コンゴの悲劇2 上 ベルギー領コンゴの『独立』

2020年1月21日2000~09年の執筆物アフリカ,随想

概要

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本文(写真作業中)

コンゴの悲劇2 上  ベルギー領コンゴの「独立」

■ ベルギー領コンゴ

前回の「コンゴの悲劇1 レオポルド2世と『コンゴ自由国』」(「ごんどわな」24号2-5頁。)では、遂にコンゴにまで植民地支配が及び、アフリカ人の暮らしが一変したことを書いた。

「悲劇2」では、ベルギー領コンゴが新植民地体制に組み込まれて行く悲劇について書こうと思う。

奴隷貿易による初期の資本蓄積で生産手段を機械に変えた西洋社会は、産業革命で作り過ぎた製品の世界市場と、安価な原材料を求めて、植民地争奪戦を繰り広げた。

レオポルド2世が植民地獲得の夢を紡ぎ始めた1870年代には、既にアジア、アフリカ、ラテン・アメリカは、ほぼ西洋列強の植民地支配下にあり、コンゴ盆地は列強国が手をつけていない世界地図の唯一の大きな空白だった。結果的には国王一人が暴利を貪ったが、そうでなくとも、後の歴史が示すように、いずれは侵略者の餌食になっていただろう。

 

レオポルド2世

「コンゴ自由国」は1908年にレオポルド二世からベルギー政府に譲渡されて「ベルギー領コンゴ」になり、搾取構造もそのまま引き継がれた。支配体制を支えたのは、1888年に国王が傭兵で結成した植民地軍(The Force Publique)である。その後、植民地政府の予算の半分以上が注がれて、1900年には、1万9000人のアフリカ中央部最強の軍隊となった。軍はベルギー人中心の白人と、主にザンジバル〈現在はタンザニアの一部〉、西アフリカの英国植民地出身のアフリカ人で構成され、「一人か二人の白人将校・下士官と数十人の黒人兵から成る小さな駐屯隊に分けられていた。」(註1)兵隊がアフリカ人に銃口を突きつけて働かせるという、まさに力による植民地支配だった。

レオポルド二世は国際世論に押されて渋々政府に植民地を譲渡したが、国際世論とは言っても、この時期、ドイツは南西アフリカ(現ナミビア)で、フランスは仏領コンゴで、英国はオーストラリアで、米国はフィリピンや国内で同様の侵略行為を犯していたので、批判も及び腰で、国王が死に、1913年に英国が譲渡を承認する頃には、国際世論も下火になり、第一次大戦で立ち消えになってしまった。

アフリカ人は人頭税をかけられて農園に駆り出され、栽培ゴムや綿や椰子油などを作らされた。第一次大戦では、兵士や運搬人として召集され、ある宣教師の報告では「一家の父親は前線に駆り出され、母親は兵士の食べる粉を挽かされ、子供たちは兵士のための食べ物を運んでいる」(註2)という惨状だった。第二次大戦では、軍事用ゴムの需要を満たすために、再び「コンゴ自由国」の天然ゴム採集の悪夢が再現された。また、銅や金や錫などの鉱物資源だけでなく「広島、長崎の爆弾が作られたウランの80%以上がコンゴの鉱山から持ち出された。」(註3)

名前が「ベルギー領コンゴ」に変わっても、豊かな富は、こうして貪り食われたのである。

■ 豊かな大地

ベルギーの80倍の広さ、コンゴ川流域の水力資源と農業の可能性、豊かな鉱物資源を併せ持つコンゴは、北はコンゴ(旧仏領コンゴ)、中央アフリカ、スーダンと、東はウガンダ、ルワンダ、ブルンジ、タンザニアと、南はアンゴラ、ザンビアとに接しており、地理的、戦略的にも大陸の要の位置にある。

 

 

植民地列強が豊かなコンゴを見逃す筈もなく、鉄道も敷き、自分達が快適に暮らせる環境を整えていった。「1953年には、世界のウラニウムの約半分、工業用ダイヤモンドの70%を産出するようになったほか、銅・コバルト・亜鉛・マンガン・金・タングステンなどの生産でも、コンゴは世界で有数の地域」(註4)になっていた。綿花・珈琲・椰子油等の生産でも成長を示し、ベルギーと英国の工業原材料の有力な供給地となった。

行政区は、北西部の赤道州、北東部の東部州、中東部のキブ州、中西部のレオポルドヴィル州、中部のカサイ州、南東部のカタンガ州の六州に分けられ、大西洋に面するレオポルドヴィル州に首都レオポルドヴィル(現キンシャサ)があり、カタンガ州とカサイ州南部が鉱物資源に恵まれた地域である。

インドの独立やエジプトのスエズ運河封鎖などに触発されて独立への機運が高まりアフリカ大陸に「変革の嵐」が吹き荒れていたが、コンゴで独立への風が吹き始めたのは、ようやく58年頃からである。

ベルギー政府は、コンゴをやがてはアフリカ人主導の連邦国家へと移行させて本国に統合する構想を描き、種々の特権を与えて少数のアフリカ人中産階級を育てていた。56年当時の総人口1200万人のうちの僅かに10万人から15万人程度であったが、西洋の教育を受け、フランス語の出来る人たちで、主に大企業や官庁の下級職員や中小企業家、職人などで構成されていた。(註5)独立闘争の先頭に立ったのは、この人たちである。

■ 独立

58年当時、アバコ党(註6)、コンゴ国民運動 (註7)、コナカ党(註8)などの政党が活動していた。

アバコ党が最も力を持ち、カサヴブ(Joseph Kasavubu)とボリカンゴ (Jean Bolikango) が党の人気を二分し、党中央委員会の政策がコンゴ全体の政治の流れを決めていた。カサヴブは即時独立を求めたが、民族色の濃い連邦国家を心に描いていた。

 

カサヴブ

58年10月創設のコンゴ国民運動(MNC)は、従来の民族中心主義を排し、国と大陸の統合を目指して活動を開始した。誠実で雄弁な指導者パトリス・ルムンバ (Patrice Lumumba) が、若者を中心に国民的な支持を得て、第3の勢力に浮上した。ルムンバに影響されたカサイ州バルバ人の指導者カロンジ (Albert Kalonji) が第4勢力の地位を得たが、五十九年六月にルムンバに反発して分裂し、ベルギー人(教会、大企業、政庁)の支持を受けてMNCの勢力を二分した。イレオ(Joseph Ileo)など多数がカロンジと行動を共にした。

 

ルムンバ

カタンガ州では、チョンベ(Moїse Tshombe)がベルギー人財界や入植者の支援を受けてコナカ党を率いていた。

ベルギー政府に独立承認の意図は未だなかったが、58年11月辺りから事態は急変する。西アフリカ及び中央アフリカの仏領諸国が次々と共和国宣言をしたこと、12月にガーナの首都アクラで開かれた第一回パンアフリカニスト会議に出席したルムンバが帰国したことに刺激を受けて、独立への機運が急激に高まったからである。

翌年1月4日、レオポルドヴィルで騒乱が起き、50人以上の死者を出した。事態を無視できなくなったベルギー政府は独立承認の方法を模索し始め、60年1月20日から27日にかけてコンゴ代表44名をブルッセルに集めて円卓会議を開催して、急遽、同年6月30日の独立承認を決めた。

■ 宣戦布告

5月に行なわれた選挙でMNCは137議席中の74議席を得てルムンバが首相にはなったものの、絶対多数には届かず、カザヴブの大統領職と、大幅な分権を認める中央集権制を容認せざるを得かった。民族的、経済的基盤を持たず、分裂要素を抱えたまま、大衆の支持だけが支えの船出となった。

6月30日の独立の式典で、ルムンバはコンゴの大衆と来賓に、次のように宣言した。

「……涙と炎と血の混じったこの闘いを、私たちは本当に誇りに思っています。その闘いが、力づくで押し付けられた屈辱的な奴隷制を終わらせるための気高い、公正な闘いだったからです。

80年来の植民地支配下での私たちの運命はまさにそうでした。私たちの傷はまだ生々しく、痛ましくて忘れようにも忘れることなど出来ません。十分に食べることも出来ず、着るものも住まいも不充分、子供も思うように育てられないような賃金しか貰えないのに、要求されるままに苦しい仕事をやってきたからです。

私たちは、朝昼夜となく、侮蔑と屈辱と鉄拳を味わってきました。私たちが「黒人」だったからです……

私たちは、白人のための法律が決して黒人用の法律と同じではないのを味わってきました。白人用の法律は寛大でしたが、黒人用の法律は残酷で、非人間的だったからです。

政治的な意見や宗教上の信念を捨てることを強いられた人たちの酷い苦しみを私たちは見てきました。追放者としてのその人たちの運命は、死よりも惨いものでした。

私たちは、街の白人用の豪邸と、黒人用の崩れかけのあばら家を見てきました。黒人は「白人用」の映画館やレストランや店には行けませんでした。黒人は船に乗ればいつも、豪華な客室にいる白人の足元のまだ下の船底に押し込められて旅行をしてきました。

そして最後に、本当にたくさんの仲間が撃ち殺されたり、搾取や抑圧の「正義」の支配にこれ以上屈服しないぞと言った人たちが独房に入れられたりしたのですが、そういった射殺や独房を忘れることなど出来ません。

みなさん、そうしたすべてのことが、最も深い悲しみだったと思います。

しかし、選ばれた代表が我が愛する祖国を治めるようにとあなた方に投票してもらった私たちは、身も心も白人の抑圧に苦しめられてきた私たちは、こうしたすべてが今すっかり終わったのですと言うことが出来ます。

コンゴ共和国が宣言され、今や私たちの土地は子供たちの手の中にあります……

共に、社会正義を確立し、誰もが働く仕事に応じた報酬が得られるようにしましょう。

自由に働ければ、黒人に何が出来るかを世界に示し、コンゴが全アフリカの活動の中心になるように努力しましょう……

過去のすべての法律を見直し、公正で気高い新法に作り変えましょう。

自由な考えを抑え込むのは一切辞めて、すべての市民が人権宣言に謳われた基本的な自由を満喫出来るように尽力しましょう。

あらゆる種類の差別をすべてうまく抑えて、その人の人間的尊厳と働きと祖国への献身に応じて決められる本当の居場所を、すべての人に提供しましょう……

最後になりますが、国民の皆さんや、皆さんの中で暮らしておられる外国人の方々の命と財産を無条件で大切にしましょう。

もし外国人の行いがひどければ、法律に従って私たちの領土から出て行ってもらいます。もし、行いがよければ、当然、安心して留まってもらえます。その人たちも、コンゴのために働いているからです……

豊かな国民経済を創り出し、結果的に経済的な独立が果たせるように、毅然として働き始めましょうと、国民の皆さんに、強く申し上げたいと思います……」(註9)

このルムンバの国民への呼びかけは、同時にベルギーへの宣戦布告でもあった。

(たまだよしゆき・アフリカ文学)

 

〈註〉

1 Adam Hochschild, King Leopold’s Ghost (Boston, New York: Houghton Mifflin Company, 1998), p. 124.

 

2 Leopold’s Ghost, p. 279.

3 Leopold’s Ghost, p. 278.

4 小田英郎『アフリカ現代史Ⅲ中部アフリカ』(山川出版社、1986年)、118ペイジ。

5 ルムンバ著・中山毅訳「訳者あとがき」、『祖国はほほ笑む』(理論社、1965年)、270~271ペイジ。

6 The Abako: Association pour la Sauvearde de la Culture et des Intérêts des Bakongo.

7 MNC: the Mouvement National Congolais.

8 The Konakat: Confederation of Tribal Associations of Katanga.

9 Thomas Kanza, The Rise and Fall of Ptrice Lumumba (London: Red Collings, 1978), pp. 161-164. ルムンバ著・榊利夫編訳『息子よ未来は美しい』(理論社、1961年)、67頁~72ペイジにも収載されている。

 

執筆年

2004年

収録・公開

未出版(ごんどわな25号に収載予定でしたが、24号以降は出版されないままです。)

  後にまとめて出版→「医学生と新興感染症―1995年のエボラ出血熱騒動とコンゴをめぐって―」「ESPの研究と実践」第5号(2006年)61-69頁。

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