続モンド通信10(2019/9/20)

2020年2月22日2010年~の執筆物アフリカ系アメリカ,ジンバブエ,私の絵画館,続モンド通信,随想

続モンド通信10(2019/9/20)

 

私の絵画館:「旅する子猫―2―サントリーニ島」(小島けい)

2 アングロ・サクソン侵略の系譜8:「黒人研究」(玉田吉行)

3 小島けいのジンバブエ日記:「2回目7月22日」(小島けい)

4 アフリカとその末裔たち2(1)戦後再構築された制度③制度概略1(玉田吉行)(「モンド通信」No. 73 、2014年12月1日に掲載されなかった分です。)

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1 私の絵画館:「旅する子猫―2―サントリーニ島」(小島けい)

ずっと以前は、小さなザック一つと竹かごのバスケットだけで、アラスカの氷河やゴビの砂漠、そしてパリにも行きましたが。

いつからか家を空けることが至難の技となりました。それはごく自然の流れで、子供たちだったり、犬だったり。そして今は猫たちという大切な存在を、第一に考えてのことでした。

そこで、私が旅に出るかわりに、行ってみたいなあ・・・・と思う街を、子猫たちに旅してもらうことにしました。

それは、モロッコの青い街<シャウエン>から始まり、今年で6作目となりましたが。 この絵は、旅する子猫シリーズの第2作目。青い海と白壁の家並が美しい、ギリシャの<サントリーニ島>です。

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2 アングロ・サクソン侵略の系譜8:「黒人研究」(玉田吉行)

前回→「アングロ・サクソン侵略の系譜7:修士、博士課程」続モンド通信9、2019年8月20日)

この修士論文やったら、セクトが強いと言われる神大は無理やろけど、「リベラルな」京大か市大なら何とか入れてくれるやろという甘い考えは見事に打ち砕かれましたが、印刷物が残せるように修士課程に入った1981年にすでに黒人研究の会に入り、毎月の例会にも参加し始めていました。

研究会のことは詳しくは知りませんでしたが、学内の掲示板に発表の案内やらが掲示されているのを目にしたこともありましたし、修士論文に取り上げた作家がアフリカ系アメリカ人のリチャード・ライトで、小林さんが会誌の編集長をしてはったこともあって、自然に研究会に参加することになりました。

黒人研究の会はアメリカ文学のゼミ担当者だった貫名義隆さんが1954年に神戸市外国語大学の同僚を中心に、中学や高校の教員や大学院生とともに始めたようで、会報「黒人研究」第1巻第1号(1956年10月)には「研究会は黒人の生活と歴史及びそれらに関連する諸問題の研究と、その成果の発表を目的とする。」「本会は上の目的を達するために次の事業を行う。1 研究例会 2 機関紙の発行 3 その他必要な事業」とあります。当時の会費は30円で、会員は16名。会報はB5版で8ページのガリ版刷りです。

会報「黒人研究」第1巻第1号

貫名さんがお亡くなりになった時、依頼があって追悼文を書きましたが、それが出版社の初めての印刷物になりました。

「がまぐちの貯金が二円くらいになりました」(「ごんどわな」1986年6月号)

「ごんどわな」1986年6月号

僕が参加し始めた頃、研究会の活動は低調でした。50年代、60年代のアメリカの公民権運動の頃の全盛時と比べると、会員もだいぶ減り、何とか発行を続けていた会誌「黒人研究」も、なかなか原稿が集まらず、資金も底をついているようでした。

月例会に出て、口頭発表もしました。そのうち、会誌と会報の編集や例会案内もするようになりました。正確には覚えていませんが、毎月百人近くの人に案内を出していたように思います。例会も月に一度行われ、年に一度の総会には九州や関東からも会員が集まっていました。その頃の例会の発表で聞いた本田創造さんの著書『アメリカ黒人の歴史』(岩波新書、1964年)も、その後の英語の授業での学生向けの参考資料の一つになりました。貫名さんの親友だったようで、当時は一橋大学の歴史の教授で、『アメリカ黒人の歴史』の評判は上々でした。同じ頃出された猿谷要さんの『アメリカ黒人解放史』(サイマル出版会、1968年)も研究会で話題にのぼりました。当時東京女子大教授で、NHKにも出演して有名だったようですが、本田さんの本とは対照的に、研究会での評判は散々でした。

「アメリカ黒人の歴史」

月例会で発表したものをまとめて「黒人研究」に出しました。その後研究会を辞めることになりましたが、退会までに6つ、「黒人研究」にお世話になりました。↓

①「リチャ-ド・ライト作『地下にひそむ男』のテーマと視点」(52号、1982年6月)

②「リチャ-ド・ライトと『残酷な休日』」(53号、1983年6月)

③「リチャ-ド・ライトと『ひでえ日だ』」(54号、1984年12月)

④「リチャ-ド・ライトと『ブラック・パワー』」(55号、1985年9月)

⑤「リチャ-ド・ライトと『千二百万人の黒人の声』」(56号、1986年6月)

⑥「アパルトヘイトとアレックス・ラ・グーマ」(58号、1988年6月)

「リチャ-ド・ライト作『地下にひそむ男』のテーマと視点」が最初の印刷物です。

それと、研究会創立30周年に記念に出した『箱舟、21世紀に向けて』の中に「リチャ-ド・ライとアフリカ」(横浜:門土社、1987年6月)を入れてもらいました。

①「リチャ-ド・ライト作『地下にひそむ男』のテーマと視点」(52号、1982年6月)は、中編ながらライトを理解する上で鍵を握る「地下にひそむ男」("The Man Who Lived Underground")のテーマと視点を評価した作品論です。ライトは人種差別体制に対する「抗議作家」として高い評価を得ていましたが、その評価にはあき足らず、この作品で、主人公が逃げ込んだマンホールで垣間見た「現実の裏面」という新たな視点から、虚偽に満ちた社会への疑問や、物質文明に毒された社会の価値観への問いかけなどを通して、より普遍的なテーマへの広がりを見せ始めていた点を中心に書きました。1984年5月の月例会での発表「リチャード・ライト作『地下にひそむ男』の擬声語表現から」を元に加筆しました。

「黒人研究」52号

「リチャード・ライト作『地下にひそむ男』のテーマと視点」「黒人研究」52号1~4頁(1982年6月)

②「リチャ-ド・ライトと『残酷な休日』」(53号、1983年6月)は 、テーマの広がりという点に着目し、前作『アウトサイダー』(The Outsider, 1953)と同様に、この作品が現代文明の抱える疎外や不安などを題材に、西洋文明が社会における個人の存在をいかに蝕んでいるかを描き出している点を評価しました。ただ、1947年にパリに移り住んでから発表された作品の評価は必ずしも高くありませんし、作品に力がないなあという感じは否めませんでした。1983年11月の月例会での発表「リチャード・ライトと『残酷な休日』」を元に加筆しました。

「黒人研究」53号

「リチャード・ライトと『残酷な休日』」「黒人研究」53号1~4頁(1983年6月)

③「リチャ-ド・ライトと『ひでえ日だ』」(54号、1984年12月)は、死後出版の『ひでえ日だ』(Lawd Today, 1963)の作品論である。作家として評価される前に書かれた習作だが、小説として勢いがある点を分析・評価した。大都会シカゴの黒人労働者層の日常生活を描くなかで、人種主義を孕むアメリカ社会の矛盾と自分たちの窮状に気付かない愚かしさを炙り出しており、後の出世作『アメリカの息子』(Native Son, 1940)や『ブラック・ボーイ』(Black Boy, 1945)を生み出す土壌となっている点も評価した。

「黒人研究」54号

「リチャード・ライトと『ひでえ日だ』」「黒人研究」54号33~38頁(1984年12月)

④「リチャ-ド・ライトと『ブラック・パワー』」(55号、1985年9月)は、パリに移り住んで作家活動をしていたライトが、いち早くアフリカ国家の独立への胎動を察知してガーナ(当時はイギリス領ゴールド・コースト)に駆けつけ、取材活動をもと書いたもので、大衆に支えられる指導者エンクルマとイギリス政府と政府に協力する反動的知識人の三つ巴の独立闘争の難しさを見抜いている洞察力を高く評価しました。その後アフリカについて考えれば考えるほど、当時のライトが肌は同じながら西洋のバイアスの濃いアメリカ人に過ぎなかったという思いが募るようになりました。

「黒人研究」55号

「リチャード・ライトと『ブラック・パワー』」「黒人研究」55号26~32頁(1985年9月)

⑤「リチャ-ド・ライトと『千二百万人の黒人の声』」(56号、1986年6月)は、ライトの作家論・作品論で、2つの重要な役割を指摘しました。一つは、それまでにライトが発表した物語や小説の作品背景の一部を審らかにした点です。もう一つは、歴史の流れの中で社会と個人の関係を把え直す作業の中で、未来に生かせる視点を見い出し始めた点です。疎外された窮状をむしろ逆に有利な立場として捕えなおす視点が、コミュニズムに希望を託せなくなっていたライトには、ひとすじの希望となり、その視点が、やがて「地下にひそむ男」と『ブラック・ボーイ』を生んでいます。少数の支配者層に搾取され続けてきた南部の小作農民と北部の都市労働者に焦点を絞り、エドウィン・ロスカム編の写真をふんだんに織り込んだ「ひとつの黒人民衆史」であるとともに、ライトの心の「物語」になっている、と指摘しました。

「黒人研究」56号

「リチャード・ライトと『千二百万人の黒人の声』」「黒人研究」56号50~54頁(1986年6月)

⑥「アパルトヘイトとアレックス・ラ・グーマ」(58号、1988年6月)は、黒人研究の会創立30周年記念シンポジウム「現代アフリカ文化とわれわれ」で発表した内容を元に、小林さんを含め4人が書いたものです。私はラ・グーマと南アフリカについて発表したものに加筆しました。

大阪工業大学でのシンポジウム

「黒人研究」58号

⑦『箱舟、21世紀に向けて』は、黒人研究の会創立30周年記念シンポジウム「現代アフリカ文化とわれわれ」と「現代アメリカ女性作家の問いかけるもの」を軸に、二人のアメリカ人作家とアメリカ黒人演劇の歴史をからめたもので、私はアフリカとアメリカの掛け橋になろうとしたリチャード・ライトの役割について書きました。小林さんほか11名が共著者です。

「リチャード・ライトとアフリカ」『箱舟、21世紀に向けて』(共著、門土社)、147-170ペイジ。

「リチャード・ライト死後25周年記念シンポジウムに参加して」(1985年12月)、「リチャード・ライトと『カラー・カーテン』(1987/10)、「アレックス・ラ・グーマとセスゥル・エイブラハムズ」(1987年10月)なども発表しました。

「リチャード・ライトと『カラー・カーテン』(口頭発表報告)」

今回の科研費のテーマ「文学と医学の狭間に見えるアングロ・サクソン侵略の系譜ーアフロアメリカとアフリカ」は、この頃、ライトの作品を理解するためにアフリカ系アメリカの歴史を辿り、その過程で奴隷が連れて来られたアフリカに目が向き、誘われたMLAで南アフリカのラ・グーマを取り上げたことで、今も形を変えて続く侵略の系譜を考える中で生まれたもので、この「黒人研究」もその下地になっていると思います。(宮崎大学教員)

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3 小島けいのジンバブエ日記:「2回目7月22日」(小島けい)

今年の6月、住宅地に咲くジャカランダの花を見て、<この花を見ると、いつもアフリカの旅を思い出すよ>と相方に話したところ<机を整理していたら、こんなのが出てきたけれど・・・>と、一冊のぶ厚いノートを渡してくれました。

街中のジャカランダ

それは、私たち家族がアフリカ・ジンバブエの首都ハラレで暮らした時の記録でした。私は旅の初めから毎日、その日の出来事を書きとめていましたので、きっとノートは何冊にもなっていたはずですが、今残っているのはこの一冊だけでした。
ノートを開くと、今まですっかり忘れてしまっていた大変な日々がそのままよみがえり、読んでいくうちに心が苦しくなるほどでした。
あの夏から27年すぎましたが、アフリカの状況はさほど変わっていないような気がします。
そこで、忘れきってしまう前に、実際にあったアフリカでの毎日を、一部だけでも書き残したいと思いました。今回は2回目です。

前回の「続モンド通信9」(2019年8月20日)→「小島けいのジンバブエ日記:1回目:7月21日」

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2回目:7月22日(晴れ)グレース来宅

グレースさん

長旅の疲れで全員がまだ寝ている朝七時、突然、この家のメイドをしているグレースがやって来ました。家では子供が三人もいて大変だから、家主のいない間も雇ってほしい、となまりの強い英語で訴えます。即答はできないので、とりあえず十ドルを渡して帰ってもらいました。この家には洗濯機がなく、掃除機は一円玉も吸えないうちに壊れました。(それでも私たちの帰国後、掃除機を壊したということで、相当額の修理代を請求されましたが・・・・。)ガスは無く、料理は電器コンロです。貴重な限られた時間を有効に使うため、結局働いてもらうことにしました。

右側の部屋を寝室に

翌朝グレースの要求した値段は、吉國さんから聞いた相場の二倍でしたが、午前中二時間、掃除と洗濯だけを頼みました。話が終わったと思ったら、往復四ドルのバス代を請求されました。後でゲイリーに確かめるとバスは片道一ドル、さらに吉國さんに報告すると、あの人は歩いて通っていたはずだ、とのことでした。なかなかのしたたかさです。

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4 アフリカとその末裔たち2(1)戦後再構築された制度③制度概略1(玉田吉行)

(「モンド通信」No. 73 、2014年12月1日に掲載されなかった分です。)

前回から、2冊目の英文書「アフリカとその末裔たち―新植民地時代」(Africa and its Descendants 2―Neo-colonial Stage―)について書いています。

「アフリカとその末裔たち―新植民地時代」

前回は2冊目の英文書「アフリカとその末裔たち―新植民地時代」(Africa and its Descendants 2―Neo-colonial Stage―)を書いた経緯を書きました。今回は本の半分を割いて書いた第二次戦後に再構築された制度について詳しく書きたいと思います。

発展途上国と先進国の経済格差は長年の奴隷貿易や植民地支配によって作られたもので、と過去のことのように捉えられがちですが、実は経済格差は今も是正されていないどころかますます広がっている、つまり形を変えて今も搾取構造が温存されているということです。奴隷貿易や植民地支配のようにあからさまではありませんし、巧妙に仕組まれていますので、ついだまされそうになりますが、少し冷静になって考えてみればすぐにわかります。

第二次世界大戦の殺し合いで総体的な力を落としたヨーロッパ社会は荒廃した国土を立て直しながら、あらたな搾取態勢の構築に向けて余念がありませんでした。発展途上国の力が上がったわけではありませんが、ヨーロッパ社会の力の低下に乗じてそれまで虐げられ続けて来たアジア、アフリカ、ラテン・アメリカ社会は、欧米で学んで帰国した若き指導者たちに先導されてたたかい始めました。1955年のバンドンでのアジア・アフリカ会議後の独立運動、南アフリカのクリップタウンでの国民会議後のアパルトヘイト撤廃に向けての闘争、1954年の合衆国最高裁での公立学校での人種隔離政策への違憲判決の後に続く公民権運動など、世界中で解放に向けての闘いが勢いを増して行きました。

先進国に住んでいる大半が持ち合わせている先進国と発展途上国の関係についての意識と、実際は大きく違います。先進国の繁栄が発展途上国の犠牲の上に成り立っているのに、入学してくる大学生の大半は、アフリカは遅れている、貧しいから日本が援助してやっている、と考えています。(それほど日本の教育制度が「完璧」、ということでしょう。)

今年の後期の授業では最初に「アフリカの蹄」の冒頭の場面を見てもらいました。主人公の作田医師のアフリカについての意識が、大半の学生の意識と似ているからです。

「アフリカの蹄」は2003年2月にNHKで放映されたもので、帚木蓬生原作、矢島正雄脚本、大沢たかお主演のドラマです。原作にも映画にも、南アフリカの実名は出てきませんが、アパルトヘイト体制下の話です。

「アフリカの蹄」文庫本の表紙

(あらすじ:大学病院で医局の教授と衝突して南アフリカに飛ばされた医師作田信は、少年を助けたことがきっかけでアフリカ人居住区に出入りするようになり、有能な医師や教師に出会い、極右翼グループの天然痘によるアフリカ人せん滅作戦に巻き込まれていきます。白人の子供たちだけにワクチンを接種して、天然痘菌をばらまきアフリカ人の子供に感染させてせん滅をはかるという作戦です。子供たちの間に感染が広まり始めた時、細菌学者から国立衛生局に残されていたワクチンを分けてもらいますが、当局の妨害にあってワクチンが入手出来なくなり、事態を打開するために、天然痘菌を作田が国外に持ち出して世界保健機構や国連の助けでワクチンを国内に持ち帰り、その陰謀を阻止する、という内容です。)

映画の中で、作田医師がアフリカ人居住区の診療所で反政府活動家の青年ネオ・タウに突然殴られる場面がありますが、その時の作田信とネオ・タウの認識は、どう違っていたのでしょうか。

作田は大学の上司とそりが合わずに偶々南アフリカに飛ばされた優秀な心臓外科医ですが、作田が当時持ち合わせていた南アフリカについての知識は、一般の日本人と大差はなく、動物の保護区や豪華なゴルフ場、ケープタウンやダーバンなどの風光明媚な観光地、世界一豪華な寝台列車、くらいではなかったでしょうか。おそらく、作田にとっての南アフリカは、「日本から遠く離れた、アパルトヘイトに苦しむ可哀想な国」にしか過ぎなかったと思います。しかし、ネオにとっての日本は違います。日本は、1960年のシャープヴィルの虐殺事件以来、アパルトヘイト政権を支えてアフリカ人を苦しめ続け、貿易で莫大な利益を貪ってきた経済最優先の国であり、その日本からやって来た作田は、貿易の見返りに「居住区に関する限り白人並みの扱いを受ける」名誉白人の一人で、無恥厚顔な日本人だったのです。

作田役を演じる大澤たかお

世界の経済制裁の流れに逆行して、1960年に「国交の再開と大使館の新設」を約束した日本政府は、翌年には通商条約を結び、以来、先端技術産業や軍需産業には不可欠なクロム、マンガン、モリブデン、バナジウムなどの希少金属やその他の貿易品から多くの利益を得て来ました。石原慎太郎などが旗を振った「日本・南アフリカ友好議員連盟」や、大企業の「南部アフリカ貿易懇話会」などにも後押しされて、日本は1988年には南アフリカ最大の貿易相手国となり、国連総会でも名指しで非難されています。

当初、作田にもその理由はわかりませんでしたが、天然痘事件にかかわるなかで、ネオが本当に殴りつけたかった正体が、南アフリカと深く関わり利益を貪り続けながら、加害者意識のかけらも持ち合わせていない一般の日本人と、その自己意識であったことに気づきます。ネオには、作田もそんな日本人の一人に他ならなかったのです。

 

先進国と発展途上国の関係は日本と南アフリカとの関係、先進国と発展途上国の人たちの意識は日本人医師と南アフリカ人青年の意識と重なります。

第二次世界大戦後、戦争で被害がなくヨーロッパに金を貸しつけたアメリカと、ヨーロッパ諸国は、それまでの植民地支配に代わる搾取機構として、多国籍企業による経済支配の制度を確立して行きました。機構を守るのは国際連合、金を取り扱うのは世界銀行、国際通貨基金で、名目は低開発国に援助をするという「開発と援助」でした。

1章では発展途上国が解放を求めてたたかった典型的な例として、ガーナとコンゴを取り上げました。次回はガーナの場合、です。

次回は「アフリカとその末裔たち続編:(1)戦後再構築された制度④」です。(宮崎大学医学部教員)(宮崎大学医学部教員)