つれづれに:花菖蒲(はなしょうぶ)
市民の森花菖蒲園、小島けい画
出版社から妻に本の装画の話があった。先輩から「あんたに会いたい言うてるで。会(お)うてみるか?」と言われて横浜で会った出版社の人から、宮崎医大に決まったとたんに、待っていたかのように大学の授業で使うテキスト(→「 A Walk in the Night」)の編註を薦められた。薦められたと言うより、ある日、テキストが送られて来て、すぐあとに「新版にするので、編集して註をつけて下さい」と編集者の人から電話があった。怒涛(どとう)の日々の始まりだったとは、その時は知る由もなかった。
映画「ワールド・アパート」の場面を妻に描いてもらった
すぐあとに、妻に電話があり、本の装画を描くことになった。横浜で会ってから暫(しばら)くして、雑誌に記事(→「ゴンドワナ(3~11号)」、→「ゴンドワナ(12~19号)」)を書くように言われて、主に南アフリカやラ・グーマの記事を送っていた。その記事に挿絵や人物画を妻に描いてもらっていたし、プリントごっこで作ったカードで葉書や手紙も送っていたので、その絵を見ていいと思ってくれたのだろう。
結婚してから1年で娘が生まれ、しばらく後に妻の父親の家に転がりこんで、息子も生まれた。毎日が戦争のような日々だった。その間に、私は→「大学院大学」(↓)で修士号を取り、高校を辞めている。博士課程には門前払いを食らって、かろじて大学の非常勤を世話してもらって、業績を積んでどこかの大学の口をと、先の見えない日々を送っていた。子供2人に家事に仕事にと、元々体の強くなかった妻がよくも病気もせずにもったものだと思う。一人目は切迫流産で入院した。普通でも子供を産むのは大変である。大学院に行くようになってからは、私も家事をするようになった。息子の母親の役もさせてもらった。しかし、結婚してから娘の小さい頃までのことを思うと、妻に申し訳ない気持ちになる。
そんな毎日でも、何とか土曜日の昼からの2時間を見つけて、妻は元町の絵画教室に通った。そして、毎年グループ展に作品を出していた。絵画教室が終わったあとも、有志で個展を続けていて、宮崎に来てからも何回か元町の画廊まで出かけている。絵画教室は素敵なタッチで洒落(しゃれ)た油絵(↓)を描く人が講師で、ほとんどが年上の何人かのメンバーとモデルに来てもらって描いていたが、本当に楽しそうだった。まだ土曜日も授業があった時期で、体のことを考えるならゆっくり休むのがよったが、それだけ描きたい思いが強かったのだろう。非常勤も週に16コマになっていた5年目の終わりごろに、慌ただしく正規の職が決まった。そのとき「私、絵を描いてもええ?」と嬉しそうだった。