つれづれに

つれづれに:黒人研究の会、その後

 「黒人研究の会」を辞めた。誰かに辞めろと言われたわけではないが、どちらかを選んで辞める結果になった。
黒人研究の会が神戸市外国語大学(↑、事務局と研究棟)の人たちが始め、入会当時も例会参加者にその関係者が多かったので、他に選択肢がなかったとは言え、「大学入学」を決めていなかったら、おそらく研究会とは無縁だったと思う。修士論文をリチャード・ライトで書いたのも購読の時間にライトのテキストが使われていたからだ。高校教員歴5年で「大学院入試2」を受け、「教職大学院」(↓)に行ってライトで修士論文を書いた。作品の背景やアメリカ黒人の歴史を知りたいと研究会に入ったのも自然の流れだったと思う。

 修了しても博士課程に入れてもらえないと考えて、業績も必要だったので「黒人研究」(↓)にも書かせてもらった。毎年1本ずつ書いた。実質的に月例会に来ている人も少なかったし、辛うじて会誌の発行を続けている程度だったので、自然に例会案内や会誌の編集も手伝い、会報も出すようになっていた。毎年の「黒人研究の会総会」の案内もやり、総会ではたいてい裏方をやっていた。

 宮崎医科大学(↓)に決まったあとも大阪工大で行われた総会の日の「黒人研究の会シンポジウム」でも発表者の一人にしてもらった。小さな研究会で人もそう多くなく、地道に研究を続けている人の話も聞けるし、時折大物の話も聞けるし満足だった。宮崎は遠いので毎月は月例会に参加出来ないが、年に何回かは出張で行ける、と思っていた。シンポジウムは医大での初めての出張だった。

 黒人研究の会の総会でやった2度のシンポジウム「現代アメリカ女性作家の問いかけるもの」と「現代アフリカ文化とわれわれ」が本になった。先輩が話をして出版社の社長さんに出してもらった。そこまではよかったが、両者の考え方が基本的に違い過ぎた。本には200万も300万も実際にかかるようで、出版社の人は共著者全員で費用を分担するか本を捌くかが当然と考えていたが、著者の方は十名以上の大学の教員で、著者には無料で献本があり、収入もあると考えていた。本を売るという発想はなかった。この差は大きい。大体、アフリカやアフリカ系アメリカの本を誰か買って読むと思っているのか?書いた側が自分の書いたものは有益でおもしろいと自己満足しているだけである。もちろん売れそうになくても貴重なものもある。ポルトガルに壊されて廃墟になったキルワ島のことを博士論文にした人がいる。おそらく京大か東京外大の卒業後の職場が辛うじてある系列の人だと思うので、キルワがその後繰り広げられるアングロ・サクソン系の500年に及ぶ侵略の皮きりだったという歴史的な認識があったかどうかは怪しいが、博士論文自体は歴史的価値のあるものである。売れないかも知れないが、出版する価値はある。

キルワ島に向かうバズル・デヴィドスン

 しかし、人の書いたものをああだこうだ、作家の技法がどうだという程度のものを集めてどんな価値があるというのか?書いた一人として、後ろめたいばかりである。後ろめたい気持ちを持ちながら、課題の参考図書にして学生に買ってもらったから、余計に後ろめたい。その後、その形態で、その出版社に残っていた本まで学生に買ってもらうことになった。全学共同体制は実質的には全学無責任体制である。この場合は、総著者無責任体制だった。結局、今後出版社とこのまま関係を続けるのか、黒人研究の会の人たちと関係を続けるのかを、200万か300万かが絡んで、選択することになった。「リチャード・ライトとアフリカ」を書かせてもらったが、共著『箱舟、21世紀に向けて』(↓)はうらめしい本となった。理由を理解してもらえるはずもなく、黙って研究会を辞めた。理解してもらえるなら、辞めることもなかったわけである。

つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:市立大学

有識者会議だったか有識者懇話会だったかに出席した。おそらく宮崎観光ホテル(↑)でだったような気がする。報道陣も来て、真下から写真を撮られた。撮られた写真をみたことはない。宮崎に来た当初、髭と外国人は狙われたようだ。ある日、近くの肉屋さんで店の人から妻が「あんたのご主人なんしとっと?」と聞かれたそうである。ある日引っ越しをして来てから、昼間でも買い物に来るのが解せなかったようだ。すぐには聞かないし、髭の本人には怖くて聞けない。ある日、勇気を出して妻に恐る恐る聞いたわけである。聞いて見ると、テレビに映ってたらしい。大学祭があって、そこを歩いていたとのことだった。そう言えば、土曜日も授業があった頃で、大学の研究室に寄って、大学祭の出店がある駐車場を通って旧宮崎大学の非常勤に行った日である。知らなかったが、取材陣が構えていたカメラの前を通ってしまったらしい。

会議は宮崎市長がどうしても作りたいという市立大学の設立に関するものだった。医科大(↑、講義棟)に推薦してもらった人から、行くように言われた。断れる立場でもなかったし、参加したわけである。一度目の会議は市長や政財界の人が集まったらしい。その提言を受けて、2回目は宮崎周辺の有識者に意見を聞くということだったのか。1回目のメンバーには、市長の他に宮崎銀行の頭取とか宮崎交通の社長とか政界、財界の人が多かったような気がする。誰も本人は偉いと思ってるんやろな、と思った記憶があるから、たぶんその辺りのメンバーだったと思う。座長は旧宮崎大学(↓)の元学長だった。そういうことか。私を推薦してくれた人が元学長の取り巻きだったんだ。世話した若手に「行って来い」と声をかけたわけである。会議のメンバーを見たら、私が一番若かった。40になる前である。

政財界か。そう言えば、少し前に読んだ記事は「商用でヨハネスブルクを訪れた」と誇らしげに書いてた人も、宮崎の財界人だったなあ。都会では南アフリカののアパルトヘイト政権への経済制裁に協力してイトウヨーカドーやダイエイ(↓、当時あった宮崎ダイエー)などで商品のボイコット運動が行われている時期だった。

「500坪 (1650平方メートル) の敷地に10メートルのプール、三つの浴室のついた120坪 (396平方メートル) の建物、それにバーベキュー用の中庭がついている。読者は家賃はいくらだと思われるか。日本では手が出ないし見当がつかないと言われるだろう。
南アフリカ、ジョバーグ (商業都市ヨハネスバーグの現地名) でのお話である。場所は都心から車で30の住宅地。月の家賃は日本円にして5万円である。このくらいで中級という。では高級の基準となると……最低でも1000坪 (3300平方メートル)はあるだろう……。
某日本商社の支店長宅に招かれた。白人高級住宅地真ん中、敷地面積2600坪 (8580平方メートル)、4面のテニスコート、15メートルのプールと6台駐車できる車庫、建物は250坪 (825平方メートル) 大木の植わったすばらしいこの庭園つきのこの豪邸が日本円で2600万円。では億の家はどのくらいの大きさか。たまたま、1億2万という家を尋ねた。敷地1万2000坪 (39万6000平方メートル) で、プールやテニスコート、それに建物、庭園は想像がつくだろう。また馬屋がついている。金持ちの条件には馬は欠かせないのかもしれないが欧米型だろうが、その馬を世話する人が四人は必要なので、その人たちの家、そして馬の運動場。なにしろ、日本の金持ちと規模を異にする。」

そんな体質の政財界人が答申した議題の一番目が、女子大にすることだった。「うちは女の子は関門海峡からは出さない」と医大の同僚が言っていたくらいだから、それが地域の大半の声なのだろう。会議に義理はないので「今の時代に女子大て何ですか?男も女も同じ教育をしておいて、新しく作る大学は女子大ですか?不自然なので、反対です。女子大でなければいけない納得できる根拠を示して下さい」とだけ発言した。高校(↓)の職員会議で「制服て何ですか?必要なんですか?何を着ようと自由やないですか?制服は廃止しましょう」と立ってしゃべった時と似た感情になった。

行くところがなくて行った夜間が神戸市立だった。大学(↓)にいる時に、100万都市でも大学を運営するのは難しいと聞いたことがあったので、30万都市で大学?としか思わなかった。その市長のことはよく知らなかったが、家の近くの道路が市長道路と呼ばれていたから、名前は知っていた。そう言えば、道路の延びる先に市長の家があると誰かが言っていたな。その前の市長も港近くに前の市長道路を引っ張って来たとも誰かが言っていた。実際には道路工事の予算をつけるのに陰に陽に力を発揮したと言うことか。高速道路を造る際に、ぐーっと曲げて都城に道路を引っ張って行ったのは地元選出の国会議員、医科大に組合を作らせずに文部省よりの大学にしたのも国会議員、そんな話も聞く。地方ではよくある話だと言えばそれまでだが、公平さに欠ける。高速道路を曲げたら、所要時間も長くなるし、経費も嵩む。組合がなければ、労働条件が守られにくい。旭川であったような歪な独裁が長年続く可能性もある。

博士課程に途中から入れなかったのも、当事者が好き勝手出来るなあなあの旧弊が当たり前だったから。議長には地元で長い間唯一の大学だった時の学長を呼んだわけである。しかし、議長の声がよく聞こえなかった。元宮大の家庭科の女性教授の言うこともしどろもどろだった。年寄りでもいいが、せめてはっきり相手に聞き取れる言葉を使ってもらわないと。1時間10000円のアルバイトと割り切っていたが、参加したあと「1回目は地元政財界の声を聞いた。2回目は地元有識者の声を聞いた。文句あるか?」、市議会で議案を通す必要がある規定の会議だったんだ、そんな風に思えた。

宮崎公立大学(↓)が出来た後、頼まれて非常勤に行くことになるとは思わなったが、大学は男女共学だった。授業に来ていた男子学生に「女子大を創ると言われて、会議で反対してよかったねえ?」と言ってみたら「7割が女子学生なので、女子大みたいなもんですよ」と返事が返ってきた。しかし「数が少なくても、男子学生も入学できるやん」

つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:しゅうさく

元々「つれづれに」は徒然草の「心に移りゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば‥‥」くらいの気持ちで書くつもりで始めた。HPもブログも授業がある時は毎日複数ページを更新していたので、そこに「つれづれに」を書き込んだりしていた。しかし、授業がなくなる暫く前辺りから、小説を書き始めて、すでに2回出版社に送っている。「小説を書く時間を確保するために大学を探し、芥川賞か直木賞でも取れたら‥‥」という話を、世話になっていた出版社の社長さんにしたら「賞は出版社が売るための便法だから、辞めといた方がいい」と言われた。そのあと、雑誌の記事や註釈書や翻訳書や本を次々と言われて、それをこなしているうちに、定年退職の年になってしまった。「普通は自費出版で1冊200万か300万か要りますが、玉田さんはいいですよ」とは言われたが、結局は印刷物になった本をせっせと学生に買ってもらうことになった。自分の学生の頃は「注釈書と翻訳書はしたくない」と思っていたが、気がついたら注釈書2冊と翻訳書1冊が印刷物になっていた。

大学の教員になっても業績は求められるので、どこかの学会からでも印刷物を出す必要はあった。もちろん公務員を業績がないから辞めさせるのは実際は難しいし、統合してわかったが、何年も業績がなくても平気な人が結構いた。ただ、そのつもりではなかったが教授になって、平気な顔も出来ない立場になってしまった。そういう事情もあって、本や雑誌の記事は業績になった。学会のものとは違うが、理系ばかりの中だと中身まで見る人がいるわけではないので、本だけで充分のようだった。英語だとなお評価が高い。英文書も2冊ある。科研費も出版物が多かったから、もらえたみたいだし。

出版社の社長さんがなくなってやっぱり「小説を書こうと思って大学に来たんだから‥‥」と思い直して、何年か前に小説を書き始めた。本はもういいので、出版社が売れると判断してくれればいい、という感じだ。最初に小説を書こうと思った時と少し趣は違うが、そういう風に生きて来たみたいだ。

2003年にホームページを作ってもらって授業で使い始めてから、すっかりパソコン仕様になってしまった。もちろん元はボールペンや鉛筆で原稿用紙を使って書いていたが、授業で使っているうちにすっかりその仕様になってしまった。群像に出した時は、手書きで原稿用紙に書いたが、手がその作業に耐えれなくなってしまっている。無駄な抵抗は辞めて、パソコン仕様で行くことにした。

だから、「つれづれに」が小説のしゅうさくになってしまったのである。修作か習作かはわからないが、小説の一齣を「つれづれに」に書いている感じだ。そうでないと「つれづれに」を毎日は書けない。本当は出版社が売れると判断してくれた時点で「つれづれに」は終わるつもりをしていたが、先行きは不透明である。

お盆前から咲いているハイビスカス(↑↓)がまだ咲き続けている。炎天下に咲き続けるのは、やはり南国の花で、ハイビスカスも妻に描いてもらった花の一つである。カレンダーにも入っている。(→「ハイビスカス」「小島けい絵のブログ」)

「私の散歩道2021~犬・猫・ときどき馬」8月

つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:畑と節気

畑にいる時間や散歩をして草花や樹の様子を見ているときは、旧暦の24節気が身近に感じられる。「昔の人はうまいこと言うなあ」と感心することが多い。ただ今のこの暑さというか熱さというか、こういう事態が続くとすべてが吹っ飛んでしまう。年齢とともに皮膚が弱くなり、焼けるようにひりひりすることもある。汗の臭いがきつく感じられることも多い。何回も風呂に入って汗を流すが、それでもなかなかである。高校時代に過ごした部屋はトタン屋根で、南側に窓がなかった。別の屋根の上に継ぎ足した部屋に行くための階段があったためである。階段を上がって一度外の物干しの場所を通って別の部屋に行くようになっていた。トタン屋根で風が通らず、これ以上ない最高のコンディションだった。若くて肌も堪えてはいたが、苦しかった。何軒か行ってた家庭教師先の家には皆クーラーがついていたので、その時ばかりは過ごしやすかった。一度台風でトタン屋根が飛んだことがある。それもかなりの雨風が急に止んで青空が見えたのである。台風の目の中に入っていたようだ。それからまた雨風が続いた。貴重な経験だったが、大変だった。今の家は雨漏りもしないし、少々の雨でも家の中にいればあまり音もしない。天国と地獄である。春の花をささっと書くつもりがもうずいぶんと時間がかかっている。その期間、24節気のことが頭からすっかり抜けていた。畑にも出られずに、季節を感じられないほどだったというわけである。今年は立秋が8月7日からで、その辺りまで季節を辛うじて追いかけていたが、それ以降が暑すぎたのである。畑に出る自信がなかった。いろいろ試すつもりだったが、畑にも出られず、春先に植えた夏野菜が実をつけているのに、それを採りに出るのも難しかった。オクラ(↑)は虫がつくと葉が巻いてしまうので、希釈した酢をかけないと、と思いながら、実も採れなかった。大きくなり過ぎると包丁も入らない。大きくなっているのがわかっていながら、出られなかったわけである。次の節気の処暑が8月23日に始まり、 9月8日には白露が始まる。処暑は「厳しい暑さの峠を越した頃です。朝夕には涼しい風が吹き、心地よい虫の声が聞こえてきます。暑さが和らぎ、穀物が実り始めますが、同時に台風の季節の到来でもあります」と解説にはっ説明はあるが、実際はまだ峠を越した感じがしない。朝晩が涼しくなったら、また畑を再開したい、と思えるといいのだが。オクラはまだ峠を越していない。虫でやられた箇所は切り取って、希釈した酢を撒き、追肥もしたい。南瓜(↓)の柵も途中になったままで、蔓が伸び放題、一昨日隣との境の草を取った時は、危うく隣の家に蔓の先が侵入しかけていた。樹に蔓を蒔いて、大きな実が2個なっていた。金木犀の垣根にも蔓が這っているので、実は期待できそうである。

柿がすっかり大きくなっている。大きな台風が来て落とされなければ300個近くあるかも知れない。一時期取り入れるのも洗うのも剥くのも干すのも面倒臭くなっていたが、今年はその頃には暑さも過ぎていそうなので、大丈夫そうである。去年は6個しか干し柿にできなかったのでお裾分けも叶わなかったが、今年は何軒が持っていけそうである。保存食とは言え、甘いので冷蔵庫に入れていても黴が生える。二人ではそうたくさんは食べられない。やっぱりお裾分けしかない。

次は、春の花6、か。