご挨拶を申し上げます。本年度のメーデーは、現支配階層と国民党圧制者達によるますますの弾圧により冒濱されています。警察のテロ行為や暴力行為もおびただしいものがあります。

「白人当局」と「クリスチャン市民」は、鞭やホースや機関銃をちらつかせながら誇らしげに行進しています、しかしながら一方では、自由憲章に新しいいのちを吹き込むために、アパルトヘイトやパス法、それに強制退去、国外追放や経済搾取に反対する虐げられた入びとの勇ましい闘いによって祝福を受け、このメーデーはまばゆいばかりに盛り上がっています。日に日に世界じゅうの虐げられた人びとの連帯は強くなっています。反帝国主義や平和や友交の輪がアフリカからアジアヘの広がりをみせています、そして植民地主義的奴隷制や戦争の光は急速に翳りを見せています。アパルトヘイトを打倒せよ。帝国主義と戦争を打ち崩せ! 新民主主義と平和と国際連帯に幸いあれ!

ラ・グーマが本格的に創作活動を始めたのは「ニュー・エイジ」からの誘いを受けたのがきっかけである。「ニュー.エイジ」は、既に廃刊に追いやられていた「ガーディアン」及び「アドヴァンス」の精神を継承した進歩的左翼系の週間新聞である。その目標には「良心、出版、言論、集会、運動の自由。民主主義と法律規定の復活。人種間、国家間の平和、すべての人間にとっての政治的、社会的、文化的な平等諸権利と膚の色、人種、信条による差別の撤廃」が掲げられていた。社主は、リベラルなイギリス系白人で、自分たちと同じ文化背景や知性を備えた購読者層にその目標に沿った訴えかけをしたいと願っていた。同時に、非白人社会での購読者を増やすねらいで、黒人社会で活躍できるスタッフを探してもいた。そして、白羽の矢が立ったのが、ラ・グーマである。ラ・グーマは、当時すでに、ケープカラードの杜会でかなりの影響力を持っていたし、同系の「ガーディアン」で既にその文才を示していたから、うってつけの人物であったわけである。「『ニュー・エイジ』からの仕事の誘いを受けた時、あれが本格的に私が書き始めた最初です。必然的に、私は机に向かって、短篇を書いたんだ、と今思います」と当時のことをラ・グーマは振り返っている。闘いのさなかに、こうして作家ラ・グーマが誕生した。こののち、闘争家として、作家として、精力的に解放闘争に、創作活動に活躍することになる。(6月17日)

「ニュー・エイジ」で担当したコラム欄 “Up My Alley"

(1988年にUCLAの図書館でお目にかかった新聞の現物)

執筆年

1987年

収録・公開

「ゴンドワナ」8号22-26ペイジ

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アレックス・ラ・グーマ 人と作品1 闘争家として、作家として

1976~89年の執筆物

概要

南アフリカの作家アレックス・ラ・グーマへのインタビューの日本語訳で、インタビューは、コートジボワール人学者リチャード・サミン氏が1976年にタンザニアのダルエスサラーム大学に滞在中のラ・グーマに行なったものです。

本文(写真作業中)

《アレックス・ラ・グーマヘのインタビュー》

 

時 1976年1月16日、27日

所 ダルエスサラーム大学(タンザニア)
玉田吉行 訳
—-南アフリカで政治的なかかわりを持つようになったきっかけについて、少しお話ししていただけませんか。
ラ・グーマ 両親が政治とかかわっていました。父は労働組合員でしたし、1924年に入党した共産党員でした。(注1) 7歳の時、母があるサーカスに連れて行ってくれました。母に、ピエロはどうしてこちらに背中ばかり向けて演技をするのか 、と尋ねました。それは、ピエロが白人観衆のためにだけ演技しているからよ、とのことでした。このことによって、ある程度の政治的意識が私の心の中に芽生えました。

—-南アフリカについてのあなたの展望はどんなものですか。

ラ・グーマ 私は南アフリカをひとつの統合民主国家、ひとつの民主主義国家だと考えています。従って、すべての人びとが、実際に融合してひとつの南アフリカになることです。

—-自伝『2番通り』(注2) の中で、E.ムファレレ (注3) は「文学的素材として南アフリカの状況が如何に月並みなテーマにしかならないかが今わかりました」(注4) と書いています。その意見にどの程度賛同されますか。

ラ・グーマ ムファレレと全く意見が同じというわけではありません。南アフリカは人種的偏見、民族主義、階級闘争などすべての矛盾が存在する国です。作家にとって南アフリカは一つの宝庫なのです。

—-南アフリカで書かれた小説について話していただけませんか。それらの小説はどんな状況の下で書かれたのですか。

ラ・グーマ 1960年に『夜の彷徨』(注5) を書きました。私は、官憲の手に葬られたある少年の短かい新聞記事をすでに読んでいました。そののち刑務所で数ケ月過ごしました。妻の協力を得て、どうにかその小説を書き上げました。一九六一年に釈放されたあと、ウーリ・バイア (注6) に会いました、その時、私の短篇を読んだことがあると知りました。当時、作家活動を禁じられていましたし、私の書いたものを引用すれば罰せられることになっていました。そこで、その原稿をウーリ・バイアーに渡したのです。(注7) それは1962年にナイジェリアで出版されました。1962年には『三根 (みこ)の縄』(注8) に取りかかりました。その原稿はベルリンのセブン・シィーズ出版社に郵便で送りました。その本は一九六四年に出版されました。『石の国』(注9) は拘留中の自らの個人的な経験を語っています。その作品は1964年と65年にかけて書きました。そうしている間に私は南アフリカを離れました。『季節終わりの霧の中で』(注10) は1967年にロンドンで執筆し、出版されました。

—-『夜の彷徨』の舞台設定には何か特別重要な意味合いがあるのですか。

ラ・グーマ まず何より、「第六区」はよく知っている場所だということです。私はそこで生まれ、そこで暮らしました。しかし、同時に閉所恐怖を暗示し、抑圧的な雰囲気を醸し出したいとも考えました。

—-『夜の彷徨』は多少悲劇仕立てだと言えば賛成して下さいますか。

ラ・グーマ ええ、執筆する際に、そういう考えは心の中にありました。その物語は徐々に最高頂に達して劇的な緊張感を生み出します。

—-あなたの小説、ことに『夜の彷徨』と『季節終わりの霧の中で』では、登場人物がよく場所を変えて動きます。そこにはどんな意図があるのですか。

ラ・グーマ 私はただ南アフリカの人々の経験を語りたいのです。選択の余地はありません。人は自らの労働力を切り売りすることを余儀なくされます。アフリカ人は決してひとところに落ち着くことは出来ません。その場面で他の人物を紹介し、隠された、最下層の南アフリカの姿を示すのもひとつの文学上の手法なのです。細かな部分では自伝的なところもあります。

—-現に南アフリカに存在する社会的状況が、あなたの選ぶ文学上の形態と何か関連がありますか。

ラ・グーマ たとえば、小説『夜の彷徨』では、「第6区」のイメージ、「第六区」の雰囲気を創り出すことに努めました。そこで、その目的のために言葉を選び、文章を組み立てました。

—-あなたの使う隠喩的表現には、人間的なものを非人間的なものに同化してしまう傾向があります。ただの叙述的描写のためですか、それとも何か特別な意味を表すためにそうしているのですか。

ラ・グーマ 私の場合、小説の中では、人間らしさを失なった白人を扱っています。ただし、個人的に非人間的な感情はありません。私はまた、肉体的にも、精神的にも疎外の問題を取り扱っています。

—-文学上の技法として象徴的表現をどうお考えですか。

ラ・グーマ 読者が正しく解釈する力を備えている場合には、象徴的表現に私は反対です。私の小説では、写実的表現と平明な象徴的表現が組み合わさっています。

—-小説を書く何か特別な方法を編み出されましたか。

ラ・グーマ いえ、特別には。私には決まった予定表といったものはありません。ある考えを広げていき、頭の中でそのプランを立てる、それから書き始めます。ただそのうちのいくらかを書くだけです。また、その考えをおし広げて、もう一度書きます。草稿は一本しか書きません。草稿を終えると手を加えます。組み立てについては、書く作業をしている間じゅう、変わることはありません。

—-あなたの場合、亡命したことが、書くことにどれほど影響を及ぼしていますか。

ラ・グーマ 亡命したから変わったということは全くありません。見るものごとは変わるかもしれません、でも、主だったところは当然付随的についてくるものです。南アフリカのほかでも、書こうと思えば何についてでも、私は書くことが出来ます。

—-どんな形であれ、いままでに、ある特別な作家、もしくはある特別な文学的伝統の影響を受けたことがありますか。南アフリカのアフリカ文学に感化を受けたことはありますか。

ラ・グーマ ええ、私の受けた文学教育はかなり伝統的なものです。ドストエフスキー、ゴーリキー、スタインベック、それにディケンズを読みました。私が思うのは、人は社会的状況によっていやおうなしに新しい特徴を見い出すということです。比喩的表現の技法とか比喩的表現の内容とか、小説の場面の設定とか。アフリカ文学の中にはいくらか読んだものもありますが、影響を受けたとは言えません。その上、南アフリカには、アフリカ文学のほかにイギリス文学もあるのです。

—-最初の小説を書かれた時、南アフリカで出版出来ると考えられましたか。特にどんな読者層のために書かれたのですか。

ラ・グーマ 私はその本が書きたかったから書いたのです。そして南アフリカで出版されたらと願いました。ケイプ・タイムズ紙 (注11) はその書評を書きました。それから発禁処分となったのです。私は主に南アフリカの人たちのために書いていますが、同時に英語を使っている人々のためにも書いています。

—-南アフリカには短篇小説が多いのですが、それをどう説明されますか。

ラ・グーマ 他より短篇小説の方が、烈しさの度合いは強く、それが今の南アフリカの状況により適っています。南アフリカではまず何より執ように事態を批判する必要性があります。次に出版の問題があります。つまり、短篇なら出せる雑誌がたくさんあるのです。

—-ロシアの批評家ルナチャールスキー (注12) は「芸術の神髄は、特殊的、一時的なものを、普遍的、恒常的なものにかえることであり、出来得る限り広範な読者の心に感化を与えることである」と言っています。あなたに関して言えば、南アフリカの現状ではその目的は妨げられてはいませんか。

ラ・グーマ 芸術性のゆえにそんなことはありません。芸術性によってものごとは普遍的になります。
—-再びムファレレを引用しますが、南アフリカの創作について「人間を人間として考え政治環境の犠牲者としては考えない時など、ほとんど一瞬たりともない」(注13) といっています。その意見にどの程度賛成されますか。

ラ・グーマ 問題なのは人びとの威厳であり、作家は人びとを人びととして描かなければなりません。私は、小説の中では、特殊な社会背景の中での平均的な経験や人間の反応を書き表そうと努めました。洋の東西を問わず、作家は常に人間を取り扱います。要は何を優先させるかの問題だと思います。

—-それでは、小説の中で表現しようとされている価値とは一体どんなものなのですか。

ラ・グーマ できる限りもったいぶらずに人びとの威厳、基本的な人間精神を表現したいと思っています。宣伝やうたい文句は避けねばなりません。私も政治的なかかわりはあります。作家活動でも政治活動でも、人の威厳を擁護してはいますが、二つは違った活動なのです。

—-批評家ドドスン (注14) は「アフリカン・スタディーズ・レビュー」(注15) (1974年9月) の中で「ある南アフリカの文学作品の写実的表現には人びとや社会環境と政治機構との因果関係を辿ろうとする試みが見られない」と言っています。その意見に賛成されますか。あなたにとって写実的表現とはどんな意味を持っていますか。

ラ・グーマ 自らの観点を投影する流儀を自分で選ぶ創作においては、作家は好きならどんな手段でも選びます。私にとって写実的表現とは単なる現在の投影ではないのです。その進展状況の中で写実的表現を見るべきです、写実的表現には原動力が含まれています、活力や様々な直接的反応とつながりがあります。写実的表現によって読者に真実を確信させ、何かが起こり得ることをほのめかす必要性があります。そめ目的は読者の心を動かすことなのです。

—-小説は人びとに影響を与えたり、自分たちの現状について考えさせたりすべきだというのは、はっきりしていると思います。あなたの小説は南アフリカ内では読めず、南アフリカ外の人びとだけが読めるわけですが、その事実に満足しておられますか。

ラ・グーマ いえ、決して満足してはいません。中には本来の役目を果たしている作品もありますが、そのことはほとんど慰めにはなりません。

—-多くの批評家はあなたが楽天家だと言っています。それは当たっていますか。

ラ・グーマ そうです。私は楽天家ですよ。「なぜ」ですか。それは私に歴史がわかっているからだと思います。心の中には冒険心があります。その上、ユーモアの感覚があります。そして、今の南アフリカの状況を恒常的な特質だと、私は考えていないのです。

 

 

この記事は、フランスのソルボンヌ大学が発行している AFRICAN NEWS LETTER (仏文) 24号 (1987年1月) 8~14ペイジの “Interviews de Alex La Guma" (英文)を、同大教授主幹ミシェール・ファーブル(Michel Fabre) さんとインタビュー者、コートジボアールのアビジャン大学教授リチャード・サミン (Richard Samin) 氏の諒解を得て翻訳したものです。本年3月27日付けのサミン氏からの手紙によると、この記事は1976年1月16日と27日にタンザニアのダルエスサラーム大学で行なった2回のインタビュー記事をサミン氏が合成したものである。同年1月から2月まで当大学の客員作家にむかえられていたラ・グーマは、文学部主催のアフリカ文学国際会議で “African Literature and the Materialist Conception of the Arts" と “Literature and the Anti-Imperialist Struggle" の両論文を発表している。内容はアジア・アフリカ作家会議の「ロータス」誌 (Lotus) とアフリカ民族会議 (ANC) の「セチャバ」誌 (Sechaba) に発表された論文と同趣旨のものであったとのことである。更に、ラ・グーマの個人的印象については、筋金入りの活動家という評とは違い、非常に物腰が軟かく、ユーモアの感覚に富み、絶えず冗談をとばしたり、微笑みを絶やさなかったとのこと。サミン氏の研究にも好意的で、ロンドンでの研究・調査に際しては、いつでも快よく会見の要請に応じてくれたから、それだけよけいに、1985年10月12日、訃報に接したときの悲しみは大きかった、と綴られている。アパルトヘイトと闘い続け、夢半ば、異郷の地で果てたアレックス・ラ・グーマヘの追悼の意をこめ、このインタビューの記事を翻訳したが、作者紹介の、或いは作者研究の一助になれば、と願っています。

 

 

《紹介》

アレックス・ラ・グーマ (Alex La Guma) 南アフリカ、ケープタウン生まれのカラード作家。ケープ・テクニカル・カレッジ修了後、アパルトヘイト反対闘争を指導、何度か投獄、自宅拘禁を体験ののち、1966年ロンドンに亡命。アジア・アフリカ作家会議事務総長などを務める。1969年には同作家会議のロータス賞に選ばれ、翌70年のインド、ニュー・デリーでの第4回大会で受賞。1976年ダルエスサラーム大学の客員作家としてむかえられる。(滞在は1月からだが、2月には 、心臓病のためロンドンに戻っている。1978 年、アフリカ民族会議(ANC)カリブ代表としてキューバのハバナに赴任。1981年には来日、川崎市での「アジア・アフリカ・ラテンアメリカ文化会議」などに出席。1985年10月11日夕刻、心臓発作のため、ハバナにて死去。なお、邦訳については、本文中の『夜の彷徨』(注4参照)のほか、短篇小説「コーヒーと旅」(“Coffee for the Road")〔土屋哲訳『現代アフリカ文学短編集「』(鷹書房、1977年)〕、荒木のり訳「タシュケントヘもう一度」(“Come back to Tachkent" 1970) (「新日本文学」1971年3月号)、石井碩行訳評論「アパルトヘイト下の南アフリカ文学」(“South African Writing under Apartheid",1975) (「新日本文学」一九七七年四月号)がある。

 

《参考》

アパルトヘイト
1948年オランダ系白人を中心とする国民党が政権をとって以来、南アフリカ共和国が採用している人種隔離政策。異人種間のあらゆる結婚を禁じた「雑婚禁止法」、ヨーロッパ人と非ヨーロッパ人とのあらゆる肉体交渉を禁じた「背徳法」、全住民が白人、黒人(アフリカ人)、有色人種(カラード、アジア系)に区分されて登録される「住民登録法」、特に都市とその周辺地域で、白人、黒人、有色人種の個々の居住区を設定し、混在して住むことを禁じた「集団地域法」などを法制化し、南アフリカ政府は白人優位を維持してきたが、国際世論をかわし、5倍の人口の黒人に完全な市民権を与えないための方法として、ホームランド政策をとっている。その政策は、南ア黒人を民族別に十ケ所の地域(ホームランド)に押し込め、その地域を独立国とみなし、南ア国内に住む黒人はすべて、いずれかのホームランドから出稼ぎに来ている外国人として扱うことによって、黒人住民から南ア国籍を奪っている。そして、低賃金で雇える外国人出稼ぎ労働者を確保することによって最大限の経済利潤をあげようとするアパルトヘイト体制の主柱をなしている。なお、ホームランドは国際社会では、独立国として承認されていない。これらの人種差別制度の手続き法的なパス法では、16歳以上の黒人は身分証(パス)の携帯を義務づけれ、パスを持たずに白人地域に立ち入ることは許されないし、パスがあっても、特別な雇用契約がない限り72時間以上、白人地域にはとどまれないことになっていた。現ボタ政権は、84年9月には、カラードとインド系には参政権を認め、白人、カラード、インド系からなる3人種別の2院制議会を誕生させたり、85年4月には雑婚禁止法と背徳法を撤廃したり、86年4月にはパス法廃止宣言を出したりするなど、一連の対黒人融和策を打ち出してきたが、一方では85年10月18日の詩人モロイセ氏の処刑強行や非常事態宣言などの「力」による制圧姿勢を強めており、多数派の黒人には、未だ参政権も与えていない。それは、昨年来日したデズモンド・ツツ主教(現大主教)が「アパルトヘイトと闘う」と題した講演の中で「私はノーベル平和賞を受賞しました。私は55歳です。私は母国において投票権を持っておりません」と語ったとおりである。(ツツ師は8月6日に広島で「86平和サミット基調講演」を、7日には東京日比谷公園大音楽堂でその講演を行なっている。講演要旨は「朝日ジャーナル」誌9月5日号に収録され、そのもようが10月12日深夜に「"名誉白人〃に問う・南アツツ主教は訴える」と題して日本テレビ系で放映された。
現在、反対制の非合法組織アフリカ民族会議 (ANC)、統一民主戦線 (UDF) などを中心に、アパルトヘイト打破をめざす解放闘争が続けられている。本年4月20日にはANC現議長オリバー・タンボ氏が来日、中曽根首相、倉成外相と会談した。同24日には、大阪の四天王寺学園で約1000名の聴衆を前にして「アパルトヘイト撤廃のために、日本が経済制裁を強化するよう、それぞれ応援していただきたい」と訴えた。UDFの提唱者アラン・ブーサック牧師が教会団体などの招待で来日、8月には外務省の招待で再来日の予定である。南ア問題について、新聞では、断固とした経済制裁の必要性を説く坂本義和氏(ツツ主教歓迎委員会代表)の「南ア問題と『国際日本』」(朝日新聞1986年8月1日夕刊)、本では、ツツ師の『南アフリカに自由を』(桃井・近藤訳、サイマル出版会、1983年)、ブーサック師の『アパルトヘイトに抗して』(君島訳日本基督教団出版局、1986年)、楠原彰『アフリカの飢えとアパルトヘイト-私たちにとってのアフリカ』(亜紀書房、1985年)、篠田豊『アパルトヘイト、なぜ? -南アの実情、歴史、そして私たち-』(岩波ブックレット no.51、1985年)、伊高浩昭『南アフリカの内側-崩れゆくアパルトヘイト-』(サイマル出版会、1985年)、英連邦賢人調査団『アパルトヘイト白書-英連邦調査団報告-』(笹生ほか訳現代企画室、1987年)などがある。又、アフリカ行動委員会編パンフレット『アパルトヘイトとニッポン』(1986年) や国連からもパンフレット『南アフリカの政治学』(国際連合広報センター、1986年)など多数のアパルトヘイト関係の資料が提出されている。テレビ番組では、昨年7月14日のNHK特集「南アフリカで今何が起きているか-非常事態宣言一カ月泥沼の人種対立」と、本年3月25日のNHK海外秀作ドキュメンタリー「メイドとマダム・アパルトヘイトの断面」(1986年イタリア賞特別賞受賞) が、最近の南アの緊迫した情況を伝えている。

 

《訳注》

(1) 父ジェイムズ・ラ・グーマ (James La Guma, 1894-1961) は、精力的な活動家で 、1950年に共産党が禁止された時には中央委員会の一員であった。家には活動家の出入りが激しく、多忙であったが、子供の教育への配慮も怠らず、息子アレッ クスに、政治的、文学的に少なからず影響を及ぼした。アレックス自身、1947年に青年コミュニスト・リーグに参加、翌年南アフリカ共産党に移っている。1950年の党禁止の際には、その名が著名コミュニストの名簿に記載されていた。

(2) 原題は Down Second Avenue (London:Fabre,1959; Berlin:Seven Seas,1962; New York:Doubleday,1971)で、貫名美隆氏の邦訳『わが苦悩の町2番通り-アパルトヘイト下の魂の記録』(理論社、1965年)がある。邦訳副題が示す通り、きびしい人種隔離政策をしく南アフリカ共和国の首都プレトリアの一画に設けられたアフリカ人指定居住地区「二番通り」で過ごした幼少期から、一九五七年にナイジェリアに亡命したのち、あとがきを書くまでの著者自身の「魂の記録」が綴られている。

(3) エゼキエル・ムファレレ (Ezekiel Mphahlele,1919) 南アフリカ、マラバスタド出身の黒人作家。高校教員の時、バンツー教育法反対闘争を指導、52年に解雇、教職追放処分を受ける。一時「ドラム」誌の編集を担当、56年に南アフリカ大学で修士号を取得、57年にナイジェリアに亡命、「黒いオルフェ」誌を編集。ナイロビ、パリを経て、70年渡米、大学で教鞭をとる。78年祖国に戻り、現在ヨハネスブルグのヴィットヴァータースラント大学教授。著書には、既出の自伝のほか 、『流浪者たち』(The Wanderers, New York: Macmillan,1971; London: Macmillan,1972) などがある。

(4) 終章「おしまいに」(“EPILOGUE")からの引用。1957年9月にナイジェリアの首都ラゴスに着き、学校の仕事のめどがついたあと、この自伝の後半を仕上げながら、著者がナイジェリアと南アフリカを比較して述懐したところ。

(5) 原題は A Walk in the Night (Ibadan,Nigeria: Mbari Publications,1962; rept.London: Heinemann and Evanston, Illinois: Northwestern University Press, 1967 as A Walk in the Night and Other Stories)で、酒井格氏の邦訳が『全集現代世界文学の発見9 第三世界からの証言』(学藝書林、1970年)の中に収められている。ケープタウン、のスラム街「第六区」で職を解雇されたばかりのカラード青年主人公マイケル・アドニスが過ごす夜の数時間を通して、アパルトヘイト下のカラード社会の実情が克明に描かれている。

(6)ウーリー・バイアー (Ulli Beier,1922-) ドイツの作家。編著『黒いオルフェ』〔Black Orpheus; an anthology of new African and Afro-American stories (London: Longman, 1964)〕、編著『アフリカ文学の紹介』〔Introduction to African literature; an anthology of critical writing from Black Orpheus (Evanston: Northwestern University press,1967)〕、著書『ナイジェリアの芸術』〔Art in Nigeria (Cambridge: University Press,1960)〕など、多数の編著書がある。

(7) 自宅拘禁中のラ・グーマが、どのようにして首尾よく当局の手を逃れたのかについて、亡命詩人デニス・ブルータスが「アパルトヘイトに対する抗議」と題する文章の中で次のように記しているのは興味深い。「私は最近アレックス・ラ・グーマ夫人に会ったことがある。夫人の話によるとアレックス・ラ・グーマは自宅拘禁中も小説を書いていた。彼は原稿を書き終えると、いつもそれをリノリュームの下に隠したので、もし仕事中に特捜局員か国際警察の手入れを受けても、タイプライターにかかっている原稿用紙一枚しか発見されず、その他の原稿はどうしても見つからなかったのである」(コズモ・ピーターサ、ドナルド・マンロ編、小林信次郎訳『アフリカ文学の世界』南雲堂、1975年、191~192ペイジ)

(8) 原題は And a Threefold Cord  (Berlin: Seven Seas,1964) で、『夜の彷徨』と同じく、カラード青年主人公チャーリー・ポールズと両親、弟妹、叔父、好意を寄せる未亡人フリーダなどの日常生活を通じて、アパルトヘイト体制下に呻吟する惨めなカラード社会の実態が綴られている。

(9)原題は The Stone Country  (Berlin: Seven Seas,1967) で、「政治犯」として投獄されたカラード青年ジョージ・アダムズが体験する獄中記。食事から一般的取扱いに至るまでアパルトヘイト体制のしみこんだ牢獄は、社会の生んだ「政治犯」も「殺人犯」もかかえこむ、まさに色のない「石の国」、ラ・グーマ自身の獄中体験をもとに、ラ・グーマの観点から、リアルに描かれている。

(10) 原題は In the Fog of the Seasons’ End  (London: Heinemann,1972; New York: Third Press,1973) で、カラード青年主人公ビュークスの地下活動を通じて、南アフリカのアパルトヘイト反対闘争が急速に進展していることを示唆している。小説は、1976年に殺された親友活動家バジィル・フェブルュアリと他の戦士たちに献じられている。

(11) 南アフリカ、ケープタウン発行の英字経済新聞。日刊、1986年創刊。

(12) ルナチャールスキー (Anatolii Vasilievich Lunachar’skii,1875-1933) ソ連邦の文芸批評家、劇作家、政治家。1917年の10月革命後、初代教育人民委員に選ばれ、モスクワ大学文学芸術部教授、初代スペイン公使などを歴任、南フランスで死去。ソ連邦の教育、社会主義文化発展のために大きな役割を演じた。文学史、芸術史の研究者としても活躍、ロシアの文学、音楽、演劇についての多くの論文、美学についての著作などがある。

(13) 自伝第23草「ナイジェリアヘの切符」 (“TICKET TO NIGERIA") からの引用 。パスポート、切符を手にしてナイジェリアに発つ直前に、多くの友人が出国を思いとどまらせようとした。教えたくても教えられず、書きたくても書けないと嘆くムファレレに「きみのほしい材料はすっかりここにある。だから刺激にはこと欠かない」と反論した友人にむかって「それが困るのだ、麻ひさせる刺激なんだ、ここのは、いつも動いていないとしびれてしまうのだ。何でもかんでも毒舌のかぎりに 、激烈に書きつづけなければいけないんだ」と答えた文章に続くくだり。

(14) ドドスン (Don Dodson) 同誌7巻2号 (1974年9月) の著者紹介によると、ドドスン氏は、米スタンフォード大学の Acting Assistant Professor of Communication でアフリカのマスメディアと大衆文化の専門家。論文 “The Role of the Publisher in Onitsha Market Literature." in Research in African Literature (Fall 1973) が紹介されている。

(15)「アフリカン・スタディーズ・レビュー」(The African Studies Review) はアフリカ研究会 (The African Studies Association) の機関誌で、現在は、季刊で本部がカリフォルニア大学ロサンゼルス校に置かれている。経済、歴史関係の論文も多く、書評には定評がある。

4月29日           (大阪工業大学嘱託講師)

執筆年

1987年

収録・公開

(翻訳)、「ゴンドワナ」7号19-24ペイジ

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アレックス・ラ・グーマ氏追悼-アパルトヘイトと勇敢に闘った先人に捧ぐ-

1976~89年の執筆物

概要

(概要作成中)

本文(作業中)

第八章●リチャード・ライトとアフリカ
玉田吉行

『箱船、21世紀に向けて』 門土社 (1987) 147-170ペイジ。

(1)抗議を超えて
一九四〇年代の後半から五〇年代にかけてパリに住み、ヨーロッパ各地を回りながら、アフリカはアフリカ人自身のものであり、理不尽な富の強奪によって繁栄を続けてきた西洋杜会は今こそその責任を負うべきであると声高に叫んだアメリカ人がいる。ミシシッピー出身の黒人作家リチャード・ライト(一九〇八~一九六〇年)である。
ライトは『アメリカの息子』(一九四〇年)で一躍、国際的にも知られるようになった。シカゴのゲットーに住む黒人青年ビガー・トーマスによる白人娘メアリーの殺害事件を通して人種の問題をはらむアメリカ社会の矛盾をみごとに描き出し、「アメリカの息子」ビガーを生み出した白人社会の責任を鋭く問いただしたからである。ライトはすでに、アメリカ南部を舞台に、もはやアンクル・トムではない新しい世代を描いた短篇集『アンクル・トムの子どもたち』(一九三八年)によって新進作家として注目されていたが、『アメリカの息子』で人種の問題に対する抗議派を代表する作家としての評価を強めた。
以来、現在もなお、その評価が大勢である。
しかし、ライトとアフリカを語るとき、一つの事実を見逃すわけにはいかない。それは『アメリカ

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の息子』を出版したあたりから、ライトがすでに人種の問題を一歩踏み越えたテーマの広がりを意識し始めていた事実である。例えば、写真家エドウィン・ロスカムとの共作、黒人民衆史『千二百万の黒人の声』(一九四一年)の中では、アフリカから無理やり連れて来られて、苦難の歴史を強いられはしたが、それでもなお生き永らえてきた同胞への愛着を示しながら、ライトは次のように述べている。

私たち黒人は、生まれ故郷のアフリカから、かつてなかったほど最も複雑に、高度に工業化された文明の真只中にほうり出されはしたが、今までほとんど何びとも持ち得なかったような記憶や意識をもって、今日しっかりと立っている。

そこには三百年以上のあいだ抑圧され、虐げられ続けてきた過去の黒人体験を逆手にとって、むしろ有利な地点として捉えようとする姿勢がうかがえる。
一九四一年の暮れには、のちに「地下にひそむ男」のタイトルで公にした作品の草稿を書き上げたあと、出版代理人ポール・レノルヅに「自分がまともに黒人・白人の問題を越えて、一歩踏み出したのは初めてのことです」と言明する手紙を送っている。事実、加筆して一九四四年に発表した作品では、人間の盲目性を突いた鋭い視点から、人間の本質的な問題に迫ることに成功している。
その視点から、ライトは自伝を書いた。その中に、一九四一年、メキシコ旅行の帰途、故郷に立ち寄り、幼い頃に自分と家族を捨てた父親との再会を果たすくだりがある。年老いた無学の父親を前にして、再会までの四半世紀の歳月によって二人があまりにも隔てられてしまった現実をかみしめなが

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ら、ライトは次のように語る。

自分を操る白人地主達から、父は忠節とか情操とか伝統とかいったものの意味合いを知る機会を一度だって与えられることはなかった。父には諦めと同様に喜びもまったく無縁のものであった。
父は土に這う生物として、恨みとか望みもなく、ただ元気に、体ごと、見かけは決して壊れることがない様子で、生き永らえてきただけなのである。……私は父を許し、哀れに思った。

そう語ることのできたライトには、ジム・クロウ体制下で苦難を強いた時代と社会に対する憤りや、家族を捨てた父親への恨みはない。むしろ、社会と個人の関係を正当に把握し、過去の体験を未来の糧に転じようとする姿勢がある。一九四七年にライトは家族とともにパリに移り住んだが、その時点ですでに、抑圧の問題を、人種の問題という枠を越えたもっと大きな視点から捉えようとしていたのである。インドの首相パンディット・ネルーに送った一九五〇年十月九日付けの次の書簡の中にも、その姿勢をかいま見ることができる。

現代社会の歴史的な発達のみならず、世界の変容する物質的な構造によって、世界のあらゆる民族は、主体性や利益についての共通の意識を持つことを迫られています。世界中の抑圧された情況は普遍的に同じであり、その連帯は、抑圧に反対するときだけではなく、人類の発展のために闘う際にも重要なのです。

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それらの視点や姿勢を持ち合わせていたライトは、舞台をフランスに移したとき、当然のごとく、抑圧に苦しむ「アフリカ」に急速に近づいていくことになる.

(2)アフリ力意識
パリに移り住むまでアフリ力との直接の接触はなかったが、当初からライトがアフリカに対して正当な理解を示していた事実は注目に値しよう。西洋諸国は、西洋人が行く以前のアフリカは、文化も持たない野蛮な〈暗黒の大陸〉だったというイメージを捏造して自らの正当性を王張するのに余念がなかったが、ライトは決してそのような〈負〉のイメージに惑わされてはいなかった。むしろ、ヨーロッパ人が踏み入を以前から、アフリ力にはすでに固有のすぐれた文化や伝統が存在していたことを再三指摘している。例えば、ある論文では「黒入は(今日ちょうどメキシコインディアンがそうであるように)この異郷の岸辺に連れてこられたときには、豊かで複雑な文化を所有していた」と記している。あるいは、新大陸に連れてこられたアフリカ人について、前述の『千二百万の黒人の声』の中では次のように述べている。

捕えられ、この地に送り込まれる前から、アフリカにはアフリカ人自身の文明があった。私たちがアフリカで暮らしていた生活の様式を文明と呼べば、きっと微笑まれてしまうだろうが、いろんな点で大勢のアフリカ人を捕えた人達がやって来た国の文化と同等であった。私たちは鉄を製錬し、踊り、音楽を作り、民族の歌を唄った……私たちは交易の手段を発明し、金や銀を掘り、陶器や刃

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物を造った……私たちには文学も、独特の法のしくみも、宗教も、医術も、科学も、教育もあった……牛や羊や山羊を飼い、穀物を植えて取り入れを行なったーつまり、ローマ人が君臨するようになる何世紀も前から、私たちは人間として暮らしていたのである。

しかし、子孫のアフロ・アメリカ人の文化の中に、祖先のアフリカ人の文化のなごりを認めはするものの、歳月によって両者があまりにも隔てられてしまった現実をライトは明確に認識している。例えば、『アメリカの飢え』の中で示された、一九三〇年代にシカゴで接触のあったマーカス・ガーヴーイを信奉する運動家たちに対する反応は、そのあたりの事情を端的に物語っている。

このように模索を続ける日々の中で出合い、その生活に魅せられた一つのグループはガーヴーイ主義者たちで、寄るべくもなくアフリカに帰りたがっていた黒人男女の組織だった……私にはその人たちの気持ちが理解できた、というのも、感じ方が一部同じだったからである……私が好感を持ちながら、その運動に加わらない理由がその人たちには分からないのを私は充分承知していたから、あまりにも哀れに思えて、決して目標が達成できはしないこと、アフリカがヨーロッパの帝国主義列強の手になっていること、その人たちの生活がアフリカ人の生活とまったく違っていること、さらにその人たちはあくまで西洋人なのであり、西洋に溶け込むか、滅びてしまうかするまでは永遠に西洋人であり続けることを、とても口に出して言う気にはなれなかった。

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もっとも、ライト自身、のちにアフリカの地に立ったとき、アフリカ人たちの烈しい拒絶反応に合い、膚のの色が同じことや、アフリカが祖国であることが、自分とアフリカ人をつなぐ何の手立てにもならない現実を思い知らされて、戸惑うはめに陥いるのではあるが。

(3)アフリカヘ
パリでライトが最初に接したアフリカ人は、一九四六年の渡仏に協力をしてくれたセネガル人レオポルド・サンゴールである。すぐあとには、ザンゴールを通じてマルティニックの黒人詩人エメ・セゼールに紹介されるが、ネグリチュード運動の唱道者である二人とは、当初からそりが合わなかった。幼少時に厳しい宗教教育を強いた祖母への反発から、宗教によって個人の自由を奪われることを忌み嫌ったライトは、カトリックの見地に立つサンゴールと相容れなかった。また、アメリカですでに脱党の経験を持つライトは、当時自分や交友のあった実存主義者たちを烈しく批難していたフランス共産党に所属するセゼールを信用してはいなかった。しかし、なにより二人に反発したのは、「見失われたアフリカの再発見」というスローガンを掲げたネグリチュードの運動が、現実には親西欧的で、植民地主義に極めて妥協的であったからである。したがってライトは、ネグリチュード運動に批判的だった、英語を媒体として活動する作家たちとの交わりを通じてアフリカを考え、アフリカに接近していった。
親交のあった一人に、南アフリカの作家ピーター・エイブラハムズがいる。「西洋と接するようになってから、西洋で通り抜けてきたあらゆる思考過程の中によりも、私がともに育ったアフリカ人たち

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の中に、何かもっと力強く、精力的で、創造的なものが存在すると、改めて確信するようになりました」と語るエイブラハムズにライトは共感するところが多く、作品の原稿を読む労を取ったり、アメリカの出版社にいる友人に草稿を送って出版の便宜をはかったりして、アパルトヘイトと闘う若きアフリカ作家への援助を惜しまなかった。
なかでも、最も親交が深く、多大の感化を受けたのは、トリニダード出身のパン・アフリカニスト、ジョージ・パドモア(一九〇二~一九五九年)である。パドモアは、サンゴールなどのネグリチュード運動家たちを「西洋人以上に西洋人になりさがってしまった黒人知識人ども」と酷評し、「腐った政策しか持たないカフェに入りびたりのインテリたちから決して何も期待できはしない」と決めつけた。早くからパドモアは、アフリカはアフリカ人自身のものであり、アフリカの統一こそが真の解放の道だと説いていたが、ガーナの独立に際しては、エンクルマに闘争の戦略を授け、独立後もよき協力者としてエンクルマを助け続けた。
ライトの永年のアフリカへの夢が実現したのは、このパドモアの勧めと尽力による。一九五三年の復活祭の夜にライト夫妻を訪れたパドモアの妻ドロシィーの強い勧めと、ライトの企画に暖かい助言を与え、ハーバー社からの資金援助をとりつけてくれた友人レノルヅの協力によって、ライトは初めてアフリカの地を踏むことになる。

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(4)『ブラック・パワー』
(イ)イギリス領ゴールド・コースト
一九五三年六月四日の朝、ライトはアフリカに向けてリバプールを発った。目的地は一九五七年三月六日に独立を果たしたイギリス連邦ガーナ(現ガーナ共和国)、当時のイギリス領ゴールド・コーストである.結果的には、これがライトにとっての最初で最後のアフリカ紀行となるのだが、約三か月にわたる紀行は、翌一九五四年九月二十二日にハーバー社から『ブラック・パワi』と題して出版された。
自ら植民地問題調査委員会のメンバーであったフランス人作家アンドレ・ジイド(一八六九~一九五一年)は、かつて旧フランス領コンゴを訪れたあと『コンゴ紀行』(一九二七年)を書いた。当初の旅行の主要な動機は自然科学的好奇心であったが、植民地政策の犠牲となって苦しむ黒人たちの惨状と、官吏、商人、宣教師たちの横暴と腐敗ぶりを目の当たりにして「私は語らねばならぬ」と決意し、同書を世に問うている。
ライトの場合は、しかし、出版の意図や動機が違う。ブラック・アフリカ最初の黒人主権国として独立への胎動を始めたイギリス領ゴールド・コーストの地に自らが立ち、自らの目で確めた「人々の日常」を西洋世界に紹介するのだという意図を最初から持っていた。
タコラディ港で黒人労働者たちがクレーンなどを操縦している姿を見て歓喜し、南アフリカのマラン博士が黒人にはクレーンなどは操れないと記していたことを思い出してひとり苦笑している。アフリカに対する正しい視点と姿勢を備えていると信じてはいたものの、知らず知らずの間に、自分が西

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洋文明によって作り上げられたアフリカへのく負>のイメージに毒されていたことに気付いたからである。しかし、それらのイメージをかなぐり捨てて、ありのままの真実の姿を見、理解しようとする姿勢がライトにはあった。同じ黒い皮膚の色が何の助けにもならず、自分がアフリカ人から西洋人だと見なされていることを思い知らされたときにば、さすがに困惑の色は隠せなかったが、それでも膚の色の幻想を直ちに捨てて、むしろ用意された宿舎を出てまで、意欲的に危険を覚悟の行動を取ることができたのは、そうした姿勢をライトが持ちあわせていたからに他ならない。そこには、この旅行に賭けるライトの並々ならぬ決意とペンで闘う作家としての厳しさが感じられる。
印象記の羅列にしかすぎず、提示された問題に対しての論理的な追求への努力のあとが見られないと評する人もいるが、仔細に本文を読めば、決してそうではないことが分かる。アフリカに渡る前に、パドモアからあらかじめ読むべき本のリストをもらい、それに従って準備をしたが、本文中のエンクルマとの会話の中で洩らしたように、会うべき人々についてのリストも手に入れていた。つまり、ライトは決して行きあたりばったりではなく、最初から見るべきもの、会うべき人々にねらいを定めて行動したのである。さらに、表面的には主観的な感想記の様式を取ってはいるが、注意してみれば、明らかに焦点が絞られていることに気づく。その手掛りを独立後に出版されたエンクルマの『わが祖国への自伝』(筑摩書房、野間寛二郎訳)の一節が与えてくれる。一九四七年に故国に戻り、統一ゴールド・コースト会議の書記として精力的に活動をしていたエンクルマが、その微温性にあきたらず、大衆に促されてその職を辞し、会議人民党を指導していくことを決意した直後の次のくだりである。

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私を支持してくれる人々の前に立ちながら、ガーナのために、もし必要なら、私の生きた血をささげようと私は誓った。
これが黄金海岸の民族運動の進路を定める分岐点となったのだ。イギリス帝国主義の敷た間接統治の制度から、民衆の新たな政治覚醒へと───。この時から闘いは、反動的な知識人と族長、イギリス政府、「今すぐ自治を」のスローガンをかかげた目覚めた大衆の三つどもえで行なわれることになったのだった。

ライトの訪れた一九五三年は、まさにその「三つどもえ」の闘いの真最中で、「人々の日常」と来たるべき独立国「ガーナ」の真の姿を描こうとするライトには、その「三つどもえ」をいかに正しく捉えるかが最大の課題であった。したがって、ライトは印象記を単に羅列したのではなく「三つどもえ」に焦点を置き、様々な例証をあげ、分析を加えながら最後のエンクルマへの手紙にまとめあげた───言い換えれば、エンクルマへの手紙に集約する意図を持って、見聞した具体的な実例をあげ、それらに分析を加えていったということになる。以下、その「三つどもえ」を手掛かりに、ライトがどのように現状を捉え、エンクルマへの手紙にまとめていったかを考えてみたいと思う。

(ロ)イギリス政府
ライトは、エンクルマへの手紙の冒頭で、西洋ではアフリカを従属の状態に留めておきたいために、アフリカには文化も歴史もないかのごとき〈負〉のイメージをさかんに与えているが、なによりもま

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ず、アフリカ人自身が自信を持たない限り二十世紀への前進はないと心理面を強調する忠告を与えた。そして結びの部分で、アフリカのために事を成し遂げられるのはアフリカ人自身以外にはいないことを繰り返して述べている。それは、国際人として同胞の真の解放を願う誠実なライトの「精神のアフリカ化」の勧めに他ならないが、その点をまず強調したのは、滞在中に首相からマーケット・マミーに至るまでのあらゆるアフリカ人が話の肝心な所へ来ると必ず示すあの微妙な〈不信感〉をライトが敏感に肌で感じ取ったからである。なによりも感性を大切にする文学者ならではの分析が見られる。政治上の最初の敵は宣教師達だったと、感情を抑えながら言ったエンクルマの発言を思い出したあとの本書に見られる次の分析である。

金(ゴールド)は他のものでも替えがきく。木は再び育ちもしよう。しかし、どのような力をもってしても、精神的な習性を再構築し、かつては人々の生活に意義を与えていた視点を取り戻すことは不可能である。何ものも、あの自らの誇りを、物事を決断するあの能力を(中略)人々に取り戻すことはできない。今日、それがわれわれにどれほど残酷に、また野蛮に映ろうとも、以前の文化の形骸が、はにかんだり、ためらったり、狼狽したりする人々の動作の中に見え隠れする。相手の様子をうかがってやろうとする心理的な目を持つ人間に対して、その蝕まれた性格がぬーっと顔を現わすのである。

植民地政策のもたらした最大の罪の一つは、宣教師たちが一方的に、アフリカ人の日常に踏み込み、

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代替物を与えることなく人々の精神構造を破壊したことだと言いたかったのであろう。最初に、ライトは心理面を強調はしたが、それらは自らの目で実際に確かめた〈アフリカ〉の厳しい現実から感得したものである……歩道もなく、側溝にたれ流された小便の臭いのふんぷんとする街路、所かまわずつばを吐き捨てる老人、商売用の重い荷物を頭に乗せて運ぶ年端もいかぬ少年、水汲み場で子どもを洗う母親、水浴みをする少女、物乞いをする正視に絶えない乞食たち、文字が読めないために配達されない郵便物、たちまちにびっしりとつく赤さび、悪臭を放つ沼、ツェツェばえ、まだ存在すると言われる生贅(いけにえ)、病院に行きたがらずに村の祈濤(きとう)師をせがむ出稼ぎ労働者、まともな教育を受けられない人々、頭のただれた村の子どもたち、道路のひどさ、炎天下に安賃金でロボットのように働かされる沖仲士たち……。それらの「現実」は、当時の実状を回想して綴られたエンクルマの『アフリカは統一する』(理論社、野間訳)の中に記された次の一節にも符合する。

イギリスの植民地政庁がわが国を統治していた全期間に、農村の水の開発がまともに行なわれたことはほとんどなかった。これが何を意味するかを、栓をひねるだけで良質の飲料水が得られるのを当然とみなしている読者に伝えるのは、容易ではない。私たちの農村社会に、もしそんなことが起こっていたら、人々はまさしくそれを天国だと思っただろう。村に一つの井戸か配水塔でもあれば、彼らはどんなにか感謝したであろう。
事実はそうでなかったので、暑い湿気のある畑でつらい一日の仕事を終えると、男や女は村に帰り、それから、手桶か水がめを持って二時間ものあいだ、とぼとぼと歩いていかなければならなか

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った。行きついたところで、沼とほとんど変わらないような所からでも、塩気のある、ばい菌だらけの水を、その桶やかめにくめたら、幸運なのだ。それから長い道のりを戻る。洗ったり飲んだりする水、たいていは病気のもとになる水の、取るに足りないほどの量を得るのに、一日に四時間!
国中のほとんどが、ほんとうにこのような状態だったのだ。

予想以上の惨状に、驚きの念を禁じ得なかったが、イギリスのもたらした<現実>から、ライトは決して目をそらさず、物事の本質を見極めようとしている。
特有の<不信感>や悲惨な<現実>は、あくまで表面に現われた現象にすぎず、それらの現象は、富の強奪にしか関心のない植民地政策によってもたらされたことをライトは充分に承知していた。同時に、イギリス政府が村落共同体という伝統的機構を利用せざるを得なかった植民地支配の限界にも気づいていた。抑圧された境遇に一種の連帯の意識すら覚えながら、エンクルマへの<手紙>の中で、ライトはその限界をむしろ喜ぶべき特徴であると指摘したのち、次のように続けている。

民族の文化的な伝統は、西洋諸国の事業や宗教の利害関係によって毀されてはきたが、西洋人たちのその毀し方がそれほど積極的なものではなかったので、ひとつの<世界像>を創造したいという渇望が無垢(むく)のまま、損なわれないで、人々の間に依然として存在しているのである。
元来、厳しい自然の中で農民が生き延びるために自然発生的に生まれた村落共同体は、植民地化

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以前には当然、自立のための発展性を秘めていた。その発展の可能性は、最初、奴隷貿易によって奪われた。のちに土地収奪や強制労働、あるいは税金賦課などの植民地政策によって奪われ続けた。ライトが見たアクラ海岸の沖仲士たちやビビアニの金鉱やサンレボイの木材会社で働く人々の大半は、強制労働や税金賦課などの政策により村を離れることを余儀なくされた出稼ぎ労働者たちだった。驚くほどの安賃金に危険を伴う重労働にも、決して働き手が不足することはなかった。アクラの海岸では、仕事の順番を待つ上半身裸の若い黒人たちが、炎天下、事務所の前に群がっていた。奴隷売買あるいは税金賦課などの植民地政策によって、村落共同体が働き盛りの人間を奪われることは、その支柱をなくすこと、その内在する発展性を失うことを意味していた。内在する発展性を奪われた共同体は弱体化して後進的状態にとどまる方向に進んだが、残された者は、なお、より強固な団結と労働で厳しい収奪に耐えた。弱体化しながらも、かろうじて崩壊の危機を免れ、じっと耐える共同体の姿の中に、ライトはおそらく人々の<渇望>を見い出したのだろう。
ともあれ、本来自立のために生まれた共同体は、支配のために利用される機構へと変容させられていった。イギリス政府は人々の心に不信感を、人々の日常に惨状をもたらした。そして、本来の機能を充分果たしていない形骸化した、いわゆる<トライバリズム>なるものを残した。トライブあるいはトライバリズムという言葉自体が、西洋諸国の一方的な押しつけであるように、その実体もまた、アフリカに内在した歴史的な発展過程を辿ったものではなく、あくまで外部因子である植民地支配によって無理やり押しつけられたものであることを忘れてはならない。ライトは<手紙>の中で、沈滞する<トライバリズム>を打破する必要性をしきりに提言しているが、それはライト

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自身が人々の<渇望>を感じながらも、本来機能すべきものが充分に機能せず、伝統的文化の形骸だけが残されている実情を見てとったからに他ならない。
ライトはまた、<手紙>の中で、独立に際して、過去そうであったように未来も決してイギリス政府から真の援助は望めないばかりか、スキあらばいつ何時たりとも襲いかかってくると予言し、西洋に頼るな、少なくとも西洋のみせかけの援助の受け入れは最小限にとどめよと忠告した、数回にわたる暗殺未遂事件、そして軍事クーデターによる失脚、ギニアへの亡命、さらには親友であったコンゴ共和国首相バトリス・ルムンバの虐殺と国連軍の背信行為など、のちの歴史的な経過を考慮すれば、それらの予告が決して大げさなものではなかったことが知られよう。しかし、そのことを一番よく知っていたのは、他ならぬエンクルマ本人ではなかったか。そのあたりの事情については、エンクルマ自らが独立時回想して書き残した『アフリカは統一する』(野間訳)の中の次の象徴的な一節を掲げるにとどめよう。

遺産としては厳しく、意気沮喪させるものであったが、それは、私と私の同僚が、もとのイギリス総督の官邸であったクリスチャンボルグ城に正式に移ったときに遭遇した象徴的な荒涼さに集約されているように思われた。室から室へと見まわった私たちは、全体の空虚さにおどろいた。特別の家具が一つあったほかは、わずか数日前まで、人々がここに住み、仕事をしていたことを示すものは、まったく何一つなかった。ぼろ布一枚、本一冊も、発見できなかった。紙一枚も、なかった。非常に長い年月、植民地行政の中心がここにあったことを思いおこさせるものは、ただ一つもなか

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った。
この完全な剥奪は、私たちの連続性を横切る一本の線のように思えた。私たちが支えを見い出すのを助ける、過去と現在のあいだのあらゆる絆を断ち切る、という明確な意図があったかのようであった。

(ハ)首長と反動的知識人
イギリス政府が植民地政策を取らざるを得なかったのは、限られた人員で<完全占領>するにはアフリカが広大すぎたからであり、伝統的機構を利用したのは、それが支配するのに好都合だったからである。植民地政策により共同体の支柱を奪い、人々の教育の機会をそぎ、首長を傀儡(かいらい)に仕立ててその形骸のみを温存させ続けた。
ライトはアクラで運転手を雇い多額の出費と危険を覚悟の上でクマシ方面へ出向いたが、その目的は首長に会ってみることだった。現に数人の首長と会見したが、そのうちの一人は、蜜蜂が自分の護衛兵だと信じて疑わなかった。その人は実際に二万五千人の長でありながら、人口はどれくらいいるのかの質問に対して「たくさん、たくさん」としか答えられなかった。かつて、一本のジンとひき換えに同胞を奴隷として商人に譲り渡した首長。そんな人たちをライトは<手紙>の中で「純朴な人々を長い間食いものにし、欺し続けてきた寄生虫のような首長たち」と書いた。しかし、エンクルマが自分たちの権力を弱めたと批難はしながらも、多くの首長たちがご機嫌うかがいに党本部に出入りしていたことや、強力な首長アサンテヘネが中央集権化を恐れるイギリス政府に利用

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されかけたにもかかわらず、結果的にはエンクルマに譲歩した事実などを考え合わせると、首長たちは時代の流れに敢えて強くは抗えなかった人たちだったと言える。
むしろ、エンクルマに強力に敵対したのは、かつてはともに闘った統一ゴールド・コースト会議の中心であった、西洋で教育を受けた黒人知識人達だった。ライトはその中の中心人物、ダンクァとブシア(のちに首相となる)にも会っている。「なるべく早い自治を」と主張する反対派は、エンクルマがイギリスと組んで自分個人のために大衆を煽動(せんどう)していると批判した。そして独立はいまだ時機尚早だと言い、伝統の大切さを説いた。
一方、エンクルマは反対派について『アフリカは統一する』(野間訳)の中で次のように回想している。

今日まで、反対派はほとんどいつも破壊的だった。(中略)”今すぐ自治を”の私たちの政策の正しさが一九五一年の選挙の結果で証拠だてられたことに対して、統一黄金海岸会議の指導者たちは、私と私の仲間を決して許さなかった。その後、彼らの敵対は、独立を事実上否定し、イギリスの退去を不本意とするところまで達した。もし私と私の仲間を政権からしりぞけておけるならば、わが国の民族解放を犠牲にするつもりでいたのだ。

数人の黒人知識人との会見や「金持ちの奴らは、イギリス人たちよりたちが悪い」と嘆く黒人青年の声などから、私欲にかられた反対派が大衆からすでに遊離してしまっていることを察知していたラ

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ライトは<手紙>の中で西洋で教育を受けたアフリカ人たちはあてにするなとエンクルマに書いた。

(ニ)大衆
自分たちのために何もしてくれないイギリス政府、何もしてくれなかった首長や金持ち黒人達、大衆は、すでに誰も何も信じ守なっていた.大衆は長年の抑圧の状況の中で、「自分たちの生活を制御する力を取り戻し、新しい意味での自らの運命を創り出したい」と渇望していた。大衆は「目に見えない神々への誓い」に倦み、もはや「自分たちの日々の福利に直接かかわりのある誓い」しか唱えられなくなっていた。驚くほど短期間の間に、エンクルマはその大衆の心を捕えた。ライトはそんな情況を「エンクルマはイギリス人や宣教師達が民族の伝統的な文化を打ち壊した際に残していった真空をすでに塞いでいた」と分析した。大衆の心を捕えたエンクルマの勢いには目をみはるものがあった。沿道で、あるいは集会で歓呼する大衆。主に統一ゴールド・コースト会議の人達に見捨てられていた労働者・学生、マーケット・マミーたちだったが、なかでも、植民地政策の下で低い地位に甘んじることを強いられ続けていた女性たちの熱狂ぶりは凄まじかった。一九四九年に、エンクルマが官吏侮辱罪で三百ポンドの罰金を科せられたとき、即座に保釈金を掻き集めたのも、主としてマーケット・マミーたちだった。大衆の大多数は文字すら読めず、自分たちが一体何をやり、全体がどういう方向に進んでいるのかを正確に把握してはいなかったが、それだけに、ライトはく手紙Vの中で、エンクルマに、大衆に約束したあなたがそれらの約束を果たすためには、行動の論理を人々の生活の状況に応じて決定すべきであり、自らの歩むべき道を、自らの価値を発見すべきであると、まず語りか

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けたかったのであろう。そして「国を統一し、形骸化した統一のしがらみを一掃し、大衆の足を現実という基盤の上に据える」ためには「アフリカの生活に尚武の心を植え付けなければならない」と敢えて提言したのは、独立するに際して、これから歩む道があまりにも厳しく、険しいものであることを肌で感じ取ったライトの、精一杯の暖かい助言ではなかっただろうか。

(ホ)『ブラック・パワー』
ヨーロッパでは、植民地大国イギリス、フランスで一部出版拒否にあっているが、各国で翻訳され全般的には受け入れられた。殊にドイツでは熱烈な歓迎を受けている。
アメリカでは「レポートとしては一級品」という評も含め、おおむね評判は悪くなかったが、辛辣(しんらつ)な批判も多く、ライト自身少なからず傷ついている。
それらの反応は、植民地に対する各国の政策や直接の利害関係と無縁ではない。宗主王国イギリスで、当初激しい出版拒否にあったのも、植民地への依存度の高い国の事情と深いかかわりがあろう。
ここに、ライトにアフリカ行きを勧めたドロシィー・パドモアが本書の真価について語った一節がある。ドロシィーがガーナに住み、エンクルマを助けて働いていただけに注目に値する。ライト研究の第一人者ミシェール・ファーブル氏の要請に応えて送った一九六年三月十三日の付けの手紙の中の次の一節である。

『ブラック・パワi』がついに出て、リチャードが夫と私に本を一冊送ってくれたとき、その本が

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夢中にさせて-れるほど素敵なものだと分かりました。そして、その頃までにすでに私はゴールド・コーストに行った経験がありましたから、そこには私の考えや反応と響きあつ個所がたくさんあるのを知りました。その点では、夫も大体同じでした。二人とも、その本ではゴールド・コーストの社会が、熱望や過去.未来の展望などが織り交ってかなりうまくまとめ上げられていると考えました。ゴールド・コーストでは、その本で述べられていることが、多くは時代にあっていない発言であるとか評論であるなどと言われていましたが、問題はそれがどのように受け入れられたかどうかではないのです……。
アフリカ人以外の批評家の間では、本書の巻末に載せられたエンクルマへの手紙について、リチャードが出しゃばりすぎていると考えられていました.しかし、私と夫の意見では、その手紙が建設的な意味合いで、最も貢献度が高いということだったのです。私は、書かれた当時だけでなく今でもそれが正当性を失ってはいないと思っています。もし、手紙が意図されたように、暖かい助言として受け入れられていたとしたら、多くの落とし穴にはまらなくて済んでいたのに……と、私は思うのです。

西洋諸国はアフリカに対して理不尽の限りを辱してきた。そしてその情況は今もなお、続いている。三世紀半にわたる奴隷貿易に続嵜酷な植民地支配下で、そして「近代的な文明も科学的技術の恩恵も断たれた、世界で最低の条件下で」人的資源を増大させ、伝統的文化と教育を温存し、人間として威厳を守り続けてきたアフリカから、われわれが学ぶべきこと、教えられる点は実に多い。それ

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ばかりか、現在もなお、植民地主義、新植民地主義と闘い続けるアフリカの姿は、現代われわれに真の生き方、真のあり方を問いかけている。
先般来日したセネガル人作家センベーヌ・ウスマン氏は、日本で繰り広げられた飢餓救援活動に対して「援助は要りません。それより、暖かい目で見守って下さい」と語ったが、それは見せかけの援助より正当な理解をという生き方を問う鋭い発言であろう。援助と称しながら、その実、アフリカを食いものにしてきた西洋諸国ばかりか、アメリカの政策を強力に支援する日本もまた、過去から積み重ねてきた罪の責任を取るべきことを、今、迫られている。ライトも、本書の中でその点について次のような指摘をしている。

人はその人となりや、その暮らしぶりに応じてアフリカに反応する。人のアフリカに対する反応は、その人の生活であり、その人の物事についての基本的な感覚である。アフリカは大きな煤けた鏡であり、現代人はその鏡の中で見るものを憎み、壊したいと考える。その鏡をのぞき込んでいるとき、自分では劣っている黒人の姿を見ているつもりでも、本当は自分自身の姿を見ているのだ。(中略)アフリカは危険をはらんでおり、人の心に人生に対する総体的な態度を呼び覚まし、存在についての基本的な異議をさしはさむ。

出版代理人や出版社の入れこみようとは裏腹に売れ行きは芳しくなく、その意味では出版が成功したとは言えないかもしれないが、独立への胎動をいち早く察知してアフリカに駆けつけ「人々の日常」

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を、あるいは独立への歩みを西洋世界に紹介することによって、アフリカを正当に理解しようとした功績は少なくない。西洋の援助を受ければ新しい形の帝国主義搾取を招くという新植民地主義への予言は、現在、アフリカの多くの国が支払えないほど莫大な対外債務を抱え、新植民地主義政策の犠牲を強いられている情況を思えば、いかに的を得たものであったかが分かる。また、内部からの腐敗に留意せよ、それらに対しては厳しい態度で臨めという警告も、エンクルマ失脚の一因が内部者の目にあまる腐敗ぶりにあったことなどを考慮すれば、その適切さがうかがえよう。
ライトは旅の終わりに、船上でレノルヅ宛てに「私はこの地で見たものに衝撃を受けた。しかも、ゴールド・コーストはアフリカでも一番良い所だと聞く。もしそれが本当なら、一番ひどい所を私は見たくない」という手紙を書いた。しかし、すぐあとには仏領西アフリカへの長期にわたる紀行を企画している。ドロシィーの手紙が明らかにしているが、「アフリカの独立国について諸外国で広がっている誤った情報に対抗するために、その紀行を利用してより本当の姿を世界に紹介したい」と願ったからである。残念ながら、ライトは病にたおれ、夢半ば、異郷の地に果ててしまった。しかしながら、病床にあってもなお、つむぎ続けたアフリカへの夢から、東西の力関係ではもうどうしようもない世界の現状を憂うるライトの真情が、確かに伝わってくる。

(5)『白人よ、聞け!』
主として一九五〇年代に、ライトは要請に応えて、ヨーロッパ各地で数々の講演を行ない、西洋の犯した罪をあがなうべき道を力説した。「今日の世界における白人と有色人、東洋と西洋に関する相互

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に関連した、首尾一貫した」四編が『白人よ、聞け!』として出版されたが、なかでも「抑圧された人々の心理的反応」と「伝統と工業化」の中の次の一節は、ライトの西洋とアフリカへの姿勢を浮き彫りにしている。

あなた方西洋の白人に言おう。あのアジアやアフリカの人たちをどれほど簡単に征服し、略奪したかを自慢しすぎるなと……法律においてと同様に、歴史においても、人間は、そのような結果を意図していたかどうかにかかわらず、歴史的行為の結果に対して厳しく責任を負わなければならない……西洋がその責任を取ることこそ、白人が不安や恐慌や恐怖から自分を解放する手だてを作り出すことになるのだ……。
あなた方は、いかに見当違いであったとはいえ、アフリカやアジアのエリートを訓練し、教育をした。そして、心に自由と合理性に対する渇望を植えつけた。いま、あなた方のこのエリートたちは……飢えや病いや貧困……などによって、ひどく追いつめられている……今、私はあなた方に言いたい、ヨーロッパの人々よ、あのエリートたちに道具を与え、この事業を成し遂げさせてやれ!と。

もっとも、一般的に、アフリカ人作家たちは、ライトからある程度感化を受けたことは認めても、ライトをあくまでアメリカ人、西洋知識人とみなしており、ライトの"西洋的"見方に反発もしている。例えば、ギニア出身のカマラ・レイは「アフリカと世界中の黒人が思想的に協調すべきである」

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というライトの信念に共感は寄せながらも、次のように反論している。

アフリカでは、問題は私たちが平等や公民権を達成するということではない。私たちはいかなる種類のものであれ白人社会との統合には関心がない。近代的なものを切望はしても、決してヨーロッパ化されたい、つまり白人化されたいとか、危険を冒してもアフリカ特有のものを失いたいとか、望んでいるわけではない。

独立後のガーナの首相エンクルマの相談役をしようというライトの書簡に、エンクルマがなんら反応を示さなかったのも、おそらくそのあたりに原因が潜んでいよう。その意味では、フランス人学者ミシェール・ファーブル氏が指摘するように「ライトは、ときおり、二つの違ったグループの願望の間の調整役をつとめながら、せいぜい、統合とネグリチュードのまんなかあたりに立っていた」と言えそうである。
しかしながら、新植民地主義への鋭い洞察や、ピーター・エイブラハムズやフランツ・ファノンらのアフリカ人作家への影響なども含めて、「白い仮面と黒い膚との間で」、自由を求めて、闘う黒人西洋知識人として苦悩し続けたライトの足跡から、学ぶべき点、教えられることは、今もなお、多い。

執筆年

1987年

収録・公開

『箱舟、21世紀に向けて』(共著、門土社)、147-170ペイジ

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リチャード・ライトとアフリカ(本文は作業中)