つれづれに

つれづれに:南アフリカ1860年

桜田門外の変で斃(たお)れた井伊直弼

 日本でもアメリカでも1860年が歴史の大きな潮目だったが、南アフリカでは1867年だった。7年遅れである。(→「日1860」、→「米1860」

1860年に大統領に選ばれたエイブラハム・リンカーン

 南アフリカの歴史を辿(たど)ったのは、業績が大学の職を得る唯一の選択肢だったので、アフリカ系アメリカ人の作家リチャード・ライト(Richard Wright, 1908-1960)で書いていたが、急遽(きょ)南アフリカの作家アレックス・ラ・グーマ(Alex La Guma, 1925-1985、↓)でも書くようになったからである。「ライトシンポジウム」でミシシッピ大に行ったとき、アメリカの学会「MLA」に誘われ、出来ればイギリス文学とアメリカ文学以外の英語で書かれた文学で発表してもらえたらと言われた。

小島けい画

 アメリカの作家で引き受けたのに、アフリカの作家をと言われてもすぐに対応できないところだったが、→「黒人研究の会」の月例会で月に一度はアフリカ研究の発表を聞いていたので、すんなり「やってみるか」と思えた。まだ職探しの最中で目途もついてなかったが、先輩の薦めで会った出版社の人から雑誌(→「ゴンドワナ (3~11号)」)、→「ゴンドワナ (12~19号)」)に書いてはと言ってもらっていたので、原稿を書いて送ることにした。

 歴史についてはバズル・デヴィドスンの「『アフリカシリーズ』」「ハーレム」の本屋さんで手に入れたThe Struggle for Africaが手元にあったのは幸運だった。

 南アフリカには先にオランダ人が、そのあとイギリス人が入植していた。イギリスにとっては、植民地争奪戦でインドへの要衝地をフランスに譲れないというのが居座った主な理由だったが、南アフリカ自体はそれほど重要ではなかった。先に来ていたオランダと諍(いさかい)はあったものの、1854年頃には肥沃な海岸沿いの2州をイギリスが、内陸部をオランダがと棲み分けが出来ていたが、1867年にダイヤモンドが、1886年に金が発見されてから、俄(が)然状況が変わった。産業社会では金とダイヤモンドは重要な鉱物資源だったからである。両方ともオランダの領有地で発見されたので、当然戦争をしたが、相手を殲滅(せんめつ)できるほどの軍事力の差はなかったので、折り合いをつけて1910年に国まで創ってしまった。その流れでは、1867年が潮目だったと言えそうである。日米に遅れること7年である。(→「南アフリカ1860」

1960年代のヨハネスブルグの金鉱山「抵抗の世代」より

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つれづれに:日本1860年

小島けい画

 まさかと思って調べてみたら、日本でも1860年は歴史の大きな潮目だった。しかし、その流れを感じたのは、アングロ・サクソン系の侵略の系譜を辿(たど)って、ある程度見渡せるようになってからだ。

アメリカ系アメリカの歴史を辿れば、自ずとアフリカに行き着く。奴隷が連れてこられたのがアフリカからだったからである。私の場合、アフリカ系アメリカ人の作家リチャード・ライト(Richard Wright, 1908-1960、↑)が書いた訪問記Black Power(↓)がアフリカとの最初の出遭いである。ライトが1940年代の後半に逃げるようにアメリカからパリに移り住んでいたときに、独立の気配をいち早く察知してイギリスの植民地ゴールド・コーストに出かけて訪問記を書いていた。(「リチャード・ライトと『ブラック・パワー』」

 その訪問記を理解するには、アフリカの歴史を知る必要がある。ちょうどその頃、バズル・デヴィドスンの「アフリカシリーズ」(↓)に出遭ったのも幸いした。「奴隷貿易の蓄積資本で産業革命を起こし、産業社会に突入していたヨーロッパ社会は、奴隷貿易から植民地支配に換えた。安価な原材料・労働力と製品の市場が必要となったからである」とデヴィドスンに教えてもらった。

 1543年に遭難した時に、ポルトガル人が助けてくれた種子島の人に火縄銃(↓)を置いていったと高校の授業で聞いていたが、てっきりポルトガル船で来て難破したと思い込んでいた。しかし、実際は明船に便乗していただけだった。日本にはその1丁の火縄銃から精度の高い銃を作る製鉄技術があった。1573年には長篠の戦で信長が堺商人に銃を集めさせ、勝利を収めている。長篠の戦が当時の世界最大の銃撃戦だったと知ったのはずいぶんと後のことである。まだヨーロッパでは植民地争奪戦どころか、奴隷貿易も始まっていなかった。日本は1600年に鎖国をした。そして、1859年に黒船が来た。開国を迫るためである。

 鎖国か開国かを迫られていたとき、1860年に桜田門外の変が起きた。実力者井伊直弼(↓)が斃(たお)れて、潮目は変わった。大砲は刀では防げなかったわけである。開国した日本には、欧米を追いかけて、産業化とアジアでの植民地化の道を歩むことが約束されていたのである。(→「日1860」

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つれづれに:アメリカ1860年

 50年ほど前に見た→「下田」の港がずっとずっと前の1860年辺りと私の中で繋がりをみせるとは、夢にも思わなかった。きっかけは30を過ぎてから、小説を書く空間を確保するために探し始めた大学の職と、そこでやった似非(えせ)研究の過程で、半世紀ほど経った頃に私の意識下で何かと何かが突然結びついたからである。正規の職を得てからは給付された研究費や思わず交付された外部資金なども使いながら、何十年かをあれこれ続けたことが、おそらくその誘因らしい。

 似非研究の始まりはアメリカの歴史だった。思いの前提が崩れたのと挫折が重なって、人生そのものが怪しくなっていたのだから、歴史がどうのという段階ではなかったが、書くための空間を確保するにはと考えると、仕方がなかった。その時の慣例からすると、どこかの修士に行ったあと博士課程を終えて、担当者にどこかの口を世話してもらうか、何かの学会に入っていわゆる学術的な論文を書いて業績を積むか、そのどちらかの選択肢しかなかった、と思う。

案の定と言うか、確信があったわけではないが、よそものには博士課程の壁は厚かった。(→「大学院入試3」)京都の旧帝大を出たゼミの人と繋がっていれば、その友人に紹介してもらって博士課程の門も開いたのかも知れないが、生憎(あいにく)、外国語大学(→「夜間課程」、↓)に入りながら英語もしなかったし、30くらいまでだと思っていたからそもそも人生設計もなかった。つまり、業績を積み人の伝手(つて)を頼って大学の口を待つしかなかったのである。後に医学科の教授会に出ることになったが、同じように1票を持ってはいたが、周りにそんな人は誰もいなかった。

 →「黒人研究の会」が生まれた大学に行ったのは、運がよかった。公民権運動のころは盛会だったようが、入会時にはすでに会員も減り、月例会と年1回の会誌(→「『黒人研究』」、↓)がやっとだった。しかし月例会での研究発表は何とか欠かさず続いていた。アフリカとアフリカ系アメリカに関する各1本ずつの発表を、誰かが自発的にやっていた。私のような似非研究とは違って、本物の研究のようだった。そこでは、白人優位・黒人蔑視の意識はなく、この500年余りのアングロサクソン系中心の蛮行を正当化するために捏(ねつ)造された白人の歴史ではなく、虐げられた側(the oppressed)から見た歴史が基軸だった。

 修士論文のテーマに選んだアフリカ系作家の作品を読んでみると、歴史を知らずには到底作品を理解できるようには思えなかった。その後辿(たど)った歴史で、1860年がアメリカの歴史の潮目だったと感じたのである。いつの時代も、金持ち層(the rich)がやりたい放題である。アメリカも同じだ。イギリスの金持ちがもっと儲(もう)けようと大規模な奴隷貿易を始めて、近代の歴史を大きく変えた。奴隷貿易の資本蓄積で産業革命が可能になり、資本主義が加速し、結果的には産業が軸の大量消費社会が生まれてしまった。

奴隷貿易で莫大な利益を得た代々の南部の荘園主(従来の寡頭勢力)と、奴隷貿易で生まれた産業社会で潤う北部の産業資本家(新興勢力)の二つの金持ち層の力が拮(きっ)抗するようになったが、その潮目が変わったのが1860年だった。南部の寡頭勢力の代弁者民主党と、北部の新興勢力の代弁者共和党が争った選挙で、リンカーンを担いだ共和党が勝利してしまったからである。(→「米1860」

 奴隷制より連邦統一が最高目的だったリンカーンは、選挙のあと選挙前と違う発言をした。奴隷解放を信じてリンカーンを支持した共和党員ホーレス・グリーリが公開状を出して、質問をした。『ニューヨーク・トリビューン』の主幹で熱心な奴隷制反対論者だった人の、まっとうで素朴な疑問だった。リンカーンは「この戦いにおける私の最高目的は連邦を救うことであって、奴隷制度を救うことでもなければ、それを擁護することでもない。」と返事した。儲け続けるために、金持ち層が連邦統一を望んだからである。リンカーンはその人たちの願いを実現するために大統領候補に担(かつ)がれた代弁者に過ぎない。

「本田さん」は私とは違って本物の歴史学者である。東大を出て一橋にいた人が、私のゼミの担当者の友人だったようで、幸い研究会の月例会で本田さんの話を聞くことが出来た。岩波新書『アメリカ黒人の歴史』は当時から会員にも好評で、南北戦争と公民権運動が主体の話もわかりやすかった。その本は新版も出て、今も健在である。授業でも、参考図書の1冊にさせてもらった。

 2月に入ったので、カレンダーをめくった。今月は妻が通う牧場(→「COWBOY UP RANCH」)の馬ベティと→「水仙」である。今年は水仙を何度か摘んで来て、いい香りを楽しませてもらっている。庭には新たな水仙が咲き出してはいるが、そろそろ水仙も終わりのようである。