2010年~の執筆物

概要

2011年11月26日に宮崎大学医学部で開催したシンポジウム「アフリカとエイズを語る―アフリカを遠いトコロと思っているあなたへ―」を何回かにわけてご報告していますが、前号でご紹介した「『アフリカとエイズを語る』報告(1)」「モンド通信 No. 42」、2012年2月10日)の続きで、最初の発表者服部晃好(はっとりあきよし)氏の報告です。

天満氏によるシンポジウムのポスター

本文

シンポジウム『アフリカとエイズを語る』報告(2):服部晃好氏の発表

会場で紹介するために司会進行役の南部みゆきさんが予め本人から聞いていたアフリカ滞在歴と経歴は以下の通りです。

「服部晃好(はっとりあきよし)北海道足寄我妻病院医師

1994年より1996年まで青年海外協力隊員(職種:理数科教師)として、タンザニアの地方都市キゴマの中学校で数学を担当、1998年より2000年まで青年海外協力隊コーディネイターとして、ケニアの首都ナイロビのJICAケニア事務所で教育分野を担当しました。その他、エジプト、南アフリカに短期(1~3ヶ月程度)滞在の経験があります。」

現在(2020/2/29)は北海道新冠郡の→「新冠町立国保診療所」の勤務医です。医師は2名のようです。発表ではパワーポイントのファイルを使ってたくさんの写真を紹介していますが、写真は省いてあります。

***********

「HIV/AIDSとアフリカ:東アフリカでの経験から考える」  服部晃好

服部晃好氏

今日は、『HIV/AIDSとアフリカ-東アフリカでの経験から考える』というテーマでお話をしたいと思います。

最初に簡単な自己紹介をします。
私は、元々、地元の工業大学を出て、地元の企業に勤めていたのですが、思うところがあって3年で会社を辞めて青年海外協力隊に参加しました。協力隊では東アフリカ・タンザニアの田舎の中学校で数学の先生を2年3ヶ月ほどしました。その後、一旦、日本へ帰ってきたのですが、アフリカの魔力にとりつかれてしまって、再度、協力隊がらみの仕事で今度は東アフリカのケニアで2年と少し仕事をしました。このようにアフリカで4年半程生活したわけですが、そのアフリカで色々な出来事があって医師を志すようになり、2001年に宮崎医科大に入れてもらい、2007年に無事に医師免許を頂いて、今は北海道で地域医療に関わっています。

宮崎医科大学(現在は宮崎大学医学部、旧大学ホームページから)

最初に、私が滞在したタンザニアとケニアの場所をおさらいしておきますが、アフリカの東側、インド洋に面して並んでいます。両国の国境線の上には、アフリカ最高峰のキリマンジャロ山があり、その周辺にはライオンや象などの野生動物のための国立保護区が多数ある、日本人が想像するいかにも「アフリカ」という景色が広がっているような所です。

タンザニアでの授業風景も少しだけ紹介します。煉瓦を積み上げただけの校舎、トタン屋根で天井がないのでスコールが降ると声がかき消されて授業にならない状態でした。黒板に見えるのは、実はコンクリートを塗った壁に黒いペンキで色を付けただけの物なので、一時間の授業で何本もチョークが折れて大変でした。ただ、生徒達はとても勉強熱心で、私の下手くそな英語の授業も真剣に聞いてくれるので、とてもやりがいのある仕事でした。

私が医師を目指す大きなきっかけとなったのが、タンザニアの中学校の同僚だったグゥイリエ先生です。タンザニアで生活し始めた頃、色々と苦労をしていた私を常に助けてくれたのがこの先生だったのですが、私が帰国する前にAIDSを発症してアッと言う間に無くなってしまいました。この先生の死をきっかけに、私は帰国後の進路として真剣に医師を考えるようになったと思います。

さて、余談はこれぐらいにして、ここから本題のHIV/AIDSのお話をします。

今回、シンポジウムの最初の発表者ということで、HIV/AIDSの現況と生物学的なおさらいをした後で、私の東アフリカでの経験を元にしたお話をさせていただくつもりです。

まずHIV/AIDSの現況についてです。
国連・WHOの発表によれば、2009年におけるHIV感染者の推定値は、全世界で3330万人なのですが、そのうちサハラ以南のアフリカ(以下、SSA(Sub-Saharan Africa)と略記)には2250万人が居て、世界中の感染者の実に3分の2がSSAに集中していることになります。

次に、2009年に新たにHIVに感染した人の数ですが、全世界で260万人に対し、SSAでは1800万人と、これも世界の3分の2を超えています。

また、2009年の1年間で、全世界で180万人の方がAIDSで亡くなっているのに対し、SSAでは130万人と、これも断トツに高い割合となっています。

こうして見てくると、とても素朴な疑問がわいてきます。『なぜ、全世界のHIV感染者の2/3がSSAに集中しているのか』と。

これはケニア西部・ビクトリア湖に近いマタタ病院で撮影した写真ですが、左側はAIDSを発症して下痢や感染症で衰弱した成人男性、右側はお母さんからの垂直感染でHIVに感染した乳児で左大腿の感染の治療をしていました。この時期(1990年代末)、この病院では全入院患者の75%、つまり4分の3がHIV陽性だったと聞いています。

次の写真は、先ほどのマタタ病院がある地域のお葬式・埋葬の様子ですが、この地域ではHIV/AIDSによって沢山の方が亡くなり、毎週のようにこうしたお葬式が行われていました。右側の写真の白い衣装を着た人達が、亡くなった方のご家族ですが、この4人のうち3人はHIV/AIDSでご主人を亡くされているそうです。

ここで、再び先ほどの疑問に戻るわけですが、「なぜ、アフリカに集中しているのか」「なぜ、アフリカがHIV/AIDSの影響をこれほどまでに受けるのか」について、現地での経験を紹介しつつ少しだけ考えてみたいと思います。

ただ、その前に、あまりご存じでない方もいらっしゃるかもしれませんので、HIV/AIDSの基本的な事項について少しだけおさらいをしておきたいと思います。

まず、HIV/AIDSとはそもそも何かということですが、HIVはHuman Immunodeficiency Virus=ヒト免疫不全ウイルスという英語名の頭文字を並べたものです。このウイルスはCD4陽性Tリンパ球やマクロファージといった免疫を担当する細胞に感染することで、ヒトの免疫機能を低下・破壊していきます。そうして免疫力が低下することで様々な感染症や悪性腫瘍などに罹患しやすくなった状態を、Acquired ImmunoDeficiensy Syndrom=後天性免疫不全症候群と呼びます。通常、HIVに感染して数年から10年以上経過してAIDSを発症すると言われています。

HIVの生物学的なことも見ておきたいと思いますが、これがHIVの構造です。右側は電子顕微鏡の写真ですが、内部に遺伝子などを含む核の部分があり、その周囲を膜が覆い、その表面から多数の突起が出ています。この突起がヒトの免疫細胞(CD4陽性リンパ球など)に結合・感染する時に重要な働きをすると言われています。

HIVのリンパ球の感染および増殖の過程を模式的に表したのが次の図です。リンパ球の表面に結合したウイルスは、自分の遺伝子をリンパ球の内部に入れて、リンパ球の遺伝子に自分の遺伝子を組み込んでしまいます。そのためリンパ球が遺伝子に従って様々な活動を行うのに伴って、組み込まれたウイルスの遺伝子に従ってウイルスのコピーが作られ、それらがこのリンパ球から次々に放出されていくことになります。そして、このウイルスに感染したリンパ球は次第に死んでいきます。

これは先ほどのHIVウイルスの感染・増殖過程を電子顕微鏡で見たものですが、左側はウイルスがリンパ球の表面に接着・侵入していく様子です。一方、右側はリンパ球の内部で作られたウイルスのコピーが表面から次々に芽を出すように飛び出していく様子です。

次の写真も電子顕微鏡の写真ですが、リンパ球の表面から無数のHIVウイルスが飛び出してきているのがわかります。このように1個の感染ウイルスから無数のコピーを作られるプロセスが繰り返し行われ、最終的に免疫を担う細胞の数が減ってくると、様々な感染症などに罹りやすくなり、いわゆるAIDSと呼ばれる状態になります。HIVは血液や体液を介して感染していきます。主な感染経路は以下の3つです。

①性行為による感染(異性間・同性間ともに)、
②血液による感染(薬物などの注射に伴う針・注射器の使い回し、輸血など)、
③母子感染(出産時や授乳による)。

1980年代の前半、アメリカでAIDSが報告され始めた当初、AIDS患者は男性同性愛者や麻薬常習者が多かったために、そうした人々に対する社会的な偏見・差別がそのまんまHIV/AIDSに向けられて、今でも感染者には偏見が向かったりしていますが、性感染症である以上、HIV/AIDSは同性愛者や麻薬常習者の特別な病気ではなく、誰でも罹りうる病気です。

先ほど見たように、HIV/AIDSの問題点としては、私達の免疫細胞の遺伝子にHIVの遺伝子が組み込まれてしまうために、今のところ一度感染が成立するとHIVは体内から排除することができないということです。そうなると、HIVに感染させないようにするために、ワクチンという方法が最も効果的になるのですが、これまで30年近く研究されているにも関わらず、いまだに実用化はされていません(かなりいい線までは来ているようですが)。ということで、治療としては、先ほどのようなHIVの増殖を抑えるための薬を複数組み合わせて内服するという方法(ARTという)が主流です。

最近の治療法では、一応、ウイルスを検出できる限界以下まで少なくすることはできるようになっているので、HIVに感染してもAIDSを発症せずに生き続けることが可能になっていますが、HIVを完全に排除できているわけではないので、もし薬の内服を止めてしまうとウイルスの増殖が再び盛んになって、AIDSを発症することになります。このように、現在、HIVに感染した人々は、HIVの増殖を抑えつつ、HIVとともに生きていくことになるため、「HIV患者」「AIDS患者」ではなく、PLWHA:People Living With HIV/AIDS(HIV/AIDSとともに生きる人々)と呼ばれるようになっています。

今のところ、HIVは1930年代にアフリカの「サル免疫不全ウイルス」がヒトに感染するように変異したものと考えられています(科学的には)。つまりHIVの起源はアフリカにあると言えるわけですが、タンザニアで教師をしていた時の私の教え子達は、誰一人としてそれを認めようとはしませんでした。ある生徒が曰く、「アメリカで最初に発見されたのだから起源はアメリカだ。アメリカ人がアフリカ人にうつして、それがアフリカ人のフリーセックスで広まったんだ」と言っていました。

このセリフを聞いた私は、すぐに訂正しようかと思いましたが結局やめてしまいました。誰だって、こんな致死的な、しかも、偏見に満ちた疫病神の様なウイルスが自分達の所から出現したと思いたくはないだろうと思ったからです。HIVが仮にアフリカ起源であったとしても、別にアフリカ人を非難することには繋がらないだろうと思うのですが、当事者としての心情はそれだけでは済まされないのでしょう。ことの真偽はともかく、私達はアフリカ人のこうした心情にも、やはり理解の目を向ける必要があると思います。

さて、ここで最初の素朴な疑問に戻るわけですが、なぜSSAにHIV感染者が集中しているのでしょうか。先にお話したHIVの性質そのものは世界中で同じなのに、なぜアフリカだけがそんなに影響をうけるのでしょうか。

あるNGO(AVERT.ORG)のWEBサイトを見ると、HIVがSSAで蔓延した要因として、

①貧困・経済格差、
②社会の不安定さや政府の無策、
③男女不平等(女性軽視)、
④急速な都市化や伝統的な風習、
⑤性行動の違い、ほか多数の要因が指摘されていますが、

決定的な要因を指摘することはできないとしています。

最近でこそ、HIV蔓延の背景にはアフリカ諸国が抱える根本的な問題(すなわち貧困)があると言われるようになっていますが、一般的にはSSAにおける性行動の違い、すなわち、SSAの人々が他の地域の人々に比べて性的にActive、悪く言えば「性に対してふしだら」、という前提での議論そして対策が基本になっているのは間違いないと思います。ここではそれについては詳しく触れませんが、アフリカ人の性行動が他の地域に比べてとりわけActiveという証拠は示されていないはずです。

HIVがSTDであることから、アフリカに限らずHIV/AIDSの予防・啓発における基本的なアプローチとして、『ABCアプローチ』というものがあります。『A』はAbstience(禁欲)、『B』はBe faithful(貞操、パートナーに対して誠実)、そして『C』がuse Condoms(コンドームの使用)を示したものであり、『ABC』でうまくいかないと『D』すなわちDeath(死)が待っていると説明されます。

これはケニアにおけるHIV/AIDS(予防)教育の様子ですが、事前に集会の案内をして子供からお年寄りまで村の広場などに集まってもらい、ビデオ上映や人形劇・寸劇などでわかりやすくHIV/AIDSの危険性や感染予防などについて説明し、最後はコンドームを配って終了・・・という感じでやっていることが多いようです。

アフリカでは『ABC』の中でも特に『A』と『B』がことさら強調される印象があるわけですが、それは複数の性的なパートナーを持つ人が少なからずいることが一因だと思います。

このような禁欲や貞操を訴えるスワヒリ語のポスターなんかもタンザニアにありましたが、例えば複数のパートナーを持つ人がいると言っても、それを『アフリカ人=性行動が活発』と短絡的に考えるのはナンセンスです。これからいくつか例をご紹介しますが、そこには社会的あるいは文化的な要因が存在しており、そうした背景をきちんと理解するなど相当に基本的なところからアプローチをしていかないと、有効な教育効果につながらないと考えられます。

HIV/AIDSの新規感染者は、現在、先進国では男性の割合が多いのですが、SSAでは他の開発途上地域に比べても女性感染者の割合が多く、全体の6割近くを占めています(2006)。特に若年者でその傾向が強く、15~24歳に限って言えば、SSAの女性感染者の割合は男性の8倍にもなっています。

生物学的に女性は男性よりも性交渉の際にHIVに感染しやすいのは間違いないのですが、それは当然世界共通であるはずです。SSAの女性感染者の割合が多くなっている背景には、経済的・社会的・文化的な理由があることを私達は理解すべきです。

例えば、これはケニア西部のカトリック系の診療所で週1回配給される食事をもらいに来ていた親子の写真ですが、母親は16歳でお腹には2人目の子供がいました。抱っこしている子供は推定2歳ですが、栄養失調で髪や眉が茶色に変色してしまっており、目もうつろな状態でした。このように若年で十分な扶養ができない状況でも妊娠をする現状があるということです。

ケニアの地図

私がタンザニアで教えていた学校の近くにも、このような看板を見つけることができました。書いてあるのは「Say No! to sugar daddy」とか、「Refuse offers from sugar daddies」とかだったりします。それぞれ「Sugar daddyにはNoと言おう!」とか、「Sugar daddyからの申し出を断ろう」という意味ですが、ここで言うSugar daddyとは、若い女性と性的な関係を持つ代わりに金銭や物品を与える年上の男性のことです。Sugar daddyそのものは欧米に元々あった概念ですし、日本では「援助交際」などという言葉もあるわけですが、アフリカの場合、学費を得たり家族を養ったりする目的、つまり、生活上やむを得ずこうした関係をもつ若い女性がいます。また、先進国と比べれば女性の地位の低さや交渉力の弱さは明らかです。伝統的に男性には複数の女性との性関係が容認される傾向にあったりするのですが、女性が安全な性行為を男性に要求する・・・具体的にはコンドームの使用を要求する・・・ことは困難ですし、そもそも男性の方が優遇される社会であり教育の機会も少ない傾向にあることからHIV/AIDSに関する知識が少ないなどの問題があります。更に、地域によってはイスラム教などの宗教とは別に伝統的に一夫多妻制が残っていたり、Wife inheritance(=亡くなったご主人の兄弟や親戚が、残された未亡人と結婚して彼女を養う制度)や、Purification(=未亡人の「禊ぎ」あるいは「清め」のためにある特定の男性と性交渉を行うこと)などといった、我々には馴染みのない風習が今も存在しており、HIV/AIDSの拡散につながっているという指摘もあります。

これらは、いわゆる「ジェンダー不平等」と言って途上国に共通した問題ではあるのですが、SSAに見られるこうした習慣、考え方、行動様式などを、私達の、あるいは西洋的な尺度だけで「未開」であるとか、「野蛮」だなどと即断しないように注意する必要があると思います。我々には理解しにくいものであっても、それぞれの民族、人々の中で長く受け継がれてきたのには、当然、何らかの理由が存在するからです。例えば、Wife inheritanceは未亡人やその子供をClan(部族)の中で継続的に扶養する目的で生じた制度であると考えられますし、Purificationについても霊的な存在を意識しての儀式的なものであると考えられるのです。現地の状況を客観的に評価した上で、適切な対応(ex. 行動変容のためのアプローチ)をとることが必要です。

話は変わりますが、私がタンザニアの中学で教えていた時、生徒達に何度かビデオを見せたことがあるのですが、ジュラシックパークを見せた時の反応はすごかったです。事前に生徒達には簡単な内容説明をしたのですが、見終わった生徒は誰もフィクションだとは思わず、実際に起こった事件の映像だと信じて疑いませんでした。確かに、我々も最初に見た時にはその精巧なCGに驚いたわけですが、日本の高校生ならこれを現実の話だとはまず思わないでしょう(タンザニアの生徒達の年齢は18~25歳ぐらいで、日本の高校~大学の年齢です)。生徒達があまりに真剣に「先生、俺にだけは本当のことを教えてくれ。どこであった話なんだ?」などと迫って来た時には、こちらの方が驚いてしまいました。

ただ、振り返って自分の周りをよく見てみると、私のいたタンザニアの田舎には動画はおろか色のついた絵や写真の類もほとんどありませんでした。とにかく圧倒的な情報の少なさがあり、当然、そうした情報を処理するとか、それを元に応用するとかといった力が養成されないのです。しかも中学校に入学できるのは同世代の子供の5%程度、つまり生徒達はほんの一握りのエリートということになります。とすれば、教育を受けていない(=受けられない)大多数の子供達の情報不足(教育の不足)は更に深刻なものと言えます。

個人的には、こうした国民全体への絶対的な教育の不足がHIV/AIDS対策においては大きなネックになっていると思っています。もちろん教育だけでなく、ジェンダー不平等、社会の不安定さ、進まない経済開発など、SSAの国々には様々な問題が山積していますが、その元凶はやはり「貧困」=「国力のなさ」であり、その背景には、奴隷貿易から植民地政策にいたるアフリカの国々が歩んできた歴史的な苦難と、現在も続く我々日本も含めた先進国の対アフリカ政策があると言えます(我々の裕福な生活がアフリカの人々の貧困の上に成り立っているのは意識しないとわかりません)。ただ、これについては、この後、玉田先生がお話くださると思いますので、ここでは触れないでおこうと思います。

これはケニアの首都ナイロビの写真です。ナイロビは人口が800万人とも1000万人とも言われるアフリカ有数の大都市で、市の中心部にはこのように高層ビルが林立し、自動車の大変な渋滞が常に起こっている状況なのですが、街の中心を少し外れるとアフリカ最大とも言われるキベラスラムが存在しています。この様子は、世界における我々とアフリカの縮図でもあると言えるのではないでしょうか。

最後に、私は現役の医者ですので、少し医療的な側面でSSAにおけるHIV/AIDSの蔓延について見てみたいと思います。

1990年代の半ば頃、青年海外協力隊員に支給される医薬品セットの中には、必ず注射器と針が含まれていました。もちろんHIVなどの感染予防を目的としたもので、「病院などで注射が必要な時などにはそれを使ってもらうように」と指示されていました。

ある時、私の近くの任地にいた協力隊員がマラリアに罹ったのですが、意識障害になるほどの重症のマラリアであり、任地の病院に入院してキニーネの点滴が行われることになりました。幸いその病院の点滴セットや針は全て使い捨てだったのですが、数日後、症状が改善してきたのでマラリア検査を再度行うことになった際、看護師が持ってきた金属製のバットの中には、10人以上から採取した検体のプレパラートと、たった一本の針だけが載っていました。私の友人は、その針で指を一刺しして血液を一滴採ってもらってからそのことに気づき、HIVに感染した可能性があることをすぐに悟って青くなったといいます。結局、帰国時のHIV検査では問題なく、彼の心配は杞憂に終わったわけですが、HIV/AIDSが発見されてから30年が経った現在でも、アフリカの医療現場(特に地方の小さなクリニックのレベル)では、針などの使い捨てや医療器具の消毒・滅菌が徹底されておらず、それがHIVの感染をかなり助長しているという報告が少なからずあります。こうした報告は、HIV/AIDS対策のメインストリームの人々からはほとんど黙殺されているようですが、私自身やケニアで病院勤めをしていた私の妻の経験でも、十分に可能性があるのではないかと思っています。その背景にもやはり「貧困」が大きく横たわっていると言わざるを得ないと思います。

最後に簡単なまとめですが、

① 1990年代の感染拡大期に十分な対策がとられなかったために、SSAではHIV/AIDSが蔓延した。
② その背景にはSSAのDisadvantage(歴史的および現在も続く苦難)が存在しており、その改善なくしてHIV/AIDSの根本的な対策は成立しないと考えられる。
③ HIV/AIDS対策における支援にあたっては、先進国や西欧的な価値観・考え方だけに基づいた先入観や押しつけをすることなく、そこにいる人々を巻き込んで問題を把握・分析・解決していくようなアプローチが求められる。

と思います。

以上で私の発表を終わります。ご静聴ありがとうございました。

次回は二番目の発表玉田吉行:「アフリカと私:エイズを包括的に捉える」をご報告する予定です。(宮崎大学医学部教員)

石田記者

毎日新聞の報告記事

執筆年

2012年3月10日

収録・公開

「モンド通信 No. 43」

ダウンロード・閲覧

(作業中)

2010年~の執筆物

概要

エイズ患者が出始めた頃のケニアの小説『ナイスピープル』の日本語訳(南部みゆきさんと日本語訳をつけました。)を横浜門土社のメールマガジン「モンド通信(MonMonde)」に連載したとき、並行して、小説の背景や翻訳のこぼれ話などを同時に連載しました。その連載の22回目で、2011年度に開催したシンポジウム『アフリカとエイズを語る』の報告、6回シリーズの1回目、についてです。

アフリカの小説やアフリカの事情についての理解が深まる手がかりになれば嬉しい限りです。連載は、No. 9(2009年4月10日)からNo. 47(2012年7月10日)までです。(途中何回か、書けない月もありました。)

『ナイスピープル』(Nice People

本文

シンポジウム『アフリカとエイズを語る』報告(1)

天満氏によるポスター

→シンポジウム報告書『アフリカとエイズを語る』(作業中)

2011年11月26日に宮崎大学医学部で開催したシンポジウム「アフリカとエイズを語る―アフリカを遠いトコロと思っているあなたへ―」を何回かにわけてご報告したいと思います。(「『ナイスピープル』を理解するために」の解説として)

発表者は北海道足寄我妻病院の医師服部晃好(はっとりあきよし)氏と、宮崎大学の医学部6年生の天満雄一(てんまゆういち)氏、5年生の小澤萌(おざわもえ)さん、4年生の山下創(やましたそう)氏と私の5人で、「翻訳こぼれ話」を連載中の南部みゆきさんが司会進行役でした。(各自の写真はそれぞれの報告の時に掲載します。)

左から服部、山下、玉田、南部、天満、小澤の各氏

文部科学省科学研究費の交付を受けた「アフリカのエイズ問題改善策:医学と歴史、雑誌と小説から探る包括的アプローチ」(平成21年度~平成23年度)の成果を問うためのシンポジウムで、アフリカに滞在経験のある4人に協力を仰いでシンポジウムが実現しました。

天満氏の提案に私が加筆する形で、案内のポスターには「アフリカに滞在した経験のある5人が、アフリカを遠いトコロと思っているあなたに、生物学的、医学的一辺倒な見方ではなく、病気をもっと包括的に捉えて、アフリカとエイズを語ります。」と解説をつけました。

過去に連載した『ナイスピープル―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―』の日本語訳も、解説「『ナイスピープル』を理解するために」も「生物学的、医学的一辺倒な見方ではなく、病気をもっと包括的に捉えて、」アフリカのエイズ問題を問い直そうと考えて書いたものです。きっかけはレイモンド・ダウニング氏の著書『その人たちはどう見ているのか?―アフリカのエイズ問題がどう伝えられ、どう捉えられて来たか―』を読んで心を動かされたからです。

ダウニング著『その人たちはどう見ているのか?』

ダウニング氏はアフリカでの生活の方が長く、日々エイズ患者と向き合っていたアメリカ人の医師です。欧米の抗HIV製剤一辺倒のエイズ対策には批判的で、病気を社会や歴史背景をも含む大きな枠組みの中で考えるべきだと主張しました。大半のメディアを所有する欧米の報道を鵜呑みにせずに、アフリカ人の声に耳を傾けるべきだと提言しています。その提言は、アフリカで長年医療に携わった経験に裏付けられたものだけに極めて示唆的でした。

アフリカ系アメリカ人の文学がきっかけでアフリカの歴史を追って30年近く、医科大学で医学にも目を向けるようになって20年余り、結論から言えば、アフリカのエイズ問題に根本的な改善策があるとは到底思えません。なぜなら、イギリス人歴史家バズゥル・デヴィドスン氏が指摘するように、根本的改善策には大幅な先進国の譲歩が必要ですが、現実には譲歩のかけらも見えないからです。しかし、学問に少しでも役割があるなら、大幅な先進国の譲歩を引き出せなくても、小幅でも先進国に意識改革を促すような提言を模索し続けることだと思います。僅かな希望でも、ないよりはいいのでしょうから。

バズゥル・デヴィドスン

アフリカ文学とエイズをテーマに「英語によるアフリカ文学が映し出すエイズ問題―文学と医学の狭間に見える人間のさが」(平成15年度~平成18年度)で科学研究費の交付を受けていますので、その延長でダウニング医師の提言に応えるべきだと考えて今回の科学研究費を申請しました。前回(2004年)は、(旧)宮崎医科大学の大学祭に便乗してシンポジウム「アフリカのエイズ問題-制度と文学」を開催しました。医学科の国際保健医療サークルの人たちや(旧)宮崎大学農学部獣医学科の学生といっしょに準備をして、四国学院大学のサイラス・ムアンギさんと医師の山本敏晴さんを招いていっしょに発表しました。

報告書「英語によるアフリカ文学が映し出すエイズ問題―文学と医学の狭間に見える人間のさが」

シンポジウムポスター

今回の発表は、服部晃好:「HIV/AIDSとアフリカ:東アフリカでの経験から考える」→玉田吉行:「アフリカと私:エイズを包括的に捉える」→山下創:「ウガンダ体験記:半年の生活で見えてきた影と光」→小澤萌:「ケニア体験記:国際協力とアフリカに憧れて」→天満雄一:「ザンビア体験記:実際に行って分かること」の順で行ないました。

次回は最初の発表(服部晃好:「HIV/AIDSとアフリカ:東アフリカでの経験から考える」)のご報告をしたいと思います。

出席者は少なかったのですが、毎日新聞の石田宗久記者が来て下さり、翌日の新聞に報告記事を掲載して下さいました。後ほどご紹介したいと思います。

石田記者

毎日新聞の報告記事

『ナイスピープル―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―』(No. 5[2008年12月10日)~No. 34(2011年6月10日)までの30回連載]は「日本語訳『ナイスピープル』一覧」(→「玉田吉行の『ナイスピープル』」、解説(1)~(21)は「『ナイスピープル』を理解するために」一覧」(→「玉田吉行の『ナイスピープル』を理解するために」=どちらも元は「小島けい絵のブログ」)にまとめてあります。(宮崎大学医学部教員)

執筆年

2012年2月10日

収録・公開

「モンド通信 No. 42」

ダウンロード・閲覧

(作業中)

2010年~の執筆物

概要

エイズ患者が出始めた頃のケニアの小説『ナイスピープル』の日本語訳(南部みゆきさんと日本語訳をつけました。)を横浜門土社のメールマガジン「モンド通信(MonMonde)」に連載したとき、並行して、小説の背景や翻訳のこぼれ話などを同時に連載しました。その連載の21回目で、「ニューアフリカン」:エイズの起源(4)米国産の人工生物兵器としてのウィルス、についてです。

アフリカの小説やアフリカの事情についての理解が深まる手がかりになれば嬉しい限りです。連載は、No. 9(2009年4月10日)からNo. 47(2012年7月10日)までです。(途中何回か、書けない月もありました。)

『ナイスピープル』(Nice People

本文

『ニューアフリカン』:エイズの起源(4)米国産の人工生物兵器としてのウィルス

雑誌「ニューアフリカン」

今回は「エイズの起源」の4回シリーズの最終回で、「米国産の人工生物兵器としてのウィルス」についてです。

編集長のバッフォ・アンコマーは「ニューアフリカン」で早くからエイズが人工的に生み出された病気だと主張して来ました。信頼のおける科学者に依頼してその根拠を示し、判断は読者に委ねました。原稿を依頼された一人が米国の皮膚科医でエイズと癌の研究者アラン・キャントウェルJrです。キャントウェルは、男性同性愛者に接種されたB型肝炎ワクチンの影響でエイズ患者が生まれ、HIVは癌研究を隠れ蓑に米国政府が継続した生物兵器の開発実験の過程で生み出された人工ウィルスである疑いが濃いと結論づけています。

バッフォ・アンコマー

1978年11月にニューヨーク市で男性同性愛者にB型肝炎ワクチンの接種実験が行なわれたすぐ後に、エイズ患者が大量に出始めたのは事実です。接種実験を実施したのはポーランド系ユダヤ人医師のウォルフ・シュムーニス(Volf Szmuness)で、第二次大戦中、政治犯としてシベリアに連れて行かれた人物です。戦後釈放され、中央ロシアで医学部に入り、1959年にはポーランドへの帰国許可が出て、公衆衛生を専門に肝炎の専門家になりました。1968年に家族でニューヨークに亡命し、1968年にニューヨーク市血液センターに技師として採用されたのち、コロンビア大学に招かれ肝炎の世界的な権威になっています。

性の解放が叫ばれた1970年代初期には男性同性愛者の間で性感染症、特にB型肝炎が急速に拡大して当局の懸念が大きくなり、シュムーニスが開発中のワクチンが実験的に接種されたわけです。シュムーニスは治験の対象に高学歴の白人で、性的に活動的な男性同性愛者を選びました。治療費などで優遇しましたので、志願者を難なく集め、CDC(米国疾病予防管理センター)、NIH(米国国立衛生研究所)や大手の製薬会社の協力を得て治験を実施しました。1978年の11月にマンハッタンのニューヨーク市血液センターで第一グループの1083人にワクチンが接種され、翌年の10月まで治験が続きました。96%の成功率を収めましたが、3ヶ月後の一月に若い白人の男性同性愛者が原因不明の病気になりました。1980年の3月には、CDCの監督の下に、サンフランシスコ、デンバー、セントルイス、シカゴで1402人へのワクチン接種が継続され、その秋にサンフランシスコで最初のエイズ患者が出ました。

CDC(「エイズの時代(3)カクテル療法の登場」、2006年12月20日NHKBS1)

アフリカ人やアメリカの同性愛者のHIV感染源としてワクチン接種に最初に注目したのは米国人医師ロバート・ストレクターで、「エイズは実験室のウィルスを遺伝子操作して造られた病気で、そのウィルスが故意に、或いはたぶん偶発的に、世界の人口を制御するための殺人因子として人間集団に注入された」と指摘しました。政府の遺伝子組み換えによる超強力細菌兵器開発計画疑惑については、前号の<20>→「『ナイスピープル』を理解するために―(20)『ニューアフリカン』:エイズの起源(3)アフリカの霊長類がウィルスの起源」「モンド通信 No. 40」、2011年12月10日)で、「遺伝子操作で、細菌に対して免疫機構が働かなくなる、極めて効果的な殺人因子となる超強力細菌の開発は可能である」と1969年に医師ドナルド・マッカーサーが国会で証言したこと、国立癌研究所が生物兵器開発研究の批判をかわすために1971年に大統領ニクソンが米国陸軍生物兵器研究班の主要な部分を移した施設であったこと、アフリカ起源説を主張するギャロやエセックスが学問的に重大な間違いをおかしたにもかかわらず政府や製薬会社やマスコミに守られたことなどについて書きました。シュムーニスによる男性同性愛者へのB型肝炎ワクチンの接種実験がCDCやNIHや製薬会社と連携した癌研究の一環であり、1971年以来癌研究を隠れ蓑に生物兵器の研究が続けられたことを考えれば、HIVが人工的に米国政府に造られたウィルスであるという主張は空論ではありません。(キャントウェルは、後に政府によって公開された情報から、1940年代の冷戦時代の初めから70年代まで政府が秘密裏に行なった放射能実験が著名な大学で実施され、非常に高い評価を受けている医者や科学者が研究に関わっていた事実が明るみに出たこと、犠牲者がしばしば貧乏人や病気の人、恐らくはアフリカ系アメリカ人やいわゆる「アメリカインディアン」に多いことから推測すれば、エイズについてもその可能性は極めて高いと指摘しています。)

製薬会社や政府と密接な関係にあり、資金提供も得ている主流派は「米国産の人工生物兵器としてのウィルス」を「陰謀説」と切り捨てますが、資金獲得のためには製薬会社はもちろんのこと研究者やNGO、国連さえもエイズ患者やHIV感染者のデータを水増しして利用して来た、などの根本にも関わる政治的な思惑や経済的な絡みなど、これまでの歴史的な経緯を総合的に判断すると、HIVが米国で人工的に作られたウィルスである可能性は高いと言わざるを得ません。

製薬会社(「エイズの時代)

次回からは、11月に宮崎で行なったシンポジウム「アフリカとエイズを語る」についての報告記事をシリーズ(「ナイスピープルを理解していただく為に」)でお伝えしたいと思います。(宮崎大学医学部教員)

執筆年

  2011年12月10日

収録・公開

  →「モンド通信 No. 40」

ダウンロード・閲覧

  (作業中)

2010年~の執筆物

概要エイズ患者が出始めた頃のケニアの小説『ナイスピープル』の日本語訳(南部みゆきさんと日本語訳をつけました。)を横浜門土社のメールマガジン「モンド通信(MonMonde)」に連載したとき、並行して、小説の背景や翻訳のこぼれ話などを同時に連載しました。その連載の200回目で、『ニューアフリカン』:エイズの起源(3)アフリカの霊長類がウィルスの起源です。

アフリカの小説やアフリカの事情についての理解が深まる手がかりになれば嬉しい限りです。連載は、No. 9(2009年4月10日)からNo. 47(2012年7月10日)までです。(途中何回か、書けない月もありました。)

『ナイスピープル』(Nice People

本文

「ニューアフリカン」:エイズの起源(3)アフリカの霊長類がウィルスの起源

雑誌「ニューアフリカン」

今回は「アフリカの猿の仲間、霊長類がウィルスの起源である」という「先進国」での通説に対する「ニューアフリカン」で展開された反論について書きたいと思います。エイズのアフリカ起源説についての4回シリーズの3回目です。

早くから「ニューアフリカン」は「アフリカ人の性のあり方」、「アフリカの猿の仲間がウィルスの起源」、「米国産の人工生物兵器としてのウィルス」の3点を軸に、「先進国」の通説に対して反論を展開して来ました。

アフリカ起源説もミドリザル説も政府や製薬会社やマスコミとの関わりが強く、論証に使ったウィルスも信憑性が薄く、説を唱える人たちが学問的に重大な間違いをおかしてきている、などが反論の中心です。

1984年、世界的にもエイズ研究者として知られ、国立癌研究所でエイズウィルスを発見したと主張していたロバート・ギャロは、エイズのアフリカ起源説を言い出しました。(ギャロは著書の中で、ジャーナリストのアン・フェットナーから、中央アフリカでの経験と観察に基づき、エイズの起源がヴィクトリア湖の近くで、ウィルスがアフリカの猿から来ていると話しているのを聞いたと書いています。)国立癌研究所は、生物兵器開発研究の批判をかわすために1971年に大統領ロバート・ニクソンが米国陸軍生物兵器研究班の主要な部分を移した施設です。ギャロの意見は一般に学会やメディアでは歓迎されました。当時、ギャロはパリのパスツール研究所からウィルスを盗んだと告訴されて係争中でしたが、評価は下がるどころか、1983年にウィルスの共同発見者の権利と血液検査機器の使用料を分け合うことで合意し、1994年までに使用料だけでも35万ドルの利益を得たと言われています。

パスツール研究所

ギャロのアフリカ起源説を押し進めたのがハーバード大学のエイズ研究者・獣医師マックス・エセックスで、1988年にアフリカのミドリザルで二つ目のエイズウィルスを発見したと発表して評判になりました。そのウィルスは後に、マサチューセッツ州のニューイングランド霊長類研究所でエイズに似たウィルスから感染した「汚染」ウィルスだったことが判明しました。(エセックスが最初のエイズに似たウィルスを発見したのは中央アフリカのミドリザルからではなく、東南アジア、日本、北アフリカに分布するオナガザル科のマカクという猿からだとも報告されました。)後に、HIVと猿のウィルスが余りにも違うためにミドリザル起源説自体が否定され、本人も間違いを認めざるを得ませんでした。(ギャロも1975年に新しい人間のエイズウィルスを発見したと発表しましたが、後に自分の研究所の猿のウィルスだったことがわかりました。)元々推論の域を出ないウィルスの起源に意味があるとも思えませんが、1988年には、パスツール研究所の所長リュック・モンタニエも、当時世界保健機構のエイズ特別プログラムの委員長だったジョナサン・マンも、色々な説による情報が出れば出るほど、ウィルスの起源については謎が深まるばかりであると認めざるを得ませんでした。

ジョナサン・マン

1999年2月、今度はチンパンジー説です。米国バーミンガム市のアラバマ州立大学のウィルス学者ビートリス・ハーンが率いるチームがシカゴのレトロウィルスと日和見感染の年次学会で発表したものです。後にマリリンと名付けられるチンパンジーは、1995年にアフリカで(国名は不明)捕まえられ、生涯の大半を米国陸軍の研究施設で過ごし、死後、遺体はメリーランド州のフォート・デトリックにある国立癌研究所(先述の1971年に米国陸軍生物兵器研究班の主要な部分が移された施設です。)に送られました。「ニューアフリカン」の編集長アンコマーは「エイズは本当にアフリカが起源だったのか?」(1999年4月号)でチンパンジー説の一貫性のなさを指摘し、次のように締めくくっています。

バッフォ・アンコマー

「つまり、アフリカがエイズの起源だとしてアフリカにエイズの責任を転嫁するための、また別の『政治的な』証拠に2月の発表が使われていると考えて、私たちは気持ち安らかに眠りにつけるというわけです。」

研究者の意図が「純粋に」科学的であっても、深く文化や政治の影響を受けていても、科学者の意図とは関わりなく、多くのアフリカ人は研究の結果でエイズの責任をおしつけられていると感じるわけですから、欧米や日本の人にはアフリカのエイズの起源の問題は、アフリカとアフリカのエイズ問題を理解する上での小さくはない手掛かりだと思います。

次回は4回シリーズの最終回で、「米国産の人工生物兵器としてのウィルス」について書きたいと思います。(宮崎大学医学部教員)

執筆年

2011年12月10日

収録・公開

「モンド通信 No. 40」

ダウンロード・閲覧

→(作業中)