南アフリカ概論

連絡事項

* 「遠い夜明け」の感想文、次回出してや。

10月24日4回目の授業でした。後期が始まってもう4週目やねえ。

南アフリカに来てからのオランダ人の動向、金とダイヤモンドについての発表のあと、「遠い夜明け」を観てもらいました。

南アフリカに来てからのオランダ人の動向については金子さん(畜産1年)が、金とダイヤモンドは梶山さん(畜産1年)が発表してくれました。しっかりと調べてくれてました。時間が足りなくなりそうで、質問を聞いてもらえなかったので、次回に。

「遠い夜明け」を観てもらうだけでいっぱいいっぱい。長い映画を端折ったんで、分かり難いところもあったやろから、次回質問と感想と解説、やね。

補足の説明は長くなりそうやから、最後につけときます。↓

<次回は>

* 金とダイヤモンドの発表(梶山さん)の質問など

* 映画の感想(何人か)

* 映画の補足説明

* コシシケレリアフリカ・ユッスー・ンドール「ネルソン・マンデラ」

* 歴史の関連映像

来週、また。

<配ったプリント>

* 「遠い夜明け」の感想文

***********

23日(水)に、臨床実習でお世話になっていたカリフォルニア大学アーバイン校から医学科が招待した小児科医のペニー・ムラタさんのお世話をさせてもらいました。空港から観光ホテルの夕食まで、ほぼ半日。
前回はフラワーガーデンと平和台公園に案内したので、今回は海に、と思ったけど、生憎の激しい雨。レストランからの海しか観てもらえなかったのは、残念。
普段は一定のリズムで辛うじて毎日をやり過ごしてるからなんやろな、半日も普段以外のことが入ると、すっかりペースがぐちゃぐちゃ。
あしたからまた7コマの一週間が始まるから、戻さんとね。今週は、あした獣医用語の授業もあって、8コマもあるしね。
というわけで、ブログの更新が今日になりました。

上段左がペニー・ムラタさん、右は池ノ上さん

********

「遠い夜明け」画の補足

映画の補足や、書いたものなどの紹介もしておきます。

この映画を作ったのは監督のリチャード・アッテンボロー。次回観てもらう予定の「ガンジー」や「コーラスライン」で超有名な監督です。「ガンジー」でも暗殺の場面を最初に持ってきました。冒頭に典型的な場面を持って来るのが好きなようです。今回の場合は、スラムの強制立ち退きの話を南アフリカの典型的な場面として衝撃的に持って来ていました。英文テキストの中にも以下の文を紹介しています。日本語訳も貼っておきます。

******************

The bantustan policy meant that Africans were to be prevented from living permanently in the white areas. Ruthless, forced evictions took place to force ‘surplus labour’ to move from the towns to the bantustans. Crossroads outside Cape Town is only one example of this policy.

バンツースタン政策は、アフリカ人を白人地区で永住させないという意味のものでした。冷酷で、強制的な立ち退きが、「余剰労働力」を町からバンツースタンに強制的に移動させるために強行されました。ケープタウン郊外のクロスローヅはこの政策の一例です。

REFERENCE 3 参照3

We can hear the news of Radio South Africa about the 1978 Crossroads eviction in the following scene of Cry Freedom.
Newscaster: “This is the English language service of Radio South Africa. Here is the news read by Magness Rendle. Police raided Crossroads, an illegal township near Cape Town early this morning after warning this quarter to evacuate this area in the interests of public health. A number of people were found without work permits and many are being sent back to their respective homelands. There was no resistance to the raid and many of the illegals voluntarily presented themselves to the police. The Springbok ended . . .”

米国映画「遠い夜明け」の以下の場面で、1978年のクロスローヅの立ち退きについての南アフリカのラジオニュースが出てきます。
ニュースキャスター:「こちらは南アフリカラジオの英語放送です。
マグネス・レンドルがニュースをお伝えします。公衆衛生の見地から、その地域を空け渡すように勧告を出したあと、今朝早く警察は、ケープタウン郊外の不法居住地区クロスローヅの手入れを敢行しました。多くの人が労働許可証を持たず、それぞれのリザーブに送り返されています。手入れに対して全く抵抗の気配もなく、不法滞在者は自発的に警察署に出頭していました。放送を終わります・・・。」

**********

人種隔離政策の下で情報操作を強いられている白人にはそういうニュースしか流れないわけです。小さい頃から白人社会で育ったら、それが当たり前、というわけです。

ウッズとビコの出会いのシーンは、いつも美しいなあと思います。あの通りはハラレに行った時に、たぶん近くを通ったような気がします。transcribeしたのを貼っておきます。

Cry Freedom_The first meeting

Woods: Steve Biko? Are you Steve Biko?
Biko: l am. l would have met you in the church, but, as you know, l can only be with one person at a time. lf a (third) person comes into the room, even to bring coffee, that (breaks) the (ban)… And the (system) – the police – are just across the road. But, of course, you would (approve) of my (banning).
Woods: No. l think your (ideas) are (dangerous), but, no, l don’t (approve) of (banning).
Biko: A true (liberal).
Woods: lt’s not a title l’m (ashamed) of, though l know you (regard) it with some (contempt).
Biko: l just think that a white (liberal) who (clings) to all the (advantages) of his white world – jobs, housing, education, (Mercedes) – is perhaps not the person best (qualified) to tell blacks how they should (react) to (apartheid).
Woods: l wonder what sort of (liberal) you would make, Mr. Biko, if you were the one who had the job, the house, and the (Mercedes), and the whites lived in (townships).
Biko: lt’s a (charming) idea. lt was good of you to come, Mr. Woods. l wanted to meet you for a long time.

Mercedesはマーサディーズと発音、意味はメルセデス・ベンツ。ドイツ車で金持ちのシンボル。医者ややくざがよう乗ってる車で、医学科の駐車場ではよう見かけるねえ。

**********

自己意識の話と、アレックス・ラ・グーマの話を補足しときます。

今日も映画を観たあと話をしたように、ビコは合法的に殺されましたが、それだけ体制に脅威だったということでしょう。
裁判の中でビコがEven in this environment we must find a way to develop hope for themselves, to develop for this countryと言ってたけど、ほんとすごいよね。前の方Even in this environment we must find a way to develop hope for themselvesは僕でも言えるので、ま、授業でずっと言い続けて来たつもりやけど、あとの方to develop for this countryは、言えないもんね。この国のやってきたことを考えると、恥ずかしすぎて、国に希望を紡ごうと言う気にならんもんなあ。今日も何度も言ったけど、こう言わないといけないのは悔しいね。
自己意識については、ビコとマルコム・リトルに焦点を当てて書いたことがあります。ビコを引用して書いた部分です。

*****************

白人優位・黒人蔑視

奴隷貿易に始まる西洋諸国の侵略によって、支配する側とされる側の経済的な不均衡が生じましたが、同時に、白人優位・黒人蔑視という副産物が生まれました。支配する側が自らの侵略を正当化するために、懸命の努力をしたからです。支配力が強化され、その格差が大きくなるにつれて、白人優位・黒人蔑視の風潮は強まっていきました。したがって黒人社会は、支配権を白人から奪い返す闘いだけでなく、黒人自身の心の中に巣食った白人優位の考え方を払しょくするという二重の闘いを強いられました。アメリカ映画「遠い夜明け」で広く知られるようになったスティーヴ・ビコは、ある裁判で黒人意識運動の概念について質問されたとき、その「二重の闘い」に言い及んで、次のように述べています。

基本的に「黒人意識」が言っているのは黒人とその社会についてであり、黒人が国内で二つの力に屈していると、私は考えています。まず何よりも黒人は、制度化された政治機構や、何かをしようとすることを制限する様々な法律や、苛酷な労働条件、安い賃金、非常に厳しい生活条件、貧しい教育などの外的な世界に苦しめられています。すべて、黒人には外因的なものです。二番目に、これが最も重要であると考えますが、黒人は心のなかに、自分自身である状態の疎外感を抱いてしまって、自らを否定しています。明らかに、ホワイトという意味をすべて善と結びつける、言い換えれば、黒人は善をホワイトと関連させ、善をホワイトと同一視するからです。すべて生活から生まれたもので、子供の頃から育ったものです。[I Write What I Like (New York: Harper & Row, 1986), p. 100.神野明他訳の日本語訳『俺は書きたいことを書く』(現代企画室、 一九八八年)が出ています]

南アフリカを本当の意味で変革していくためには、先ず何よりも黒人ひとりひとりが、厳しい現状に諦観を抱くことなく、自らの挫折感とたたかい、自分自身の人間性を取り戻すべきだと、ビコは説きました。自己を同定するために自分たちの歴史や文化に誇りを持ち、次の世代に語り伝えようと呼びかけました。そして、経済的な自立のための計画を立てて、実行に移しました。

*************

↑ホームページにはpdfをダウンロード出来るようにしてましたが、今回ブログに書きました。1987年に訪ねたカナダに亡命中のラ・グーマの友人セスル・エイブラハムズさんに宛てて、映画の感想も書きました。訪問記と併せてリンクしておきます。↓

「自己意識と侵略の歴史」「ゴンドワナ」19号10-22頁。

「セスゥル・エイブラハムズ氏への手紙」「ゴンドワナ」11号22-28頁。

「セスゥル・エイブラハムズ氏への手紙」「ゴンドワナ」11号22-28頁。

1976~89年の執筆物

概要(作業中)

 

本文(写真作業中)

庭では梅か満開です。木蓮の枝にさした二つ切リのみかんに、めじろやうぐいすが飛んで来て、春近しを告げてくれます。あとは、時を待つ沈丁花がにほひ出せば、春の始まりです。

紫木蓮

セスゥル、お変わりありませんか。カナダの冬はどうですか。ローズマリー、レイチェル、アレクセイは元気ですか。

レイチェルと

「遠い夜明け」を観ました。映画の間じゅう、涙が止まりませんでした。画面に写し出されるしなやかなスティーヴ・ビコの姿が、セスゥル、あなたやラ・グーマに重なって仕方がなかったからです。おそらく、ビコの黒人意識運動とラ・グーマの生きざま、あなたが夏に語ってくれた生き方の姿勢と私が常日ごろ思っている考えが、基本的なところで同じだったからでしょう。スクリーンに映る様々な光景が、あなたやラ・グーマの辿った過去の軌跡とまぶたの中で重なって来るのてす。

スティーヴ・ビコ

アフリカーナー(オランダ系ボーア人)と呼ばれる白人ドナルド・ウッズが編集長をしていたイーストロンドンの小さな新聞「デイリー・ディスパッチ」は、アパルトヘイトと勇敢に闘った伝統を持つ新聞だったそうですが、それはラ・グーマがコラム欄「わが街の奥で」を担当した「ニュー・エイジ」を想起させます。

ウッズかビコと出会ったあとで、社に二人の黒人を連れて来て、他の白人の社員に、仕事を教えてやってくれ、という場面は、黒人読者層の開拓をねらっていた「ニュー・エイジ」の社主が、ラ・グーマに白羽の矢をたてて記者としてむかえ入れ、のちにコラム欄を担当させてくれた局面と同じです。

拷問の果てに、志なかばで散った若き黒人運動家の心を全世界に伝えようと、自らの原稿を国外に持ち出すひたむきなウッズは、まさに『夜の彷徨』の原稿を国外に持ち出して出版したドイツ人作家のウーリ・バイアーです。その人についてよくは知りませんが、あなたの『アレックス・ラ・グーマ』を参考にして『夜の彷徨』の出版事情を述べたあと「ラ・グーマの機転、ブランシ夫入の助力、ウーリ・バイアーの好意、どれひとつが欠けていても、おそらく『夜の彷徨』の出版はかなわなかっただろう……時代を越えた入間の魂のカを思わずにはいられない」という書き出しで『夜の彷徨』について、ちょうど書いている最中だったので、よけいにそんな思いにとらわれたのかも知れません。

 

ウッズは家族と示し合わせて、1977年の大晦日に、友人の助けを借りて国外に脱出するのですが、ラ・グーマが家族を連れてロンドンに逃れたのは1966年の9月、あなたの場合はそれより3年も前の1963年、あなたがまだわずか23歳のときでしたね。家族と一緒に亡命したラ・グーマでさえ、はた目が気遣う程深酒をあおったというのですから、あなたの望郷の念は如何ばかりだったでしょう。カナダに来た2、3年は、南アフリカが恋しくて恋しくて、と淡々とあなたは話していましたが、その思いは私の想像をはるかに越えています

クリスマスにサンフランシスコで会って、「ゴンドワナ」を渡した翌日、家族て写真を撮ったとき、「おれは普段はあまリ笑顔を見せないエイブラムズ氏だぞ」、と言ってレンズに向ってにーっと無理やり笑ってみんなを大笑いさせましたが、ローズマリーは、結婚してアレクセイが出来るまでは本当そうでしたよ、と言っていましたね。異国の地で生まれたアレクセイの存在が、おそらく諸々の思いのいくばくかを溶かせてくれているのでしょう。

ウッズが橋を渡って行った入国したレソトは、差別の厳しいヴィットヴァータースランド大学を一年で中退したのち、あなたが学士号を取得しに行った国でしたね。当時その地はバソトと呼ばれていたということでしたが、そこにはた易く行くことが出来たのですか。そこからはすんなり帰って来られたのですか。

63年に、夕方暗くなってから、ANC(アフリカ民族会議)のトラックで国境を越えスワジランドに入った、と教えてくれましたが、その時の気持ちはどんなものだったのですか。

ラ・グーマはどのような経路でロンドンに逃れたのでしょうか。もし飛行機を利用していたとしたら、ウッズが家族といっしょに空からながめたように、ラ・グーマも又、家族といっしょに飛行機の窓から南アフリカの大地をながめたのでしょうね。そのとき一体どんな思いがラ・グーマの脳裏をかすめたのでしょう。

ソ連に亡命中のラ・グーマ、ブランシさんと長男のユージーンさんと

ウッズの、少しばかり演出の効きすぎた国外脱出行を見ながら、私はそんなことを思い浮かべました。

「デイリー・ディスパッチ」の記事に抗議して、新聞社までウッズに会いに出かけた女性ランペーレの役のジョゼット・シモンはきれいな人でしたね。貧しい入たちのあいだで助産婦や看護婦をしていたブランシ夫人が闘争家ラ・グーマを理解したように、虐げられた人々のあいだで医者として現実とむかいあって生きているランペーレには、ビコの主張が痛いほど理解できたのでしょう。あの人は、ケープタウン郊外のキングウィリアムズタウンで警官に監視されながら暮らしているビコの居場所をウッズに告げました。

ビコは、ウッズの人柄をすぐ肌で感じることができたのでしょう。ウッズをむかえ入れて、シビーンと呼ばれるもぐりの酒場に連れて行ったり、夜のスラム街に案内したりしました。あの世界は紛れもなく、ラ・グーマの小説『夜の彷徨』や『三根の縄』などに描き出されたケープタウンのスラム街第6区と同じです。ウッズと並んで歩きながら、暗闇のなかで、白人はどんな馬鹿でも豪邸に生まれて何不自由なく暮らして行けるのに、黒人はいくら優秀でもこの悲惨なスラム街で生まれ、こんな地獄のようなスラム街で死んで行くしかないのです、とつぶやくようにビコがウッズに語った時には、50年代、60年代にすでに、ラ・グーマが世界に真実を伝えようと、後世に歴史を書き留めようと、『夜の彷徨』や『三根の縄』など、数々の作品の中にその思いを託していた歴史的事実とラ・グーマの深い慈愛を思わずにはいられませんでした。そしてセスゥル、あなたはその姿を伝えたのです。

ケープタウンの第6区

映画は、ケープタウン郊外のクロスローヅというシャンティ・タウン(スラム街)の暁方のシーンから始まりました。(撮影は、ジンバブエの首都ハラレで行なわれたということですが)各小屋のまわりに見られた煙は、ガス、電気の来ないその地域の人たちが、朝餉の仕度に使う火から流れ出たもので、ソウェトの朝夕の煙は日本でも紹介されています。

『三根の縄』を読めば、辛うじて雨つゆを凌げるだけの小屋は、ほとんどが屑鉄や段ボール箱や古びたブリキ類から出来ているのがわかります。臭くて、うるさくて、穢ないスラム街に、大半の入は肩を寄せ合いながら、それでもなんとか力を合わせて生き永らえているのです。

トラックで乗リ込んで来た警官隊は、強制徹去の大義名分を掲げて、放水砲をむけ、犬をけしかけ、人々を追いまわしました。怪物のような大型車ランドローバーは、無残にも息をひそめて建ち並ぶ小屋を、次から次ヘとおし潰して行きました。スクリーンには、傾きかけの部屋に貼られてあるネルソン・マンデラのポスターが見えました。テレビの画面の中ではアナウンサーが「本日あけ方近く、住人の反対もなく、不法法居住クロスローヅは無事徹去され、住人はホームランドに送還されました」というニュースを無造作に流していました。ラ・グーマの生まれ育ったケープタウンの第6区も、あんな風に一瞬のうちに、壊されてしまったのでしょうか。

 

アフリカーナーのウッズは、あれで中流だそうですが、ビコの育ったキングウィリアムズタウンとは余りにも対照的でした。

ビコたちのコミュニティセンターを夜中に襲ったのが白人警官だと知ったウッズが直接掛け合いに出かけた警視総監クルーガーのオランタ風屋敷は、もっと壮大で豪勢でしたね。クルーガーは、応接間に並べてある何枚もの写真を見せながら、この国は我々の祖先のボーア人が汗と血を流して作り上げたものだ、とウッズに説きました。そのときは、部下を徹底的に調査する、と約束したクルーガーは結局、逆にウッズに自宅拘禁を命じました。

 

ビコが忽然と現われたサッカー場は、集会の場と変わりました。セスゥル、あなたもサッカーをやっていた、と言っていましたね。砂利だらけのところでサッカーをやるのは大変だったので芝生のしかれた白人専用の競技場にみんなを連れて行ったら逮捕されました、とも言っていましたね。わずか13歳のときだったそうですね。ビコがラクビーをやっていたところも、砂利の多そうな場所でしたよ。

ビコは、誇リ高く、機知に富んだ人ですね。サッカー場の演説で連行され、取り調べ中に警官に撲られ、脅されても卑屈になることはありませんでした。決然と撲り返しました。

裁判長かビコにむかって「どうしてあんた方の人々をブラウンと言わず、ブラックと言うのかね。だいたい、君らはブラックというよリブラウンに近いと思うんだがね」と言ったとき「それじゃあ、あなた方はホワイトよりむしろピンクに近いのにどうしてホワイトなんですかね」とやり返していましたね。黒人、カラード、インド人の分断をねらった三人種体制の政府の悪だくみを嫌って、今はカラードを使わないのです、とあなたが言ったように、ビコの真意は、ノン・ホワイトではない、あたりまえの人間としての、誇りを持ったブラックだったのですね。ラ・グーマが、なぜ楽天家なのですかと聞かれて「私に歴史がわかっているからだと思います。心の中には冒険心があります。その上、ユーモアの感覚があります」と答えたのを思い出しました。

 

誇り高きビコは、危険すぎるからと制止するまわりの人々を振り切ってケープタウンの集会に向かう途中、検問にひっかかって捕まりました。拷問のシーンもなく、突然あまリにも変リ果てたビコの姿を見せつけられたのですが、「脳損傷の兆候が出ており、危険な状態ですからすぐ専門医に……」という医師の診断結果を無視して、1100キロも離れたプレトリア中央刑務所に護送せよ、との命令が出されました。スクリーンには、がたがた道をひた走る車がクローズ・アップされていました。『夜の彷徨』の中で、撃ち倒したウィリーボーイに救急車を呼ばせず、警察署への護送を部下に命じた白人警官ラアルトの仕打ちと同じです。

1977年9月12日、そのプレトリア中央刑務所の床の上で、うつぶせになって口から泡を出しながら、ビコは脳損傷のために亡くなりました。警視総監クルーガーは、その日「あなたは黒人の指導者にハンストをする民主的な権利をお与えになったのですからご立派ですぞ」と称賛する白人の代表と談笑しなから、ビコの碑文を書いたということです。

ニューヨーク・タイムズ紙のジョン・バーンズ氏は、一両日後に、プレトリアのクルーガーの部屋に呼ばれて、クルーガー本人から「ビコの真相」を聞かされたと言い、その時の模様を次のように記しています。

クルーガーは、自らの最初の声明でほのめかしたように、ビコの死因がハンストではなく、脳損傷であることを認めました。それから、壁の方に歩いて行って壁に額をごつんとぶつけました。「こんな風だったのです。ヤツは私たちを困らせたいばっかりに、自分で自分を傷つけていたのです」(1987年11月1日付「ニューヨーク・タイムズ」紙より)

ラ・グーマは『石の国』などで、自らの獄中生活をもとに「警察国家」と対峙しました。

「ソウェト」の高校生たちの躍動感は、スクリーンを飛び出して、大きく、大きく、こちら側に押し寄せて来ました。警官たちは、そんな高校生たちに、無情な死の銃弾を浴びせました。あなたの「ソウェト殉教者たちに寄せる詩」の再現です。

 

ひとりの勇敢な少年が

その少年は

わずか8歳でしかなかったが

避けようのない、見るからに恐ろしい

死の銃弾にむかった

 

少年はまっ先に死んでいった

1番あとから行動を始めたのに

少年の罪は

憎しみにただ抗議しただけであった

 

あれから10年余の歳月が流れました。これからはこの「ソウェト」を体験した若い人たちの時代です。ビコの葬式で、ビコが生前とても愛したという南アフリカ解放のうた「コシ・シケレリ・アフリカ」が流れました。あなたはその曲にあわせて踊り、突然、イッアフリカッ、アマンドラッを連発しましたね。

この映画の監督リチャード・アッテンボロー(63)は私のねらいは簡単でした。つまり、この映画を見た人は誰一人として南アフリカの状況に無関心でおれなくなり、立ち上がって、これは酷いというようになれば、ということでした」と語ったという。(同「ニューヨーク・タイムズ」紙より)

日本では3月5日(土)より全国一斉に封切られる予定です。従って私は試写会で見たわけですが、会場の神戸朝日会館は開場前から長蛇の列でした。しかし、あの人たちの大半は「ガンジー」や「コーラスライン」のアッテンボローを見に来たのでしょう。その証拠に、映画が終わりかけた時、半数の人が席を立ちました。

そのとき画面では、まだ過去25年の拘禁中に死亡した80余名の名前と死因が次々と映し出されていました。席を立った人たちは、45番目のビコの名を見なかったことになります。

「何を見に来たんだ」と私がつぶやくのを聞いて、立ちかけていた前列の若いカップルが再び座り直していました。

でも、セスゥル、ざわめきの中でさえ、感動の余韻をこらえながら、最後に写し出された80数人目かの1987年3月26日という日付けをしっかりと見届けている人もいましたよ。

帰り途、グギさんの友人であるケニアのムアンギさんと奥さん、それに私の友人との4人で、あなたとビコを演じたデンゼル・ワシントンとどちらがハンサムか、という話になりました。意見はどうも分かれたようですが、セスゥル・エイブラハムズという名前が、ニッポンのコウベで話題になった、というのは本当です。どちらがハンサムかについては、8月にあなたの大学で開かれるアレックス・ラ・グーマとベシィー・ヘッド記念大会に行ったときに、ローズマリーに直接聞いてみることにしましょう。    頓首

 

2月17日

セスゥルヘ                      ヨシ

執筆年

1988年

収録・公開

「ゴンドワナ」11号22-28頁。

ダウンロード

「セスゥル・エイブラハムズ氏への手紙」gon11-cryfreedom(303KB)

1976~89年の執筆物

概要

編集を担当した「黒人研究の会会報」22号の「あとがき」です。

1954年に創立された黒人研究の会に、81年の秋から、7年ほど入って例会に出たり、月例会の案内やら、会誌や会報の編集のお手伝いをしていました。

黒人研究の会の例会があった旧神戸市外国語大学(大学ホームページより)

本文

会誌55号を九月中旬に刊行するという約束を果たされた編集部代表の須田さんは、現在、アメリカの地。

アメリカだより、モロイセ氏の処刑、ライトのシンポジウムなど、「最新」の記事が集まりました。会報の充実を望んでいらっしゃった貫名さん、喜んで下さっていますか。

編集部には、この会報22号を送り届けたあと、会誌56号(貫名義隆氏追悼号)の仕事が待っています。時代を先取りした先人へのご恩がえしにふさわしいものにしたいと念じています。それが30年余の歴史を継承する次の布石のひとつとなりますように、と祈りながら……(玉)

貫名さん

執筆年

1985年

収録・公開

「黒人研究の会会報」 22号 12ペイジ

 

ダウンロード

(作業中)

ビジネス英語 I-2(2)

10月21日2回目の授業でした。

グループでの発表の準備の続き。出来れば来週発表出来るようにと始めたけど、各グループを回って状況を聞いた限りでは時間が足りなかったようで、次回には完成させて、出来ればお互いに練習が出来ればええな。どっかのグループが発表してくれてもええね。

最後にトーイックのtest 1 Part 3 41~46(リスニング2題、曾くん、寺地さん)

<次回>

* トーイックのtest 1 Part 3 の続き、少しでも

* 『金のフレーズ』⑥(演習用)の使い方の確認

* 発表のファイルを完成と発表の練習

***

留学生の張さんも授業に参加するようで。授業のあとでわかったんで、次回すでに配った資料を持っていきます。グループわけも。仲良くやってや。

****

グループわけの確認。(赤字は追加と変更箇所)

①-1 倉本、黒川、黒木綾乃、坂元、寺地、西村、濟陽

「宮崎の観光をマネッジメントの視点から考える→各ゼミの紹介

①-2 黒木萌華、古谷、兒玉、中村、山下、呉

「宮崎と台湾の人気スポットの比較→宮崎と台北の人気スポットの比較

②-1 石井(今日は欠席)、新見、藤田、益元、村川、山平、曾

「興味ある国の紹介」

②-2 甲斐、川畑、善福、薗田、森実(今日は欠席)、山田、弓削

「地域創造とは→地産地消

③ー1 鵜戸、大石、河野、田口、福住

「食品と農業」

③-2 郡、近藤、那須、桝田、吉永、ふ

「観光と畜産」

<配ったプリント>

* test 1 Part 3 41~46(A4表1)

* test 1 Part 3 41~46解説(A4表裏2)

*********

まだ2回目。11月6日(水)と21日(木)を振替日にして全体のバランスを取るようです。前の週のブログには確認のために最初に振替日を書くね。