12月5日8回目の授業でした。あと年末までに3回、年明けに3回です。1月16日(木)は金曜日の時間割です。
今日は、1992年に行ったジンバブエの話で時間切れ。北畑くん(アパルトヘイト政権)と渡辺さん(国民会議)、申し訳なかったです。次回は是非。
ハラレに行く前に寄ったロンドンでお会いしたラ・グーマの奥さんのブランシさん(写真↓)の話。1985年にキューバでご主人を亡くされたあとロンドンに一人住まい。その家に招待されました。1990年にマンデラが釈放されてたけど、まだロンドンに亡命中。このあとすぐに生まれ育ったケープタウンに戻られました。でもマンデラの政権が出来る前のどさくさ、1966年の亡命以来久しぶりに帰国した時は、空港で一晩待機。ANCもひどいですよねと手紙で書いたら、今はいろいろ大変な時期、大目に見て下さいね、と逆に窘(たしら)められました。
スイス人の八十過ぎの一人暮らしの女性から借りた家の家賃は10万円、500坪。↓家の中にジャカランダの大木が植えてありました。
すぐに仲よくなったガーデンボーイとして雇われていたゲイリー。給料は一月170ジンバブエドル(4200円ほど)それと番犬のデイン。白人には吠えないで、黒人には激しく吠えてました。僕らはデインに白人と分類されたようで、誰も吠えられなかったねえ。
冬休み(北半球では夏休み)を利用して父親の元に来ていっしょに過ごしていた家族。普段は敷地内に家族を泊めることは出来なかったみたいやけど、僕らが借りてたので、南西の小さな部屋、コンクリートの床に毛布を敷いて寝たたみたいです(南半球では北側が陽当たりがいいので南西にある部屋は陽当たりがよくない)長女と長男とゲイリーの子供3人は一日中遊んでました。どっちも言葉もわからないのに、笑い声が絶えず、楽しそうやったねえ。蹴ってるバスケットボールが199ジンバブエドル、ゲーリーの一月の給料より高く、複雑な気分になりました。
ゲーリーの奥さんフローレンスにモデルを頼んで僕の奥さんが描いた水彩画。初めての経験で、フローレンスはやや緊張気味でした。
ゲイリーの家族写真。写真は貴重品で、現像して持って行くと、どこでもひとしきり写真談義。それもそのはず、現像費が毎回ゲイリーの給料ほど。写真は贅沢品の一つ。大学で誰かが飲んでた大瓶のコーラが10円。日本円やドルが強いんやとしみじみ思いました。
ゲイリーにインタビューを頼んで、生い立ちなどを聞いた時に撮った写真です。↓
<次回>は
大学、ハラレの街、子供たちの小学校などについて少し話をしたあと、アパルトヘイト政権とアフリカ人の抵抗運動の話を。
* アパルトヘイト政権(北畑くん)
* 国民会議(渡辺さん)
* シャープヴィルの虐殺(橋詰さん)
* リボニアの裁判(小野さん)
の発表を聞いて、時間があれば関連の映像を。大きな流れが掴めたら、ドキュメンタリーや「アフリカの蹄」など、映像も観てもらいたいと思っています。(終わってから橋詰さんと小野さんが発表すると言いに来てくれました。)
また、来週に。
ハラレの話は帰国してから半年後に本を書いたけど出版は出来ず(1冊300万もかかるんで)、あとでメールマガジンに連載したらと言われて、分けて載せました。僕のブログに載せた一冊分のリンクです↓
→「ジンバブエ滞在記一覧」(「モンド通信」No. 35、2011年7月10日~No. 59、 2013年7月10日)
今日話をした分のリンクです↓
<2>→「ジンバブエ滞在記②ハラレ第1日目」(「モンド通信」No. 36」、2011年8月10日)
<3>→「ジンバブエ滞在記③突然の訪問者・小学校・自転車」(「モンド通信」No. 37」、2011年9月10日)
<4>→「ジンバブエ滞在記④ジンバブエ大学・白人街・鍵の国」(「モンド通信」No. 38」、2011年10月10日)
<5>→「ジンバブエ滞在記⑤バケツ一杯の湯」(「モンド通信」No. 39」、2011年11月10日)
<12>→「ジンバブエ滞在記⑫ゲイリーの生い立ち」(「モンド通信」No. 46」、2012年6月10日)