つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:大阪工大非常勤

 1983年4月から始まった大阪工業大学(↑)での非常勤の意味をその時はそう深くは考えなかったが、履歴書を書くときにその重要性がわかるようになった。大学を応募するときに提出する履歴書には学歴、教歴、業績が不可欠だからである。教員再養成の大学院にしろ形式的には教育学修士と記入出来るし、教歴の欄には大阪工業大学一般教育英語科非常勤講師と書ける。先輩の助けを借りて、まだ少ない業績と教育学修士の書類で非常勤にしてもらい、大学の教歴が始まったというわけである。どの博士課程でも受け入れてもらえないのだから、それしか大学の空間を確保する手立てはない。

 大学も「夜間課程」(↑、3月28日)だったので、夜間の非常勤にはまったく抵抗はなかった。ただ、大学での授業は初めてだったし、工学部とも全く縁がなかったので、自分で考えてやるしかなかった。自分が嫌だったものを人に押し付けるのも嫌だし、映像や音声もたくさん使って英語に馴染めない学生も楽しめる方がいい、自分に関係あるものを選ぶ方が力が入るし、準備もし易い、などを考えると、修士論文で文学作品を理解するために辿ったアメリカ黒人の歴史がよさそうである。大学の時は関心がなかったので眺めるだけだったが、購読の時間に使った詩人のラングストン・ヒューズが書いた黒人の歴史(↓)がいい。本人が朗読したLPから拵えてもらったカセットテープもあるし、テキストの合間に黒人音楽も挿入されている。それで行くことにした。

 工学部なので専任なら学生の必要性を考えて工業英語(Technical English)を担当したかも知れないが、私が担当したのは一般教養科目の英語である。今もそうだが、専任より非常勤の方が経済的に安く済むという経営者側の論理でどの大学も非常勤をたくさん採用していた。当時は文部省の縛りで英語の必修単位数自体が多く、それだけ英語の非常勤講師も必要だったという事情もあった。私学だけでなく国公立大学でも非常勤は多そうだった。非常勤率が9割を超えている大学もあったと言われていた。後にその大学に行くことになったが、お昼休みにベンチで座っていたら、隣のベンチにいた学生が「わいABCもわからへんねん」と言ってた。行く前に噂で聞いたことはあったが、ほんとやったんやと変に感心した。非常勤を引き受ける時の雇用条件が、ネクタイを締める、出席半分で単位を出す、の二つだったので、なるほどと得心してしまった。非常勤率9割以上と言われても、そやろなあと頷くしかない。その大学で入試問題が漏れたと問題になったことがあったが、何が問題なのかさっぱりわからなかった。地元の学生は大学の名前を言いたがらなかったと聞く。
大阪工大はそんな大学ではなく、学生はいたって真面目で、優秀な人もたくさんいたようだ。ただ、工学部全般では英語の苦手な学生が多いようで、その点は授業の時に感じることがあった。全員と個人的にしゃべったわけではないが、「英語が出来てたらいちだい(大阪市大)かふだい(大阪府大)に行ってたのに」という学生も結構いたように思う。
非常勤を引き受けた英語が教養科目で助かった。自分で何をするかを決めればよかったからである。もちろん購読も個人的にはどちらかというと好きだし、人の教科書を使って短い時間に採点出来る試験問題を作るのが一番簡単ではある。周りも大抵はそんな感じの人が多かった。パソコンやプロジェクターを使う時代ではなかったので、尚更その傾向が強かったように思う。しかし、思わず大学の授業を持つことになったとは言え、自分が嫌だったことを人に強要するのも嫌だし、本来言葉は話したり、聞いたり、読んだりして楽しめるものだから、自分も楽しめるように、そんな工夫をすることに決めていた。アメリカに行ったおかげで、英語への抵抗感もだいぶ減ったし、授業が英語を使ういい機会になりそうである。使えれば、役に立つことがあるかも知れない。
大阪工業大学(↓)ではLL(Language Lavoratory)教室を使わせてもらった。非常勤では授業をして帰るだけの場合が多いのだが、教室にいた補助員の学生3人とも仲良しになり、気軽に過ごせる居場所になったのは有難かった。その出会いが、予期せぬ宝物となった。
非常勤講師料だが、たぶん1時間が8000円、1コマは100分2時間換算で16000円、毎月3コマ分48000円が振り込まれた。一年目の収入である。聞いた話を総合すると、私学はす毎月払いで、関西の私学が一番非常勤講師料が高かったようだ。その後何個所頼まれた大学の中では1コマ24000円の桃山学院大学が一番よかった。2万円を切っていたのは大阪工大だけだった。理科系は設備費に予算を食うからというもっともらしい理由である。関西では大阪経済大学が一番高いやろ、紀要を書いても補助金がでるくらいやから、と誰かが言っていた。月額48000円が始まりだったが、充分に有難かった。機会をくれた先輩に、感謝である。
次は、LL教室、か。

つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:大学院入試3

 考えれば4度目の大学院入試だった。前回3回は修士課程(→「大学院入試」、5月10日)、→「大学院入試2」、6月10日)、今回は博士課程である。修了前に三つ、次の年にも一つを受験して、また落ちることになった。大学入試6つ、修士2つと合わせて12回も不合格で、不合格通知も届かなかった気がする。高い受験料を払っているのだから、通知くらいは出してもいいのにと思うが、受験する側が弱いのが通例らしい。日本では、正確には当時の日本では、大学院入試は独特の慣例的な制度、と言えば聞こえがいいが、つまりはずっーと続いてきたなあなあの馴れ合いの制度があったようで、知らなかっただけの話である。今も基本的に変わっているようには思えないが。後に大学院を担当する立場に立ってその実態を知るとは、その時点で思いが及ぶはずもなかった。高校の教員を辞めたものの、博士課程も受け入れてもらえそうにない、あとは人との繋がりとその時に必要な教歴と業績を準備出来るか、のようだった。先輩には教歴を頼んだものの、この時点では先行きはまったくの不透明、まさに途方に暮れるという表現が相ぴったりだった。

 人が多く集まるだけあって、関西は東京に次いで何ごとにつけても選択肢の幅が多い。博士課程の場合も、文学部系統なら旧帝大系も含めて4つ選択肢がある。その三つを受けた。一つは先輩から話のあった大学、あとの二つの学部もそれなりに入学が難しい部類で、博士課程を出れば、大学の口は世話してもらえそうな大学だ。先輩から話を聞いて、ある日その人が勤務する甲南女子大学(↑)を訪ねた。校門でもみくちゃにされた(→「分かれ目」、6月11日)因縁の大学だ。まさか違う形で校門をくぐるとは思わなかったが、閑静できれいなキャンパスだった。研究室で話を聞いた。また、あちゃーである。いやに高圧的だった。「博士課程に行きたかったら、十年は聴講に通うしかないな。私も働きながら十年かかったから」要約すると、そういうことだった。心が動かなかった。そうまでして、という気持ちが先に立った。その後、先輩が気を遣って新年会に夫婦同伴で誘ってくれたが、やっぱりその人に合わせる気になれなかった。外から博士課程を受験しても受け入れられるわけがない、ということのようで、受験料も払い、10枚の概要もつけた修士論文と併せて書類を提出し面接も受けたが、すべて意味のないことだったらしい。他の二つの大学も同様で、面接を受ける前後で、招かれざる客であると強く感じた。学内の顔見知りの学生と私のような外からの学生に向ける視線があからさまに違ったからである。私のゼミの担当者はそんな事情を知っていたのか、知らなかったのか。丁寧な推薦書を丁寧な字で4つも書いてくれたが、その英国紳士風を心でどう受け止めればいいのか。次の年も懲りずに、今回は、非常勤をしながら週に1、2度新幹線で通うつもりで、東京の自由な学風で知られる私学を受験した。たまたま、先輩が世話をして同じ英語科で当時講師をしていた同僚が、私の受験した私学の政治経済学部の教授になっていたので、先輩から非公式に試験結果を調べてもらうことが出来た。修士論文と英文購読は80、第2外国語は50が合否の基準で、私は修士論文が82、第2外国語が72、英文購読が20だったそうである。問い合わせがあっても準備万端というわけである。「外部からはそれなりの方法を講じない限り何度受験しても無駄ですのでご注意下さい。出来れば、受験自体をお控え下さい」と受験要綱に記載するわけにもいかないか。それでは受験料が入らないか。院の受験料も馬鹿にならない、筈である。
28年いた医学科は臨床医になる人が多く、基礎医学専攻の場合でも他大学への院進学は閉鎖的ではないので推薦書を書くくらいの関わりしかなかったが、退職後の再任用では名古屋大と広島大に進学する人に、予め直接担当者に会って話を聞いてもらうように強く勧めた。名古屋大と広島大なら、大学の空間を確保できる可能性は高い。博士課程の入試でも、嫌な思いをしなくて済む。時代や学部にもよるとは思うが、どうも入試との相性がよくなかった、らしい。
その後しばらくして、先輩から「4月からの工大(↓)での非常勤、決めといたで。一年目は取り敢えず夜間3コマやけど、それでええか。履歴書も書いといてや」という電話があった。
次は、大阪工大非常勤、か。

大阪工業大学(ホームページより)

つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:修了と退職

 一昨日から小暑(しょうしょ)、梅雨が明け、暑さが本格的になる頃で、今年は7月7日から、23日の大暑までの期間らしい。アゲハチョウや鰻に七夕の季節である。昨日は久しぶりにいつものコースを歩いて来た。歩くのが基本やなあと思いながら気持ちよく歩けた。その途中の「急傾斜崩壊危険個所↑」(→「 歩くコース1の④」、2021年7月11日)の近くでアゲハチョウを三匹別々に見かけた。陽射しが強かったが、先週、木崎浜の帰りにアキアカネがたくさん飛んでいるのを見かけた。季節は確実に移り変わっていて、すぐに秋が来そうである。台風4号で少し生活のリズムがおかしくなったが、大した影響もなく済んでくれたので、ほんとうに助かった。

 修士論文は提出が締め切り日ぎりぎりになってしまったが、受け付けはしてもらえたので、当初の目的は果たしたわけである。あとは、高校(↓)に行き、校長に退職を願い出て認めてもらうだけだった。早めに校長室を訪ねた。教職大学院に行く前の5年間、いろいろと好き勝手を許してくれた校長の鉄ちゃんが、入学の前の年に退職でいなくなっていたので、初対面の校長だった。

 鉄ちゃんはいなかったが、守ってくれた元担任の教務主任は健在で、気持ちの上では心強かった。「管理職」そのままの校長の顔を見たとたん、あちゃーと思ったが、話を聞いて「大学で頑張って下さい」とすんなりと認めてくれた。再養成の期間が終われば、元の学校に戻るのが前提で、県の教育委員会が推薦し、県から給与も出ているいるわけだが、当時は教員採用試験の倍率もそこそこあったし、辞める教員がほとんどいなかったので、比較的スムーズに辞めることが出来たんだと思う。次の職場の予定の目途も立たないのに、辞める人もいなかったらしい。とにかく、大学の職を探すための最低条件の修士号の取得と高校の退職は、無事クリア出来そうである。
嫌なことは可能な限り避けるという範疇に式の類も入っていたので、県からの派遣で勤務日にあった式にも出なかったが、修了式(↓)と英語分野の懇親会にも出てしまった。ゼミの担当者に博士課程の推薦書を依頼する必要もあったし、ゼミ生が二人なので、避けようがなかったという事情もある。それに、英語分野の人といっしょにいても嫌な思いをしないで済んでいたので、自然に、顔出ししとくかという気持ちになった。

 3人を家に招待してお昼を食べたこともあるし、修了してしばらくは音信があった人もいたし、公立中学で英語で授業をしていた52歳の「同級生」には、後日、東京の自宅まで訪ねて英語訳の相談に乗ってもらったりもした。予想通り、よく出来る人だった。日曜日に押し掛けて、長時間付き合ってもらった。休日までお父さん大変そう、大丈夫かなという感じでお茶を運んで来てくれた娘さんの表情を見て、申し訳ない気持ちで一杯になった。自分の書いたものを英訳して、ファーブルさんに見て欲しかったとは言え、それほど切羽詰まっていたからだと思う。人に助けてもらってばかりの、恥ずかしいことだらけの人生である。
次は、大学院入試3、か。

つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:修論あれこれ

 修士論文の提出がぎりぎりになってしまった。入学してすぐにテーマと読む作品も決め、夏にはアメリカに資料探しに行ってめぼしい資料は手に入れ(→「ニューヨーク」、→「古本屋」、→「ハーレム分館」、→「ハーレム」、6月21~24日)、戻ってからはずっと書き続けていた。しかし、提出日前日は徹夜になり、当日大学には、事故を心配してタクシーで2時間ほどかけて行くことになってしまった。1982年の1月31日の夕方のことで、仕上がった修士論文は “Richard Wright and His World” である。

青山書店大学用教科書

 修士論文では、中編「地下に潜む男」(↑、"The Man Who Lived Underground," 1944)を軸に、中編以前の3作品とそれ以降の3作品を分析して、ライトがアメリカ社会に蔓延(はびこ)る白人の人種主義に対する抗議一辺倒から、より普遍的なテーマを求めて推移していったことを論証した。(→「リチャード・ライトの世界」、2019年5月20日)

 一次資料の7編に加えて、二次資料の伝記や新聞や雑誌の書評やアメリカ人の書いた博士論文なども含めて、読む量が半端ではなかった。7編はじっくりメモも取りながら何回も読んだが、それぞれ大変だった。短編集『アンクル・トムの子供たち』(↑、Uncle Tom’s Children, 1940)の子供や死後出版『ひでえ日だ』(Lawd Today, 1963年)の青年の会話の「黒人英語」に手こずってしまった。『アメリカの息子』(↓、Native Son, 1940)は大冊でもわくわくしながら一気に読めたが、同じくらいの大作『アウトサイダー』(The Outsider, 1953)と『長い夢』(The Long Dream, 1958)は、少々観念的過ぎて、読むのにも難儀した。

 伝記はライトの作品よりも更に分厚く読むだけでも大変だったが、ファーブル(Michel Fabre)さんの『リチャード・ライトの未完の探求』(The Unfinished Quest of Richard Wright, 1973)には、気持ちの上でも実際的にも一番お世話になった。その時点で、将来直接お会いする機会があるとは夢にも思っていなかったが。(→「リチャード・ライト死後25周年シンポジウム」、2019年3月13日)しかし、この修士論文を納得いく形で書けたのは、ファーブルさん(↓)のお陰である。

 ワープロもパソコンもない時代である。神戸の高架下で手動のタイプライター(↓)をたぶん一万五千円で買って、ゼミの発表の時に使った記憶がある。初めはそのタイプライターと白の修正液を使っていたが、途中からはちょうど出始めた電動タイプライターを買って修士論文を仕上げた。白の修正テープも役に立った。

 買った当初はキーを見ないで打ついわゆるブラインドタッチもやってはみたが、いまだに出来ないままである。締め切り間際にはずっと座ってキーを叩いていたが、それでもぎりぎりだった。二人目の子供が生まれたのが十月の金木犀の香る時期で、母親代わりをさせてもらったおかげで、二時間おきにミルクを飲ませながら、タイプを打つことになった。もちろん子供が覚えているわけもないが、電動タイプライター(↓)のぎこちないリズムが子守歌になっていたかも知れない。
次は、修了と退職、か。大学院の修了と高校の退職が重なった頃の話である。