1990~99年の執筆物

概要

(概要・写真作成中)

本文

ミリアム・トラーディさんの宮崎講演

1989年8月6日 宮崎医科大学臨床講義室(105)

(講演の前の佐竹さんと私の挨拶・紹介は省きました。あとは講演会の順序どおりに並んでいます)

トラーディ この論文を読む前に、少しお話させていただきたいと思います。

私たち二人を日本にお招き下さる際にご助力いただいたすべての方々に対して深く感謝致します。ご想像できますように、南アフリカの黒人女性が日本に来ることができるというのは、画期的な出来事です。昨晩、私はとても思い出深い仏教的な行事(納涼花火大会のこと。コニーさんが、商店街の七夕の飾り付けを「仏教的な行事」とトラーディさんに説明したため)に参加することが出来ました。きっと忘れ難い出来事として、その思い出を南アフリカに持ち帰ることになるでしょう。皆さん方には、南アフリカでは、今現在も、違った形での行事(デモ行進のこと)が進行中であるということを覚えておいていただきたいと思います。

1956年に、私たち南アフリカの黒人女性は、何千人ものアフリカの女性は、パス法を女性にまで援用することに反対し、抗議するために、プレトリアの政府の官庁にデモ行進致しました。南アフリカじゅうから集まった女性がパス法に反対して抗議しましたが、パス法は南アフリカの女性にも適用されてしまいました。その結果、本当にたくさんの人たちがパス法の下で死んだり、苦しんだりしてきたのです。

ロベン島についてご存じの方もおありかと思います、多分ご存じだと思いますが。そこは、何世紀にもわたって、男性、女性を問わず、著名な私たちの指導者たちが、南アフリカの厳しい法律のために、監禁されたり、牢獄死してきた所です。

1948年以来、南アフリカのアフリカ人の人権は絶えずおびただしく侵害されてきました。そして、抗議に次ぐ抗議が繰り返され、私が南アフリカを離れるその日まで、プレトリアにデモ行進するに至りました。南アフリカでの人権のおびただしい侵害に反対して黒人女性は何度も立ち上がって、実際の行動としてあるいは心理面においても、抗議に出掛けました。皆さん方に、南アフリカの女性と連帯していただきたいと思いますのは、こういった感情からなのです。

「南アフリカの文学と政治」。それが今日の私のお話のタイトルですが、皆さん方には、南アフリカでは政治的でないことを語ろうとしても何も語れないということにお気付き願いたいのです。そして、私たちの国における政治は多くの人の意志に反して、少数の人間によって決定されています。南アフリカでは、黒人であるかぎり投票することは出来ません。自分たちの運命を決める人間を国会に送ることが出来ません。南アフリカでは人口のわずか10パーセントが90パーセントの運命を決定しているのです。

◎ 南アフリカの文学と政治

(中途まで。残りは質疑応答のあとに続きます)

書物や文学は知識の源泉であり、知識は力です。書物は歴史を変えてきました。偉大な作家や学者が皆、大の読書家であるのは周知の事実です。ジャーナリスト志望の学生たちが読むことにあまり関心を示さないのに不満を持つホレイス・クーンは、次のように尋ねました。

「もし現在何が起こっているのかを知りたいと思わなかったり、今何が起ころうとしているのか、自分たちの運命がこれからどうなるのか、或いは自分たちの生活が各国の事情や国家や国際的な政治とどのように密接に係わっているのかという真相を究明してみたいと思わないとしたら、一体どうして君達はこの世の中に生きているといえるのか。考えることを恐れているのだ。君らがあまりにも考えることをしないものだから、私は時々、ひょっとしたら君らには考えるべきことが何もないんじゃないかと思うことがあるよ」

クーンはどうしてそんなにたくさんの若者が自分の信ずべきものを懸命に探ろうとしないでいられるのか、その人たちがたくさんの本を読まずにいかにして自力で問題を解決するつもりなのかを疑問に思ったのです。

アーノルド・ベネットは次のように言います。「文学は付属品でなく、完全な生活を達成するための基本的な〈必須条件〉である・・・・文学の自由をまだ経験したことがないなら、人はいまだ胎児時代の眠りから醍めていないのと同じだ。その人はただ生まれていないというだけではない。見ることも、聞くことも出来ず、十分感じることも出来ない。単に食事をして食べることが出来るだけだ。文学の本当の働きを知り、文学の恩恵に与ってきた人たちには、実際には冬眠している熊とよく変わらないのに、自分たちは生きているという幻想を抱きながら生活している人があまりにもたくさんいることが、何より腹立たしく思えるのである」

私が自分の作品を通して何かを表現しようとする以前の段階で、信頼し得る情報源、つまり本当の人間の感情や願望、或いは愛情や欲求などを徹底的に究明していて、私がなじめる書物が全然ないのに不満を覚えていました。タウンシッフ(都市部の黒人居住地区)のいわゆる図書館の本棚には、黒人の子供を洗脳するためにアフリカーナーの学者が書いた本が並んでいました。私はエスキア・ムファーレレ、ルイス・ンコシ、アレックス・ラ・グーマ、ピーター・エイブラハムズ、ダニエル・クネーネ、デニス・ブルータス、アイ・ビー・タバタ、アルバート・ルツーリ、ネルソン・マンデラ、ロバート・ソブクウェのような作家の書いた本を探しましたが、どこにも見付けることは出来ませんでした。

南アフリカでは、いわゆる学校教育を受けた「原住民」や学者は危険な敵、競争相手と絶えずみなされてきました。そのような「原住民」がいると、何らかの理由で、特にいつも不安を感じる人々の集団が国民党員で、いわゆるアフリカーナーと呼ばれる多数派の人達でした。政権に就くずっと前からその人達は自らの胸に手をやり、挑戦状の中でも、とりわけアフリカ人の教育を先ず最初の達成目標にしようという誓いをたてたのです。1948年の普通選挙で勝利を収め、政権を握ると直ちにその人達は、アフリカ人を文学や普通教育に近付けないようにするためのありとあらゆる手段を考案しました。

国会の討論の場で、次のように語ったのは、当時農務大臣であったJ.N.ラ.ルー氏でした。

「非常に積極的な人もいるが、原住民には学校教育を授けるべきではない。もしそんなことをすれば、後になって、十分に学問的教育を受けたヨーロッパ人や非ヨーロッパ人という重荷を背負うことになる。そうしたらこの国の単純労働を一体誰がやるというのかね。学校に通う原住民に自分がこの国の労働者になる必要があると悟らせるように、我々が学校を管理すべきだとする見方に、私は大賛成である」

私たちの国が植民地化されて以来学校で教えられたり、ヨーロッパ人の歴史家によって書かれた「南アフリカ史」と呼ばれる文献は大抵、真実を反映していません。委託されたアフリカ人の手によって私たちの歴史が書き直されているのはそのためです。本当に長い問、私たちアフリカ人や他の第三世界の国々についての真実はおびただしく歪められてきました。ヨーロッパ人の学者や歴史家は、歴史だけでなく宗教や科学、それに文学や芸術分野でのアフリカ人の発達について多くを隠すために労苦を惜しみませんでした。私たちはこのような嘘を暴き出して、自分たちの肯定的なイメージや自尊心を取り戻すための本当の礎を築かなければなりません。アフリカ人の心の中からだけではなくて、もっとそれ以上に「大いに洗脳された」ボーア入たちの心の中からこれらすべての神話を払拭しなければなりません。

公法を研究するステレンボシュ大学教授ド・プレシ博上は、著書『ティン・パールスペクティヴァ』(『十の把握能力』)の中で、こう認めています。

「アフリカーナーは、未開の原住民とみなす者たちの唯一の統治者として、手に政治権力のこてを持って、自分たちだけで新しい南アフリカを作り始めました」

南アフリカのいわゆるアフリカーナーを自己崩壊から救済する必要があるのは明らかなので、ド・プレシ教授は「誤ったアフリカーナーの幻想中でも先ず取り除くべきだと思えるのは、その人達が南アフリカを支配し、なお支配し続ける権利を持っていると考えていることです」とうまく言いあてています。

教授は「そして今、80年代の終わりに、アフリカーナーとその政府は、自らの幻想状態から醒めて、裸のまま立っているのです」とも述べています。

(論文の残りは質疑応答のあとにつづく)

◎ 質疑応答

トラーディ このまま論文を読み進むべきかどうかずっと迷っていたんです。というのも時間があと一時間しか残っていないようですから。多分ゆっくりなら、この論文は読めるでしょうし。もし私が読めば、あともう一時間半はかかります。時間をもっと質問などに割いたほうがいいのではと考えていたんです。

参加者 提案してもいいですか。たぶんですね、この論文は皆さん家に帰ってから読めると思うんです。現在南アフリカがどんな状況に置かれているかについてあまり知りませんから、質問させていただけたらいいですね。皆さん方もトラーディさんの国についてとても関心があり、いろいろ知りたいでしょうから、もし質問させていただけるなら、その方がいいと思いますが。

トラーディ そうですね。あと一時間しか残っていませんから、そうする方がいいでしょうね。

佐竹 もっと具体的に質問を出して彼女に答えてもらいたい、なぜなら、今このぺーパーはみんなの手元にあるのだから、という意見が出たんですけれども。彼女もその方がいいとおっしゃっています。

玉田 いかがでしょうか。

参加者 賛成!(賛同の拍手)

トラーディ 南アフリカの生活について色々な観点からどんなご質問でも結構です。どうぞ。

参加者 二つ質問があります。一つ目ですが、日本へは、今回初めてですか。

トラーディ そうです。

参加者 どんな種類のビザを取られたのですか。ぶしつけな質問かもしれないと思うんですが。

トラーディ そうですね。ビザの種類を明かすべきかどうか私には分かりません。それは個人的な問題ですから。南アフリカの一黒人が日本の方々の助けなしに日本に来るのは容易ではありませんでしたし、不可能でした。関係者の方々は私たちがこちらに来るのを強く望まれて、日本の政府に働きかけて下さいました。それで観光者として来ることが出来たのです。

参加者 ビザを取るのに時間はかかりましたか。また、政府の役人からたくさん質問を受けましたか。

トラーディ ええ。二人ともたくさん質問されました。そして、ビザを取るのにとても時間がかかりました。例えば、どちらもプレトリアに行って、そこで日本の役人と会わなければなりませんでした。そうです、ヨハネスブルグからプレトリアまで行ったんですよ。

他にご質問は。はいどうぞ。

参加者 英語と母国語のソト語でお書きになっているというお話ですけれども、二つの言葉を使い分けるということには、何か政治的な意味があるんでしょうか。

トラーディ ええ、そうです。もし自分の好みでいきますと、出来ましたら自分自身の母国語で書きたいと思いますね。南ソト語かアフリカ語のどれかです。ご存じのように、言語は文化の一部で、もし別の言葉でものを書くとしたら、自分の文化を書くことにはなりません。お話しましたように、南アフリカではあらゆるものが政治的なのです。政治的な理由があるのかといえば、確かにあるのです。たくさんのアフリカ人の学者は英語で書くことにしなければなりませんでした。自分たちが昔から使っていた言葉でものを書こうとしたときには、既にずっと以前に、南アフリカ政府が出版やすべての権利を手中に収めていたので、アフリカ人がたとえどんなものを書いても必ず政府の手を経なければなりませんでした。従って、政府が認めない考えを述べるのは不可能でした。南アフリカの中で、アフリカの言葉でものを書いたり、作品を出版したり、白由に意見を述べるのは尚のこと不可能で、決してた易いことではありません。

ご存じのように、殆んどすべての出版社は白人の手の中にあります。出版は大変お金のかかる仕事で、アフリカ人でその費用が出せる人は殆んど、いえ誰もいません。南アフリカで黒人の出版社を設立したのはやっと一九八三年になってからでした。ですから、それ以来はじめて、政府が必ずしも認めていないものでもいくらかは出版出来るようになりました。

最初書き始めた時、私は英語で書きました。そして出版してもらおうとその作品をイギリス人の出版社に持ち込みました。私が南アフリカの白人の生活に合わない考えを言っているというので、作品は削られました。たくさん削られていました。この『メトロポリタン商会のミュリエル』のタイトルでさえ、初めに私がつけたタイトルではないのです。理由は、私が本を白人の出版社に持っていったからです。私自身では出版はかないません。あまりにもお金かかかり過ぎるからです。それが白人の出版社が私の本にしたことです。その本がやっと世に出たときには、わずかに半分だけでした。後に完全なかたちで海外で出版されて、南アフリカに届いた時、発禁処分となりました。それでお分かりのように、南アフリカで書くというのは極めて政治的な問題なのです。

参加者 もう一つよろしいですか。

トラーディ もちろんです。

参加者 検閲の具体的な例みたいなものを二、三でもお示し願えないでしょうか。

トラーディ 南アフリカの検閲制度について語れば、実際にはアパルトヘイトの制度全体を語ることになります。いわばアパルトヘイトは、南アフリカの黒人に対する検閲制度の形態なのです。

南アフリカでは、白人であるという理由で10パーセントの人々が自分たちの考えや信条を、黒人であるという理由で90パーセントの人々に無理やり押し付けていると私は言いました。つまり、アパルトヘイト制度全体が検閲制度だということです。

ここでは、南アフリカで書いたり、自由に意見を表現したり詳しく述べたりすることに関して、著作検閲に影響を及ぼす法律をいくつか読み上げるだけにしておきましょう。例えば「公共安全法」と呼ばれる法律がありますが、その法律ではいかなる方法であれ政府を批判したり、人々の敵意を煽りたてるような出版物はどんなものでも発禁処分に出来るという権限が法務大臣に与えられています。「バンツー政庁法」では、原住民と白人との間に敵意を煽ると思える目的で演説したり、行動したりする者はすべて有罪とする、となっています。アフリカ人居住区の飢餓や貧困状況や政治的騒乱についての記事を書いたジャーナリストがこの法律で提訴されてきました。また、「出版法」というのもあります。公共の道徳もしくは宗教的感情を害したり、住民間の関係を損なったり、国家の治安秩序を脅かすと法務大臣が判断するものが含まれる出版物はすべて、この法に従って、望ましからず、との判決が下され、結果的には発禁処分となります。「刑事訴訟法修正令」というのもあります。その法律には色々条項がありますが、なかでも、抗議の目的につながりがあると思われる郵便物を没収するという条文は効力を発揮しています。「刑事集会法」「刑事訴訟証拠法」のような、同種の色々な検閲法があります。「テロリズム法」もあります。

これらの法律はすべて解放運動家や、特に人々の著作を取り調べるためにありますが、なかでも最悪なのは、「バンツー教育法」で、精神的な検閲のために制定されたものとしては、もっともひどい法律として際立っています。お分かりのように、数えきれない程の検閲法があるんですね、もし読み上げていれば、丸一日はかかってしまうでしょう。ほんのさわりの所だけ、ご紹介させていただきました。

参加者 厳しい法律がたくさんあるというのは分かったんですけれども、例えば、ここにある小説の中で、実際に検閲されて、どういうものが削除されたのか、説明していただけませんか。具体的にですね。例えば、女性のどういう所を書いたらいけなくて、削られたのか、そしてまた、半分くらい削られたということですが、それで、小説として成り立つのかどうか、構成がですね。その辺を教えていただきたいと思います。

トラーディ そうですね、そのような本は発禁処分を受けるに違いないと考えたのは出版する側の問題だったのです、その人は出版をする人で、売って利益を上げたいと思うわけですから、本が売れるように工夫しようと考えます。当然その人は、南アフリカでの読者層と販売目標が主として白人の読者層だと知っていますから、その白人の読者層の感情を害さないようなやり方でその本を出したいと考えたわけです。

削られた後も、それで小説として成り立つかどうかがお知りになりたいということですが、そうですね、それでもなお、なんとか小説として成り立っていたと思いますね。実際、最初はそれをはねつけましたし、そのような形で出版されるのは嫌だと言いました。でも、最終的には自分の考えを表現する手立てが私には全くありませんでしたし、母も「先も長くないし、死んだらお前の本が出版されるのが見られまい。先方の言うように出版してもらったら」と言うものですから、私もそれに従いました、それから本が世に出たんです。削られた半分の箇所は、南アフリカの法律に関しては、法律を解釈した部分とか、黒人の感情について語った部分でした。

参加者 (『メトロポリタン商会のミュリエル』を見せながら)もう少し、この本の中で。

トラーディ 例えば、第一章。第一章の後半部分が削られました。私は南アフリカの背景、政治的な背景について語りました。例えば、私が次のように書いた時、すべてが削られました。

「南アフリカ共和国は二つの世界に分断された国である。一方は、すべて日頃の生活のために整えられた、豊かで、快適な白人の世界、完全なまでに武装された、恐怖の世界。他方は、惨めなほど疎外され、秩序を破壊され、声も出せず、抑圧され、落ち着きを失ない、混乱して、武器すら持たない黒人の世界、取り返しのつかぬほど、すべての『部族的な』絆を断ち切られて、変転する世界。」

参加者 他にどの部分が削られたのですか。

トラーディ (本をかざしながら)この部分全部が削られました。

参加者 その本は国内で発行されたものですか。

トラーディ そうです。あとでお見せしましょう。ほかの削られた部分をたくさんお見せ出来ると思いますよ。他の方にご質問の機会を譲ったほうがいいと思います。

他にご質問は。

参加者 私は一年ちょっと前に「クライ・フリーダム」(「遠い夜明け」)という映画を見ました。あれは確かスティーヴ・ビコさんの運動を主にしたお話で、南アフリカ人でいらっしゃる新聞記者のドナルド・ウッズさんとの友情の物語だったと思うんですけれども。さきほどのお話の中で、10パーセントの白人たちが90パーセントの人々の運命を支配しているんだとおっしゃいましたが、白人の中で事態を憂えて何か行動を起こす人たちは全くいないのかという疑問があるんですが。

トラーディ そうですね、いることはいますが、何せ比率が10対1でしょう。南アフリカの白人は色々恩恵に浴しています。自分達が特権を与えられる立場にいますから、白人は誰のためにも闘う必要がありません。これまでずっと、白人が快適で、豊かで、満足するように、現状がすべて整えられてきたのです。だから、白人は立ち上がらなくてもいいのです。ですから、本当に極く極くわずかで、5本の指で数えられます。黒人の権利のために立ち上がる人は殆んどいません。

最近になって、白人有権者の間で、黒人の抗議を取り上げようとしたり、黒人に近付こうとする動き、前よりも大きな動きが見られますが、それも国際的圧力やランド価値の低下、それに自国の経済不況によるものにしか過ぎません。多くは今の状態が自分達の非常に居心地のいい立場にどう係わってくるのかが心配だからというのが実状なんです。その人達は不安を感じているのです。極くわずかですが、黒人のために純粋に関心を示す白人もいるにはいましたが、お話しましたように、その数は本当に極めて少ないのです。

参加者 二つご質問したいと思います。

「バンツー教育法」について述べられましたが、黒人と特権を与えられた白人との間にはどのような教育制度の違いがあるのでしょうか。また、有能な黒人の学生が高等教育を受けるのは可能でしょうか。

トラーディ 要は違った教育制度があるということなのです。白人のための教育は、皆さんが多分この国で受けているような教育です。しかし南アフリカでは、申し上げましたように、国内の労働者として黒人を作り上げる必要があるだけだと白人達は言いました。ですから、白人のそのような教育は、そういう種類の人々、つまりただ国内の労働者になるしかない階層の人々を供給するために効率的に行なわれてきました。

(白人を頂点に、アジア人、カラード、黒人の順で存在する教育制度を示すピラミッド型を黒板に書いて説明しながら)

このような普通教育制度があります。これが普通教育です。アジア人の教育があります。カラードの教育があります。これですね。バンツー教育庁。アフリカ人はバンツーと言われています。四つの別々の教育庁。(ピラミッドをなぞりながら)教育はこのようになっています。(ピラミッドの一番上を指して)白人のための良い教育。(二番目の部分を指しながら)アジア人のためのすこし良い教育、皆さん方のような日本人やインド人などのようなアジア人ですね、時には名誉白人とみなされますが。そして教育はピラミッドの下の方へ行くに従って絶望的となっていきます。(一番下の部分を指して)下のこの部分がアフリカ人の教育です。南アフリカにはピラミッド、社会的なピラミッドがあります。白人がこの上で、それからアジア人、カラード、そしてアフリカ人。(白人の層を指し、ピラミッドをなぞりながら)そして、この人達だけが投票することが出来、基準賃金はこのように低下していきます。格付けやあらゆるものがこのように低くなっていき、ついにはアフリカ人と呼ばれる最下層の人々へと至ります。この人達だけに侵されない権利があり、残りの人口の90パーセントの人々は、アパルトヘイト政策によって不利な状態に置かれています。

例えば、仮にあなたが教師である場合について考えてみましょう。教師にも、白人の教師、アジア人の教師、カラードの教師、それにアフリカ人の教師がいます。給料の額は自分の属する人種グループに従って違います。また、どこに住むかも属する人種グループによって決まります。私が南アフリカで佐竹さんと一緒に住みたいと思っても、一緒に住むことは許可されません。もし仮に、佐竹さんが私と一緒に住みたいと思ってもそれは叶わないのです。皆さん方との場合なら、もっと事態は悪くなるでしょうし、白人との場合なら尚更のことです。

ほんの表面的なことだけに触れましたが、バンツー教育によって私たちアフリカ人にどういうことがなされてきたのかを正確に解説するとしたら丸一日はかかると思います。いずれにしても、バンツー教育というものが結果的に、ひとつの大抗議行動を引き起こす要因となりました。1976年のその抗議行動では、千人以上もの生徒たちの命が犠牲となりました。

他にもっとご質問は。

コニー (飛び入りで)皆さん、すみません。私の娘はおととしから日本の学校に行っています。私の娘は、国語、算数、そういうものを勉強しているけど、私の娘は社会も勉強している。社会の教科書の中に色々書いてありますね。郵便局とか、映画(館)とか、郵便屋さんは何をしているとか、時々娘を郵便局まで連れていって。公園も書いてありますね。色々のものが入っていて、シーソーとかジャングルジムとか、けど、黒人の教科書の中にはそういうものは絶対入っていない。なぜなら、ソウェトは大変大きいけれど、二百万人が住んでいるけど、There is no park. 子供たちの公園がない。There is no swimming pool there. というのは、黒人たちにそういう公園とか何かを見せたら、黒人たちもあそこへ行きたいと思うから。だから、出来れば、そういうことを見せないで、教えないで(と政府は考えている。)すみませんね。

トラーディ 他にご質問は。

参加者 日本だったら、小学校から大学まで日本語ですけど、ソト語ですか、マザーズ・ランギッジで本を書かれると言われたんですけど、読む人たちはソト語を学校で習うんでしょうか。学校での授業はソト語で行なわれているのですか。

トラーディ ええ、アフリカの言葉は教えられています。私がアフリカの言葉で書けるのもそのためです。今、英語とアフリカの言葉で書いていると申し上げましたが、私たちアフリカ人は選んでそうしているのです。今まで十分にご説明しましたように、アフリカ人が自分たちの言葉で書こうとすれば、政府は色々な権利を使って介入してきますので、私たちは仕方なく英語で書くことを選んでいるのです。

でも、もし私が英語で書かなければ、ここにはいませんし、皆さん方も私の考えがどんなものかお分かりにならないでしょうね。

アフリカ人にも、私が生まれたころからずっと自分たちの言葉で書いてきた人たちもいますが、誰も知りません。アフリカの言葉で書いてきた、という意味ですが。そして、そのような種類の文学を取り扱ってきたのが黒人だという理由でその人たちについては誰も知らないのです。

参加者 さっきから、母国語と英語のことが、非常に話題になっていますが、トラーディさんが多分英語でお書きになった一つに、今の母国の状況をたくさんの人に知ってほしいということがおありだったと思うんです。けれども、同時に、そうやって目覚めてきたたくさんの国内の人たちに、ソト語で書きたいという気持ちがすごくあるだろうと思うんですね。そのお気持ちで本をお書きになる中で、さっきから出ている字も書けない人たちのためにどういうことをお考えになっていらっしゃるのかをお聞きしたいと思います。

トラーディ ええ、そうですね。私たちにはいわゆる口承文学と呼ばれるものがあって、それは代々引き継がれてきています。例えばですね、南アフリカに関する映画をご覧になれば、何千という大衆が動員されているのがお分かりになると思います。私たちには大変豊かな口承の歴史がありましたから、何が起こったのかを伝達出来ましたし、今も伝達出来ているのです。私たちは代々、口承文学を引き継いできました。この種の情報伝達機構は政府の手によっても破壊されはしませんでした。

例えば、たくさんの詩人がいます。その人たちはタウンシップで非常に活躍し、いつも詩を通して言葉を伝えています。詩人たちは、誰かを埋葬したり、誰かが結婚したりする時などのような殆んどあらゆる儀式で詩を詠じます。詩人たちが口承文学を通して、言葉を、政治的な情報を伝えているというのがお分かりでしょう。

ご存じのように、例えば、南アフリカが白人の土地と呼ばれているのを知っている人達は、世界中でもごくわずかです。それは白人が私たちの祖先から土地を奪い取ったからです。私たちは土地にあくまでしがみついてはおれませんでした。そのためにみんなずーっとメイドやボーイのようなことをして来たのです。アフリカ人の多くは白人の家庭で働いています。ですから、たとえ学校に行っていなくても、特に英語は知っているのです。

他にご質問は。

参加者 極めて簡単な質問をしたいと思います。黒人と白人の間にはいつも対決があると思うんですが、問題を解決するために折り合うつもりのある人はいないのですか。

トラーディ そうですね、黒人はいつも切に願ってきましたし、またずっと白人に理解してもらおうと努めてきました、「いいですか、こんな状況の下では私たちは生きてはいけません。あなた方が土地を自分達のものだと如何に言い張っても、土地が私たちのものだったのははっきりしているのですよ」と。

しかし今、その人達はあまりにも権力を持ちすぎて独善的になっています。現在、南アフリカで何が起こっているかをご覧になればお分かりいただける、という意味ですが。本当にたくさんの人種差別法、犬以下の如くに黒人を取り扱う法律があります。そのような人達は、ナチのような人達はですね、自分達は他の民族を打ち滅ぼすために生まれてきていると信じています。そんな人達に考えさせるのはなま易しくはありませんし、そんな人達に、こんな法律でアフリカ人が苦しめられているのを十分解らせるのは容易なことではありません。白人の心の中にその効き目が表われるのは、国外からの経済制裁や国内の抗議行動、それにゲリラ戦などのような非常に大きな圧力があるからに他なりません。さもなければ、その人達を交渉の場に引きずり出すのは殆んど不可能でした。現在も尚、全世界はアパルトヘイトに抗議して立ち上がり、その人達を交渉の場に引きずり出そうと努力しています。

しかし、思い当たる節がおありだと思いますが、人間はいったん権力を手にして自分が強いと思い込んでしまうと、弱い立場にいる人の問題などは目に入らなくなってしまうんですね。

参加者 今、経済制裁の話があって、経済制裁のことをお聞きしたいんですけれども。日本の新聞で日本の企業がずいぶん南アフリカと貿易していると、ずっと前読んだことがありますけど、やっぱり日本の企業なんかに怒っていらっしゃるんでしょうか。それと、経済制裁は南アフリカの中に住んでいる黒人もやっぱり労働者だから、制裁を受けると、経済的にはあまり得なことはないと思うんですね。どっちかというと、解雇になる、それでも制裁はあった方がいいんでしょうか。

トラーディ もちろん必要です。黒人の窮状を白人に聞かせるにはどうしたらいいかみたいなことを述べてきたに過ぎません。しかし、それは私が日本にやってきて、南アフリカの問題で現状について皆さん方にああせよと指図したり、日本政府にこうせよと命令したりすることとは違います。私にそれは出来ません。南アフリカの人々のために何が出来るかを判断し自分で結論を導き出すのはあくまで日本人自身なのです。

私がここに来て皆さん方に何をすべきかを指図することなど、勿論出来ません。皆さん方はとても知的な人々です。日本は東洋でも、何世紀ものあいだ植民地化を免れてきた数少ない国です。何世紀にも渡って、自分たちの文化を傷つけられずに保ち続けてくることが出来ました。ですから、皆さん方が強く、逞しくて、他の人が困っているときにどうしたらいいかを考える際に必要とされるあらゆる資質を備えておられるのが、私にはよく解るのです。

私が怒っているか、ですか。いえ、怒ってはおりません。そうですね。私は自分の個人的な感情についてお話するためにここに来たのではありません。作家としてここにいて、南アフリカの黒人のお話をさせていただいているのです。私たちは本当に色々な点で制限されているんですね。従って、作家として見方は客観的でなければいけませんし、自分自身の個人的な感情を述べるのではなく、人々の一般的な感情についてお話しなければなりません。

他にもっとご質問は。

参加者 女性に関する情勢について質問したいんですけれども。というのは、黒人の人たちというのは、白人社会から一応労働力を搾取され、抑圧されています。そういう社会の中で、その人種差別以外に、女性であるということで同じ黒人の男の人達から抑圧されている、つまり黒人の女性は二重の意味で抑圧される立場にあるのかということをお尋ねしたいと思います。

トラーディ (黒板のピラミッド型の図を使って)南アフリカのピラミッド、社会的なピラミッドについて先程お話致しました。申し上げましたように、てっぺんのところに白人の主導権があり、白人の選挙民がいます。そして、男性が・・・・もし南アフリカのピラミッドをよくご覧になれば、この部分が更に別れているのにお気付きになります。

人々の、そうですね、教師の給料についてお話しましたね。白人の男性教師は白人の女性教師よりたくさん貰っています。同じことがアジア人の女性教師についても言えます。アジア人の女性教師は男性教師よりも貰うお金は少ないですね。いわゆるカラードも男性の方がたくさん貰っています。そしてピラミッドのこの一番底のところに、アフリカ人女性、私のような人間がいるのです。南アフリカ全体の構造のなかでも、最も卑しめられ、虐げられた人々です。黒人女性の権利や南アフリカの黒人女性の政治的な諸権利の侵害について私が取り扱わなければ、と考えますのはまさにこの部分なのです。それは全体に深く係わっており、その部分についてだけお話しても午後が丸々かかってしまいます。しかしここでは、黒人女性がピラミッドの最底辺におり、アフリカ人男性は南アフリカの黒人女性以上にある程度の権利を与えられてきたということ、更に、南アフリカのアフリカ人女性の状況には要求していかなければならないことが未だたくさん残されている、ということだけを皆さん方に知っていただくだけでよしと致しましよう。

例えば、書き始めた時のこと、原稿を仕上げて出版社にそれを持っていったんですが、その本の契約書にサインすることが私には出来ませんでした。理由は私がアフリカ人女性だったからです。現在の法律の下では、私には何の権利も、何の政治的な権利もありません。夫だけが契約書にサイン出来る人間だったのです。アフリカ人女性としては、いかなる権利も、いかなる契約の権利も私にはありません。

それだけではなく、家や土地、それに電話、家具、車などのようなものを購入することも私には出来ません。黒人女性であるという理由でそれができないのです。黒人のアフリカ人女性がこういう状況から這い上がり、はしごを昇っていくのは、殆んど不可能に近い仕事です。私が座って書けること自体奇跡だと考えている人が今でもたくさんいます。書き始めた時、私は小説を書いた初めての女性、南アフリカで小説を書いた初めてのアフリカ人女性でしたし、今日でもやはり唯一のアフリカ人女性です。もうすでに30年ほどにもなります。

佐竹 他にございませんか。

参加者 二年くらい前に、私は、南アフリカ出身のホワイトの人と話す機会があったんです。その時、その人は、私は彼の言うことが正しいのかどうかというのがよくわかんないのですけれども、南アフリカの土地というものはですね、三百年、四百年くらい前から、一応、白人によって支配されてきたというふうに言うんですね。確かにあそこの土地は、彼らが支配していた土地であるという考えですね。私がそれを聞いて思ったのは、要するに、白人というのは、彼等が自分達の土地だという意識を持っているような感じを受けたんです。そのような白人の意識というものが、果たして、南アフリカに対する共通の見方というふうに考えられますか。またそれに対して、黒人の方として、その土地自体の所有権について、歴史的にどのように見られるのかということをお聞きしたいのです。

トラーディ 大抵の白人が、土地を自分達のものだと信じているかどうかについてあなたはお知りになりたいんですね。そうです。白人達は確かにそう信じています。白人は自分達をヘレンボック、つまり選民と呼んでいます。そして自分達がヨーロッパから南アフリカに来て定住し、土地を自分達のものとして所有するために送り出されたのだと言います。アフリカーナーの、少数派のアフリカーナーの党綱領の前文をじっくり読めば、あの人達は神が南アフリカで自分達に土地を与えてくれたことに感謝しているのがわかります。

あなたはアフリカ人も同じように感じているかどうかをお知りになりたいのですね。もし南アフリカの歴史、本当の南アフリカの歴史をじっくり見れば、白人が南アフリカを植民地化し始めたずっとずっと昔から、侵入者に抵抗する戦争が本当にたくさんあったことがわかるでしょう。アフリカ人は侵入者と非常によく闘いましたが、その人達がすぐれた武器を使ったので、白人達がすぐれた武器を使ったので、打ち負かされてしまいます。ご存じのように、その人達は東洋の国々から火薬を手に入れ、それをとても巧みに南アフリカで使いました。そして、アフリカ人は武器がその人達のものより、白人達の武器よりすぐれていなかったために、自分たちの土地を失なってしまいます。アフリカ人は土地が自分たちから奪い取られたという事実をとても強く感じていますし、誰もがそれを残念に思っています。そして単にそこにとどまっているだけではなく、白人に抗議して立ち上がっているのです。それが、アフリカ人が永遠に土地を奪われている事実をどうしても受け入れようとしないで絶えずストライキを続けている理由なのです。それでお答えになりましたでしょうか。

参加者 その南アフリカの白人は、もちろんそれは彼の個人的な意見になりますから、全体の意見とは思いませんけれども、殆んどのいわゆるアフリカのブラックスも、彼らと同様に、イミグラントである、要するに、労働者としてイミグラントとしてもってこられたという意見を言われたんですが、それは正しいでしょうか。

トラーディ その人たちはどこから来たんですか。

参加者 ちょっとそのことについては・・・・。

トラーディ その人たちはヨーロッパから来たんですか。いつ?

コニー ちょっといいですか。多分あの方は、鉱山労働者のことを言っているんじゃないですか。

トラーディ 鉱山労働者は移民ではありません。その人たちはアフリカの出身です。その人たちがアフリカでどうして移民なんですかという意味ですが。その人たちはずっとそこにいたんです。ただ何が起こったのかといえば、南アフリカの産業が盛んになって近隣諸国から労働力が必要になったというだけなのです。私たちは何世紀もずっとそこにいたのです。

アフリカ人はもとからアフリカに、南アフリカにいたから侵入者と闘ったとお話しました。アフリカ人はいつもその人達と闘いました。ケーフタウンの近く辺りで始まったいわゆる「カフィル戦争」などがありますね。絶えず侵入者達と闘ったのです。白人達がやって来た最初から、黒人はそこにいたのです。来た時から黒人がいることを白人が知っていたというのに、いったいどうして黒人が移民だと言えるのですか。

参加者 玉田先生にお聞きしたいのですけれども・・・・あの・・・・。

トラーディ (コニーさんが黒板に書いた南アフリカの地図を使いながら)

この人たちがここにきたんですね。ヨーロッバから南アフリカに来たのです。その人達はスパイス等を手に入れるためにインドに向かう途中にここを通っていたのです。(喜望峰を指しながら)ここをよく通ったんですが、そのうちにここに新鮮な野菜などを補給する中継地が出来るとわかったんです。

(各州の境界をなぞりながら)この境界線でさえその人達自身がつけたものなんですね。それは私たちの境界線じゃありません。私たちの境界線はそんなところにありません。オレンジ自由州と呼ばれる州があります。また、いわゆるトランスヴァール州があります。それらはすべてあの人達の境界線なんですね。決して黒人の境界線じゃありません。それはあの人達のものです。その人達が境界線を作ったんです。黒人じゃありません。黒人に関する限り、アフリカじゅうに、ここ南アフリカじゅうに住んでいました。ずっとそこにいたのです。その境界線は白人の境界線です。ですから、その人達は、その人達、つまり白人はボツワナ、レソト、スワジランド出身の人たちを移民だとみなしているのです。私どもは移民だとはみません。その人たちが南アフリカ黒人の人口の一部だと私たちにはわかっているんです。「移民」自体もその人達の用語で、すべてたわごとです。

1913年、その人達だけで、白人だけの議会で、国を黒人と白人に分けることに決定しました。87バーセントが白人のもの、13パーセントが黒人のもの、と決めたんです。黒人に属する土地について自分達で勝手に決定したのです。この比率を見て下さい。そうです、土地の13パーセントを90パーセントに与え、87パーセントを10パーセントに与えると白人達は考えたのです。白人は非常に強力で、銃を使いますから何でも白人のものです、白人はずっとそうやってきました。でもそれは南アフリカの黒人とは何の関係もないのです。

参加者 要するに、私は、一人の人しか聞いてないので・・・・そういうような概念というのは、比較的白人の中では共通の捉え方なのかということなんですけどね。

玉田 そうです。共通の捉え方だと思います。結局、アパルトヘイト政策の根幹には、土地の問題が深く関わっています。その土地の問題について、1913年に、それまで実際に行なわれていた慣習を白人が一方的に法律で決めてしまったわけです。その辺のところについては、今日お配りした資料「アパルトヘイトの歴史と現状」(本誌14号に全文掲載)の中で、日本語でも書きましたし、それについては何冊かその中にあげている本を読んでいただいてもわかります。三冊くらいあげているんですが。「アパルトヘイト」がいわゆる土地政策だったというのがよく理解していただけると思うんです。

つまり、今、ミリアムさんが少し怒っていらっしゃるのは、そういう歴史的な背景は、みんなの共通の認識というか、少なくともここにきて、アフリカの文学、黒人文学について聞いてくれるという人に関しては、それくらいの歴史的な認識はあると思っていらっしゃったんじゃないでしょうか。だから、そんなふうに言われること自体に、又そういう質問が出ること自体に、やっぱり少し心外な感じをお持ちになったんじゃないでしようか。

そういう意味で、予め、日本語で書いた歴史をお届け出来たらよかったんですが、何しろ、決まったのが一週間程前でしたから、そこまでいかなかったんです。でも、今出版されているものを読んでも充分に分かります。ただし、白人の書いた、従来の、「伝統的」なヨーロッパの歴史を読むと、そうは書いていないんです。大分違うんですね。

もう一つだけいいでしょうか。今、白人が侵入してきて黒人が武器でやられたという話がありましたが、それに関して、イギリスが映画を作っているんです。「ズールー戦争」(ZULU)という映画ですが。それを見ると、野蛮人を銃で撃って征伐し手柄を立てる、それに対して女王様が褒美をやるという構図で、その戦争を賛美しているのが分かります。レンタルビデオでも借りられます。それがいわゆる白人側の伝統的なものの見方だと思うんです。その辺は、少なくとも、こういう所に聞きにこられる人にとっての共通認識だと考えられて、ミリアムさんはお話されたと思うんですね。昨日の晩も、色々お話していて、どういう層に対して話をするのかということになりました。最初は、南アフリカの作家のことですね、今日話に出ていたアレックス・ラ・グーマとか、50年代までに国内にいらっしゃった人とか、そういうことについてかなり詳しく、とおっしゃったんですが。たぶん一般の認識がまだそこまでいっていないのではということで、「アパルトヘイト」のことも含めてお話しようということになったんです。一般の方もたくさん来られるということで。

実を言いますと、今のような質問などが出てくるとは思ってなかったんです。

参加者 お疲れのところすみませんが、現在のアフリカの、お宅の国での宗教・・・・特にIndependent churchですか、独立教会というのがどのような役割を果たしているのかについてお尋ねしたい。

トラーディ 皆さん方のお手元にある今日の論文の原稿をご覧になりますと、例えば私が次のように述べているのがお分かりいただけると思います。「現在、南アフリカでは熱心に解放の神学を説いている新しい世代の聖職者たちがいます。」それが独立教会の取る立場です。2頁の一番最後のところで、カイロス・ドキュメントと南アフリカの抑圧に関してその人たちがどんな立場に立っているかについて述べてありますが、体制が聖職者に望んだやり方でなく、キリスト教の真の精神に立って聖書を解釈し直すことに、今教会は非常に積極的になっています。

玉田 最初、2時間くらいのつもりで会場を取りました。前後1時問の余裕をもって4時間とっていますが。実質的に1時間お話していただいて、あと1時間質疑応答の予定でした。既にかなり時間もまわっていますので、最後に少しだけ今回のことも含めて、宮崎における状況についてお話させていただいて、終わりたいと思います。もし個人的にどうしてもお話したいとおっしゃる方は残っていただいて結構です。5時ぐらいまで学校にいるつもりですから。

今回は最初にお話しましたように、僕の個人的な判断でお呼びしました。

僕は去年の4月にこちらに来て、まだあまり知り合いもいないものですから、どうしたものかと最初は迷ったんです。しかし、宮崎大学の方とか、ここの医科大生の人からも、僕が思っていた以上にいろいろご協力をいただきました。それから、今日そこにいらっしゃる川原さんにも新聞社とかいろいろまわっていただきました。報道関係も意外と反応がよく、殆んど取り扱って下さいました。当初、この会場は学生にということで借りていたんですが、急きょ一般の方にも公開するということになって、少しバタバタしました。

来ていただくだけで精一杯で、僕自身、まさか通訳までまわってくるとは思ってなかったので、少し慌てました。新聞社を回っているとき、一般の方に公開するんだったら通訳を、ということになったわけですが。まあ、宮崎に南アフリカの、特に文学者を迎えるというのは初めてでしたし、僕自身としては、どこでもいいんですけど、医科大学で、宮崎でこういうことをやっているというのを知ってもらえたらなあ、と考えました。ですから、たくさんの人が来られるということ自体はあまり期待していませんでした。大概、アパルトヘイト否(ノン)の美術展などがあっても、この前講演に行ったところでも、会場が広くてもあまり多くなかったですからね。どこでも、そんな状況でしたから、今日これほど来ていただけるとはまったく予想していませんでした。そういう意味では、お呼びしてよかったなあと思っています。最近特に日本にいろんな人が来る機会が多くなりましたから、その人たちをこちらに呼べる機会が持てたらいいなあ、そしてこれをひとつの機会に出来たら、と考えています。

今回は結果的に個人的な招待ということになりましたが、そういうやり方では長続きしませんから、次回はみんなで分担してやれたらいいなあ、と思っています。

今日お配りしたなかに、感想とか、お知りになった方法とかを聞く用紙があります。今後もし誰かをお呼びする場合、どういうふうにすれば来てくださるとか、どういうふうなことを望んでここに来られたとかがわかれば、僕の方でも少しは動けるんではないかなあという気がしていますので、是非お書きください。

おそらく、トラーディさんのほうは東京に戻られて、関西、広島と行かれる予定です。そこでは、今最後にあったような話ばかりになると思うんです。日本では、ですね。そういう意味で、最初はもっと気軽に、気軽にと言ったら叱られるかもしれないんですが、文学の話をしたいと、他の所では多分出来ないでしょうから。それで、最初文学の話を始められたんでしたが、こういう状況でしたので、僕の方としましても、最後のほうでバタバタとしまして申し訳ありませんでした。十分に準備も出来なかったうえ、不首尾なことが多かった点、深くお詫び致します。今度、こういう機会が持てましたら、もう少し準備してやりますから、その時は、是非ご協力をお願いしたいと思います。

では、最後に少しミリアムさんのほうから・・・・。

トラーディ 日本語なので、玉田さんのおっしゃることが殆んど分からなくて申し訳ないのですが、ここに招待していただき皆さんとお会い出来たうえ、皆さんから質問をお受けすることが出来たのを本当にうれしく思います。拙いやり方ではありましたが、南アフリカで私たちみんなが思っている考え方の幾分かでもお伝え出来たとしたら有り難いと存じます。

(参加者は立ち上がり、長い間の拍手)

玉田 (二人とも通訳出来ず、顔を見合わせながら)どうもすみません。僕も、最後ホッとしまして、聞いてるだけで申し訳ありませんでした。それでは、一応これで終わらせていただきます。

お話されたことについては、録音していますから、原稿を起こし、活字にして、もういっぺん考えていただけたらと考えています。かなりの作業になりそうなのですが、出来るかぎりやってみたいと思っています。出来上がりましたら、お送りしたいと思います。

どうも、今日は長いことありがとうございました。

(拍手)

トラーディ 南アフリカでは、解放に向けて闘いは続きます。アマンドラ!(権力は!)

コニー ガウェツゥ!(我らに!)

(拍手)

◎ 南アフリカの文学と政治

(論文のつづき。講演会で読まれなかった部分です)

南アフリカでは文学によって真実を見えなくする作業が、驚くほど広範囲にわたって行なわれてきました。1988年4月25日付けの「スター」紙の社説で、レヴェル・メイスン教授という人が1600年前のブルアダールスツゥルワァムの古代遺跡を再度埋めると脅迫していると、その驚きを述べています。この遺跡はかなりひどい状態で放置されたままになっていると言われています。

ローマ時代後期に、黒人の鉄や銅の鍛治職人がたくさんいたという事実が明らかになってしまうので今まで無視されてきたのではないかと邪推されてもおかしくありません。「過去を埋もれさせるな」という表題で、アフリカ人の指導者たちは次のように言っています。

「トランスヴァール州には、人類学上大切な王権を象徴する儀式用の遺物がたくさんあります。しかも、世界で最初に発見され、ダーウィンの正しさを裏付けた「欠けた環」(系統的に類人猿と人間の中間を繁ぐと考えられる仮想の動物)であるトーン頭骨のような宝物は南アフリカでは今まで一般に公開されることはありませんでした。そのトーン頭骨はニューヨークで大評判になりました」

このこと一つを取ってみても、自分達の誤った考えや他の人たちに抱いている恐怖を永遠のものにするために、白人達がどの程度のことまでやれるのかがはっきりと分かります。意図的に一民族を精神的に衰退させようとするいわゆるバンツー教育のような仕組みを制度化しようなどという考えを思い付くのは、野蛮人か歪んだ心の持ち主だけです。

いわゆるバンツー教育に抗議して若い詩人たちが国じゅうから集まって来ました。その詩人たちはドラムをたたき、亡命中の指導者や作家の詩をうたい、白分たち自身の詩をつくりました。普通の環境の中では書くのは殆んど不可能ですから、自分たちの衰え知らぬ抵抗を口承文学の詩に託してうたったのです。詩人たちは斃れた英雄たちの棺を墓所に運んで行きながら詩をつくりました。

南アフリカの解放運動のなかで、侵略時の宣教師の役割を忘れてはなりません。ヨーロッパ諸国から宣教師達がアフリカの大陸に渡来してきました。着いたとき、その人達は顔には聖職者の笑みを浮かべ、手には聖書(神の御言葉)を携えていました。行く先々で、本当の動機が侵略であることが明らかになりました。宣教師達は軍隊と土地掠奪者達のために道を拓きました。ヨーロッパの自分達の国の旗を立てました。そして元からそこに住んでいた人たちは土地を失ないました。

現在、南フリカでは熱心に解放の神学を説いている新しい世代の聖職者たちがいます。その聖職者たちは現存する秩序体系に異議を唱え、聖書を使って政治的な偽りを行なうという不信の行為を暴き出すところまでいっています。例えば、カイロス・ドキュメントには、以下のように述べられています。「民衆を抑圧する際に、国は再三再四、神の名前を利用している。軍専従の牧師達は南アフリカ国防軍を鼓舞するのに神の名を使い、警察付きの牧師達は宣伝活動の講演のなかで、警察官や閣僚を励ますために神の名を使う。しかし、なかでもその本性が最も如実に表われているのは、神の神聖な名前が冒涜的に使われている新アパルトヘイト憲法の前文である。

前文

『国々の命運や臣民の歴史を司り給う神、多くの地から我らの祖先を集め、この我らの土地を与え、世代から世代へと導き給うた神、我らの祖先を取り巻く危険から奇跡的に救い給うた全能なる神の御心に従って。』

ここには明らかに、侵入者の側に立ち、正当な持ち主から現実に土地を取り上げ、自分達を『選ばれた民』と考えるものにその土地を与える神が存在します。

今日のアフリカの神学者たちは「今直面している危機感によってこの神学に、その傲慢さに、そしてその含意や実用性に疑いを持たざるを得ないのです」と言っています。

南アフリカでは、あらゆる独裁政権下でもそうであるように、文学や知識に近付けさせまいとする政策と政治的な抑圧はいつも表裏一体で行なわれてきました。非常事態宣言、ジャーナリストや教師、生徒の拘禁、書物の発禁処分、マスコミの厳重な取り締まり、これらすべては、ものを自由に考えたり、いろいろな考えが広まるのを押さえる仕組みのかなめなのです。

私たちは自らの心を解き放つために本を読むのです。

私は小説を書くことで助けられ、アフリカの女性として存在しなければならない、残忍で惨憺たる状況から、感情的に、そして心理的に逃れることが出来ました。私は一所懸命に自らの運命を切り開き、問題を解決したいと願う登場人物を創作しました。そして実際、私はその人たちと一緒に生きてきました。そうすることによって、すべてを諦め従順で、そのうちのたいていはとっくにタオルを投げ込んでしまった、やたら腹立たしくてしゃくに障る親威の者たちと、私が辛うじて我慢してやっていけるということに気が付いたのです。時にはその者たちに他の人たちの闘いについての本を読んでやりました。そのことで、何世紀にもわたる抑圧から生まれた、次第に従うことに慣れさせられてしまうという麻痺感覚から、私自身解放されたのです。

執筆年

1990年

収録・公開

「ゴンドワナ」15号9-29ペイジ

ダウンロード

「ミリアム・トラーディさんの宮崎講演」(講演記録)(作成中)

1976~89年の執筆物

概要

南アフリカの作家アレックス・ラ・グーマ(1925-1960)の第1作目の物語です。アパルトヘイト政権下では、発禁処分を受けていました。南アフリカ第二の都市ケープタウンを舞台にした作品で、オランダ系と英国系の入植者に侵略され、厳しい状況の中で生きることを強いられているカラード社会の一面が生き生きと描かれています。A Walk in the Nightが題で、『夜の彷徨』と日本語訳されているようです。英文の教科書として使いました。在庫はありません。出版の経緯などはこのページに載せている作品論で詳しく書いています。

本文

A Walk in the Night (1989年4月20日)の小島けい作の表紙絵で、南アフリカの街角を描いています。

「たまだけいこ:本(装画・挿画)一覧」で全体をご覧になれます。

表紙絵は当時上映されていた反アパルトヘイトのために闘った白人ジャーナリストルス・ファースト親娘を描いた映画「ワールド・アパート」(→」(「『ワールド・アパート』 愛しきひとへ」[「ゴンドワナ」 18号 7-12ペイジ、1991年]に映画評を掲載しています。) の一場面をモデルに水彩で描いています。宮崎医科大学、旧宮崎大学農学部、教育学部などの英語のテキストとして使いました。
南アフリカの作家アレックス・ラ・グーマ(1925-1960)の第1作目の物語です。アパルトヘイト政権下では、発禁処分を受けていました。南アフリカ第二の都市ケープタウンを舞台にした作品で、オランダ系と英国系の入植者に侵略され、厳しい状況の中で生きることを強いられているカラード社会の一面が生き生きと描かれています。アフリカ人、アジア人、ヨーロッパ人の混血の人たちで、人種によって賃金格差がつけられたアパルトヘイト体制の下ではカラードと分類され、人口の10%ほどを占めていました。ケープタウンに多く、その人たちは特にケープカラードと呼ばれていました。
ラ・グーマはアパルトヘイト体制と闘った解放闘争の指導的な役割を果たしていましたが、同時に、大半が安価な労働者としてこき使われ、惨めなスラムに住んでいる南アフリカの現状を世界に知らせようと物語も書きました。きれいな海岸や豪華なゴルフ場のイメージで宣伝活動をして観光客を誘致し、貿易を推進して外貨獲得を目論む政府にはラ・グーマは脅威でした。他の指導者と同じように何度も逮捕拘禁され、1966年に英国亡命の道を選びます。その後、キューバに外交官として受け入れられますが、1985年に解放を見ることなく還らぬ人となりました。
作品論→「アレックス・ラ・グーマ 人と作品4 『夜の彷徨』上 語り」(1988年)と→「アレックス・ラ・グーマ 人と作品5 『夜の彷徨』下 手法」(1988年)は下に載せてています。

作家論は→「アレックス・ラ・グーマ 人と作品1 闘争家として、作家として」(「ゴンドワナ」 8号 22-26ペイジ、1987年)、→「アレックス・ラ・グーマ 人と作品2 拘禁されて」(「ゴンドワナ」 9号 28-34ペイジ、1987年)、「アレックス・ラ・グーマ 人と作品3 祖国を離れて」(「ゴンドワナ」 10号 24-29ペイジ、1987年)に掲載しています。(玉田吉行)

****************

アレックス・ラ・グーマ 人と作品4 『夜の彷徨』上 -語り-

「ゴンドワナ」11号(1988)39~47ペイジ

時代を越えて
<南アフリカ人として、南アフリカの大地に生を受けながら、白人でないという理由だけで、人間としての扱いを受けなかったラ・グーマ。ラ・グーマの一生は、人間を取り戻すための闘いであった。
貧しく虐げられながらも、更に拘禁され、祖国を離れることを強いられても、すばらしい両親の深い愛に包まれ、よき伴侶に支えられつつ、ラ・グーマは断じてひるまなかった。
祖国を離れて、疲れ果て、解放の日を見ることなくこの世を去ってしまったが、その生き様は時の流れの中に葬り去られることはない。慈愛を言葉にくるんで残していった数々の作品の中に、ラ・グーマの魂は生きつづけるだろう>
前回までの伝記的な部分を私はそう結んだが「慈愛を言葉にくるんで残していった数々の作品の中」から、今回は、先ず何よりも『夜の彷徨』を取り上げたい。執筆順で行けば『夜の彷徨』以前に既に発表されていた短篇や新聞記事などを最初に扱うべきなのだろうが、敢えて『夜の彷徨』を取り上げたいと思う。その理由は、この作品が、結果的にはラ・グーマの作家としての実質的な出発点となったし、ある意味では既に出ていた短篇や記事の集大成でもあったからだが、さらに言えば、この作品が世に出たこと自体に、時代を越えた何か因縁のようなもの、言葉を換えて言えば、ラ・グーマの執念にも似た思い入れのようなものを感じないではいられないからだ。
私は、ナイジェリアで出されたテキスト (写真①)を黒人文庫 (神戸市外国語大学図書館)から借り、ハーレムのリベレーション・ブックストアでノースウェスタン大学出版のテキスト (写真②))を買い、門土社から大学用のテキスト (写真③))を送ってもらい、いともた易くこの作品に接することが出来たのだが(のちに改訂版を出版―写真④)、人々を愛し、解放を願い続けたラ・グーマの思い入れがあったにしろ、もし、歴史の偶然、いや何かそれを越えた必然とでもいうべきものがなかったら、この作品は決してこの世で日の目を見ることはなかっただろう。(写真②~④は追って掲載します。)

写真①

『夜の彷徨』は、1962年にナイジェリアのイバダン大学で、ムバリ出版社によって出版された。1956年以来、逮捕、拘禁が繰り返される中での執筆自体が驚きに値するが、厳しい官憲の目をかい潜って草稿が無事国外に持ち出され、ナイジェリアで出版された事実は、一種の奇蹟とも言えるだろう。如何にしてラ・グーマが原稿を守ったのか。ラ・グーマより一つ歳上の友人で、亡命して今はアメリカのピッツバーグ大学にいる詩人デニス・ブルータスに登場を願おう。(本誌7号でも紹介した)

私は最近アレックス・ラ・グーマ夫人に会ったことがある。夫人の話によると アレックス・ラ・グーマは自宅拘禁中にも小説を書いていた。彼は原稿を書き終えると、いつもそれをリノリュームの下に隠したので、もし仕事中に特捜員か国家警察の手入れを受けても、タイプライターにかかっている原稿用紙一枚しか発見されず、その他の原稿はどうしても見つからなかったのである。(コズモ・ピーターサ、ドナルド・マンロ編、小林信次郎訳『アフリカ文学の世界』南雲堂、1975年, 191~192ペイジ)

幸いなことに、1960年にラ・グーマが再逮捕されたとき『夜の彷徨』の草稿はほぼ完成されていた。ラ・グーマは原稿を一年間郵便局に寝かせておくように、と妻ブランシに指示を与えてから拘置所に赴いた。一年後、郵便局から首尾よく引き出された原稿は、ブランシ夫人の手から、私用で南アフリカを訪れていたムバリ出版社のドイツ人作家ウーリ・バイアー (本誌7号参照))の手に渡り、国外に持ち出されたのである。ラ・グーマの機転、ブランシ夫人の助力、ウーリ・バイアーの好意、どれひとつが欠けても、おそらく『夜の彷徨』の出版はかなわなかっただろう。それだけに「その本に対して何ら望みは持っていませんでした。ただ、自分にとっての習作のつもりで書いただけでした。ですから、現実にうまく出版されたときは驚きました」と言うラ・グーマの感慨がよけいに真実味を帯びて迫って来る。
シャープヴィルの虐殺で始まった60年代、「ソウェト」を体験した70年代を経て、間近に21世紀の鐘を聞こうとする今、発禁の書『夜の彷徨』が、生まれた地南アフリカで蘇ろうとしている。前号で紹介したセスゥル・エイブラハムズ氏のもとに、ケープタウンの出版社から同書再版依頼の手紙が届いており、しかも出版の可能性は高いという。時代を越えた人間の魂の力を思わずにはいられない。

短い新聞記事
『夜の彷徨』をラ・グーマが書こうと思った直接のきっかけは、ふと目にしたケープタウンのある新聞の短い記事である。その記事には「某チンピラが第6区で警官に撃たれ、パトカーの中で死亡した」とあった。
既に書いたように、ラ・グーマは55年に嘱望されて左翼系週刊紙「ニュー・エイジ」の記者となり、57年には、コラム欄「わが街の奥で」を担当し始めていた。従って、ラ・グーマはジャーナリズムの最先端にいたわけで、報道の実状を充分に知っていたのである。
白人支配の国では、白人の利益にしたがって報道も厳しく規制されており、白人層に関心のない黒人社会の記事は当然なおざりにされる。白人記者は充分調査もしないで、人づての資料をもとに黒人社会についての記事を書く。アパルトヘイトの壁によって黒人杜会と厳しく隔てられているので、白人記者が生きた黒人社会の実態を報道することは不可能である。ラ・グーマの見た記事も、おそらく警察からの発表をそのまま、埋め草用にでもと編集長に担当記者が送った類のものであろう。
ラ・グーマは充分その記事について調べたわけでないが、第6区の只中で現実を見据えながら人々とともに生きていたから、「某チンピラ」が如何にしてパトカーの中で死んでいったかを手に取るように理解することが出来た。その辺りの経緯をラ・グーマは次のように述懐する。

私は、この男がどのようにして撃たれ、如何にしてパトカーの中で死んでいったのか、そしてその男に一体何が起こったのか、と、ただ考えただけでした。それから心の中で、虚構の形で、とは言っても、第6区での現実の生活がどんなものであるかに関連させた形で全体像を創り上げてみました。こうして私はその悲しい物語『夜の彷徨』を書いたのです。

もの語り
『夜の彷徨』は、ラ・グーマの最初の小説だと言われてはいるが、本当は、祖国の解放を願うラ・グーマの、人々を語った「もの語り」と言う方が適しい。
もの語りは、主人公の青年マイケル・アドゥニスと友人ウィリボーイ、それに警官ラアルトの3人が中心になって展開されるが、息を飲んで片時も目を離せないほどスリリングな事件が起きるわけでもなく、登場人物の内面を深く掘り下げて分析している風でもない。むしろ、ケープタウン第6区のごく普通の人々の、ありきたりな生活の一断章、といった趣きが強い。しかも、現状のアパルトヘイト体制が続く限り、この物語に終章はない、そんな思いを抱かせるもの語りである。
それらの特徴は、伝記家セスゥル・エイブラハムズ氏が強調するように、歴史の記録家、真実を伝える作家を認じ続けたラ・グーマの思いがそのまま反映されたもので、エイブラハムズ氏とのインタビューで、ラ・グーマは次のように言う。

本当のことを言えば、形式的な構造とか言った意味で、意識して小説をつくろうと思ったことはありません。私は、ただ書き出しから始めて、おしまいで終わったというだけです。たいていはそんな風に出来ました。ある一定の決った形をもつというのは必要だとは思いますが、これまで特にこれだけは、と注意したこともありません。短い物語でも長い物語でも、私はただ頭の中で物語全体を組み立てただけです。自分ではそれを小説とは呼ばず、長い物語と呼ぶんです。頭の中でいったん出来上がると、座ってそれを書き留め、次に修正を加えたり変更したりするのです。しかし、小説が書かれる決った形式という意味で言えば、私のは決して小説という範疇には入らないと思います。

そこには、しかし、南アフリカのケープタウンの、アパルトヘイト下に坤吟する人々の生々しい姿が描き出されている。

アパルトヘイトの中で
もの語りには、黒人白人を含めて様々な人物が登場するが、ラ・グーマはただ慢然とそれらの人物を並べたわけではない。歴史を記録し、世界に真実を知らせたいと願う作家らしい透徹した目がそこには光っていて、それぞれの人物に見事にその役割を演じさせている。
もとより白人の利益に基づいて築かれたアパルトヘイト社会での黒人の生き方は、限られる。諦めて法に従うか、アウトローを決め込むか、或いはその法と真向うから闘うか。
諦めて法に従えば、屈辱と貧困と悲惨な生活が待ち受けている。アウトローを決め込めば、盗むか、襲うか、乞うか、たかるか、そんなたぐいの生き方しかない。
法と闘えば、国外に逃れるか、拘禁されるか、或いは官憲の目をかいくぐって地下に潜むかしか道が残されていない。
法と闘う人物像はラ・グーマののちのテーマとなるが、このもの語りでは、特に、諦めて法に従っていたがやがてアウトローの世界に足を踏み入れるマイケル・アドゥニスと、すでにアウトローを決め込んだウィリボーイにラ・グーマは焦点を当てている。
「法」によって厳しく規制されたアパルトヘイトは体制下の日常生活で、黒人が白人と係わりを持つ局面は、主として3つ考えられる。
1つは職場である。専ら白人のために存在する経済機構のなかでは、白人対黒人の関係は、常に主と従、であり、その一線を越えようとすれば、黒人は職を失うしかない。その時黒人は、又、新たに職探しをするか、或いはアウトローの仲間入りをするかの二者択一を迫られる。
2つ目は「法」に忠実に従い体制維持をはかる当局で、黒人に対するその態度は実に高圧的だ。だが、黒人には忍従するしか術はなく、もし反抗すれば投獄、である。
3つ目は、落ちぶれ果てて黒人街に住むようになった白人である。ヨーロッパ入植者とアフリカ人、アジア人との混交が何世代にもわたって行なわれてきたケープ社会ではよく見かけられる現象で、ラ・グーマは特に、2つ目に相当する白人警官ラアルトと、3つ目の落ちぶれ果てた白人アンクル・ダウティを取り上げて、典型的な白人像を描き出そうとしている。

マイケル・アドゥニス
アドゥニスが、同じアパートの住人アンタル・ダウティを瓶で撲り殺したのは、安ワインの勢いをかりたはずみには違いないが、本当の原因はもっと深いところにあった。幼い頃から長年の間に積もり積もった白人への怒りや憤りが、今は老いぼれ果てた弱者にむけられて一気に爆発したのである。ラ・グーマはその白人への怒りや憤りがどんな風にしてアンクル・ダウティに向けられたのかをさりげなく描き出してはいるが、よく見ると、先に記した黒人の接し得る3つのタイプの白人の典型を実に巧みにわずか数時間のもの語りの中に織り込んでいる。
1つ目は職場の白人である。作品の中に実際に登場しているわけではないが、その白人の様子はアドゥニスの会話を通して読者に知らされる。アドゥニスは口うるさい職場の白人に口答えをして馘にされたばかりで、立ち寄った安レストランに居あわせたウィリボーイにその怒りをぶちまける。

あの白人野郎は運がよかったぜ、俺はそんなに文句を言ったわけじゃねえんだからよ。奴はこうなるのをずっと望んでやがったのさ。人がションベン行くたんびにぶつくさ言いやがって。なんてこった、あいつの言う通りにしてりゃ、一寸手を休めるかわりにションベン漏らしてたぜ。そうさ、あいつ、俺がションベン行くとこをつかまえて小言を言いやがった。それで、くたばっちまえ、と言ってやったんだ。・・・・・とにかく、俺は奴に、このろくでなしボーア人め、と言ってやったんだ、そしたらあいつ、支配人呼びやがって、奴ら給料払ってから、とっとと失せろ、と言いやがった。あのボーア人野郎、今にカタをつけてやる。(ムバリ出版刊テキスト3~4ペイジ)

どうあがいてみても、カタのつかないことは、誰よりも本人が一番よく知っている。だからこそ、尚更その怒りや憤りが治まらないのだ。
その怒りと憤りは、帰途路上で出会った2人の白人警官によって倍加される。
前方に警官の姿が見えたとき、アドゥニスはよけようと思ったが、結局はよけ切れなかった。そんな場面をラ・グーマは次のように描く。

マイケル、・アドゥニスが酒場の方に向きを変えたとき、2人の警官がこちらにやって来るのが目に入った。2人は平たい帽子にカーキ色の上下、腰には磨きのかかったガンベルトに革ケース入りの重い銃を下げて歩道をこちらにやって来た。2人とも、まるでうすら赤い氷の中から彫り出してでもきたかのように、固く凍りついた表情をしており、厳しくて冷たそうな目が、青いガラスの破片のように鋭く光っていた。2人は自分たちのコースを変更しないで、海を行く駆逐艦のように歩道の人の流れを押し分けながら、並んでゆっくり決然とした足どりで歩いていた。
2人はそのまま進んでやってきた。アドゥニスは避けて自ら脇によろうとしたが、うまく逃れるまえに、2人はいつものように造作ない巧みなやり口で側面にまわり、アドゥニスを挾み打ちにしてしまった。(9~10ペイジ)

マリファナはどこだ、と警官は尋問した。初めから犯罪者扱いである。アドゥニスがその嫌疑を否定すると、今度はポケットの中を見せろ、の命令である。2者のやりとりの場面が続く。

「その金はどこで盗ったんだ」その質問は洒落っ気もなく恐ろしいほど本気で、口調にやすりの表面のような硬さがあった。
「盗ったんじゃないっすよ、だんな (この糞ったれのボーア人め)」
「じゃあ、通りから消え失せろ。二度とこの辺りをうろつくんじゃねえぞ。わかったな」
「わかりやしたよ (この糞ったれポーア人め)」
「わかりやした、だけか。お前、誰と話してるつもりなんだ」
「わかりやした、だんな。(このブタ野郎ボーア人め、くだらん銃なんぞぶら下げやがってこの薄汚ねえ赤毛しやがって)」

だんな (bass・・・・・・アフリカーンス語で、英語のmaster, sirに相当する)をつけさせるのは、かつてのアメリカ南部の白人が黒人にsirをつけさせたのと同じである。白人優位社会の象徴のようなもので、そのカラー・ライン(人種の壁)は想像以上に厳しい。
これらのやり取りは、人通りの中、白昼に堂々と行なわれた。尋問のあとで2人の警官はアドゥニスを後に立ち去ったが、1人は肘でアドゥニスを押しのけてからゆうゆうと歩いて行った。「アドゥニスの心の中に痛みが渦のように絡み合って、激しい怒りと憤懣と暴力的な感情が膨らんでいった」(11ペイジ) と表現されたアドゥニスの屈辱感がみごとに伝わって来る。
とは言っても、アドゥニスにとって、これが初めての経験とは思えない。これまでにこんな辱めを幾度となく味わった、と考える方がむしろ自然である。
そんな積もり積もった白人への怒りが、馘にされた職場の白人と、路上で辱めを受けた白人警官に触発されてとうとう、酒に溺れた、死にかけの白人アンクル・ダウティに向けられたのである。
従って、アンクル・ダウティを殺したあとのアドゥニスの反応は、済まないことをした、という類のものではなかった。死体を見て気分が悪くなり、壁に向かって戻したあと、いわばショックで酔いが醒めたような感じとなり、「ああ、こんなつもりじゃなかったのに。こんな老いぼれ、殺るつもりじゃなかったんだ」(20ペイジ)と口走っている。続いて、たいへんなことになる、こんなつもりじゃなかった、逃げた方がいい、サツは白人が殺られちゃ黙っちゃいねえ、こんなつもりじゃなかった、誰か来る前に逃げないと、などと千々に心を乱しながらも、死体を視つめながら「そうさ、奴はカラードの俺たちと一緒に住む権利などなかったんだ」と、はや自分の行動を逆に正当化することを考え始めている。おそらく、それだけアドゥニスの白人への怒りや憤りが強かった、ということになろう。
この事件が、結果的には、偶然尋ねて来たウィリボーイを巻き添えにし、アドゥニス自らも意に反して、チンピラ連中の仲間入りを余儀なくされる引き金となる。
ラ・グーマは、第6区で出会った様々な青年をもとに、アドゥニス像を創り上げたが、中でも、本誌8号で紹介した黒人少年ダニエルのイメージが特に強かったと、次のように語る。

私はケープタウンで育ったアドゥニスのような少年をたくさん見てきました。私が少年のころ、ダニエルという名の親しい友だちがいて、2人はよく一緒に遊んだものでした。しかし、その子が黒人だというので、集団地域法のためにめいめい違うところに住むことになりました。何年かたって、お互い大きくなったとき、私はダニエルと再会しましたが、そのときダニエルはもういっぱしのちんぴらで、すっかり街にたむろする札付きのごろつきになっていました。ダニエルが私のむかしの友だちだったので、よけいに胸が締めつけられる思いでした。2人があまりにも違った方向に進んでしまった事実をしみじみかみしめることになったのです。ダニエルは私に強烈な印象を残した青年の一人でした。他に、私と一緒に学校に通ったダニエルと同じような友だちもいます。必ずしもその友だちみんながみんな犯罪者になってしまったわけではありません。多くは、これからどうなるのかもわからず、何とか生計を立てながら、ただその日その日を生きて行くだけ、そんなごく普通の人たちでした。その人たちこそ『夜の彷徨』に出て来る本当の意味での登場人物なのです。

ラ・グーマは「私にとって写実的表現とは単なる現在の投影ではないのです・・・・・・写実的表現によって読者に真実を確信させ、何かが起こり得ることをほのめかす必要性があります。その目的は読者の心を動かすことなのです」と語ったことがあるが、アドゥニスに関するラ・グーマの写実的表現によって、アパルトヘイトのなかで、法に従うアドゥニスのようなごく普通の青年が、如何にた易くチンピラ仲間になって行くかを、読者はたしかに思い知らされる。

ウィリボーイ
ウィリボーイは、すでにアウトローを決めこんだ青年である。アドゥニスが、自分を馘にした白人への怒りを口にしたとき、ウィリボーイは、次のように息巻いてみせる。

「そうだろう。白人んとこで働いてりゃ、そんなこたしょっちゅうさ。俺は白人んとこで働いたりなんぞしねえよ。もちろんカラードんとこでもさ。仕事なんぞ、糞食らえだ。仕事、仕事、仕事、仕事なんかやってどうなるってんだ、俺はやらねえぜ」(3~4ペイジ)

「いや、俺は働かないぞ。いままでだって、これっぽっちも働いたこたねえよ。働いたって、働かなくたって、何とか生きてけるもんよ。俺が飢え死にしたっとでも言うんかい。仕事。けっ、仕事なんぞ」(4ペイジ)

アウトローを決め込んだウィリボーイではあったが、体制は見逃してくれなかった。こともあろうに、仕事なんぞ・・・・・・と息巻いて見せた相手アドゥニスに僅かな金の無心に行って事件に巻き込まれ、殺人犯の濡れ衣を着せられてしまったのである。

白人警官から不意に呼び止められたとき、本能的にウィリボーイは逃げ出した。長年の経験から無実を言い張ることのむなしさを、肌で感じ取っていたからである。
ラ・グーマは逃げ回るウィリボーイに過去を回想させながら、ウィリボーイがなぜチンピラになったのか、一体どんな家庭に育ったのかを読書に告げる。

ウィリボーイは再び考えた。俺が一体何をやったと言うんだい、俺はなんにもやっちゃいねえよ。ウィリボーイの心臓は高鳴った、母親が、このやんちゃ坊主が、と見下ろしながらつっ立っていたからである。ウィリボーイは7歳だった。いつも夕刊を売り歩いた。親方が、売り上げの中から、2, 3 ぺンスほど支払ってくれたが、その金は決して家には持って帰らず、いつもひとかかえの魚とポテトチップスに消えてしまった。ウィリボーイはその朝も何も食べていなかった、あとで食べたのもわずかにミルク、砂糖なしの粥を碗に一杯と古いパンを一枚きりだったから、夕方には腹の虫がないてないて仕様がなかった。ぼろアパートの部屋に戻った時、ウィリボーイは魚の臭いをぷんぷんさせていたうえ、新聞の稼ぎを出せなかったから、母親は顔をぴしゃりとやって、このやんちゃのろくでなし、とウィリボーイを罵った。母親が何度も何度もびしゃびしゃっとやったから、頭が肩の上でだらんとなって、顔がひりひりと痛んだ。ウィリボーイは痛くて泣いた。
母親はほんのちょとしたことで腹を立ててウィリボーイを鞭で打った。母親が、父親に撲られる腹いせに自分を撲りつけているのをウィリボーイはよく知っていた。父親の方は、毎晩酒に酔って帰ってきては母親を撲り、厚い皮ベルトでウィリボーイに襲いかかった。母親は部屋の隅にうずくまって金切り声を上げ、もう堪忍して、とすすり泣いた。母親の番が終わると必ずウィリボーイに順番がまわってきた。時には部屋からうまく逃げ出せることもあったが、夜中遅く戻って来ると、父親は酔いつぶれて高いびき、母親は泣きながら眠り込んだあと、という場合が多かった。父親から逃れられない母親は、ウィリボーイに鞭を振るってその仕返しをやっていたのである。ウィリボーイは今、屋根の上にへばりついていたが、再び「このやんちゃのろくでなし」という母親の声を聞いた。
逃げないと、逃げないと、撃たれたくねえよ、奴に撃たさないでくれ、とウィリボーイはつぶやいた。(78ペイジ)

しかし、ラアルトはウィリボーイを逃さなかった。無情にも、追いつめられてポケットからナイフを構えたウィリボーイを、ラアルトは撃った。救急車も呼んでもらえず、パトカーの後部席に放り込まれたウィリボーイは、再び母の声を聞く。

「このやんちゃ坊主め」と母親が叫んで顔をびしゃっりと叩いたので、ウィリボーイは体じゅうに痛みが走るのを覚えた。カーキ色のシャツの汚いぼろ袖で出てくる鼻をふき、太くて短いつま先でもう片方の足の甲をこすりながら、稜ない部屋の戸口の脇柱にもたれて、泣いた。(84ペイジ)

そして、パトカーの中で意識が薄れかけた時、夢うつつをさ迷いながら、ウィリボーイは口走る。

「助けて、神さま、助けてくれ。ああ、かあちゃん、ああ、かあちゃん。神さま、助けて下さい。助けて下さい。死んじゃうよ。死んじまうよ。助けて下さい、助けて下さい。ああ、神様、お助け下さい。お助け下さい。お助け下さい。どうか、お助け下さい。神さま、神様。おかあさん。助けて。助けてよ」(86ペイジ)

ラ・グーマによれば、ウィリボーイもアドゥニスと同様、少年時代の友人の一人がモデルであると言う。

ウィリボーイは、私の少年時代の友人の一人を典型的なかたちで描いたものです。その少年は私と一緒に育った友だちで、若いころ私にギターの弾き方を教えてくれた少年のひとりです。街角ででしたがね。たぶん、私がその少年より少しだけもの知りだったからでしょう、私のことを教授、と呼んでいましたね。

アウトローを決め込んで、つっぱり続けたウィリボーイが、最後には自らの恵まれなかった子供時代をうらみもせず、むしろ母親の名を呼びながら死んでいく姿は、ことのほか読者の哀れを誘う。若く貴い命を、なんとむなしく散らして行くことか。今はちんぴら仲間に入ってしまったアドゥニスが、やがては、このウィリボーイと似通った運命を辿ることになるのだろうか。おそらく読者は、そんなやるせない思いをいだかないではいられない。(つづく)
(大阪工業大学嘱託講師・アフリカ文学)

*********************

アレックス・ラ・グーマ 人と作品5 『夜の彷徨』下 -手法-

「ゴンドワナ」13号(1987)14~25ペイジ

たたかいの中で
繰り返し述べて来たように、ラ・グーマの作品はすべて、闘いのなかから生まれた。あらゆる人間があたりまえの人間として暮らして行ける統合民主国家を願うラ・グーマにとっては、政治闘争も、記者活動も、文学活動も、人間を取り戻す、同じレベルの闘いだった。
ただし、ラ・グーマが時の試練に耐え得るすぐれた文学作品を生み出し得たのは、セスゥル・エイブラハムズ氏も指摘するように (本誌10号18ペイジ)、ラ・グーマが文学的感性を備え、読者にメッセージを伝え得る文学手法を心得たすばらしい芸術家でもあったからである。ラ・グーマ自身が、政治闘争と創作活動の違いをはっきりと意識していたのは、次のインタビューからも窺える。

- それでは、小説の中で表現しようとされている価値とは一体どんなものなのですか。
ラ・グーマ できる限りもったいぶらずに人びとの威厳、基本的な人間精神を表現したいと思っています。政治宣伝やうたい文句は避けなければいけません。私も政治的なかかわりはあります。作家活動でも政治活動でも、人の威厳を擁護してはいますが、2つは違った活動なのです。(本誌7号21ペイジ)

現実を見据え、現実に根ざした生き方をするラ・グーマの目には、社会の中の、歴史の中の、そして文学者としての自分の立場や役割が見えていた。「アパルトヘイト下の南アフリカの著作」の次の一節を読めば、様々な人々の努力にもかかわらず、アパルトヘイトの壁によって、本来文学が果たすべき役割を充分に果たしていない現状をしっかりと把握していたことがわかる。

南アフリカではどの作家も人生を平静に全体としてながめることは出来ない。作家は自分自身の経験から、見たり知ったりしたことを書けるだけである。しかも、それは全体像の一部でしかない。白人作家の中で、いままでに、リアルでしっかりとした黒人像を何とかでも創造しえたものはいないし、その逆もまたしかり、である。白人、黒人のどちらの側にも通用する黒人・白人関係を描出し得た白人作家も黒人作家も今のところ出てはいない。
ナディン・ゴーディマは微妙な、明快な語り口で、白人の自由主義者が黒人の世界を如何に見ているかを読者に語りかけるのに成功しているし、黒人が白人観察者の目にどう映るのかを正確に描き得てはいるが、黒人の体内に入り込んでそこから外側を見ることは出来ないのだ。同様に、ピーター・エイブラハムズの小説の中の白人は戯画的で、堅くてぎこちない。その白人たちは血肉の欠けた繰り人形のように唐突に、ぞんざいに喋ったり、振るまったりする。
アラン・ペイトンの『叫べ、愛する祖国よ』に登場する黒人牧師は、黒人の習慣を身につけてはいるが、一種の宗教的ミンストレルにでも登場しそうな、おセンチな善良白人である。アパルトヘイト社会では、そんな創作上の失敗はどうしても避けられないのである。(本誌9号33~34ペイジ)

アパルトヘイトと闘いながら、作家として自分が一体何をすべきなのかを、ラ・、グーマは肌で感じ取っていた。19661966年、ロンドンに亡命した直後、ロバート・セルマガから、「今のところ南アフリカではアパルトヘイトの壁によって大多数の作家が普遍的なものを描き得ていないのだから、多くの批評家たちが指摘するように、事態が解決されるまで、文学は一時中断させたままにしておくのが一番よいのではないか」と問われたとき、ラ・グーマは次のように答えている。

・・・・・・作家たちはいままで南アフリカ一般の状況を描こうと努めて来てはいますが、違った人種グループと現に南アフリカに住む人びとについては殆んど語られて来ませんでした。たとえば、カラード社会やインド人社会について多くは語られて来なかったと思います。そして人種がそれぞれ隔離された状況の中であっても作家には果たさなければならない務めがあると思うのです。少なくとも、現在起こっていることを世界に知らせて行かなければなりません、たとえ隔離された社会の範囲の中でしかやれなくとも。(本誌9号33ペイジ)

前号の「語り」の中で取り上げたマイケル・アドゥニスもウィリボーイも、作家としてラ・グーマが、先ず何よりも描きたい人物像、どうしても書かなければならない人物像だったのである。セルマガによる同じインタビューの中で、マイケル・アドゥニスについてラ・グーマは語る。

マイケル・アドゥニスを私は典型的なカラードの人物像にするように努めました。第6区で暮らしている間に、私はアドゥニスのような人物と遊びましたし、出会いもしました。人生に於けるその境遇のせいで、機会が与えられないせいで、そして自分の膚の色のせいで、全く発展的なものも望めず、何ら希望がかなえられることもなく、否応なしにマイケルのような状況に追いやられてしまう若い人たち-アドゥニスが本の中でやるような経験を個人的に私はしたことはありませんが、そんなことが私のまわりで行なわれるのを見て来ました。そのお蔭で、私はそういった人物像をた易く創り上げて書くことが出来ました。

黒人と白人の狭間で
そして、たたかいのさなかに、特にケープタウンという地に生まれ育った自分が最大限何をなし得るのかについてもラ・グーマは自分なりの答えを見出していた。
オランダ東インド会社の役人や船員たちが喜望峰に到着して以来何世代にもわたって黒人と白人との混交が行なわれて来たケープタウンでは、南アフリカの他の地域に比べて、ヨーロッパ人、アジア人、アフリカ人との混血の人口が非常に多い。ラ・グーマ自身にもヨーロッパ人とアジア人の両方の血が流れており、著作では自らをカラード (Coloured)と呼ぶ。84年に政府が3人種体制が敷かれてからは自分たちへのカラードの呼称を嫌い、敢えて黒人 (Black))を使う傾向があることを本誌十号で紹介したが、その事実は「カラード」の置かれた微妙な立場を象徴していて興味深い。その人たちはインド系の人々と共に、人口比から見ても、圧倒的多数の黒人と少数派の白人の中間層に位置し、少数だが富をほしいままにして豊かな生活を楽しむ白人と貧しく抑圧され続ける多数派黒人との2つの大きな勢力の言わば狭間にいる。
しかも、ラ・グーマは、国民党が政権を握る以前の比較的締めつけの穏やかなときに少年時代を過ごしており、黒人とも同じ地域に住み、一緒に遊んだ経験がある。さらに、同じアフリカーンス語を話すオランダ系の白人アフリカーナーとも接する機会が多かった。つまり、ラ・グーマは、歴史的にも、社会的にも、厳しいアパルトヘイトの壁のわずかな隙間から、黒人の側も、白人の側も同時に、ほんの辛うじてではあるが、垣間見ることの出来る立場にいた、ということである。そして何より、ラ・グーマ自身がその立場をむしろ有利な地点と把えていたのは注目に値しよう。セルマガとのやり取りが私たちにそんな姿勢を伝えてくれる。

セルマガ この本『夜の彷徨』は、南アフリカの事態が個人と、そして肉体的な意味ばかりか精神的な意味でも現在進展している事柄に影響を及ぼす状況をありのままに取り扱っています。同時に、あなたはアフリカーナー社会出身の警官のような人物像も描いています。今まで一緒に生活したことがないアフリカーナー警察官の人物像を創作したり、その人物像を実際あなたがなさっているようにリアルに個人に仕立て上げたりするのはどのくらいむずかしいとお考えですか。
ラ・グーマ そうですね。私は、ケープカラード社会がアフリカーナーや元々その土地に住んでいたアフリカ人たちの血が交っている人々から成り立っているというのは有利な点だと考えています。カラードの人たち自身の文化背景は大部分、アフリカーンス語と英語です。ですから、その観点からのむずかしさはさほど感じませんでした。

「『夜の彷徨』の舞台設定には何か特別重要な意味合いがあるのですか。」(本誌7号19ペイジ))と聞かれたとき、ラ・グーマは「まず何より第6区はよく知っている場所だということです。私はそこで生まれ、そこで暮らしました。しかし、同時に閉所恐怖を暗示し、抑圧的な雰囲気を醸し出したいとも考えました。」と答えたあと、「小説『夜の彷徨』では第6区のイメージ、第6区の雰囲気を創り出すことに努めました。そこで、その目的のために言葉を選び、文章を組み立てました。」(同20ペイジ) と付け加えた。
選び出した言葉で、組み立てた文章で、ラ・グーマはどんなイメージや雰囲気を創り出したのか。そして、それらのイメージや雰囲気から何を描き出しているのか。

シェイクスピア
イメージを創り出すのに、ラ・グーマは慣れ親しんだイギリス文学の古典、シェイクスピアを借用した。
エピグラフに用いたのはハムレット、である。

余はお前の亡き父の霊だ。
定めの時までは夜の闇をさまよい歩き、
昼は猛火につながれて断食の苛責に苦しみつつ、
ひたすら生前犯した罪業の
焼き浄めらるるを待つ身だ。
ウィリアム・シェイクスピア 『ハムレット』第1幕第5場(三神勲訳)

しかも、ラ・グーマはそのセリフを、落ちぶれ果てた末カラード人街に住むようになった白人アンクル・ダウティに朗唱させた。

アンクル・ダウティ かつては、イギリス、オーストラリア、南アフリカなどを巡業して回った元役者のアイルランド系老人で、カラードの妻はすでに亡く、年金の大半は安ワインに消える。世話してくれる者もなく、アル中に冒された痩せさらばえた体は、後はもう死を待つばかり、そんな設定である。
ケープタウンには、プア・ホワイトと呼ばれる人たちがたくさんいる。白人社会で、経済的に失敗したり、人種的考えを受け入れられなかったりするなど、何らかの形で白人社会からはじき出された末、カラー・ラインを越えて、カラード社会に流れて来た人たちである。大抵は、カラードの妻か愛人と一緒に移り住み、飲んだくれて荒んだ生活を送っていて、カラード社会から蔑みの目で見られる場合が多い。アンクル・ダウティもそんなひとりである。モデルとなったある老人を回想してラ・グーマは言う。

その人は元役者で、第6区の一室に住むようになったある老人です。その老人がある朝死んでいるところを大家のおかみさんに発見されました。そのことを私は物語の中の人物像の仕上げに使いました。実を言うと、その老人は私たちの親戚筋にあたります。母親の又従兄弟か何かで、他に行く所がなくなった末第6区に流れ着きました。その人は部屋を一部屋借りていました。いつも酔っ払っていた少しくずれた老人でしたが、特別に何かをしたわけではありません。ただそこにいたというだけなのです。そしてある日、老人は自分の部屋で死んでいるのを発見されました。

ラ・グーマはアンクル・ダウティに、先号の「語り」で書いた黒人が接し得る3番目の白人、つまり「落ちぶれ果てて黒人街に住むようになった白人」の役割を演じさせたのだが、実際には、それ以上の役割を担っている。ラ・グーマによって描き出されたダウティはハムレットの父親のように、まさに亡霊である。その現われ方はこうだ。

廊下の隅にある便所の戸が開いた。そしてひとりの男が宙を掻きむしるようにそこから出て来て、終始壁伝いに、木を切る鋸のような音を立て息を切らせながら、自分の部屋の方に向かって進み始めた。その男は年寄りで、足元がおぼつかなく、ずり下ったズボンのせいで進みにくそうだった。シャツがパジャマのようにズボンからだらりとはみ出していた。その老人はやっとの思いで息をしながら、大きな蟹のように、壁を伝ってゆっくりと進んだ。(21ペイジ)

ハムレットの父親の亡霊がわが子に語りかけて消えたように、ダウティはアドゥニスに『ハムレット』の一節を朗唱して、「そりゃ、わしら、わしらのことじゃ、まるで亡霊じゃよ、夜の闇をさまよい歩くことを運命づけられた、な。シェイクスピアじゃよ。」と眩きかけたあと、殺されて消える。実際に登場する時間は極めて短かいのだが、亡霊アンクル・ダウティは「夜」と「彷徨」の強烈なイメージを残して舞台を去って行く。
ラ・グーマが表題 ( A Walk in the Night)に使った「夜」(Night)と「彷徨」(Walk)のイメージは、幾重にも交錯しながら物語全体をおおい、ラ・グーマが意図したように、舞台となったケープタウン第6区の「抑圧的な雰囲気」を見事に醸し出して行く。

「夜」の象徴性
亡霊のさまよう「夜」(night)は闇 (darkness))あるいは暗黒 (blackness))を連想させ、物語全体を通して二つのことがらを象徴的に浮かびあがらせる。一つは第6区の劣悪な環境である。もう一つは警察国家である。

劣悪な環境は目に見えてわかる現象であるが、その現象を生み出した最大の原因はアパルトヘイト体制である。南アフリカの国土はさほど広くはないが、金、ダイヤモンドをはじめ鉱物資源も豊かで自然も美しい。その豊かな富が平等に分配されていれば、そんな現象が表面化することはない。
片方には、機上からでも一軒のプールが識別出来る程の豪邸に住み、何人ものメイドを抱えて優雅な生活をしている少数派の白人たちがいる。その人たちの生活が優雅であればあるほど、言い換えれば、富が一方に片寄れば片寄るほど、搾取される多数派のアフリカ人はそれだけよけいに、惨めな生活を強いられることになる。
体制側にいる白人たちは自分たちの優雅な生活を守るために、黒人に土地は譲り渡したくないし、安価な労働力も手放せない。その結果、大都市やその近辺には数々のアフリカ人居住地区、カラード居住地区が生まれた。ケープタウンの第6区も古くからあるカラード居住区である。老朽化した住宅ばかり、もちろん廃水施設も充分でない。それらの街は、おきまりの穢ない、騒々しい、臭いスラムを形成する。職のない若者たちが昼間から街角にたむろする。犯罪の数も増え、無法者がまかり通る。アドゥニスの殺人も、ちんぴら仲間フォクシィたちのもくろむ強盗も、おそらく極くありふれた日常の、ほんの街角のひとコマに過ぎないのだ。
全編を通してラ・グーマは、その環境のひどさを物語の背後に見え隠れさせているが、殺人の舞台となったアドゥニスやダウティの住むアパートの様子を一部次のように描く。

アパートの床には埃がすぐに溜った。すり切れてそげ立った廊下を住人たちが泥靴を引きずって歩いたあとには、両側の小さな床板の隆起に沿って、埃の小さな土手が出来た。あるいは水がこぼれたり誰かが小便をしたりすると、濡れた箇所が残り、天井や服の縫目から出た埃が宙に舞ってそこに集まり、乾いたときには黒ずんだしみが残る。こぼれ落ちたパンくずや油脂などが踏みつけられて広がると、見えないほど細かい粒となり漂っている埃を吸い寄せた。床板のそり上がったところ、うまくかみ合っていない継ぎ目の突き出たところ、ビクトリア朝しっくいの花飾りや浮彫り細工のあるところ、雨で湿ってふやけたあと次は熱気で乾いてひびの入ったモルタル、すべてが埃を吸い寄せるもとになった。そして湿ってくると腐ったところでは忌まわしい生命が生まれ、細菌がつき、黴が生える。暑くなったり風通しが悪くなるとものが腐り始める。そして、かつては丸ごとあったものや新しかったものが萎びたり腐ったりした。その腐った嫌なにおいが貧しい人たちのアパートじゅうに広がっていた。
隅っこの暗がりやこちらからは見えないが割れ目になっている所では、暑くてにおいがひどくなったり、湿って滑りやすくなる頃には、ダニに南京虫、蛆虫になめくじ、光沢のあるこげ茶色の堅い羽のごきぶり、細い足で死をもたらす小さな灰色の怪物のような蜘蛛、爪や毛に病気を宿し、埃をかぶったような黒い目をした鼠たちが怪しげに動き回っていた。(33~34ペイジ)

そして、ラ・グーマは殺人現場となったアパートの一室、アンクル・ダウティの部屋の様子をも詳しく描き出す。

その老人は少し酔っており、安ワインと汗、それに吐いたにおいを漂わせ、吐く息もくさかった。
部屋は開けたばかりの墓のように暑くむっとしており、片方の壁側には鉄製のベッドが置いてあり、洗たくされていないシーツがかけられていた。その隣には、テーブルとして使う背もたれのない椅子が一つあって、上には吸い殻とマッチの燃えかすで一杯になった欠けた灰皿と強い赤ワインの滓がべっとりついたグラスが一個載っていた。部屋の隅には、壊れかけの戸棚があり、ひびが入り蝿の足跡で汚れた鏡が掛かっていた。戸棚には手埃のついた本が少し積んであり、上に埃が積っていた。別の方の隅っこには、ワインの空瓶が何本もボーリングのピンのように転がっていた。(22ペイジ)

終章の第19章でラ・グーマは、物語の締めくくりに、主な登場人物の真夜中すぎの様子をそれぞれ少しずつ紹介するが、その中に、今は主人亡きアンクル・ダウティの部屋の様子に触れる次の件がある。

暗い部屋の幅木の下の割れ目から、ごきぶりが一匹、用心深そうに現われ、細い髪の毛のような触角をあちこちに振りながら障害物はないかと暗闇の中を探っていた。障害物が何もないのがわかると、ごきぶりは関節で直角に折れ曲った脚で前に進み、床を横切り、床板のはしがそり返ったところを越えた。それからごきぶりは何かねばねばするものに出くわした。それは殺された老人の部屋にこぼれた酒と吐物の混った味がした。その老人の死体はとっくに運び出されており、部屋は警官によって鍵がかけられていた。そして今、部屋にはごきぶりだけがいて、そこには腐敗と死の臭いが漂っていた。ごきぶりはねばねばしたところで暫く立ち止っていたが、どこかで床がきーっとなると、かさかさと小さな音を立てて慌てて逃げていった。しばらくして部屋が再び静かになると、ごきぶりはまた戻って来て貧り食い始めた。(89ペイジ)

アフリカ系アメリカ人作家リチャード・ライトが『ネイティヴ・サン』(1940)を書いたとき、シカゴの黒人居住地区サウス・サイドの環境のひどさを象徴的に表現するために、冒頭部に鼠を登場させた。ライトは、異常に繁殖した鼠が我が物顔に街中を走り回るのを見て、黒人の赤ん坊が就寝中にかみ殺された、という新聞記事を思い出し、鼠を冒頭部に使うことにしたらしい。作品では、登場するとすぐに主人公の黒人青年ビガー・トーマスの手で殺されごみ箱に捨てられてしまうのだが、丸々と太った鼠は狭く、騒々しく、穢ないキチンネットと呼ばれる部屋の、ひいてはサウス・サイド全体の劣悪な環境のイメージを、強烈にまず読者に植えつける役割を演じていた。
そして、鼠を殺すまでの家族のどたばた劇はこれから始まる慌ただしく騒々しい大事件を暗示していた。
さらに、殺されて厄介ものとしてごみ箱に捨てられた鼠は、死刑を言い渡されてアメリカ社会の厄介者として社会から葬りさられるビガー・トーマスの運命をも暗喩していた。
ライトの描いた鼠のように、暗闇の中で、アンクル・ダウティの死体から流れ出た血とアドゥニスの吐物を貧るごきぶりは第6区の劣悪な環境を象徴して余りある。この場合、「夜」のイメージから抽き出された闇(darkness)のイメージは、穢なさ、むさくるしさ (dirtiness, sordidness)から忌まわしさ (disgust)にまで広がって行く。
さらに、終章で物語の締めくくりに描き出されたごきぶりの存在は、アパルトヘイト体制が続く限り穢ない暗がりの中で生きることを余儀なくされる黒人たちの運命をも暗喩している。
劣悪な環境のテーマは次作『三根の縄』(のちに『まして束ねし縄なれば』に)にひきつがれ、さらに克明な形で描かれることになる。

警桑国家は「夜」のイメージが象徴的に引き出すもう一つのことがらで、暗黒(blackness)を連想させる。特に取り上げたちんぴらとの係わりの中でラ・グーマは、先の「劣悪な環境」よりむしろ、この「警察国家」に力点を置いている。
優雅な生活を守るアパルトヘイト体制を維持するために取らざるを得ない形態、それが警察国家である。一人一票制を認めれば体制は崩れ、今のような優雅な生活はない、そんな危惧をぬぐえない白人たちは、不合理を百も承知で力の制圧を強行する。遠くはシャープヴィル、ランガの虐殺、ソウェトの暴動、近くはベンジャミン・モロイセ氏の処刑など、歴史がそれを裏づける。誰でも理由なく逮捕でき、無期限に拘束できるという何とも理不尽な非常事態宣言が今も続いている。デモに参加する黒人たちに容赦なくシャンボック鞭を振るう警官の姿は、海を越えて日本にも映像として伝わって来ている。
南アフリカの黒人が日常生活の中でどれほど警察と深く係わっているかをセスゥル・エイブラハムズ氏とのインタビューの中でラ・グーマは語る。

私たちは南アフリカでいつも警察と背中合わせで生きています。黒人たちは絶えず警察に苦しめられています。パス法でなければ、酔払っているとか、他の社会的問題などによってです。統計を見れば、囚人人ロの多さでは南アフリカが世界でも指折りの国だというのがわかります。南アフリカの黒人たちの生活で警察は大きな役割を演じています。ですから、私が作品の中で係わるように、社会問題に係わろうとすれば誰でも、警察を抜きに考えることは出来ません。私の作品に警察のことがよく出てくるのも結局は、私が意図したというよりはむしろ、避けられないから、ということになると思います。

ラ・グーマは体制のそんな担い手の典型としてアフリカーナー白人警官ラアルトにその役割を凝縮させた。

ラアルトはウィリボーイが血を流して苦しんでいるのに、救急車を呼ぼうとする部下を制して、警察署行きを命じた。しかも、署に戻る途中で、切れたタバコを求めてポルトガル人の経営するコーヒーショップに寄り道をしている。急かせる部下には「なあに、時間はたっぷりあるさ。あの野郎はまだ死にかけちゃいねえよ。ここの連中はしぶといのさ。おい、あの店んとこで止めてくれよ。」と言って車を止めさせた。
『遠い夜明け』の中で、脳損傷の兆候が出ているからすぐ病院に、という医師の勧めを無視して、はるかかなたのプレトリア中央刑務所に護送せよ、の命令を下した構図と同じである。(本誌11号27ペイジ)

ラアルトのウィリボーイを追いつめる執念は異常だった。大騒ぎする群衆に目もくれなかった。発砲を制止する同僚の声も届かなかった。ウィリボーイが隠れて見えなくなったときも、そんな遠くには行っていない、必ず近くに潜んでいるさ、と動じる気配も見せなかった。屋根の上にウィリボーイの気配を感じたとき、ラアルトは貯水タンクの陰で、待った。屋根から飛び降りて足を痛めたウィリボーイが追いつめられてナイフを抜いた時、ラアルトは至近距離からウィリボーイを撃ち倒した。容赦はなかった。まさに獲物を追い詰めるハンター、だった。
ラアルトの異常な行動をみて、アフリカ系アメリカ人のあるリンチ場面を思い出した。うなだれて木に吊るされた黒人を十数人の白人たちがながめている姿が写真には写し出されていた。目の光り方が異様だ。白人たちは、黒人のリンチを見物に、まるでピクニックにでも出かけるように、女子供を連れて出かけた、という。その人たちは、見せしめに黒人をなぶり殺しにすることをむしろ楽しんでいる、そんな風に映る。
ラアルトの場合も捕物をむしろ楽しんでいる風だった。妻との不仲で心が晴れなかった故もあるが、相方の若者アンドリースが「今夜はいやに静かですね。」と言ったとき「静かだな、何か起こってくれりゃいいが。ブッシュマン野郎の汚ねえ首に手をかけてこの手で締め殺してやりてえよ。」と吐き捨てるように答えている。
ラ・グーマは「あなたの使う隠喩的表現には、人間的なものを非人問的なものに同化してしまう傾向があります。ただの叙述的描写のためですか、それとも何か特別な意味を表わすためですか。」と聞かれた時、「私の場合、小説の中では人間らしさを失なった白人を扱っています。ただし、個人的に非人間的な感情はありません。私はまた、肉体的にも精神的にも疎外の問題を取り扱っています。」(本誌7号20ペイジ)と答えている。

「非人間的」ラアルトは、無防備の群衆に向けて無差別に発砲をしたシャープヴィルの警官をほうふつさせる。又、無邪気な少年を撃ち殺したソウェトの一場面を思い出させる。『アモク!』や『遠い夜明け』の映像で再現されたシーンが強烈に目に焼きついているだけに、その思いは強い。

警察国家、官憲の横暴のテーマは『三根の縄』に一部分引き継がれ、第3作『石の国』で刑務所を舞台に、真正面から取り扱われることになる。

「彷徨」の象徴性
亡霊アンクル・ダウティはまた、「彷徨」のイメージを残して去って行く。
サミン氏が「あなたの小説、ことに『夜の彷徨』と『季節終わりの霧の中で』では、登場人物がよく場所を変えて動きます。そこにはどんな意図があるのですか。」と尋ねたとき、ラ・グーマはその意図について語る。

私はただ南アフリカの人々の経験を語りたいのです。選択の余地はありません。人は自らの労働力の切り売りを余儀なくされます。アフリカ人は決してひとところに落ち着くことは出来ません。その場面で他の人物を紹介し、隠された、最下層の南アフリカの姿を示すのもひとつの文学上の手法なのです。細かな部分では自伝的なところもあります。(本誌7号20ペイジ)

3人の主な登場人物は絶えず場所を変えて動く。
アドゥニスは、バスを降りて先ず安レストランに寄り、食事を済ませたあと居酒屋に立ち寄る。それからアパートに戻り、殺人を犯してしまう。事件の後、部屋に居ることが出来ずインド人のコーヒーショップに出かけ、最後は「ジョリー」の店で、とうとうチンピラ仲間に加わってしまう。
ウィリボーイは、安レストランでアドゥニスに会ったあと、暫く街を歩き、金の無心にアドゥニスを尋ねて事件に巻き込まれる。慌ててとび出したウィリボーイは、裏通りからジプシーのシビーン(もぐり居酒屋)に行くが、口論の末たたき出されてしまう。そして暗がりを歩いているときラアルトに発見されて逃げ回ることになる。
ラアルトは、パトロール中にジョリーの店により店主から5ポンド巻き上げ再びパトロールを続ける。そして、ダウティの殺人騒動に出くわし、死体の確認を終えてパトロールに戻った時、ウィリボーイを発見する。それから、追い詰めて仕留めたウィリボーイを警察署に護送中に、既に書いたように煙草を求めてレストランに立ち寄る。
ラ・グーマは「彷徨」のイメージについて更に詳しくエイブラハムズ氏に語る。

私がこの本のタイトルを『夜の彷徨』にした理由の一つは、カラード社会では所詮南アフリカの人種差別に反対する闘争と関連した形でしか人は自分たちの存在を見出せない、ということがいつも心の中にあったからだと思います。その人たちは、さまよい、耐え忍び続けていました。そして、自分たちが貢献する社会の一市民として受け入れられ、一市民であると自認出来るようになるまで、こうして夜の闇をさまよい続けていました。私は、光を見つけ出そうと、夜明けを見ようと、そして何か新しいもの、何か自分たちの限定された社会での経験を越えたものを見ようともがき続ける人物像を創り出そうと努めました。

3人の他にもう一人ジョーという、「彷徨」のイメージを備えた人物が居る。ジョーはアウトローを決め込んだタイプの人間ではあるが、ウィリボーイのように街にたむろして悪事をたくらむちんぴらではない。人畜無害で、岸壁辺りで漁師や釣人たちが捨てていく魚介類を漁って何とか生き延びている浮浪者である。しかし、腹をすかしている自分に、夕食でもとわずかな金を与えてくれるアドゥニスのやさしさを理解する心を持ち合わせている。その証拠に、インド人のコーヒーショップで会ったアドゥニスがちんぴら仲間と親しげに接するのを見て、あとからわざわざ追いかけてきて、あいつらの仲間には入るな、とアドゥニスに渾身の説得をする。

たぶんあんたは大変な問題をかかえこんでいるんだろう。僕なんかよりでっかいのを。僕が言ったように、誰にもみな悩みはあるよ。でもああいう連中は誰もあんたの悩みの手助けなんかになってくれたりはしない。なぜって、あいつら自身がたくさん問題を抱えているからだよ。あんたは悩みを一つ増やすだけだよ。どう言っていいかわからないけど、問題から逃げても、又別の問題が起こる。あの連中のように。あいつら、はじめに起こすのは小さな問題だけど、それから逃げて、又別の問題をおこす、結果的には問題を増やしながら絶えず逃げてばかりいる。全く、わからないよ。(64ペイジ)

ジョーは、言いたいことが喉のところまで出かけていたが、なかなか出て来なかった。うまく言葉にならなかったのである。
アドゥニスの方は、心の中ではジョーの言うことがわかりすぎるくらいわかってはいたが、出て来た言葉は「おまえさんに一体どんな悩みがあるってんだい。」という反発だった。そして「お前さんの家族はどうなってんだい」と問い返す。
ジョーは、自分たちを捨てていった父親や家族のことを話し始める。

僕にはわからないが、たぶん父親にもたくさん悩みがあったんだろう。父親には仕事がなかった。長いこと仕事からあぶれてた、だから食べるものがなかったことが多かったよ。僕と弟マティは朝になると古くなったパン切れをもらいに家々をまわったもんだよ。昨晩のおかずをもらうこともあった。でも家族みんなには到底足りなかった。年老いた母親は食物に決して手を出そうとはしなかったよ。大抵は食物を小さいもの同士でわけて食べた。また、家賃も払えなかった。しばらくして母親は、出て行けという手紙を受け取った。家主は何通も手紙を送って来た。どの手紙にも、きれいに出て行けと書いてあった。それから何人かが紙切れを一枚持って部屋まで入って来て家具を輔道に全部積み上げてからドアに鍵をかけて行ってしまった。もしまた部屋に入ったら、ぶちこんでやるぞと言ったよ。(65ペイジ)

ジョーは更に続けて言う。

年老いた母親は、メアリ、アイザック、マティ、それに僕と一緒に積み上げられた家具のそばにただ座って、泣いた。それから暫くして言ったよ、結局、田舎に戻ってばあちゃんと一緒に暮らすしかないね。中古屋に家具を売って、みんなは戻ったよ。」(65ペイジ)

ジョーは、しかし、母親について戻らなかった。幼な心に、田舎に戻ることは逃げることだ、と考えたからである。勿論、小さな子供であるジョーにこれから先食べて行くあてなどあろうはずがなかった。
それから幾歳月が過ぎ去ったのか。元の生地すらわからないほどに汚れた服を着て、原形すらとどめていない靴をはいたジョーが、ちんぴらの仲間入りなどして自分の悩みから逃げてはいけない、と全身全霊でアドゥニスを諭す。そんな情景を生み出すアパルトヘイト体制とは一体何なのか。
アンクル・ダウティが亡霊なら、アウトローを決め込んで若く貴い命を散らすウィリボーイも、ちんぴらの仲間入りをしてやがてはウィリボーイと同じ運命を辿るアドゥニスもやはり亡霊である。そして、黒人を追いつめることに異常な執念を燃やすラアルトも、今日もまたあてどなく岸壁をさまよい歩くジョーも又、たしかに亡霊である。その亡霊たちは、アパルトヘイト体制が続く限り、各人各様に、「夜」を「彷徨」することを運命づけられているのである。
劣悪な環境と警察国家を浮かびあがらせた「夜」のイメージは、その亡霊たちがさ迷う南アフリカの国そのものを暗に象徴している。又、「彷徨」のイメージは、その国でさまようことを運命づけられた人々の姿を見事に暗喩している。
ラ・グーマは、真実を世界に知らせようと、後世に歴史を伝えようと、1960年代にこの作品を書いた。あれから4半世紀が過ぎ去ったにもかかわらず、南アフリカの事態が基本的なところで何ら変わってないのは残念な限りである。
ラ・グーマが死んで、もうすぐ3年になろうとしている。
今年の8月には、カナダで、アレックス・ラ・グーマ/ベシィー・ヘッド記念大会が開かれる。異国の地で、南アフリカの同僚や後輩が企画したものである。ブランシ夫人が特別ゲストに招かれる。
私も参加して、是非その大会の模様をお伝えしたい。(宮崎にて)
(宮崎医科大学助教授・アフリカ文学)

執筆年

1989年

収録・公開

註釈書、Mondo Books

ダウンロード

A Walk in the Night by Alex La Guma

1976~89年の執筆物

概要

 

アレックス・ラ・グーマ

本文(写真作業中)

アレックス・ラ・グーマ 人と作品5『夜の彷徨』下 -手法-

「ゴンドワナ」13号(1987)14~25ペイジ

たたかいの中で

繰り返し述べて来たように、ラ・グーマの作品はすべて、闘いのなかから生まれた。あらゆる人間があたりまえの人間として暮らして行ける統合民主国家を願うラ・グーマにとっては、政治闘争も、記者活動も、文学活動も、人間を取り戻す、同じレベルの闘いだった。

ただし、ラ・グーマが時の試練に耐え得るすぐれた文学作品を生み出し得たのは、セスゥル・エイブラハムズ氏も指摘するように (本誌10号18ペイジ)、ラ・グーマが文学的感性を備え、読者にメッセージを伝え得る文学手法を心得たすばらしい芸術家でもあったからである。ラ・グーマ自身が、政治闘争と創作活動の違いをはっきりと意識していたのは、次のインタビューからも窺える。

 

セスゥル・エイブラハムズ氏

- それでは、小説の中で表現しようとされている価値とは一体どんなものなのですか。

ラ・グーマ できる限りもったいぶらずに人びとの威厳、基本的な人間精神を表現したいと思っています。政治宣伝やうたい文句は避けなければいけません。私も政治的なかかわりはあります。作家活動でも政治活動でも、人の威厳を擁護してはいますが、2つは違った活動なのです。(本誌7号21ペイジ)

現実を見据え、現実に根ざした生き方をするラ・グーマの目には、社会の中の、歴史の中の、そして文学者としての自分の立場や役割が見えていた。「アパルトヘイト下の南アフリカの著作」の次の一節を読めば、様々な人々の努力にもかかわらず、アパルトヘイトの壁によって、本来文学が果たすべき役割を充分に果たしていない現状をしっかりと把握していたことがわかる。

南アフリカではどの作家も人生を平静に全体としてながめることは出来ない。作家は自分自身の経験から、見たり知ったりしたことを書けるだけである。しかも、それは全体像の一部でしかない。白人作家の中で、いままでに、リアルでしっかりとした黒人像を何とかでも創造しえたものはいないし、その逆もまたしかり、である。白人、黒人のどちらの側にも通用する黒人・白人関係を描出し得た白人作家も黒人作家も今のところ出てはいない。

ナディン・ゴーディマは微妙な、明快な語り口で、白人の自由主義者が黒人の世界を如何に見ているかを読者に語りかけるのに成功しているし、黒人が白人観察者の目にどう映るのかを正確に描き得てはいるが、黒人の体内に入り込んでそこから外側を見ることは出来ないのだ。同様に、ピーター・エイブラハムズの小説の中の白人は戯画的で、堅くてぎこちない。その白人たちは血肉の欠けた繰り人形のように唐突に、ぞんざいに喋ったり、振るまったりする。

アラン・ペイトンの『叫べ、愛する祖国よ』に登場する黒人牧師は、黒人の習慣を身につけてはいるが、一種の宗教的ミンストレルにでも登場しそうな、おセンチな善良白人である。アパルトヘイト社会では、そんな創作上の失敗はどうしても避けられないのである。(本誌9号33~34ペイジ)

アパルトヘイトと闘いながら、作家として自分が一体何をすべきなのかを、ラ・、グーマは肌で感じ取っていた。19661966年、ロンドンに亡命した直後、ロバート・セルマガから、「今のところ南アフリカではアパルトヘイトの壁によって大多数の作家が普遍的なものを描き得ていないのだから、多くの批評家たちが指摘するように、事態が解決されるまで、文学は一時中断させたままにしておくのが一番よいのではないか」と問われたとき、ラ・グーマは次のように答えている。

・・・・・・作家たちはいままで南アフリカ一般の状況を描こうと努めて来てはいますが、違った人種グループと現に南アフリカに住む人びとについては殆んど語られて来ませんでした。たとえば、カラード社会やインド人社会について多くは語られて来なかったと思います。そして人種がそれぞれ隔離された状況の中であっても作家には果たさなければならない務めがあると思うのです。少なくとも、現在起こっていることを世界に知らせて行かなければなりません、たとえ隔離された社会の範囲の中でしかやれなくとも。(本誌9号33ペイジ)

前号の「語り」の中で取り上げたマイケル・アドゥニスもウィリボーイも、作家としてラ・グーマが、先ず何よりも描きたい人物像、どうしても書かなければならない人物像だったのである。セルマガによる同じインタビューの中で、マイケル・アドゥニスについてラ・グーマは語る。

マイケル・アドゥニスを私は典型的なカラードの人物像にするように努めました。第6区で暮らしている間に、私はアドゥニスのような人物と遊びましたし、出会いもしました。人生に於けるその境遇のせいで、機会が与えられないせいで、そして自分の膚の色のせいで、全く発展的なものも望めず、何ら希望がかなえられることもなく、否応なしにマイケルのような状況に追いやられてしまう若い人たち-アドゥニスが本の中でやるような経験を個人的に私はしたことはありませんが、そんなことが私のまわりで行なわれるのを見て来ました。そのお蔭で、私はそういった人物像をた易く創り上げて書くことが出来ました。

 

ケープタウン第6区

黒人と白人の狭間で

そして、たたかいのさなかに、特にケープタウンという地に生まれ育った自分が最大限何をなし得るのかについてもラ・グーマは自分なりの答えを見出していた。

オランダ東インド会社の役人や船員たちが喜望峰に到着して以来何世代にもわたって黒人と白人との混交が行なわれて来たケープタウンでは、南アフリカの他の地域に比べて、ヨーロッパ人、アジア人、アフリカ人との混血の人口が非常に多い。ラ・グーマ自身にもヨーロッパ人とアジア人の両方の血が流れており、著作では自らをカラード (Coloured) と呼ぶ。84年に政府が3人種体制が敷かれてからは自分たちへのカラードの呼称を嫌い、敢えて黒人 (Black) を使う傾向があることを本誌十号で紹介したが、その事実は「カラード」の置かれた微妙な立場を象徴していて興味深い。その人たちはインド系の人々と共に、人口比から見ても、圧倒的多数の黒人と少数派の白人の中間層に位置し、少数だが富をほしいままにして豊かな生活を楽しむ白人と貧しく抑圧され続ける多数派黒人との2つの大きな勢力の言わば狭間にいる。

しかも、ラ・グーマは、国民党が政権を握る以前の比較的締めつけの穏やかなときに少年時代を過ごしており、黒人とも同じ地域に住み、一緒に遊んだ経験がある。さらに、同じアフリカーンス語を話すオランダ系の白人アフリカーナーとも接する機会が多かった。つまり、ラ・グーマは、歴史的にも、社会的にも、厳しいアパルトヘイトの壁のわずかな隙間から、黒人の側も、白人の側も同時に、ほんの辛うじてではあるが、垣間見ることの出来る立場にいた、ということである。そして何より、ラ・グーマ自身がその立場をむしろ有利な地点と把えていたのは注目に値しよう。セルマガとのやり取りが私たちにそんな姿勢を伝えてくれる。

 

ケープタウン

セルマガ この本『夜の彷徨』は、南アフリカの事態が個人と、そして肉体的な意味ばかりか精神的な意味でも現在進展している事柄に影響を及ぼす状況をありのままに取り扱っています。同時に、あなたはアフリカーナー社会出身の警官のような人物像も描いています。今まで一緒に生活したことがないアフリカーナー警察官の人物像を創作したり、その人物像を実際あなたがなさっているようにリアルに個人に仕立て上げたりするのはどのくらいむずかしいとお考えですか。

ラ・グーマ そうですね。私は、ケープカラード社会がアフリカーナーや元々その土地に住んでいたアフリカ人たちの血が交っている人々から成り立っているというのは有利な点だと考えています。カラードの人たち自身の文化背景は大部分、アフリカーンス語と英語です。ですから、その観点からのむずかしさはさほど感じませんでした。

「『夜の彷徨』の舞台設定には何か特別重要な意味合いがあるのですか。」(本誌7号19ペイジ) と聞かれたとき、ラ・グーマは「まず何より第6区はよく知っている場所だということです。私はそこで生まれ、そこで暮らしました。しかし、同時に閉所恐怖を暗示し、抑圧的な雰囲気を醸し出したいとも考えました。」と答えたあと、「小説『夜の彷徨』では第6区のイメージ、第6区の雰囲気を創り出すことに努めました。そこで、その目的のために言葉を選び、文章を組み立てました。」(同20ペイジ) と付け加えた。

選び出した言葉で、組み立てた文章で、ラ・グーマはどんなイメージや雰囲気を創り出したのか。そして、それらのイメージや雰囲気から何を描き出しているのか。

シェイクスピア

イメージを創り出すのに、ラ・グーマは慣れ親しんだイギリス文学の古典、シェイクスピアを借用した。

エピグラフに用いたのはハムレット、である。

余はお前の亡き父の霊だ。

定めの時までは夜の闇をさまよい歩き、

昼は猛火につながれて断食の苛責に苦しみつつ、

ひたすら生前犯した罪業の

焼き浄めらるるを待つ身だ。

ウィリアム・シェイクスピア 『ハムレット』第1幕第5場(三神勲訳)

しかも、ラ・グーマはそのセリフを、落ちぶれ果てた末カラード人街に住むようになった白人アンクル・ダウティに朗唱させた。

アンクル・ダウティ かつては、イギリス、オーストラリア、南アフリカなどを巡業して回った元役者のアイルランド系老人で、カラードの妻はすでに亡く、年金の大半は安ワインに消える。世話してくれる者もなく、アル中に冒された痩せさらばえた体は、後はもう死を待つばかり、そんな設定である。

ケープタウンには、プア・ホワイトと呼ばれる人たちがたくさんいる。白人社会で、経済的に失敗したり、人種的考えを受け入れられなかったりするなど、何らかの形で白人社会からはじき出された末、カラー・ラインを越えて、カラード社会に流れて来た人たちである。大抵は、カラードの妻か愛人と一緒に移り住み、飲んだくれて荒んだ生活を送っていて、カラード社会から蔑みの目で見られる場合が多い。アンクル・ダウティもそんなひとりである。モデルとなったある老人を回想してラ・グーマは言う。

その人は元役者で、第6区の一室に住むようになったある老人です。その老人がある朝死んでいるところを大家のおかみさんに発見されました。そのことを私は物語の中の人物像の仕上げに使いました。実を言うと、その老人は私たちの親戚筋にあたります。母親の又従兄弟か何かで、他に行く所がなくなった末第6区に流れ着きました。その人は部屋を一部屋借りていました。いつも酔っ払っていた少しくずれた老人でしたが、特別に何かをしたわけではありません。ただそこにいたというだけなのです。そしてある日、老人は自分の部屋で死んでいるのを発見されました。

ラ・グーマはアンクル・ダウティに、先号の「語り」で書いた黒人が接し得る3番目の白人、つまり「落ちぶれ果てて黒人街に住むようになった白人」の役割を演じさせたのだが、実際には、それ以上の役割を担っている。ラ・グーマによって描き出されたダウティはハムレットの父親のように、まさに亡霊である。その現われ方はこうだ。

廊下の隅にある便所の戸が開いた。そしてひとりの男が宙を掻きむしるようにそこから出て来て、終始壁伝いに、木を切る鋸のような音を立て息を切らせながら、自分の部屋の方に向かって進み始めた。その男は年寄りで、足元がおぼつかなく、ずり下ったズボンのせいで進みにくそうだった。シャツがパジャマのようにズボンからだらりとはみ出していた。その老人はやっとの思いで息をしながら、大きな蟹のように、壁を伝ってゆっくりと進んだ。(21ペイジ)

ハムレットの父親の亡霊がわが子に語りかけて消えたように、ダウティはアドゥニスに『ハムレット』の一節を朗唱して、「そりゃ、わしら、わしらのことじゃ、まるで亡霊じゃよ、夜の闇をさまよい歩くことを運命づけられた、な。シェイクスピアじゃよ。」と眩きかけたあと、殺されて消える。実際に登場する時間は極めて短かいのだが、亡霊アンクル・ダウティは「夜」と「彷徨」の強烈なイメージを残して舞台を去って行く。

ラ・グーマが表題 (A Walk in the Night) に使った「夜」(Night)と「彷徨」(Walk) のイメージは、幾重にも交錯しながら物語全体をおおい、ラ・グーマが意図したように、舞台となったケープタウン第6区の「抑圧的な雰囲気」を見事に醸し出して行く。

 

A Walk in the Night(ノースウェスタン大学版)

「夜」の象徴性

亡霊のさまよう「夜」(night) は闇 (darkness) あるいは暗黒 (blackness) を連想させ、物語全体を通して二つのことがらを象徴的に浮かびあがらせる。一つは第6区の劣悪な環境である。もう一つは警察国家である。

劣悪な環境は目に見えてわかる現象であるが、その現象を生み出した最大の原因はアパルトヘイト体制である。南アフリカの国土はさほど広くはないが、金、ダイヤモンドをはじめ鉱物資源も豊かで自然も美しい。その豊かな富が平等に分配されていれば、そんな現象が表面化することはない。

片方には、機上からでも一軒のプールが識別出来る程の豪邸に住み、何人ものメイドを抱えて優雅な生活をしている少数派の白人たちがいる。その人たちの生活が優雅であればあるほど、言い換えれば、富が一方に片寄れば片寄るほど、搾取される多数派のアフリカ人はそれだけよけいに、惨めな生活を強いられることになる。

体制側にいる白人たちは自分たちの優雅な生活を守るために、黒人に土地は譲り渡したくないし、安価な労働力も手放せない。その結果、大都市やその近辺には数々のアフリカ人居住地区、カラード居住地区が生まれた。ケープタウンの第6区も古くからあるカラード居住区である。老朽化した住宅ばかり、もちろん廃水施設も充分でない。それらの街は、おきまりの穢ない、騒々しい、臭いスラムを形成する。職のない若者たちが昼間から街角にたむろする。犯罪の数も増え、無法者がまかり通る。アドゥニスの殺人も、ちんぴら仲間フォクシィたちのもくろむ強盗も、おそらく極くありふれた日常の、ほんの街角のひとコマに過ぎないのだ。

全編を通してラ・グーマは、その環境のひどさを物語の背後に見え隠れさせているが、殺人の舞台となったアドゥニスやダウティの住むアパートの様子を一部次のように描く。

アパートの床には埃がすぐに溜った。すり切れてそげ立った廊下を住人たちが泥靴を引きずって歩いたあとには、両側の小さな床板の隆起に沿って、埃の小さな土手が出来た。あるいは水がこぼれたり誰かが小便をしたりすると、濡れた箇所が残り、天井や服の縫目から出た埃が宙に舞ってそこに集まり、乾いたときには黒ずんだしみが残る。こぼれ落ちたパンくずや油脂などが踏みつけられて広がると、見えないほど細かい粒となり漂っている埃を吸い寄せた。床板のそり上がったところ、うまくかみ合っていない継ぎ目の突き出たところ、ビクトリア朝しっくいの花飾りや浮彫り細工のあるところ、雨で湿ってふやけたあと次は熱気で乾いてひびの入ったモルタル、すべてが埃を吸い寄せるもとになった。そして湿ってくると腐ったところでは忌まわしい生命が生まれ、細菌がつき、黴が生える。暑くなったり風通しが悪くなるとものが腐り始める。そして、かつては丸ごとあったものや新しかったものが萎びたり腐ったりした。その腐った嫌なにおいが貧しい人たちのアパートじゅうに広がっていた。

隅っこの暗がりやこちらからは見えないが割れ目になっている所では、暑くてにおいがひどくなったり、湿って滑りやすくなる頃には、ダニに南京虫、蛆虫になめくじ、光沢のあるこげ茶色の堅い羽のごきぶり、細い足で死をもたらす小さな灰色の怪物のような蜘蛛、爪や毛に病気を宿し、埃をかぶったような黒い目をした鼠たちが怪しげに動き回っていた。(33~34ペイジ)

そして、ラ・グーマは殺人現場となったアパートの一室、アンクル・ダウティの部屋の様子をも詳しく描き出す。

その老人は少し酔っており、安ワインと汗、それに吐いたにおいを漂わせ、吐く息もくさかった。

部屋は開けたばかりの墓のように暑くむっとしており、片方の壁側には鉄製のベッドが置いてあり、洗たくされていないシーツがかけられていた。その隣には、テーブルとして使う背もたれのない椅子が一つあって、上には吸い殻とマッチの燃えかすで一杯になった欠けた灰皿と強い赤ワインの滓がべっとりついたグラスが一個載っていた。部屋の隅には、壊れかけの戸棚があり、ひびが入り蝿の足跡で汚れた鏡が掛かっていた。戸棚には手埃のついた本が少し積んであり、上に埃が積っていた。別の方の隅っこには、ワインの空瓶が何本もボーリングのピンのように転がっていた。(22ペイジ)

終章の第19章でラ・グーマは、物語の締めくくりに、主な登場人物の真夜中すぎの様子をそれぞれ少しずつ紹介するが、その中に、今は主人亡きアンクル・ダウティの部屋の様子に触れる次の件がある。

暗い部屋の幅木の下の割れ目から、ごきぶりが一匹、用心深そうに現われ、細い髪の毛のような触角をあちこちに振りながら障害物はないかと暗闇の中を探っていた。障害物が何もないのがわかると、ごきぶりは関節で直角に折れ曲った脚で前に進み、床を横切り、床板のはしがそり返ったところを越えた。それからごきぶりは何かねばねばするものに出くわした。それは殺された老人の部屋にこぼれた酒と吐物の混った味がした。その老人の死体はとっくに運び出されており、部屋は警官によって鍵がかけられていた。そして今、部屋にはごきぶりだけがいて、そこには腐敗と死の臭いが漂っていた。ごきぶりはねばねばしたところで暫く立ち止っていたが、どこかで床がきーっとなると、かさかさと小さな音を立てて慌てて逃げていった。しばらくして部屋が再び静かになると、ごきぶりはまた戻って来て貧り食い始めた。(89ペイジ)

アフリカ系アメリカ人作家リチャード・ライトが『ネイティヴ・サン』(1940) を書いたとき、シカゴの黒人居住地区サウス・サイドの環境のひどさを象徴的に表現するために、冒頭部に鼠を登場させた。ライトは、異常に繁殖した鼠が我が物顔に街中を走り回るのを見て、黒人の赤ん坊が就寝中にかみ殺された、という新聞記事を思い出し、鼠を冒頭部に使うことにしたらしい。作品では、登場するとすぐに主人公の黒人青年ビガー・トーマスの手で殺されごみ箱に捨てられてしまうのだが、丸々と太った鼠は狭く、騒々しく、穢ないキチンネットと呼ばれる部屋の、ひいてはサウス・サイド全体の劣悪な環境のイメージを、強烈にまず読者に植えつける役割を演じていた。

 

『ネイティヴ・サン』(1940)

そして、鼠を殺すまでの家族のどたばた劇はこれから始まる慌ただしく騒々しい大事件を暗示していた。

さらに、殺されて厄介ものとしてごみ箱に捨てられた鼠は、死刑を言い渡されてアメリカ社会の厄介者として社会から葬りさられるビガー・トーマスの運命をも暗喩していた。

 

黒人居住地区サウス・サイドのアパート(『1200万の黒人の声』1941年

 ライトの描いた鼠のように、暗闇の中で、アンクル・ダウティの死体から流れ出た血とアドゥニスの吐物を貧るごきぶりは第6区の劣悪な環境を象徴して余りある。この場合、「夜」のイメージから抽き出された闇(darkness)のイメージは、穢なさ、むさくるしさ (dirtiness, sordidness) から忌まわしさ (disgust) にまで広がって行く。

さらに、終章で物語の締めくくりに描き出されたごきぶりの存在は、アパルトヘイト体制が続く限り穢ない暗がりの中で生きることを余儀なくされる黒人たちの運命をも暗喩している。

劣悪な環境のテーマは次作『三根の縄』(のちに『まして束ねし縄なれば』に)にひきつがれ、さらに克明な形で描かれることになる。

 

『まして束ねし縄なれば』

警察国家は「夜」のイメージが象徴的に引き出すもう一つのことがらで、暗黒 (blackness)を連想させる。特に取り上げたちんぴらとの係わりの中でラ・グーマは、先の「劣悪な環境」よりむしろ、この「警察国家」に力点を置いている。

優雅な生活を守るアパルトヘイト体制を維持するために取らざるを得ない形態、それが警察国家である。一人一票制を認めれば体制は崩れ、今のような優雅な生活はない、そんな危惧をぬぐえない白人たちは、不合理を百も承知で力の制圧を強行する。遠くはシャープヴィル、ランガの虐殺、ソウェトの暴動、近くはベンジャミン・モロイセ氏の処刑など、歴史がそれを裏づける。誰でも理由なく逮捕でき、無期限に拘束できるという何とも理不尽な非常事態宣言が今も続いている。デモに参加する黒人たちに容赦なくシャンボック鞭を振るう警官の姿は、海を越えて日本にも映像として伝わって来ている。

南アフリカの黒人が日常生活の中でどれほど警察と深く係わっているかをセスゥル・エイブラハムズ氏とのインタビューの中でラ・グーマは語る。

私たちは南アフリカでいつも警察と背中合わせで生きています。黒人たちは絶えず警察に苦しめられています。パス法でなければ、酔払っているとか、他の社会的問題などによってです。統計を見れば、囚人人ロの多さでは南アフリカが世界でも指折りの国だというのがわかります。南アフリカの黒人たちの生活で警察は大きな役割を演じています。ですから、私が作品の中で係わるように、社会問題に係わろうとすれば誰でも、警察を抜きに考えることは出来ません。私の作品に警察のことがよく出てくるのも結局は、私が意図したというよりはむしろ、避けられないから、ということになると思います。

 

セスゥル・エイブラハムズ氏

 ラ・グーマは体制のそんな担い手の典型としてアフリカーナー白人警官ラアルトにその役割を凝縮させた。

ラアルトはウィリボーイが血を流して苦しんでいるのに、救急車を呼ぼうとする部下を制して、警察署行きを命じた。しかも、署に戻る途中で、切れたタバコを求めてポルトガル人の経営するコーヒーショップに寄り道をしている。急かせる部下には「なあに、時間はたっぷりあるさ。あの野郎はまだ死にかけちゃいねえよ。ここの連中はしぶといのさ。おい、あの店んとこで止めてくれよ。」と言って車を止めさせた。

『遠い夜明け』の中で、脳損傷の兆候が出ているからすぐ病院に、という医師の勧めを無視して、はるかかなたのプレトリア中央刑務所に護送せよ、の命令を下した構図と同じである。(本誌11号27ペイジ)

 

『遠い夜明け』

 ラアルトのウィリボーイを追いつめる執念は異常だった。大騒ぎする群衆に目もくれなかった。発砲を制止する同僚の声も届かなかった。ウィリボーイが隠れて見えなくなったときも、そんな遠くには行っていない、必ず近くに潜んでいるさ、と動じる気配も見せなかった。屋根の上にウィリボーイの気配を感じたとき、ラアルトは貯水タンクの陰で、待った。屋根から飛び降りて足を痛めたウィリボーイが追いつめられてナイフを抜いた時、ラアルトは至近距離からウィリボーイを撃ち倒した。容赦はなかった。まさに獲物を追い詰めるハンター、だった。

ラアルトの異常な行動をみて、アフリカ系アメリカ人のあるリンチ場面を思い出した。うなだれて木に吊るされた黒人を十数人の白人たちがながめている姿が写真には写し出されていた。目の光り方が異様だ。白人たちは、黒人のリンチを見物に、まるでピクニックにでも出かけるように、女子供を連れて出かけた、という。その人たちは、見せしめに黒人をなぶり殺しにすることをむしろ楽しんでいる、そんな風に映る。

ラアルトの場合も捕物をむしろ楽しんでいる風だった。妻との不仲で心が晴れなかった故もあるが、相方の若者アンドリースが「今夜はいやに静かですね。」と言ったとき「静かだな、何か起こってくれりゃいいが。ブッシュマン野郎の汚ねえ首に手をかけてこの手で締め殺してやりてえよ。」と吐き捨てるように答えている。

ラ・グーマは「あなたの使う隠喩的表現には、人間的なものを非人問的なものに同化してしまう傾向があります。ただの叙述的描写のためですか、それとも何か特別な意味を表わすためですか。」と聞かれた時、「私の場合、小説の中では人間らしさを失なった白人を扱っています。ただし、個人的に非人間的な感情はありません。私はまた、肉体的にも精神的にも疎外の問題を取り扱っています。」(本誌7号20ペイジ) と答えている。

「非人間的」ラアルトは、無防備の群衆に向けて無差別に発砲をしたシャープヴィルの警官をほうふつさせる。又、無邪気な少年を撃ち殺したソウェトの一場面を思い出させる。『アモク!』や『遠い夜明け』の映像で再現されたシーンが強烈に目に焼きついているだけに、その思いは強い。

警察国家、官憲の横暴のテーマは『三根の縄』に一部分引き継がれ、第3作『石の国』で刑務所を舞台に、真正面から取り扱われることになる。

「彷徨」の象徴性

亡霊アンクル・ダウティはまた、「彷徨」のイメージを残して去って行く。

サミン氏が「あなたの小説、ことに『夜の彷徨』と『季節終わりの霧の中で』では、登場人物がよく場所を変えて動きます。そこにはどんな意図があるのですか。」と尋ねたとき、ラ・グーマはその意図について語る。

私はただ南アフリカの人々の経験を語りたいのです。選択の余地はありません。人は自らの労働力の切り売りを余儀なくされます。アフリカ人は決してひとところに落ち着くことは出来ません。その場面で他の人物を紹介し、隠された、最下層の南アフリカの姿を示すのもひとつの文学上の手法なのです。細かな部分では自伝的なところもあります。(本誌7号20ペイジ)

3人の主な登場人物は絶えず場所を変えて動く。

アドゥニスは、バスを降りて先ず安レストランに寄り、食事を済ませたあと居酒屋に立ち寄る。それからアパートに戻り、殺人を犯してしまう。事件の後、部屋に居ることが出来ずインド人のコーヒーショップに出かけ、最後は「ジョリー」の店で、とうとうチンピラ仲間に加わってしまう。

ウィリボーイは、安レストランでアドゥニスに会ったあと、暫く街を歩き、金の無心にアドゥニスを尋ねて事件に巻き込まれる。慌ててとび出したウィリボーイは、裏通りからジプシーのシビーン(もぐり居酒屋)に行くが、口論の末たたき出されてしまう。そして暗がりを歩いているときラアルトに発見されて逃げ回ることになる。

ラアルトは、パトロール中にジョリーの店により店主から5ポンド巻き上げ再びパトロールを続ける。そして、ダウティの殺人騒動に出くわし、死体の確認を終えてパトロールに戻った時、ウィリボーイを発見する。それから、追い詰めて仕留めたウィリボーイを警察署に護送中に、既に書いたように煙草を求めてレストランに立ち寄る。

ラ・グーマは「彷徨」のイメージについて更に詳しくエイブラハムズ氏に語る。

私がこの本のタイトルを『夜の彷徨』にした理由の一つは、カラード社会では所詮南アフリカの人種差別に反対する闘争と関連した形でしか人は自分たちの存在を見出せない、ということがいつも心の中にあったからだと思います。その人たちは、さまよい、耐え忍び続けていました。そして、自分たちが貢献する社会の一市民として受け入れられ、一市民であると自認出来るようになるまで、こうして夜の闇をさまよい続けていました。私は、光を見つけ出そうと、夜明けを見ようと、そして何か新しいもの、何か自分たちの限定された社会での経験を越えたものを見ようともがき続ける人物像を創り出そうと努めました。

3人の他にもう一人ジョーという、「彷徨」のイメージを備えた人物が居る。ジョーはアウトローを決め込んだタイプの人間ではあるが、ウィリボーイのように街にたむろして悪事をたくらむちんぴらではない。人畜無害で、岸壁辺りで漁師や釣人たちが捨てていく魚介類を漁って何とか生き延びている浮浪者である。しかし、腹をすかしている自分に、夕食でもとわずかな金を与えてくれるアドゥニスのやさしさを理解する心を持ち合わせている。その証拠に、インド人のコーヒーショップで会ったアドゥニスがちんぴら仲間と親しげに接するのを見て、あとからわざわざ追いかけてきて、あいつらの仲間には入るな、とアドゥニスに渾身の説得をする。

たぶんあんたは大変な問題をかかえこんでいるんだろう。僕なんかよりでっかいのを。僕が言ったように、誰にもみな悩みはあるよ。でもああいう連中は誰もあんたの悩みの手助けなんかになってくれたりはしない。なぜって、あいつら自身がたくさん問題を抱えているからだよ。あんたは悩みを一つ増やすだけだよ。どう言っていいかわからないけど、問題から逃げても、又別の問題が起こる。あの連中のように。あいつら、はじめに起こすのは小さな問題だけど、それから逃げて、又別の問題をおこす、結果的には問題を増やしながら絶えず逃げてばかりいる。全く、わからないよ。(64ペイジ)

ジョーは、言いたいことが喉のところまで出かけていたが、なかなか出て来なかった。うまく言葉にならなかったのである。

アドゥニスの方は、心の中ではジョーの言うことがわかりすぎるくらいわかってはいたが、出て来た言葉は「おまえさんに一体どんな悩みがあるってんだい。」という反発だった。そして「お前さんの家族はどうなってんだい」と問い返す。

ジョーは、自分たちを捨てていった父親や家族のことを話し始める。

僕にはわからないが、たぶん父親にもたくさん悩みがあったんだろう。父親には仕事がなかった。長いこと仕事からあぶれてた、だから食べるものがなかったことが多かったよ。僕と弟マティは朝になると古くなったパン切れをもらいに家々をまわったもんだよ。昨晩のおかずをもらうこともあった。でも家族みんなには到底足りなかった。年老いた母親は食物に決して手を出そうとはしなかったよ。大抵は食物を小さいもの同士でわけて食べた。また、家賃も払えなかった。しばらくして母親は、出て行けという手紙を受け取った。家主は何通も手紙を送って来た。どの手紙にも、きれいに出て行けと書いてあった。それから何人かが紙切れを一枚持って部屋まで入って来て家具を輔道に全部積み上げてからドアに鍵をかけて行ってしまった。もしまた部屋に入ったら、ぶちこんでやるぞと言ったよ。(65ペイジ)

ジョーは更に続けて言う。

年老いた母親は、メアリ、アイザック、マティ、それに僕と一緒に積み上げられた家具のそばにただ座って、泣いた。それから暫くして言ったよ、結局、田舎に戻ってばあちゃんと一緒に暮らすしかないね。中古屋に家具を売って、みんなは戻ったよ。」(65ペイジ)

ジョーは、しかし、母親について戻らなかった。幼な心に、田舎に戻ることは逃げることだ、と考えたからである。勿論、小さな子供であるジョーにこれから先食べて行くあてなどあろうはずがなかった。

それから幾歳月が過ぎ去ったのか。元の生地すらわからないほどに汚れた服を着て、原形すらとどめていない靴をはいたジョーが、ちんぴらの仲間入りなどして自分の悩みから逃げてはいけない、と全身全霊でアドゥニスを諭す。そんな情景を生み出すアパルトヘイト体制とは一体何なのか。

アンクル・ダウティが亡霊なら、アウトローを決め込んで若く貴い命を散らすウィリボーイも、ちんぴらの仲間入りをしてやがてはウィリボーイと同じ運命を辿るアドゥニスもやはり亡霊である。そして、黒人を追いつめることに異常な執念を燃やすラアルトも、今日もまたあてどなく岸壁をさまよい歩くジョーも又、たしかに亡霊である。その亡霊たちは、アパルトヘイト体制が続く限り、各人各様に、「夜」を「彷徨」することを運命づけられているのである。

劣悪な環境と警察国家を浮かびあがらせた「夜」のイメージは、その亡霊たちがさ迷う南アフリカの国そのものを暗に象徴している。又、「彷徨」のイメージは、その国でさまようことを運命づけられた人々の姿を見事に暗喩している。

ラ・グーマは、真実を世界に知らせようと、後世に歴史を伝えようと、1960年代にこの作品を書いた。あれから4半世紀が過ぎ去ったにもかかわらず、南アフリカの事態が基本的なところで何ら変わってないのは残念な限りである。

ラ・グーマが死んで、もうすぐ3年になろうとしている。

今年の8月には、カナダで、アレックス・ラ・グーマ/ベシィー・ヘッド記念大会が開かれる。異国の地で、南アフリカの同僚や後輩が企画したものである。ブランシ夫人が特別ゲストに招かれる。

 

ブランシ夫人

私も参加して、是非その大会の模様をお伝えしたい。(宮崎にて)

(宮崎医科大学助教授・アフリカ文学)

執筆年

1988年

収録・公開

「ゴンドワナ」13号14-25ペイジ

「ゴンドワナ」13号

ダウンロード

アレックス・ラ・グーマ 人と作品5 『夜の彷徨』下 手法

1976~89年の執筆物

概要

1988年9月に大阪工業大学で開催した黒人研究の会創立30周年記念シンポジウム「現代アフリカ文化とわれわれ」の報告です。小林信次郎氏、北島義信氏、Cyrus Mwang氏とともに。私はラ・グーマと南アフリカについて発表しました。3月まで嘱託講師で工学部の学生に授業をしていましたが、その年の4月に宮崎医科大学に着任しましたので、出張の形で宮崎から参加しました。

本文

アパルトヘイトを巡って(シンポジュウム) 

アレックス・ラ・グーマとアパルトヘイト 玉田吉行

 「ゴンドワナ」12号(1988)6~19ペイジ

玉田と申します。3月までここにいて、そっちの方の部屋でビデオを使ってよくやってたんですが、今日は宮崎から来ました。

宮崎医科大学(旧大学ホームページから)

 レジメにありますアレックス・ラ・グーマについて、工大の人も多いみたいですので、どんな人だったかというのを最初に少しだけ紹介して、話に入りたいと思います。

アレックス・ラ・グーマ(小島けい画)

 アレックス・ラ・グーマは1925年に南アフリカのケープタウンに生まれています。そして1954年にブランシ・ハーマンと結婚して、今ブランシさんはロンドンに一人で住んでおられます。1955年に、このことについては少し今日触れますが、「ニュー・エイジ」という週刊新聞なんですが、その記者として採用されています。それから1956年には他155名といっしょに反逆罪で逮捕されました。1962年に一番最初のですけど、『夜の彷徨』がナイジェリアで出版されています。その後1966年にはロンドンに亡命。1970年にはロータス賞を、1969年度の分を70年度に授賞しています。それが、ロータス賞の第1回目になるんですが・・・・・・。そしてANCのロンドン地区議長となります。今のマツィーラさんが東京事務所でチーフ・リプリゼンタテイヴ (Chief Representative) という名前ですから同じで、僕も昨日手紙をいただいたんですけど、Comrade Alex La Gumaと書いてありましたので、やっぱりちょうどアレックス.ラ・グーマの後輩になるわけでしょうか。それから1978年には今度はANCのカリブ代表としてキューバに行っております。1977年にはアジア・アフリカ作家会議の議長になり、1982年にはAALA文化会議に出席するため日本に来て、この中でも何人か会われた方がいます。そして、1985年にキューバで、心臓発作で亡くなりました。

ロンドンに亡命中のブランシさんといっしょに

 去年の夏にカナダで、ちょうど3周忌になるんでしょうか、記念のカンファランスがある予定だったんですが、今年に延期されて、8月にアレックス・ラ・グーマとベシィー・ヘッドのメモリアル・カンファランスが開かれ、そこヘブランシ夫人が特別ゲストで行かれることになっています。

会議のブランシさん

 で、今日の話にうつりたいと思います。まずラ・グーマの話に入る前に少し前置きが長くなるかもしれませんが、お話させていただきたいと思います。横におられるムアンギさんからたぶん後で同じような話がでるかもしれませんが、少しだけ日本人のアフリカについての見方に触れておきたいと思います。

だいぶ前ですが、白いドレスを着た黒柳徹子という人が、黒人の子どもを抱きあげて、まあ、可哀相に、と言っていたのを、たまたまテレビをつけた時に見ました。理由ははっきりしてなかったのですが、僕は少しこれはいかんなという感じがしました。本能みたいなものですけど。理由を考えてみますと、あんまりベタベタ化粧するのは嫌いですし、本物かどうかわからないくらい化粧をぬってますから。それから甲高い声でキーキーやられるのも嫌いですから、それも理由だったんかもしれないんですが、どうもそれだけではない。最近、反アパルトヘイト運動を一生懸命やっておられる東京の楠原彰さんが、ある記事の中で黒柳徹子さんにはユニセフの親善大使をやめてもらわないとダメだ、というようなことを書いておられまして、ああやっぱり同じように思っている方がいるんだなあと思いました。

黒柳徹子さんに関しては他でもいろいろ言われていますが、楠原さんがどうしてそういうことを言われたかというと、昨年親善大使でモザンビークに行った黒柳さんに対してインタビューをして、アフリカとの関係について聞かれた時に、「日本は経済大国ですから南アフリカとの貿易を止めるわけには参りません」と言ったみたいですね。楠原さんはかなり強烈に即時南アフリカとの貿易をやめろと.言っておられますから、そのことによはどカチンときたのだと思います。僕はそれもきっかけになっていろいろ考えたんですが、やはりあの人の姿勢にはアフリカ人に対して対等にものを見ようとする点が欠けているのではないか。これは例えばアメリカのハリエット・ビーチャー・ストウが『アンクルトムの小屋』を書いて、哀れな黒人奴隷に福音書を書いて涙をそそり、それに共感した親たちがそれこそ、まあ可哀相に、と言いながら自分の子どもたちに物語を聞かせてやる、それと同じ人に対する憐れみの姿勢があるのではないか。

そのおかげで、おそらくそのおかげでかなりのお金が集まったようですが、ムアンギさん、飢餓キャンペーンのときは、これはブームではないですかとおっしゃつていましたが、黒柳徹子さん自身はそのことをどうも売り物にしているみたいで、例えば右翼の親玉が土地転がしや競艇で稼ぎながら、片一方では人類はみな兄弟と言いながら大きな金を寄付する、そういう構図とよく似ているように僕は思います。なんとなく偽善のにおいがしてならないのです。

(左から)小林さん、ムアンギさん、北島さんといっしょに

 これもたまたまですけれども、日曜日にあるクイズ番組がありました。この場合も日本人がいつもやっている調子なんですが、司会者はムアンギさんのケニアをとりあげて、甲高い声で次のように言いました。

今夜の不思議の舞台はアフリカ大陸ケニア。見渡す限り広い大草原サバンナ。

ここはまさに動物たちの楽園。巨大なアフリカ象が悠々と歩く。キリンたちがアカシアに長い首をのばす。そしてこの大草原に暮らすのが最強の部族と称えられたマサイ族。近代文明に染まることなく独自の生活を営んできたマサイ族等々。ミステリアスサファリ、ケニア・・・・・・。

スポンサーは日立。そこに解答者として黒柳徹子さんが出ておりました。3問目までは1つもあわないで、4問目に「愛と哀しみの果てに」という映画の話になりますと、それこそこれ見よがしに、「これは私の分野です」と得意そうに眩いておりました。

その後に見たテレビでもそうですが、白人がポップコーンを食べながらズールー人たちの踊りを観客席から見ているーその構図と同じ、という気がしたんです。不思議発見、ケニアのマサイ族ピンポン・・・・・・などといつまでやっているんでしょうかね。世界のヒタチがスポンサーにつき、食事どきのゴールデンタイムに流される番組を見る。もしこれがごく一般の日本人の家庭の家族そろっての楽しい団秦の一コマだとしたら、何とわびしい光景でしょう。そんな団欒だったらいらないと、僕はため息をついて言いたいのです。

前置きが少し長くなりますが、このごろわりと南アフリカに関することが多いので、もう少しテレビ番組の話をさせてください。しばらく前教育テレビで「南ア貿易日本の選択」という討論番組がありました。見られた方もいらっしゃると思います。その中で、アメリカ黒人を撮り続けて有名なフォトジャーナリストの吉田ルイ子さんが「南ア商品のボイコットを求めて日本のいろんな企業を回ったら、非常に冷たい反応であった。日本はもうそろそろ金儲けばかりのやり方を止めて、世界から取り残されることのないようにしましょう。日本は今世界からその姿勢を求められています」と非常に穏やかそうに話しておられましたが、僕の方から見ると、身体は怒りに震えているように思われました。では具体的にどうしたらいいのかということに対して吉田さんは、「南アにいる日本人はぬくぬくと生きてばかりいないで、まず黒人街に行き、その人たちと交流するように心がけて欲しい」と言っておられました。

その発言をお聞きして、僕はその去年の秋に放送されたテレビ朝日のニュース・ステイション「白いアフリカ、南アフリカ共和国」を思い浮かべました。これは宮崎に行って感じたのですが、むこうでは新聞の夕刊もないし、民営放送も二つしか入らない。もちろんテレビ朝日は入りませんので、久米宏という人の顔も長いこと見ていない。ずいぶん昔のような感じなのですが、去年の秋放映された後僕はすぐ授業で使いましたし、こちらにおられる小林先生もお使いになったんで、おそらくこの中にも見た人がおられると思います。思い出していただけるとありがたいのですが。

そのときにヨハネスブルクの日本人学校のことが紹介されていました。ガードマンに固く護衛された学校の校長は、まず子どもたちの安全を守るのが一番だと言いました。セレモニーが行なわれていまして、餅をついたり剣道をやったりして、いろいろな人たちが走り回っていました。そして美しい着物で身を飾った女の人は南アのことを聞かれて「とてもすばらしい国だと思います。きれいですし、食べ物はおいしいですし、こういうティーセレモニーもさせていただけますし・・・・・・」と答えていました。しかしアパルトヘイトに関する質問になってくると一様に「お答えできません」この一点ばりでした。そして僕は非常に腹が立ったのですが、子どもたちは自分の家にいる黒人のメイドたちのことを「住むかわりにやっぱり働かせてあげるっていう感じで」とか「雇ってあげないと職がないですからね」とか平然と答えていました。さらにその中の一人は関西弁で次のように言いました。「ぼくはですね、この国あまり好きちゃうねんけど、あの、恐いという印象が多いんですよね。ほしたら、おやじさんがいいから楽しめというんですけど、なかなか楽しめないんですよ」

あれからもよく考えたんですけど、この少年の父親はおそらく「お前らを楽させてやるから、おれのように一生懸命勉強して一流の大学に入り、お前も一流の企業に入ってこんな立派な生活をするんだぞ」と言いたかったのでしょう。この親たちは子どもたちに、いったい何を伝えているんでしょうか。

この人たちのことを考えると、ラ・グーマは貧しかったけれど、ほんとうに貧しかったようですが、すばらしい父親をもって幸せだったと思います。これは僕の個人的なことになりますが、特にオヤジさんが立派な人というのは何よりも宝だと、まだ生きている僕のオヤジに対して失礼なのですが、思います。

ラ・グーマ

 筋金入りの闘争家の父ジミー・ラ・グーマの生き様を見て育ったラ・グーマは、1937年スペインでフランコ独裁政権に自由を渡すなと国際義勇軍が結成された時、わずか13歳で志願しています。これは余談になりますが、日本からもちょうどその時密出国してニューヨークにいたジャック・白井という人が、実際にスペインに行って戦死しています。

わずか13歳でそのようなことを考えついたのは、おそらく自宅が若い活動家たちの出入りする拠点だったからでしょう。そしてまたオヤジさんがいたからでしょう。

そういうふうにラ・グーマは早くから解放闘争の渦中にいたわけですが、生まれた国で法律によりあたりまえの人間としてみなされていないわけですから、いわばラ・グーマの生き方は人間を取り戻すための闘いであったとも言えます。

ラ・グーマは闘争家でもありましたが、同時にすばらしい芸術家でもありました。ペンの力を充分に知っていました。ラ・グーマは作家として2つのことを常に念頭においていました。1つは、今現在南アフリカに起こっていることを世界の人々に知らせるのだ、ということです。

もとより白人の利害に従って考えられたアパルトヘイトは、私たちが想像している以上の文化荒廃をもたらします。次のラ・グーマの記事を読めば、おそらくそのひどさに驚かずにはいられないでしょう。アジア・アフリカ作家会議の季刊誌「ロータス」に1975年に載ったものです。

今まで述べてきたことが、南アフリカの作家にとって一体何を意昧しているのでしょうか。最もはっきりしているのは、多数派の黒人の利用できる文化施設が少数派の白人のに比べてはるかに劣っており、ある場合にはその施設が無きに等しい、ということです。ヨハネスブルクに労働力の大半を供給している巨大なアフリカ人居住地区ソウェトでは、ほぼ百万の人口に対してたった一つの映画館で、鑑賞できる映画の数は検閲制度によっておびただしく制限されており、アフリカ人は白人の十六歳以下と同じレベルに置かれています。国内にある優れた図書館は黒人に閉ざされています。ほとんどの黒人は劇場やコンサートホールの内側を見た経験もないのです。

アパルトヘイトは人種間の交流を絶ち、その間に大きな壁を作ります。またテレビ番組になるのですが、イギリスで作られた「教室の戦士たち-アパルトヘイトの中の青春」これは最近放映されたのですが、同じ16歳の白人シスカと黒人シルビアという二人の高校生が、自分たちの住まいを紹介しながら交互に語ります。

白人の高校生シスカは次のように言います。

南アのアパルトヘイトは世界の非難の的ですが、白人と黒人はごく自然に分かれているだけです。今の南アには人種差別はありません。白人と黒人の間に差別があるなんて根拠のないことだと思います。アパルトヘイトは白人と黒人の間に垣根を築いて一切の交わりを絶ってしまうものだと思われがちです。いろんな施設、学校とか映画館なんかが別々だってこともよく引き合いに出されます。でも、今ではそんなことはありません。白人は黒人や混血やインド人アジア系の人たちと多くのものを分かち合うようになってきました。そして次のように結びました。

ここ何十年かは急激な変化はないと思います。

一方、黒人の高校生シルビアは、

アパルトヘイトというものは、人間を肌の色ではっきり分けてしまうことです。例えば、ヨハネスブルグの公衆トイレは男性女性で分けるのではなく、白人黒人で分けてあります。学校でだって、黒人は自分たちが他の民族より劣った存在だと教えこまれ、一方白人は互いに助け合いましょうと教わっています。黒人はそんなことを一度も教えられたことがありません。一つの国の中で同じ考えや理想を頒ち合えないことがアパルトヘイトだと思います。

と、そういうふうに言っています。

白人高校生シスカが「今の南アには人種差別はありません」と言っても、実際にテレビに映っているソウェトの狭く汚ないシルビアの住まいと、プールつきの広くきれいなシスカの邸宅を見る聴視者の誰が、それを信じることができるでしょう。最近放映された『遠い夜明け』の中でもそうでした。警視総監クルーガーのあの豪邸と、ビコがドナルド・ウッヅを案内したスラム街キングウィリアムズタウンのその家々との格差が、私たちの目には焼きついています。そんな私たちにシルビアの言葉はただ空しく響くだけです。知らないことの恐ろしさをまざまざと見せつけられます。

『遠い夜明け』

 ラ・グーマは知らないということの重要性を作家として充分に認識しており、あるインタビューの中で次のように述べています。

作家たちは今まで南アフリカ一般の状況を描こうと努めてきてはいますが、違った人種グループと現に南アフリカに住む人びとについては殆んど語られては来ませんでした。例えば、カラード社会やインド人社会については多くは語られて来なかったと思います。人種がそれぞれ隔離された状況の中であっても、作家には果たさなければならない仕事があります。少くとも現在起こっていることを世界に知らせて行かなければなりません。たとえ隔離された社会の範囲の中でしかやれなくとも。

そう言っています。

ANCの一員であったラ・グーマの願いも民主総合国家の実現でしたから、実状を知らせることはその第一歩でもあったわけです、

ラ・グーマの真実を伝えようとする姿勢は1955年にリポーターとして採用された左翼系週刊新聞「ニュー・エイジ」で培われます。「ニュー・エイジ」は1962年に廃刊に追いやられた命の短かった新聞です。これはおそらくイギリスでしか手に入らないと思っていましたが、最近までコロンビア大学に留学されておられた会員の山本伸さんに無理をお願いして探していただいたら、ニューヨークにもそのマイクロフィルムがあって、今ここにそのコピーがあります。その中には例えば次のような記事があります。1957年ヨハネスブルグで行なわれていたあの有名な反逆裁判の模様を伝えた記事です。タイトルは「皆それぞれに大変だが、不平をこぼすものは誰一人としていない」です。

私は被告たちの不平や後悔や泣き言を見つけ出そうとしましたが、無駄でした。見つかったのはただ、自信と温かさと気概だけで、それらが不退転の決意で固められているのを知るだけだったのです。ここには、人間の魂と、前進しようとする意志と、前向きにものを見つめ、全体の目的のためには個人の辛苦をも耐え忍ぼうとする勇気があります。またレンガにモルタル、筋肉に腱など、新しい生命を創造するのに欠かせない生きた血が、ここにはあるのです。

そういう記事でした。

『夜の彷徨』が発禁処分を受けたという「ニュー・エイジ」の記事

 ラ・グーマはアパルトヘイトはよくないとか、政府はこうあるべきだとか、新聞では言いましたが、文学作品ではいっさい語りませんでした。ありきたりの青年が、ひどい環境の中で、どれほど簡単にチンピラの仲間入りをするか、そういうことを書きました。また人々がいかに官憲の横暴に傷つけられているかを書きました。例えば今、年表の方で見ました『夜の彷徨』の中では、主人公マイケル・アドゥニスは、街で擦れ違った警官に尋問されます。まず、マリファナはどこだと聞かれます。初めから犯罪者扱いです。嫌疑を否定すると、今度はポケットの中味を見せろ、です。ポケットの中にある金を見つけると、実は給料の一部だったのですが、どこで取ったのだ、そういう質問です。そして結局、讐めるものがないとわかると、警官の一人は肘でアドゥニスをゴキッと突いてから、悠々と歩き去りました。これはすべて通りでみんなが見ている白昼に堂々と行なわれています。

編註書『夜の彷徨』(門土社、1989年、表紙絵小島けい画)

 それから第2作目の『三根の縄』(のちに『まして束ねし縄なれば』に改題) では、主人公チャーリーは恋人フリーダと寝ている最中に手入れを受け、泥靴で踏み込んできた警官に「マリファナはどこだ」と尋問されます。そして名前を聞き、二人がまだ夫婦でないのを知ると、警官の一人は恋人フリーダに「この黒んぼの淫売め!」と罵り帰って行きます。別の手入れの事件では、ある男性が裸のまま手錠をかけられて連れて行かれます。またその手入れをガウンを引っかけて見に出た男が、パスを調べられて、パスが無いと「パスは家の中にある」と叫びながら引っ立てられて行きます。

そんな姿を見せつけられる読者は、白人政府にとっては、1960年の悪名高いシャープヴィルやランガの虐殺、あるいは1976年のソウェトの主として黒人高校生にょる反乱に対する当局の武力による鎮圧が、日常茶飯事のことで、その延長上でしかなかった、そんな思いがするのです。

また、ラ・グーマは『三根の縄』で雨をうまく使っています。政府の観光用の宣伝に、南アフリカは非常にすばらしい、天気の良いところだ、と書いてあります。それを逆手にとりました。現実にはスラム街は雨によって苦しめられている。そういう苦しみを味わっているラ・グーマはその雨をうまく利用しました。

例えば、チャーリーの妹キャロラインが粗末な小屋で出産をします。そのときには雨漏り水が溜まって床の上をつたっています。産婆さんは来ません。苦しいそういう状況を書いています。そして手入れに来た警官の一人は中を覗き、「ああ、もう信じられん」と叫びます。

でも読者は、キャロライン自身が実際に鶏小屋のようなところで生まれたこと、そして本人もまた子どもをこんな惨めなところで産み、おそらくその子どももまたアパルトヘイトが続く限りそういう状況で産むだろうことを予測します。

一つ目が長くなりましたが、もう一つラ・グーマの念頭にあったのは、作家として歴史を記録するということです。今日僕は南アのテレビの父親の話をしましたが、おそらく父ジミー・ラ・グーマが自分に贈ってくれたように、ラ・グーマは次の世代に、きっと日本にいらっしゃるマツィーラさんも含めて、その人たちに何か贈れるものをと思って残していったにちがいありません。

これは基本的な問題に係わることですが、研究のための研究はないし、文学のための文学もありません。私たちは自分たちの子孫にこれから手渡して行ける何かを探しながら、ラ・グーマが残していってくれたメッセージを次の世代に引き継いでいきたいと思うのです。どうもありがとうございました。

『まして束ねし縄なれば』(門土社、1992年、表紙絵小島けい画)

小林 ありがとうございました。内容があまりにもたくさんありますのに時間が短いので、玉田さんには途中で時間を切りまして失礼致しました。後ほどまた十分の間に整理していただきたいと思いますが、デヴォーさんと同じように、デヴォーさんの五番目の詩「現代を生きるのは、黒人女性には困難である」と同じように、作家のメッセージ、それは歴史を記録することである。さらにまた無知に安住してはだめだ。そして究極的には人間を取り戻すことだということを、玉田さんが平生みていらっしゃいますテレビ、これは私たちにも関係深いのですが、このコメントからいろいろ報告して下さいました。

今発表なさいました玉田さんに、どうしてもこのことについては聞きたいということがありましたら、遠慮なく質問紙に書いていただきまして私の方に、後ほど回収致しますので届けていただければありがたいと思います。

端折りまして恐縮ですが、では続きまして北島さんの方から「アパルトヘイトと宗教」というタイトルでご報告願いたいと思います。よろしくお願いします。

執筆年

1988年

収録・公開

「ゴンドワナ」12号6-19ペイジ

「ゴンドワナ」12号

ダウンロード

「アパルトヘイトを巡って」(シンポジウム)