南アフリカ概論(前期用)

1月7日

12回目でした。

この辺り、毎日体を崩さないようにするだけでいっぱいいっぱい、毎回ブログを書くのもなかなか。

もう1週間が経って、授業の前々日になってしまいました。何とか書いとこうと思います。

先に「アフリカの蹄」を50分余りみてもらいました。次回もそのくらい。3回にわけてみてもらうね。

著者についての新潮社のプロフィールです。

帚木蓬生

ハハキギ・ホウセイ

1947(昭和22)年、福岡県生れ。東京大学仏文科卒業後、TBSに勤務。2年で退職し、九州大学医学部に学ぶ。2018年1月現在は精神科医。1993(平成5)年『三たびの海峡』で吉川英治文学新人賞、1995年『閉鎖病棟』で山本周五郎賞、1997年『逃亡』で柴田錬三郎賞、2010年『水神』で新田次郎文学賞、2011年『ソルハ』で小学館児童出版文化賞、2012年『蠅の帝国』『蛍の航跡』の2部作で日本医療小説大賞、2013年『日御子』で歴史時代作家クラブ賞作品賞をそれぞれ受賞。『国銅』『風花病棟』『天に星 地に花』『受難』『守教』といった小説のほか、新書、選書、児童書などにも多くの著作がある。

幅広く書いてるね。次回新聞記事を印刷して持って行くね。

 

かなり走って紹介したけど、補足の意味で、アパルトヘイト体制とアフリカ人の抵抗運動に関して箇条書きにしておくね。

第二次世界大戦で大きくヨーロッパの国力が低下

→それまで抑圧されていた人たちが独立・自由を求めて闘争

→南アフリカでも、旧世代に飽き足らない若者がANC青年同盟(1943)を結成してデモやストライキなどで激しく闘争を展開

→当時の与党イギリス系の統一党は事態の収拾が出来ず

→1948年に総選挙→アフリカナーの野党国民党はアパルトヘイト(人種隔離)をスローガンに掲げ、人種によって賃金の格差をつけ、本来社会の最底辺のプアホワイト=アフリカーナーの大半の農民を優遇することを約束

→白人人口の60%のうちの大半のプアホワイトが国民党に投票→オランダ系アフリカーナーが議席の過半数を獲得

→アパルトヘイト政権の誕生

ここらくらいまで前回に話をしました。その続きです。

→体制を強化(人口登録法で人種の明確化、集団地域法で居住区を限定、共産主義弾圧法で反体制勢力を弾圧)

→アパルトヘイト政権に対抗してANCの闘争は激化

→1955年にクリップタウン郊外で全人種による国民会議、自由憲章を採択→指導者156名を逮捕して裁判にかけ、全員の死刑をはかる

→結果的には無罪

→ANCの中でアフリカ人だけで戦うという理想派(ソブクエがリーダー)とアパルトヘイトを廃止するためなら白人とも共産主義者とも共闘する現実派(マンデラ・タンボがリーダー)が1959年にANCを分裂させる(白人にとっては願ってもないチャンス、アフリカ人側の抵抗力が半減)

この辺りまでは話をしました。次回は映像とあわせて詳しく話を出来る時間があるとええけどね。

→1960年3月ソブクエがパス法不携帯で警察に出頭して法改正を迫る戦略を開始、マンデラは時期尚早と不参加

→シャープヴィル・ランガなどで警官が無差別に発砲(シャープヴィルの虐殺)

→社会は騒然、ソブクエは逮捕され、政府はソブクエ一人のためにソブクエクローズを制定してロベン島に孤独拘禁

→騒乱に乗じてANCがパス法を焼く闘争を展開

→それまでの非暴力戦略を捨てて武力闘争・破壊活動を開始

→政府は非常事態宣言を出して弾圧を強化

→国連は非難決議・経済制裁を開始

→白人政府は親書を各国に送り協力を要請→日本と西ドイツだけが要請に応じて通商条約を再締結

→見返りに白人政府は居住区に関する限り白人並に扱うという名誉白人の権利を附与

→マンデラは国外に出て資金集め・ロンドンのBBCで武力闘争開始宣言

→アパルトヘイト政権は弾圧を強化

→帰国後マンデラは逮捕され裁判にかけられる

→1964年マンデラ他8名に終身刑、以降1990年まで獄中生活。指導者は殺されるか、国外逃亡か、獄中かのいづれかで、指導者はいなくなる暗黒時代に

→日本は東京オリンピックを開催して高度経済成長の時代に突入

 

最初と授業のあとに課題を集めました。英語のクラスの分と併せて読んで、一月中に成績が出せるとええんやけどな。毎年そう言ってます。

授業の時にも言ったけど、仮説を立てて論証をするというのは、今の時期、大事なことやし、理系の人には、文系のテーマでそれが出来る稀有な機会、しっぱなしにしないで、自分のやったのを確かめたいときは、いつでも連絡しぃや。

前期で切れてしもうて、来年から南アフリカ概論もそれ以外の学士力発展科目も持たないけど、英語のクラスでは、引き続き、同じようにやるつもりです。ま、お節介のボランティアをやめて、頼まれた地域の英語のクラスに専念(ま、工学部の2クラスと医学科の4クラスは、ずるずるボランティアが続きそうやけど。)というところかな。

また、あした。

たま

ビジネス英語 I-2(2)

1月7日

12回目でした。

この辺り、毎日体を崩さないようにするだけでいっぱいいっぱい、毎回ブログを書くのもなかなか。

もう1週間が経って、授業の前の日になってしまいました。何とか書いとこうと思います。

この前各班に行って確かめたように、あしたは各班発表してや。

台湾との発表がもうちょっとみんなのためになるかと思ってたけど、それほどでもなくて申し訳なかったという気持ちもあって。あと3回で、みんなの学年の授業も終わりやね。

3年では進路のことや英語もことなど、僕で手伝えることがあれば喜んでやらしてもらうんで、いつでもどうぞ。

出来れば次回と最終回、少し各班時間をかけて、せめて原稿を見ずに楽しみながら聞けるように準備しぃや。

また、あした。

たま

英語 Ra2(2)

1月7日

12回目でした。

この辺り、毎日体を崩さないようにするだけでいっぱいいっぱい、毎回ブログを書くのもなかなか。

もう1週間が経って、授業の前の日になってしまいました。何とか書いとこうと思います。

折角大きな部屋を使ってやっているし、来年取りやめたアフロアメリカの歴史と音楽(3年生、2年生には学士力発展科目として取ってくれた人が多かったのにね)のかわりに、出来ればまとまって話をしておきたいと後期はやってきたけど、トーイックの過去問などをやると、それはそれで時間がかかるし。でも、何とか一本は映画を観てもらえるように、前回の続き、南北戦争から反動→公民権運動と一気に話をして、1963年のワシントン行進のときにキング牧師が言った夢の一つ、元奴隷の息子と元奴隷主の息子が同じテーブルに座って・・・・というのをそのままハリウッドに持ち込んだ映画「招かれざる客」(Guess Who’s Coming  to Dinner)を50分余り観てもらいました。途中で切ったとき、声が出てたから、それなりに惹きつけるところがあったんやろな。

あした(月曜日振替)は、その続きを60分ほど、そのあと時間があれば、少し前後の事情も補足して、歌を少々。反動の時期に産まれたブルースStrange Fruitやシカゴブルース、それに公民権運動の時、特にワシントン大行進のときのテーマソングWe Shall Overcomeなども聴いてもらおうと思います。

わりと大雑把に南北戦争(北部の産業資本家と南部の寡頭勢力の労働力の奪い合い)→反動→公民権運動(南北戦争の妥協の産物奴隷解放の実質化=公民権を求めて闘った)と走ったので、少し補足しときます。

北部共和党が担いだリンカーンが大統領になったとたん南部はアメリカ合衆国から脱退したので、リンカーンの最大の目的は南北合一になり、南北戦争。しかし、経済的に拮抗している北軍と南軍が戦っても元より最終的な決着はつかず、一応の決着をつけるために北部の自由黒人の参戦を認めて何とか勝利、その見返りに出した解放宣言は、もちろん奴隷の権利や生活を保障するものではなく、実質的な解放宣言は1954年の最高裁の判決。

そんな流れです。

その間、激動の時代、いろいろな事件がありました。

1896年の隔離すれども平等の最高裁の判決を覆した1954年の最高裁での公立学校での人種隔離は違憲という判決に従って、実際に黒人の高校生が白人の高校に入学する際に起こったアーカンソー州リトルロックの高校事件。その事件を題材にした映像「アーカンソー物語」(Crisis at Central High)の一部をみてもらいました。
白人の狂気、PTAの凄まじさ、今の時代にはほとんど見られない光景やけど、僕が受けた大学院での日教組の反対運動や、入学する1年前の東大安田講堂での学生と機動隊の攻防など、身近にあった光景です。
(僕が諦観を抱き世の中に関心を持てなくなった入った大学でさえも、まだ学生運動のなごりで、授業をしないで毎日クラス討議→学舎封鎖(写真↓神戸市外国語大学旧学舎)→機動隊による排除を冷ややかに眺めていました。)

黒人生徒の入学を阻止するのために州兵が出動、それを大統領命令で州兵を連邦政府軍の配下に置いて、今度は連邦政府軍が出動、それまでは考えられなかった天と地が逆さまになったような事態、公民権運動の間はずっとそんな状態が続いていたようです。
その大学版のミシシッピ州立大学の映像は観てもらえなかったけど、ワシントン大行進の映像は少し観てもらいました。

また、あした、あと3回やね。

たま

冬休みにHPや出版社のブログからこのブログにたくさんの記事を移しました。アフロアメリカの歴史について書いたものも移してあります。 <3>~<5>と<17>は、今読めばわかりやすいと思います。それもあって、冬休みに時間をかけました。 ↓

「アフリカ系アメリカ小史一覧」

<1>→「アフリカ系アメリカ小史①奴隷貿易と奴隷制」

<2>→「アフリカ系アメリカ小史②奴隷解放」

<3>→「アフリカ系アメリカ小史③再建期、反動」

<4>→「アフリカ系アメリカ小史④公民権運動」

<5>→「アフリカ系アメリカ小史⑤公民権運動、その後」

<17>→「アフリカとその末裔たち2(4)アフリカ系アメリカ人の音楽」(No. 90  2016年2月9日)

「アフリカとその末裔たち2(4)アフリカ系アメリカ人の音楽」

 

2010年~の執筆物

概要

「モンド通信」No. 73 、2014年12月1日に掲載されなかった分です。

前回から、2冊目の英文書『アフリカとその末裔たち―新植民地時代』(Africa and its Descendants 2―Neo-colonial Stage―)について書いています。

『アフリカとその末裔たち―新植民地時代』

前回は2冊目の英文書『アフリカとその末裔たち―新植民地時代』(Africa and its Descendants 2―Neo-colonial Stage―)を書いた経緯を書きました。今回は本の半分を割いて書いた第二次戦後に再構築された制度について詳しく書いています。

本文

アフリカとその末裔たち 2 (1) 戦後再構築された制度③制度概要

発展途上国と先進国の経済格差は長年の奴隷貿易や植民地支配によって作られたもので、と過去のことのように捉えられがちですが、実は経済格差は今も是正されていないどころかますます広がっている、つまり形を変えて今も搾取構造が温存されているということです。奴隷貿易や植民地支配のようにあからさまではありませんし、巧妙に仕組まれていますので、ついだまされそうになりますが、少し冷静になって考えてみればすぐにわかります。

第二次世界大戦の殺し合いで総体的な力を落としたヨーロッパ社会は荒廃した国土を立て直しながら、あらたな搾取態勢の構築に向けて余念がありませんでした。発展途上国の力が上がったわけではありませんが、ヨーロッパ社会の力の低下に乗じてそれまで虐げられ続けて来たアジア、アフリカ、ラテン・アメリカ社会は、欧米で学んで帰国した若き指導者たちに先導されてたたかい始めました。1955年のバンドンでのアジア・アフリカ会議後の独立運動、南アフリカのクリップタウンでの国民会議後のアパルトヘイト撤廃に向けての闘争、1954年の合衆国最高裁での公立学校での人種隔離政策への違憲判決の後に続く公民権運動など、世界中で解放に向けての闘いが勢いを増して行きました。

先進国に住んでいる大半が持ち合わせている先進国と発展途上国の関係についての意識と、実際は大きく違います。先進国の繁栄が発展途上国の犠牲の上に成り立っているのに、入学してくる大学生の大半は、アフリカは遅れている、貧しいから日本が援助してやっている、と考えています。(それほど日本の教育制度が「完璧」、ということでしょう。)

今年の後期の授業では最初に「アフリカの蹄」の冒頭の場面を見てもらいました。主人公の作田医師のアフリカについての意識が、大半の学生の意識と似ているからです。

「アフリカの蹄」は2003年2月にNHKで放映されたもので、帚木蓬生原作、矢島正雄脚本、大沢たかお主演のドラマです。原作にも映画にも、南アフリカの実名は出てきませんが、アパルトヘイト体制下の話です。

「アフリカの蹄」文庫本の表紙

(あらすじ:大学病院で医局の教授と衝突して南アフリカに飛ばされた医師作田信は、少年を助けたことがきっかけでアフリカ人居住区に出入りするようになり、有能な医師や教師に出会い、極右翼グループの天然痘によるアフリカ人せん滅作戦に巻き込まれていきます。白人の子供たちだけにワクチンを接種して、天然痘菌をばらまきアフリカ人の子供に感染させてせん滅をはかるという作戦です。子供たちの間に感染が広まり始めた時、細菌学者から国立衛生局に残されていたワクチンを分けてもらいますが、当局の妨害にあってワクチンが入手出来なくなり、事態を打開するために、天然痘菌を作田が国外に持ち出して世界保健機構や国連の助けでワクチンを国内に持ち帰り、その陰謀を阻止する、という内容です。)

映画の中で、作田医師がアフリカ人居住区の診療所で反政府活動家の青年ネオ・タウに突然殴られる場面がありますが、その時の作田信とネオ・タウの認識は、どう違っていたのでしょうか。

作田は大学の上司とそりが合わずに偶々南アフリカに飛ばされた優秀な心臓外科医ですが、作田が当時持ち合わせていた南アフリカについての知識は、一般の日本人と大差はなく、動物の保護区や豪華なゴルフ場、ケープタウンやダーバンなどの風光明媚な観光地、世界一豪華な寝台列車、くらいではなかったでしょうか。おそらく、作田にとっての南アフリカは、「日本から遠く離れた、アパルトヘイトに苦しむ可哀想な国」にしか過ぎなかったと思います。しかし、ネオにとっての日本は違います。日本は、1960年のシャープヴィルの虐殺事件以来、アパルトヘイト政権を支えてアフリカ人を苦しめ続け、貿易で莫大な利益を貪ってきた経済最優先の国であり、その日本からやって来た作田は、貿易の見返りに「居住区に関する限り白人並みの扱いを受ける」名誉白人の一人で、無恥厚顔な日本人だったのです。

作田役を演じる大澤たかお

世界の経済制裁の流れに逆行して、1960年に「国交の再開と大使館の新設」を約束した日本政府は、翌年には通商条約を結び、以来、先端技術産業や軍需産業には不可欠なクロム、マンガン、モリブデン、バナジウムなどの希少金属やその他の貿易品から多くの利益を得て来ました。石原慎太郎などが旗を振った「日本・南アフリカ友好議員連盟」や、大企業の「南部アフリカ貿易懇話会」などにも後押しされて、日本は1988年には南アフリカ最大の貿易相手国となり、国連総会でも名指しで非難されています。

当初、作田にもその理由はわかりませんでしたが、天然痘事件にかかわるなかで、ネオが本当に殴りつけたかった正体が、南アフリカと深く関わり利益を貪り続けながら、加害者意識のかけらも持ち合わせていない一般の日本人と、その自己意識であったことに気づきます。ネオには、作田もそんな日本人の一人に他ならなかったのです。

先進国と発展途上国の関係は日本と南アフリカとの関係、先進国と発展途上国の人たちの意識は日本人医師と南アフリカ人青年の意識と重なります。

第二次世界大戦後、戦争で被害がなくヨーロッパに金を貸しつけたアメリカと、ヨーロッパ諸国は、それまでの植民地支配に代わる搾取機構として、多国籍企業による経済支配の制度を確立して行きました。機構を守るのは国際連合、金を取り扱うのは世界銀行、国際通貨基金で、名目は低開発国に援助をするという「開発と援助」でした。

1章では発展途上国が解放を求めてたたかった典型的な例として、ガーナとコンゴを取り上げました。次回はガーナの場合、です。

次回は「アフリカとその末裔たち 2 (1) 戦後再構築された制度④」です。(宮崎大学医学部教員)(宮崎大学医学部教員)

執筆年

2014年

収録・公開

「アフリカとその末裔たち 2 (1) 戦後再構築された制度③制度概略1」(「モンド通信」No. 73 、2014年12月1日に掲載されなかった分です。

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