『ナイスピープル』理解14:エイズと南アフリカ―ムベキの育った時代3 アパルトヘイト政権との戦い
概要
エイズ患者が出始めた頃のケニアの小説『ナイスピープル』の日本語訳(南部みゆきさんと日本語訳をつけました。)を横浜門土社のメールマガジン「モンド通信(MonMonde)」に連載したとき、並行して、小説の背景や翻訳のこぼれ話などを同時に連載しました。その連載の14回目で、エイズと南アフリカ―ムベキの育った時代(3) アパルトヘイト政権との戦い、です。アフリカの小説やアフリカの事情についての理解が深まる手がかりになれば嬉しい限りです。連載は、No. 9(2009年4月10日)からNo. 47(2012年7月10日)までです。(途中何回か、書けない月もありました。)
『ナイスピープル』(Nice People)
本文
エイズと南アフリカ―ムベキの育った時代(3) アパルトヘイト政権との戦い
昨年の4月以来休んでいましたが、連載を再開したいと思います。先ず『ナイスピープル』の翻訳と併行して書き始めた流れを少しまとめておきます。
最初に『ナイスピープル』の作品の背景や、病気の原因であるウィルスとエイズ患者が出始めた頃について書きました。「『ナイスピープル』理解1:『ナイスピープル』とケニア」」(「モンド通信 No. 9」、2009年4月10日)、「『ナイスピープル』理解2:エイズとウィルス」(「モンド通信 No. 10」、2009年5月10日)、「『ナイスピープル』理解3:1981年―エイズ患者が出始めた頃1」(「モンド通信 No. 11」、2009年6月10日)、「『ナイスピープル』理解4:1981年―エイズ患者が出始めた頃2 不安の矛先が向けられた先」(「モンド通信 No. 12」、2009年7月10日)、それからアフリカとエイズの状況を書いたあと「『ナイスピープル』理解5:アフリカを起源に広がったエイズ」(「モンド通信 No. 13」、2009年8月10日)、「『ナイスピープル』理解6:アフリカでのエイズの広がり」(「モンド通信 No. 14」、2009年9月10日)
それから、アフリカのエイズ問題を理解するためには、欧米で強調される生物学的、医学的な捉え方だけでなく、社会や文化を含む、公衆衛生的、総合的な見方が必要であると書きました。→「『ナイスピープル』理解7:アフリカのエイズ問題を捉えるには」(「モンド通信 No. 15」、2009年10月10日)それは、ムベキが2000年のダーバン会議で述べた発言の真意でもあります。
それ以降は南アフリカとエイズについての問題を取り上げています。「『ナイスピープル』理解8:南アフリカとエイズ」(「モンド通信 No. 16」、2009年11月10日)、「『ナイスピープル』理解9:エイズ治療薬と南アフリカ1」(「モンド通信 No. 17」、2009年12月10日)、「『ナイスピープル』理解10: エイズ治療薬と南アフリカ2」(「モンド通信 No. 18」、2010年1月10日)、「『ナイスピープル』理解11:エイズと南アフリカ―2000年のダーバン会議」(「モンド通信 No. 19」、2010年2月10日)、「『ナイスピープル』理解12:エイズと南アフリカ―タボ・ムベキ1 育った時代と社会状況1」 (「モンド通信 No. 20」、2010年3月10日)、「『ナイスピープル』理解13:エイズと南アフリカ―タボ・ムベキ2 育った時代と社会状況2 アパルトヘイト」(「モンド通信 No. 21」、2010年4月10日)
前回はアパルトヘイトを取り上げましたが、今回はアフリカ人の闘いについてです。
前にも書きましたが第二次大戦が終わったあと、それまで押さえつけられていた人たちが立ち上がります。南アフリカでも1943年に結成されたANC青年同盟のタンボやマンデラが労働者を率いて大規模なデモやゼネストを繰り広げて政権を脅かしました。与党英国系の統一党は政権を投げ出し、オランダ系アフリカーナーの国民党が1948年に政権につき、アパルトヘイト政策を押し進めます。少数派の入植者と多数派のアフリカ人の間の緊迫感が強くなった1955年には、政権に反対する勢力がヨハネスブルグ郊外のクリップタウンで国民会議を開きました。アフリカ人だけでなく、白人やインド人やカラード(混血の人たち)も参加しました。政府は国民会議の指導者156名を逮捕して裁判(叛逆裁判)にかけるという強硬手段に打って出ます。それだけ政府に反対する勢力が強かったという事でしょう。政府は会議で採択された国民憲章を反逆罪の証拠にして全員の処分を企てますが、「私たち南アフリカ人民は、すべての国と世界に知ってもらえるように宣言します。南アフリカは黒人も白人も、そこに住む人々に属し、人々の意志に基づかない限り、どんな政府も公正に権利を主張できない、と・・・。」という文章で始まる国民憲章が反逆罪の証拠となるはずもなく、結果的には全員が無罪で釈放されました。
しかしこの時期、結果論ですが、歴史的に見てアフリカ人に取っては不幸な、ヨーロッパ人入植者に取っては幸運な事態が起こります。アフリカ人の組織ANC(アフリカ民族会議、現在の与党)が闘いの路線を巡って分裂したのです。アフリカ人だけで戦うという理想派(ソブクエが指導者)と、アパルトヘイトを廃止するためなら白人とも共産主義者とも共闘する現実派(タンボ、マンデラが指導者)が袂を分かちました。ソブクエが大した人物でなければ問題はなかったのですが、幸か不幸か、ソブクエはとても大きな人物だったようです。アフリカ人、特に若い人たちはついて行きました。白人政府にとっては願ってもない事態です。苦労して分断支配を画策しなくてもアフリカ人側が真っ二つに分かれてくれたのですから。当時の勢いからすれば、アフリカ人側は近い将来政権が崩壊すると楽観していたんでしょう。もしあの時、という言葉は禁句ですが、ソブクエとマンデラが一歩ずつでも譲り合っていれば、南アフリカの歴史も大きく変わっていたと思います。
ロバート・ソブクエ(小島けい画)
最初に動いたのはソブクエです。日常生活でアフリカ人を苦しめていたパスを活動目標に取り上げました。パスを家において警察署に出頭、敢えて法を犯し警察機能を麻痺させることによってパス法を廃止させる、そんな戦略です。1890年代にナタール州でガンジーが取ったのと同じ非暴力運動で、マンデラは時期尚早の名目で動きませんでした。
しかし、シャープヴィル、ランガなどで警官が無差別に発砲したために事態はアフリカ人側の意図をはるかに超えて動き出しました。政府の抑圧の動きはシャープヴィルの虐殺として全世界に報道され、国際社会も動かざるを得なくなります。マンデラは騒ぎに乗じて闘争を継続、それまでの非暴力の戦略を転換させて破壊活動を始めます。政府はANCなどの組織を非合法化し、法律を強化して弾圧を強める一方、世界各国に親書を送り協力を要請します。国連は経済制裁を掲げて白人政府を非難しますが、各国は貿易関係を強めました。それだけ南アフリカから得るものが大きかったからでしょう。特に第二次大戦で国交が中断されていた西ドイツと日本は長期の通商条約を再開させました。(その見返りに、日本は居住区に関する限り白人並みに扱うという名誉白人の称号を再度与えられます。)
シャープヴィルの虐殺
西側諸国や日本の協力を得て、白人政府はアフリカ人側の抵抗をおさえ切りました。体制をひっくり返す可能性の高かったソブクエ一人のために特別法を制定して55歳でなくなるまで拘禁を続けましたし、マンデラなどの指導者も1964年のリボニアの裁判で終身刑を言い渡して獄中に放り込みました。指導者は殺されるか、国外逃亡するか、獄中に入れられるかで、アフリカ人には指導者のいない暗黒時代が始まります。(日本は東京オリンピックを開催して、高度経済成長の時代に突入して行きました。)
ネルソン・マンデラ
その動乱の時代に、ムベキは14歳で青年同盟に参加し、タンボなどの指導を受けて青年時代を過ごしました。アパルトヘイト政権に封じ込められる人たちとともに闘ったわけです。その後、ANCの指示で国外逃亡して国外で活動を続け、マンデラ政権の誕生した時に大統領代行となり、1999年には大統領になりました。
タボ・ムベキ
次回はアパルトヘイト政権の崩壊とその後について書きたいと思います。
執筆年
2011年3月10日