つれづれに

つれづれに:雑誌記事3

1988年4月に「宮崎に」来る頃にだいぶ溜まっていた雑誌「ゴンドワナ」の記事3である。(→「雑誌記事」、→「雑誌記事2」)その前の年の「MLA」「ラ・グーマ」で発表したので、その準備のために南アフリカの歴史とラ・グーマの作品を読んでいた。ラ・グーマについても知る必要があり、MLAの前に「伝記家セスゥル・エイブラハムズ」(10号、↑)を訪ねてカナダに行った。行動しながら、研究誌とは別に、南アフリカの歴史やラ・グーマの作品や伝記家への訪問記などを雑誌に書いた。歴史については宮崎に来てから頼まれた三つの講演などで話した内容をまとめて19号(↓、1991年)に「自己意識と侵略の歴史」を書いた。MLAで発表した分を軸に、かなり詳しく第1作の物語の作品論を「『夜の彷徨』上 語り」(11号)と「『夜の彷徨』下 手法」(13号)にわけて書いた。相当な量になった。ラ・グーマの望みの一つが「世界の人に南アフリカの現状を知ってもらいたい」だったからである。できるだけ詳しく書いた。南アフリカに代々住んでいた人たちから土地を奪ってアフリカ人を安くこき使えるための無尽蔵な労働力を生み出す南部一帯の搾取機構を作り出したために、どれほどアフリカ人が苦しい思いを強いられているか、その制度でどんな日常を送らされているかを、書いた。それがラ・グーマの望みの一つだと感じたからだ。

第1作はラ・グーマの機転で逮捕寸前に原稿を隠し、夫人のブランシさんに指示をして郵便局に一年間留め置いて、南アフリカに来たナイジェリアの出版社の白人の手に渡って出版された(↓)。歴史的奇跡である。その作品が認められて今度は東ドイツの出版社の人が獄中のラ・グーマに依頼して、第2作目が東ベルリンで出版された。これも奇跡である。出版社の新人賞に応募するのと訳が違う。

ナイジェリアのムバリ出版社の初版本(神戸市外国語大学黒人文庫)

その第2作目も詳しく書いた。出版社に依頼された「南アフリカ的なもの」を意図して書いているので、当時の南アフリカの人々の普通の暮らしが物語られている。何か特別なことが起こるわけでもなく、ラ・グーマの同胞ケープ・カラードの人たちが暮らす様子が物語られているだけだ。大半は1966年に一斉撤去させられてなくなってしまったケープタウンのカラード居住地区第6区(↓)か郊外の砂地のスラムに不法に住んでいた。第1作は第6区、第2作目は郊外の砂地が舞台だ。

第6区ハノーバー通り

「『三根の縄』 南アフリカの人々 ①」(『まして束ねし縄なれば』に改題)と「『三根の縄』 南アフリカの人々 ②」を16号(1990年)と17号(1990年)にわけて書いた。スラムの話で俗語もアフリカーンス語も入っているうえにイギリス英語で読むのに難渋したが、ラ・グーマの息遣いを感じながら書いた。ごみ溜めのようなスラム育ちなので、違和感なく読めたのは幸いだったのか不幸だったのか。雨漏りの音もじめじめした小屋の中の臭いも、わかる。そのあとすぐに、第一、二作目の編註書(↓)と第二作目の日本語訳をと言われたが、断れる理由もなかった。

東ベルリン版(神戸市外国語大学黒人文庫)

つれづれに

つれづれに:南アフリカから

南アフリカから来た人(↑、小島けい画)を宮崎に迎えた。大変なことだったが、後味が悪い印象だけが残っている。今なら引き受けない。理由は自分の馬鹿さ加減を知らないということに尽きる。誰が悪いと言うわけではなく、すべて自分から始まったことなので、何とも言えない。後味のわるさだけが残る。「宮崎医科大学 」に来てから2年目の春に日本に住むケニアの人から電話があった。「横浜から」出版社の社長さんを「中朝霧丘」の家に迎えたとき、先輩といっしょに来た人である。ケニア(↓)で一番のナイロビ大学を出て文部省に勤めていたエリートである。そこから京都大学に坂本龍馬の研究に来ている時に、同郷の人の手伝いをして国に帰れなくなっていた。同郷の人が反体制の人だったからだ。その人物の影響が大きかったので、帰国すれば命の保証もなかったようである。

「日本の宗教団体が女性の日に南アフリカの女性作家を招待しているけど、市民団体の扱いがあまりよくないので、少しの間宮崎で引き受けてくれないか」という内容だった。市民団体はもちろん反アパルトヘイト団体らしいが「反アパルトヘイトを利用しての募金活動に忙しく、作家はビジネスホテルに入れられてぞんざいに扱われている」とも言っていた。「東京から通訳一人もいっしょに行くんでよろしく」とのことだった。二人分の飛行機代、ホテル代、滞在費を出せということらしい。経済事情から考えれば、とても引き受ける状態ではなかったが、引き受けてしまった。今から考えると、自分の馬鹿さ加減にあきれる。30万はかかったと思う。どこからお金を捻り出せたのか。おまけに赴任一年目に2年生だった学生3人に車を出してもらい、作家の送り迎えと市内の案内まで頼んでいる。その日は家で歓迎会をして、同僚と一年目に1年生だった7歳年上の学生まで招待している。頼まれたら、誰も断れなかったと今は思う。悪いことをしてしまった。そのうえ、次の日に大学で講演会までやっている。会場でも4年生と2年生に協力してもらっている。一人はその前の年に授業で会った人で、もう一人は授業ではなく部屋に来てくれただけだった。夏休みの時間を取ってもらった。ずいぶんと人を巻き込んでしまったわけである。新聞社には「南アフリカの現役作家を囲んで文学の話をする」と連絡したが、テレビも取材に来て諒承もなく「南アフリカの女性作家を囲んで人種差別を考える会」とニュース番組でも新聞でも紹介された。

次の日、大学(↓)の事務局に行くと雰囲気が重かった。あとで「国立大学で政治色の強い集会をしたからあなたはブラックリストに乗った」と誰かに言われた。たぶん、事務の人だったと思う。テレビでも新聞でも勝手勝手に報道されてしまっている。同じ時期に講師で来た私より若い人二人に急かされて助教授になる書類を出していたが、止まってしまったとも聞かされた。私が年上なので、私が出さないと自分たちも昇格出来ない、と急かされた。組合もない文部省の言いなりの大学だけのことはある。しかし、アフリカ人の安価な労働力にただ乗りして、見せかけはアパルトヘイト反対を言いながら、アパルトヘイト政権と協力して安い鉱物資源を買い、高い車や電化製品を売りつけてぼろもうけしながら、政治色の強い集会もないもんだろう。恥とかを忘れてしまったようである。いや、元々恥などは存在しないか。個人的には小説を書く時間さえあれば文句はなかったから、出た教職大学院から「卒業生は初めてだが、教授会で取ることに決めたから」と誘われていたが、行かなかった。人事で大変な思いをして世話をしてくれた人のことを考えると2年で異動はとても出来なかった。一応恥を知っていたようである。その後ずいぶんと経ってから、執行部や制度が変わり、まさか教授選に出るように言われ、そんな体質の教授会に選んでもらうとは、この時誰が予想できただろう。

それ以来、マスコミには顔を出さない、新聞や市民団体にも近寄らない、と決めている。ずっと、人に迷惑をかけてばかりである。

つれづれに

つれづれに:雑誌記事2

朝晩少し気温も下がって来たので、何とか畑を再開したいと思うようになっている。雨よけに温室まがいの柵を拵えたが、とまとは失敗したし、南瓜の柵も途中までは勢いがよかったし、横に渡す竹(→「 竹取の翁、苦戦中・・・」)も切ってきてはいたが、猛暑にはお手上げだった。大根と細葱とレタスを先ず蒔いて、それからである。南瓜(→「南瓜に勢いが」、→「 南瓜の花が・・・」)だけはこれから実が大きくなってお裾分け出来そうである。そのうち渋柿(↓)が色付くと獲って洗って剥いて干してと時間を取られそうである。いっときすっかり作業をする気持ちも萎えていたが、また復活しそうな勢いである。干し柿は献上品にもなったそうだから、昔から伝わる保存食、有難い自然の恵みである。

発行年月が数字通りではないので正確ではないが、「ゴンドワナ」に書いたのは1986年6月の6号から1991年10月の19号までの5年間ほどである。6号(1986年6月)の貫名さんの追悼号(↓)から7号(1986年7月)まで少し期間が空いていたと思うので実質期間は5年足らずのような気がする。貫名さんの原稿を送ったとき、これ一回限りかなと思った記憶がある。連載するとは全く考えていなかった。その期間は毎号一つか二つか三つの記事を書いた。「宮崎医科大学 」に決まる前も週に16コマの非常勤の合間に書いていたが、着任してからも同じペースで書いていたことになる。「宮崎に」来てからすぐに編註書を2冊頼まれて、そちらにも結構な時間を取っているので、毎日、目一杯書いていたことになる。

ラ・グーマの作家論はすでに出していたので、継続的に作品論を書いた。「MLA」で発表したものに手を加えて、第1作の『夜の彷徨』の文学手法についてである。「夜」と「彷徨」のイメージが交錯しながら物語全体を覆い、作品の舞台ケープタウン第6区(カラード居住区)の抑圧的な雰囲気を見事に醸し出している、という話である。→「『夜の彷徨』上 語り」(11号)、→「『夜の彷徨』下 手法」(↓、13号)

赴任してから半年後に公費出張の第1号で参加した黒人研究の会創立30周年記念シンポジウム「現代アフリカ文化とわれわれ」も12号(↓)にまとめて書いたものを出した。→「アパルトヘイトを巡って」(シンポジウム)

5月のメイデイにロンドンに亡命中の映画『遠い夜明け』の原作者ドナルド・ウッズさんが大阪中之島のデモに参加すると「こむらど委員会」の会報で知っていたが、行けなかったのは今でも心残りだ。医学科の授業で学生に観てもらっていた『遠い夜明け』の原作者だったので「学生に映画を観てもらっていますよ」と直接伝えたかったのだが、果たせなかった。まだロンドンに亡命中で、マンデラが釈放されるのも、アフリカ人政権が出来るのも、先行き不透明な時期だったので、余計に心残りである。そのあとカナダの「ラ・グーマ記念大会」で同じくロンドンに亡命中のラ・グーマ夫人ブランシさん(↓)や主に北アメリカに亡命中の南アフリカの人たちに会ったから余計にその思いは募る。ウッズさんはアパルトヘイトが廃止されたあと、イギリスと南アフリカを行き来したが、南アフリカには戻らないまま亡くなっている。

宮崎に来て頼まれた松山(→「アパルトヘイト否!」)と南九州大学(→「海外事情研究部」)での講演と、宮崎市内の「歯医者さん」の集まりで話した内容も「アパルトヘイトの歴史と現状」(14号、↓)にまとめて、お世話になった弁護士さんや東雲学園の人たち、南九州大学の学生と顧問の人、歯医者さんや歯科助手の人たちに雑誌を送った。ラ・グーマでMLAの発表をするために歴史を辿り始めたが、三つもまとまった話ができたお陰で、南アフリカの歴史の大枠が見えてきた。それが最大の成果だった。機会を与えてもらえたのは、有難い限りである、後に大学が統合をして教養科目を持つことになったとき「南アフリカ概論」が持てたのも、この辺りの経験があればこそだった。「南アフリカ概論」には、ある年1クラス542人の希望者があり、その年だけ受講者をすべて引き受けたが、課題を読むのに2か月もかかり、成績の締め切りに危うく間に合わないところだった。

18号には「『ワールド・アパート』 愛しきひとへ」の映画評を書いた。南アフリカの白人ジャーナリスト、ルス・ファーストの自伝『南アフリカ117日獄中記』をもとに、娘のショーン・スロボが脚本を書き、クリス・メンゲスが監督したイギリス映画『ワールド・アパート』である。『遠い夜明け』に続いて上映されたが、残念ながら九州には来ても福岡止まりだった。アパルトヘイトによって傷つけられた母娘の切ない相克に焦点があてられ、なかなか見応えのある映画である。妻に挿画を頼んだ。よく雰囲気が出ている。

ルス・ファースト役バーバラ・ハーシー(小島けい画)

つれづれに

つれづれに:雑誌記事

1988年4月に「宮崎に」来る頃にはだいぶ雑誌に書いた記事も溜まっていた。大学の職を探そうにも、構造的に途中から博士課程(→「大学院入試3」)に入れてくれないみたいだったので、教歴と業績を少しでも積んでいくしか道はなく、浪人の期間が長くなった分、業績も溜まっていたというわけである。研究誌以外で書いていたのは門土社の雑誌「ゴンドワナ」である。創刊号の表紙(↑)には1984年9月と印刷されている。実際に発行された年月と数字は必ずしも一致してはいないが、雑誌は発行されて実物も残っている。最初に「横浜」で社長さんと会う少し前くらいに創刊されていたようである。A5版(A4の半分)32ページで、定価が600円、ハイネマンナイロビ支局のヘンリー・チャカバさんの祝辞、作家の竹内泰宏さん、毎日新聞の記者篠田豊さんなどの投稿もある。どれも原稿料なしである。エンクルマの翻訳などを精力的に出していた理論社のα(アルファ)でさえも7号で廃刊している。アフリカ関係のものは売れないのだから、出版されただけでも奇跡に近い。

貫名さんの追悼号(↑)が1986年6月で、そのあと7号(↓、1986年7月)に記事を二つ書いた。「アレックス・ラ・グーマ氏追悼-アパルトヘイトと勇敢に闘った先人に捧ぐ-」は、ミシシッピの会議で会ったファーブルさんから届いたAfram Newsletterの中のラ・グーマへのインタビュー記事を日本語訳したものである。パリにはフランスに植民地化された国から人が集まっているが、ラ・グーマにインタビューしたサマンさんもその中の一人である。住所を教えてもらってコートジボワールに手紙を書いて、諒解をもらった。「アフリカ・アメリカ・日本」は当時の南アフリカを巡る状況を書いたものだが、その時点では、すぐあとにマンデラが釈放されて、アパルトヘイトが廃止されるのは推測の域を出ていなかった。

その後、8号(1987年5月)、9号(6月)、10号(↓、7月)で、ラ・グーマの作家論を書いた。(8号→「闘争家として、作家として」、9号→「拘禁されて」、10号「祖国を離れて」)1987年12月の「MLA」に向けて準備している時にまとめたものだ。10号ではラ・グーマの伝記家の訪問記が出ている。発行年月は1987年7月だが、訪れたのはその少しあとである。→「アレックス・ラ・グーマの伝記家セスゥル・エイブラハムズ」

11号(1988年4月)にはエイブラハムズさんへの手紙の形式で「遠い夜明け」(↓)の映画評を書いた。1988年に医学科で授業をするようになってから、必ず「遠い夜明け」を見てもらうようになっていた。最初の年はまだ字幕版がなかったので、その前の年に「ニューヨーク」で買ったVHSの英語版を観てもらった。当時はプロジェクターの質も悪く、分厚いカーテンを閉め切って真っ暗にしないと見え難かった。2時間40分もある長編映画なので、字幕なしで大丈夫かと心配したが、暗い中で目を凝らして見る限り、寝ている人は誰もいなかった。「わいABCもわからへんねん」という大阪の私大(→「二つ目の大学」)では授業そのものが成立しなかったので「長い映画を、それも字幕なしの英語版を暗い中でつけても誰も寝てないわ」と思うだけで感激して、天国に思えた。

亡命を強いられたエイブラハムズさんや他の南アフリカの人たちと映画の中のウッズが重なって、涙が止まらなかった。暗かったので見られなくて済んだ。今は学生が映像に慣れてしまっているからか、寝てしまう人も多い。今は昔である。その当時「映像を使っていたのは、たまさんだけだった」と、研究室に来てくれていた当時2年生の次郎さんから聞いた。→「セスゥル・エイブラハムズ氏への手紙」

他にもこの時期に何本か書いている。いざと言う時に備えて業績が要ったとはいえ、3年足らずの間に、研究誌の他にもたくさん書いていたわけである。週に16コマの非常勤に行きながら、いつ決まるともわからないままの浪人の時期だった。