つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:シカゴ

 シカゴは全米第二の都市と言われていたので、日本で言えば大阪かとずっと勝手に思いこんでいた。小学3年生の時に一人で「大阪のおばあちゃん」の家に行ったとき、高いビルディングの立ち並ぶ大阪の街に圧倒されて、自分がちっぽけな存在でしかないと感じたのを幽かに覚えている。シカゴも高層ビルの立ち並ぶ大都会だった。そのあとマンハッタンのエンパイアステイトビルディングに登る予定だったが、その建物より高いビルがあると聞いて、登ってみることにした。今はワールドトレードセンターに次いで2番目に高いビル、買収されてウィリス・タワーというらしい。

ライトは1908年生まれで、1927年にメンフィスから移り住んで1937年にニューヨークに行くまで10年ほどシカゴに住んでいる。ベストセラーの小説『アメリカの息子』(Native Son, 1940) や自伝的スケッチ『ブラック・ボーイ』(Black Boy, 1945)の主な舞台はシカゴである。1890年代から1920年代にかけて北部に押し寄せた南部の黒人たちは土地制限条約(Restrictive Covenants)に縛られて他では住めず、サウスサイドに押し込められた。旧白人街は流れ込む黒人で溢れて、スラムと化した、と写真入りの『千二百万人の黒人の声』(↓12 Million Black Voices, 1941)の中で、詩のような文章を書いている。(「リチャード・ライトと『千二百万人の黒人の声』」、1986年)

 ミシガン通りでパレードに出くわし、歩道の縁に座って3時間ほどぼーっと眺めていたら、何だかそれまでのアメリカに対する反感が薄らいで行くようだった。アメリカにもアメリカのよさがあるんやろな、と柔らかい気持ちになった。ミシガン通りは目抜き通りらしい。ホテルから出かけたのか、空港からのバスから降りてホテルを探していたのか。パレードが終わってぶらぶら歩いていたら、橋の袂の欄干にもたれて白人青年が一人、トランペットを吹いていた。「共和国の戦いの賛歌」(Battle Hymn of the Republic)のようだった。日本では「ごんべさんの赤ちゃんが風邪引いた」でお馴染みの曲である。演奏が終わったあと、何人かが置かれていた缶のような入れ物に、投げ銭をしていた。

 シカゴ美術館に行った。絵心はまるでないが、妻が絵を描くので結婚してからは時々美術館にも行くようになった。折角シカゴまで来たのだから、美術館にも行ってみないと、そんな軽い気持ちで出かけた。大きかった。中でも教科書にも載っているモネの睡蓮(Monet, Water Lilies)は圧巻だった。パリのモネ専用の美術館より大きいらしい。一人勝ちした第二次世界大戦のどさくさに買い入れたものらしい。アメリカ各地の美術館の展示品の一部は第二次世界大戦の戦利品?大英博物館の展示品の多くがジプトからの略奪品?なんだか構図が似ている。アングロ・サクソン系、の痕跡か。

 シカゴ公共図書館にも行った。見てみたい新聞記事があったからである。ファブルさんは本の中で、シカゴに移り住んだ時、生活保護を受けて案内された公共住宅の余りの酷さに母親が泣き崩れたとライトが伝記の中で紹介しているという風なことを書いていた。寝ている黒人の赤ん坊が猫くらいに太った鼠に齧られたという1920年代の新聞を紹介していた。その記事が見たかった。案内カウンターで申し込んだら、係員が新聞を持って現れた。なんと1920年代の新聞の現物だった。1988年にカリフォルニア州立大学ロサンジェルス校(UCLA)の図書館でも同じ体験をした。1950年代の南アフリカの反体制新聞の記事を照会したら、5年分の記事がどさっと目の前に現れたのである。白人のアパルトヘイト政権を支えていた筆頭であるアメリカの図書館に送られていた反体制の週刊新聞が全部保存されていた、歴史の一齣を見てるような感覚になったが、同時にアメリカと日本の図書館の違いを強く感じた。文化のレベルでは、到底及びそうにない。日本では本まで予算回らない、少なくとも図書に関しては、先進国と自称する貧国である。
 次は、ニューヨーク、か。

シカゴオヘア国際空港

つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:サンフランシスコ

『アフリカとその末裔たち」小島けい挿画

 「修士論文」(6月18日) をライトで書くと決めてファーブル(Michel Fabre)さんの本(↓)を読んだとき、なぜか中心テーマが浮かんで来た。「購読」(5月5日)の授業のテキストで読んだ中編が、それまでの人種主義への抗議中心からより普遍的なテーマへの転換を意識して書かれた作品であるというファーブルさんの指摘が私の感じていたイメージと重なったからだ。たぶん伝記の最初の方で「この本を後の世の人のために贈る」というようなファーブルさんの息遣いを感じていたからだろう。普遍的なテーマへの転換を描き出すためには、主だった作品を読む必要がある。先ずはその作品が1944年に収められた→「クロスセクション」(2019年2月20日)という雑誌を見てみたい。作品自体は大学のテキストでも読んだし、Eight Men (1960)の中にも入っているが、実際に雑誌を見て、感じてみたい、それが最初だ、そんな気がした。現物がニューヨーク公共図書館のハーレム分館にあるのがわかったので、初めてのアメリカ行きとなった。

 ライトはミシシッピ(↓)に生まれ、メンフィス→シカゴ→ニューヨーク→パリと移り住んだらしい。今回パリまでは行けないが、ニューヨークで雑誌を見たあと、シカゴ、メンフィスに行って、最後は生まれたミシシッピまで行ってみるか、そんな旅程を思いついた。ただ、アメリカの西海岸に着いても東海岸まで行くに5時間ほどかかるらしいから、先ずは西海岸で2、3泊、それからシカゴ→ニューヨーク→メンフィス→ミシシッピと移動するか。2週間ほどの予定だと少しきつそうだが、行ってから変更も出来るように組んで、先ずは行ってみるか。そんなイメージで大阪の旅行会社を訪ねた。1981年の夏、円が280円台の頃である。

ライトの生まれたミシシッピのナチェズの空港

 最初の土地に選んだのはサンフランシスコである。私が戦後まもなく生まれたからか、アメリカには憧れと反発が入り混じったような複雑な感じがずっとして、英語への反感はかなり強い。受験で英語もしなかったし、大学でも英米学科で英語をやらなかった。教員と大学院の試験のために購読と英作文と英文法は少し齧ったが、聞くと話すは意図的にしなかった。小学校の頃に始まったアメリカ化は影響が強く、テレビから流れるアメリカの映像は意識の奥深くに焼き付いている。サンフランシスコならゴールデンゲイトブリッジ(↓)にケーブルカー、ニューヨーク州のナイアガラの滝、マンハッタンのエンパイアステイトビルディングなどである。ついでに、みんな回って来るか。

 サンフランシス空港(↓)からホテルに電話したが、電話を取ったとたんに誰かが何かを言っている。しゃべり方が早くて慌ててしまった。当時市外通話は交換手が繋いでいたようで、「交換手です(Operator)」と言ったあと、あと小銭をいくら入れて下さいと言っていたと思う。最初の洗礼である。

 もちろん最初にゴールデンゲイトブリッジに行った。折角なので橋を歩いて渡った。45分程かかった。向こう岸に着いて、反対側から街を眺め、また歩いて戻った。それだけである。ゴールデンゲイトブリッジは、ハリウッド映画「招かれざる客」の映像の影響である。妻を亡くしたエリート医師役のシドニー・ポワチエ(↓)が、白人の金持ちの若い娘さんと結婚する話である。高台にある白人の豪邸から見えるゴールデンゲイトブリッジ。白人歌手トニー・ベネットの歌「霧のサンフランシスコ」が背景に流れる夜景は美しい。(I Left My Heart In San Francisco)

後年のポワチエ

 ケーブルカーも坂を走っていた。チャイナタウン(↓)にお昼を食べに行った。周りのアメリカ人は"Sapporo”と大きな声でビールを注文していたので、"Budweizer”とわざと大きな声でビールを頼んだ。いつものように焼き飯と餃子とラーメンを頼んだが、あの人たちどんだけ食べるんや、と思えるほど量が多かった。体型の仕様が違うらしい。

 初めてのアメリカの印象は、みんな英語をしゃべってるやん、だった。普通に「しゃべってる」は当たり前だが、まったく聞き取れなかった。NHKの英会話、あれ何やったんやろ。まったく違うやん。英語を聞いてないし、しゃべってもいないんだから当然なのだが、なぜか中高大と英語をやってきたのに、間違ったら恥ずかしいという意識が働いていたらしい。誰ともしゃべらずじまいだった。それでも空港での再確認やホテルでのチェックインやチェックアウトもやり、バスやタクシーに乗って移動もしたようである。これから行く予定のシカゴは北部の真ん中辺りにあると思い込んでいたが、ニューヨークまでの飛行時間は二時間余りだから、東部寄りの大都市らしい。
 ちょうどサンフランシスコ(↓)の街をうろうろしている時期に、最初のエイズ患者が出ていたとは、その時は、夢にも思わなかった。
 次は、シカゴ、か。

つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:修士論文

 「明石」(6月16日)から2時間余り、山の中のキャンパス(↑、→「キャンパスライフ2」、6月15日)に通う日々が始まった。2年間は短かい。修士論文を書く目途は着いたが、肝心なのはそれから先である。博士課程の指導教官が就職先を世話をする場合が多いみたいだし、採用人事は高校(↓)とは違って実質的には公募制ではないようだし。修士課程が出来たばかりで博士課程はないので他に行くしかないが、途中から博士課程に入れるかはどうかもあやしい。応募には教歴と業績が要るらしい。わからないことだらけだが、どうやら①修士論文を書きながら、②学会に入って業績を溜め、③誰かに教歴の手助けを頼む、ということらしい。業績はどこかの学会に入り、それらしきものを書き溜める、すべて、運任せということか。

 先ずは修士論文のテーマである。好きなテーマで書けるに越したことはない。幸い指導教官は名目だけで好きにやってもいいらしい。(→「ゼミ選択」、6月14日)指示されるのは苦手だが、勝手にやれと言われると、あれやこれやと自然に心に浮かんで来る。大学の6年間は英語をしなかったが、それでも2年留年をした4年目かの購読の授業で読んだ作品がずっと気になっていた。教員は同じ夜間を出て大阪工大で教授をしていると言っていた。おおざっぱな人で「あのうtinyやなくてtinnyやと思いますけど」と言ったら「ほんやま、そやな、気ぃつかんかったわ」とさらりと言っていた。作者はアメリカの黒人作家で、別の購読のテキストが違う名前の黒人作家だった。そんなこともあって、次の年に専門科目の英文学特殊講義で「黒人文学入門」を受講した。講師は昼間の卒業生で、神戸商科大学の教授、非常勤講師として来ていたらしい。時々大学の掲示板で黒人研究の会の張り紙も見かけたような気もする。ゼミの担当だった人(→
「がまぐちの貯金が二円くらいになりました」、1986年)の「最近のジンバブエの動向」というタイトルを見た時は、笛まで吹きはるて、あの人(↓)趣味が広いんや、と感心した記憶がある。そのジンバブエに「在外研究」で行くようになるとは夢にも思わなかった。

 高校の「採用試験」(5月8日)を受けるついでに「大学院入試」(5月10日)も受けてみるかと思いついて、好きな人の研究室に相談に行ったとき、Hawthorne, The Scarlet Letter、Dreiser, Sister Carrie、An American Tragedy、Faulkner, Sanctuary、Light in August、Steinbeck, The Grapes of Wrathのリストをもらったと書いたが(→「購読」、5月5日)、もう1冊書いてくれた分をすっかり忘れていた。Richard Wright, Native Son 1940である。唯一の黒人作家(↓)だった。書かれた順に読み始めたが、最初の4冊に比べて、Native SonとThe Grapes of Wrathは面白かった。特にNative Sonも分厚くて数百ページもあったと思うが、三日ほどで読んだ。ぞくぞくした。文章との相性がよかったんだと思う。

 高校では「授業とホームルームと課外活動」(→「教室で」、5月21日、→「ホームルーム」、5月24日、→「ホームルーム2」、5月31日、→「顧問」、5月30日)で毎日が精一杯、読む時間もなかったが、ライトが書いたものを全部読んでみることにした。先ずは資料探しだろう。テキストで読んだ中編の作品は1944年の「クロス・セクション」という雑誌に載ったらしい。1940年にすでにNative Sonがベストセラーになって、次のベストセラーのBlack Boyが1945年の出版だから、その前の年の出版ということになる。雑誌がニューヨーク公立図書館のハーレム分館にあるらしい。初めてのアメリカ行きになりそうである。
次は、サンフランシスコ(↓)、か。

つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:中朝霧丘

 梅雨の合間は曇り空でも、雨が降らなければ充分に有難い。雨で潤って、畑の野菜もずいぶんと大きくなっている。春先に一斉に虫が葉を食い漁って深緑色の糞まみれの惨状になるが、ある時期を過ぎると一定の状態で落ち着くようである。あれだけやられていたレタス(↓)も虫にやられないで、一部が生き残っている。葱(↑)は温度が上がると自然に消えてしまうようだが、一部の根を丁寧に植え替えた分が辛うじていくらか生き残っている。

 朝霧丘(あさぎりおか)は優雅な名前である。転勤で各地を回って引っ越しを繰り返していた妻の父親が、将来4人の子供たちが集まりやすいようにと、日本のほぼ真ん中にある明石に家を買い、瀬戸内海が一望できる坂道のお寺に墓を買ったと聞く。東京にいる子供が、今墓参りに来てるで、と電話をしてくることがある。最初は墓参り?と不思議だったが、仕事で福岡に行ったり来たりする途中に、生まれた家が懐かしいのか祖父と住んでいた頃を思い出すのか、時たま寄るらしい。結婚した彼女を連れて行くこともあるようである。楽しそうに暮らしているのが何よりである。
朝霧の家を買った当初は周りに家も少なかったらしいが、3人で転がり込んだ頃は、坂の上の方まで家で一杯だった。百坪余りの家の前は溝になっていて、三方を四軒の家に囲まれていた。家の少し離れた東側に明石と神戸市の舞子の巨大な明舞団地(↓)が出来て、行き交う車の数も相当なものになっていた。人口が多いと交通の便もよくなり、インフラも整備されていく。病院も多く、子供は二人とも明舞団地の大きな病院で産まれた。家の南側に少し離れて幹線道路が通っていて、明舞団地行きのバスも結構な数で走っていた。普段は明石駅まで自転車を使っていたが、バスも本数が多いので使い勝手があった。

 人は生まれながらにして思い切り不平等である。結婚しようと言ってうんと言われ、一ヶ月余り先にはいっしょに暮らし始めていたので、お互いのことをよく知らなかったと、暮らしてから少しずつわかり始めた。四国、西宮、明石と中朝霧丘と移り住んで、その度に転校やったから大変やったよと言っていた。社宅に住んでいたとも言ってたので、県営住宅や市営住宅かと思っていたが、よく聞くと工場長の社宅で、500坪ほどあったようである。お手伝いさん用の部屋や電話ボックスもあったらしい。明石に来たときは大学の付属中学に入れてもらったらしいが、進度の違いで数学に苦戦したと言う。6畳と4畳半のバラックで消防署から屋根の油紙をトタン板にするように改善命令が出た生まれた家とは別世界である。とても同じ時代に生きていたとは思えなかった。

住んでいた家の近くにあった紡績会社の一般社員向け長屋住宅

 明治生まれの父親は母子家庭、奨学金で工学部を卒業、妻の母親とは大恋愛の末に結婚したと言っていた。結婚の日に初めて会った私の両親とは、また別の世界に住んでいたようである。戦前は大学への進学率の1パーセントほどだと聞いたことがあるが、富国強兵の時代には工学部は花形、予算も多く、優秀な人材が集まったようである。卒業後は大手の紡績会社に就職、絹織物主体の時代の「女工哀史」に描かれた織子たちが貧しかった分、工場長の待遇はよかったようである。子供3人を東京の一流大学にやり、都会に一軒家を購入、借金もせずにそれが可能だったようである。ガーナ赴任の話もあったようだが、工場長で退職、その後関連会社に就職したらしかった。妻の母親は腎臓を悪くして、苦しんだ末に亡くなったようで、会えずじまいである。妻を亡くし、老け込みかけた頃に、ある日突然、娘夫婦と孫3人が家に転がり込んで来た、というわけである。
次は、修士論文、か。

住んでいた家の近くにあった紡績会社