2000~09年の執筆物

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通信(MonMonde)」に『ナイスピープル―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―』の日本語訳を連載した分の7回目です。日本語訳をしましたが、翻訳の出版は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、経済的に大変で翻訳を薦められて二年ほどかかって仕上げたものの出版は出来ずじまい。他にも翻訳二冊、本一冊。でも、ようこれだけたくさんの本や雑誌を出して下さったと感謝しています。No. 5(2008/12/10)からNo.35(2011/6/10)までの30回の連載です。

日本語訳30回→「日本語訳『ナイスピープル』一覧」(「モンド通信」No. 5、2008年12月10日~No. 30、 2011年6月10日)

解説27回→「『ナイスピープル』を理解するために」一覧」(「モンド通信」No. 9、2009年4月10日~No. 47、 2012年7月10日)

本文

『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―

(6)第7章 イアン・ブラウン

ワムグンダ・ゲテリア著、玉田吉行・南部みゆき訳
(ナイロビ、アフリカン・アーティファクト社、1992年)

第7章 イアン・ブラウン

 イアン・ブラウンは34歳の長身で、躾の厳しい環境で育てられました。祖父は、第2次世界大戦の何年も前に英国のシェフィールドを離れて南アフリカに渡り、現在のスタンダード銀行の原型になる店の1つを経営しました。南アフリカからケニアに来ると、ナイロビ初の銀行業務を行なう施設の1つ南アフリカ・スタンダード銀行を他に先駆けて経営しました。イアンはその銀行の融資部で働いているのです。ケニアの水準からすれば金持ちで、ナイロビのビヴァリー・ヒルズと言われるムサイガに住み、ジャガーを乗り回し、ムサイガや他の高級クラブでゴルフをしました。ナイロビ1番のお気に入りの場所はクラブ1990でした。

ナイロビ市街

クラブ1990は、特殊な意味で、異性をひっかける格好の場所でした。全ての客、鞭打ち、3P、フェラチオ、クンニ、バイブの使用、アナルセックスなどの西洋風の性愛行為を好む人たちも店に惹きつけられました。クラブ1900に集まる男も女も、日本円や米ドル、ドイツマルクや英国ポンドに群がりました。

最初にイアンを惹きつけたのは、メアリ・ンデュクの大きな胸でした。イアンの言うことをメアリが書き留めている間、イアンはいやらしい目つきでメアリを見つめていました。自分に気があるとわかったメアリは、以前よりも胸元の谷間を強調したブラウスを着始めました。自分の胸元から視線を逸らすことが出来ずにイアンの目が前より大きくなるのがメアリには分かりました。イアンは、メアリが自分の言うことを書き留める機会を以前より増やしました。英国男は胸の大きな女に惹かれるんだわ、道理でプレイボーイやペントハウスやメン・オンリーなどの雑誌にこの手の裸の写真が一杯なのね、とメアリは思いました。

2人が会う時には、メアリはイアンについては何も私には喋りませんでした。2人で踊った時です。メアリは大きな胸を私に押し付けてきましたが、間違いなく誘っているサインでした。イバダンでは長い間恋人がいなかったこともあり、私は、この美しいカンバ娘の誘惑に乗りました。メアリは私に番号を手渡しました。シリーナホテルでのデイトを楽しみにしながらその後の何日間かを過ごしました。当日は、私はホワイトキャップを、メアリはマティーニを飲み、19シリングもの大金を払いました。

私は代金を支払いながら、もう少しで、2度とこんなホテルに来るものかと悪態をつきそうになりました。メアリは、プジョー304で私をンデルまで送ってくれました。2人は地元の安宿で一晩を過ごしました。素敵一夜でした。イバダンの安上がりの商売女と寝るのとはまったく違いました。

イバダン市街

2人が会う時には、メアリはイアンについては何も私には喋りませんでした。2人で踊った時です。メアリは大きな胸を私に押し付けてきましたが、間違いなく誘っているサインでした。イバダンでは長い間恋人がいなかったこともあり、私は、この美しいカンバ娘の誘惑に乗りました。メアリは私に番号を手渡しました。シリーナホテルでのデイトを楽しみにしながらその後の何日間かを過ごしました。当日は、私はホワイトキャップを、メアリはマティーニを飲み、19シリングもの大金を払いました。

ホワイトキャップ

私は金を支払いながら、もう少しで2度とこんなホテルに来るものかと悪態をつきそうになりました。メアリはプジョー304で私をンデルまで送ってくれました。私は地元の安宿で一晩を過ごしました。素敵な一夜でした。イバダンの安上がりの商売女と寝るのとはまったく違いました。

メアリと私はその後も会い続けました。そのうち、メアリは愛人のイアンについて事細かく打ち明けるようになりました。

ある日、メアリはうっかりハンドバッグを診療所に忘れていきました。私は興味に駆られて、いつも持ち彼女が持ち歩いているお気に入りのそのバッグを開けてみました。中には、猥褻罪で刑務所送りになり兼ねないような写真が入っていました。1枚は、アナルセックスをしている様子の黒人女性の写真でした。そしてもう一枚は、どうやら白人男性がアフリカ人女性とセックスしているようでした。2枚目の写真は少し異常な写真で、危うく吐くところでした。

ケニア地図

メアリは私が酷く怒っているのに気付きました。私がメアリを殺す可能性もあったほどです。しかし、メアリは、ブラウンの愛人は自分ではなく料理人のオパンドだと言いました。ブラウンにとってメアリの立場というのは、自身の同性愛嗜好を隠すためでした。そのために、メアリに家や車を買い与え、銀行のローンも制限なく使えるようにしました。メアリは、この世で一番大事なのは、あなたジョゼフ・ムングチなのよ、と私に念を押しましたが、私は俄に信じられませんでしたが、それが嘘と分かるまでにそう長くはかかりませんでした。

誰かにメアリの毒牙から救い出してもらう必要がありました。メアリは意志が固く、易々と諦める女性ではありませんでした。愛人を何人も作って大金を吸い上げる女がナイロビには大勢いるのよ、と言って私を納得させようとしました。メアリの同僚には、常に3、4人の企業の重役を恋人に持つ秘書もいましたし、ある友人は、3人の男に同時に出産手当金を工面させました。男たちは皆、自分が父親だと信じていました。自分はそんな類の女ではないわ、とメアリは哀願するような目で私に言いました。

メアリはきちんとした女性で、複数の愛人がいたわけではません。実際にはイアン・ブラウンがメアリと寝ることはありませんでしたが、スタンダード銀行や、ムサイガやシゴナのクラブで、自分が洗練された金持ちの独身青年で、同性愛者ではないと見せかけるためにメアリに金を払っていました。メアリが気の毒に思えました。どんな理由にしろ、ブラウンの人生の中でメアリが担っている役割には賛成出来ませんでしたから。しかしながら、私がこの金持ちの英国男に嫉妬していたのか、それともただ単に同性愛者に対する嫌悪の念を表わしていただけなのかは、当時の私には判断がつきませんでした。

HIV

●メールマガジンへ戻る: http://archive.mag2.com:80/0000274176/index.html

執筆年

2009年6月10日

収録・公開

モンド通信(MomMonde) No. 10

ダウンロード

『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(6)第7章 イアン・ブラウン

2000~09年の執筆物

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通信(MonMonde)」に『ナイスピープル―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―』の日本語訳を連載した分の5回目です。日本語訳をしましたが、翻訳は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、経済的に大変で翻訳を薦められて二年ほどかかって仕上げたものの出版は出来ずじまい。他にも翻訳二冊、本一冊。でも、ようこれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。No. 5(2008/12/10)からNo.35(2011/6/10)までの30回の連載です。

日本語訳30回→「日本語訳『ナイスピープル』一覧」(「モンド通信」No. 5、2008年12月10日~No. 30、 2011年6月10日)

解説27回→「『ナイスピープル』を理解するために」一覧」(「モンド通信」No. 9、2009年4月10日~No. 47、 2012年7月10日)

本文

『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―

(5)第6章 メアリ・ンデュク

ワムグンダ・ゲテリア著、玉田吉行・南部みゆき訳
(ナイロビ、アフリカン・アーティファクト社、1992年)

第6章 メアリ・ンデュク

メアリ・ンデュクは158センチで、カンバの間では美しいと考えられていた明るい肌の色をしていました。父親は不明でしたが、母親からは「おまえはとても立派な人の娘なんだよ。」と教えられていました。母親のムウェンデが産んだ6人の子どもは、父親が皆違いました。それでも、ムウェンデは女王蜂のように慎重に雄蜂を選びました。ムウェンデはタラ高校で調理師として働いたあと、ニエリの少年院では賄い婦として働きました。長男のジョンの父親は村の村長でした。ムウェンデを自分の手元に置いておきたいと思ってその子を二年間は養いましたが、当のムウェンデが第二夫人になることを望まず、今度は学校の校長に乗り換えて、別の子をもうけたのです。校長はのちに当地区の官吏になり、やがては地区の長官になりましたが。それから一年もせずに、朝鮮で第二次世界大戦を経験した陸軍の曹長との間にカヴィラが生まれました。帰還するとすぐにマウマウと戦うため、「英国王アフリカライフル部隊」に配属され、ニエリの少年院で曹長はムウェンデと出会ったのです。

ニエリ珈琲農場

非常事態で国の状況が一番厳しい時に、ジョン・キマニ医師との間に4番目と5番目の子供を産みました。 ニエリの居住地区で暮らす家族には厳しい時代でした。マウマウの壊滅活動によって、食料の供給が少なくなって物価が急騰しました。

ムウェンデが、一家の仮の主人としてキマニを選んだその頃は、良い時代などと言えるものでありません。政治的混乱の最中で、キマニはなんとか家族を養ってはいましたが、ムウェンデと結婚するつもりはありませんでした。居留地からマウマウをあぶり出して一掃するために、エンブとメルとギクユの出身者は強制収容所に送り込まれていました。

末っ子のレベッカが生まれる頃には、すでにメアリはタラで高校に通っていました。メアリは決心していました。夫を何度も変え、父親のいない子供を50人も産みかねない母親のようには決してならない、と。父親の話が出るといつも、自分が普通の子供のようには育てられなかったと感じて、メアリは心の底で涙を流すのでした。

ムウェンデは気前がよくつき合いのいい女性で、非常に働き者で、抜け目がなく頑固でした。男の習性については知らないことはありませんでした。慎重に連れ合いを選び、ほぼ数学的な精密さで妊娠にこぎつけるのです。子どもたちの父親に養育費を出してくれとは言いませんでしたが、人は良いのに男は皆、1週間しないうちに自分に我慢ならなくなるのが唯一の欠点であることだけは受け入れて欲しいと言いました。そのあと、ムウェンデの癇癪が二人の間に支障をきたすようになると、その男を自分の人生から排除するのです。男たちが来ては去って行きました。出て行く男の数が増えるほど、ムウェンデは、子どもたちをまともに食べさせ、まともな身なりをさせ、十分な教育を与えられる家庭を一人で築けることを人にわからせてやろうと心に誓いました。

メアリの話から私も色々と思い出しました。メアリ自身は、ナイロビで秘書をやっていました。再会したのは、医学部主催の新年ダンスパーティーの会場ででした。タラ高校時代のクラスメイトが連れて来ていたのです。ムウェンデの子どもであることは15年前から知っていましたが、会うのは高校以来でした。ナイロビ大学で臨床心理学の講師をしているスティーヴが、当時18歳のメアリを妊娠させて、メアリはそのままタラ高校をやめてしまっていたのです。
スティーブがメアリを紹介したとき、私は知らない振りをしました。

ナイロビ大学

「こちらはムングチ先生。ジョー、こっちはメアリ。僕たちすごく親しいんだ」と、スティーヴはお互いを紹介しました。
「うそ、親しくなんかないわよ。あなた6年前に私に迫ってきて母親にしておいて、それ以来別れたままでしょ」と、メアリはぴしゃりと言いました。スティーヴの紹介をその場で言い直した屈託のなさに私はとても驚きました。
「ジョゼフ、本当に私のこと知らないの?」と、メアリが尋ねました。

子どもの頃、私はジョゼフで通っていて、20年前の私を知っている人間だけが、その名前で呼んだのです。私はメアリを見つめました。あのムウェンデの末娘が今やすっかり大人になっていました。ひとりの成熟した女性でした。もし品の良さというものが、唇を半開きにして、伏せ目で音を立てずに飲み物をすすり、相手に耳を傾けながら熱心に頷きながら、必要な時だけほんの少ししとやかに顔を斜めに動かすということを指すのなら、メアリには何かしら品の良さがあると思いました。

メアリは今の私の状況をかなり知っていると思いました。ケニア中央病院での研修のことやンデル市場街の「ミニ病院」のことを誰が教えたのだろうと不思議に思いました。

メアリを知っていることを認めて、「ニエリ認可校の美人、ンデュクだね。」と、私は言いました。確かにメアリのことは知っていました。休日に、ニエリにいた父に会いに行った時のことです。非常事態宣言が出されていた間、父はニエリに(赴任させられ)配置換えになっていました。植民地政府が言う「更正役人」だった父の任務は、マウマウ抑留者が暴力停止の必要性を認め、白人支配を受け入れるように説得することでした。

ニエリ珈琲農場で

私とメアリの家族は、同じ抑留地内に住んでいました。確か父は、ンデュクの住まいには1度も入ったことのない、ただ1人のVIPでした。両家とも6人家族でしたが、1つ違いがありました。私の母親には夫がいましたが、ンデュクの母親に夫はいませんでした。私たち家族の社会的地位を、ンデュクが妬み、私たち家族のような立派な家庭を作るという思いに取り憑かれていたことなど、当時の私には知る由もありませんでした。

そういった家族の方針からすれば、スティーヴとの赤ん坊のことはたまたまの事故だった可能性もありますが、メアリは相変わらず毅然としていました。私に微笑みかけ、親しみをこめて私の名前を呼ぶので、思い切ったメアリの誘いに誤解のしようもありませんでした。それから、今は結婚していて二人の子ジョンの面倒もみているスティーヴの傍から、メアリはぱっと身を離しました。

後になって、私はメアリが贅沢に暮らしているのを知りました。身に着けている洋服や靴は、地元のものではありません。自宅の調度品も見事でした。全てが栗色のマホガニー材です。部屋には絨毯が敷き詰められ、台所の設備も整っていました。何とかやってきた陰には苦労もありました。メアリの愛人、イアン・ブラウンは地元のスタンダード銀行で融資部長を務める英国人でした。メアリはその秘書で、自分の上司が求めるもの、絶対的忠誠心を捧げたのです。

ナイロビ市街

●メールマガジンへ戻る: http://archive.mag2.com:80/0000274176/index.html

執筆年

2009年5月10日

収録・公開

モンド通信(MomMonde) No. 9

ダウンロード

『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(5)第6章 メアリ・ンデュク

2000~09年の執筆物

概要

(概要作成中)

本文(写真作業中)

 

執筆年

2009年4月10日

収録・公開

モンド通信(MomMonde) No.8

ダウンロード

『ナイスピープル』とケニア