つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:言語表現学会

 中間管理職を利用して体制強化を目論んで創られた(↑、→「大学院大学」、6月13日)とは言え、院に通う「学生」が日常で文部省の目論見を感じることはなかった。多少年嵩は行っているが、誰もが授業に出て講義を受け、学期末には試験を受け、昼は学生食堂に行き、空き時間や放課後を利用して図書館(↓)に通うという「普通の」学生生活を送っていた。出来る限り大学に行かず、授業に出る回数を如何に減らすかに腐心し、図書館や学生食堂があることにも気づかなかった学生は、大半が教育系出身の現職教員の中では、今も昔も天然記念物だろう。

 国語と英語の壁を取り払う「言語表現」が目玉だっただけあって、入学した時点で自動的に「言語表現学会」の会員になっていた。経緯はどうであれ、業績が必要だった私には「黒人研究の会」とは別の発表の場があるのは有難かった。修士課程が終わるまでに、「言語表現」(↓)で1本、「黒人研究」で2本が活字になった。口頭発表も合わせて5回ほどさせてもらった。何の準備もなかった2年間のわりには、最低限はやれたようだ。それが精一杯だった。どちらも業績欄に項目がある。

 今更授業でもなかったが、教養科目も含めある一定の単位は必修で選択の余地はなく、仕方なく授業(↓)を受けた。教養科目は教員がついでにやっている感じのものが多かったようだが、たしか2つか3つで済んだのは何よりだった。(→「キャンパスライフ2」、6月15日)専門でも出来るだけ嫌なものは避けたかったが、英語教育の枠で英語教育法と英語評価論、言語学の枠で理論言語学というのが厄介だった。ただ、現職教員を再教育して元の学校に戻すという暗黙の諒解の下に、あり得ない答案でも、優はつかないまでも可くらいはくれる仕組みのようだ、と勝手に決めつけていたから、何気に気持ちは軽かった。しかし、英語評価論と理論言語学は、箸にも棒にも掛からなかった。担当の3人とも異動組ではなく呼ばれた口のようだった。ごくまともな感じがしたので、少し後ろめたさは感じたが、仕方がない。

 私より若い学生は二人だけで、四十代も何人かいた。いっしょに英語評価論の授業を受けた人で一人、この人大丈夫かいな、これで人に授業出来るんやろかと心配した人がいたが、小学校の教員だったと聞いて少しほっとした。卒業間際に神戸のデパート前(↓)で遠くから見かけたとき、東北に帰る前に目一杯買い込んだようで、土産の神戸風月堂の袋を両手に一杯にぶら下げていた。家族で歩いていた光景は何だか微笑ましかった。児童には優しくて、いいせんせなんだろう。まったく問題なしである。

 言語系英語の14人は大学(↓)の寮か近くに住んで、上の何人かの人柄がよかったのか、仲もよかったようで、いっしょに飲んだり勉強会もしていたようだ。私は別枠で考えてもらえていたようで、教育系にありがちな押し付けもなかったし、毎回誘ってもらうのも悪いので、勉強会に一度だけ行ったことがある。運用力がうるさく言われていない時代にしては、英語の運用力のある人も多かった。一番年上の52歳の人は温厚で、言葉遣いも丁寧、おまけに英語の実力もありそうだった。東京の公立中学校で全部英語で授業をしているらしく、教生(Student Teacher)がその人の学校に実習に来た時の話はおもしろかった。教室の後ろに立っていた教生に、その人は教壇から"Why don’t you sit down?"と話しかけたら、教生はもじもじしながら"Because….”と口ごもったとたん、生徒がどっと笑い出したということだった。毎回英語で授業を受けている生徒の自然の反応だろう。その話を「黒人研究の会」の例会でしたら、外大の院を出た後、非常勤をしていた人が「Because….ではいけないんですか?」とぼそっと呟いていた。ことさら英会話、英会話と言い過ぎるのも考えものだが、"Why don’t you~?"の話を聞いて、想像力を働かせるくらいはしたいものである。英語が使える学生は、口でこそ言わないが、英語の授業では相手にもしてくれない。

 3学期制のおかげでアメリカに行く前に取れる単位はすべて終わり、9月からは週に一度、ゼミの時間に行けばよかった。「ゼミ選択」、6月14日)
次回は、明石城、か。

つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:黒人研究の会

「アレックスとのうぜん葛」

 陽射しが焼けるほど熱く、真昼に出かけるが億劫になる。なんとか散歩に出たら、あちこちでのうぜん葛の鮮やかな朱色の花が樹に登っているのが見える。家でも北側の樹の下に植えて、花が樹に登って咲いた時期もある。この前紹介したねじばなと同じ暑い頃に咲く花だと、また改めて実感した。カレンダー(↑、→「私の散歩道~犬・猫・ときどき馬~一覧(2004年~2021年)」)や本(↓、→『劇作百花2』、装画、1998)の装画にもなっている。(→「たまだけいこ:本(装画・挿画)一覧」)宮崎に来てから、よく見かけるようになった花の一つである。

 修士論文のテーマを決め、アメリカで資料も手に入れ、教歴のお願いもしたので、あとは修士論文も含め業績である。6年間も大学にいて全く知らなかったが、その6年の間も「黒人研究の会」の人たちは、学生運動で学舎が封鎖されて使えない時以外は、研究棟(↓)の一室で毎月例会をやって、研究発表を続けていたらしい。

 ひょっとしたら、学舎が封鎖されたときも、他の場所でやったかも知れない。会を作った一人が学生側に立って最後まで学生を支援していたらしいので、ひょっとしたら学舎が封鎖された(↓)時期の例会はなかったかも知れない。

 アフリカ系アメリカの作家(↓)で修士論文のテーマを決めた、業績も必要である、そう考えたら、黒人研究の会は私にはこれまた宝庫だった。人がたくさん集まる大きな学会は苦手だが、幸いこじんまりした研究会だと聞いた。ゼミの担当者だった貫名義隆さん(→「がまぐちの貯金が二円くらいになりました」、1986年)が1954年に同僚、卒業生、院生とともに「黒人の生活と歴史及びそれらに関連する諸問題の研究と、その成果の発表」を目的として研究会を始めたらしい。1950年代、60年代のアメリカの公民権運動(the Civil Rights Movements)や1960年前後の変革に嵐(the Wind of Change)の吹いた独立の時期とそのあと暫くが研究会として最も勢いがあった時期だったと思うが、私の入った1980年代の初めころは、活気があったとは言えない。会誌を何とか発行し、例会も辛うじて続けている、そんな風に見えた。

 会誌「黒人研究」(↓)は50号ほど出ていたが、原稿も集まらず、資金も底をついていたと聞く。例会には、会誌の編集を担当していた先輩と、外大のアメリカ文学担当の教授と神戸商大の教授と私立高校の教員の4人は毎回ほぼ参加していたが、参加者は10人前後で一人か二人の発表を聞いたあと、打ち合わせと少し話をする程度だった。地味だがアフリカ系もアフリカもどちらも知らないことだらけだったので、私にはそれなりに毎回面白かった。会誌の編集は先輩、会場の手配と例会案内はアメリカ文学担当の教授、例会発表の担当は神戸商大の教授、会計と書記は私立高校の女性教員が細々と担当していた。4人とも私より20歳ほど上の人たちで、見ていると気の毒になり、そのうち会誌、会報の編集と例会案内をつい引き受けてやるようになっていた。今のようにメールが使えるわけではないし、パソコンから印刷できるわけでもないので、せいぜい当時流行っていたプリントごっこで印刷か、一枚一枚手書きで例会案内を作って切手を貼り、中朝霧丘の家の近くの郵便局から発送した。会誌と会報の編集は面倒くさいことも多かったが、雑誌の出来は如何にいい原稿を集められるかに依るということを思い知った。原稿依頼の遣り取りに一番時間と労力を使ったと思う。授業をするのに向いていると授業をして始めて気づいたが、編集もやってみて同じような感じがした。もちろん、避けることが出来るなら、それが一番である。

「黒人研究」52号

 例会では半年に一度くらい発表させてもらい、会誌には1982年の52号から1988年の58号まで5回書かせてもらった。宮崎に来てからも続けるつもりでいたが、1985年辺りからわりと厚かましい女性たちが業績目当てに入会し始め、その数がかなり増えた頃に億劫になって退会した。世話になっていた出版社から研究会編で出版したが、出版が当然のような顔をして自分は金を出さない人たちが多く、出版社との板挟みが最終的な退会の原因となった。出版社か研究会かを迫られた格好になってしまい、先輩にも言えず、いつも会っていた人たちにも挨拶も出来ずに、黙って退会した。地味な研究に裏付けられた例会と、編集も手伝うことになった会誌、会報(↓)にはずいぶんと世話になった気がする。今は大学が神戸市の西側に移転し、関係者がほとんどいなくなって、事務局ごと東京に移っている、と久々に東京で会った知り合いに聞いたが、詳しいことは知らない。

会報「黒人研究」第1巻第1号

 次は、言語表現学会、か。言語表現が目玉で開学した(→「大学院大学」、6月13日)ようで、自動的に「言語表現学会」の会員になっていた。院(↓)で受けた授業やゼミなどについても書くつもりである。

つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:あのう……

 テーマも決めてアメリカで資料も仕入れてきたので、あとは書くだけ、と言いたいところだったが、もっと先にすべきことがあった。教歴と業績である。博士課程もどうなるかわからないし、応募のためには教歴と業績が要るからである。(→「修士論文」、6月18日)業績は黒人研究の会と大学(↑)の言語表現学会に入ったので、書けばなんとかなりそうだが、問題は教歴である。先輩に頼むしかない。こっちは勝手に後輩のつもりでいるが、大学の購読の授業をたまたま受けただけで、その人も夜間だったと聞いたからだ。私と17歳違い、子供さんが二人いて、下の男の子とも17歳違い、ちょうど真ん中なんやと思ったことがある。一度神戸市塩屋(↓)のマンションにお邪魔したことがある。奥さんが笑顔で迎えて下さった。部屋に上に女の子が座っていて、小学生の5年生か6年生くらいだった。

 今は神戸の北の方の住宅地に一軒家を買って引っ越したらしく、授業では大阪工大で教授をしていると言っていた。おおざっぱな人で、「地下にひそむ男」のテキストを読んでいる時に「あのうtinyやなくてtinnyやと思いますけど」と言ったら「ほんやま、そやな、気ぃつかんかったわ」とさらりと言っていた。学生も気軽に話しかけ、話も気さくに聞いてくれた。教員採用試験の時は、高校の教員と県教育員会の指導主事をしたことがあると聞いていたので、面接試験の前に電話で「面接」(5月9日)のことを聞いた。「髭か?そうやな、ワシやったら、4段階の一番低い1をつけるな」という返事だった。

兵庫県庁

 アメリカから戻ったあと暫くして、会いに行くことにした。早く高校を辞めるように急かせてくれた妻もいっしょに来てくれた。すでに黒人研究の会では顔を合わせていたので、「あのう……」と少し言いづらかったが、要件を伝えた。話をじっくりと聞いてくれたあと、しばらく黙っていたが、意を決したように話し始めた。結論は「大きな決断やし、引き受けたらワシにも責任が出来るし、即答は出来んな。じっくり考えて、半年あとにもう一回来てくれへんか。その時まで気持ちが変わらんかったら、その時また考えるわ。」ということだった。いつもの気さくな雰囲気はなく、相当な決断なのが伝わって来た。

黒人研究の会の例会があった神戸外大研究棟(同窓会HPより)

 もちろん、決めて訪ねたわけだし、結論が変わるはずもなく、半年後にもう一度二人で家を訪ねた。「よっしゃ、わかった」と言うことだった。先行きはわからないが、修士論文締め切りまで一年と半、業績も含めて自分に出来ることはやっておくしかない。
 その後しばらくしてから、「同じ外大を出た後輩の中に親しくしてるのがいてるけど、あんた、会いに行ってみるか?京大の博士課程を出たあと、今甲南女子大(↓)の教授をしてるで。いろいろ話をしてくれると思うで。参考になるんとちゃうか。」と言われた。試験でもみくちゃにされた(→「分かれ目」、6月11日)甲南女子大か。何か縁でもあるんやろか。再び甲南女子大の校門を通るとは思ってもいなかった。
 次は、黒人研究の会、か。

2010年~の執筆物

アングロ・サクソン侵略の系譜の中の金芝河さんのこと

金芝河著『不帰』(中央公論社、挿入写真)

2021年11月27日(土)にZoomシンポジウム「アングロ・サクソン侵略の系譜―アフリカとエイズ」をしたとき、エイズの話の前にバズル・デヴィドスンの「アフリカ・シリーズ」を軸に、ケニアの歴史を辿った。その中で、ジョモ・ケニアッタの独裁政権と対峙したグギさんと『作家、その政治とのかかわり』(Writers in Politics)の中に紹介されている金芝河さんの詩の日本語訳を紹介した。ブログで5回にわけて書いたが、今回はグギさんと同じように、韓国の軍事独裁政権と対峙した作家として一つにまとめることにした。ケニアの歴史を辿ったが、ケニアについても歴史についても少し齧った程度である。韓国については、もっと齧り方が少ないので、僅かに齧った部分と未出版の金芝河さんの詩の日本語訳に、アフリカ系アメリカに始まりアフリカを何十年か辿った中で考えたことを交えて書いた。(→「2021年11月Zoomシンポジウム最終報告」

①金芝河さんの訃報、②グギさんと『作家、その政治とのかかわり』、③「韓国問題緊急国際会議」、④風刺詩の主人公農民安道、⑤グギさんのスピーチ、の順である。

①金芝河さんの訃報

『不帰』の扉写真

最近新聞で、韓国の詩人金芝河(きむじは)さんの訃報を読んだ。1980年代の初めに会って気に入って下さった出版社の社長さんからグギさんの評論『作家、その政治とのかかわり』の日本語訳を頼まれた時、その中にその人の詩が含まれていたので、いっしょに日本語訳をした。韓国についても金芝河さんについてもよく知らなかったので、妻の書棚にあった『金芝河(キム・ジハ)民衆の声』(サイマル出版会)と知り合いから借りた『現代文学読本 金芝河』(清山社)、金芝河著『不帰』(中央公論社、挿入写真↑)、姜舜訳『金芝河詩集』と、韓国の歴史の本を何冊か読んだ。初めて知ることも多かった。妻の書棚の本には、ひらがなの旧姓と1975.1が記されてあった。結婚前に買って読んだようだ。山之口獏で修士論文を書いたそうで、本棚には、詩と絵画の本と絵本が多かった。

グギ・ワ・ジオンゴ『作家、その政治とのかかわり』

出版社の社長さんはグギさんとケニアでも日本でも会い、日本語訳も何冊か出していて、翻訳出版も続けていた。いつか同時通訳の役が回って来そうで、その準備もしてはいた。出来れば避(よ)けたかったが、案の定、『作家、その政治とのかかわり』の話がさりげなく舞い込んで来たのである。身に余る光栄と言いたかったが、そんな力量もないし、グギさんもケニアもほとんど知らない。ケニアの事情や歴史も知る必要があるし、先ずはグギさんの本を読まないといけない。考えるだけで、気の遠くなるような話で、予測される大変さの方が大きかった。

小島けい挿画(『アフリカとその末裔たち』)

グギさんは多作で、果てしなく分厚い本もあり、読むだけでも大変である。ギクユ語なら最初から諦めるが、運悪く英語版が揃っている。作中に使われているギクユ語については同郷のムアンギさんに聞くしかない。大阪工大で一時期いっしょに非常勤をして、明石の家に来たこともある。結局、日本語訳に丸々2年ほどかかった。グギさんがギクユ語で書き始めた経緯や新植民地支配下にあるケニアの政治情勢に加えて、韓国軍事政権下の金芝河さんに、アフリカ系アメリカ文学と思想まで含まれていた。どれ一つとっても大変なのに、手に余る、そんな感じの2年間だった。日本人一般のアフリカへの関心のなさや一般常識を考えても、間違ってもアフリカの本が売れるわけがない。出版に二百万か、三百万か要ると言われた。払う人もいたようだが、出せずに未出版のままである。

ムアンギさんたちと、1988年大阪工大で

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*時事コムの訃報:金芝河氏(キム・ジハ、本名金英一=キム・ヨンイル=韓国の詩人)韓国メディアによると、8日午後4時(日本時間同)ごろ、江原道原州の自宅で死去、81歳。1年余り闘病生活を送っていた。全羅南道木浦出身。ソウル大美学科卒。朴正熙政権下の1974年、民主化運動関係者が次々逮捕された「民青学連事件」で死刑判決を受けたが、後に無期に減刑、釈放された。代表作は「長い暗闇の彼方に」。他にも邦訳が多数ある。

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②グギさんと『作家、その政治とのかかわり』

出版社の社長さんからグギさんの『作家、その政治とのかかわり』の日本語訳を頼まれたのは1990年代の終わりか2000年に入った頃だったと思う。南アフリカの作家アレックス・ラ・グーマの『まして束ねし縄なれば』(1992年、→「日本語訳『まして束ねし縄なれば』」、2021年6月)の次にグギさんの分の日本語訳を頼まれた。どちらも反体制の作家で、投獄されたという共通点もある。二人とも国内に滞在できる政治情勢ではなかったので、グギさんはイギリスからアメリカに、ラ・グーマはイギリスからソ連、キューバに亡命をしていた。日本も含め西側諸国は南アフリカの白人政府を「正式に」認め国交もあったが、東側諸国はアフリカ人を「正式な」外交官として迎え入れていた。ラ・グーマはソ連ではたくさんの読者がいた人気作家だったと聞く。

『まして束ねし縄なれば』(表紙絵:小島けい画)

南アフリカやケニアや韓国に限らず、「正常」とは思えない政治情勢が日常茶飯事の国は驚くほど多い。ネルソン・マンデラは1964年に終身刑を言い渡された同じ法律で1990年に無条件で釈放され、大統領になっている。ガーナ(当時はイギリス領ゴールド・コースト)のクワメ・エンクルマも牢獄から出て選挙で選ばれ、一足飛びに初代首相になった。ケニアも恐ろしい国である。最も住み心地のよかったホワイトハイランド、後の首都ナイロビを南アフリカからの英国人入植者が奪いに来た時、たくさんの民族集団が一丸となって闘い、何とか勝利したが、そのあと、民族集団の中では多数派ギクユ人の指導者ジョモ・ケニヤッタが、権力や富に目敏い金持ちの取り巻きと悪知恵を働かせて、西側諸国、特にアメリカや日本と手を組んでしまった。(→「イギリス人の到来と独立・ケニヤッタ時代 」、2021年11月)それまでナイロビ大学の教授でロンドンを拠点に世界的な作家でもあったグギさん(↓)は、その集団から弾かれてしまった。体制を批判し始めたために、国内にいられなくなって亡命せざるを得なかったわけである。ケニヤッタに「ケニアは民主主義の国だから帰国は自由です、赤い絨毯を敷いてお待ちしています、もちろん命の保証はありませんが」とまで言われたらしい。(→“Ngugi wa Thiong’o, the writer in politics: his language choice and legacy”、2003年)日本もおかげで、自民党は鼻高々に大手を振ってODAの予算をつけて海外協力隊を派遣できるし、大企業や商社のために日本人学校を設立、運営できる。他の国も事情は似たり寄ったりである。

韓国も死刑宣告を受けて獄中にいた金大中(キム・デジュン)が、選挙で選ばれて大統領になった。金芝河さんも金大中と同じ時期に死刑宣告を受けている。ソウル大を出たインテリが書いた詩は反体制の象徴で、影響力も強く、体制側には極めて不都合だったわけである。金大中や金芝河さんの死刑に反対して日本で世界中から人が集まって会議が開かれたのを私が知ったのは1980年代の半ば頃で、大学の職を探していた時期である。1982年にアフリカ系アメリカ人作家リチャード・ライトで修士論文(→“Richard Wright and His World”)を書いた後、ライトのイギリス領ゴールド・コースト訪問記『ブラック・パワー』(↓)を読んでいるときに、アフリカの歴史を知る必要性を感じ始めていた。(→「リチャード・ライトと『ブラック・パワー』」、1983年)

日本でも大都会では南アフリカのアパルトヘイト政策と政界や財界の結びつきを非難して、反アパルトヘイト委員会が中心になってイトウヨーカドウやダイエーなどを相手に不買運動が展開されていた。二階堂進や石原慎太郎が政財界を結ぶ役目を演じて悪名を振りまいていた。不買運動の余波を受けて、南アフリカの安いワインや缶詰は地方の量販店にごっそりと流れていた。ちょうど宮崎に来た1988年は不買運動の激しかったころで、自転車で通う途中で見つけた量販店に入って南アフリカ産のフルーツ缶が山積みされているのをみて、さすが陸の孤島やと感心したことがある。(→「アフリカ・アメリカ・日本」、1987年)

グギさんは『作家、その政治とのかかわり』のなかで「東京で開催された韓国問題緊急国際会議」と紹介しているが、会議は1981年に神奈川の川崎市で行われている。会議に出席した先輩から、「その時来てたラ・グーマの写真(↓)があるけど、要るか?」と言われ、一枚もらったことがある。アフリカの作家での発表を薦められて(→「リチャード・ライト死後25周年シンポジウム」(2019年3月)、1987年のサンフランシスコでの→「MLA」(2月20日)の相談をした時に他の資料といっしょに渡してくれた。会議があった時期、私は高校から教諭のまま教職大学院に行っていたが、金芝河さんの死刑宣告も緊急国際会議も、知らなかった。

会議でのラ・グーマ(小林信次郎さん撮影)

③「韓国問題緊急国際会議」

グギさんが「東京で開催された韓国問題緊急国際会議」と書いた川崎市の会議については、招待者の一人として参加したグギさんが書いた「十一章 韓国内の抑圧」の日本語訳の一部を是非紹介したい。折角2年もかけて日本語訳したので、少しでも読んでもらえれば嬉しい限りである。

「八月十二日から十四日にかけて東京で開催された韓国問題緊急国際会議に参加していた人たちは、金大中(キム・デジュン)や民主化運動の指導者たちが俄に軟禁されたという報せを聞いて、皆一同に大きな衝撃を受けました。

会議の重要な決議の一つは、韓国の軍事独裁者朴正煕(パク・チョンヒ)の「虎の檻」の中で今まさに朽ち果てようとしているすべての市民の指導者、学生、宗教家、作家、大学の教員や、他の無数の政治犯の即時釈放を求めて呼び掛けることでした。会議はまた、四万二千人のアメリカ軍や核兵器要員の退きあげを要求し、民主主義的な諸権利と、言論、組合、集会と宗教の自由を求める運動と平和裡の南北統一を支援することを表明しました。

会議は、小説家小田実を代表とする日本の作家グループの支援のもとに『民主主義と南北統一を求める国民会議』によって召集され、アルジェリア、オーストラリア、カナダ、イギリス、フランス、香港、マレーシア、メキシコ、シンガポール、韓国、スリランカ、タイ、アメリカ合衆国と西ドイツのすぐれた学者や作家が出席しました。その中には、ハーヴァード大学教授でノーベル生理学賞を受賞したジョージ・ウォールドのような著名な人もいました。ほかにも、横浜市長の飛鳥田一雄、歌手のジョーン・バエズ、小説家のノーマン・メイラーや言語学者のノーム・チョムスキーなども支援者として会議に参加しました。

私は東アフリカから参加したただ一人の作家でしたが、会議は私の目を開かせてくれる体験でした。すでに私は、ソウルとピョンヤンで同時に発表された一九七二年七月四日の共同声明文を読んでいました。そこには、外国人ではなく朝鮮人が主導権を握ること、平和的な手段を採ること、統一は社会制度の違いを超越することという南北統一の三原則が述べられていました。また、続いて出された一九七二年十月十七日の韓国内の戒厳令や『韓国の運命を一枚の紙切れに委ねることは出来ないし、統一が百年以内に達成されることはないだろう』という朴の冷たい声明についても読んでいました。そしてまた、カトリック信者の詩人で、世界でも一流の作家のひとり金芝河(キム・ジハ)の投獄についても聞いていました。その詩人の罪状は、朴には気にいらないものでしたが、それでもなお民衆の間で圧倒的に人気のある詩を書いたというに過ぎませんでした。英語に翻訳されて『民衆の声』(ミンジュンエソリ)の題で出版されている詩のなかに、自由でいたいと願う韓国の人々の総体的な決意だけでなく、民衆の悲痛な叫び声が聞こえてきます。恐るべき韓国中央情報局が一九七三年に日本のホテルから金大中を誘拐したことも私は読んでいました。あの人の罪状は?票の不正操作や脅迫があったにもかかわらず、大統領選で朴を負かしそうになったからなのです。もしアメリカの支援がなかったら倒れかけていた、国民に人気のない南ヴェトナム政府を支持する四万二千人のアメリカ陸軍と核兵器要員についても私は知っていました!

『金芝河(キム・ジハ) 民衆の声』(サイマル出版会)

私が知らなかったのは、国内での弾圧や無残に人々の命を軽視する程度についてだったのです。その程度から言えば、朴政権は恐らく世界でも唯一南アフリカと並ぶ最も厳しい政権の一つだと言えるでしょう。それは病的なまでの反共思想の上に繁栄する警察国家で、有権者の支持を巧みに操作して地盤を固めており、アメリカ軍の支持も受けているのです。私はまた、民主主義の回復を求めて力強く運動が展開されていることもよくは知りませんでした。その運動は、主義や主張にこだわらない色々な人たちの様々な形での広がりと、南北統一に向けてのその人たちの係わりの深さを見せています。韓国のあらゆる年令の、あらゆる違った考え方の人たちからそのことを聞き、その表情や身振りから人々の苦しみと真剣さを看て取らなければなりませんでした。今の私には、その背後にある、人々の間で広く支持された団結と情熱を理解することが出来ます。

朴は一九六一年の軍事クーデターによって政権を握り、張勉の自由主義政権を終わらせました。張勉は民主的な選挙で首相に選ばれ、六十年に李承晩(リ・スンマン)独裁政権が崩壊したあと執務を行なっていました。つまり韓国は、四十五年に永年の日本の植民地支配を脱したあとの短かい期間を除いて、平和と民主主義と自由を知らなかったということになります。朴は軍事力を主張して、北朝鮮人民共和国からの想定し得る攻撃に対抗するために強力な政権を打ち建てる必然性を公然と説きました。朴はただちに反体制勢力を抹殺するために色々な手段を取りました。反国家派と思われる組織を支援する陰謀や扇動や組織的な宣伝活動を禁止するために国家保安法が可決されました。共産主義的と政府が判断する方針に沿って活動していると思われるか、その疑いがある組織を厳しく罰するために、あるいはそのような組織に他人を勧誘したり、その組織を称賛したり、組織に助成したり、いかなる方法であれ組織に利益を供与していると疑われる者をすべて処罰するために、反共法も施行されました。

この二つの法の下に、汚職や縁故腐敗、失業や低所得や国民の生活条件について国を批判した自由主義者や作家、宗教的指導者の大多数は刑務所と拘禁によって沈黙させられてしまいました。しかし、もうすでに充分に厳しい統制が、いわゆる七十二年の維新憲法(ユシンホンポップ)の宣言によって更に強化されました。この基本法の第五十三条では、緊急時の権限を担い、諸法令によって支配する権利が朴に与えられました。七十四年一月八日の大統領緊急措置令第一号によって、維新憲法の拒否や批判あるいは中傷を禁じました。同日発令された第二号では、緊急措置令に違反する犯罪を裁く緊急時の軍事法廷の制度を作りました。七十五年五月十三日の第九号では、噂の流布、憲法の反対、学生の集会、緊急措置令に対するすべての批判を禁じました。政府は、いや、つまり朴は、違反した者を学校や職場から追放し、出版を禁止したのです。法令は再度修正され、その人の所在が国の内外にかかわらず、国に対する名誉毀損罪が導入されました。この法律の下に、アメリカの中央情報局のように世界的な情報網を持つ韓国中央情報局によって、多くの韓国人がヨーロッパと日本から誘拐されています。」

金芝河さんは七十四年の大統領緊急措置令で死刑を宣告されたわけです。グギさんは朴政権の国家をあげてのこのテロ行為を見事に描いている作品として金芝河の風刺詩「根も葉もなき噂」を上げ、その中の小心な農民安道(アンドゥー)を紹介しています。私はグギさんが引用した英語訳を日本語訳したわけです。韓国語を英語訳した際と、その英語訳を私が日本語訳した際に金芝河さんの込めたニュアンスをどの程度まで汲み取れたかは甚だ怪しいのだが、朴政権の理不尽さと金芝河さんの風刺詩のニュアンスの幾分かでも表現できていればと願うばかりである。

④風刺詩の主人公農民安道

金芝河さんが農民安道(アンドゥー)の口を借りて書いた風刺詩の私の日本語訳の紹介である。グギさんは『作家、その政治とのかかわり』の「十一章 韓国内の抑圧」のなかで、七十四年の大統領緊急措置令で死刑を宣告された金芝河さんの風刺詩「根も葉もなき噂」を、朴政権の国家をあげてのテロ行為を見事に描いている作品として引用している。小心な農民安道(アンドゥー)の口を借りて、抑圧されている国内の理不尽さを風刺したわけである。グギさんが引用した英語訳からの私の日本語訳である。「小心な農民安道(アンドゥー)は、ソウルに出て仕事を探していました。栄えているように見えるこの近代都市の隅々を回っても仕事が見つからず飢え死にしかけた時に、安道は自らの両足で立ち、生まれて初めて世の中に反抗して『くそっ、なんていう世の中だよ!』とつぶやいたのです。安道は朴の秘密警察に尋問され、国に対する流言飛語流布罪で起訴され、裁判所に投げこまれます。ここで、その詩を引用させて下さい。」(「十一章 韓国内の抑圧」)

「口からその言葉が飛び出るやいなや
手錠が安道の手に架けられ、安道は
法廷に引っ張り出された。
三度小槌を打ち鳴らし、
判事は訊問を開始した。
『罪状は何か?』
『罪状は自らの両足で立ち、
根も葉もない噂を広めた罪でございます。』
『うむ、実に大罪である。』
『被告は、自らの両足で地面に
立ち、根も葉もなき噂を広めることによって、
自らの両足で地面に触れる罪を
犯し、その体を休める
罪、心を沈める罪、
貧乏な身分にもかかわらず立ち
上がろうとした罪、
考えながら時間を浪費
した罪、恥ずかしさも感じないで空を見上げた
罪、空気を吸い込み胸廓を広げた罪、
自らの身分を忘れ、特権階級に
だけその権利が与えらている直立の姿勢を取った罪、
一瞬も休むことなく更に生産し、輸出し、建設する
という国家の政策を傲慢にも回避した
罪、頭に『不』のつく罪状三件、『無』七件、『反』七件、『非』九件を
犯した罪、
罪もない人々を誤った方向に
導く根も葉もない噂を考え出した罪、
同じ噂を声に出そうとした罪、同じ
噂を声に出した罪、同じ噂を広め
ようとした罪、同じ噂を広げた
罪、祖国を蔑ろにした罪、母国の
言葉の名誉を汚した罪、祖国を
ある動物に例えた罪、祖国を
ある動物だと見做す世界をつくる
可能性を生み出した罪、資本投資の土壌を掻き乱した
罪、社会の混乱を助長し、社会不安を
引き起こした罪、人々の心を
扇動した罪、生きることに
倦み疲れた罪、現にあるしきたり
から逃れようとした罪、
敵を助けたと思われる罪、反
体制の思想を心に抱いた罪、
テレパシーの手段で反政府組織を
作ったと思われる罪、
反政府暴動陰謀の
罪、強靭な精神力を
もった罪、そしてその上に世論操作
特別法を犯した罪。』
『有罪。』と判事は宣告し、
改めて小槌を三度打ち鳴らした。
『よってここに厳粛に
憲法に則って以下の如く宣告する。
根も葉もなき噂を思いつき
人々に広めることがこれ以上出来ぬように、
被告の身体より頭を一つと、
傲慢にも自らの両足で
地面の上にこれ以上立てぬように、足を二本と、
被告に似たもう一人の扇動的な人間を
生めぬように、陰茎一本と睾丸二個とを、
本廷閉廷後ただちに切断すること。
そしてそののちも、被告が抵抗を試みる
危険性が極めて高いので、
被告の両手は背中で縛り、
濡れた革の胴着を着せ、喉に
硬くて持続型の発声防止装置を
詰めこんで、本日よりむこう
五百年のあいだ独房に拘禁すること。』

『いやだ!』被告が叫び声を上げる。
ぱさっ。
『ああ、俺の一物(いちもつ)がない!』ぱさっ、ぱさ。
『おお、おお、俺の睾丸(きんたま)がない。』ぽろっ。
『首が、おお俺の首がない。』ばさっ、ばさっ。
『いやだ、足が二本ともない。』手錠、革の胴着、発声防止装置。
そして同志安道は荒々しく
独房に放りこまれた。」

グギさんの使った英語訳を日本語訳するのは少し骨が折れた。詩は手に余る。詩で何とかすっと心の隙間に入り込んで来たのは、萩原朔太郎と種田山頭火くらいなもので、他はどうにも手が出なかった。もし遺伝子は配列で決まっているとしたら、たぶん、詩に対する感覚の遺伝子情報は私にはないようである。元々無理だと諦めてしまえばいいものを、本の中に一部含まれている詩を除いて日本語訳するわけにもいかない。本当に苦肉の策である。
ただ、韻文はリズムもあり、英語訳の工夫を出来る限り反映させようと腐心したが、実に心もとない。キムさんの風刺の幾分かでも伝われば幸いである。

⑤グギさんのスピーチ

「東京で開催された韓国問題緊急国際会議」でのグギさんのスピーチの日本語訳の紹介である。ちょうど昨日の新聞に詩人金時鐘さんの「金芝河さんを悼む」という記事が出た。訃報のあと、誰かに原稿を依頼して出した記事が、そのメディアの金芝河さんの評価というわけである。ノーベル賞級の作家なら、いつでも記事を出せるように準備をしていたはず、1929年生まれの金時鐘さんが書いた時の刻まれた記事である。(↓)

「金芝河さんを悼む」(画像保存→拡大で購読可)

グギさんは『作家、その政治とのかかわり』を三部で構成している。一部(文学、教育―国を思う国民文化のための闘い)と二部(作家、その政治とのかかわり)でケニア国内での作家活動と作品、その政治とのかかわりについて書いている。そしてその延長線上に、三部(政治的な抑圧に対して)の韓国とアフリカ系アメリカ文学を置き、すでに本や雑誌で書いたものも加えて作家と政治のかかわりを明らかにしている。会議で読んだ内容は三部の十二章に「韓国民衆の闘いはすべての抑圧を受けている国国の闘いである」という題で収められている。発表者も多く、それほど時間がなかったはずなので、草稿を軸に会場の反応も見ながらしゃべり、全文は後で本に収載したというわけである。その場にいなかったので、草稿と比べようがないが、グギさんの伝えたかったことを尊重して、草稿の私の日本語訳をそのまま載せたいと思う。グギさんの本も量が半端ではないので、読むのに難儀をしたが、この草稿も長い。気持ちがないと、とても読めない。本の日本語訳を2年で終えたのが不思議なくらいである。過ぎてしまえば、何とでも言える。

グギ・ワ・ジオンゴ『作家、その政治とのかかわり』

「私は韓国問題緊急国際会議を準備して下さった方々に感謝したいと思います。国の統一と民主化に向けての韓国の人たちの闘いについて私はほとんど知りません。もちろん、韓国の人たちがアジアでもアメリカ帝国主義に致命的な打撃を与えている国民の一つだということは知っています。また、国が分断され、半分がアメリカ帝国主義の影響下にあり、もう一方の半分は解放されて、人民共和国になっているとも知っています。しかし、私が知っているのはそれだけです。私は報道機関を外国人が所有し、常に帝国主義と並んで歩んでいる国からやってきました。したがって、国内では抑圧されていますので闘いや出来事についてはほとんど知らされていないのです。そのような出来事が報じられる時には、真実を曖昧にしたり、帝国主義的な支配は正しく、反帝国主義的な闘争は間違っているという見方で報道がなされるのです。だから私は知るためにここにやってきました。国民解放のための朝鮮の人々の正当な闘いについての何かを我が国に持ち帰りたいと思っています。出来れば、ケニアか朝鮮の特定の機関のために語っているのではないことを、また、この会議の目的に沿って私が非同盟の立場にいることを明確にしておきたいと思います。しかし、この会議は非同盟の立場にいる人たちのためのものであり、コロンボではこの会議と並行して非同盟諸国会議が行なわれていると聞き及んでいます。私は作家という立場でこの会議に参加して、自分自身について語り、帝国主義や外国支配から完全に解放される民衆の闘争から創作へ自分を駆り立ててくれる手がかりを得ようとしています。つまりは、私は作家として非同盟の立場には立っていられないということです。祖国の資源や人的資源を自らの手で管理し、自らの汗の結晶、自らの労働の産物を統制する権利を求めて百万の大衆が声をそろえて叫ぶ中にいて、どうして作家が非同盟の立場を取ることなど出来るでしょうか?帝国主義や人々を食い物にするあらゆる階級によって体に巻きつけられた鎖を百万の筋肉が断ち切ろうとしている光景を目のあたりにしてどうして人が非同盟のままでいられましょうか?

グギさん

昨日、韓国の作曲家尹伊桑(ユン・イーサン)が朴正煕(パク・チョンヒ)の獄舎で経験したことをつぶさに語ってくれた時、私はその証言に感動して涙がこぼれました。猿ぐつわをはめられた多くの人たちや、拷問を受けている多くの人たちを代弁していると分かっていたからこそ、獄中でオペラを作曲する力が湧いてきたのですと述べていたのが殊に印象的でした。それこそが、抑圧されている側の音楽や芸術が取るべき立場だと思います。完全な解放のために闘っている人たちの力と決意を表し、訴え、はっきりと語りましょう。
それは詩の中で金芝河が取っている立場でもあります。それは金芝河の詩が単に朝鮮の人たちに語りかけているだけでなく、世界中の闘っているあらゆる人たちにも語りかけているわけでもあるのです。金芝河は獄中にいますが、その声は南アフリカやジンバブウェの人たちを、あるいはパレスチナや、新植民地支配の下に苦しむあらゆる国の人たちを奮い立たせているのです。金芝河がアメリカ帝国主義といっしょになって国民から巻き上げたり、殺人の手助けをしたりする五賊について語る時は、私たちすべての国の歴史について語っているのです。
ここで暫らく、私たちすべてに共通しているその歴史について、話をさせて下さい。論理的に見て係わりのある二つの観方があります。ひとつは、それは絶えず西ヨーロッパの支配者階級による収奪と抑圧の歴史であったということです。報酬目当てに雇われたポルトガルの探検家や船員がアジアの富への最短の航路を発見するために派遣されて、十五世紀の終わりにアフリカに上陸したことが先ず頭に浮かんできます。封建的な支配階級と商業に携わる新興の有産階級はともに、この窃盗と掠奪の道を切望しました。その人たちは黄金を、きらきら輝く黄金を切望したのです。このきらきら輝く黄色の金属と煌めく白色の象牙を求めて、多くの文化の進んだ都市、特に東アフリカ沿岸の多くの諸都市をほしいままに破壊しました。その人たちはモザンビークやザンジバルやケニアの街を破壊しました。

1505年のキルワの虐殺(「アフリカシリーズ」より)

整備された石造りの町並みを備えた都市ジンバブウェを破壊して廃墟に変えてしまったのも、血眼になって黄金と象牙を探し求めたこのポルトガル人たちでした。その人たちには火薬と、もちろん聖書がありました。朝鮮やアジアの他の地域に宣教師を入植させようとしていた時期に、その人たちがアフリカでも同じことをしていたのは興味深いと思います。自分たちの思うがままに人々の生活を壊すことこそが都市や文化を破壊する上で最も重要だったのです。その人たちが望んだものは、黄金であり、銀であり、象牙や香辛料や、ポルトガルの封建的、有産者階級にただちに利益をもたらすありとあらゆるものであった点を思い出して下さい。この新たに伸し上がってきた有産階級の輝きは、殺戮されたアフリカ人の死体や血がその礎になっていたのです。あの人たちの吹聴するいわゆる文明は高度に進んだアフリカの文明を破壊して築かれたのです。ポルトガル出身の掠奪者たちによって築かれたケニアのモンバサにあるジーザス要塞は、主なヨーロッパの植民地列強として短かい栄光と成功を誇ったその人たちの醜い記念碑として、今なお建っています。ポルトガル人たちは、対等に自慢出来るものと言っても火薬しか持ち合わせはなく、他のヨーロッパ列強の先兵隊にしか過ぎなかったのです。しかし、火薬は十分に役立ちました……アフリカ人も斃れ、家畜も死に、家も倒れて内陸部への大規模な移住や移動が始まりました。アフリカ人は新しい家を、都市を、そして新しい生活を築こうと努めましたが、その努力さえも報われませんでした。植民地支配を夢見る更に多くのヨーロッパ人が大挙して海を渡ってやって来ました。ヨーロッパ人がアフリカの国々や民族を搾取し、支配し、抑圧してきた歴史は、主に次の三つの時代に分けられます。

遺跡グレート・ジンバブウェ(1992年たま撮影)

(一)奴隷制‥‥まずは、アメリカ、西インド諸島、ラテン・アメリカの新世界を建設するために、アフリカ人が奴隷として捕えられ、海を横断して輸送された時代です。後に日本に導入されるようになりますが、西洋の産業や技術の発達についてじっくり考える際には、その発展ももとを質せばアフリカ人奴隷の労働力が基礎になっているのを忘れてはなりません。もう一方で、こうして労働力が流出したことによってアフリカの成長に恐ろしいほどの悲観的な結果が生まれた事実も見逃してはなりません。いかなる発展も、所詮は人間につきるからで、自然を変え、その結果自分たち自身を変えてゆくのも組み合わさった人間の労働力なのです。人々を殺したり、閉じこめたり、あるいは人々を四散させたうえ自分の土地や他の土地で乞食になるように仕向けておいて、それでもそれが発展であると呼んだりなどしてはなりません。

奴隷帆船:「ルーツ」より

(二)古典的植民地主義‥‥その後に、直接の植民地占領の時代がやって来ました。この時期の特徴はヨーロッパ資本によって、アフリカの天然資源とアフリカ人の労働力を収奪したことです。アフリカは原材料と安価な労働力の供給地と同時に、ヨーロッパ商品の市場となりました。この収奪には植民地の軍隊と警察による直接的な政治支配と民衆への直接的な抑圧と弾圧が伴いました。

コンゴ自由国でのゴムの栽培(「アフリカシリーズ」より)

(三)新植民地主義‥‥その次には、大部分のアフリカ諸国が現在もその影響下にある新植民地主義の時代がやってきました。この時期は「国旗独立」の段階とか「国旗独立」の時代とも呼ばれています。それは、アメリカやヨーロッパや日本の資本の配下にある地元の人間で構成される政府がそういった国々の利益のためにその国の人たちを支配したり、抑圧したりする状況を言います。そのような政権は国際資本を護る警官の役目を演じ、武器や主人のテーブルからのおこぼれに与かるために一国を抵当にいれることもしばしばです。そんな政府は不均衡な発展を遂げる植民地経済を変更することは決してありません。

「国旗独立」:ガーナの独立(「アフリカシリーズ」より)

すべてこの三段階には暴力と抑圧が伴います。実際、その三段階は異なった局面の奴隷制であるに過ぎません。今このホールでこうして話している間にも、南アフリカではアフリカ人労働者の子供たちが殺されています。今こうしている間にも、私たちのたくさんの子供たちが南アフリカやジンバブウェでは拷問を受けています。ウガンダやケニアを含む新植民地主義の支配下にある多くのアフリカ諸国の監獄では他の多くの人たちが殺されたり、朽ち果てたりしているのは言うまでもありません。しかし、私が今までお話ししてきたのは、朝鮮や他のアジアの国々と共に分かちあう共通の歴史の一つの側面に過ぎないのです。

1976年のソウェト虐殺(『ロバート・ソブクゥエ』より)

もう一方の、より恒久的な観方は、闘争と抵抗という面からの観方です。アフリカにおける数百年に渡る奴隷制によって、収奪や抑圧に決して屈しなかった人々の無限に輝かしく、英雄的な歴史が生まれました。アフリカの人々はイギリス人やポルトガル人、それにフランス人や他のヨーロッパ人の奴隷監督と闘いました。その人たちは植民地占領軍に対抗して闘いを繰り広げました。この時期には輝かしい武勇伝がたくさん残っています。フランスと闘ったアルジェリアの武力闘争とイギリスに対して行なわれたケニアのマウマウ抵抗運動が挙げられます。ケニアのマウマウの解放闘争が朝鮮戦争とほぼ同じ時期に行なわれていたとお知りになって、それは面白いと思われるでしょう。更に最近では、モザンビークとアンゴラとギニア・ビサウでも武力闘争が成果を収めています。南アフリカでも同じような武力闘争が始まりかけています。ソウェトはこれから起こる事態の前奏曲に過ぎません。アンゴラとモザンビークとギニア・ビサウでの人々の数々の勝利がアフリカ諸国の闘争の新しい時代の先駆けであると私は信じています。十五世紀に初めて奴隷制と植民地主義を初めて導入したポルトガル人が撤退を強いられた事実は、アフリカにおける古典的植民地主義の終焉と、新植民地主義の段階に突入した帝国主義に対抗する激しい闘いの始まりであることを象徴しています。新植民地主義はその国の御用商人たちと外国の資産家たちが手を結んでいるために大いに成功しています。その御用商人たちは、ロンドンやパリ、ニューヨーク、アムステルダムや東京にいる、自分たちに報酬を与えてくれる主人のために、拷問や不正手段、投獄や軍事的な残虐行為やテロ活動などによって民衆を抑えて、支配を続けています。敢えて言うなら、その人たちは国際独占資本に雇われた現代の奴隷監督であり、農園の現場監督であります。

ケニアのマウマウ戦士(「アフリカシリーズ」より)

その国の御用商人の階級は民衆を混乱させるという理由で、最も危険です。本当の主人の姿が見えないのです。はっきりと目に見える支配者は、ほかの人たちと同じように、同じ肌の色をし、確かに同じ言葉を話しているように思えます。しかし、その人たちは民主的な社会の命を奪い、国民自身の責任ある決断を抹殺しています。その人たちは共産主義と闘っていると見せ掛けながら国民の連帯を阻んでいます。
しかし、朴正煕と朴に報酬を与える外国の主人に対してだけではなく、同時に地元の御用商人たちによって構成される支配者層と国際的な侵略者に対しても、闘いは続いていくでしょう。それが、民主化と統一に向けての韓国民衆の闘いがすべての抑圧された民衆の闘いでもある理由なのです。
帝国主義を完全に葬り去ることを通じて初めて平和は可能であると私は信じます。ですから、国民の統一と民主化に向けての私たちの闘いは、必然的に帝国主義と外国支配に対する闘いになるのです。しかし、帝国主義列強は手を組み、情報や戦略を共有しています。従って、敵を粉砕し、永遠に葬り去るために、抑圧され、搾取されている国々もすべて手を取り合って進まなければならないのです。
その敵は今、アメリカ帝国主義に先導されています。アメリカがヴェトナムとカンボジアで敗けたあと、帝国主義者たちは退却し、今は地歩を固めようと、アフリカ、中東、ラテン・アメリカと、韓国と他の東南アジア諸国を虎視眈眈と狙っています。ヴェトナムのあと、米国国防省長官が、韓国の人たちが自分たちの土地で奴隷になることをこのまま拒み続けるようなら、核兵器を使用すると脅したことをお忘れではないでしょう。極く最近、米国国防省長官が内密の防衛条約を結ぶために、ケニアとザイールを訪問しました。

若き日の独裁者ザイールのモブツ(「アフリカシリーズ」より)

ヒトラーを信奉する南アフリカのフォルスターが以前に、ユダヤ人国家をパレスチナの地に建設しようとする人たちとイスラエルで会談したように、アフリカでの軍事攻撃を仕掛け続けるための企画を更に考え出すために、キッシンジャーはその同じフォルスターと西ドイツで会談をしています。そしてフランスは、ヒトラー信奉者のフォルスターに新核兵器装置を売り付けています。このように明らかになお、帝国主義国家を暴走させる狂犬から核戦争の危機がやって来ているのです。
従いまして、なぜアジア、アフリカ、ラテン・アメリカに住む私たちが国家統一と民主化に向けての朝鮮の人たちの闘いを支援しなければならないかは火を見るよりも明らかです。私たちは自分たちの闘いだけを切り離して考えてはいけません。南アフリカ、ジンバブウェ、パレスチナ、チリ、朝鮮、それは民主化と民族の統一の敵に対する同じ闘いでもあるのです。それ故に、すべての抑圧された世界の国々の連帯感を意識的に強めなければなりません。私は一組織のために話しているのではありませんと言いました。しかしながら、国を分割する立場にあくまで反対し、外国の領土要求の立場に断固として反対してきたケニアの民衆が、国家の再統一と民主化にむけての朝鮮民衆の正当な要求をしっかりと支援するものと確信しています。
朝鮮民衆の闘いに、世界のすべての農民と労働者の闘いに、そして、帝国主義とあらゆる形の外国支配と闘い続ける世界の民衆の連帯に栄光あれと、お祈り申しあげます。」

少しでも読みやすいようにと、大学の英語や教養の授業で使った画像を入れた。映像から抜き取った画像もある。孫テープから抜き出したために映像が鮮明でないものもあるが、どれも貴重な映像で、残した人の意志の幾分かでも後の世に伝えることが出来ればと嬉しい限りである。

『金芝河(キム・ジハ)民衆の声』(サイマル出版会)より