2010年~の執筆物

アングロ・サクソン侵略の系譜8:「黒人研究」

前回→「アングロ・サクソン侵略の系譜7:修士、博士課程」続モンド通信9、2019年8月20日)

この修士論文やったら、セクトが強いと言われる神大は無理やろけど、「リベラルな」京大か市大なら何とか入れてくれるやろという甘い考えは見事に打ち砕かれましたが、印刷物が残せるように修士課程に入った1981年にすでに黒人研究の会に入り、毎月の例会にも参加し始めていました。

研究会のことは詳しくは知りませんでしたが、学内の掲示板に発表の案内やらが掲示されているのを目にしたこともありましたし、修士論文に取り上げた作家がアフリカ系アメリカ人のリチャード・ライトで、小林さんが会誌の編集長をしてはったこともあって、自然に研究会に参加することになりました。

黒人研究の会はアメリカ文学のゼミ担当者だった貫名義隆さんが1954年に神戸市外国語大学の同僚を中心に、中学や高校の教員や大学院生とともに始めたようで、会報「黒人研究」第1巻第1号(1956年10月)には「研究会は黒人の生活と歴史及びそれらに関連する諸問題の研究と、その成果の発表を目的とする。」「本会は上の目的を達するために次の事業を行う。1 研究例会 2 機関紙の発行 3 その他必要な事業」とあります。当時の会費は30円で、会員は16名。会報はB5版で8ページのガリ版刷りです。

会報「黒人研究」第1巻第1号

貫名さんがお亡くなりになった時、依頼があって追悼文を書きましたが、それが出版社の初めての印刷物になりました。

「がまぐちの貯金が二円くらいになりました」(「ごんどわな」1986年6月号)

「ごんどわな」1986年6月号

僕が参加し始めた頃、研究会の活動は低調でした。50年代、60年代のアメリカの公民権運動の頃の全盛時と比べると、会員もだいぶ減り、何とか発行を続けていた会誌「黒人研究」も、なかなか原稿が集まらず、資金も底をついているようでした。

月例会に出て、口頭発表もしました。そのうち、会誌と会報の編集や例会案内もするようになりました。正確には覚えていませんが、毎月百人近くの人に案内を出していたように思います。例会も月に一度行われ、年に一度の総会には九州や関東からも会員が集まっていました。その頃の例会の発表で聞いた本田創造さんの著書『アメリカ黒人の歴史』(岩波新書、1964年)も、その後の英語の授業での学生向けの参考資料の一つになりました。貫名さんの親友だったようで、当時は一橋大学の歴史の教授で、『アメリカ黒人の歴史』の評判は上々でした。同じ頃出された猿谷要さんの『アメリカ黒人解放史』(サイマル出版会、1968年)も研究会で話題にのぼりました。当時東京女子大教授で、NHKにも出演して有名だったようですが、本田さんの本とは対照的に、研究会での評判は散々でした。

「アメリカ黒人の歴史」

月例会で発表したものをまとめて「黒人研究」に出しました。その後研究会を辞めることになりましたが、退会までに6つ、「黒人研究」にお世話になりました。↓

①「リチャ-ド・ライト作『地下にひそむ男』のテーマと視点」(52号、1982年6月)

②「リチャ-ド・ライトと『残酷な休日』」(53号、1983年6月)

③「リチャ-ド・ライトと『ひでえ日だ』」(54号、1984年12月)

④「リチャ-ド・ライトと『ブラック・パワー』」(55号、1985年9月)

⑤「リチャ-ド・ライトと『千二百万人の黒人の声』」(56号、1986年6月)

⑥「アパルトヘイトとアレックス・ラ・グーマ」(58号、1988年6月)

「リチャ-ド・ライト作『地下にひそむ男』のテーマと視点」が最初の印刷物です。

それと、研究会創立30周年に記念に出した『箱舟、21世紀に向けて』の中に「リチャ-ド・ライとアフリカ」(横浜:門土社、1987年6月)を入れてもらいました。

①「リチャ-ド・ライト作『地下にひそむ男』のテーマと視点」(52号、1982年6月)は、中編ながらライトを理解する上で鍵を握る「地下にひそむ男」("The Man Who Lived Underground")のテーマと視点を評価した作品論です。ライトは人種差別体制に対する「抗議作家」として高い評価を得ていましたが、その評価にはあき足らず、この作品で、主人公が逃げ込んだマンホールで垣間見た「現実の裏面」という新たな視点から、虚偽に満ちた社会への疑問や、物質文明に毒された社会の価値観への問いかけなどを通して、より普遍的なテーマへの広がりを見せ始めていた点を中心に書きました。1984年5月の月例会での発表「リチャード・ライト作『地下にひそむ男』の擬声語表現から」を元に加筆しました。

「黒人研究」52号

「リチャード・ライト作『地下にひそむ男』のテーマと視点」「黒人研究」52号1~4頁(1982年6月)

②「リチャ-ド・ライトと『残酷な休日』」(53号、1983年6月)は 、テーマの広がりという点に着目し、前作『アウトサイダー』(The Outsider, 1953)と同様に、この作品が現代文明の抱える疎外や不安などを題材に、西洋文明が社会における個人の存在をいかに蝕んでいるかを描き出している点を評価しました。ただ、1947年にパリに移り住んでから発表された作品の評価は必ずしも高くありませんし、作品に力がないなあという感じは否めませんでした。1983年11月の月例会での発表「リチャード・ライトと『残酷な休日』」を元に加筆しました。

「黒人研究」53号

「リチャード・ライトと『残酷な休日』」「黒人研究」53号1~4頁(1983年6月)

③「リチャ-ド・ライトと『ひでえ日だ』」(54号、1984年12月)は、死後出版の『ひでえ日だ』(Lawd Today, 1963)の作品論である。作家として評価される前に書かれた習作だが、小説として勢いがある点を分析・評価した。大都会シカゴの黒人労働者層の日常生活を描くなかで、人種主義を孕むアメリカ社会の矛盾と自分たちの窮状に気付かない愚かしさを炙り出しており、後の出世作『アメリカの息子』(Native Son, 1940)や『ブラック・ボーイ』(Black Boy, 1945)を生み出す土壌となっている点も評価した。

「黒人研究」54号

「リチャード・ライトと『ひでえ日だ』」「黒人研究」54号33~38頁(1984年12月)

④「リチャ-ド・ライトと『ブラック・パワー』」(55号、1985年9月)は、パリに移り住んで作家活動をしていたライトが、いち早くアフリカ国家の独立への胎動を察知してガーナ(当時はイギリス領ゴールド・コースト)に駆けつけ、取材活動をもと書いたもので、大衆に支えられる指導者エンクルマとイギリス政府と政府に協力する反動的知識人の三つ巴の独立闘争の難しさを見抜いている洞察力を高く評価しました。その後アフリカについて考えれば考えるほど、当時のライトが肌は同じながら西洋のバイアスの濃いアメリカ人に過ぎなかったという思いが募るようになりました。

「黒人研究」55号

「リチャード・ライトと『ブラック・パワー』」「黒人研究」55号26~32頁(1985年9月)

⑤「リチャ-ド・ライトと『千二百万人の黒人の声』」(56号、1986年6月)は、ライトの作家論・作品論で、2つの重要な役割を指摘しました。一つは、それまでにライトが発表した物語や小説の作品背景の一部を審らかにした点です。もう一つは、歴史の流れの中で社会と個人の関係を把え直す作業の中で、未来に生かせる視点を見い出し始めた点です。疎外された窮状をむしろ逆に有利な立場として捕えなおす視点が、コミュニズムに希望を託せなくなっていたライトには、ひとすじの希望となり、その視点が、やがて「地下にひそむ男」と『ブラック・ボーイ』を生んでいます。少数の支配者層に搾取され続けてきた南部の小作農民と北部の都市労働者に焦点を絞り、エドウィン・ロスカム編の写真をふんだんに織り込んだ「ひとつの黒人民衆史」であるとともに、ライトの心の「物語」になっている、と指摘しました。

「黒人研究」56号

「リチャード・ライトと『千二百万人の黒人の声』」「黒人研究」56号50~54頁(1986年6月)

⑥「アパルトヘイトとアレックス・ラ・グーマ」(58号、1988年6月)は、黒人研究の会創立30周年記念シンポジウム「現代アフリカ文化とわれわれ」で発表した内容を元に、小林さんを含め4人が書いたものです。私はラ・グーマと南アフリカについて発表したものに加筆しました。

大阪工業大学でのシンポジウム

「黒人研究」58号

⑦『箱舟、21世紀に向けて』は、黒人研究の会創立30周年記念シンポジウム「現代アフリカ文化とわれわれ」と「現代アメリカ女性作家の問いかけるもの」を軸に、二人のアメリカ人作家とアメリカ黒人演劇の歴史をからめたもので、私はアフリカとアメリカの掛け橋になろうとしたリチャード・ライトの役割について書きました。小林さんほか11名が共著者です。

「リチャード・ライトとアフリカ」『箱舟、21世紀に向けて』(共著、門土社)、147-170ペイジ。

「リチャード・ライト死後25周年記念シンポジウムに参加して」(1985年12月)、「リチャード・ライトと『カラー・カーテン』(1987/10)、「アレックス・ラ・グーマとセスゥル・エイブラハムズ」(1987年10月)なども発表しました。

「リチャード・ライトと『カラー・カーテン』(口頭発表報告)」

今回の科研費のテーマ「文学と医学の狭間に見えるアングロ・サクソン侵略の系譜ーアフロアメリカとアフリカ」は、この頃、ライトの作品を理解するためにアフリカ系アメリカの歴史を辿り、その過程で奴隷が連れて来られたアフリカに目が向き、誘われたMLAで南アフリカのラ・グーマを取り上げたことで、今も形を変えて続く侵略の系譜を考える中で生まれたもので、この「黒人研究」もその下地になっていると思います。(宮崎大学教員)

2010年~の執筆物

アングロ・サクソン侵略の系譜7:修士、博士課程

前回(→「アングロ・サクソン侵略の系譜6:リチャード・ライトの世界」)紹介しましたように「リチャード・ライトの世界」で修士論文を書きましたが、修士課程に行ったのは、小説を書くには大学が一番よさそう、それには最低限修士は要るやろな、と思ったからです。

5年間の高校の教員生活に疲れ果て(とても面白かったのですが、教科にホームルームに課外活動とやたらすることも多く、書いたり読んだりするにはほど遠い毎日でしたので)、しばらくはゆっくり眠ってから、の一心で高校に在籍したまま、教員の再養成課程にもぐりこみました。兵庫教育大学大学院学校教育研究科教科・領域教育専攻言語系コース修士課程というえらい長い名前の課程です。5年の教員歴が受験資格、二期生、地元枠で優遇、管理職になりたい人のための課程、そんなことも後で知りました。

入学試験を受けるのに卒業大学の教官の推薦書が必要とのことで、愛校心などまるでない僕は、結局講義でマルクスの労働と人間疎外の問題を何やら熱く語っていたかすかな記憶を手繰り寄せ、その教官の住む奈良の自宅までおずおずと出かけました。「管理職を養成して職員を分断支配することを目論む教員再養成の大学院の新設に私は強く反対している、お前は何を考えているのか」、とその人に怒鳴りつけられ、結局、推薦書は書いてもらえませんでした。試験当日、試験会場の甲南女子大学の校門前でその人はマイクを持って大声で演説をしていました。やめて帰えろ、と引き返していましたら、車が止まって受験生らしき人から甲南女子大学はどこですか?と聞かれました。ここぞとばかり乗り込んで一気に校門を突破しようと目論んだのですが、車は校門の真正面で止められ、人だかりの中に放り込まれるはめに。お前、その髭で教育出来るんか?放っといてくれ。

結局、もみくちゃにされ、こづかれ、押されて、気がついたら、校門の中、ま、いいや、このまま試験を受けよ、それが後から振り返れば、大きな分岐点となりました。

マイクを持って日教組の旗振りをしていた人は、大学紛争で学生側につき反体制の姿勢を示していたようですが、のちに学長になりました。それも、二期も。人に熱心に票を頼んでましよ、と同僚だった後輩が言っていました。言うこととすること違うなあ、と思いますが、給料と手当てまでもらいながら、入学式も欠席、学校もろくに行かないまま、修了、そんな僕が偉そうなことを言えるとも思えませんが。

そして、「リチャード・ライトの世界」という修士論文が残りました。

その修士論文で、京都、大阪市立、神戸大学の博士課程を受けましたが、すべて不合格、教育歴はなく研究業績もほとんどなし(「黒人研究」に2本だけ)なのに大学の職が見つかるわけないわなあ、どこも博士課程に入れてくれないし、ほんまどうしたらええんやろ、と文字通り、途方に暮れました。

教員の再養成課程でしたから、本来は高校に戻るべきですが、校長に会って事情を話すと、大学でがんばって下さいとすんなりと承認してくれ、無事無職にはなりましたが。

7年在職した兵庫県立東播磨高校

それでも、お世話になっていた小林さん(当時大阪工業大学一般教育英語科の教授)が夜間課程の英語の非常勤3コマを用意して下さっていました。教育歴なし、研究業績殆どなしで、よう取ってくれはったなあと今は思いますが、1985年、1コマ16000円、月に4万8000円の浪人生活の始まりでした。

(→続モンド通信9(2019年8月20日)に収載)

続モンド通信・モンド通信

私の絵画館:ナミブ砂漠(小島けい)

2 ほんやく雑記⑧イリノイ州シカゴ 3(玉田吉行)

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1 私の絵画館:「ナミブ砂漠」(小島けい)

<気配>

私は40年以上前に、モンゴルのゴビ砂漠に行きましたが。そこは<月の沙漠>の歌にあるような砂漠とは、全くちがいました。
砂丘というよりは草原でしたが、背たけの低い草の緑はあまり目立たず、むき出しの土地がどこまでも広がっていました。
観光客が泊まるパオだけは用意されていましたが、それ以外は見わたす限り何もありません。その<360度何もない>ということに圧倒された記憶だけは、遠い昔ですが、今も何故か覚えています。
一方、ナミビアのナミブ砂漠は、ゴビ砂漠とは全く対照的です。世界最古の砂丘といわれるこの場所は、オレンジ色と影の対比が美しく、一度描いてみたいと以前から思っていました。
この砂漠らしい<砂漠>には、ふつうラクダが描かれるのでしょうが。ずっと前に見た二頭の一瞬の姿が忘れられず、暑い砂漠に登場してもらいました。

<巣立ちの後に>

この頃の私は、<子供たち>が巣立ってしまった寂しさを感じています。今どこで暮らしているのだろう?と空っぽになった場所を見ては、思ってしまします。
2,3ヶ月前だったでしょうか。アトリエのベランダで、しきりに鳥のなき声がするようになりました。窓の外を見ても姿は全く見えませんが、声だけは確かにするのです。
ところがそのうち、家の猫たちが朝ご飯の後、そそくさと2階に上がっていくことに気が付きました。そしてある程度の時間をすごすと<やれやれ、今日のご用事が終わりましたよ>という満足気な顔で階段を下りてくるのです。
2階で何をしているのだろうと見てみると、アトリエの窓の外を、網戸越しに食いいるように見ています。猫たちの後で私も一緒に外を見ていると、しばらくしてベランダのすぐ横に付けてあるBSの丸いアンテナに、一羽の鳥がバサッバサッと音をたてて飛んできました。口には細長い枯れ草をくわえています。そして、その位置から再び羽を広げてま上に飛び上がりました。
鳥は雀の3~4倍の大きさで、ほっそりとした姿です。初めて見る鳥でした。
草は巣作りに使うのでしょう。鳥は毎日何回も草をくわえて運んできました。その度に必ずアンテナに止まるので、猫たちは間近に見る実物の鳥に色めきだち、今にも網戸を破りそうな勢いです。
アンテナから次に一体どこに飛ぶのかしらんと、鳥が遠くへ出かけた後ベランダに出てみました。するとベランダの屋根の端の方に直径10cmほどの丸い穴が空いています。2・3年前新しいクーラーに替えた時、その穴の横にあらたに管を通したようで。不要となった以前の穴は、簡単には防いだはずですが。それがはがれ落ちてしまったのでしょう。
鳥はその穴から天井部分に入り、巣作りをしているらしく、枯れ草のはしが板のすき間から何ヶ所もはみ出して垂れていました。
それから毎日、猫たちと私は折をみては窓の外を観察しました。鳥はあいかわらず、外から帰ると必ず一度アンテナに止まり、まわりを確かめてから数10cm上の巣穴へ入りました。
そのうち天井あたりから幼いなき声がひんぱんに聞こえるようになり、親鳥の動きも俄然活発になりました。バッタのような虫をくわえて帰ってきては、すぐまた再び飛びたちます。
ある時、巣の中の声が異常にけたたましくなり、大騒ぎしているので見てみると、穴から追い出された1羽のスズメが、あわてて逃げ出していきました。不法侵入者を家族総出で追いはらったのでした。
そうこうしているある日、親鳥とそっくりな形の小さな鳥が、巣からおりてきてアンテナに止まり、次に向かいの家の屋根に飛んでいきました。
卵からヒナにかえった子供たちが、とうとう外へ飛べるようになったのです。私は嬉しくて、下絵用のノートにメモ書きを残しました。6月25日でした。
その直後、九州南部では恐ろしいほどの大雨となり、やむなくアトリエの窓にもシャッターをおろしました。
数日後大雨が一段落して、そおっとシャッターを開けましたが、その時、鳥たちはもういませんでした。雨が止むのと同時に、巣立ったようでした。

子供が巣立つと寂しいとは、時々耳にしますが。
小鳥たちの巣立ちに少し寂しさを感じつつ、猫たちと私の特別な<今年の春>が終わりました。
もうすぐ、夏です。

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2 ほんやく雑記⑧イリノイ州シカゴ 3     (玉田吉行)

概要

ほんやく雑記の8回目で、リチャード・ライトの「地下に潜む男」(“The Man Who Lived Underground”)の中で効果的に使われている擬声語を取り上げようとした経緯について書きました。

ライトの伝記『リチャード・ライトの未完の探求』(The Unfinished Quest of Richard Wright, 1973)を読んだときに、本を読みながら感じた思いと、自分のレベルも知りたくてファーブルさんに手紙を書きましたが、そのときに日本語訳して手紙に入れました。

『リチャード・ライトの未完の探求』

本文

ほんやく雑記の8回目です。

前回はリチャード・ライト(Richard Wright、1908-1960)の中編小説「地下に潜む男」("The Man Who Lived Underground")が掲載された雑誌「クロスセクション」(CROSS SECTION)について書きましたが、今回からその作品の中の擬声語表現について書こうと思います。今回は先ず、なぜ擬声語表現なのか、です。(写真:ミシシッピの会議でのファーブルさん)

僕はずっと書こうと思って生きて来た人間ですから、文学の研究そのものも作品論や作家論にも極めて懐疑的です。人の好みや受け取り方も人それぞれですし、そもそも字や語に対する感覚などは努力して何とかなるものでもありません。努力は誰でもやりますが、絵が描ける、ダンスが踊れるなどと同じで、語感や文章に対する感性などは努力でなんとかなるものでもありません。

必要性もあって、好きだった人に聞いたリストを元にアメリカの小説を読み始めました。最初に読んだのはセオドア・ドライサー(Theodore Herman Albert Dreiser)の『アメリカの悲劇』(An American Tragedy, 1925)、タイトルだけ聞いて図書館から借りてきたハードカバーはなんと1026ページもの大作で、辞書を引きながら読むのに2か月ほどかかりました。(このとき、辞書などひいとったら本なんか読まれへんと身に染みました。)それから、ナサニエル・ホーソン(Nathaniel Hawthorne)の『緋文字』(The Scarlet Letter, 1850)、ウィリアム・フォークナー(William Cuthbert Faulkner)の『八月の光』(Light in August, 1932)を読みました。どれもアメリカ文学では有名で、フォークナーなどは1949年度にノーベル文学賞を受賞しています。1985年にライトの死後25周年を記念して国際会議がミシシッピ州のオクスフォードにあるミシシッピ州立大学でありましたが、集まったのは1500人ほど、前年にあったフォークナーの会議に集まったのが一万人だったそうですから、オクスフォードで過ごしたフォークナーは、アメリカ人好みの作家なのでしょう。

読まなくては、という思いで読んだせいもあったかも知れませんが、どの本もまったくおもしろくありませんでした。その反動もあったのでしょうか。『アンクル・トムの子供たち』(Uncle Tom’s Children, 1938)、『アメリカの息子』(Native Son, 1940)、『ブラック・ボーイ』(Black Boy, 1945)など、ライトの本は鮮烈でした。ことに『アメリカの息子』はからだがばりばりでいうことをきかなかったのに、興奮して震えながら二日ほどで一気に読んだ記憶が鮮明に残っています。

『アメリカの息子』

僕の好きなファーブルさん(ライトの伝記『リチャード・ライトの未完の探求』の著者で、本を読んで感激し、自分の書いたものを英訳して送った翌年にミシシッピの会議でお会いし、7年後にジンバブエの帰りに家族といっしょにパリの自宅にお邪魔しました。ソルボンヌ大学や街並みを案内して下さり、訪ねて来られた同僚の世界的に有名な経済学者といっしょに子供たちとトランプをして下さいました。)が「地下に潜む男」を高く評価しておられた影響もありますが、「地下に潜む男」もなかなかの作品でした。(ハックスリー、トルストイ、モーパッサン、サロヤンの小説と並んでQuintet-5 of the World’s Greatest Short Novelsの中に取りあげられています。)

もちろん、ファーブルさんがおっしゃったように、この中編小説が従来の人種問題を中心にしたテーマを一歩踏み越えようとしている作品として、或いはエリスン(Ralph Ellison, 1914-)を筆頭にする後続の作家に少なからず影響を及ぼした作品として評価されるようになったのは確かですし、そういった評価が、作品の中に示された人種問題の枠を越えたより深いテーマの重みや、差別される黒人こそが日常性の中で見失いがちな物事の本質にいち早く気付き得る有利な地点に立っているというライトの視点の鋭さに負うところが大きいのですが、それらがライトの紬ぎ出した言葉による表現によって裏打ちされていることも忘れてはいけないと思います。作品をぞくぞくしながら読んだのは、その時は意識してなかったと思いますが、言葉や表現にも魅せられていたのでしょう。

次回はそういった表現の中でも、作品の中の主要な場面で使われた擬声語表現について書きたいと思います。

日本語訳→“Some Onomatopoeic Expressions in ‘The Man Who Lived Underground’ by Richard Wright”

次回は「ほんやく雑記(9)イリノイ州シカゴ4」です。(宮崎大学教員)

「モンド通信」は途切れましたが、「続モンド通信」に連載を再開するつもりです。

「『続モンド通信』について」(2018年12月29日)

執筆年

2016年

ダウンロード

2017年5月用ほんやく雑記8(pdf 343KB)

 

2010年~の執筆物

アフリカとその末裔たち 2 (1) 戦後再構築された制度④ガーナ

『アフリカとその末裔たち2』

アフリカ諸国の大半は戦後の機運に乗じて独立を果たしますが、結局は戦後の復興を果たした欧米諸国や日本に屈して、形を変えた搾取機構に中に組み込まれて行きました。国によって多少の形態の違いはありますが、独立は果たしたものの基幹産業は旧宗主国に握られて国の運営がうまくいかず、そこへ先進国が軍事介入、という経過を辿っています。植民地支配→独立→新植民地支配の構図です。本ではその典型的な例としてガーナとコンゴを取り上げました。今回はアフリカ諸国で最初に独立を果たしたガーナの場合(前半):1957年の独立まで、です。次回はガーナの場合(後半):独立とその後、です。
クワメ・エンクルマ(小島けい画)

前回も書きましたが、第二次世界大戦でヨーロッパ諸国の総体的な力が落ちたと言っても、発展途上国の力が上がったわけではありません。しかし、ヨーロッパ社会の力の低下に乗じてアフリカ諸国は独立に向けて動き出し、変革の嵐(“The Wind of Change”)が吹き荒れました。闘いの先頭に立ったのは欧米で自由の息吹を味わった若き人たちで、祖国に帰って旧宗主国に果敢に挑んでいきました。

英領ゴールド・コーストで独立要求の先頭に立ったのはクワメ・エンクルマで積極行動を唱える会議人民党を結成し、全国でストライキやボイコットを展開してたくさんの支持者を得ました。右腕だったコロモ・ベデマは「アフリカシリーズ第7回 沸き上がる独立運動」(NHK、1983年)の中でエンクルマの当時の様子を次のように語っています。

私たちは若くて行動的で、演説も強力でした。もちろん、エンクルマの人柄ゆえでもありましたが、若者たちは私たちの側につきました。急進的で、先輩たちより多くのものを要求しました。「即時自治」を求めました。新憲法である程度の自治が認められましたが、私たちの要求は完全自治でした。

独立の式典でのエンクルマ

西洋諸国は低開発のアフリカの発展のために植民地行政を遂行していると主張しましたが、エンクルマは真っ向から反論ました。後に自伝『アフリカは統一する』(1963) の中で、イギリスの植民地政庁の統治下の実態を、以下のように記しています。

イギリスの植民政庁がこの国を統治していた間じゅう、地方の水の開発は殆んど行なわれませんでした。これが何を意味するかを、蛇口をひねるだけですぐに良質の飲料水が得られるのが当たり前だと思っている読者に伝えるのは難しい。もし田舎の村でそういったことが起こっていたとしたら、みんなは天国だと思ったでしょう。村に一つでも井戸か配水塔かが作られていたとしたら、みんなはどれほど有り難いと思ったでしょう。いつものように、暑くて蒸し暑い田んぼでのきつい仕事を終えて、男も女も村に戻り、それから手桶やかめを持って2時間もとぼとぼと歩かねばならず、その行き着いた先では、沼と言えるかどうかも分からないような所から、塩気のある細菌だらけの水でも手に入れば幸運だったのです。それからまた、長い道のりを戻らなければなりませんでした。洗濯や飲むための水を手に入れるのに1日に4時間、それも大抵は病気の元になる水を。こうした状況は、国じゅうで殆んど同じで、それは、水の開発には費用がかかり、その開発が統治する人々のための公共事業に過ぎず、経済的な見返りをすぐに期待出来る見通しが立たなかったからに過ぎません。しかし、事業や採掘投資で得られた利益をほんの僅かでも使えば、一等級の給水施設の費用は充分にまかなえたでしょう。

リチャード・ライト

パリに移り住んでいた作家リチャード・ライトは、いち早く独立への胎動を察知してエンクルマを訪れ、旅行記『ブラック・パワー』にしてエンクルマたちの息吹を伝えています。私が読んだアフリカについて書かれた最初の本です。のちに「リチャード・ライトと『ブラック・パワー』」(1985) にまとめました。

「リチャード・ライトと『ブラック・パワー』」(「黒人研究」55号26-32ペイジ)

エンクルマには2冊の自伝『わが祖国への自伝』と『アフリカは統一する』(ともに野間寛二郎訳)があります。

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『アフリカは統一する』表紙

エンクルマは大衆の圧倒的な支持を得て1957年にゴールド・コースとはサハラ以南のアフリカでは最初の独立国となりました。(宮崎大学医学部教員)