つれづれに

つれづれに:堀切ですすき

 久しぶりに内海の南風茶屋(↑)に行った。白浜でマッサージをしてもらったあと、海岸道路を通って、3時半に間に合うように店に着いた。4時が閉店時間である。一時期学生や同僚とよく食べに行った。南風饂飩が少し関西風な感じで大きな鉢に一杯、野菜もたっぷりである。普段は肉や魚はほどんど食べないが、あまり無理をしない程度に食べている。チキン南蛮や魚の煮つけなどの小皿も出てくる。今日はすべて食べた。女主人と調理師さんとも顔馴染である。今日もわざわざ厨房から出て来て、しばらく話をした。

南風茶屋内から見える内海港

 今の家から白浜までが45分、そこから20分くらいかかるので、20キロ強だと思う。宮崎の橘通くらいまでと同じくらいの距離だ。行きはホテルサンクマールの横を通って海岸道路(↓)を通った。車が2台、3人が釣りをしていた。サイクリングの男性とすれ違い、年配の男性を追い越した。年配の人は、覆い繁った草を刈り払いながら進んでいた。内海よりの道路はだいぶ雑草が大きく垂れて来ていて、通り難い個所もあった。途中のフェニックス道の駅へ登る階段は草で遮られて登れない感じだった。出口もがけ崩れのような状態で大きな石ころが散乱して通れなかった。少し手前のコンクリートの階段を、下りて押して通った。

 帰りは旧道を通り、坂を登ってフェニックス道の駅でしばらく自転車を停めた。いつ見ても堀切峠の見晴らしは抜群である。道の駅の前の展望台からの見晴らしもいいが、少し北に行った駐車場の手前から見る景色も雄大である。こちらは普段でもあまり人がいないから、なおいい。少し手前にも小さなベンチが二つ置いてあって、そこからの眺め(↓)も素敵だ。この前通った時に初めてベンチに気づいた。駐車場に車を停めて堀切峠の一番高い所から何度も眺めたが、すぐ南のベンチには気づかなかった。お勧めの場所である。

 坂を下りているときに、薄い色のすすきを見つけた。あとしばらくするとあちこちで見かけるようになるが、今年最初のこの色の薄である。10本ほど持って帰った。ずっとTシャツに素足で来たが、今日はワイシャツと靴下を2枚履いた。だいぶ気温が下がっているので、冷やさないためである。素足はその時は気持ちがいいが、冷やすとそのあとが大変である。

 意識しないと気づかないが、薄にもいろいろな種類がある。出始めは一本一本が細く、取りにくいタイプである。取り易いのは、花(?)の部分を持って引っ張ればスポッと取れる。今日取った色の薄いすすきは取りにくいタイプである。もうしばらくして気温がぐんと下がると、黄土色よりも色の濃いこげ茶色のすすきが多くなる。このタイプはスポッと抜けるので取りやすい。何日かで枯れすすきになってしまう。木花台に登る坂道の上に咲いている大きなパンパース(↓)はもう盛りを過ぎているようだ。木花台の土手に誰かが植えていて、毎年2か所、同じ場所に咲く。咲き初めは真っ白である。

つれづれに

つれづれに:下り行け、モーゼ

「深い河」(Deep River)は「下り行け、モーゼ」(Go Down Moses)と「ジェリコの戦い」(Joshua fit the battle of Jericho)とをいっしょに考えないと流れがよくわからない。ヘブライ人をエジプト(↑)から連れ出したモーゼが、40年もかけて約束の地に達し、その東の境界がヨルダン川(↑)だったという話には、そもそもなぜモーゼが同胞を連れてエジプトを出たかという話が抜けている。

ポール・ロブソン

ヘブライ人がエジプトと戦争をした。負けたヘブライ人が捕虜としてエジプトに連れて行かれ、奴隷にされたというのが話の始まりである。戦争に負けたときに捕虜になるのは今も同じだ。ウクライナの捕虜の女性がソ連軍に強姦されたと報じられている。西欧諸国に希少金属や鉱物資源を狙われて恒常的に内戦状態のコンゴ東部では銃殺やレイプは常時起こる。婦人科医のデニ・ムクウェゲさん(↓)が2018年にノーベル平和賞を受賞したのは「性暴力によって肉体的、精神的に傷ついた女性たちを20年以上にわたって無償で治療してきた」のが理由である。資源が豊かだったゆえに、西洋諸国に無茶苦茶にされて、今も狂気の世界の最中にいるのに、原因を作った張本人の西洋諸国の賞をもらうとは皮肉なものである。

アメリカのテレビドラマ『緊急救命室』(↓)の「悪夢」の中で、アメリカ人医師といっしょに診療所に向かう車の中で同僚のアフリカ人が「昔は緑が豊かで美しいところだった」と呟く。20世紀の初めに赤道に近いコンゴ盆地に派遣されたアフリカ系アメリカ人牧師はそこに住むルバ人の様子を教会の年報に次のように記している。

「この土地に住む屈強な人々は、男も女も、太古から縛られず、玉蜀黍、豌豆、煙草、馬鈴薯を作り、罠を仕掛けて象牙や豹皮を取り、自らの王と立派な統治機構を持ち、どの町にも法に携わる役人を置いていました。この気高い人たちの人口は恐らく40万、民族の歴史の新しい一ペイジが始まろうとしていました。僅か数年前にこの国を訪れた旅人は、村人が各々一つから四つの部屋のある広い家に住み、妻や子供を慈しんで和やかに暮らす様子を目にしています‥‥」

産業社会に必要な鉱物資源が豊かなために西洋諸国に食い荒らされたコンゴで、日本もODAの予算をつけて、清水建設はコンゴ川に大きな橋を建設した。政府開発援助は先進国が援助や開発の名目で搾取する財政手段の一つで、アメリカの傀儡を永年続けたモブツ独裁政権の財源でもあった。その構図は、もちろん今も継続中である。

エジプトで捕らわれの身となったヘブライ人は結婚も許されていたので、アメリカ大陸に無理やり連れて行かれた奴隷ほどではなかったが、隷属状態は続いていた。年老いた王(ファラオ)の支配から逃れて故郷に連れ戻してくれないか、故郷との間には深い河(↓、Jordan)が流れていてそこまで行っても故郷に辿り着くのは難しいだろうが‥‥、と多くの人が願った。そこに現れたのがモーゼである。こんな場合、神の啓示を受けるものらしい。モーゼはヘブライの捕虜たちを連れて故郷に向かう。そんな話である。その話はモーゼの意志を継いだジョシュアの話「ジェリコの戦い」(Joshua fit the battle of Jericho)に続く。

長谷川 一約束の地』ヨルダン川」から

イスラエルがエジプトの地にあったとき: 我が民を解放せよ / 締め付けは厳しく、もう堪(こら)え切れなかった / 我が民を解放せ

When Israel was in Egypt’s land: Let my people go, / Oppress’d so hard they could not stand, Let my People go.

下り行け、モーセ(モーゼ) / エジプトの地に / 年老いた王に告げよ / 我が民を解放せよと

Go down, Moses, / Way down in Egypt’s land, / Tell old Pharaoh, / Let my people go.

教室ではゴールデンゲイトカルテット(↓、Golden Gate Quartet)の曲を聴いてもらった。軽快で、低い音も響く。「黒人史の栄光」の中に入っているのは「下り行け、モーゼ」(Go Down Moses)だけで、「深い河」(Deep River)と「ジェリコの戦い」(Joshua fit the battle of Jericho)は入っていない。スピリチャルでは「そっと忍んで行こう」(Steal Away)が地下鉄道に関連して含まれている。

つれづれに

つれづれに:深い河

 1998年の4月に宮崎医科大(↑)に来て、医学科生の英語の授業が始まった。「英語科」「同僚」が赴任の年の秋から在外研究にでかけたので、一年目と二年目は1・2年生の授業を持った。二年目の1年生の授業でも、非常勤で行った「大阪工大」「LL教室」の補助員に作ってもらったカセットテープでポール・ロブソン(↓、Paul Robeson, 1898-1976)の「深い河」を聴いてもらった。LPからカセットテープにデータを移してもらったので、出だしは金属針をLP盤に置く時のトンという音と、曲が始まるまで針と盤が擦れるジャーッという音が入っている。歌を聴いたあと、「誰か歌わへんか?100点つけるで」と誘ってみたら、東側の窓際の中ほどに座っていた学生が突然立ち上がり、朗々と「深い河」(Deep River)を歌い始めた。学科試験で入った28歳の既卒組で、恰幅もよく、声もよかった。「教室で学生が歌ってくれる歌を聞けると‥‥」、そんな豊かな気持ちになった。あとで、グリークラブのメンバーで、「深い河」は定番の曲で、その年も歌ったと聞いた。もちろん100点をつけた。次の年から、入試制度が大きく変わり、小論文重視の入学試験になった。

 奴隷として炎天下で重労働を強いられる農園では、ワーク・ソング(Work Song)を歌いながら農作業を続け、小屋やその周りではみんなで集まって踊りながら歌っていたようだ。アレックス・ヘイリーの小説『ルーツ』(↑)を元にして作られたテレビ映画は「ルーツ」の中に、バイオリンの上手な老人の弾く曲に合わせてみんなが踊る場面がよく登場する。老人は主人公クンタ・キンテの教育係のフィドラーである。逃亡を試みる主人公クンタ・キンテの監視役を命じられていた。有名なルイス・ゴセット(Louis Gossett, Jr.)がクンタの良き理解者役を好演している。バイオリン(俗語でfiddle)がうまいのでフィドラー(fiddler)と呼ばれて、みなから慕われている。奴隷たちはそのうち教会に行くようになり、白人の聖歌隊(Choir)が歌う讃美歌(Hymn)、聖歌(Psalm)、ゴスペル(Gospel)、スピリチャル(Spiritual)などの教会音楽を聴くようになった。「深い河」もスピリチャルの一つで、歌詞は旧約聖書(The Old Testament)の2章「出エジプト記」(Exodus)から来ている。

深い河 故郷はヨルダン川の向こう岸/ 深い河 主よ / 河を渡り 集いの地へ行かん

Deep river, my home is over Jordan, / Deep river, Lord, / I want to cross over into campground.

福音の恵みを求めて / すべてが平穏な約束の地へ /
深い河 主よ / 河を渡り 集いの地へ行かん

Oh don’t you want to go to that gospel feast, / That promis’d land where all is peace? / Oh deep river, Lord, / I want to cross over into campground.

エジプトのヘブライ人家族に生まれたモーゼが、神から使命を受け、エジプトで奴隷にされていたヘブライ人をエジプトから連れ出す話である。モーゼたちは40年かけて、神が与えると約束してくれた土地に達したとされている。その東の境界がヨルダン川らしい。「下り行け、モーゼ」(Go Down Moses)と「ジェリコの戦い」(Joshua fit the battle of Jericho)をいっしょに考えると流れがよくわかる。

私は宗教に詳しくないので人の知識の切り売りである。聖書は英文をどこかで手に入れ、本に引用されている日本語の文章に出会うと、英語で確認する程度だ。もちろん最初の「創世記」(Genesis)は読んではみたが。神が天地を創造する前はvoidだと言われても「その前はどんなんやったんやろ?」という疑問は消えないし、有ると無いのほかに「ないかも知れないしあるかも知れないし」というのもあるんやないかと思う私は、有無の二元論でものを考えるようにはできていない。

ヨルダン川(↓、Jordan River)は、新約聖書では洗礼者ヨハネがキリストに洗礼を授けた神聖な川と記述されているらしい。イスラエル、レバノン、シリアの国境が接するゴラン高原やアンチレバノン山脈周辺を水源として北から南へ流れて死海へ注ぐ総延長425kmの川らしい。この写真では「深い河」には見えないが。

長谷川 一約束の地』ヨルダン川」から

 教室でロブソンの曲を聴いたあと「誰か歌わへんか?」と聞いたとき「Deep river, my home is over Jordan, / Deep river, Lord, / I want to cross over into campground. / Oh don’t you want to go to that gospel feast, / That promis’d land where all is peace? / Oh deep river, Lord, / I want to cross over into campground.」と、学生は立って歌ってくれたわけである。

ロブソンが1940年に “Deep River / All Through The Night" のアルバムを出してから、「深い河」はよく知られるようになったそうである。今はウェブで曲を簡単に入手できる。ポール・ロブソンとマヘリア・ジャクソン(↓)のCDは人の助けを借りたり、アメリカに行ったときに買ったりして、だいぶ集めた。在外研究でテネシーに行った同僚が「ポール・ロブソンのマニアがいましたよ」とお土産に何枚かCDをくれた。1988年か89年くらいの話である。今はそんなマニアは、そう多くないだろう。

つれづれに

つれづれに:ブラックミュージック

 ブラック・ミュージックが奴隷にされた人たちが残し、後の世代の人たちが歌い継いだ特別な音楽だと気づいたのも、英語の授業の時だった。書くために大学の職を求めて職歴5年の資格で「教職大学院」で修士号を取ったものの、博士課程(→「大学院入試3」)に門前払いを食らい、先輩の助けを借りて大学で非常勤講師(→「大阪工大非常勤」)をしながら、業績を拵えて、待った。その非常勤の英語の時間に、「黒人史の栄光」(↑、“The Glory of Negro History,” 1964)をテキストに使い、音声や映像や雑誌や新聞の記事を使いながら授業をやった。テキストの中に歌も紹介されていたので、黒人研究の会の人からどっさりとLPレコードを借りて、「LL教室」の補助員にカセットテープを作ってもらった。ヒューズが朗読した「黒人史の栄光」のテープも含めて、たくさんの音楽のテープを作ってもらった。

 初めて聴く曲が多かった。低い声のポール・ロブソン(↑、Paull Robeson, 1898-1976)のLPも何枚かあった。弁護士になるか、フットボールの選手になるか、俳優・歌手になるかを迷ったそうだ。2メートル近くの巨漢の低音は、響く。教室では「ディープ・リバー」(Deep River)と「ジョンブラウンの亡骸」(John Brown’s Body)を聴いてもらった。

マヘリア・ジャクソン(↓、Mahalia Jackson, 1911-1972、小島けい画)のLPも何枚かあった。教室では「勝利を我等に」(We Shall Overcome)を聴いてもらった。ゴスペルの女王と呼ばれるだけあって、声量は抜群である。

 ゴールデンゲイトカルテット(↓、Golden Gate Quartet)のLPもあった。ゴスペルは元々白人の教会で歌われていたので、もちろん白人ゴスペルもあるが、白人ゴスペルの歌詞に自分たちのリズムやビートを乗せた黒人ゴスペルもある。研究室に来てくれた既卒組は学生時代にアメリカに留学して白人がホストファミリーだったらしいが、白人のゴスペルをよく聴いていたそうである。毎年ゴスペル界で活躍した人に与えられる賞(Gospel Award)の対象者は、白人黒人の両方である。黒人ゴスペルは伝統的な(traditional)のと現代的な(Contemporary)のがある。現代的なのはかなり編曲されて、歌の幅も広い。ゴールデンゲイトカルテットは伝統的ゴスペルで、4人のコーラス・グループである。 1935年に結成され、メンバーはたびたび入替っているそうで、1959年には日本にも来たらしい。最初聴いたとき、黒人が歌っている感じがしなかった。軽快な曲が多い。

 最初は歌を聴いてもらうだけだったが、そのうち映像も溜まって行き、観て聴いてもらうようになっていった。それと可能な限り、関連の雑誌や新聞の記事や、本からの抜粋なども印刷して配るようになった。解説も書いた。最初は農園で働かされているときにワーク・ソング(Work Song)を歌い、小屋やその近辺でいっしょに踊りながら歌っていたようだが、そのうちキリスト教もあてがわれて教会に行くようになった。そこで聞かされたのは聖歌隊(Choir)が歌う白人の讃美歌(Hymn)、聖歌(Psalm)、ゴスペル(Gospel)、スピリチャル(Spiritual)などの教会音楽だった。「シカゴ」のミシガン通り(↓)の橋の袂で白人青年がトランペットで拭いていた「共和国の戦いの賛歌」(The Battle Hymn of the Republic)も、日曜日に教会で歌われている讃美歌だった。その歌詞は聖書(The Bible, The Testament)、特に旧約聖書(The Old Testament)からが多かった。