海外滞在日誌『ジンバブエの旅』
概要
1992年のジンバブエ大学への在外研究のあと、庶務課から依頼があって書いたものです。
本文
海外滞在日誌
ジンバブエの旅 英語講師 玉田吉行
ジンバブエ
南部アフリカジンバブエの首都ハラレに行って来ました。ここ何年間かは、南アフリカの作家アレックス・ラ・グーマ (1925-1985) を紬に、南部アフリカについて考えてきましたから、色々な意味で、その地で生活出来ればと願っていました。本当は、ラ・グーマの生まれ育った南アフリカのケープ・タウンが一番よかったのですが、在外研究を申請した時点では、まだ文化・教育交流が禁じられていましたし、国内が独立に向けての混乱期でもあるので、南アフリカは次回に、ということにしました。初めてのアフリカ行きでもあるので、どこにしようかと少し考えましたが、現在は四国学院大学にいるケニア人のサイラス・ムアンギさんの薦めもあって、アフリカ各地から人が集まって活気があるうえ、治安も比較的いいというジンバブエに行くことにしました。
ジンバブエ大学の構内
ジンパブエは、南アフリカの第5州としての道は選ばず、移住したイギリス人は本国から孤立した独目の路線を取ったために、南アフリカとはやや異なった歩みをしたのですが、少数派白人による多数派アフリカ人支配という基本的な構図は、南アフリカと非常に似通っています。1980年に独立は果たしたものの、経済力を完全に白人に握られているので、本当の意味での独立は果たしていません。1963年に独立を果たしながら、経済力を握られて改革もままならず、上層部にいる少数のアフリカ人が私利私欲にふけるというケニアの跡を、現在、ジンバブエは着実に追いかけています。体制の批判者は、たとえぱケニアでは、作家グギ・ワ・ジオンゴのように国外に亡命することを強いられた状態が続いていますが、ジンバブエでは、批判する前に厳しい検閲制度がもうけられていて、批判もかないません。従って、ジンバブエには本当の意味での体制を批判出来る作家が、現在は存在し得ませんが、それでも、政治的なテーマではなく、社会問題を通して、白人支配の下で、いかにアフリカ人固有の伝統社会が崩壊させられていったかをアフリカ人自身に問いかけ、これからの問題を提起している作家はいます。ジンバブエ大学文学部英語科のトンプソン・クンビライ・ツォゾォさんもそのような作家のひとりですが、今回の受入先の科長代行をしていたツォゾォさんと親しく接する機会を持つことができたのは幸いでした。個人的なインタビューや、演劇、小説、映画などに関する講義などを通じて、示唆を受けた点は多かったと思います。ジンバブエ大学は、ハラレの白人街にある広いキャンパスをもった総合大学で、学生数は約1万、今は70パーセントがアフリカ人(大半がショナ人)だそうです。農学部に小象がいたりして広々としていますが、施設の方は日本のようにはいきません。体育館もなく、図書館の蔵書も貧しかったように感じました。それでも、大半の学生が教科書を買えず、試験前には本が取り合いになるということでした。コピーの設備もほとんどないし、かりにあったとしても経済的に利用するのは難しいので、学生は、授業の間、質の悪い紙のノートに、ボールペンを走らせるばかり、そんな印象が強く残っています。新聞では、毎日のように、30年ぶりの大早魅で死者多数、などと報じられていましたが、広々とした芝生の上では散水器が勢いよく回っていました。
トンプソン・クンビライ・ツォゾォさん
ロンドン・パリ
ジンパブエには、行きはロンドンを、帰りはパリを経由しました。
ロンドンでは、アレックス・ラ・グーマ夫人と、パリでは、ソルボンヌ大学のミシェル・ファーブルさんと再会しました。
ロンドンに亡命中のブランシさんと家族で
ソルボンヌ大学を背景にファーブルさんと家族で
85年に、ラ・グーマがキューパで亡くなって以来、ブランシ夫人は一人でロンドンに住んでいらっしゃるのですが、66年に亡命してから、未だ祖国に帰れぬ現実に、南アフリカの厳しい現状を思わずにはいられませんでした。
3ヵ月の短い旅でしたが、色々な人に巡り合えてよかったと思います。ただ、搾取する側にいる人間としては、搾取される側の歪みばかりが感じられて、重く、しんどい旅でもありました。
執筆年
1993年
収録・公開
宮崎医科大学「学報」 第50号 18-19ペイジ