つれづれに

藪椿

藪椿を5本摘んで来た。葛などの蔓植物に覆われた樹に辛うじて小振りの花が咲いているのを見つけたからである。思わず切って、持って帰って来た。10月の半ば頃の「つれづれに」の中でも書いたのだが、その藪椿の樹が恐ろしく葛に覆われて、今年は花は咲かないだろうと諦めていたからである。写真↓の右手が畑になっていて、腰の曲がったお年寄りの女性が畑作業を続けている。最近、息子さんらしき人が手伝っている姿を何度か見かけた。おそらくその人たちの家の樹だと思われるが、まったく手入れされていないので、年々葛の勢いは増すばかりだ。つい最近、越して来た左隣の人が見兼ねて枝を払ったようだ。手入れとは言えないほど雑な払い方なので、来年も花が咲くか心配である。誰かの家の樹を勝手に手入れするわけにもいかないし。→「つれづれに: 葛」(2021年10月18日)

この小振りな藪椿にはずいぶんとお世話になった。当時、妻は横浜の出版社の本の装画・挿画を次々と頼まれていたし、長崎の広告・印刷会社からカレンダーの話もあって、当時描いていた花の絵をたくさん使ったからである。友人と作成した絵と字の作品を横浜のビッグサイトに出展していた息子に薦められて花の絵を出品した妻に、会場で絵を目にした東京支社の人からある日電話があった。藪椿の絵もたくさん描いて、そのうち何枚かがカレンダーや本の表紙絵になった。→「クリカレCreators’ Power Calendar」の「クリエーター紹介」

「クリカレ2009」

『さざん・くろーす 広野安人戯曲集』(門土社総合出版、1996/5/22)

1988年に急に宮崎医科大学に決まったとき、妻は14年勤めていた高校を辞めた。30くらいで死ぬだろうと人生をすっかり諦めて生きていたのに、急に結婚を決めてから、人生が急回転し始めた。高校のバスケットボールの顧問や母親の借金に振り回されていたとき、文句も言わず、転がり込んだ父親の家で家事、育児も一手に引き受けてくれた。元々体の弱かった妻には体力ぎりぎりの生活だった。若かったし、子供たちも幼かったし、実の父親の助けもあって辛うじて持ち堪えていた、そんな感じだった。卒業後念願の詩の出版社に就職できたのはよかったが、人と折り合えずに結局辞めたらしい。その後通信教育で単位を補充してからなった高校の教員は、元々望んでいたわけではなかったようだが、それなりに楽しんでいるように見えた。私が高校を辞めて5年後に大学が決まった時に、交代した。どちらも、出せる方が出せばいいと思っていたからだが、やっぱりやりたいことをやれるのが一番だったからである。時間を見つけて絵は描いていたが、仕事と家事・育児の中では、当時まだ半ドンで授業のあった土曜日の午後2時間をみつけて、神戸の絵画教室に出かけるのが精一杯だった。大学が決まったとき「辞めて絵を描いてもいいの?」と、嬉しそうに高校を辞めた。やっと家の近くの自分が卒業した高校に転勤になって一年目、少しは子供との時間も増えたところだったが、一切の迷いはなかった。油絵を描いていたが、「元々体力がないので、一発勝負の水彩にしようかな」と言うので、土曜日の午後に新幹線を使って京都に日本画を見に出かけた。西明石からは半時間で京都に着く。錦市場に寄ってから、色々と観て回ったが、「日本画も体力要るねえ」というのが感想だった。

錦市場アーケード

宮崎に来てからは、水彩で描き始めた。最初は、市民の森の花菖蒲だった。毎日毎日自転車で菖蒲園に通っていた。次が道草、烏瓜、それに藪椿だった。「つれづれに:通草」→「1」「2」「3」「4」「5」「6」「 7」(2021年9月26~10月3日)、「つれづれに」→「 烏瓜」(2021年10月8日)、「烏瓜2」(2021年9月23日)、「椿」

つれづれに

 

つれづれに:木花俯瞰図

 

散歩している時に、すごいものを見つけた。江戸時代後期の木花俯瞰図である。「木花地域まちづくり推進委員会」が年末に新たに作成した案内板の中に含まれていて、俯瞰図は木花神社の宮司が所蔵しているらしい。散歩の途中に何回か表札で宮司の名前を見かけたことがある。委員長は公園脇に家のある方のようで、公園や神社の手入れをしている姿を時々見かける。出来た野菜をもらったこともある。普段神社は無人だが、年に何回かは行事が行われているようで、代々引き継がれた宮司が祭祀を執り行い、氏子の地域の人たちが協力して神社を整備、保存しているようである。江戸時代から受け継がれてきたとても貴重な俯瞰図だ。

絵心のある人の絵は想像力を掻き立ててくれる。木花神社の北に法満寺があったのを知ったのは最近だが(→歩くコース2の)、なかなかイメージが湧かなかった。神社があったと思われるところに、今は人家が何軒かあるからかも知れない。この俯瞰図で、少しイメージが湧いた気もする。寺は神社より小さく描かれているので、規模はそう大きくなかったようである。寺の横に木花集落が並んでいるが、高台にある神社と寺と、木花集落との高低差は描かれていない。

江戸時代後期(1735年~1868年)に描かれた図で、描いた人の名前はわからないらしい。図を見ると木崎浜と内海の位置が今とだいぶ違う。図では清武川と加江田川が河口付近で合流し、清武川の北側に木崎浜が描かれているが、今は清武川と加江田川がほぼ並行に流れ、二つの川の間に3~4キロメートルほどの木崎浜がある。それと、曽山寺浜と青島海岸までが湾曲に描かれているが、今はほぼ直線である。一番奥に内海が描かれているが、現在は岬の陰になって木花神社からは見えない。砂浜や河口は変化が激しいので、地形が大きく変わったかのかも知れない。目測を誤った可能性もある。

描かれている左手(北端)の木崎浜から右手(南端)の内山集落(現在の高岡町で、子供の国の西)までの南北の範囲、奥(東端)の内海から手前(西端)の法満寺と木花神社までの東西の範囲を俯瞰するには、位置的に見て、木花神社のかなり西にある高台か高い山から見る必要があったはずである。しかし、実際にはその辺りにはそれほどの高さの高台や山はなかったようだし、方角的に見てその方角からは岬(現在ホテルサンクマールの南側の突き出たところ)に隠れて内海は見えなかったと思われるので、たぶん木花神社、法満寺近くの高台から見たものに恣意的に手を付け加えて描き上げたのではないかと思う。

と、簡単に閲覧できるウェブの地図や写真の基準に慣れてしまっているもっともらしい感想だが、多少の誤差があっても、絵には写真とは違う何かがあるような気もする。内戦もなかった江戸時代の後期に、この俯瞰図、いったい何のために、誰が描いたのだろうか。描いた絵が代々引き継がれて、木花神の案内板に載せられ、後の世の人たちに紹介されるとは夢にも思わなかっただろう。描いた人に会って、いろいろ尋ねてみたい気もする。

次回は俯瞰図の続きで、法満寺を菩提寺にしていたらしい飫肥藩などをめぐって、か。

3月が始まった。24節気の雨水(うすい)がもうすぐ終わり、3月5日からは啓蟄(けいちつ)である。だいぶ気温も高くなり、大根に薹が立ち始めた。また、虫の季節である。「玄関のドアを開けたら、沈丁花がにおって来たよ」、と遠くで妻が言っている。

小島けい「私の散歩道2022~犬・猫・ときどき馬」3月