つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:ハーレム

 ハーレムにも来たし、ションバーグで雑誌も確かめられたし、大満足だった。折角来たのだから、通りを歩いてみることにした。ライトのものを読んでいて、アメリカの歴史を知る必要性を感じていたし、何かいいものが見つかるかも知れない。Liberation Bookstore(↑)という本屋さんが目に入った。中に入ってみた。そう広くなかったが、ぎっしりと本が並んでいた。アフリカ系アメリカとアフリカの専門店らしい。ライトで修士論文を書く身には、まさに宝庫である。店先には音楽のカセットテープが置いてあった。

 後で知ったが、かつてのハーレムは公民権運動の舞台で黒人音楽のメッカだった。黒人教会ではマルコムXが講演していたし、通りでストリートミュージシャンのソウル音楽が流れ、ソウルフードが売られていた。ナイトクラブではルイ・アームストロング(↑)が渋いだみ声で歌い、トランペットを吹いていた、とこれも後で知った。まだカセットテープの時代だったのでルイ・アームストロングのテープを何本か買った。

 中でも最大の堀り出し物は、Malcolm X on Afro-American History(↑)とThe Struggle for Africa(↓)の2冊である。その時はわからなかったし、英語で本を書くとは夢にも思わなかったが、その後、大学で英語の授業をする時や英文書Africa and Its Descendants (Yokohama: Mondo Books, 1995)、Africa and Its Descendants 2: Neo-colonial Stage 、1998)を書く時に、骨子となった稀有な図書である。

「当時ハーレムは犯罪率の高い危険な街と言われていた」(→「ハーレム分館」、6月23日)のには、もちろん訳がある。あとで知ることになるが、無茶苦茶な話である。1620年にメイフラワー号に乗ってやってきたイギリス人たちは、元住んでいた人たちを蹴散らし土地を奪って定住し始めた。アフリカから帆船で奴隷を運んで来て、大農園で扱き使った。奴隷貿易と奴隷制で貯め込んだ資本で機械を作り、産業化に腐心した。ヨーロッパでは労働力と原材料を求めてアフリカとアジアで植民地化が激化し、国内では産業資本家と大農園主の二つの利害が対立した。とうとう、奴隷制を巡って利害が対立し市民戦争が勃発、殺し合いを始めた。それが南北戦争である。共和党を創った資本家に担がれたリンカーンが大統領になったが、制度は揺るがず、実質的な奴隷制は1950年代の公民権運動まで続いた。1908年にミシシッピで生まれたライトが、1927年にメンフィスに、その後1937年にニューヨークに行ったのも珍しい話ではなかったわけである。南北戦争で法的には解放されたはずの元奴隷には住む家もなく、財産もなく、実際には現物支給の小作人として働くしか選択肢はなかった。北部に行こうとしても、元奴隷主に雇われた貧乏白人の監督やKKKの団員に厳重に監視され、暴力を振るわれ、リンチされて殺された。(↓)それがようやく動いたのが1890年代から1920年代、北部を約束の地、「ミシシッピで知事になるよりはむしろシカゴで街燈柱でいる方がいい」と信じて、たくさんの黒人が北部にどっと流れ込んだ。

 しかし、北部は冷たかった。押し寄せた南部の黒人たちは土地制限条約(Restrictive Covenants)に縛られて他では住めず、シカゴならサウスサイド、ニューヨークならハーレム、ロサンジェルスならワッツに押し込められた。旧白人街は流れ込む黒人で溢れて、当然スラムと化す。元白人街のぼろアパートで家主の白人に高い家賃を払わされて暮らさざるを得なかった。もちろん、仮に仕事にありつけても、奴隷と何ら変わらない社会の底辺で、安い賃金で扱き使われただけだった。(↓「リチャード・ライトと『千二百万人の黒人の声』」、1986年)そんなハーレムの図書館に行ったわけである。
次回は、ラ・ガーディアで、か。

つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:ハーレム分館

 ライトの中編作品が載った雑誌を古本屋で見つけてしまったので、図書館に行く最大の目的は消えてしまったが、ハーレム分館(↑)には行きたい理由が他にもあった。ションバーグコレクションが見たかったからである。ニューヨーク公共図書館(New York Public Library) は財団が経営する公共図書館で、マンハッタン地区以外にも市内に92の分館(Branch)と3つの研究図書館(Research Library)がある。ションバーグコレクションはハーレム分館にあり、正式にはションバーグ黒人文化研究センター( Schomburg Center for Research in Black Culture)と呼ばれる研究図書館のひとつらしかった。世界中のアフリカ系に関する情報の保存機関で、アフリカ系プエルトリコ人学者アーサー・アルフォンソ・ションバーグに因んで名づけられたと言う。
 当時ハーレムは犯罪率の高い危険な街と言われていた。Midtown(↓)のホテルから地下鉄に乗って出かけた。ハーレム分館は135th Streetにある。

 1985年のI Love New Yorkキャンペーン以前の話なので、地下鉄は噂通り穢かった。入って来た車両の落書きが凄い。ペンキで車輛ごとである。エディー・マーフィー主演の「王子様、ニューヨークへ行く」(↓)という映画の一場面で1985年以前の落書きだらけの地下鉄が映っていた。たまたま一番後ろの方の車輛に乗ったが、何だか少し暗かった。電気が一部消えていたのか。小便の臭いもした。つり革の取れているのも目に着いた。当時弟が働いていた川崎車両はニューヨーク市から注文を受けていたそうで、130キロでぶつかっても壊れない、取り付け部品が簡単に取れない、ペンキがつかない塗装、の三つが条件だったと言っていた。

 ハーレムは135th Street駅で降りればいいらしい。ハーレムに近づくに連れて黒人の数が増えて来た。穢いし、臭いし、暗いし、印象的な地下鉄だった。「ワンサーティファイヴ」と音声案内があってハーレムに着いた。階段を昇るとハーレムの通りである。意外と広かった。昼間から酒瓶を片手に歩いている若い人もいる。両脇に舗道があり、各戸の入り口まで短い階段がついており、その階段の途中に座っている人もいた。避(よ)けて通るのもなあ、と歩道を歩いて、ハーレム分館に着いた。
 図書館では折角来たのでマイクロフィッシュの雑誌を拡大して、何枚かコピーを取った。機械にはMita, Minoltaの表示があった。戦勝国は、技術も持ち帰ったと言うことか。そんな気がした。
 次は、ハーレム、か。通りの本屋(↓)で、貴重な本を2冊見つけた。そのとき目に止まらなかったら、お目にかかれずじまいだったかも知れない。

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つれづれに:古本屋

 ニューヨーク(↑)で古本屋を回るとは思ってもみなかった。発端はNative Son (1940) を出した出版社を訪ねたことにある。出版されてから40年ほど後の1981年に版元のハーパーアンドブラザーズ社(Harper & Brothers Publishers)に行って「Native Sonはありませんか?」と尋ねたわけである。1969年出版の立原正秋の『冬の旅』(→「伎藝天」、4月23日、→「栄山寺八角堂」、4月27日、→「山陰」、5月6日)について、2022年の今、版元の新潮社に行って「『冬の旅』はありますか?」と聞くようなものだ。今から思うと、よう訪ねて行ったもんやと感心するが、意外な返事が返って来た。丁寧なもの言いだった。「Native Sonの初版本はありませんが、ひょっとしたら42丁目の古本屋に行けばまだ残っているかも知れませんね。そこにはいつも大量に本を流していますので、是非行ってみて下さい。見つかるといいですね」
教えてもらった古本屋に行ったら初版本はなかったが、何と雑誌の現物を見つけてしまったのである。ライトの中編作品が載った雑誌を図書館でみたいと思ってニューヨークまで来たのだが、最大の目的があっさりと達成されてしまった。1944年の「クロスセクション」(2019年2月20日)で、今手元にある。

 薄っぺらい雑誌を想像していたが、ハードカバーの立派な分厚い本で、559ページもある。A NEW Collection of New American Writingと副題がつけてある。乱雑に積み重ねられていた本の山の中から見つけ出した。1945年版もある。そこにはライトの名前はない。少し小振りだが、それでも362ページもあるハードカバー本である。

 初版本はなかったが『アメリカの息子』(↑)、『ブラック・ボーイ』(↓、Black Boy, 1945)、『ブラック・パワー』(Black Power, 1954)などのライトの作品もあった。「購読」(5月5日)で読んだ『怒りの葡萄』(The Grapes of Wrath, 1939)やゼミで使った『アラバマ物語』(To Kill a Mockingbird, 1960)もあった。(→「がまぐちの貯金が二円くらいになりました」、1986年)嬉しくなって手当たり次第に買ってバッグに詰め込んだ。バックが肩に食い込んだ感触が残っていて、重たいバッグを持つといつもあの重さの感覚が蘇える。結局何箱か古本屋から船便で送ってもらった。カードの時代ではなくドルが少なくなってしまい、南部には行けなかった。フライトを変更して、セントルイス経由で帰るはめになった。

 日本でよく知られるマンハッタンは、ニューヨーク市のエリアの一つで、ニューヨーク州の西の端に位置している。西隣のニュージャージー州との境のハドソン川に浮かぶ半島で、東西に走る通り(Street)は数字で表記され、「数字+丁目」で日本語訳されている。有名なタイムズスクエアやグランドセントラル駅は42nd Street、地図(↓)のMidtownの文字の下の通りである。セントラルパークは59th Streetから110th Streetまでとかなり広い。ニューヨーク公共図書館ハーレム分館は135th Streetにあり、かなり上の方である。名所案内の上の地図には入っていない。

 タイムズスクエアーの近くの目抜き通りに古本屋があったというわけである。その辺りは1985年のI Love New Yorkキャンペーンで、ごちゃごちゃしたポルノショップなどが一層され、落書きの象徴が走っているような地下鉄もきれいになった。
次は、ハーレム分館、か。ホテルの最寄り駅から135th Street駅まで初めて地下鉄に乗った。I Love New Yorkキャンペーン以前の、落書きだらけの車輛だった。

つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:ニューヨーク

 シカゴからニューヨークまでの飛行時間は二時間余り。日本でよく言われるニューヨークはニューヨーク市(↑)のことで、ハドソン川に浮かぶマンハッタン半島上にある。ナイヤガラの滝(↓)はニューヨーク州の北端にあり、滝がカナダとの国境の役目を果たしているらしい。ニューヨーク市のラガーディア空港から最寄りのバッファロー・ナイアガラ国際空港まで一時間半足らずの距離である。先にナイヤガラの滝に行ったのか、図書館で資料を探してからナイヤガラに行ったのかは記憶に残っていないが、滝を見に行ったのは覚えている。ゴールデンゲイトブリッジのあとはナイアガラ、最後にエンパイアステイトビルディング、そんな感じだったので、先にナイアガラ行きを済ませた可能性が高い。

 南アメリカ大陸のアルゼンチンとブラジルにまたがるイグアスの滝、アフリカ大陸のジンバブエとザンビアにまたがるヴィクトリアの滝と合わせて、世界三大瀑布の一つと言われているらしいが、滝に興味があったわけではない。マリリンモンロー主演のハリウッド映画「ナイアガラ」で見たとき、ゴールデンゲイトブリッジやエンパイアステイトビルディングと同様、いつか訪ねてみようと思ったからである。滝は轟轟と流れていて、迫力があった。カナダ側からも眺められそうだったので、カナダ側から滝を見た。ビザなしで渡れたらしい。二つ目の外国がカナダだったわけである。滝を見た、それだけだったように思う。

 ジンバブエに行ったときにヴィクトリアの滝(↑)に行ける機会もあったが、子供二人夫婦二人が生活するだけで精一杯で観光までは手が回らなかった。帰国前にどこかに観光に行きたいと子供が言い出して、ジンバブエの遺跡(↓)かヴィクトリアの滝か、どちらかを選ぶことになったが、結局湿地帯でマラリアの危険性も高く、予防接種も受けてなかったので、結局はヴィクトリアの滝には行けなかった。奥地を「探検」していたヨーロッパ人が最初にこの滝を見た時の話を、滝を背景にイギリス人記者が紹介している映像を見たことがあるが、壮大な滝のようだった。

 宮崎では鹿児島に近い都城の関之尾の滝(↓)を車に乗せてもらって見に行ったことがある。ナイアガラのような規模はないが、こじんまりとしたきれいなところだった。

 大分の久住高原で個展をしたときに高速道路で都城を通ったが、地図を見たら道路がぐいーっと都城の方に曲がっていた。高速道路は所要時間を短縮するために可能な限りまっすぐ通すやろ、と思ったが、国土交通省に強い国会議員が都城にいて高速道路をぐーっと引っ張って来たから、誰かがそんなことを言っていた。そう言えば、宮崎でも代々の市長が自分の家のあるところに道を引っ張って来て、市長道路やと言われてたなあ、と合点がいった。やれやれである。

 予定していた最後のエンパイアステイトビルディング(↓)にものぼった。人混みは苦手なので場合によっては諦めるつもりでいたが、ビルの入り口に待ってる人も少なく、これなら大丈夫とエレベーターに乗ったら、展望台に行くかなり手前でエレベーターが停まり、外に出された。そこにはたくさんの人が列を作って待っていた。騙されたと思ったが、後の祭りである。テレビのアメリカ化の正体を見たい気持ちもあって、映画で見た名所を訪ねたが、よく考えてみれば名所は人が多い、今回で終わりにしよう、そう思いながらエレベーターを降りていた。
次回は、古本屋、か。