つれづれに

つれづれに:畑も始めたが

 大根の畝の芽の列が乱れているのは、近くのきれいな白猫がトイレ代わりに掘り返すから

 畑作業をする時間と歩く時間が長くなると、自然と旧暦を意識し始める。畑作業の時間が増えているわけである。このくらいの気温だと、畑に出る気持ちが自然に湧いて来る。今日から全国的に気温がぐっと下がるらしい。

鞘から取った種を蒔いた大根が芽を出して、少しずつ大きくなっている(↑)し、畝(↓)も増やせつつある。今の時期はこのままだと虫にやられるので、希釈した酢を根気よく撒き続ける必要がある。今年は3畝か4畝は作りたいと思っているが‥‥。今年の春先から一日に一回は、大根おろしにたっぷり大分産のちりめんじゃこをかけ、それに徳島産のポン酢をかけて食べるようにしている。用意してもらえる時は、麦ごはんといっしょに。出来れは自分で作ったのを食べられる方がいい。肉や魚はほとんど食べないので、ちりめんじゃこは私にはカリシウム源としては貴重だ、たぶん。小さいが切り身でなくて丸ごとなので、内臓も含まれているのでいろいろな要素が含まれている確率は高い。

奥が南瓜の柵の残骸、大根の畝、手前がレタス用

 一度吉祥寺(↓、駅前商店街2019)で鍼も打つ開業医に耳に鍼を打ってもらったことがあるが、その人が手羽先をまるごと食べるのがよろしい、手羽で飛びますからね、とわかったようでわからいないことを言うのを聞いたことがある。飛べる羽がどういいのかはわからないが、いいのかも知れない。熊本大の医学部を卒業したと言っていた。もちろん、そんなことを考えながらちりめんじゃこを食べるわけではないが‥‥。

 今年はずいぶんと暑かった。ある年齢を過ぎた頃に、暑すぎると皮膚が耐えられない感じになり、汗もかなり嫌な臭いがするようになった。今年は7月23日の大暑、8月7日の立秋、8月23日の処暑、 9月8日の白露くらいまでその感じが続いた。 9月23日の秋分を過ぎてしばらくした頃から気温が下がり出して、やっと一息だった。10月8日の寒露も気づかないまま過ぎてしまった。 旧暦を意識している時は、畑作業も継続してやれているし、散歩も充分に出来ているということだが、なかなか現実は思い通りにはいかない。だいぶ気温も落ち着いたので、旧暦を意識できる程度に過ごしたいものである。

生い茂った草を土に埋めて肥料に、一年くらいで大体土に戻る

 寒露は夜が長くなり、露が冷たく感じられる頃で、朝晩の冷え込みはきつくなるのが例年だが、今年はまだそれほどの冷え込みはない。空気が澄み、秋晴れの過ごしやすい日が多くなりそうである。

土に戻す草

 畑も始めたが、畑にいる時間が短いので、余り作業が進んでいない。台風で倒れかけた南瓜の柵も傾いたままである。端から少しずつ取り崩している。そのうち終わるだろうが。大根とブロッコリーと絹さやは去年残しておいた種を蒔き、レタスと小葱は買って来た種を蒔いた。芽(↓)が出始めている。少し大きくなった頃に植え替えられるように、肥料を入れる作業をしている。

 本当は不耕起農法が出来れば一番だが、気が短いせいか、肥料を入れて虫と闘いながらの作業である。家から出る生ごみと、生い茂る草を土には戻しているが。太い茎は一年経っても少し芯が残っているが、大体は一年もすれば土に戻る。

穴はもう少し深くして、土をかけ肥料を上に置く

希釈した酢で虫に嫌がらせをする程度だが、これが結構な手間である。11月になると虫の勢いが一気に落ちるので、その時に植え替えられるように準備しておきたいとは思っているが‥‥。

南瓜の柵の残骸、十月中に地面が見えるといいが‥‥

 柿もそろそろ色付き始めた。今年は生り年で500個近くなったが、すでに風で落ちたり、変に熟して落ちてしまったりしたのが50個ほどはある。それでも結構な数の実が残っている。熟したのを剥いて干してはみたが、重さに耐えかねて枝の根元が千切れてぼとりと何個かが落ちてしまった。それでも何とか15個(↑)がもうすぐ食べられそうである。今朝新たに17個をとりこんで、剥いて干した。2個がじゅくじゅくで干せなかったが、15個(↓)は無事にぶら下がっている。これで30個である。

2022/10/18現在合計30個、作業継続中

 今からが干し柿の本番である。最終的に干しあがるのが何個になるか、数でも数えておかないと‥‥、作業が嫌で煩わしいというわけではないが、どうやらそんな流れになっている。幸い晴れの過ごし易い寒露特有の天気が続く。

前の写真、今は少し色付きかけている

つれづれに

つれづれに:反逆の系譜

誰も奴隷になりたい人はいなかったわけだから、そこから逃れようとするのは自然の流れである。最初は一人で逃げたが、そのうち仲間が集まって一つの大きな動きを起こすようになった。それも南部の奴隷制で富を築いていた人たちの力加減による。

奴隷を所有し、自分は働かないで奴隷たちの生産物の上前をはねるのだから、当然富の偏り方は大きい。しかし、上前をはねられる方もただ黙っているわけではない。逃げる意志を持つ人たちは言葉を奪われ、世の中の事情を知らされない状況にいるので当初は現状から抜け出したい一心で逃亡したが、やがて禁じられている文字を知り、北部の噂も知るようになると、社会をある程度把握した上で逃亡を計画をするようになっている。それ自体、南部の寡頭勢力に対抗する勢力が間接的に影響して来たということだろう。奴隷制に保持されている奴隷の労働力を欲しがる対抗勢力が現れたのである。

奴隷貿易の資本蓄積によって産業革命を起こして産業化を歩み始めた産業資本家が力をつけ始め、アメリカ北部でも台頭してきたというわけである。その人たちは当然、メディアにも影響力を持っていた。奴隷解放を願う奴隷制廃止論者と奴隷解放という点では一致した。その流れが秘密組織「地下鉄道」を産んだ。もちろん、それは個人の逃亡と大きな蜂起の積み重ねの先に生み出された産物である。

ヒューズはそ叛逆の系譜の代表6人を時系列に「黒人史の栄光」(↑、“The Glory of Negro History,” 1964)の中に盛り込んでいる。ガブリエル・プロッサ―→ナット・ターナー→サジャナー・ツゥルース→ハリエット・タブマン→フレデリック・ダグラス→ジョン・ブラウンの6人である。ガブリエルとターナーとブラウンは同胞と共に体制に果敢に挑んで死んでいった。ツゥルースとタブマンとダグラスは北部に救い出されたあと、奴隷制廃止のために闘い続けた。

ガブリエル・プロッサ―(↓、Gabriel Prosser, c. 1775-1800)は1800年に反乱を起こした。南部の寡頭勢力の強かった時代だから、集団で動くのも難しかっただろう。黒人ガブリエルはヴァージニアで数千人の黒人男女が関わった反乱を組織した。しかし反乱が予定されていた日に大嵐と洪水のために計画が失敗に終わり、ガブリエルと約30人が処刑された。ハイチで成功した革命(1790-1803)ように、ヴァージニア州に黒人国家を樹立する計画だったと言われる。

ナット・ターナー(Nat Turner、1800-31)は1831年にヴァージニアで反乱を起こした。宗教心が厚く「神の声」によって奴隷解放の計画を進め、蜂起した。1日目に白人61人、黒人120人以上が犠牲になった。17人の奴隷が裁判にかけられ、2ヶ月後に本人も絞首刑になった。絞首台に連れて行かれる前に「ある偉大な目的のためだった」とターナーは言った。もちろん、その目的は自由だった。

ジョン・ブラウン(John Brown、1800-1859) は僅かに23人で、バージニア州の連邦政府の兵器庫を襲い、武器を奴隷たちに与えた。ブラウンは絞首刑になったが、奴隷帝国を根底から揺さぶり、奴隷に勇気を与え、奴隷主に恐怖を植え付けた。→(「モーゼ?」

サジャナー・ツゥルース(Sojourner Truth、1799-1883)は5人のこどもと生別したのち、単身奴隷主のもとから逃れ、北部各地で布教活動に励み、奴隷制反対運動を続けた。(→「そっとお行きよ」

ハリエット・タブマン(Harriet Tubman、1822–1913)はメリーランドの農園から一人で逃亡したあと、奴隷の領地に何度も戻り、親戚や友人を救い北部へ連れて行った。奴隷主から首に4万ドルの懸賞金をかけられ、一時アメリカで最も危険な女性と呼ばれた。自由への地下鉄道の偉大な車掌でもあり、南北戦争では北軍の従軍看護師・スパイでもあった。

フレデリック・ダグラス(Frederick Douglass、1817-95)は少年の頃に密かに読み書きを覚え、21歳の時にメリーランドからマサチューセッツへ逃亡した。そこで仕事を得て、解放運動に参加した。地下鉄道でも重要な役割を果たし、弁舌と文筆活動でも有名になった。後年には治安判事やハイチ大使も歴任している。著書も多く、ヒューズはダグラスの自伝の中から、奴隷監督から受けた鞭打ちの場面を載せている。「監督は私の所に突進して来て着ていた服を引き裂き、ゴムの木から切って来た重たい突き棒で私の背中を殴り続けました。殴られている間、血が流れっ放しでした。小指ほどのみみず腫れが背中に残りました。そこに居た最初の半年の間私は棒か牛革かで毎週鞭を打たれました。」そのあとダグラスは「逃げよう。失なっても人の命はひとつだけだ、このまま奴隷として生きて死んで行くなんてあり得ない」と決意して、逃亡した。

ヒューズはだだダクラスについて書いた後「おお、自由よ」の曲を挟んだ。

おお、自由よ

おお、自由よ! / おお、自由よ! / 我が頭上に自由よ! / そして奴隷になる前に、 / 墓に埋もれて / 天国の神さまの元へ行き、自由になるでしょう…..

OH, FREEDOM

Oh, freedom! / Oh, freedom! / Oh, freedom over me! / And before I’ll be a slave / I’ll be buried in my grave / And go home to my Lord and be free…

叛逆の系譜の6人の流れに沿って、「深い河」(→「深い河?」)、「下り行け、モーゼ」(→「モーゼ?」)、「ジョン・ブラウンの屍」、「共和国の戦いの賛歌」、「ジェリコの戦い」「そっとお行きよ」、「静かに軋れ、素敵な四輪馬車」、「年老いたライリー」などのたくさんの歌や奴隷体験記を織り交ぜながら、黒人同胞の苦難の歴史を優しい息遣い(→「慈しむ心」、→「寛容」)でヒューズは綴ったわけである。

(「黒人史の栄光」の編註者に送られた写真)

つれづれに

つれづれに:奴隷体験記

高校を辞めた時、退職金があった。74万円のどれだけを使ったかは覚えてないが、当時直接取り引きをしていたシカゴの本屋から奴隷体験記(Slave Narratives)を買った。第1シリーズ19巻の An American Slave(↓、第1巻)で、Greenwoodという出版社から分厚いハードカバーで1971年に出版されている。特に第1シリーズ19巻は手動タイプライター打ちのかなりの分厚さである。後に第2シリーズで12巻、第3シリーズで10巻が補足されて41巻の大作である。第1シリーズはたれている。

ヒューズは「黒人史の栄光」(↑、“The Glory of Negro History,” 1964)で私が既に「つれどれに」で書いた「深い河」(→「深い河?」)、「下り行け、モーゼ」(→「モーゼ?」)、「ジョン・ブラウンの屍」、「共和国の戦いの賛歌」、「ジェリコの戦い」「そっとお行きよ」、「静かに軋れ、素敵な四輪馬車」、「年老いたライリー」などの歌のほかにサジャナー・ツゥルース(↓、→「そっとお行きよ」)の奴隷体験記を紹介している。

An American Slaveは奴隷の体験記を集めたもので、フレデリック・ダグラスは中でも有名で、4巻本も含めたくさんの本が出ている。日本でも翻訳が出ていて、本田創造さんがフレデリック・ダグラスの生涯を描いた岩波ジュニア新書『私は黒人奴隷だった』も出ている。ヒューズは自分の書く「黒人史の栄光」の中に、名もなき元奴隷の物語をいろいろ紹介したかったのだろう。以下の女性の話もその一つである。

「一度大奥さまが言われたように家をきれいにしてたとき、私はビスケットを見つけました。とてもお腹が空いていましたので、私はビスケットを食べました。それまでビスケットのようなものを見たことがなかったから。奴隷にはとうもろこしパンとシロップしかありませんが、そのビスケットを食べたときに大奥さまが入って来て『ビスケットはどこ?』と聞きました。『奥さま、とてもお腹が空いてたので、ビスケットを食べました。』と私は言いました。そうしたら、大奥さまはほうきを掴んで口穢く罵りながら頭を叩き始めました。私はすっかり混乱してたんだと思います。もしものごとがわかっていれば、大奥さまと争うなんてしなかったと思いますが、私は大奥さまとやり始めました。そうしたら監督が入って来て私を掴み、九尾の猫鞭で私を打ち始めたんです。監督は私がほとんど気を失ないそうになるまで打ちました。背中を完璧にやられてしまいました。」("Once when I were trying to clean the house like Old Miss tell me, I finds a biscuit. l’s so hungry I et it, 'cause we never see such a thing as a biscuit. We just have corn bread and syrup, but when I et that biscuit and she comes in and say “Where is that biscuit?" I say “Miss I et it cause I’s so hungry." Then she grab that broom and start to beating me over the head with it and calling me low-down, and I guess I just clean lost my head, 'cause I knowed better than to fight her, if I knowed anything’t all, but I started to fight her, and the driver, he comes in and he grabs me and starts beating me with that cat-o’nine-tails, and he beats me till I fall to the floor nearly dead. He cut my back all to pieces.")(註:like Old Miss tell me:just as Old Miss had told me、low-down:ひどく、口穢く、clean:completely、lose one’s head:be upset, confused、’cause I knowed better than to fight her:because I would have known better than to fight her if I had known anything at all〔わきまえていたら争ったりはしなかったでしょうから。〕、 driver:slave driver 、driveは元々駆り立てるという意味で、奴隷を監督するのに白人の農園主に雇われた貧乏な白人が多く、残酷なことも厭わない人が多かったようである。cat-o’nine-tails:こぶをつけた9本の革紐を柄に通した、はたきのような鞭。仕置きする時に使ったようである。)

別の体験記である。

「奴隷が死んだときはその日のうちに埋められました。荷馬車で農園内の墓地に運ばれてました。深く穴を掘らなかったために禿鷹たちがやってきて死体を探しながら上空を旋回したものです。当時は死んだ人たちを弔う時間もありませんでした。」("When a slave died, they buried him duh same day. They’d cart 'em down to duh graveyard on duh place and didn’t even bury them deep 'nough so dat duh buzzards wouldn’t come circling 'round lookin’ for dere bodies. In them days they wasn’t no time for mournin’.")(註:duh same: the same day、lookin’ for dere bodies: looking for their 、In them days:In those days、they wasn’t no time:there was no time; they had no time)

「父は強い人で、一度も鞭打ちを受けたことがありませんでした。しかしある日、主人が『さあ、鞭打ちを受けてもらおうか。』と言いました。父は『今まで鞭打ちを受けたことがありませんから、私に鞭打ちはやれません。』と父は言いました。すると主人は『しかし、お前を殺せるぞ。』と言って父を撃ち殺してしまいました。母は小屋に父を連れて行き、毛布の上に横たえました。それから父は死にました。」("My papa was strong. He never had a licking in his life. But one day the master says, “Si, you got to have a whopping," and my papa says, “I never had a whoopin’ and you can’t whop me." And the master says, “But I can kill you," and he shot my papa down. My mama took him in the cabin, and put him on a pallet and he died.")(註:licking:whipping、whoop:鞭(whip)を受けること、Si:Yes, So.、Pallet:地面に敷いた掛け毛布のようである。)

「我が家!我が家は自由があるところですよ!子供たちよ、我が家は自由があるところ以外にはどこにもないよ。柔らかいベッドとおいしい食べものと暖炉に火があれば家は素敵なものになるかも知れないけれど、もしそこに自由がなければそれは我が家ではないんだよ。ボーイよ!あなたが奥さまのケーキを食べた母屋で泣いているのを聞いたことがあるよ。そうさ!そこには自由はないよ!(馬車の)御者よ!素敵な栗毛馬を走らせる御者席であなたが泣くのを聞いたことがあるよ!そこにも自由はないよ!ローズィ、あなたが可愛いからと奥さまがいないときにご主人があなたの手にそっと硬貨を忍ばせたときにあなたが泣くのを聞いたことがあるよ。お金は自由じゃないもの!火が消え、ベッドも硬く、パンも乏しく、仕事があるかも知れないしないかも知れないし、食べるものがあるかも知れないしないかも知れないし、そんな所、北部に住んでいるよ。」("Home! Home is where freedom is! Home ain’t nowhere, children, but where freedom is. The house can be ever so nice with a soft bed, and fine food, and fire in the fireplace – but it ain’t home, if it ain’t where freedom is. Houseboy! I hear you cryin’ in the Big House where you eat the Missus’ cake. Huh! Freedom ain’t there! Coachman! I hear you cryin’ on the carriage seat where you drive them fine bays. Freedom ain’t there! Rosie, I hear you cryin’ as the master slips a coin in your hand when the mistress ain’t lookin’ – because you’s pretty. Money ain’t freedom! I live where the fire is out, where the bed is hard, and the bread is scarce, and maybe you work, and maybe you eat – and maybe you don’t – the North.)(註:Home ain’t nowhere, . . . but. . .:nothing but. . .; nobody but. . .の場合と同じbutの使い方。ain’t (is not) nowhereは二重否定ではなく単なる否定を意味する。教育レベルの低い人たちの英語にはこういう否定の使い方が多い、the Big House:旧南部農園主の普通は白亜の大邸宅。お館(やかた)とか母屋(おもや)、Missus’:Mrs.=Mistress奥さま、drive them fine bays:drive those fine bays このようなthemの使い方は俗語や方言に多い、because you’s pretty:because you’re pretty)

「しかしそこには自由があるよ!いきたいと思う?そう行きたいでしょう。私の行くところには自由があるよ、いっしょに来なよ、沼地を越え湿地を抜け、猟犬を連れた監督たちを逃れ危険を乗り越え、死さえも乗り越えて。自由はそこにあるよ!私といっしょに来なよ!」("But freedom is there! Do you want to go? I know you do – freedom is where I’s gwine! Come with me – through swamp, through mire, past patter-rollers with their bloodhounds and dogs, past danger, past even death. Freedom is there! Come with me!")(註:I’s :I’m going、patter-rollers:patroller <patrol man> 警ら係。奴隷の逃亡を防ぐための巡視や監視の役目を受け持つ。大農園にはdriver(直接現場監督)やoverseer(管理監督)などの職階があり、主に貧乏な白人[プアホワイト]が雇われた。)

たくさんの人が北部の「地下鉄道」によって南部から救い出された。命を危険を顧みずに南部に戻って奴隷たちの救出活動に携わった人もいるし、北部で体験記を書いた人もいる。奴隷体験記には、直接自分でかいたもの、聞き書きを人に編集して書いてもらったもの、小説や物語風にしたものの三つに大別されるようである。文学的に昇華されているかどうかは別にして、貴重歴史記録である。

ハリエット・タブマン

体験記41巻を買い込んで読んでいろいろ書くつもりだったが、「MLA」(米国近代語学会)の発表でアフリカの作家(→「ラ・グーマ」)をすることになってからは、雑誌の記事や大学のテキストや翻訳や著書を次々と言われて、体験記を読めないまま定年退職してしまった。退職後も「アングロ・サクソン侵略の系譜」(→「アングロ・サクソン侵略の系譜一覧」、2018年12月29日~2022年3月20日)で科研費を交付され、その後も可能なら、その流れで奴隷体験記とアフリカのエイズの小説19冊で続けるつもりだったが、契約を打ち切られたのでこのままになりそうである。元々大学には小説を書く時間を求めて辿り着いたので、本当のところは、体験記をやっている時間は残されていない、と思う。

たくさんの歌や奴隷体験記の中にも、ヒューズの優しい息遣い(→「慈しむ心」、→「寛容」)が感じられる。

(「黒人史の栄光」の編註者に送られた写真)

つれづれに

つれづれに:年老いたライリー

 ヒューズは詩人だが、小説や自伝、児童書や民話、劇やミュージカルの台本、フォト・エッセイやドキュメンタリーなどかなり広範囲の作品を残している。この「黒人史の栄光」(↑、“The Glory of Negro History,” 1964)でも物語風の歴史のなかにたくさんの詩や歌や奴隷体験記などを盛り込んでいる。「深い河」「下り行け、モーゼ」「ジェリコの戦い」「そっとお行きよ」はすでに紹介したが、別のスピリチャル「静かに軋れ、素敵な四輪馬車」と「年老いたライリー」の2曲についても書いておきたい。表だった歴史には残らないような奴隷の話と歌である。ここでも白人の歌詞「天国に」(home)は奴隷たちには自由の地(to the North, to freedom)で、四輪馬車(chariot)は自由の地、北部に運んでくれる四輪馬車(the chariot of freedom)だった。

静かに軋れ、素敵な四輪馬車

素敵な四輪馬車よ、静かに軋れ / そして私を天国に連れて行っておくれ。 / 静かに軋れ、素敵な四輪馬車 / 私を天国に連れて行っておくれ・・・・・

SWING LOW, SWEET CHARIOT

Swing low, sweet chariot,  / Comin’ for to carry me home. / wing low, sweet chariot / Comin’ for to carry me home…….(註:Swingは命令形。Comin’ for to carry me home= Coming to carry me home)

後に、北部に逃亡した人たちが、組織的に協力して南部に戻って戻って奴隷を北部に運ぶようになっていくが、最初は一人で逃げた。そんな逃亡奴隷の一人を歌い、語り継がれている歌が「年老いたライリー」である。「とうもろこし畑を七面鳥のように」逃げたライリーという名前の奴隷と臭いを嗅げないラトラーという名前の猟犬についての歌で、言い方は悪いが、何となく軽快で、微笑ましい感じの曲である。しかし実際には、逃げる老人も猟犬も命がけだ。

年老いたライリー

ライリーは川を渡った。 / こっちだ、ラトラー、こっちだよ! / 年老いたライリーは川を渡った。 / こっちだ、ラトラー、こっちだよ! / ライリーはとうもろこし畑を七面鳥のように行ってしまった。 / こっちだ、ラトラー、こっちだよ! / ライリーはとうもろこし畑を七面鳥のように行ってしまった。 / こっちだ、ラトラー、こっちだよ! / 年老いたラトラーは私が角笛を吹くとやって来る。 / こっちだ、ラトラー、こっちだよ! / 年老いたラトラーは私が角笛を吹くとやって来る。 / こっちだ、ラトラー、こっちだよ! / プゥーッ、プゥーッ、プゥーッ! / こっちだ、ラトラー、こっちだよ! / プゥーッ、プゥーッ、プゥーッ! /
こっちだ、ラトラー、こっちだよ…

OL’ RILEY
Riley walked de water. /  Here, Rattler, here! /  Ol’ Riley walked de water. / Here, Rattler, here! / Riley’s gone like a turkey through de corn. / Here. Rattler, here! / Ol’ Riley’s gone like a turkey through de corn. / Here, Rattler, here! / Ol’ Rattler come when I blow my horn. / Here, Rattler, here! / Ol’ Rattler come when I blow my horn. / Here, Rattler, here! / Tootl Toot-toot! / Here, Rattler, here! / Toot! Toot-toot! / Here, Rattler, here . . .(註:OL’ RILEY=Old RILEY, walked de water=walked across the river)

「静かに軋れ、素敵な四輪馬車」はテネシー州のある黒人女性が歌い出したといわれる。スピリチュアルの一つで、テネシー州のフィスク大学で1870年代に活動していた「ジュビリー・シンガーズ(↓、the Jubilee Singers)」によって広められたスピリチュアルの一つである。ウェブでもたくさんの資料や動画がたくさん紹介されている。フィスク大学は有名な黒人大学で、黒人研究の会でいっしょだった人が、在外研究のために滞在していたと聞いたことがある。

 「年老いたライリー」は資料も少なく、リード・ベリー(↓、Lead Belly)の曲が聴ける程度である。当時はもっと人に歌われていた曲だろう。『有名なアメリカの黒人』、『有名なアメリカの黒人音楽家』、『有名なアメリカ黒人の英雄』という自伝も書いているので、数多くの歌や話の中から「黒人史の栄光」の中に相応しい曲を選んだわけである。ヒューズの優しい気持ちが伝わって来る。