2000~09年の執筆物

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通信(MonMonde)」に『ナイスピープル―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―』の日本語訳を連載した分の8回目です。日本語訳をしましたが、翻訳の出版は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、経済的に大変で翻訳を薦められて二年ほどかかって仕上げたものの出版は出来ずじまい。他にも翻訳二冊、本一冊。でも、ようこれだけたくさんの本や雑誌を出して下さったと感謝しています。No. 5(2008/12/10)からNo.35(2011/6/10)までの30回の連載です。

日本語訳30回→「日本語訳『ナイスピープル』一覧」(「モンド通信」No. 5、2008年12月10日~No. 30、 2011年6月10日)

解説27回→「『ナイスピープル』を理解するために」一覧」(「モンド通信」No. 9、2009年4月10日~No. 47、 2012年7月10日)

本文

『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―

(8)第9章 マインバ家

ワムグンダ・ゲテリア著、玉田吉行・南部みゆき訳
(ナイロビ、アフリカン・アーティファクト社、1992年)

第9章 マインバ家

 ゴッドフリィ・マインバは50歳でした。妻は7歳年下でした。2人は、しゃれたレッドヒル地区に住んでいました。その地区には、ナイロビのビジネスマンや管理職クラスの人たちが6000坪ほどの敷地に住んでいました。調度品も選りすぐりで、家の設備も整い、最新式の電子防犯システムまで付いていました。防犯システムがあるにもかかわらず、警備員が24時間じゅう、家の監視をしていました。

ユーニス・マインバはナイロビ大学で最年長の秘書、実際は個人的な助手として働いていました。裕福でしたが、現役で社会の役に立ちたいという思いから、ユーニスは仕事を大切に思っていました。夫のマインバ氏は国内でも大手の銀行の頭取でした。

マインバ氏は理想の夫でした。が、果たして本当にそうだったのでしょうか。酒も煙草も嗜まず、ナイロビの売春婦を買うこともありませんでした。

20年間、まったく妻一筋で、仕事場へ車で送り、帰りも、時間通りに妻を乗せて帰宅しました。家ではテレビをいっしょに見て、いっしょに食事をし、10時にきちんと床に就きました。友人や近所の人たちの間では、ナイロビでの2人の生活は多くの人の羨望の的でした。

************************

 正午にそのユーニスがナイロビ病院に連れてこられました。左目のちょうど上辺りの額の傷口から、夥しい血が流れ出ていました。

私は最初、ユーニスの支離滅裂なギクユ語の意味が分かりませんでしたが、同じ言葉を何度も繰り返すのを聞いているうちに、ユーニスが何を言っているのかが判りました。

「もっと(ちょうだい)下さい。ンジェリさま、もっと(よ・・・)……」と、ユーニスが金切り声で叫んだので誰もが驚きました。錯乱した妻が何かはわからないが今自分が持っているものを更にもっと欲しいと執拗に繰り返す姿に、マインバ氏はすっかり狼狽していましたユーニスが執拗に自分の夫にねだっているものが何なのかが分かったのはことの真相がすべて明らかになった時でした。

どうやら、マインバ氏は着替えをする時間もなかったようでした。高価な絹製のパジャマの上に毛織のナイトガウンを羽織っていました。髪をくしゃくしゃにして、妻が血を流して取り乱したので、取り敢えず家内を病院に担ぎ込むしかなかったとマインバは説明しました。

「今日は仕事を休んでいます。」と、マインバ氏は説明しました。「私の血圧がまた上がり出して、午前中休みを取りました。家内にはどうもそれがいけなかったようです。」と、付け足しました。

「もっと、もっと!」と、ユーニスは血が流れている頭を危っかしく持ち上げて叫び続けました。

私はケニア中央病院の通り向かいにあるナイロビ病院に相談役のオングチ教授を訪ねて来ていました。教授が廊下で私を見送って下さっていた時に、ちょうどマインバ夫人が運び込まれて来ました。

ナイロビ病院

「生理学的にこの患者を治療するつもりなら、ご婦人の頭をしっかりと押さえておいてくれよ。」と教授が看護部?に言いました。それで看護師はまるで喧嘩をしているような感じで婦人の頭をしっかりと押さえました。私は両手をしっかり掴んだまま、診療台の所まで夫人を運んで行きました。自傷行為の恐れがあったので、夫人をその台に紐で縛りつけておく必要がありました。額を診察する前に、教授は鎮痛剤を打って夫人を落ち着かせることに決めました。診察した傷口は深く、かなりの縫合が必要でした。教授は15年かけてその技術を完成させて、上顎の外科手術では有名でした。

かなりの量を使って局部麻酔をしても、静かにしておれない患者に絶えず文句を言い続けるのが、教授の唯一の問題でした。看護師は酸素吸入を手伝い、私が手術器具を教授に手渡し、教授が縫合する傍らでその糸を切りました。夫人の傷口は12分ですっかり縫合が終わり、麻酔はまだ効いていましたが、夫人は拘束を解かれました。しかしユーニスの心は、親しみを込めて夫を呼んでいた名前「ンジェリさま」(――親しみを込めた夫の呼び名ですが――)に何かが欲しいと叫び続けていました。

「さてと、救急の方は、患者はこれで最後だな。あとの患者は入院担当の方に任せよう。」オングチ教授は宙で両手を振りながら、そう宣言しました。その後、マインバ夫人は担架に乗せられてマヤ・カーベリー病棟に運ばれていきました。

マインバ夫人の不思議な病気の不思議な物語の真相が明らかになったのは、夫人がその病棟に滞在している間のことでした。
マインバ夫人の不思議な病気の不思議な話の実体が明らかになったのは夫人が入院している間のことでした。

前日、マインバ氏はケニア雇用者連盟の年次総会に出席するためにモンバサに行くつもりだと言っていました。朝の7時にマインバは公用車のベンツで運転手に迎えに来てもらいました。スーツケースには、1週間もつように、髭剃り、歯ブラシ、櫛、靴下、下着、ベスト、シャツ、サファリスーツ3着分などの持ち物がぎっしりと詰まっていました。いつものように、夫人が用意してくれた詰めた衣類を確認してから自分で車のトランクにスーツケースを入れました。マインバは、モンバサに着いたら電話をすると約束し、5日後に戻れるといいのだがと言って朝の7時に出かけました。

ケニア地図

マインバ夫人は小さい方の車BMWに乗って家を出て、大学の職場に向かいました。仕事部屋に入るとすぐに、副学長も同じ総会に出席するためにモンバサ行かれました、というメモを見つけました。とにかく副学長が大学にはいないということです。タイプや口述筆記などの副学長秘書の仕事もないと分かった夫人は、急いで自宅に戻り、生まれてくる孫のために作りかけていた編みものを持って来ることにしました。10時に出て車を走らせ、10時半にレッドヒルの自宅に到着しました。

いつものように警備員が扉を開け、ユーニスは台所側から家の中に入いりました。急いで居間を横切り、二人の寝室に入りました。寝室には鍵はかかっていませんでした。最初は、夢をみているのだと思いました。映画でもそんな行為を見たことがなかったからです。目の前の光景がただ信じられませんでした。自分の寝室ではあり得ませんでした。しかしよく注意して見ると、自分の夫がメイドのムワナイシャといっしょだと判りました。衝撃でした。こんなことがあり得るのでしょうか?夫人は現実でなければと思いました。

「あなた!」と、夫人は信じられない思いで叫びました。ゴッドフリィ・マインバが自分とメイドが妻という招かれざる客を迎えているのに気付いたのは、夫人が叫び声を上げた時でした。

マインバ夫人は、完全には幻覚症状から回復しませんでした。そこで、その不思議な病気の原因を明らかにするために、病院外で優秀な精神科医に診てもらうことになりました。

優秀な精神科医ダニエル・ンデテイは、マインバ夫人は突発性振戦譫妄、つまり夫が自宅のメイドとベッドにいたのを目撃した瞬間に起きた精神異常の重い症状に苦しんでいると診断しました。夫人は、叫び声を上げ、無情の喜びに浸っているのが自分自身だと信じていました。自分は若く、当時は夫のゴッドフリィが自分に狂ったように夢中で、そのために自分に恍惚の喜びを与えてくれ、それゆえに自分が叫び声を上げていた、そんな昔のように感じていました。頭が熱にやられ、磁器製の花壺にぶつかって目の前が真っ暗になり、刃物のように尖った装飾の部分で、額を酷く切りました。

夫人を制御しようとして紐で椅子に括りつけてから、ンデテイ医師は、突然夫人が精神的に異常をきたした背後に潜んでいるものを、ゆっくりと明らかにし始めました。

マインバ夫人は、夫と暮らしたこの20年の間、夫が別の女と寝るなどとは夢にも思いませんでした。他の誰にも出来ないし、他の誰にも夫とベッドを共にする機会はないので、自分の体だけが夫を満足させるものだと思っていました。ユーニス自身は、ゴッドフリィと知り合うずっと以前に、1度だけセックスの経験がありましたが、それも、周囲の仲間からのプレッシャーがあってしたことでした。ナイロビ大学の男子寮を訪れて経験しましたが、何の感慨もなく、悦びも感じられずに最悪でした。

妄想状態で夕方近くまで喚き続けましたので、最初マインバ夫人から多くを聞き出すのは不可能でした。そこでンデテイ医師は鎮痛剤を打つことにし、狼狽える夫が看護する病院のベッドに夫人を寝かせました。

ナイロビ病院

夫人は10時に目を覚まし、眠る前の状態を再現して皆を仰天させました。病院が考えていたよりも事態はもっと深刻だ、とンデテイ医師が思ったのはこの時でした。

マヤ・カーベリー病棟の壁は、色調が青系統で、マインバ夫人の寝室も同じ色調でした。治療では、寝室での記憶を全部心から取り除いてしまうような環境にマインバ夫人を置くことが最優先されました。夫が傍にいると問題が深刻化するので、夫人から遠ざける必要もありました。ンデテイ医師は部屋の照明をオレンジ色に変え、精神分析を続けました。

マインバ夫人は、マヤ・カーベリー病棟に2週間入院しました。その期間中は、看護師も夫も、夫人に近づくのを禁じられました。ンデテイ医師は1日に2時間ずつ夫人と話をし、その話のなかで、多分人間関係を包み隠すプライバシーを除けば、性的な習慣という意味では、他の哺乳類と同じだと何とか夫人に言って聞かせました。

そしてマインバ氏に会うとすぐに、ンデテイ医師は、あの忌まわしい日の記憶を夫人から消し去るために自宅では男性の使用人を雇うように指示を出しました。2人の寝室も、ベッドやシーツを変え、壁の色も元の青色とは全く違う色にして模様替えをする必要があると言いました。この模様替えの効果が出て来てようやく、夫人を退院させても大丈夫だろうということになりました。

ナイロビ市街

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執筆年

2009年8月10日

収録・公開

モンド通信(MomMonde) No. 12

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『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(8)第9章 マインバ家

2000~09年の執筆物

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通信(MonMonde)」に『ナイスピープル―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―』の日本語訳を連載した分の7回目です。日本語訳をしましたが、翻訳の出版は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、経済的に大変で翻訳を薦められて二年ほどかかって仕上げたものの出版は出来ずじまい。他にも翻訳二冊、本一冊。でも、ようこれだけたくさんの本や雑誌を出して下さったと感謝しています。No. 5(2008/12/10)からNo.35(2011/6/10)までの30回の連載です。

日本語訳30回→「日本語訳『ナイスピープル』一覧」(「モンド通信」No. 5、2008年12月10日~No. 30、 2011年6月10日)

解説27回→「『ナイスピープル』を理解するために」一覧」(「モンド通信」No. 9、2009年4月10日~No. 47、 2012年7月10日)

本文

『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―

(7)第8章 ハリマ

ワムグンダ・ゲテリア著、玉田吉行・南部みゆき訳
(ナイロビ、アフリカン・アーティファクト社、1992年)

第8章 ハリマ

 ハリマには選択肢は一つしかありませんでした。子どもたちは皆、死にかけていました。もはや愛人を迎えることのない狭い部屋では、子どものうちの2人が間に合わせの長椅子の上に力なく横たわっていました。女の子のムリシが最も衰弱が激しく、2番目に弱っていたのは2歳のマケニャでした。下痢にはやられていましたが、マコボも何とか生き永らえていました。殆んど立ち上がれませんでしたが、しゃべることは出来ました。4歳半で、飢饉さえ起きていなければ、年老いた母親を支える賢い子でした。ノラは、食べ物を探しに前日に家を出たまま、まだ戻って来ていませんでした。

手ぶらで戻ると気まずくなるのをノラは知っていました。まだ戻らないのは、ノラがまだ食料を捜しているか、独りで生きることにしたのかのどちらかです。5歳半という年齢を考えれば、まず自分が生き延びることを優先的に考えても充分に理解出来ます。7歳になる双子がどこへ行ったかをハリマはもう気にしませんでした。2人とも自分を嫌がって逃げているように思えたからです。他の子どもたちは、ハリマの両親の居るワンザに逃げて行っていました。そこでは解体処理をした肉の残骸を食べて何とか人々が生きのびていたのです。

ハリマは、家の中に食べ物がなくなってもう6日目になると思いました。ブコバもタンザニアの他の地域と同様に、文字通り飢えで死にかけていました。周りの国は少しましな状態でした。ウガンダもケニアも厳しい事態になっていました。ここ3年間雨は降りませんでした。ハリマは二日前に袋の中からはたき出した小麦粉でお粥を作りました。店ではもう小麦粉は買えませんでした。誰も食べ物を捨てたりしませんでしたし、お互いに笑顔も出ませんでした。近くの店屋の主人は、ハリマが小麦粉をつけにして欲しいと言ったとき、あからさまに嫌な顔を見せました。まるで、3シリング分の小麦粉の代金に体を提供されても、そんな気力も望みもないねと言いそうな雰囲気でした。世の中はどうしてこんなに惨めなのでしょうか。

ハリマはやっとの思いで、私に自分の悲痛な体験を打ち明けました。心に色々ものが積もりに積もって、ハリマは末の子を殺してしまっていました。それは安楽死だったのでしょうか?幼児殺害容疑で裁判にかけられて無罪を言い渡されましたが、すべての事実が明らかになった後も、飢えとものがない恐怖から立ち直れませんでした。それが引き金となり、「飢え」をはね除けるためについ暴飲暴食になってしまうんです、とハリマは私に説明してくれました。すべてハリマの心が産み出した想像の産物でした。

「先生、あたしみたいな経験をした人間に、また子どもを作ればいいなんて言えますか?男たちはみんな善良な人間を孕ませたら、さっさと離れて見捨ててしまうんだから。苦しんでる人間がその苦しみを訴えてもぜんぶ知らん顔なんだよ」と、ハリマは、明らかに毒を込めて言いました。

適者生存説を唱えたダーウィンなら、父親や母親に働きかけて愚か者にも狂った者にも赤ん坊を生むことを許す神の力について言いたいこともあったでしょうが、ハリマが正しいと私は認めざるを得ませんでした。
きっと力になりますよ、と約束すると、ハリマは帰って行きました。

*************************

 車に乗った男数人が通りで女漁りをやっていました。夜の11時頃には人通りのなくなるママ・ンギナ通りやスタンダード銀行、郵便局、市役所通り辺りの決まった場所に、毎晩決まって若い女性が姿を現わしました。時速10キロくらいで車を流しながら商売女のいる暗がりを覗き込ので、男たちの顔がはっきりと見えました。たまに警察が巣窟荒らしに現われましたが、通りの角の街灯の陰から見えるので、不道徳にも街角に立って体を売るという古来からある犯罪を目論むわけではない振りをするのは女性たちには簡単なことでした。
ハリマは妊娠していましたが、自分に責任があることは充分に分かっていました。7人目は絶対に産むむまいと決めていましたが、日が経つにつれて、ハリマはますます自暴自棄になっていきました。どんなことをしても、妊娠を終わらせる必要がありました。9週目辺りで、上手くいくことを願って、ハリマはマラリアキニーネを6錠飲み込みました。その日はずっと正気を失なっていましたが、結局胎児に異常は見られませんでした。それでも意を決して、翌週ハリマはコルマン社のアジュール・ブルーという衣類染料を飲みましたが、これも効き目はありませんでした。

体を危険にさらすのが分かっていても、ハリマは、妊娠中にしてはいけないことはすべて、あれこれと思い出しては実行に移しました。以前より煙草も酒も量も増やし、出来るだけたくさんの客を取りながら、中絶手術をしてくれる医者を探し続けました。

ケニア中央病院なら2000シリングで安全な中絶手術が受けられると聞いていましたが、どうやってうまくやるかが問題でした。中絶にはケニアの法律は極めて厳しく、医者も患者も数年間投獄される危険性がありました。ハリマは、同業の売春婦ジョセフィンに、ブコバの妹の所に残してきた5人の子供が飢え死にしかけている悩みを打ち明けました。いまやハリマは、家族を養う充分な金が稼げたらと思いながら、プムワニで1回2シリングの短時間セックスをやって稼いでいました。プムワニでは、売春のために急造された土の家の外で、朝9時から1日じゅう座っていました。色んな体格や人相の男たちが狭いマジェンゴの裏通りを歩いて通り、商売女が媚びを売って誘いかけました。

ケニア周辺の地図

ハリマは、行き交う男たちにどのように笑いかけて目配せするかを思い出しました。中には、ことの最中に押さえこまれながら、罵られることもありました。恥ずかしい思いもしましたが、プムワニの客を満足させながら、恥ずかしさをぐっと呑み込んで堪えました!先ずは客を捕まえることが先決で、代金を払ってくれるかが次の大きな問題でした。客とベッドに行く前に代金を払ってくれるように頼む場合もありましたが、敢えて終わったあとで支払いを頼む場合もありました。

どれくらい長かったか、またどれくらい激しかったかには関係なく、仕事は男が射精すれば終わりでした。前払いの方が荒っぽいとハリマは思いましたが、中には、その性急さが原因でより早く射精をすることもあり、結果的にはその方がいい場合もありました。特に朝、男が元気な時はそうでした。面倒臭がって靴をはいたままの男もいましたし、ズボンを穿いたまま乗りかかってくる男もいましたが、獣みたいな体位を求めて来るのは数えるほどでした。

男が酔っていてなかなか射精しない時は、永遠に続くかのように思えて痛み出しました。早く終わらせて、とハリマが求めると、乱暴に済ませ払った二シリングを返せと要求する男もいました。時々はそうしましたが嫌だと言えば、鼻の骨を折られる可能性ももちろんありました。月の中旬辺りは仕事が辛くて大変でしたが、20日頃から少し暇になりました。マジェンゴ通りの客足も鈍り始め、客が来ても気前がよくありませんでした。割引とか、時には全部で50セントでどうだという客もいました!

ハリマは、パムワニのマジェンゴで一年間過ごした後そこの仕事はやめて、ナイロビの街の大通りで角をうろつく夜の女になりました。

ナイロビ市街

この話を全てケニア中央病院を訪ねてきたハリマから聞いたのですが、ハリマは中絶手術の斡旋を必死に頼んできました。そんな時、ジョセフィンがハリマを500シリングで手術を引き受けるギチンガ医師に紹介しました。ギチンガは、抗カンジダ剤と性器に塗る軟膏を処方しましたが、手術はしませんでした。

「くだらん書類をめぐって何故、敢えて刑務所行きの危険を冒す必要がある?分かっているのは、せいぜいお腹の子が奇形も同然だということだからね。これからは、より安全に「奇形堕胎」をうまく処理出来るようにすべきだな」と、ある日ギチンガが言いました。ギチンガは、堕胎という嫌な用語より、自分で考えた造語が気に入っていました。原則としてギチンガは、8週間を過ぎた場合は決して堕胎手術はしませんでした。

13週間目になっても、ハリマは第20病棟にやって来ました。すでに腹部が目立ち始めていました。私にどれほど自暴自棄になっているかを話してくれました。ハリマはスターライトで踊ったり、男にわざと喧嘩をけしかけて、流産のきっかけにならないだろうか、お腹から赤ん坊を蹴り出してくれないだろうかと願っていました。

酒と煙草とナイトクラブの支払いで蓄えは底をつき、ハリマの危機感は増すばかりでした。ギチンガ医師も今ではハリマの存在が鬱陶しくなっていました。もう2度とケニア中央病院に来るなと、ハリマに警告しました。もしまた、しつこく来るようであれば、国内不法滞在容疑で連行してもらうと脅迫していました。

************************

 ギチンガ医師は、いつものようにむっつりした様子でした。診療台の上に座り、立って長話をじっと聞いているアイリーンと私の方を見ながら、長い足をテーブルの上に投げ出していました。私はギチンガ医師の機嫌、不機嫌がわかるようになっていました。

「社会的な価値という面から見れば意味がない法律の中には、明らかに正しくないものもあるね。」と、ギチンガ医師が始めました。
「たとえば、どんな?」と、アイリーンが尋ねました。
「たとえば、堕胎斡旋に対するこのでたらめな法律を考えて見給え。人口過剰の所では、本来の目的から逸脱してしまっている。」
「しかし、やはり社会的価値は何かあるんじゃないですか。」と、私は反対しました。
「ムングチ先生、神がアダムとイヴを楽園から追い出して子孫を造るよう命じられたのは、ずっと昔のことだよ。その時は、成果を出すのにすべての受胎が必要だったんだよ。」
「ダーウィンの、適者生存の仮説はどうなります?」
神話よりも、科学的に話をすべきだと私は思いました。
「もちろん当時でも、適者が生存するためには、人の手が入っても入らなくても、胎児そのものは邪魔をされずに育つことが保証される必要があった。子宮の発達段階では、それは保証された。全ての哺乳類の子宮は、開けるのに非常に手間のかかる金庫と同じで、複雑極まりない臓器だ。1度受胎が行われると鍵をかけて中に閉じ込め、あとは中身が何であろうが、開けて出すときは、持ち主にはかなりの危険が伴なう。」と、ギチンガ医師が説明しました。
「はあ、そうですか?」
私はそうなのかなと考えました。
「もちろん、誘発剤を使っても使わなくても、自然流産という場合もあり、胎児の発達に何か異常があれば、胎児が排出されるとう機能が働く。」と言ったあと、ギチンガは続けて、
「これがわたしの知る基礎医学だが、ときには注の改訂も必要でね。ローマ法王は、胎児はきわめて神聖であり、たとえ胎児の母親がまだ子どもでも白痴でもレイプの被害者でも誰であっても、堕胎は許されないと言っている。」と、ギチンガはすっかり諦め切った様子で両手を宙にかざして言いました。

「イギリスは、母親の健康面を考慮することを受けいれましたね。それに、もっと踏み込んで、出産には妊婦の同意が必要だと決めたアメリカの州もありますね。確か日本では、妊娠、中絶、子育て、出産といったことは、1人ひとりの選択に委ねられているようですしね。」と、私は言いました。
「ケニアでは、3000シリングくらいは持ってないと選択肢はないでしょうね。」と、アイリーンが言いました。
「でも、どうしてそんなに高いんですかねえ?」と、私は不思議になって尋ねました。
「法律が禁止してるから、危ない仕事なんだよ。それに人目を憚ってやるわけだから、基本的に高くなる。麻酔に輸血に外科的な仕事も通常の土俵外の場所でする必要があるからね。」と、ギチンガは声を荒げて言いました。

既存の解決策のない社会問題の一つであることは明白でした。法律では規制しておきながら、その適用性の判断については社会に委ねられていました。

「母親の健康面に加えてイギリスが配慮しているのは、その子どもの健康と、今いる子どもたちの社会福祉だ。」と、ギチンガは続けました。

「中絶は、避妊よりも効果的な人口管理の方法でしょうね。」と、アイリーンが付け加えました。

「どうりで、日本やスウェーデン、フィンランドでは人口が減ってきているわけですね。」と、私は言いました。

「そうなると女性は、子供を産むように言われるわけですね」と、私の言葉をアイリーンが締めくくり話は終わりました。その話はそのままになりました。

**********************

 私がハリマの件についてギチュア医師に相談したら、ギチュア医師はひどく興奮して突然笑い出しました。たまりかねてやっと立ち上がると、そのまま診察台の上に身を押し付けて笑いました。あまりに笑いすぎで呼吸も切れ切れになり、しまいには涙が頬を流れています。

「つまり君は、年老いた田舎の婆さんでさえ何百年もやってきたことを、現代の医者には出来ない、と言ってるんかね?わたしらは、簡単な道具で胎児を何度も出してるよ。その女を、この、万能ンデル診療所に連れて来ることだな。」と、ギチンガ医師が私に命じました。

HIV

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執筆年

2009年7月10日

収録・公開

モンド通信(MomMonde) No. 11

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『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語(7)第8章 ハリマ