つれづれに

つれづれに:ジンバブエ1860

旧暦では寒露が終わり、今日から霜降(そうこう)である。だいぶ気温も下がり、虫の勢いも弱くなりかけている。柿を干し終えたら、冬野菜の植え替えだ。霜降は、朝晩の冷え込みがさらに増し、北国や山里では霜が降りはじめる頃である。露が霜に変わり、冬が近くなる。宮崎ではその時期が少しずれてはいるが、冬がそこまで来ているのは確かなようだ。昨日は畑から蓼(↑、たで)と露草と杜鵑(ほととぎす)を摘んで来た。朝咲いていた露草は枯れている。花の命は短くて、そのままである。

リンカーンが大統領になった1860年がアメリカ史の大きな流れの潮目(→「米1860」)だったかも知れない、日本もひょっとして‥‥と考えて確かめてみたら、井伊直弼が殺された1860年が大きな歴史の流れが変わる潮目(→「日1860」)だったような気がして来た。それから、南アフリカではダイヤモンドが発見された1867年が大きな潮目(→「南アフリカ1860」)のようで、日米より7年あとだった。今回はジンバブエ(↑)である。

在外研究でジンバブエに行った。医大は専任だったので、非常勤の時と違って研究室もあり、国立大だったので在外研究もあった。「MLA」では「ラ・グーマ」で発表したので、書くのも南アフリカについてが多かったし、英語の授業でもアフリカや南アフリカの歴史を中心にいろいろな問題を取り上げるようになっていた。アメリカの時と同じく、アフリカに一度は行ってみないと気が引けるなあと感じ始め、在外研究でアフリカに行く気持ちになっていた。ラ・グーマの生まれたケープタウン(↑)に行きたかったが、文部省に申請した1991年は微妙な年だった。1990年にマンデラは釈放されたものの経済制裁の継続を要請していたので、白人政府と手を組んで甘い汁を吸い続けながら、表向きは世論を気遣って文化交流の自粛措置を取っていた日本政府の文部省は、国家公務員の私に南アフリカでの在外研究の許可を出さなかったのである。

結局、かつて「南アフリカの第5州」と言われた北隣のジンバブエに短期で3ケ月、家族と一緒にいくことにした。その頃、授業では毎年アメリカ映画「遠い夜明け」を見てもらっていたので、その中に出て来る赤茶けた大地(↑)を見に行こうと気持ちを切り替え、首都ハラレにあるジンバブエ大学(↓)に行った。南アフリカでは映画が作れなかったので、よく似たジンバブエがロケ現場に選ばれていた。

ジンバブエ大学教育学部棟

行く前と帰ってから滞在記を書く際に、ジンバブエの歴史関連の本を読んだ。主に「ハーレム」で入手した『アフリカの闘い』(↓)とジンバブエの小学校と中学校の歴史の教科書を拠り所にした。もちろん、バズル・デヴィドスンの「『アフリカシリーズ』」もである。

この500年ほどの間にアングロサクソン系の侵略を受けた国はどこも酷いものだが、ジンバブエも相当なものである。ある日、南アフリカのケープ州から第2の金鉱脈を当て込んで私設軍隊が乗り込んできて、期待したほどの金鉱脈がないとわかると、そのまま入植者とともに駐留し、アフリカ人から土地と家畜を奪って居座ってしまったのである。駐留した辺りを中心に南アフリカのヨハネスブルグに似た町を作った。それが私が家族と滞在した首都のハラレである。その年が1890年である。日米の潮目1860年から30年後であった。

1860年はどんな状態だったのか?在外研究で世話になった英語科の教員ツォゾォさんへのインタビューからの推測である。

ツォゾォさん(↓)は私より2歳上で1947年の生まれである。南東部の小さな村で生まれた。ヨーロッパ人の侵略で昔のようにはいかなかったが、ツォゾォさんが幼少期を過ごした村には、伝統的なショナの文化がしっかりと残っていた。サハラ砂漠以南の他の地域ではどこもよく似た統治形態をとっていて、ジンバブエも、同じ祖先から何世代にも渡って別れた一族が一つのまとまった大きな社会(クラン)を形成していた。一族の指導的な立場の人が中心になって、村全体の家畜の管理などを取りまとめていた。ツォゾォさんはモヨというクランの指導者の家系に生まれて、比較的恵まれた少年時代を過ごしている。村では、12月から4月までの雨期に農作業が行なわれ、野良仕事に出るのは男で、女性は食事や子供の世話などの家事に専念した。女の子が母親の手伝いをし、男の子は外で放し飼いの家畜の世話をするのが普通だった。ツォゾォさんも毎日学校が終わる2時頃から、牛や羊や山羊の世話に明け暮れた。

事務員の人と事務室前で

1860年はおそらく前の世代から延々と続くそういった生活を送っていたようである。1890年に南アフリカの入植者が来て、激変した。百年後、私はジンバブエ大学に滞在した。大学は元白人用で1980年の独立後アフリカ人の数が増え、滞在時、90%がアフリカ人(ショナ人が70%、ンデベレ人が30%)だった。3ケ月足らずしかいなかったが、授業も英語で行われ、アフリカ人同士が英語で話をしている光景が当たり前になっていた。1992年、南アフリカの入植者が来てから僅か百年余り後のことである。侵略者の言葉を多くの人が使うようになっていた。もちろん、ショナ語を話せない私もアフリカ人と英語で会話をした。侵略されるとはこういうことだと肌で感じると同時に、搾り取る側の先進国にいる自分の立場を突き付けられて、滞在中ずっと息苦しかった。帰りにパリ(↓)で一週間を過ごしたが、ほっとする自分が悔しかった。

泊ったプティホテルの屋根裏部屋から

大学(↓)に報告記事を二つ書いた。(→「海外研修記『アフリカは遠かった』」、→「海外滞在日誌『ジンバブエの旅』」

宮崎医科大学(ホームページから)

つれづれに

つれづれに:南アフリカ1860

 色付いてきた柿を昨日は夕方までの第1弾で35個、夜に第2弾で21個、合計56個剥いた。既に出来ていた15個と出来かけの15個を足すと86個まで行ったわけである。最初の15個は取り入れ、きれいに洗って熱湯消毒して拭いた。一部は大根とのなますになっている。「サラダ感覚で食べてね」「細かく千切ってヨーグルトに入れて食べたよ」と妻は言っていた。糖分を一定分しか摂れないのでたくさんは食べられないが、大事に食べようとしてくれている。「手間がかかってるからね‥‥」と言っていた。作業はまだ続く。

 ヒューズの「黒人史の栄光」(↓、“The Glory of Negro History,” 1964)を教科書に使ったお陰で、1860年がアメリカ史の大きな流れの潮目だったかも知れないと考えるようになった。

 そのあと、日本もひょっとして‥‥と考えて確かめてみたら、井伊直弼(↓)が殺された1860年が大きな歴史の流れが変わる潮目だったような気がして来た。それでは、ヨーロッパは?アフリカは?南アフリカは?そう思いついて他も考えてみることにした。元々アメリカ史もアフリカ系アメリカ人作家の小説がわかるようにと辿り始めただけだったので、歴史そのものに関心が高いわけでもない。何十年間で南アフリカとコンゴとケニアとガーナとジンバブエの歴史、それも僅かに一部を辿っただけだ。その範囲で、と限定して考えることにした。先ずは南アフリカである。

 南アフリカにオランダが来たのが1652年である。江戸時代が始まってから半世紀ほど後である。南アメリカや中央アメリカでやりたい放題をしていたポルトガルは拠点を作って東アフリカや東南アジアに進出していた。自国のマンパワーの非力を自覚していたということだろう。すぐ北のアンゴラの後の首都ルアンダにすでにポルトガルが拠点を作っていたので、オランダ人はそこを避けて南の一番端の南アフリカのケープ地方(↓)に来て、定着してしまった。最初は東南アジアに進出していた東インド会社の中継地のために立ち寄っだけだったが、オランダ人入植者はそこにいた狩猟民サン人や農耕民のコイコイ人を奴隷にして農園で働かせるようになった。もちろんその時の社会基盤は農業だった。

 次いでイギリス人がやって来た。植民地争奪戦の激しかった時期で、フランスと激しく争っていた。アジア航路の要衝南アフリカをフランスに押さえられる前にと、イギリスはケープに大軍を送った。1795年のことである。奴隷貿易の資本蓄積で産業革命を起こした西欧社会は産業社会に突入していた。従って、農業が軸のオランダがすでに支配していたケープに、産業が軸のイギリスが大軍を送ったわけである。オランダ系入植者アフリカーナ―は当然抵抗するが、勝負は目に見えている。権力闘争に負けたアフリカーナ―の富裕層は家財道具を牛車に乗せて内陸部に移動した。1833年である。当初従属させたサン人やコイコイ人より文化の程度が高かったアフリカ人と衝突してアフリカーナーは苦戦するが、それでも何とか19世紀の半ば頃には、肥沃な土地を有する海岸部の2州ケープ州となタール州をイギリス人入植者が領有し、内陸部の2州ととオレンジ自由州のアフリカーナ―の領有をイギリスが認める形で収まった。

 しかし、1867年にオランダが領有するオレンジ自由州のキンバリーでダイヤモンドが、1886年にトランスバール州で金が発見されて、事態は急変した。鉱山権を巡ってイギリス人とアフリカーナ―は壮絶な戦いをするが、アフリカ人を搾取する一点で妥協し、1910年に南アフリカ連邦を作ってしまった。互いに銃を持っているので、相手を殲滅するには双方合わせて13%の人口は少な過ぎて戦いを続ければ、囲まれている87%のアフリカ人にやられて共倒れするのを自覚しながら殺し合っていたのである。昔から自給自足の生活を続けていたアフリカ人は、突然ヨーロッパからやって来たオランダ人とイギリス人に土地を奪われ、産業社会で需要の高い鉱物資源を狙われ、効率よく搾り取れる巨大な短期契約労働機構の中に組み入れられて、安価な労働力としてこき使われるようになってしまったのである。

ダイヤモンドの露天掘り(バズル・デヴィドスン「アフリカシリーズ」より)

 もし金とダイヤモンドが発見されていなかったら、その後の急速な展開はなかったかも知れない。オランダにもイギリスにもケープはアジアへの中継地にしかすぎなかったし、南アフリカ自体はさほど重要ではなかったからである。なまじ鉱物資源が極めて豊富だったために、工業諸国の恰好の餌食になってしまった。ありとあらゆる鉱物資源にめぐまれているコンゴと同じである。

ゴムの採取を強要されるコンゴ人(バズル・デヴィドスン「アフリカシリーズ」より)

 そう考えると、南アフリカの潮目は金が発見された1867年のようである。日本とアメリカの1860年より7年後のことある。

1960年代のヨハネスブルグの金鉱山「抵抗の世代」より

 南アフリカの歴史は少し齧った。ライトの小説を理解するためにアフリカ系アメリカの歴史を辿ったのと同じである。「ライトシンポジウム」で出会った人から「MLA」に誘われたとき、出来ればアフリカの作家で発表して欲しいと言われ、「ラ・グーマ」を選んだ。発表するためには基礎的な歴史も必要だった。歴史についてはバズル・デヴィドスンの「『アフリカシリーズ』」「ハーレム」の本屋さんで手に入れたThe Struggle for Africaを軸にした。

 医大に来てから講演を頼まれて、南アフリカの歴史とアパルトヘイトの話をさせてもらう機会もあった。(→「アパルトヘイト否!」「海外事情研究部」、→「歯医者さん」)全学(↓)の教養の授業では「南アフリカ概論」をたくさん持ったので、ずいぶんと歴史も鍛えられた。半期945人、1クラス542人が教養授業の記録で、定年退職後の話である。授業最後の年は、ズームで「南アフリカ概論」3つを同時開講した。コロナで前期に1年生が大変そうだったからである。100人を超えるズームのいい経験をさせてもらった。退職後の6年間、工学部の人はほぼ全員「南アフリカ概論」を取ってくれていたようである。ただ、1年にたった1コマ持っても「どうして専門の自分が教養科目を持たないといけないのか?」と文句を言う多くの教員と、「教養はおもしろくないし、必要性も感じない」と教養を軽視する学生の狭間で、「よくもまああれだけようさん持ったもんだ」と思うと同時に、自分自身の馬鹿がつく人の良さとあほさかげんに呆れるばかりである。終わってしまえば、何とでも言える。

つれづれに

つれづれに:日1860

柿(↑、↓熟す前)が一気に色付いてきた。短い期間に作業をしないと実が崩れる可能性はあるが、先ずは5つずつである。先は長い。ずいぶんと気温も下がってきたし、雨が降らないでいてくれそうなので、何とか干し柿が出来そうである。生り年につき、お裾分けも充分、連絡があればいつでも送付可である。今年は暑さのせいか、熟し方がおかしいので、剥く時にぐちゃぐちゃになったり、吊(つ)るすための枝の支えの部分が重さで耐えられなくて落ちてしまう柿が50個ほどあった。それに比べて、今から取り込むのは例年通りの熟し方で、剥く作業も例年通りで、助かる。タスカルの原理である。

非常勤(「大阪工大非常勤」ほか多数、医大に来る前年は16コマ)と医大の1年目(医学科4クラスと後期非常勤農学部2クラス)の6年間、「黒人史の栄光」(↓、“The Glory of Negro History,” 1964)を教科書に使ったお陰で、1860年は歴史の大きな流れの潮目だったかも知れないと考えるようになった。

それはないと思うが、日本もひょっとして‥‥と考えて、少し調べてみたら、奇しくも潮目のような気がしてきた。調べてみるものである。それでは、ヨーロッパは?アフリカは?南アフリカは?

「なんぼなんでもそう都合よくはいかんやろ」とは思うが、少し広げて調べてみる必要がありそうである。一人では手に余るが、「しゃーない」、やってみるか?

受験勉強はしなかったが、ところどころ日本史は考えたことがある。吉川英治の『宮本武蔵』(↓)で親しんだ作州浪人武蔵(たけぞう)は関ヶ原の戦いで、負けた西軍の歩兵で死にかけたようだし、興味もあって身近な問題として考えたことがある。調べていると、宮本武蔵の出生地が作州宮本村ではなく播州だと主張している人たちがいた。文献まである。泊(とまり)神社に何やら縁(ゆかり)のものが祀られてあるとウェブには出ていたが、その神社は通(かよ)った忌まわしい高校からそう遠くないところにあって、たぶん側を通った記憶がある。信頼度は低そうだが、ほかに出生地が宝殿というのもあった。母親が継母に虐められていた村で、採石場があり、山から鉱石(おそらく大理石。祖父は大理石職人で岐阜の大垣に出稼ぎに行っていたらしい。宝殿の現場で職人をしていた気がする。帰省中に脳溢血で倒れそのまま死んでしまった。ちょび髭を生やした遺影を見たとき、なかなかいい顔してるやんと思った記憶がある。職人の腕はよかったのではないか。ひょっとしたら、見込まれて出稼ぎに行ったのかも知れない。確かめようがないので、勝手な憶測である)を切り出すので、山がいびつな形をしていたのを覚えている。

武蔵が参戦した関ケ原の戦いも国が真っ二つに分かれて戦った(国)内戦、市民戦争である。真っ二つに分かれた理由が今の私には理解しかねるが、その戦いのあと、長い長い江戸時代に入っている。その長い時代にヨーロッパは奴隷貿易の蓄積資本で産業革命を起こし、農業から工業へ社会の基軸が移行していた。産業化の道を突っ走っていたわけである。経済が大きくなると、その体制維のために武器も開発される。最初はポルトガル人が種子島に置いて行った火縄銃の類の火器だったが、江戸時代の終わりに黒船(↓)がやってきたときには、どかーんと轟音を響かせる大砲に変貌していた。刀で太刀打ちできるわけがない。開国を迫られて、通商条約を結んだ。

米国軍艦2隻が浦賀水道に来航して通商を打診したのが1846年、1854年にはペリー(↓)が7隻の軍艦を率いて江戸湾に来航して、その年に日米和親条約を締結している。江戸幕府は大老井伊直弼が尊王攘夷派を押さえて、強硬策を次々と実施している。大砲で脅されて開国してしまったのだから、天と地がひっくり返ってしまったようなものである。武士は今の国家公務員、幕府は霞が関のようなもので、それ自体がなくなって新しい機構になってゆくのだから、武士には死活問題だった。当然、外国人排斥も起こる。それを承知で、幕府が強硬に推し進めてしまったわけである。

その井伊直弼(↓)が殺されたのが1860年だった。桜田門外の変である。この事件の後、幕府の権威は低下していき、朝廷の力が強くなっていく。1867年に徳川慶喜が征夷大将軍を辞して大政奉還、翌1868年に王政復古し、元号も明治に変わる。

いささかこじつけ気味だが、リンカーンの大統領就任1860年が歴史の潮目だったアメリカに似て、奇しくも1860年は日本でも大きな歴史の流れが変わる潮目だったようである。

つれづれに

つれづれに:米1860

 今日も白浜の鍼灸整骨院で、揉んで手入れをしてもらった。1週間に一度通えるのはありがたい。空気が澄んだ秋晴れの過ごしやすい日が多くなる寒露の時期だけのことはある。今日も途中の海岸線は見応えがあった。曽山寺浜にかかる橋からの景色(↑)はお気に入りである。いつも北から南の方向に撮るのだが、今日は南側からも撮った。(↓)

 長いことラングストン・ヒューズの「黒人史の栄光」(↓、“The Glory of Negro History,” 1964)でアフリカ系アメリカ人の歴史を辿っている。実は非常勤の5年間と医大の1年目の6年間、英語の授業はすべてヒューズのテキストと音声を使ったので、繰り返し繰り返し文章を読んだし、ヒューズ自身の朗読を聴いた。挿入されていた歌や演奏にもずいぶんと耳が馴染んだ。歴史を最初、善悪などの二元論で考える傾向があったが、それだけでは歴史を捉え切れないと感じるようになったし、軸というか基準というか、そういう大きな構図の中で考えるようになっていた。

 南北戦争は国の意見が真っ二つに割れて戦った(国)内戦、市民戦争である。それまで深く考えたことはないが、奴隷制は人権を無視した悪いもの、それを巡ってアメリカ国内が二分して市民戦争をした、白人の歴史や学校で習う歴史では、そうなっているような気がしていた。善悪の二元論が軸である。しかし、アフリカ系アメリカ人の歴史を辿っている時に、その軸自体が実際とは違うことに気がついた。

 南北戦争は奴隷制を廃止するか存続するかを巡って戦われたから、奴隷制が軸のようだが、実際はその制度を利用して富を独占し、甘い汁を吸い続けて来た主体が問題であり、軸なのである。それは社会全体の極く僅かな金持ち層、英語で言えば the haves(持つ者)や the robber(搾り取って奪う側)と呼ばれる人たちである。その人にとって、その時は利用できる対象がたまたま奴隷制度であったが、実は搾り取って暴利を貪れるなら何でもよかったわけである。基本は、自分は働かないで人が働いて得た富の上前を撥ねることができればいいのである。

そう考えると日本の律令制度も幕藩体制も同じ構図だし、その頃から本格的にするようになった南アフリカでは、金持ち層は人種を利用して最も効率のいい賃金体系を見つけて搾り取り続けている。搾り取られるアフリカ人は生きて行けるかどうか辺りの定収入で満足に食べれない生活を強いられる。日本でも農民は稗や粟を食べていたし、産業化が進む時代には中卒で集団就職して女工哀史を残した。今は短期契約で将来設計の立たない低賃金で働く若者やシングルマザーも多い。人間は愚かしいもので、その歴史がずーーーっと続いて来たし、これからも続くのである。

南部の金持ち層は奴隷を売買し、子供を産ませて奴隷を増やし、自分たちの農園で奴隷たちを働かせてその上前を撥ねた大農園主である。ここで忘れがちなのが、奴隷より少しましな生活をしてはいたが貧しい生活をしていた白人がたくさんいたことである。借金のかたに年季奉公の奴隷になったものも多かったし、安い給料で雇用されて農場の奴隷監督や逃亡奴隷の捕獲人や、言うことを聞かない奴隷を従わせる役目の奴隷調教人なども数多くいた。貧乏白人を使って、逃げる奴隷を捕まえて見せしめに鞭を打たせ、抵抗する奴隷を調教させて、寡頭勢力は躍起になって体制維持を図っていたのである。貧乏白人の給料を上げずに済ませるには、社会の底辺の奴隷は好都合だった。人種を利用して分断支配に成功していたのである

リチャード・ライト『1200万の黒人の声』から

 長く続いた大農園主の独占状態が崩れ始めた。奴隷貿易の蓄積資本で産業化した西洋社会と提携した金持ち産業資本家が北部で力をつけ始めたからである。代々奴隷王国が続いた南部の民主党に対抗して北部は共和党を作り、1860年の総選挙ではエイブラハム・リンカーン(↓、Abraham Lincoln, 1809-1865)を大統領候補に選んだ。産業資本家には南部で保持されている奴隷の労働力は魅力で、その労働力を手に入れるためには奴隷制を廃止するしかなかった。当然、奴隷制廃止論者を応援したし、南部からの逃亡奴隷も支援した。出版社で本を出すのも、メディアで報道するのも支援した。それが可能だったのは、南部北部双方の力関係が拮抗して来ていたということだろう。その総選挙で、リンカーンが勝った。1860年はそういう意味では、大きな流れの潮目だったかも知れない。