「ニューアフリカン」から学ぶアフリカのエイズ問題
概要
圧倒的な財力でマスメディアを支配する先進国は一方的自分たちの主張を押しつけています。特にアフリカに対してはその傾向が強く、経済力を持たないアフリカ諸国は対抗するすべはありません。しかし、わずかながら主張を続けるメディアの一つが雑誌「ニューアフリカン」で、丹念にエイズに関する主張を拾い、包括的に分析しました。
「ニュー・アフリカン」
The aim of this paper is to show the importance of a holistic approach to African AIDS issues, the first step to a discourse on African AIDS, by analyzing appeals in the New African. Major themes are: origin of AIDS, accuracy of statistics and testing, drug toxicities, media coverage, and poverty. This article will focus on the origin of AIDS and the accuracy of statistics and testing.
For the New African, three aspects of the origin question are important: African sexuality, viral origins in African primates, and HIV as a man-made weapon of biological warfare. By the mid-1990s the epidemic was following a different pattern in Africa. In the West it was transmitted primarily through male homosexuals and intravenous drug users, but in Africa primarily through heterosexuals. Further, it was spreading much faster in Africa than in North America. Some tried to explain the difference by assuming African promiscuity. Geshekter, however, confronted this assumption and pointed out two reasons why AIDS was more prevalent in Africa: AIDS was not as prevalent in Africa as it had seemed, and there were other factors besides sexual activity to account for its spread. The former case was due to an inaccuracy of statistics and testing; statistics of the epidemic were collected from diagnoses which had a combination of symptoms (cough, diarrhea, weight loss) common to other diseases. The latter case is based on such factors as the political economy leading to African poverty.
We cannot deny the possibility that HIV is a man-made weapon of biological warfare, for its production is closely related to the profits of the defense and pharmaceutical industries.
The New African points the way to a discourse on AIDS in Africa.
本文
「ニューアフリカン」から学ぶアフリカのエイズ問題
1.マスメディアのアフリカ報道
雑誌「ニューアフリカン」
日頃マスメディアから情報を得ることが多いのですが、利益が最優先される資本主義社会では、資金力を持つ側の意図的な情報を無意識のうちにすり込まれている場合も多く、アフリカやエイズについては、とりわけその傾向が強いと思います。
朝日新聞の書評欄を一例に考えてみたいと思います。『エイズを弄ぶ人々―疑似科学と陰謀説が招いた人類の悲劇』というエイズ関連の一冊です。著者は米国コネクティカット大学の心理学の教授で、「史上最悪の疑似科学である『HIV/エイズ否認主義』ほど多くの犠牲者を出したものは他にない」、「例えば南アフリカでは、ムベキ大統領が否認主義者の主張を真に受けてエイズ対策を誤り、260万人以上が犠牲者になったという。その政策の助言者の一人が、アメリカのがん遺伝子研究の権威、ピーター・デューズバーグであった事実には驚かされる。」1が紹介されています。しかし、著者の書いた内容は正しくありません。ムベキはデューズバーグを大統領諮問会議に招待しましたが、その主張を真に受けてはいませんし、260万人以上が犠牲者になったとしても、否認主義者の主張をムベキが真に受けたからではありません。著者はマスメディアの情報を鵜呑みにしてムベキを非難し、自分自身の偏見には気づいていません。そして、評者はその著書を肯定的に推奨しています。三大紙の朝日新聞が、事実を正しく理解していない人に書評を依頼すべきではありません。私も含めた読者は新聞の情報の対価として代金を支払っているのですし、その書評を見て本を求める人も多いのですから。
そもそも、ムベキがエイズ対策を誤ったと誰が非難出来るのでしょうか。現在の貧困や危機的な状況を生み出したのは、平和に暮らしていたアフリカ人から力づくで土地を奪い、長い間アフリカ人を食いものにして来たオランダ系やイギリス系の入植者です。アフリカ人との全面戦争になれば大量の武器が流れこんですべてが消えてしまうと危惧した入植者は、莫大な利益を分かちあっている米国、英国、日本などの「先進国」と画策して「民主的な」選挙を実施し、何とかアフリカ人に政権を移譲しました。つまり、安価なアフリカ人労働者からの搾取構造を温存するのに辛うじて成功したわけです。しかし、独立したアフリカ諸国が皆そうであったように、主要な産業も財政基盤もほぼ押さえられたままで、形だけのアフリカ人政権に一体何が出来ると言うのでしょうか。
マンデラとムベキはそんな状況の中でも、最大限の努力をしています。2マンデラは曲がりなりにも新政権の道筋をつけましたし、ムベキはマンデラの大統領代行としてエイズ問題を一手に引き受けました。当時のエイズの状況が世界貿易機関(WTO)が決める知的財産所有権の例外条項である「国家的な危機や特に緊急な場合」だと判断して、1997年に「コンパルソリー・ライセンス」法を制定しました。しかし、米国の副大統領ゴアは南アフリカの状況は「国家的な危機や特に緊急な場合」にあたらないと主張して圧力をかけ、国際的な非難を浴びました。3ゴアは「ムベキとともに、米国―南アフリカ二国間委員会の共同議長としての役割を利用して」、「悲惨な疫病に直面して絶望的な状況にある国民に薬を手に入れると誓って約束した一つの統治国家に対して無理強いを繰り返した」4わけです。
当時のゴアの同僚米保健福祉省長官(1993~2001)シャレーラは、「ムベキはエイズを否定すると言うよりむしろこれを陰謀と捉えていたと思います。アフリカ人特有の考え方ですね。当時ゴア副大統領といっしょにエイズ問題に取り組むように説得しましたが、形式的な返事が返って来ただけでした。こちらの話に礼儀正しく耳を傾けてからこう言ったんです。『やるべきことは分かっています。どうもありがとう。』」5と言っていますが、法律を撤回しないのなら二国間援助を打ち切るとムベキを恫喝しておきながら、「ゴア副大統領といっしょにエイズ問題に取り組むように説得しました。」とはよくも言えたものです。
マンデラを獄中に閉じ込め、ムベキに亡命を強いた白人政府と貿易で莫大な利益を分かち合って南アフリカの多数のアフリカ人を苦しめ続けておきながら、何とも恥知らずな人たちです。圧倒的な財力にまかせてマスメディアを利用して一方的に大きな声を張り上げ続けるわけですから、ムベキが「礼儀正しく耳を傾けて」「やるべきことは分かっています。どうもありがとう。」と「形式的な返事」をしたのも自然な対応です。メディアを制する「先進国」の圧倒的な声の前では、アフリカ人には沈黙を守るしか術がないのですから。
ムベキは2000年のダーバンでの国際エイズ会議で、内外の批判を覚悟のうえで、「私たちの国について色々と語られる話を聞いていますと、すべてを一つのウィルスのせいには出来ないように私には思えます。健康でも健康を害していても、すべての生きているアフリカ人が、人の体内で色んなふうに互いに作用し合って健康を害するたくさんの敵の餌食になっているように私には思えてなりません。そして、私はありとあらゆる局面で必死に、懸命に戦って、すべての人が健康を維持出来るように人権を守ったり保障したりする必要があるという結論に達しました。」という従来の主張を敢えて繰り返しました。7
西洋のマスメディアは皆、相変わらずムベキを厳しく批判し続けましたが、「ニューアフリカン」は西洋とは異なる分析の記事を多数掲載して、ムベキを擁護しました。双方の主張を冷静な目で見比べれば、いかに「先進国」が一方的で独善的かが容易にわかります。
タボ・ムベキ
エイズは自分の体を外敵から守るために人間が本来持っている免疫の働きをウィルスによって侵される疾病ですが、その免疫機構も健康な体が維持されての話です。前ザンビア大統領カウンダが言ったように、もしアフリカ人が西洋諸国並みの水準で生活出来るなら、「たとえ病気になっても、もっと強くなれる・・・」8でしょう。しかし、多くの人は開発や援助の名目で先進国に搾取されながら、食うや食わずの生活を強いられています。南アフリカに住む大半の人たちは、アパルトヘイト政権時代とあまり変わらず、スラムにひしめきながら極めて低い水準の生活を強いられています。南アフリカで「260万人以上が犠牲者になった」のは、ムベキが対策を誤ったからではなく、著者カリッチマンの米国や日本などの「先進国」が、白人政権と共にアフリカ人に犠牲を強いて来た結果に過ぎません。
免疫不全の疾病と戦うのに、免疫力を弱める根本原因の貧困問題を考えずに、抗HIV製剤を声高に叫ぶ欧米や日本のマスメディアの方が余程おかしいでしょう。胃腸の調子がおかしい時に大量の薬を飲むのも、食べるものがない状態で副作用の強い薬を飲むのも苦しいだけなのですから。「いくらすぐれた薬が出来ても、満足に食べられないアフリカ人には抗HIV製剤だけがすべてではない」9と言うカウンダの言い分は、至極まっとうです。
ケネス・カウンダ
アフリカ人のことはアフリカ人に聞くのが当然で、「ニューアフリカン」の提起する問題はアフリカ人とアフリカ人の考え方を知る上での一つの大きな手掛かりです。
2.「ニューアフリカン」が問いかけるもの
2. 1「ニューアフリカン」
ロンドン拠点の「ニューアフリカン」は1966年創刊の英語の月刊誌です。「毎月、二十二万人がアフリカ大陸での最新の情報を逃さないように『ニューアフリカン』を購読し」、「官僚やビジネスマン、医師や弁護士などや、アフリカに関心のある人たちには大切な雑誌です。」10編集長は永年英国に住むガーナ出身のパンアフリカニストバッフォー・アンコマーで、1999年に英国人アラン・レイクに代わって編集長になっています。同じ年にムベキが大統領になり、歩調を合わせるように雑誌の傾向を大きく変えました。アフリカ人が執筆したエイズに関する記事が大幅に増え、扱うテーマも、それまでのエイズ検査や統計の問題に加えて、抗HIV製剤と副作用、ムベキとメディア、エイズと貧困など、幅を広げました。その後の約十年間に掲載されたエイズ関連の記事は、①エイズの起源、②エイズ検査、③統計、④薬の毒性(副作用)、⑤メディア、⑥貧困などが中心です。エイズの起源と検査と統計に焦点を絞り「ニューアフリカン」の提起する問題を探りたいと思います。
バッフォ・アンコマー
2. 2エイズの起源
正確にはヒト免疫不全ウィルスの起源、エイズを引き起こすウィルスはどこから来たかと言う問題です。「先進国」はウィルスの起源がアフリカであるとさかんに話題にしますが、アフリカ人の見方は違います。最初にエイズ患者が出たのは米国なのに、アフリカ起源説はおかしい、西洋社会は流行の責任をアフリカに転嫁している、と考えます。
ダウニングは1990年代の半ば頃に東アフリカの病院で働いている時に同僚のアフリカ人からエイズの起源の話をよく聞いたと述懐して次のように書いています。
「エイズの起源は議論の余地がある問題でしたが、エイズが現に存在し、私たち医者の仕事はエイズを防ぐために努力し、そのために最善を尽すだけだと思っていました。しかし、いっしょに働いているアフリカ人たちには、それだけでは不十分で、誰もが「ニューアフリカン」を読んだこともない田舎の人たちでしたが、私が本当にアフリカがエイズの起源だと考えているかどうかを知りたがりました。私には実際わかりませんでしたし、本当に気にもしませんでしたが、エイズについてのアフリカ人の本当の声を聞くある重要な手掛かりを教えてもらっているとはその時は気づいていませんでした。」11
ダウニング著『その人たちはどう見ているのか?』
元海外青年協力隊員も1990年代半ばにタンザニアで同じ話を聞いています。12
「ニューアフリカン」は「アフリカ人の性のあり方」、「アフリカの霊長類がウィルスの起源」、「米国産の人工生物兵器としてのウィルス」という3点から見て、エイズの起源の問題が重要だと考えて関連する記事を早くから数多く掲載し、欧米や日本などの「先進国」で広く信じられている通説への反論を展開し、大きな問題提起を繰り返して来ました。
欧米では感染者が主に男性同性愛者と麻薬常用者であったのに対して、アフリカでは異性間の性交渉で、しかも欧米よりもはるかに速く感染が拡大していた点で、エイズの流行の仕方が大きく違っていることが90年代の半ば頃までに明らかになっていました。
麻薬常用者(「エイズの時代(3)カクテル療法の登場」、2006年12月20日NHKBS1)
その違いを説明しようとしたのは主に「アフリカ人が性にふしだらであると思い込んでいる人たち」で、ゲシェクターはその思い込みに反論して、「アフリカ人が特に性にふしだらだとする証拠はなく、結果的に考えられるのは、(1)エイズは世界で報じられているほどアフリカでは流行していないか、(2)流行の原因が他にあるかだ」13と指摘しています。
ゲシェクターは主流派の言う「HIV/エイズ否認主義者」の一人で、1994年にエイズ会議を主催して主流派を学問的にやりこめました。ムベキの大統領諮問会議にも招聘され、「ニューアフリカン」でも執筆しています。しかし、政府も製薬会社も体制派もマスコミ(資金源は体制派)もこぞってその会議を黙殺しました。(日本政府の推進する原子力エネルギーの危険性を指摘した人たちが冷遇され、「安全神話」で政策を擁護する「原子力村」が優遇された構図とよく似ています。)
ゲシェクターが「(1)エイズは世界で報じられているほどアフリカでは流行していない」と考えたのは、患者数の元データが極めて不確かだったからです。エイズ検査が実施される以前は、医者が患者の咳や下痢や体重減などの症状を見て診断を出していましたが、咳や下痢や体重減などは肺炎などよくある他の疾病にも見られる一般症状で、かなりの数の違う病気の患者が公表された患者数に紛れ込んでいる確率が高かったわけです。検査が導入された後も、マラリアや妊娠などの影響で擬陽性の結果がかなり多く見受けられ、検査そのものの信ぴょう性が非常に低いものでした。「1994年の『感染症ジャーナル』の症例研究では、『結核やマラリアやハンセン病などの病原菌が広く行き渡っている中央アフリカではHIV検査は有効ではなく70%の擬陽性が報告されている』という結論が出されています。」14つまり、公表されている患者数の元データそのものが極めて怪しいので、実際には世界で報じられているほどエイズは流行していないとゲシェクターは判断したのです。
2000年前後に「30%以上の感染率で、崩壊する国が出るかも知れない」という類の記事がたくさん出ましたが、潜伏期間の長さを考えても、十年以上経った今、エイズで崩壊した国はありませんから、報道そのものの元データが不正確だったと言わざるを得ません。
「(2)流行の原因が他にある」とゲシェクターが考えたのは、アフリカがエイズ危機に瀕しているのは異性間の性交渉や過度の性行動のせいではなく、低開発を強いている政治がらみの経済のせいで、都市部の過密化や短期契約労働制、生活環境や自然環境の悪化、過激な民族紛争などで苦しみ、水や電力の供給に支障が出ればコレラの大発生などの危険性が高まる多くの国の現状を考えれば、貧困がエイズ関連の病気を誘発する最大の原因であると言わざるを得ないからです。それは後にムベキが主張し続けた内容と同じです。15
「アフリカ人の性のあり方」
「エイズと、性的にアフリカ人がふしだらだという神話」の冒頭で、ゲシェクターは、1994年の第10回国際エイズ会議(横浜)での塩川優一の「アフリカ人が性的欲望を抑制しさえすれば、アフリカのエイズの流行は抑えられる」16という発言を「神話」の一つとして引用しています。(塩川優一は東京帝国大学医学部卒、当時順天堂大学教授で厚生省お抱えの学者、横浜エイズ会議の組織委員長であり、厚生省エイズサーベイランス委員会委員長をつとめ、薬害エイズ事件では第1号患者の認定をめぐって批判された人物です。)
「アフリカ人の過度の性行為についての神話」は目新しいものではなく、「異常に大きな陰核のゆえに性的に飽くことを知らない黒人女性と性の饗宴にふける黒人男性の話」は、「アフリカ人は幼稚で野蛮である」などの話とともに、植民地時代の初期にヨーロッパの探検家が持ち帰って広めたものです。アフリカ争奪戦で野蛮の限りを尽す帝国主義者にとっても、自国に利益をもたらし生活を豊かにしてくれる植民地政策を支持する人たちにも、理不尽な植民地支配を正当化するためには数々の神話が必要だったのでしょう。
神話は「猿の血を媚薬として切り傷に擦り込んだザイール人の話」、「潰瘍のある性器の苦情が広まっている話」、「売春婦からHIVをもらい、自分の妻にうつしているアフリカのトラックの運転手の都市伝説」など、範囲が広がり、新たに「割礼や一夫多妻制などのアフリカの伝統的な習慣が流行に拍車をかけている」という神話まで付け加えられました。市場拡大を目論む製薬会社にも、「開発」や「援助」の名目で利益を貪る多国籍企業や政府にも、貿易や投資で生活が潤う先進国の人にも、今も「神話」は不可欠なのでしょう。
ゲシェクターはいくつかの根拠をあげて「神話」に反論しています。
「過度の性行為」については「エイズ地帯のルワンダ、ウガンダ、ザイール、ケニア人々がカメルーン、コンゴ、チャドの人たちより性的に活動的だと証明した人もいないし、精力を計る基準の男性ホルモン(テストステロン)の値は世界中どこでもそう大差はないので、ある大陸や地域の男性が他の所の男性より過度に性行為にふけるということはないという概念を忘れてしまっている。」と科学者の一方的な主張を戒め、「アフリカ人が性にふしだらである」については、1991年のウガンダ北部モヨ地区の性行動の調査を引用して、性行動が西洋人と大して違わないと指摘しています。調査の結果は、女性の初体験は女性が平均17歳、男性が19歳、結婚前の性体験は女性で18%、男性で50%でした。割礼については、女性の間でもっとも広く割礼が行われているソマリア、エチオピア、ジプチ、スーダンでエイズ患者が一番少ない事実を科学者が無視していると指摘し、そもそも公の場で性的な感情を表わすのが女性の「資質」を貶めると考える地域と、ボーイフレンド、ガールフレンドが当たり前の西洋を同じ基準で論じること自体がおかしいと述べ、トラックの運転手についても、性的な行動面から見てアフリカ人の運転手はアメリカやヨーロッパの運転手と大差はなく、東アフリカのトラックの運転手だけを非難するのは片手落ちであると指摘しています。
「アフリカの霊長類がウィルスの起源」、「米国産の人工生物兵器としてのウィルス」
アフリカの霊長類起源説は培養して証明に使用したウィルス自体があやしい、ウィルスの人工説は、生物兵器製造疑惑説に応えた国会証言やB型肝炎の男性同性愛者などへの実態実験と最初のエイズ患者との時期的な符合している、というのが主な根拠です。
アンコマーは早くからエイズが人工的に生み出された病気だと主張して来ましたが、皮膚科医アラン・キャントウェルJrはエイズと癌の研究者として数々の具体的な根拠を示して、HIVが米国産の人工ウィルスで、エイズが生物兵器の実験から生まれたものではないかと結論づけました。起源説を主張するロバート・ギャロやマックス・エセックスは政府や製薬会社やマスコミとの繋がりが強く、学問的に過去に重大な間違いをおかしてきたこと、1978年に男性同性愛者に実施されたB型肝炎の人体実験がエイズの発症に大きく影響した可能性が強いこと、過去に米国政府が人体実験を行なった疑いが濃いことなどがキャントウェルの根拠です。17キャントウェルはすでに紹介した1994年のエイズ会議の立役者の一人で、会議は政府や製薬会社やマスコミに黙殺されました。
アフリカ起源説を言い出したのは、国立癌研究所でエイズウィルスを発見したと主張していたギャロです。国立癌研究所は、生物兵器開発研究の批判をかわすために1971に大統領ロバート・ニクソンが米国陸軍生物兵器研究班の主要な部分を移した施設です。ギャロはパリのモンタニエ研究所からウィルスを盗んだと告訴されて係争中でしたが、評価が下がるどころか、1983年にウィルスの共同発見者の権利と血液検査機器の使用料を分け合うことで合意し、1994年までに使用料だけでも35万ドルの利益を得たと言われています。ギャロのアフリカ起源説を押し進めたのがハーバード大学の獣医師エセックスで、1988年にアフリカのミドリザルで二つ目のエイズウィルスを発見したと発表して評判になりましたが、そのウィルスがマサチューセッツ州のニューイングランド霊長類研究所でエイズに似たウィルスから感染した「汚染」ウィルスだったことが後にわかったうえ、ミドリザル起源説自体も否定されました。ギャロも1975年に新しい人間のエイズウィルスを発見したと発表しましたが、後に自分の研究所の猿のウィルスだったことがわかりました。
元々推論の域を出ないウィルスの起源に意味があるとも思えませんが、1988年には、モンタニエ研究所の所長モンタニエも、当時世界保健機構のエイズ特別プログラムの委員長だったジョナサン・マンも、色々な説による情報が出れば出るほど、ウィルスの起源については謎が深まるばかりであると認めざるを得ませんでした。
政府の遺伝子組み換えによる超強力細菌兵器開発計画疑惑は、医師ドナルド・マッカーサーが国会で証言した1969年に遡ります。マッカーサーは、専門家なら遺伝子操作で、細菌に対して免疫機構が働かなくなる、極めて効果的な殺人因子となる超強力細菌の開発は可能であることを示唆し、「次の五年か十年の間に、既存の病原因子とはある重要な点で異なる新しい感染性の微生物を作る可能性があり、感染症から比較的容易に身を守るために頼っている現存の免疫学的な手法や治療方法では手に負えなくなると思います。」と証言しましたが、その証言は80年代初頭の最初のエイズ患者騒動と時期が符合しています。
過去に米国がB型肝炎の人体実験を男性同性愛者に行なった事実や、癌研究の名の下に生物兵器の研究を継続し、放射能の人体実験を行なった疑いが濃いこと、それらが兵器産業や製薬会社などと密接に繋がっていたという構図を考えれば、「アフリカ人が性にふしだらであると思い込んでいる人たち」が主張し続けるエイズのアフリカ起源説より、エイズが人工的に造り出された病気であるという主張の方がはるかに信憑性があります。
2. 3エイズ検査と統計
不正確な検査や統計に基づいたエイズ報道は信用せずに、アフリカ政府は援助に頼る悪弊を断ち切って適切な対策をとるべきだと「ニューアフリカン」は主張してきました。
2000年前後にマスコミは意図的にアフリカのエイズ危機を書き立てました。例えば、1998年に東京で開催された第2回アフリカ開発会議(TICADII)では、国際連合エイズ合同計画(UNAIDS)のピーター・ピオットが「エイズ/HIVは人的被害、死、生産性の低下など、甚大な犠牲を強いて来ました。現在、エイズ/HIVで苦しむ3100万の成人と子供のうち、2100万人がアフリカで生活しています。エイズ/HIVで苦しむ女性の80%はアフリカにいます。結果的に平均寿命は短くなり、乳幼児の死亡率は上昇し、個人の生産性と経済発展が脅かされています。知らない間に広がるエイズ/HIVの影響は経済や社会活動のすべての領域に及んでいます。」という「東京行動計画」を会議の最後に滑り込ませました。
同じ年に国連は、エイズが多くのアフリカ諸国で劇的に平均寿命を縮め、次の10年から15年の間に想像以上に人口が激減するという予測の世界人口調査結果を発表し、その結果を元にニューヨークタイムズなどが「サハラ砂漠以南のアフリカで最も被害が大きい国ボツワナでは、わずか5年前には61歳であった平均寿命が今や47歳に落ち、2000年から2005年の間には41歳まで下がるでしょう。成人の5人に1人がHIVの陽性であるジンバブエでは、死亡率は国の人口増加を激減させており、1980年から1985年の間の年間3.3%から現在の1.4%に、2001年には1%以下に下がると予測されています。もしウィルスがなければ、現在恐らく2.4%の増加率を示していたでしょう。」という類の記事をさかんに載せました。
それらの記事に使われた数字は、世界保健機構(WHO)が1985年10月に中央アフリカ共和国の首都バングイで採択したバングイ定義に沿って計算されたものです。採択された「アフリカのエイズ」のWHO公認の定義は、「HIVに関わりなく、慢性的な下痢、長引く熱、2ヶ月内の10%の体重減、持続的な咳などの臨床的な症状」で、「西洋のエイズ」の定義とは異なります。しかも栄養失調で免疫機構が弱められた人が最もウィルスの影響を受け易いうえ、性感染症を治療しないまま放置していると免疫機構が損なわれて更に感染症の影響を受けやすくなりますので、マラリアや肺炎、コレラや寄生虫感染症によって免疫機構が弱められてエイズのような症状で死んだアフリカ人は今までにもたくさんいたことになります。つまり、その人たちも含まれるバングイ定義に沿ってコンピューターによってはじき出された数字は、アフリカの実態を反映したものではなかったわけです。
英国のテレビプロデューサー/ジャーナリストのジョーン・シェントンは研究者チームを連れてガーナとコートジボワールに渡って調査を行ない「ガーナで227名の患者に、コートジボワールでは135名の患者に『HIVと関わりのないエイズ』を発見しました。すべての患者はアフリカに昔からある体重減、下痢、慢性的な熱、肺炎、神経的な疾病の症状を呈していました。しかもガーナの227名、コートジボワールの135名がHIVの陰性でした。」と報告しました。18
エイズ検査の結果も極めて不確かで、資金不足のためにアフリカの病院で一般に行われていたELISA法[酵素免疫吸着測定法]による血液検査では83%も擬陽性が出る可能性があると言われていましたし、ロンドンでも研究所によって結果が違い、一ヶ月の間に検査結果が二転三転した例も報告されていました。ダウニングも、妻にELISA法での陰性の結果が出て、ナイロビの病院でウエスタンブロット検査を受けたが判定できないと言われ、結局米国で検査を受けて陰性ではないと判った経験があると綴っています。
ではなぜそんなでたらめなデータがまことしやかに流れたのでしょうか。理由は簡単ですが、原子力エネルギー政策に似て、利害が絡む事態は複雑です。
シェントンが「アフリカでは肺炎やマラリアがエイズと呼ばれるのですか?」と質問した時、ウガンダの厚生大臣ジェイムズ・マクンビは「ウガンダではエイズ関連で常時700以上のNGOが活動していますよ。これが問題でしてね。まあ、いつくかはとてもいい仕事をやっていますが、かなりのNGOは実際に何をしているのか、私の省でもわかりません。評価の仕様がないんです。かなり多くのNGOが突然やって来て急いでデータを集めてさっと帰って行く、次に話を聞くのは雑誌の活字になった時、なんですね。私たちに入力するデータはありませんよ。非常に限定された地域の調査もあり、他の地域が反映されていない調査もあります。」と答えました。19別のウガンダ人バデゥル・セマンダは「人々はエイズで儲けようと一生懸命です。もしデータを公表して大げさに伝えれば、国際社会も同情してくれますし、援助も得られると考えるんです。私たちも援助が必要ですが、人を騙したり、実際とは違う比率で人が死んでいると言って援助を受けてはいけないと思います。」20と語りました。
シェントンが言うように、「エイズ論争は金、金、金をめぐって行われて来ました。ある特定の病気にこれほど莫大な金が投じられてきたのは人類の医学史上初めてです。」21
製薬会社(「エイズの時代)
莫大な利益を追い続ける製薬会社、10年間成果を上げられず継続的な資金を集めたい国連エイズ合同計画やWHO、研究費獲得を狙う研究者や運営費を捻出しようとするNGO、投資先を狙う多国籍企業や援助を目論むアフリカ政府、どこにとっても大幅に水増しされても世界公認の国連やWHOお墨付きの公式データが是非とも必要だったというわけです。
3.包括的な捉え方と意識変革の必要性
英国人歴史家バズゥル・デヴィドスンが「奴隷貿易時代から植民地時代を通じて、アフリカの富を搾り取って来た『先進国』は、形こそ違え、今もそれを続けています。アフリカに飢えている人がいる今、私は難しいことを承知で、これはもうこの辺で改めるべきだと考えます。今までアフリカから搾り取ってきた富、今はそれを返す時に来ているのです。」(1983年NHK「アフリカシリーズ第8回植民地支配の残したもの」)と言ってから30年にもなります。エイズ論争が浮き彫りにしているのは、エイズを口実に、相も変わらずアフリカを食いものにする「先進国」の愚かしい姿です。
バズゥル・デヴィドスン
アンコマーは「一番厄介なのは、世界中の人々がこれらの数字を額面通り受け取り、アフリカ人はほとんど誰もが頭からつま先までHIVウィルスにまみれ、もし今死ななくても、十年かそこらのうちに死ぬのを待っているだけだと信じることです。」22と指摘し、「アフリカ自体が自身と誇りを持つために、今こそ各国政府は自身の無気力、無関心な態度を捨て去り、アフリカ起源説の無実の罪を着せられかけた1980年代初頭にハイチがしたように、これらの数字に正々堂々と反論して闘うべきです。死を待つだけと言われている2600万人の市民とともに生きているのは、最終的にはアフリカの政府なのですから。」23と訴え続けています。
ムベキは聞く耳を持たない人に語りませんでしたが、その沈黙は「上からの押しつけで、沈黙の下には、無数の小さな屈辱と大きくて修復しがたい屈辱から生まれた封じ込められた怒りが籠もっている」24のです。
アフリカのエイズについてはアフリカ人に聞くべきです。アフリカ人とアフリカのエイズの実態を理解するためには、ムベキやアンコマーが提言している問題も含めて、「ニューアフリカン」は一つの大きな手掛かりを与えてくれています。発展途上国の犠牲の上に繁栄する「先進国」の私たちこそが、素直に耳を傾けるべきです。
注
- 2011年4月17日付朝日新の書評欄で取上げられた野中香方子訳セス・C・カリッチマン著『エイズを弄ぶ人々―疑似科学と陰謀説が招いた人類の悲劇』(化学同人、2011年)
- 「『ナイスピープル』理解15:エイズと南アフリカ─ムベキの育った時代4 アパルトヘイト政権の崩壊とその後」(「モンド通信 No. 32」、2011年4月10日)を参照。
- 池内了「エイズが問う『政治の良心』 南ア特許法に米が反発」(朝日新聞1999年8月6日)。南アフリカとエイズに関しては、①「医学生とエイズ:南アフリカとエイズ治療薬」(「ESPの研究と実践」第4号61-69頁。)、②「『ナイスピープル』理解8:南アフリカとエイズ」(「モンド通信 No. 16」、2009年11月10日)、③「『ナイスピープル』理解10: エイズ治療薬と南アフリカ2」(「モンド通信 No. 18」、2010年1月10日)を参照。
- Editorial. (July 1, 1999) “Gore’s humanitarianism loses out to strong-arm tactics.” Nature.
- ムベキとダーバン会議については「『ナイスピープル』理解11:エイズと南アフリカ―2000年のダーバン会議」(「モンド通信 No. 19」、2010年2月10日)を参照。
- NHKBS ドキュメンタリー「エイズの時代(3)カクテル療法の登場」(2006年12月20日NHKBS1)
- “Speech at the Opening Session of the 13th International Aids Conference." (July 9, 2000, http://www.anc.org.za/ancdocs/history/mbeki/2000/tm0709.html)
- Downing, Raymond. (2005) As They See It – The Development of the African AIDS Discourse. 22. London: Adonis & Abbey. エイズと免疫については「『ナイスピープル』理解7:アフリカのエイズ問題を捉えるには」(「モンド通信 No. 15」、2009年10月10日)を参照。
- Downing. 21-23.
- Downing, 33. 2005年の夏からはウェブでも配信されていますが、現在住んでいる宮崎のような地方都市では「タイム」や「ニューズウィーク」のようにはいきません。
- Downing. 21-23.
- 1990年代中頃に海外青年協力隊員としてタンザニアキゴマの中学校で理科の教師をしていた時に、北海道足寄我妻病院の服部晃好医師が同僚から同じ話聞いています。
- Geshekter, Charles. (October, 1994) “Aids and the myth of African sexual promiscuity." New African. 16-17.
- Geshekter. 17.
- ムベキの主張した内容については「タボ・ムベキの伝えたもの:エイズ問題の包括的な捉え方」(「ESPの研究と実践」第9号30-39ペイジ)を参照。
- Geshekter. 16.
- Cantwell, Alan Jr. (October, 1994) “Aids is not African." New African. 10-14.
- Ankomah, Baffour. (December, 1999) “Are 26 million Africans dying of Aids?" New African. ?18.
19, 20. Ankomah. 19.
- Ankomah. 16.
22, 23. Ankomah. 15.
- Farmer, Paul. (2003) Pathologies of power: Health, Human Rights, and the New War on the Poor. 22-28. Berkeley: University of California Press.
本稿は科学研究費の課題「アフリカのエイズ問題改善策:医学と歴史、雑誌と小説から探る包括的アプローチ」(基盤研究(C)課題番号:21520379:平成21 年度~平成23 年度)の一環として書いたもので、課題「1950~60 年代の南アフリカ文学に反映された文化的・社会的状況の研究」(一般研究(C):昭和64 年度)と課題「英語によるアフリカ文学が映し出すエイズ問題―文学と医学の狭間に見える人間のさが」(基盤研究(C)課題番号:15520230:平成15 年度~平成18 年度)の延長上にあります。
執筆年
2011年
収録・公開
「ESPの研究と実践」第10号25-34ペイジ
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