つれづれに:ケニア1860年
今回はケニアである。日本でもアメリカでも1860年が歴史の大きな潮目だったので、歴史を辿(たど)ったことのある他の国でも確認してみたら、やはりその辺りで大きな潮目があった。(→「日1860」↓、→「日本1860年」、→「米1860」、→「アメリカ1860年」、→「南アフリカ1860」、→「南アフリカ1860年」、→「コンゴ1860」、→「コンゴ1860年」)
井伊直弼
ケニアに関わるようになったのは、大学の職探しで世話になっていた先輩と、その先輩の紹介で会いその後世話になった出版社の人がグギさんの本の翻訳を続けていたからである。非常勤先ではグギさんの同郷の人といっしょだった。
グギ・ワ・ジオンゴ(小島けい画)
→「アフリカシリーズ」では、イギリス人と闘った独立戦争の様子が取り上げられていた。イギリス人といっしょに闘った指導者のケニヤッタが自分の取り巻きと、独立後に日本やアメリカと手を握ってしまった話を聞いて「それはないやろ。ケニアも大変な国やったんや。ま、日本も負けとらんけど」と思った記憶がある。グギさんは反体制の象徴になって、国を追われてアメリカにいた。そのことについては英文で書いたことがある。(→“Ngugi wa Thiong’o, the writer in politics: his language choice and legacy”、2003)
ジョモ・ケニヤッタ
そのあとは、出版社からグギさんの評論が送られて来て、日本語訳することになった。グギさんの書いたものについての評論と、韓国の反体制詩人の詩と、アフリカ系アメリカの文学の系譜についてだった。仕上げてはいたが、出版されなかった。なかなかきつい2年間だった。
『作家、その政治とのかかわり』(Writers in Politics)
医学生の英語の授業で一般教養と医療を繋ぐ工夫でエボラ出血熱を取り上げていたが、次に取り上げたのが当時世界的にも大きな問題になっていたエイズである。そこでは久しぶりに素敵な本に出遭った。「医学と文学の狭間から見た~」という文字を入れて交付された外部資金が、7年間使えた。その時に、今はないロンドンのアフリカブックセンターで購入したエイズ関連の本の1冊である。(→「エイズ問題の包括的な捉え方」、2010)
立原正秋、ライト、ファーブルさんのライトの伝記、ポグルンドさんのソブクエの伝記を読んだ時と同じような感覚で、全体がすっと心に染みこんできた。ダウニングさんのその本の中に、ケニアにエイズ患者が出始めたころの小説が紹介してあった。その本も翻訳するように、出版社の人に薦められて、日本語訳をつけた。ケニアの本は、2冊とも出版されずじまいだが、この作品もやはり2年ほどかかった。日本語と英語と、文章の質を問われるきつい作業だった。
ワグムンダ・ゲテリア『ナイス・ピープル』
最後の外部資金はアングロ・サクソン系の侵略の系譜をタイトルを入れて、4年分の研究費が交付された。ズームでシンポジウムをした際に、ケニアの歴史とエイズに関しての発表をした。(→「2021年11月Zoomシンポジウム最終報告」)申請書にシンポジウムの開催も含めていたが、コロナ騒動で普段通りのシンポジウムは組めなかった。しかし、意志とは関係なく始まったリモートでの授業に慣れたころだったので、ズームでの実施を思いつき、すんなりと開催できた。
ケニアの植民地化はベルリン会議(1884~85年)でのアフリカ分割が直接の原因で、アフリカ南部の権益確保に力を入れていたイギリス政府は民間の手を借り、1888年に帝国イギリス東アフリカ会社を設立し、アフリカ東部での勢力圏の拡大に努めた。ケニアは1895年に保護領となり、1920年に植民地になっている。その流れでは、1888年が大きな潮目だったようである。日英の潮目から28年後のことである。(→「ケニア1860」)